【佐藤神父からのメッセージ】
『信徒の皆様
主の昇天の祭日にあたり、短い勧めの言葉を送ります。
主の昇天の祭日は、『布教国』では通常復活の主日から40日目の復活節第6週の木曜日に祝われます。日本は『宣教国』なので復活節第7主日に移動して主の昇天を祝います。現在は『布教国』であっても木曜日を国祭日とせず、日曜日に主の昇天が移動されて祝われている国が結構多いようです。主の降誕の祭日や聖なる過ぎ越しの三日間、聖母被昇天など『布教国』では国の祭日としてお休みになっているところが多いのですがそうでない国も増えています。実はわたしは日本以外の国の事情については詳しくないのでどこがそうなのかはよく知りません。ともかく、今日はイエスが復活してから40日後に天に昇ったということが祝われる日であるということです。
使徒たちは復活したキリストを目撃していますが、それが40日間だったということです。この使徒たちの証言をもとにわたしたちはキリストの復活を信じています。キリストの姿を見なかったからといって信じないわけではありません。むしろ、福音書に記されているとおり、「見ないのに信じる人は、幸い」(ヨハネ20・29)と言われています。この幸せは、キリストの死と復活に希望をおいているすべての人に及ぶものなのです。見ないのに信じるわたしたちはこの幸せにあずかっているのです。
今日示された福音はマタイ福音書の最後の部分です。この言葉でマタイによる福音は締めくくられています。19節から20節にかけてイエスの指示が述べられています。
「行って」「弟子にしなさい」「洗礼を授け」「教えなさい」
ギリシャ語原文では「弟子にしなさい」という言葉だけが命令形で、ほかの三つは命令形ではなく分詞形なので「弟子にしなさい」という言葉にすべてかかっています。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの」弟子にしなさい。
「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」弟子にしなさい。
「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教え」弟子にしなさい。
わたしたちに命じられているのはいろいろな手段を通してイエスの弟子にしなさいということなのです。行くだけではだめなのです。洗礼を授けるだけではだめなのです。教えるだけではだめなのです。本当の意味でイエスの弟子にしなければいけないのです。本当の意味でというのは、「イエスが行ってきたことをわたしたちも行う」ことによって示すということです。たとえば世の中で苦しむ人々をいかに助けていくことができるのかを考え、行動に移すということです。
わたしたちの信仰の核心は、イエス・キリストにあります。イエスがいつも共にいてくださるのですから、イエスが行ってきたことをわたしたちも勇気をもってこの世の中で行っていけるはずです。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
イエスが天にあげられてもう地上にはいないとしても、いつも天の国でわたしたちのために見守っています。そしてさらに神の霊を注いでくださるのです。聖霊を注ぎ、いつも共にいてくださるのだという希望を持たせてくださるのです。それに力づけられて信仰の道を歩むことができるのです。
集会祈願にあるように、「主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています。」その言葉を心に留め、イエスが行ってきたことをわたしたちも行うことができますように願いましょう。』
【5/24 聖書朗読箇所】
全能の神よ、
あなたは御ひとり子イエスを、
苦しみと死を通して栄光に高め、
新しい天と地を開いてくださいました。
主の昇天に、わたしたちの本来の姿が示されています。
キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、
ともに永遠のいのちに入らせてください。
集会祈願より
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
第1朗読 使徒言行録 1章1~11節
テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、
イエスが行い、また教え始めてから、
お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、
天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
イエスは苦難を受けた後、
御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、
四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、
父の約束されたものを待ちなさい。
ヨハネは水で洗礼を授けたが、
あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
さて、使徒たちは集まって、
「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、
この時ですか」と尋ねた。
イエスは言われた。
「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、
あなたがたの知るところではない。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。
そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、
また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、
雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
イエスが離れ去って行かれるとき、
彼らは天を見つめていた。
すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。
あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、
天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 1章17~23節
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、
あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、
心の目を開いてくださるように。
そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、
聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか
悟らせてくださるように。
また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、
どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。
神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、
天において御自分の右の座に着かせ、
すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、
今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、
キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
教会はキリストの体であり、
すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
福音朗読 マタイによる福音書 28章16~20節
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、
イエスが指示しておかれた山に登った。
そして、イエスに会い、ひれ伏した。
しかし、疑う者もいた。
イエスは、近寄って来て言われた。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」