2017年3月26日日曜日

四旬節第4主日

今日の主日ミサは勝谷司教様の司式でした。
この日の福音は、イエスによって目が見えるようになった盲人の話をとおして、真理を見極めることの大切さが語られました。

今週、神学生の蓑島さんが春休みを終え福岡の神学校へ戻ります。引き続き、主の導きと恵みをお祈りしましょう。


勝谷司教様のお説教をご紹介します。
『今、世の中は「森友学園問題」で大きく揺れています。ことの真意は何であるのか、非常に不透明な部分は多いのですが、私は違う観点から見て面白いと感じることがあります。と、言うのは当初この問題が発覚したとき、いわゆる野党の人たちは追究しK理事長は信頼出来ない人間だと言っていたように思います。それに反して自民党や彼と考えを同じ立場に立っている人は立派な先生だ、信頼出来る人だと言っていた人がいたように思えます。
  それがひとたび態度を翻して、あのようにべらべらしゃべり始めると、彼は信頼出来ないとしていた野党の人たちは、彼の言っていることは本当だ。彼のことを信頼出来ると言っていた人たちは、今は彼は嘘つきだと言っています。これは自分の立場をどこに置くかによって、同じ物事を見ていながら、まったく正反対の見方をするという例のような気がするわけです。

 このことで私は、とおい昔のことですが学生時代のことを思いだしました。学生運動がほとんど下火になり、いわゆるその残党の人たち、一部の人たちが過激派としてセクト化していましたけれど、多くの学生たちは運動の敗北感、そういう中で虚無感を感じていた時代です。そういうなかで、もう一度学生運動ではなく、全国的な学生の集まりを復活させようと計画していました。私もその実行委員の中にいました。かたや京都からきていた青年がいました。学生運動の残党のような人でした。何でも批判的なのです。K大ですからディベートしてもかないません。あの頃、土居健郎という人の『甘えの構造』という本が出版されていましたが、土居健郎を講師として招こうなどと話しをしていましたが、そういう我々がやりたいことにも難癖をつけていましたし…。今では「分かち合い」と言いますが、当時はそのような言葉は使われていませんでしたが、グループによる話し合い。いわゆる議論やディベートというよりも、もっと内面を語り合う話し合いです。自分たちの内面を話し会うために、ひとつのプログラム、昔、室蘭でも行われていた錬成会に使われていたような手法ですが、出会いや話しを深めるプログラムがあります。それを使おうとすると、まさにそれは資本主義のやり方だ。それは企業が新人の研修に同じようなものを取り入れている。営利を求める資本主義の手先を作るためのプログラムを取り入れるのか。私はそういう議論にだんだん疲れてきました。
  ある時、そういった議論をしていく中で、ある一人の青年が平行線の中からひとつの妥協としてそのK大生に、あなたの言っていることを受け入れましょう。でもあなたの言っていることは正しいと直接言うのは癪なので、別の遠回りの言い方ですが、自分はいろいろ考え熟考を重ねて論理的にこういう方向にいくのは正しいと、彼(K大生)の論法にあわせたやり方で話しをしていったのです。実は彼(K大生)の言っていることを認めるよと言っていたのです。ところが彼(K大生)はそれに対して、自分が面白くないという人間の発言ですから、初めからそれを批判でかかってきたのです。だんだんそのやりとりを見ていると、周りの人間は皆分かっていました。この人(K大生)は自分は彼に対して批判ばかりしているが、彼の言っていることはK大生の言っていることを繰り返して言っているだけなんです。それを一生懸命むきになって批判しているばかりなのです。それを周りはみんな気付いているのですが、本人だけは気付かず、熱くなってどんどん自己矛盾の「どつぼ」の中にはまっていったのをよく覚えています。

 この例からも、われわれ人間は物事を判断するときに、その本質を見極めるときに、自分の立ち位置や持っている先入観や偏見によって左右される。本当に何が起こっているのかを見極めることを曇らされてしまう。以前、私が紹介した(私にとってはショッキングな)、荷物を持った母親に席を譲らなかったとんでもない女子高生の話ですが、私が席を譲るはめになって、とんでもない女子高生がいると睨み付けていたことの話しですが。あれも逆に赤ちゃんが泣きだしたときにとった女子高生の姿は本当に心やさしい、たぶん席を譲るのも私が立ってしまったから(彼女が)立てなくてばつの悪い思いをしていたのでしょう。彼女の目から見れば、 そういうふうに自分を追い込んでおきながら、非難がましい「いやな親父」と写っていたに違いないですけれど。私は正しいのは自分だとそれまでは思っていました。でも違った出来事が起こってから、ちょっと見方を変えるとなんて本当はいい子なんだ。そのことがなければ、同じ人間を見ていながら、とんでもない自己中心的なわがままだという偏見を取り去ることは出来なかった。私はそう思っています。

  今日の福音書に立ち返るとまさに、登場してきているファリサイ派の人たちはそのような人たちですね。実際に起こった出来事を見て、それを彼らの持っていた常識や理論では理解することが出来ない。安息日に治療を行うことは律法に反することであり、律法に反することを行うのは罪人である。でも罪人がそのようなことが出来るのだろうかという論理的な矛盾の中で結論を出せないでいるわけです。この文章をみるならば、前提となっているところ、弟子たちが「この人が生まれつき目が見えないのは、だれか罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」という問いにも表れているように、当時の常識としてはこのようま疾患や病気に罹るということは、何らかの罪の結果と考えられていました。しかし、生まれつき盲人であるということは、この人が罪を犯したからではない。では目の見えない罪の結果はどこからくるのか。その人ではなくてその両親ですか、いったい何故ですか。当時の彼らの同じような論理からすると出口のない矛盾に突き当たっているのです。イエス様はそれに対して回答を与えるわけですが、このファリサイ派の人たちも同じような論理の矛盾に直面したときに何をしたかというと、現実を否定するということ。なかったことにしよう。現実を変えてしまう。 一方、この生まれつき目の見えなかった人はだんだんと目が開かれてくるのです。物理的に目が開かれていくというよりも、心の目が開かれていきます。最初、誰であったか分からなかった。「あの人」という表現をしながらやがて、最後になって信仰宣言に至るです。何の知識も持っていない。しかし、彼のイエス様との出会いの体験は確かなものです。どんな当時のファリサイ派の人たちの追究にもけっして負けることのない確信です。それを彼がつき動かしファリサイ派の人たちが到達することの出来なかったひとつの視点、真理を見いだすことが出来るようになったのです。

  現実の社会の中で生きるとき、私たちはどういう立ち位置にいるかによって物事の見方が変わるということ。特に政治的な問題は、テレビを見ているとそういう人間模様、人間のもどかしさというものが良く浮き彫りにされてくるので分かるのですが、でもそれは、テレビの中で行われる議論として傍観者を決め込むわけにいかない。私たち自身の姿も映しだしているともいえるのです。私たちは先ほどの私の例のように、同じ現実を見ていながら、私たちの心でそこにある偏見や先入観によってきちんと見ることが出来ないでいる。ひょっとしたら、場合によってはそんな出来事あるはずがない。見ても見ぬふりをしてしまう。そういうところに陥って私たちは本質をつかむことを出来ずに生活しているかもしれません。 祈りの中でそれを見極めるように、できるだけ心の偏見を取り除いて、今私たちの周りで起こっている出来事の中に主の御心を、あるいは福音的な視点を持って識別していく。そういう性質を追い求めることは大切ですが、ひとたび私たちの心理状態の輪の中に取り込まれると、蜘蛛の糸に引っかかった虫のようにその中からなかなか脱出することはできません。

 そういうところから私たちを救い出してあげる力なるものが、私が常々言っている「分かち合い」というものです。 まったく自分と違った視点、考え方を持っている人たち、信頼出来る人たちとあることについて分かち合う時に 自分とはまったく違う人の考え方によって私たちの心の目が開かれたり 、修正されたりしていきます。 自分一人ではけっして辿り着くことの出来ない、そういうところに仲間の信仰を通して、分かち合いによって辿り着くことが出来ます。私たちが本当に今、この世界の中で起こっている出来事の中に、福音の真理、主が見極めるように私たちに求めておられるのが何であるか。それをしっかり見極めるための視点、そして偏見を取り除く、それを見いだすことの出来る仲間がつくることが出来る、そういう共同体を作り上げていただきたい(と思います)。』