「聖霊降臨の主日」を迎えるにあたり、松村神父様から、メッセージをいただきました。
聖書朗読と併せご紹介します。
【松村神父様からのメッセージ】
『♰主の平和 (聖霊降臨祭)
昔、海で溺れた経験があった。水中で息ができず前後左右の感覚が瞬時に判断できない。立ってみたら浅瀬だった。しかし焦りの中での状況判断はそれを曇らせる。立てる場所でも溺れる。他者からしてみれば客観的に大したことではない。しかし当の本人にとっては一大事。実は私たちの社会の中でもそのように溺れながら生きている人は多い。当たり前の空気を満足に吸えない。私たちの許容量を超えた水によって逆に命が脅かされる。実際たくさんの苦しみを耳にする。
まず普段気づかない当たり前のものに目を向け、自分に働きかけていることを感謝してみてはどうだろう。何か特別なこと(機会や場所)がなければ神様に向かって語ることができないのは、私たちが消費社会の申し子になってしまっているということなのだろう。今こそ社会の中で生きることを振り返り、見つめてみたいと思う。自分は溺れていないだろうかと。どうしたら息継ぎができるだろうかと。
コロナによる教会活動の中止が叫ばれている中で、私たちには神様の働きがないのだろうか。もちろん教会共同体の性質上“具体的交わりの教会”は達成できていないが、“秘跡としての教会”には十分働いている。キリストから力を得ていること。他者を愛すること。他者に奉仕することなど、離れていても今だからこそ与えられている恵みがある。いつも可視化されているものに終始している私たちだが、当たり前で気づかなかった空気のような存在に目を向けることこそ聖霊を見つめ直すチャンスに他ならない。それこそ今日のメッセージなのだろう。「ピンチこそチャンス」。苦しさや避けていたことに出会ったとき、それは自己の信仰の改革の絶好のタイミング。私たちが作り上げた常識を超えて、視点を移し直してみる時。その時にまた新しい恵みの側面が見えてくる。新たな価値、信仰はそうやって成長していくのであろう。
旧約聖書ではよく「風の影響」として、また新約聖書では頻繁に「水の動き」で、そして新旧聖書では「火による力」で神の力が表現されている。これこそ御父であり聖霊の働きである。どれも手に取ることができない。だから信じてやまないものと捉えていかなければならない。私は自然を愛するアイヌの信仰に深い感銘を受けている。手に取ることのできない物への価値の大切さ。それは平和の希求の姿勢でもある。
イエスのわき腹から「水の流れ」があった。それは「聖霊による平和の泉」であり教会の起源でもある。教会は目に見える聖堂という建物ではなく「イエスへの繋がった者の交わり」であり、「平和の使者の共同体」であり、神の家族として近くても遠くても思い思われる関係になっていく真の兄弟姉妹である。
さて、コロナの影響中だからこそ成長できたこと、誇りにできる事、自慢できることはありますか?まだまだ私たちに薬剤やワクチンが与えられないということは、“見えない物への感謝と奉仕が足りない”のではないだろうか。まだまだ成長しなさいと神様にお尻を叩かれているのかもしれない。今は見えぬコロナを毛嫌いするのではなく、あのコロナとも共に生きるようと、視点と発想の豊かさが求められているのだろう。』
【5月31日 聖霊降臨の主日 聖書朗読】
すべての人の父である神よ、
きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、
あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。
聖霊を世界にあまねく注いでください。
教会の誕生にあたって行われた宣教の働きが、
今も信じる民を通して続けられ、
豊かな実りをもたらしますように。
集会祈願より
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第1朗読 使徒言行録 2章1~11節
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、
彼らが座っていた家中に響いた。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、
一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、
“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、
信心深いユダヤ人が住んでいたが、
この物音に大勢の人が集まって来た。
そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、
あっけにとられてしまった。
人々は驚き怪しんで言った。
「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、
また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。 また、ローマから来て滞在中の者、
ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、
クレタ、アラビアから来た者もいるのに、
彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 12章3b~7、12~13節
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
体は一つでも、多くの部分から成り、
体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、
キリストの場合も同様である。
つまり、一つの霊によって、わたしたちは、
ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、
奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、
皆一つの体となるために洗礼を受け、
皆一つの霊をのませてもらったのです。
福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~23節
その日、すなわち週の初めの日の夕方、
弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスは重ねて言われた。
「あなたがたに平和があるように。
父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。
だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」