2020年5月30日土曜日

5月31日(日)聖霊降臨の主日(祭)

「聖霊降臨の主日」を迎えるにあたり、松村神父様から、メッセージをいただきました。
聖書朗読と併せご紹介します。


【松村神父様からのメッセージ】

『♰主の平和 (聖霊降臨祭)
 昔、海で溺れた経験があった。水中で息ができず前後左右の感覚が瞬時に判断できない。立ってみたら浅瀬だった。しかし焦りの中での状況判断はそれを曇らせる。立てる場所でも溺れる。他者からしてみれば客観的に大したことではない。しかし当の本人にとっては一大事。実は私たちの社会の中でもそのように溺れながら生きている人は多い。当たり前の空気を満足に吸えない。私たちの許容量を超えた水によって逆に命が脅かされる。実際たくさんの苦しみを耳にする。

 まず普段気づかない当たり前のものに目を向け、自分に働きかけていることを感謝してみてはどうだろう。何か特別なこと(機会や場所)がなければ神様に向かって語ることができないのは、私たちが消費社会の申し子になってしまっているということなのだろう。今こそ社会の中で生きることを振り返り、見つめてみたいと思う。自分は溺れていないだろうかと。どうしたら息継ぎができるだろうかと。

 コロナによる教会活動の中止が叫ばれている中で、私たちには神様の働きがないのだろうか。もちろん教会共同体の性質上“具体的交わりの教会”は達成できていないが、“秘跡としての教会”には十分働いている。キリストから力を得ていること。他者を愛すること。他者に奉仕することなど、離れていても今だからこそ与えられている恵みがある。いつも可視化されているものに終始している私たちだが、当たり前で気づかなかった空気のような存在に目を向けることこそ聖霊を見つめ直すチャンスに他ならない。それこそ今日のメッセージなのだろう。「ピンチこそチャンス」。苦しさや避けていたことに出会ったとき、それは自己の信仰の改革の絶好のタイミング。私たちが作り上げた常識を超えて、視点を移し直してみる時。その時にまた新しい恵みの側面が見えてくる。新たな価値、信仰はそうやって成長していくのであろう。

 旧約聖書ではよく「風の影響」として、また新約聖書では頻繁に「水の動き」で、そして新旧聖書では「火による力」で神の力が表現されている。これこそ御父であり聖霊の働きである。どれも手に取ることができない。だから信じてやまないものと捉えていかなければならない。私は自然を愛するアイヌの信仰に深い感銘を受けている。手に取ることのできない物への価値の大切さ。それは平和の希求の姿勢でもある。

 イエスのわき腹から「水の流れ」があった。それは「聖霊による平和の泉」であり教会の起源でもある。教会は目に見える聖堂という建物ではなく「イエスへの繋がった者の交わり」であり、「平和の使者の共同体」であり、神の家族として近くても遠くても思い思われる関係になっていく真の兄弟姉妹である。

 さて、コロナの影響中だからこそ成長できたこと、誇りにできる事、自慢できることはありますか?まだまだ私たちに薬剤やワクチンが与えられないということは、“見えない物への感謝と奉仕が足りない”のではないだろうか。まだまだ成長しなさいと神様にお尻を叩かれているのかもしれない。今は見えぬコロナを毛嫌いするのではなく、あのコロナとも共に生きるようと、視点と発想の豊かさが求められているのだろう。』


【5月31日 聖霊降臨の主日 聖書朗読】

すべての人の父である神よ、
  きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、
  あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。
  聖霊を世界にあまねく注いでください。
  教会の誕生にあたって行われた宣教の働きが、
  今も信じる民を通して続けられ、
  豊かな実りをもたらしますように。
   集会祈願より

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

第1朗読 使徒言行録 2章1~11節

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、
 彼らが座っていた家中に響いた。

 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、
 一人一人の上にとどまった。

 すると、一同は聖霊に満たされ、
 “霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、
 信心深いユダヤ人が住んでいたが、

 この物音に大勢の人が集まって来た。
 そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、
 あっけにとられてしまった。

 人々は驚き怪しんで言った。
 「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、
 また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、

 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。 また、ローマから来て滞在中の者、

 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、
 クレタ、アラビアから来た者もいるのに、
 彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」


第2朗読 コリントの信徒への手紙1 12章3b~7、12~13節

 聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。

 体は一つでも、多くの部分から成り、
 体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、
 キリストの場合も同様である。

 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、
 ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、
 奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、
 皆一つの体となるために洗礼を受け、
 皆一つの霊をのませてもらったのです。


福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~23節

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、
 弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、
 「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
 弟子たちは、主を見て喜んだ。

 イエスは重ねて言われた。
 「あなたがたに平和があるように。
 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
 「聖霊を受けなさい。

 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。
 だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」


2020年5月22日金曜日

5月24日(日)主の昇天(祭)

「主の昇天」の祭日を迎えるにあたり、佐藤謙一神父様から、メッセージが届きましたので、朗読箇所と併せてご紹介します。

【佐藤神父からのメッセージ】

『信徒の皆様

主の昇天の祭日にあたり、短い勧めの言葉を送ります。

主の昇天の祭日は、『布教国』では通常復活の主日から40日目の復活節第6週の木曜日に祝われます。日本は『宣教国』なので復活節第7主日に移動して主の昇天を祝います。現在は『布教国』であっても木曜日を国祭日とせず、日曜日に主の昇天が移動されて祝われている国が結構多いようです。主の降誕の祭日や聖なる過ぎ越しの三日間、聖母被昇天など『布教国』では国の祭日としてお休みになっているところが多いのですがそうでない国も増えています。実はわたしは日本以外の国の事情については詳しくないのでどこがそうなのかはよく知りません。ともかく、今日はイエスが復活してから40日後に天に昇ったということが祝われる日であるということです。

使徒たちは復活したキリストを目撃していますが、それが40日間だったということです。この使徒たちの証言をもとにわたしたちはキリストの復活を信じています。キリストの姿を見なかったからといって信じないわけではありません。むしろ、福音書に記されているとおり、「見ないのに信じる人は、幸い」(ヨハネ20・29)と言われています。この幸せは、キリストの死と復活に希望をおいているすべての人に及ぶものなのです。見ないのに信じるわたしたちはこの幸せにあずかっているのです。

今日示された福音はマタイ福音書の最後の部分です。この言葉でマタイによる福音は締めくくられています。19節から20節にかけてイエスの指示が述べられています。

「行って」「弟子にしなさい」「洗礼を授け」「教えなさい」

ギリシャ語原文では「弟子にしなさい」という言葉だけが命令形で、ほかの三つは命令形ではなく分詞形なので「弟子にしなさい」という言葉にすべてかかっています。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの」弟子にしなさい。

「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」弟子にしなさい。

「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教え」弟子にしなさい。

わたしたちに命じられているのはいろいろな手段を通してイエスの弟子にしなさいということなのです。行くだけではだめなのです。洗礼を授けるだけではだめなのです。教えるだけではだめなのです。本当の意味でイエスの弟子にしなければいけないのです。本当の意味でというのは、「イエスが行ってきたことをわたしたちも行う」ことによって示すということです。たとえば世の中で苦しむ人々をいかに助けていくことができるのかを考え、行動に移すということです。

わたしたちの信仰の核心は、イエス・キリストにあります。イエスがいつも共にいてくださるのですから、イエスが行ってきたことをわたしたちも勇気をもってこの世の中で行っていけるはずです。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

イエスが天にあげられてもう地上にはいないとしても、いつも天の国でわたしたちのために見守っています。そしてさらに神の霊を注いでくださるのです。聖霊を注ぎ、いつも共にいてくださるのだという希望を持たせてくださるのです。それに力づけられて信仰の道を歩むことができるのです。

集会祈願にあるように、「主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています。」その言葉を心に留め、イエスが行ってきたことをわたしたちも行うことができますように願いましょう。』


【5/24 聖書朗読箇所】

全能の神よ、
  あなたは御ひとり子イエスを、
  苦しみと死を通して栄光に高め、
  新しい天と地を開いてくださいました。
  主の昇天に、わたしたちの本来の姿が示されています。
  キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、
  ともに永遠のいのちに入らせてください。
   集会祈願より

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

第1朗読 使徒言行録 1章1~11節
 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、
 イエスが行い、また教え始めてから、
 お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、
 天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

 イエスは苦難を受けた後、
 御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、
 四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。

 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。
 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、
 父の約束されたものを待ちなさい。

 ヨハネは水で洗礼を授けたが、
 あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 さて、使徒たちは集まって、
 「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、
 この時ですか」と尋ねた。

 イエスは言われた。
 「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、
 あなたがたの知るところではない。

 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。
 そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、
 また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、
 雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。

 イエスが離れ去って行かれるとき、
 彼らは天を見つめていた。
 すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、

 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。
 あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、
 天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

第2朗読 エフェソの信徒への手紙 1章17~23節
 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、
 あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、

 心の目を開いてくださるように。
 そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、
 聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか
 悟らせてくださるように。

 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、
 どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、
 天において御自分の右の座に着かせ、

 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、
 今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、
 キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。

 教会はキリストの体であり、
 すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。


福音朗読 マタイによる福音書 28章16~20節
 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、
 イエスが指示しておかれた山に登った。

 そして、イエスに会い、ひれ伏した。
 しかし、疑う者もいた。

 イエスは、近寄って来て言われた。
 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。

 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
 彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


2020年5月17日日曜日

復活節第6主日 世界広報の日

森田神父様から復活節第6主日の説教をいただいています。
聖書朗読とあわせてご覧ください。

【森田神父様 お説教】

『「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしているようにしてくださる。(ヨハネ14:16)」

古代ではパラクレートスというギリシア語を「弁護者」として使いました。もともとの意味は「招き入れられた」ということらしいのですが、そこから弁護者に使われたり、聖書では「助けぬし」「慰め主」と訳されることもあります。

弁護者といわれると法律用語で、わたしたちとは縁遠く感じます。迫害が始まって王や役人の前で答えるときに助けてくださる、ということでしたら、一生に一度あるかないかでしょう。現代のように宗教や信条の自由が保障されている時代ではまず体験しないことではないかと思います。

ある黙想会に参加したときに、インド人の聖書学者の司祭が「これは誤訳だと思う」とおっしゃいました。パラクレートスの「パラ」は「横に」「共に」の意味。だから単語の意味は「共に立つもの」「横にいるもの」とすべき、とおっしゃいました。

これならピンと来ます。

キリストは「この霊があなた方と共におり、これからも、あなた方のうちにいる」とおっしゃいます。それならば、やはり迫害のときだけ助けてくださる弁護者ではなくて、私たちの日常、そして人生において「共に立つもの」でしょう。この訳ならピンと来ますし、前後の脈絡にもあっていると思います。

「私は父にお願いしよう。父は別の助けぬし(共に立つもの)を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。」

「別の」。イエス以外に別の助け主がいるのでしょうか。イエスに等しい助け主などいるのでしょうか。

しかし聖霊はおん父の霊でもあり、イエスの霊でもあります。イエスがこの世を去られた後も、聖霊が私たちと共にいてくださいます。この約束はどれほど心強いものでしょうか。

聖霊は私たちの現実に即して導いてくださいます。生活の細かいところまで神に従おうとする人には、細かいところまで導き、祝福してくださるでしょう。

イザヤ書の次のような箇所を思い出します。

「あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る。
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。
『これが行くべき道だ、ここを歩け
 右に行け、左に行け』と。」(イザヤ30:20-21)

イエスはおっしゃいます。
「この世はこの霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかしあなたがたはこの霊を知っている。」

たしかにイエスが聖霊の存在を教えてくださらなければ、知ることも求めることも受け入れることもしなかったでしょう。

またイエスがこの助け主を遣わすとおっしゃらなければ、いただけないものだと思っていたでしょう。

しかしイエスは与えると約束してくださいます。

教会はこの聖霊の存在についてあまり強調してきませんでしたが、イエスがこの霊を私たちにお与えるになることを望んでおられることを私たちは知ります。

ルカ11章13節にもこうあります。
「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

コロナウィルスの試練の中で、不安が広がっています。しかし試練はきっと神の恵みをももたらすでしょう。主の言葉に励まされ、聖霊と共に歩み、どのような状況の中でも私たちに道を示し、教え導き、助けてくださる方に信頼して歩んでまいりたいと思います。』



【5/17 復活節第6主日 (世界広報の日)の朗読】

いつくしみ深い父である神よ、
  主イエスは最後の晩餐の席で弟子たちに、
  「あなた方をみなしごにはしない」と約束してくださいました。
  どのような時も助け主である聖霊に支えられ、
  キリストとともに生きる恵みを、
  わたしたちに与えてください。
   集会祈願より

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

第1朗読 使徒言行録 8章5~8、14~17節
 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。
 群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、
 こぞってその話に聞き入った。

 実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、
 その霊が大声で叫びながら出て行き、
 多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。

 町の人々は大変喜んだ。

 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、
 ペトロとヨハネをそこへ行かせた。

 二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。

 人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、
 聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。

 ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。


第2朗読 ペトロの手紙1 3章15~18節
 心の中でキリストを主とあがめなさい。
 あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、
 いつでも弁明できるように備えていなさい。

 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。
 そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、
 悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。

 神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。

 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。
 正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。
 あなたがたを神のもとへ導くためです。
 キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。


福音朗読 ヨハネによる福音書 14章15~21節
 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。

 わたしは父にお願いしよう。
 父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

 この方は、真理の霊である。
 世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。
 しかし、あなたがたはこの霊を知っている。
 この霊があなたがたと共におり、
 これからも、あなたがたの内にいるからである。

 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。
 あなたがたのところに戻って来る。

 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。
 わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。

 かの日には、わたしが父の内におり、
 あなたがたがわたしの内におり、
 わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。

 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。
 わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。
 わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

2020年5月9日土曜日

5月10日(日)復活節第5主日

復活節第5主日を迎えるにあたり、湯澤神父様からメッセージをいただきましたのでご紹介します。

【湯澤神父様からのメッセージ】

復活第5主日(ヨハネ、14章1~12節)
✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様
 「心を騒がせてはいけない。」この言葉は「わたしが行く所に来ることができない」という言葉に動揺した弟子たちに向けのイエス様の言葉です。更に言葉を付け加えます。「共にいるために、必ず迎えに来るから。わたしは道であり、真理であり、命だから。」

 天に戻っていくイエス様を前にして、弟子たちは不安に襲われています。取り残される。案の定、イエス様が殺された後、弟子たちは部屋に鍵をかけ、閉じこもってしまいます。しかし、イエス様は「あなた方に平和」といって現れました。平和は、戦争や争いのないことではなく、救いの完成を意味しています。イエス様は、救いの完成を携えて弟子たちのところへ戻ってきたのです。「あなた方に平和があるように。私が父に派遣されたように、あなた方を派遣する。」

 取り残されて不安の内にあるのは、弟子たちだけではありません。この福音書を読む人たちも同じでした。ユダヤ教の教会から追い出され、集まる場所を失ったヨハネの時代の信徒たちは、家庭集会に閉じ籠ることになりました。更にローマによる信仰の迫害が始まろうとしています。不気味な不安の中にある信徒たちのために、ヨハネはイエス様の言葉を伝えたのです。「心を騒がせてはいけません。イエス様は平和を携えて来られます。平和をもたらす道であり、救いの完成への道であるキリストに結ばれましょう。それこそ本当のキリストの弟子の真の在り方であり、真に生きることだからです。」さらに手紙の中で、「わたしたちの交わりは、父と子の交わりであって、この交わりをわたしたちは広げているのです。」と書いています。

 イエス様の前の弟子たち、ヨハネの周りにいる信徒たち。彼らは、わたしたちに似ていませんか。教会にも行けず、集会も開けず、自宅待機を求められ、家庭に留まっています。イエス様の言葉、ヨハネの福音、それは、こうしたわたしたちに向けられた言葉でもあるのです。「心を騒がせてはいけません。イエス様にパーソナルに(個人的に、人格的に)結ばれましょう。幹につながるブドウの枝のように。そして、互いにキリストに結ばれたものとして、互いの交わりを深めましょう。互いに愛し合いましょう。」

 「神様との交わり」と聞くと個別的な信仰に閉じこもりがちですが、この交わりは決して閉鎖的なものではありません。人と人の間に広がっていくものです。自宅待機で、交わりの手段をすべて奪われているのでしょうか。周りを見回してみましょう。まだまだ様々な手段が残されています。イエス様の言葉は、今現在の私たち一人ひとりに向けられた言葉です。「心を騒がせてはいけない。」「あなた方に平和があるように。」

2020年5月10日 復活第5の主日
湯澤民夫


【5月10日の聖書朗読】

いつくしみ深い父である神よ、
  あなたは御子キリストを復活させ、
  永遠のいのちに至る道を示してくださいました。
  わたしたちが危機や不安の中を歩むとき、
  あなたにいつも心を向けることができますように。
   集会祈願より

第1朗読 使徒言行録 6章1~7節
 そのころ、弟子の数が増えてきて、
 ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。
 それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。

 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。
 「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、
 食事の世話をするのは好ましくない。

 それで、兄弟たち、
 あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。
 彼らにその仕事を任せよう。

 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」

 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、
 ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、
 アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、

 使徒たちの前に立たせた。
 使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。

 こうして、神の言葉はますます広まり、
 弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。


第2朗読 ペトロの手紙1 2章4~9節
 この主のもとに来なさい。
 主は、人々からは見捨てられたのですが、
 神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。

 あなたがた自身も生きた石として用いられ、
 霊的な家に造り上げられるようにしなさい。
 そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、
 イエス・キリストを通して献げなさい。

 聖書にこう書いてあるからです。
 「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、
 シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」

 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、
 信じない者たちにとっては、
 「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」のであり、

 また、「つまずきの石、 妨げの岩」なのです。
 彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、
 実は、そうなるように以前から定められているのです。

 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、
 神のものとなった民です。
 それは、あなたがたを暗闇の中から
 驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、
 あなたがたが広く伝えるためなのです。



福音朗読 ヨハネによる福音書 14章1~12節
 「心を騒がせるな。神を信じなさい。
 そして、わたしをも信じなさい。

 わたしの父の家には住む所がたくさんある。
 もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

 行ってあなたがたのために場所を用意したら、
 戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。
 こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

 トマスが言った。
 「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。
 どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

 イエスは言われた。
 「わたしは道であり、真理であり、命である。
 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。
 今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。
 そうすれば満足できます」と言うと、

 イエスは言われた。
 「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。
 わたしを見た者は、父を見たのだ。
 なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。

 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。
 わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。
 わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。

 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。
 もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

 はっきり言っておく。
 わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、
 また、もっと大きな業を行うようになる。
 わたしが父のもとへ行くからである。



2020年5月1日金曜日

5月3日 復活節第4主日(世界召命祈願の日)

5月3日 復活節第4主日は、「よい牧者」がテーマです。
この主日を迎えるにあたり、
松村神父様から、メッセージをいただきましたのでご紹介します。

「復活第4主日に向けて」
♰ 主のご復活お喜び申し上げます
 
 鍵を忘れたり落としたりして家に帰った時、裏口やどこか窓が開いないか探して、空いていたらとりあえず窓からでも入った経験があります。正面の玄関を通って家に入らない者は何らかの事情や理由がそこにはあります。しかしその行動には何らかの罪悪感を持ちます。なぜならばそれは盗人と同じ行動を取らざるを得ないからです。堂々と家の玄関を通れることは、家族や家の財産に向けて誇りをもって出会える唯一の方法です。違う入り口から入ることは隠れた行為です。私たちの選びはそうであってはならない。いつも正面の入り口を通れるように気を引き締めなければならないということと、正しい主人はいつも正面玄関から入ってこられるというのが今日の私たちを励ます福音の知らせです。その為には鍵を忘れたり落としたりしないように日々の注意が求められます。すなわち“罪”というきっかけです。“罪”は容易に私たちの鍵を無くさせるものなのです。正しい主人は決して鍵を落とすことはありません。
 “罪”は一人で完結することは少なく、何らかの対象があっての行為です。それは神であったり隣人であったりと。そこに愛が欠如し始めると“罪”の力が大きくなり、私達を愛から引き離します。
今回のコロナウイルスの蔓延により普段とは違い家族との関わりがより深く、より長く味わうことができます。それは家族に目を向ける今までにない大切なきっかけが与えられたことでもあります。しかしニュースを見れば普段は社会で学んだり働いたりする家族が一緒にいることで、離婚やDV、子どもへの虐待や子育てによるノイローゼが起こっていることを知ります。悲しいことです。家族の誰かが涙しています。改めて私たちの愛は本物かどうかが問われています。見せかけの愛。外に逃げていた家族への愛表現。愛とは何かを突き付けられています。『愛は忍耐強い』というパウロの言葉を思い起こしましょう。第二朗読のペトロの手紙の冒頭を見つめなおしましょう。『善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。』今家族と一緒にいることで私たちはまた一つ成長を遂げようとしています。今日の詩編23は私たちの在り方を示しています。キリストを入り口として物事を捉えるよう課題が与えられています。喜びの宿題です。だから鍵を忘れないように気を付けましょう!
2020年5月3日 復活節第4主日
北1条教会より アンドレア 松村繁彦


【5/3 復活節第4主日(世界召命祈願の日)の朗読】

全能の神よ、
  あなたは死に打ち勝ったイエスを、
  わたしたちの魂の牧者としてお立てになりました。
  わたしたちが道に迷うとき、
  一人ひとりに呼びかけてくださるイエスの声に
  耳を澄ますことができますように。
   集会祈願より

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

第1朗読 使徒言行録 2章14a、36~41節
 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。

 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。
 あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、
 またメシアとなさったのです。」

 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、
 「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

 すると、ペトロは彼らに言った。
 「悔い改めなさい。
 めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、
 罪を赦していただきなさい。
 そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、
 つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、
 与えられているものなのです。」

 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、
 「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。

 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、
 その日に三千人ほどが仲間に加わった。


第2朗読 ペトロの手紙1 2章20b~25節
 善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、
 これこそ神の御心に適うことです。

 あなたがたが召されたのはこのためです。
 というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、
 その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。

 「この方は、罪を犯したことがなく、
 その口には偽りがなかった。」

 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、
 正しくお裁きになる方にお任せになりました。

 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
 わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
 そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、
 今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。


福音朗読 ヨハネによる福音書 10章1~10節
 「はっきり言っておく。
 羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、
 盗人であり、強盗である。

  門から入る者が羊飼いである。

 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。
 羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。

 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。
 羊はその声を知っているので、ついて行く。

 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。
 ほかの者たちの声を知らないからである。」

 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、
 彼らはその話が何のことか分からなかった。

 イエスはまた言われた。
 「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。

 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。
 しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。

 わたしは門である。
 わたしを通って入る者は救われる。
 その人は、門を出入りして牧草を見つける。

 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。
 わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。