2020年5月1日金曜日

5月3日 復活節第4主日(世界召命祈願の日)

5月3日 復活節第4主日は、「よい牧者」がテーマです。
この主日を迎えるにあたり、
松村神父様から、メッセージをいただきましたのでご紹介します。

「復活第4主日に向けて」
♰ 主のご復活お喜び申し上げます
 
 鍵を忘れたり落としたりして家に帰った時、裏口やどこか窓が開いないか探して、空いていたらとりあえず窓からでも入った経験があります。正面の玄関を通って家に入らない者は何らかの事情や理由がそこにはあります。しかしその行動には何らかの罪悪感を持ちます。なぜならばそれは盗人と同じ行動を取らざるを得ないからです。堂々と家の玄関を通れることは、家族や家の財産に向けて誇りをもって出会える唯一の方法です。違う入り口から入ることは隠れた行為です。私たちの選びはそうであってはならない。いつも正面の入り口を通れるように気を引き締めなければならないということと、正しい主人はいつも正面玄関から入ってこられるというのが今日の私たちを励ます福音の知らせです。その為には鍵を忘れたり落としたりしないように日々の注意が求められます。すなわち“罪”というきっかけです。“罪”は容易に私たちの鍵を無くさせるものなのです。正しい主人は決して鍵を落とすことはありません。
 “罪”は一人で完結することは少なく、何らかの対象があっての行為です。それは神であったり隣人であったりと。そこに愛が欠如し始めると“罪”の力が大きくなり、私達を愛から引き離します。
今回のコロナウイルスの蔓延により普段とは違い家族との関わりがより深く、より長く味わうことができます。それは家族に目を向ける今までにない大切なきっかけが与えられたことでもあります。しかしニュースを見れば普段は社会で学んだり働いたりする家族が一緒にいることで、離婚やDV、子どもへの虐待や子育てによるノイローゼが起こっていることを知ります。悲しいことです。家族の誰かが涙しています。改めて私たちの愛は本物かどうかが問われています。見せかけの愛。外に逃げていた家族への愛表現。愛とは何かを突き付けられています。『愛は忍耐強い』というパウロの言葉を思い起こしましょう。第二朗読のペトロの手紙の冒頭を見つめなおしましょう。『善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。』今家族と一緒にいることで私たちはまた一つ成長を遂げようとしています。今日の詩編23は私たちの在り方を示しています。キリストを入り口として物事を捉えるよう課題が与えられています。喜びの宿題です。だから鍵を忘れないように気を付けましょう!
2020年5月3日 復活節第4主日
北1条教会より アンドレア 松村繁彦


【5/3 復活節第4主日(世界召命祈願の日)の朗読】

全能の神よ、
  あなたは死に打ち勝ったイエスを、
  わたしたちの魂の牧者としてお立てになりました。
  わたしたちが道に迷うとき、
  一人ひとりに呼びかけてくださるイエスの声に
  耳を澄ますことができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 使徒言行録 2章14a、36~41節
 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。

 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。
 あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、
 またメシアとなさったのです。」

 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、
 「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

 すると、ペトロは彼らに言った。
 「悔い改めなさい。
 めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、
 罪を赦していただきなさい。
 そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、
 つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、
 与えられているものなのです。」

 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、
 「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。

 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、
 その日に三千人ほどが仲間に加わった。


第2朗読 ペトロの手紙1 2章20b~25節
 善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、
 これこそ神の御心に適うことです。

 あなたがたが召されたのはこのためです。
 というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、
 その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。

 「この方は、罪を犯したことがなく、
 その口には偽りがなかった。」

 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、
 正しくお裁きになる方にお任せになりました。

 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
 わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
 そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、
 今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。


福音朗読 ヨハネによる福音書 10章1~10節
 「はっきり言っておく。
 羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、
 盗人であり、強盗である。

  門から入る者が羊飼いである。

 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。
 羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。

 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。
 羊はその声を知っているので、ついて行く。

 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。
 ほかの者たちの声を知らないからである。」

 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、
 彼らはその話が何のことか分からなかった。

 イエスはまた言われた。
 「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。

 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。
 しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。

 わたしは門である。
 わたしを通って入る者は救われる。
 その人は、門を出入りして牧草を見つける。

 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。
 わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。