今日の主日ミサでは、二人の神学生 桶田さんと帰省中の千葉さんが侍者奉仕をしました。
松村神父様のお説教をご紹介します。
『今日の私達への福音のメッセージは、神の前における賢さを持とう!ということでしょう。
大学のころ大失敗をしたことがあります。ある日建築のパース(完成予想)の宿題が出され、家に帰り絵コンテの準備をしたところ、他の学生は模型を作ってきていました。しっかり話を聞いてなかった私が悪いのです。教授の正しい説明を逃し、勝手な思い込みで「~だろう」と思った自分が恥ずかしくなりました。当然宿題は再提出。他の学生と似たようにならないように作成に苦戦したことを思い出しました。
正しく聞き、意図するところを読み解き、指示に従ったことを行う。当たり前のことですが案外私たちはそのいずれかを見誤り失敗してしまいます。
信仰も同じなのかもしれません。一見私たちの信仰は何でも仲間と分かち合い、慰めあい、協働することが大切とされているように感じますが、終末に向けての私たちは一人一人の信仰が問われ、誰も助けてくれないということです。ですから神様の前で緊張感をもって自分の信仰を問うていかなければなりません。
今日の聖書では教会で生きるためにも、また仲間と分かち合うためにも自分の中でしっかりと自己を見つめ、神様との関わりを確認することに重きが置かれているように感じます。
神様の前で賢者は何でもその場ですぐに公にはせず、約束せずに一度隠し、企てを考え準備をしてから望むという向き合い方が示されています。すなわち個人の準備の大切さです。にわかな情報に踊らされることなく、誰かから教わるのではなく、自らしっかりと準備することの大切さが問われています。そしてその為には何が大切なのか、何を隠しておくべきか、その価値を知るためには、神様の価値観を知らなければなりません。なぜならば隠して帰ってもそれは無駄な努力かもしれないからです。また一度帰り十分な準備を行うにしても、どんな準備が必要かわかりません。何を語っているのかをしっかりと読み解く力が必要です。そしてその力が神様の助けが無ければ理解することはできませんので、父と子と聖霊の交わりの中でそれらを理解していく必要があるため、神様そのものを知る必要があります。自分の読み方や理解の仕方ではなく、正しい信仰は弟子たちから与えられ私たちに引き継がれています。そして私たちはそれを次に伝える使命も与えられています。たとえ話で福音が語られているのは弟子とその後継者にその使命が与えられている証拠です。その為には私たちはしっかりと聖書を読み進めていくことが大切です。しかしその前提となっているのは、私たち一人一人はそのために神様よりまず選ばれた者とされたことです。こんな自分でも神様は使命を行う者として呼んでくださっている。これこそ召命の光です。
神様に恥ずかしくない準備を行い、つたなくても丁寧にその使命を担っていく為に祝福を受けて今日も派遣されて行きましょう。』
2020年7月26日日曜日
2020年7月19日日曜日
年間第16主日
A年 第16主日の福音朗読は、マタイ13章24-30「毒麦のたとえ」です。
世の終わりには、毒麦(悪い者)は選別され火で焼かれしまうという一見恐ろしい内容ですが、そこには限りない神のいつくしみと寛容を読み取ることができます。
この日の主日ミサは、勝谷司教様と松村神父様の共同司式により行われました。
司教様のお説教と、湯澤神父様からいただいた主日メッセージを併せてご紹介します。
【勝谷司教様お説教】
今日の福音を皆さんはどう読みますか。終わりの日に、「毒麦」は焼かれ、「麦」 は倉にいれられる。これを終わりの日の裁き、個人的な回心を求めるたとえと 読んではいないでしょうか。
今日の福音は、むしろ逆のことを言っています。たとえ悪人であっても、神 は忍耐をもってご覧になり、第一朗読にあるように「裁き」ではなく「寛容」 と「慈悲」を持っておのぞみになるのです。
この箇所を個人主義的に読んでは本来の意味を見落としてしまいます。今日 のメッセージは、書かれた当時も現代も「共同体」に向けられたメッセージで す。この話を私たちの社会や教会共同体に当てはめて考えてみてください。「な ぜあんな人がいるのか」、「この人さえいなければ...」。私たちは自分勝手な好み や独善的な正義感で人を裁いてしまう傾向があります。それが多数派になれば、 その人を排除しようとする動きも出てきます。「毒麦」を抜こうとする僕の姿は このように私たちの共同体にも良く見ることができます。
しかし、福音にも書かれている通り、実際は「毒麦」と「麦」の区別はつき にくいのです。あの人は「毒麦」だと思っても、その人から見ればあなたが「毒 麦」に見えているはずです。アウグスチヌスやフランシスコなど、私たちの知 る聖人の多くははじめのうち人々から「毒麦」と思われる人たちでした。実際、 だれが「自分は神の倉に入れられる『良い麦』だ」、などといえるでしょうか。 むしろ、自分を「良い麦」と考え、人を「毒麦」だと断罪し排斥しようとする 者こそ、イエスが「神の国」から遠いと指摘されたファリサイ人と同類である ことを知るべきでしょう。私たちの内、誰一人として完全な善人や絶対的な悪 人はいません。全ての人のうちに、毒麦も良い麦も存在するのです。全てを善 か悪か、白か黒かはっきりさせて裁いてしまおうとする態度はイエスが批判し た律法学者の態度なのです。
そう考えると、終わりのときの焼かれる毒麦のたとえは「恐ろしい裁き」で はなく、むしろ喜ばしい「救い」のメッセージであると気づきます。誰かが、 裁きを受けて焼き滅ぼされるのではなく、全ての人の中にある毒麦が取り除か れるのです。焼き尽くされるのは、私たちの中の「愛に反する心」で、この炎 を通して、私たちは純粋な愛の世界へと導きいれられるのです。自分の力では 克服できなかった悪への傾き、罪の現実が、神の愛の息吹と炎によってもみ殻 のように吹き飛ばされ、焼き尽くされるのです。残るのは、キリストを中心と して完全な愛の交わりに生きる「私たち」なのです。
【湯澤神父様メッセージ】
2020年7月19日 年間第16主日(マタイ、13章24~43節)
✚ Pax et Bonum
兄弟姉妹の皆様
今日の福音は、『マタイ福音書』にある五つの説教集の真ん中、第三の説教集からとられています。ここでは、天の国(神の国)の秘儀について語られています。皆さんもご存知の通り、「神の国」の「国」は、場所や国境に囲まれた地域を指す言葉ではありません。支配、統治といった意味です。つまり、天の国とは、神の国と同じことで、「神の統治、支配、その力が及んでいること」を意味しています。イスラエルの人たちは、かつてダビデがイスラエル全体と統治したような国をイメージしています。その完成、世の終わりには、神自身が全イスラエルと統治する国が実現すると思っていました。
しかし、イエス様の場合、少しニュアンスが異なります。先週の福音の「種蒔きのたとえ話し」を思い出してみましょう。一人ひとりの心に種が蒔かれ、様々な実りをもたらしました。福音の種のように、神の支配は、一人ひとりの心に及びます。神の支配を神の呼び掛けのようにイメージしてみましょう。神は、一人ひとりの心にその都度語り掛けます。その実りは、神の呼び掛けにその人が出すその人なりの応えと考えられます。従って、良い種が蒔かれたのに、毒麦が生えることもあることも分かります。神の支配は、力ずくで言うことを効かせるような意味での支配ではありません。呼びかけですから、どう応えるかは、応える人の自由に任せられることになります。
毒麦は、最初は小麦とほとんど見分けがつかないのですが、そのうち違いが表れ、収穫時にははっきりと違いが判るようになります。おそらくキリストの周りに集まった弟子たちの中にも、最初はよい弟子たちと違わなかったのに、だんだん本物ではない弟子が現れたのでしょう。マタイの時代の教会も同じだったのではないでしょうか。そんな時に、私たちはつい毒麦を排除したくなるものです。実際に排除という行動に移さなくても、裁いてしまうことがあります。しかし、イエス様は、判断するのは、つまり、裁くのは、父である神だと教えています。
ひとつおもしろい話があります。当時の人たちは、雨の日が続く年は、小麦が毒麦に変わると思っていたというのです。発育の差なのか原因は分かりませんが、そう思われていたのでしょう。小麦でさえ毒麦に変わるとしたら、まして人間も変わり得るでしょう。好ましい人が好ましくなく変わることもあり、その逆もあり得るわけです。だとしたらますます、早急に今判断し、裁くことは、小麦まで抜いてしまう危険性となり得ます。
そこで、私たちが目を向けるべきことは、私たち一人ひとりが自分の心に語り掛けるという形で、神の力が、神の支配が実現していることに気づくことです。そして、その都度、相応しい実りを実らせることが求められていることに気づくことです。どんな実を実らせるかは、私たち自身に任せられています。この説教集の最初と最後で同じ言葉が用いられています。「耳のある人は聞きなさい」。気づきを求める言葉といえるでしょう。
世の終わりには、毒麦(悪い者)は選別され火で焼かれしまうという一見恐ろしい内容ですが、そこには限りない神のいつくしみと寛容を読み取ることができます。
この日の主日ミサは、勝谷司教様と松村神父様の共同司式により行われました。
司教様のお説教と、湯澤神父様からいただいた主日メッセージを併せてご紹介します。
【勝谷司教様お説教】
今日の福音を皆さんはどう読みますか。終わりの日に、「毒麦」は焼かれ、「麦」 は倉にいれられる。これを終わりの日の裁き、個人的な回心を求めるたとえと 読んではいないでしょうか。
今日の福音は、むしろ逆のことを言っています。たとえ悪人であっても、神 は忍耐をもってご覧になり、第一朗読にあるように「裁き」ではなく「寛容」 と「慈悲」を持っておのぞみになるのです。
この箇所を個人主義的に読んでは本来の意味を見落としてしまいます。今日 のメッセージは、書かれた当時も現代も「共同体」に向けられたメッセージで す。この話を私たちの社会や教会共同体に当てはめて考えてみてください。「な ぜあんな人がいるのか」、「この人さえいなければ...」。私たちは自分勝手な好み や独善的な正義感で人を裁いてしまう傾向があります。それが多数派になれば、 その人を排除しようとする動きも出てきます。「毒麦」を抜こうとする僕の姿は このように私たちの共同体にも良く見ることができます。
しかし、福音にも書かれている通り、実際は「毒麦」と「麦」の区別はつき にくいのです。あの人は「毒麦」だと思っても、その人から見ればあなたが「毒 麦」に見えているはずです。アウグスチヌスやフランシスコなど、私たちの知 る聖人の多くははじめのうち人々から「毒麦」と思われる人たちでした。実際、 だれが「自分は神の倉に入れられる『良い麦』だ」、などといえるでしょうか。 むしろ、自分を「良い麦」と考え、人を「毒麦」だと断罪し排斥しようとする 者こそ、イエスが「神の国」から遠いと指摘されたファリサイ人と同類である ことを知るべきでしょう。私たちの内、誰一人として完全な善人や絶対的な悪 人はいません。全ての人のうちに、毒麦も良い麦も存在するのです。全てを善 か悪か、白か黒かはっきりさせて裁いてしまおうとする態度はイエスが批判し た律法学者の態度なのです。
そう考えると、終わりのときの焼かれる毒麦のたとえは「恐ろしい裁き」で はなく、むしろ喜ばしい「救い」のメッセージであると気づきます。誰かが、 裁きを受けて焼き滅ぼされるのではなく、全ての人の中にある毒麦が取り除か れるのです。焼き尽くされるのは、私たちの中の「愛に反する心」で、この炎 を通して、私たちは純粋な愛の世界へと導きいれられるのです。自分の力では 克服できなかった悪への傾き、罪の現実が、神の愛の息吹と炎によってもみ殻 のように吹き飛ばされ、焼き尽くされるのです。残るのは、キリストを中心と して完全な愛の交わりに生きる「私たち」なのです。
【湯澤神父様メッセージ】
2020年7月19日 年間第16主日(マタイ、13章24~43節)
✚ Pax et Bonum
兄弟姉妹の皆様
今日の福音は、『マタイ福音書』にある五つの説教集の真ん中、第三の説教集からとられています。ここでは、天の国(神の国)の秘儀について語られています。皆さんもご存知の通り、「神の国」の「国」は、場所や国境に囲まれた地域を指す言葉ではありません。支配、統治といった意味です。つまり、天の国とは、神の国と同じことで、「神の統治、支配、その力が及んでいること」を意味しています。イスラエルの人たちは、かつてダビデがイスラエル全体と統治したような国をイメージしています。その完成、世の終わりには、神自身が全イスラエルと統治する国が実現すると思っていました。
しかし、イエス様の場合、少しニュアンスが異なります。先週の福音の「種蒔きのたとえ話し」を思い出してみましょう。一人ひとりの心に種が蒔かれ、様々な実りをもたらしました。福音の種のように、神の支配は、一人ひとりの心に及びます。神の支配を神の呼び掛けのようにイメージしてみましょう。神は、一人ひとりの心にその都度語り掛けます。その実りは、神の呼び掛けにその人が出すその人なりの応えと考えられます。従って、良い種が蒔かれたのに、毒麦が生えることもあることも分かります。神の支配は、力ずくで言うことを効かせるような意味での支配ではありません。呼びかけですから、どう応えるかは、応える人の自由に任せられることになります。
毒麦は、最初は小麦とほとんど見分けがつかないのですが、そのうち違いが表れ、収穫時にははっきりと違いが判るようになります。おそらくキリストの周りに集まった弟子たちの中にも、最初はよい弟子たちと違わなかったのに、だんだん本物ではない弟子が現れたのでしょう。マタイの時代の教会も同じだったのではないでしょうか。そんな時に、私たちはつい毒麦を排除したくなるものです。実際に排除という行動に移さなくても、裁いてしまうことがあります。しかし、イエス様は、判断するのは、つまり、裁くのは、父である神だと教えています。
ひとつおもしろい話があります。当時の人たちは、雨の日が続く年は、小麦が毒麦に変わると思っていたというのです。発育の差なのか原因は分かりませんが、そう思われていたのでしょう。小麦でさえ毒麦に変わるとしたら、まして人間も変わり得るでしょう。好ましい人が好ましくなく変わることもあり、その逆もあり得るわけです。だとしたらますます、早急に今判断し、裁くことは、小麦まで抜いてしまう危険性となり得ます。
そこで、私たちが目を向けるべきことは、私たち一人ひとりが自分の心に語り掛けるという形で、神の力が、神の支配が実現していることに気づくことです。そして、その都度、相応しい実りを実らせることが求められていることに気づくことです。どんな実を実らせるかは、私たち自身に任せられています。この説教集の最初と最後で同じ言葉が用いられています。「耳のある人は聞きなさい」。気づきを求める言葉といえるでしょう。
2020年7月12日日曜日
7月12日(日)年間第15主日
この日の分散ミサはA地区対象でした。
松村神父様のお説教をご紹介します。
『今日の福音の中心的な言葉は「種」というものです。その「種」は第一朗読の中に書かれています。「私の口から出る私の言葉」、これが「種」に該当します。ですから、今日の第一朗読は本当に重要なところだと思います。神様の言葉をとおして私たちは、何を受け入れるか、受け止めることが出来るか考えてみたいと思います。
ニュースを見ていると、週刊誌もあれば新聞、テレビやネットのニュースなどいろいろ問題ある記事が出てきています。いろいろな課題があって、その中で叩かれる人がいます。芸能人しかり行政の方々しかり、それを私たちは鵜呑みにしています
ところで、最近はネットをとおしていろいろ弁明の機会が与えられています。本当か嘘かは分かりませんが、随分報道とは違うなということがたくさんあると思います。言葉全体の一部分だけ切り取られて、面白おかしく取り上げられていることも現実あります。真意、現実は分からないが、ニュースの半分近くはそんなことが多い感じです。私たちはそういったニュースを疑いの気持ちを持ちながらも、正しく評価出来ないといけないと思います。自分に良い耳をもつことの大事さ、ニュースを聞きながら感じさせられます。
聖書の世界も実は同じで、私たちどのようにして聖書の言葉を聴いているでしょうか
これがまず、今日私たちに与えられた課題のひとつです。時々私たちは苦しみに向けて神様の言葉を受けて、厳しいなとか、逆にこれは今の苦しんでいる自分にぴったりとか、思うときがあります。でも、2000年前に書かれた聖書が今の私のことを指しているのかと言うと、けっしてそうではないですね。もし、私のことを今の聖書が書いているのだとするなら、それは御利益的な信仰としてとらえていないだろうか。私の苦しみを慰める、逆に私の苦しみをさらに増す言葉は聖書は言ってないはずだ。このように、都合良く聖書を読み解いてしまう、そう言う危険性があります。
でも、私たちはこの約2000年前に書かれた聖書は、人類すべてが神様の恵みによって救われる。今日の福音の中にも、私たちは良い土が与えられている。先に土壌がしっかりと与えられている。そこに神様の種が投げかけられている。あなたたちならば、必ずこの種を、選ばれた者はこの種を成長させることが出来るのだ。絶対的な信頼が先にある。神様は先に私たちに救いを与えて、種の成長が出来る能力を与えてくださっている。私たちは無条件で喜んでいる。イエス様はそのようにして弟子たちを励まし、いろいろな艱難や苦難はあろうが、あなたたちであれば大丈夫、必ず希望がある。でも、そこにはすべて自分があたるとは限らない。波風はあるだろうし、大きな迫害はあるだろうし、苦しみもあるだろう。でも例えば、私たちが骨を折って完治したとき、折ったところの骨は丈夫になっているように、時には壁を私たちの成長のために与えてくださっている。病気も私たちがそれを乗り越えたときに、更に元気な身体になり、神にそのような免疫をつけるための、そういう(艱難や困難などの)壁を与えてくれている。あなたたちならば大丈夫と全面的な信頼と希望を神様はおいてくださっている。このことを忘れてしまうと、神様の言葉は私たちの日常生活の中で、ふらふらと都合良く神様の言葉を切り抜いて使ってしまう恐れがあります。私たちはこのような立派な土地をいただいた。問題は切り抜いていないだろうか。都合良く使っていないだろうか。または、聞きたくないと耳を塞いでいないだろうか。
私たちに与えらた種が、私たちの感性によって都合良く置き換えられてしまっている。
この聖書に対する私たちの向き合い方が、今日改めて問われています。だからこそイエス様は当時の弟子たちに向けて、救いたいと願う多くの人たちに向けられたまなざし、それはすでに用意はされている。あとはあなたたちの受け止め方なんだ。自分のご都合主義ではなくて、神様がまず救ってくださっていることを胸に秘めておかなければ、どんな言葉を投げかけても、結局自分の都合良く、その言葉を受け止めてしまっている。このことを気を付けなさいと言われているのです。
今日の聖書の後半は、初代教会の弟子たちが後から解釈を皆で再解釈し直して、書かれた聖書の箇所が付け加えられています。彼らもイエス様の言葉を最初から素直に理解したわけではありません。みんなで悩みながらイエス様の言葉を思い返して、やはり私たちには恵みが与えられていた。だけど私たちの姿勢が問われている。だからわざわざその解釈後世に向けて付け加えられた、そういう理解でいます。
どんなに私たちが神様によって選ばれて、救いの対象になっていったのか。その喜びから福音全体が私たちに投げかけられているし、私たち一人一人にまず種が投げかけられ、選ばれている。神様は変な種はまかない。最初から成長しないところに播くことはない。 私たちを選んでくださった喜びがありますが、改めて神様の言葉は本質的に何を言っているのか、確かに今聞く言葉は苦しいかもしれない、今日は喜びかもしれない。日によってころころと変わる。私たちの体調や気分、置かれる状況によって神様の言葉に対する 向き合い方が変わります。だけど大前提として、苦しいけれど私を救うために、今日私に言葉を投げかけてくださっている。神様に選ばれて救いに導かれようとしている。そのことに気づいた時、至らない私だけれど本質を深めていこう、理解していこう、そういった姿勢が大事になってきます。
今日の福音をとおして私たちは選ばれ、今日も種を植えられる。言葉を投げかけられる。
お早うと声を掛ける、お元気ですかと声を掛けられることと同じです。今日も信仰に生きてますか、と声を掛けられている。声を掛けられる喜び。私たちも今日その神様の言葉に、しっかりとその本質に気づきながら、真正面から応えていけるように、ミサの中で「神様ありがとう。」「今日、私を見てくださってありがとう。」と答えられるよう、感謝を捧げていきたいと思います。』
【レイ神父様の主日メッセージ】
栄光は私たちに現される
雨も雪も天から降れば大地を潤し、そして、それは作物、花、木々を天に向けて生い茂らせるという、素晴らしい比喩があります。神の霊感はその雨であり、雪であり、私たちの霊を受けた命には花が咲きます。このイメージは旧約聖書の中でも最も卓越したイザヤ書にある素晴らしい箇所、40-55章に納められており、イザヤは人類の未來に最高位の希望を抱いています。
聖パウロは憐れみによって与えられた恩恵を説明するのに、私たちは順応する精神と、神の相続人となる精神を与えられており、しかもキリストと共同の相続人であると宣言しました。さらに「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」とつづけます。今日の第二朗読の次の箇所で、パウロはそのことは十分価値のあることに成るだろう、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らないと私は思います」と言います。霊の働きとその恵みの賜物で完全に人間たちを改め、神が私たちに復活した体を与えられる時、私たちはキリストの姿に似たものを思い出します。彼は家族に最初に生まれる長子であり、その全てにはキリストのイメージがあります。
しかしながら、それは全て神のご意思でしょうか?完成された人間を荒廃した被造物の中に置くことが?回心した人間と、そうでない者との間で絶え間ない衝突がおこることでしょう。そこで創造主は反抗的なものたちだけではなく、全ての被造物にこの素晴らしい更新をすることに心を向けたのです。そこをパウロは「私はそう思う」と冷静に思慮深く結論しました。これは感情が高まった時の束の間の衝動的な思いではありません。冷静な思慮ある判断です。「現在の苦しみ(信者たちがキリストと共に耐えなければならない)は、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らないと私は思います」と言います。わたしたちの現在の苦しみは私たちのものとなる栄光の光の中で消え去るのです。
それからその栄光を表現しようと、パウロの集中は高まります。被造物の全ては私たちの精神の達成に寄与します。「被造物は、神の子供たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」言い換えますと、神の大切なものたち、彼らが実際は誰であるのかと、神の子供たちが示されるのです。主の栄光の命そのものを分かち合う輝く体、完全な精神と引き上げられたキリストの姿に似たものを完全に表すことが意図されているのです。
The glory to be revealed to us
松村神父様のお説教をご紹介します。
『今日の福音の中心的な言葉は「種」というものです。その「種」は第一朗読の中に書かれています。「私の口から出る私の言葉」、これが「種」に該当します。ですから、今日の第一朗読は本当に重要なところだと思います。神様の言葉をとおして私たちは、何を受け入れるか、受け止めることが出来るか考えてみたいと思います。
ニュースを見ていると、週刊誌もあれば新聞、テレビやネットのニュースなどいろいろ問題ある記事が出てきています。いろいろな課題があって、その中で叩かれる人がいます。芸能人しかり行政の方々しかり、それを私たちは鵜呑みにしています
ところで、最近はネットをとおしていろいろ弁明の機会が与えられています。本当か嘘かは分かりませんが、随分報道とは違うなということがたくさんあると思います。言葉全体の一部分だけ切り取られて、面白おかしく取り上げられていることも現実あります。真意、現実は分からないが、ニュースの半分近くはそんなことが多い感じです。私たちはそういったニュースを疑いの気持ちを持ちながらも、正しく評価出来ないといけないと思います。自分に良い耳をもつことの大事さ、ニュースを聞きながら感じさせられます。
聖書の世界も実は同じで、私たちどのようにして聖書の言葉を聴いているでしょうか
これがまず、今日私たちに与えられた課題のひとつです。時々私たちは苦しみに向けて神様の言葉を受けて、厳しいなとか、逆にこれは今の苦しんでいる自分にぴったりとか、思うときがあります。でも、2000年前に書かれた聖書が今の私のことを指しているのかと言うと、けっしてそうではないですね。もし、私のことを今の聖書が書いているのだとするなら、それは御利益的な信仰としてとらえていないだろうか。私の苦しみを慰める、逆に私の苦しみをさらに増す言葉は聖書は言ってないはずだ。このように、都合良く聖書を読み解いてしまう、そう言う危険性があります。
でも、私たちはこの約2000年前に書かれた聖書は、人類すべてが神様の恵みによって救われる。今日の福音の中にも、私たちは良い土が与えられている。先に土壌がしっかりと与えられている。そこに神様の種が投げかけられている。あなたたちならば、必ずこの種を、選ばれた者はこの種を成長させることが出来るのだ。絶対的な信頼が先にある。神様は先に私たちに救いを与えて、種の成長が出来る能力を与えてくださっている。私たちは無条件で喜んでいる。イエス様はそのようにして弟子たちを励まし、いろいろな艱難や苦難はあろうが、あなたたちであれば大丈夫、必ず希望がある。でも、そこにはすべて自分があたるとは限らない。波風はあるだろうし、大きな迫害はあるだろうし、苦しみもあるだろう。でも例えば、私たちが骨を折って完治したとき、折ったところの骨は丈夫になっているように、時には壁を私たちの成長のために与えてくださっている。病気も私たちがそれを乗り越えたときに、更に元気な身体になり、神にそのような免疫をつけるための、そういう(艱難や困難などの)壁を与えてくれている。あなたたちならば大丈夫と全面的な信頼と希望を神様はおいてくださっている。このことを忘れてしまうと、神様の言葉は私たちの日常生活の中で、ふらふらと都合良く神様の言葉を切り抜いて使ってしまう恐れがあります。私たちはこのような立派な土地をいただいた。問題は切り抜いていないだろうか。都合良く使っていないだろうか。または、聞きたくないと耳を塞いでいないだろうか。
私たちに与えらた種が、私たちの感性によって都合良く置き換えられてしまっている。
この聖書に対する私たちの向き合い方が、今日改めて問われています。だからこそイエス様は当時の弟子たちに向けて、救いたいと願う多くの人たちに向けられたまなざし、それはすでに用意はされている。あとはあなたたちの受け止め方なんだ。自分のご都合主義ではなくて、神様がまず救ってくださっていることを胸に秘めておかなければ、どんな言葉を投げかけても、結局自分の都合良く、その言葉を受け止めてしまっている。このことを気を付けなさいと言われているのです。
今日の聖書の後半は、初代教会の弟子たちが後から解釈を皆で再解釈し直して、書かれた聖書の箇所が付け加えられています。彼らもイエス様の言葉を最初から素直に理解したわけではありません。みんなで悩みながらイエス様の言葉を思い返して、やはり私たちには恵みが与えられていた。だけど私たちの姿勢が問われている。だからわざわざその解釈後世に向けて付け加えられた、そういう理解でいます。
どんなに私たちが神様によって選ばれて、救いの対象になっていったのか。その喜びから福音全体が私たちに投げかけられているし、私たち一人一人にまず種が投げかけられ、選ばれている。神様は変な種はまかない。最初から成長しないところに播くことはない。 私たちを選んでくださった喜びがありますが、改めて神様の言葉は本質的に何を言っているのか、確かに今聞く言葉は苦しいかもしれない、今日は喜びかもしれない。日によってころころと変わる。私たちの体調や気分、置かれる状況によって神様の言葉に対する 向き合い方が変わります。だけど大前提として、苦しいけれど私を救うために、今日私に言葉を投げかけてくださっている。神様に選ばれて救いに導かれようとしている。そのことに気づいた時、至らない私だけれど本質を深めていこう、理解していこう、そういった姿勢が大事になってきます。
今日の福音をとおして私たちは選ばれ、今日も種を植えられる。言葉を投げかけられる。
お早うと声を掛ける、お元気ですかと声を掛けられることと同じです。今日も信仰に生きてますか、と声を掛けられている。声を掛けられる喜び。私たちも今日その神様の言葉に、しっかりとその本質に気づきながら、真正面から応えていけるように、ミサの中で「神様ありがとう。」「今日、私を見てくださってありがとう。」と答えられるよう、感謝を捧げていきたいと思います。』
【レイ神父様の主日メッセージ】
栄光は私たちに現される
雨も雪も天から降れば大地を潤し、そして、それは作物、花、木々を天に向けて生い茂らせるという、素晴らしい比喩があります。神の霊感はその雨であり、雪であり、私たちの霊を受けた命には花が咲きます。このイメージは旧約聖書の中でも最も卓越したイザヤ書にある素晴らしい箇所、40-55章に納められており、イザヤは人類の未來に最高位の希望を抱いています。
聖パウロは憐れみによって与えられた恩恵を説明するのに、私たちは順応する精神と、神の相続人となる精神を与えられており、しかもキリストと共同の相続人であると宣言しました。さらに「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」とつづけます。今日の第二朗読の次の箇所で、パウロはそのことは十分価値のあることに成るだろう、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らないと私は思います」と言います。霊の働きとその恵みの賜物で完全に人間たちを改め、神が私たちに復活した体を与えられる時、私たちはキリストの姿に似たものを思い出します。彼は家族に最初に生まれる長子であり、その全てにはキリストのイメージがあります。
しかしながら、それは全て神のご意思でしょうか?完成された人間を荒廃した被造物の中に置くことが?回心した人間と、そうでない者との間で絶え間ない衝突がおこることでしょう。そこで創造主は反抗的なものたちだけではなく、全ての被造物にこの素晴らしい更新をすることに心を向けたのです。そこをパウロは「私はそう思う」と冷静に思慮深く結論しました。これは感情が高まった時の束の間の衝動的な思いではありません。冷静な思慮ある判断です。「現在の苦しみ(信者たちがキリストと共に耐えなければならない)は、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らないと私は思います」と言います。わたしたちの現在の苦しみは私たちのものとなる栄光の光の中で消え去るのです。
それからその栄光を表現しようと、パウロの集中は高まります。被造物の全ては私たちの精神の達成に寄与します。「被造物は、神の子供たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」言い換えますと、神の大切なものたち、彼らが実際は誰であるのかと、神の子供たちが示されるのです。主の栄光の命そのものを分かち合う輝く体、完全な精神と引き上げられたキリストの姿に似たものを完全に表すことが意図されているのです。
The glory to be revealed to us
We have heard the strong metaphor about
how the rain and snow, falling from the sky and soaking the earth, then rise
towards heaven as plants, flowers and trees. Divine inspiration is the rain and
snow, our inspired lives are the blossoming plants. This image concludes the
great section of Isaiah 40-55, some of the most sublime literature of the Old
Testament. He has the highest of hopes for the future of humanity
St Paul , in explaining the privileges
conferred on by grace, has declared that we are given the spirit of adoption,
and are given the spirit of heirs and joint heirs with Christ. He adds a qualifying
phrase, “provided that we suffer with him, that we may be also glorified with
him.” In the following verse, from today’s second Reading, he estimates that it
will all have been well worthwhile. “I reckon that the sufferings of this
present time are not worthy to be compared with the glory which shall be
revealed to us.” By the gift of the Spirit and the operations of the Spirit in
renewing human beings from the inside out, when God gives us our resurrected
bodies, we shall reflect the likeness of Christ. He will be the Firstborn, the
elder Brother in the family, all of which bear His image.
But is that all God’s willed to do: put a
perfected humanity into a blighted creation? There would be a constant clash
between restored humanity and unrestored creation! So, our Creator has set his
heart not only on this marvelous renewal of rebellious mankind, but of the
whole of creation. Where Paul says “I reckon,” this is his sober, reflective
conclusion. This is not a transient, capricious thought he had in a moment of
heightened, emotional fervor. This is his sober, reflective judgment: “That the
sufferings of the present time [that believers have to bear in union with
Christ] are not worthy to be compared with the glory which shall be revealed to
us.” Our present sufferings will pale away in the light of the glory that is to
be ours.
Then in trying to describe that glory,
Paul’s focus shifts. The whole of creation is contributing to our spiritual
fulfillment. “For the earnest expectation of the creation waits for the
revealing of the children of God.” In other words, the children of God will be
shown for who they really are, God’s precious ones, intended to perfectly
reflect the likeness of Christ with perfected spirits and risen, glorified
bodies that will share the very life of our Lord’s glory.
2020年7月5日日曜日
年間第14主日ミサ
この日の主日ミサは、松村神父様と佐藤神父様の共同司式により行われました。
この日はD地区が対象でした。今回でミサが再開されてから全4地区が一巡したことになります。待ちに待った方もいらっしゃったことでしょう。
次週からはまた、A地区から順番に廻ることになります。
松村神父様のお説教を紹介します。
『今日のお話は私たち良く知っている聖書の箇所です。その中で重箱の隅を突っつくような話しをしたいと思います。
『ある幼稚園で男の子が園庭の隅で背中を地面につけバタバタしていました。お友達がやって来て、○○ちゃんあっち行こうよ、立ちなよと声をかけるのです。それでも機嫌が悪かったのか全然立とうとしなかった。そこで先生がやって来て、そんな横になっていたら泥だらけになってしまうよ、教室に戻りましょうねと、一生懸命声を掛けるのです。でも虫の居所が悪いのか、バタバタしているのです。そんなところに一人の女の子が駆け寄って行って、声を掛ける前に自分もゴロンと横になったのです。そして、何してるのと声を掛けたのです。男の子の口から応えはなかなか出てこなかったけれど、でもバタバタはやめて、何となく空を見ながら、いっしょに「お空青いね」「うーん」とやっと返事をしました。』
この話しは時々、いろいろな所でするのですが、たいした話しではないですね。だけど、この一連の流れの中に、とても大事な要素が隠されているのです。最初にお話ししたお友達や先生たちはある意味「知識」の中で、「体験」の中でこうした方が良い、ああした方が良い、こうすべきだ、ああすべきだと。背中はそのままだと汚れる、体験でしょうね。
立って教室に戻りましょう、それはルールですね。知識の中にその男の子を立たせようとする。でも女の子は知識はどうでも良かった。何してるのとその人に寄り添う、ひとつの姿。寄り添った意識があるかどうかは別として。その男の子の元にまずを心を読み解こうと。自分も興味本位だったかもしれない、何か見えるのかなと。これは知識ではなく、人間が元々持つ「知恵」だと思うのです。
今日の福音の中で、知恵ある者、賢い者とはイエスからしてみたら律法学者のことを指しています。つまり歴史的な体験、習慣、知識、そういうもので人々を迫害していた。この時代には女子、子供は悪い言い方をすると無能力者という言い方をしていました。能力の無い者だから、律法に贖うことは出来ない存在、そして非常に差別をしていました。知識がある者、伝統を重んじる者こそ素晴らしい。でもイエス様の考え方はまったく違いますね。幼子のような者にお示しになりました。それは元々神様から私たち一人一人いただいた、神の知恵なんです。神の知恵とは何かというとイエスそのものなのです。どのようなものであったのか。ともに歩む者。インマニエル。あなたとともに歩む者。けっして勉強とか、経験とかが力強い世界ではない。もっともっと「感性」の世界。「知恵」の世界。そんなところに今日の福音はポイントをおいているように感じます。
私たちが社会の中で生きようとするときに、人間同士でうまくいくようにするために、いっしょに学んだり、考えたりするわけです。そして人の上に立とうとするために、一生懸命に知識を頭の中に詰め込んでいこうとする。けっしてそれは悪いことではないです。でも同時に、私たちはそれに支配されていないだろうか。イエス様の重荷は、そういうたくさん詰め込むいろいろな学習ではなくて、ごろんと寝転ぶ重荷なんだ。机の上で一生懸命勉強する、または一生懸命経験を積む、そういう重荷ではなくて、ごろんと寝転んで何してるのと聞く、そういう感性をイエス様の重荷である。そういう知恵を私たちは持てるのか。今日は私たち一人一人にその疑問を投げかけています。
違うもので満たされていないだろうか、でももっと根本的に私たち誰もが持っている、人といっしょに手を取り合って歩もうとするその心。そのものがイエスの重荷であるからこそ実は非常に軽い。でもそれはけっして重荷であることは確かである。イエスの重荷はすでに私たち一人一人が持っているもの、それを敢えて心からそれを使おうとするか。でも、そういうものよりも優先されるべきものが、私たちこの社会の中で忙しい中でどんどん詰め込まれていって、いつのまにか積み重ねていくことの大事さが優先されてしまう。でもだれもが持っている神の知恵というものを私たちはもう一度しっかり見つめ直し、一人一人に与えられたともに 歩む、ともに寄り添う、そういう姿に私たちはもう一度心を向けていかなければならない。実際に心を向けてともに歩むといっても、そんなに力を私たち一人一人力を持っているわけではない。だからこそ一人で出来ないので、たくさんの仲間とともに、ともに歩みその中で新たな知恵を見いだして、僅かな力を積み上げていきながら、多くの人たちへの支えとなっていく共同体になっていければと念願するわけです。
イエスの荷は軽い。でも、イエスの荷は私たちの中にあることを気づかずに忘れてしまうことがある。一番恐るべきことかなと思います。
このコロナの状況の中で、まだまだ苦労しているたくさんの医療従事者をはじめ、実際にこのコロナに罹った人々がおられます。原因とかいろんな問題を突き詰めていくと、それはいろんな課題があるかもしれませんが、でも実際に魘されている人たちがいる。 そこに私たちは心を裂いて祈り、何かの支えが出来ないか。また、ミサの冒頭に話したように熊本や鹿児島、または世界に目を広げていけば難民の問題であったり、日本の中においても外国籍の方々の労働の問題であったり、いろんな課題が山積みになっています。実際に何が出来るのか、それはひとつひとつ違いますが、まず私たちが心を寄せることの重要性、そこに心を委ねることの大事さ。幼子のような者に示したというのは、かわいそうだなと心が割れんばかりに思うかどうか。
そう言う意味では日頃のニュースを見ながら、特に私たちの心がぐるっと動くのか。ギリシア語では「哀れにおもう」を「スプランクニゾマイ」と言う言葉を使いますが、はらわたが動くような悲しみがこの世界の中にたくさんある。たぶんそうだなと子供のように思える、そのことにもう一度私たちは目を向けて、そこに今神様が目を向けなさい受けと言っておられる。そこに共同体としての仲間たち、兄弟たち、姉妹たち、自分の家族のように思えるのか。教皇フランシスコが「全地球家族」という言い方をしていますが、すべての人々が私たちの家族であるともう一度思いおこしながら、幼子のような心を私たち持っていますがもう一度目覚め、そしてイエスがそこに気づこうと今日呼びかけておられることに耳を傾けていきたいと思います。
時々、その対象は私自身になることもあります。他者になることもある。自分が渦中に巻き込まれることもあると思います。渦中に巻き込まれたときに、多くの人たちの祈りがある。そう感じたときの大きな心。強い応援を感じるならば、私たちも今元気なときには、今苦しんでいる人のために、心をしっかり傾けることが出来るか問われていると思います。幼子のような私たちになっていけることが出来るように、このミサの中で改めて、律法学者にならない、一人一人の心に寄り添うその感性を磨いて、その気づきを与えていただけるように、聖霊の促しを願って御ミサを続けていきたいと思います。』
この日はD地区が対象でした。今回でミサが再開されてから全4地区が一巡したことになります。待ちに待った方もいらっしゃったことでしょう。
次週からはまた、A地区から順番に廻ることになります。
松村神父様のお説教を紹介します。
『今日のお話は私たち良く知っている聖書の箇所です。その中で重箱の隅を突っつくような話しをしたいと思います。
『ある幼稚園で男の子が園庭の隅で背中を地面につけバタバタしていました。お友達がやって来て、○○ちゃんあっち行こうよ、立ちなよと声をかけるのです。それでも機嫌が悪かったのか全然立とうとしなかった。そこで先生がやって来て、そんな横になっていたら泥だらけになってしまうよ、教室に戻りましょうねと、一生懸命声を掛けるのです。でも虫の居所が悪いのか、バタバタしているのです。そんなところに一人の女の子が駆け寄って行って、声を掛ける前に自分もゴロンと横になったのです。そして、何してるのと声を掛けたのです。男の子の口から応えはなかなか出てこなかったけれど、でもバタバタはやめて、何となく空を見ながら、いっしょに「お空青いね」「うーん」とやっと返事をしました。』
この話しは時々、いろいろな所でするのですが、たいした話しではないですね。だけど、この一連の流れの中に、とても大事な要素が隠されているのです。最初にお話ししたお友達や先生たちはある意味「知識」の中で、「体験」の中でこうした方が良い、ああした方が良い、こうすべきだ、ああすべきだと。背中はそのままだと汚れる、体験でしょうね。
立って教室に戻りましょう、それはルールですね。知識の中にその男の子を立たせようとする。でも女の子は知識はどうでも良かった。何してるのとその人に寄り添う、ひとつの姿。寄り添った意識があるかどうかは別として。その男の子の元にまずを心を読み解こうと。自分も興味本位だったかもしれない、何か見えるのかなと。これは知識ではなく、人間が元々持つ「知恵」だと思うのです。
今日の福音の中で、知恵ある者、賢い者とはイエスからしてみたら律法学者のことを指しています。つまり歴史的な体験、習慣、知識、そういうもので人々を迫害していた。この時代には女子、子供は悪い言い方をすると無能力者という言い方をしていました。能力の無い者だから、律法に贖うことは出来ない存在、そして非常に差別をしていました。知識がある者、伝統を重んじる者こそ素晴らしい。でもイエス様の考え方はまったく違いますね。幼子のような者にお示しになりました。それは元々神様から私たち一人一人いただいた、神の知恵なんです。神の知恵とは何かというとイエスそのものなのです。どのようなものであったのか。ともに歩む者。インマニエル。あなたとともに歩む者。けっして勉強とか、経験とかが力強い世界ではない。もっともっと「感性」の世界。「知恵」の世界。そんなところに今日の福音はポイントをおいているように感じます。
私たちが社会の中で生きようとするときに、人間同士でうまくいくようにするために、いっしょに学んだり、考えたりするわけです。そして人の上に立とうとするために、一生懸命に知識を頭の中に詰め込んでいこうとする。けっしてそれは悪いことではないです。でも同時に、私たちはそれに支配されていないだろうか。イエス様の重荷は、そういうたくさん詰め込むいろいろな学習ではなくて、ごろんと寝転ぶ重荷なんだ。机の上で一生懸命勉強する、または一生懸命経験を積む、そういう重荷ではなくて、ごろんと寝転んで何してるのと聞く、そういう感性をイエス様の重荷である。そういう知恵を私たちは持てるのか。今日は私たち一人一人にその疑問を投げかけています。
違うもので満たされていないだろうか、でももっと根本的に私たち誰もが持っている、人といっしょに手を取り合って歩もうとするその心。そのものがイエスの重荷であるからこそ実は非常に軽い。でもそれはけっして重荷であることは確かである。イエスの重荷はすでに私たち一人一人が持っているもの、それを敢えて心からそれを使おうとするか。でも、そういうものよりも優先されるべきものが、私たちこの社会の中で忙しい中でどんどん詰め込まれていって、いつのまにか積み重ねていくことの大事さが優先されてしまう。でもだれもが持っている神の知恵というものを私たちはもう一度しっかり見つめ直し、一人一人に与えられたともに 歩む、ともに寄り添う、そういう姿に私たちはもう一度心を向けていかなければならない。実際に心を向けてともに歩むといっても、そんなに力を私たち一人一人力を持っているわけではない。だからこそ一人で出来ないので、たくさんの仲間とともに、ともに歩みその中で新たな知恵を見いだして、僅かな力を積み上げていきながら、多くの人たちへの支えとなっていく共同体になっていければと念願するわけです。
イエスの荷は軽い。でも、イエスの荷は私たちの中にあることを気づかずに忘れてしまうことがある。一番恐るべきことかなと思います。
このコロナの状況の中で、まだまだ苦労しているたくさんの医療従事者をはじめ、実際にこのコロナに罹った人々がおられます。原因とかいろんな問題を突き詰めていくと、それはいろんな課題があるかもしれませんが、でも実際に魘されている人たちがいる。 そこに私たちは心を裂いて祈り、何かの支えが出来ないか。また、ミサの冒頭に話したように熊本や鹿児島、または世界に目を広げていけば難民の問題であったり、日本の中においても外国籍の方々の労働の問題であったり、いろんな課題が山積みになっています。実際に何が出来るのか、それはひとつひとつ違いますが、まず私たちが心を寄せることの重要性、そこに心を委ねることの大事さ。幼子のような者に示したというのは、かわいそうだなと心が割れんばかりに思うかどうか。
そう言う意味では日頃のニュースを見ながら、特に私たちの心がぐるっと動くのか。ギリシア語では「哀れにおもう」を「スプランクニゾマイ」と言う言葉を使いますが、はらわたが動くような悲しみがこの世界の中にたくさんある。たぶんそうだなと子供のように思える、そのことにもう一度私たちは目を向けて、そこに今神様が目を向けなさい受けと言っておられる。そこに共同体としての仲間たち、兄弟たち、姉妹たち、自分の家族のように思えるのか。教皇フランシスコが「全地球家族」という言い方をしていますが、すべての人々が私たちの家族であるともう一度思いおこしながら、幼子のような心を私たち持っていますがもう一度目覚め、そしてイエスがそこに気づこうと今日呼びかけておられることに耳を傾けていきたいと思います。
時々、その対象は私自身になることもあります。他者になることもある。自分が渦中に巻き込まれることもあると思います。渦中に巻き込まれたときに、多くの人たちの祈りがある。そう感じたときの大きな心。強い応援を感じるならば、私たちも今元気なときには、今苦しんでいる人のために、心をしっかり傾けることが出来るか問われていると思います。幼子のような私たちになっていけることが出来るように、このミサの中で改めて、律法学者にならない、一人一人の心に寄り添うその感性を磨いて、その気づきを与えていただけるように、聖霊の促しを願って御ミサを続けていきたいと思います。』
年間第14主日
場崎神父様から、主日のメッセージが届いています。
ご紹介します。
(北26条教会HPより_2014)
見よ、あなたの王が来る。……高ぶることなく、ろばに乗ってく来る(ゼカリヤ9・9より)
年間第14主日(2020年7月5日)。福音朗読(マタイ11・25~30)説教のヒント
場﨑 洋 神父
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)。今日の福音のことばです。軛とは牛車や荷物、あるいは畑を耕す農機具を牛に引かせるときに使う、首に掛ける横木です。二頭以上の場合は力が分散させないように固定させます。イエスはお育ちになった環境のなかで、牛の首に掛けてある軛を注視しながらいつも気の毒に思っていました。動くたびに重圧がかかり、擦れて痛みます。かえって牛にストレスを与えて傷つけてしまいます。イエスはその苦しみを人間の苦しみと重ね合わせながら、生きていく霊的方向と霊的力の術(すべ)を教えようとされます。わたしたちに迫りくる、困難、逆境、病気、老い、罪という軛をどのように担い、どのように歩んでいかなくてはならないでしょうか。
社会の中でもっとも基本となる共同体は家族です。家族の中で一番弱い絆は夫婦です。もともと夫婦には血のつながりがありません。夫婦は誓約によって新しい絆が結ばれます。しかし、その絆は軛となって襲ってきます。これほどまでに荷が重く、疲れてしまうものだと溜息がつくほどです。そこには相手を支配しようという力が働き、そう思えば思うほど絆は重い軛に変わってしまいます。軛は家族単位から社会生活における関係性のなかで現れます。人間は肉と精神と魂を持っている限り、自分のエゴ、自分の病気、自分の老いと対峙しながらそれぞれの軛を担うことになります。
イエスは私たちに新しい軛の存在をお教えになります。「わたしの軛は負いやすく、荷は軽いからである」(11:30)。ここで申し上げなくてはなりません。軛は負う必要はないということではありません。軛は自分で負わなければなりません。しかし、負うのはあなた一人ではないということです。その答えは今日の福音の冒頭のところにあります。「・・・これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(11:25)。軛でもって疲れている者、重荷となっている者は自分の高慢とおごりという知識(軛)を捨てて、幼子の心になるということです。それは赦しです。赦しによって、軛の締め付けが緩んだり、引っ張られたりする力が弱められたりして、荷は軽くなるのです。それは幼子(御子)のように母親(御父)にすべてを委ねることです。ですからイエスの言われる軛はイエスと共に担う軛なのです。軛によって苦しむのであれば赦しによって苦しみの軛から解き放たれていくのです。生きていく以上、すべての苦しみから逃れられません。しかしイエスが共に担ってくだることにより、軛は負いやすく、荷は軽くなるのです。そこでイエスは新しいいのちの息を送られて私たちの体と魂を休ませてくださるのです。主はエスコート(同伴)してくださるのです。「神の霊があなたがたの内に宿っている限り、あなたがたは肉ではなく、霊の支配下にあります」(第二朗読:ロマ8・9)。すべては「私の意志の実現ではなく、私を通しての主の実現です」。主の霊は主が示される柔和で謙遜な軛を通して各々の個性を磨き、いのちの泉を湧き上がらせてくださるのです。
ご紹介します。
(北26条教会HPより_2014)
見よ、あなたの王が来る。……高ぶることなく、ろばに乗ってく来る(ゼカリヤ9・9より)
年間第14主日(2020年7月5日)。福音朗読(マタイ11・25~30)説教のヒント
場﨑 洋 神父
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)。今日の福音のことばです。軛とは牛車や荷物、あるいは畑を耕す農機具を牛に引かせるときに使う、首に掛ける横木です。二頭以上の場合は力が分散させないように固定させます。イエスはお育ちになった環境のなかで、牛の首に掛けてある軛を注視しながらいつも気の毒に思っていました。動くたびに重圧がかかり、擦れて痛みます。かえって牛にストレスを与えて傷つけてしまいます。イエスはその苦しみを人間の苦しみと重ね合わせながら、生きていく霊的方向と霊的力の術(すべ)を教えようとされます。わたしたちに迫りくる、困難、逆境、病気、老い、罪という軛をどのように担い、どのように歩んでいかなくてはならないでしょうか。
社会の中でもっとも基本となる共同体は家族です。家族の中で一番弱い絆は夫婦です。もともと夫婦には血のつながりがありません。夫婦は誓約によって新しい絆が結ばれます。しかし、その絆は軛となって襲ってきます。これほどまでに荷が重く、疲れてしまうものだと溜息がつくほどです。そこには相手を支配しようという力が働き、そう思えば思うほど絆は重い軛に変わってしまいます。軛は家族単位から社会生活における関係性のなかで現れます。人間は肉と精神と魂を持っている限り、自分のエゴ、自分の病気、自分の老いと対峙しながらそれぞれの軛を担うことになります。
イエスは私たちに新しい軛の存在をお教えになります。「わたしの軛は負いやすく、荷は軽いからである」(11:30)。ここで申し上げなくてはなりません。軛は負う必要はないということではありません。軛は自分で負わなければなりません。しかし、負うのはあなた一人ではないということです。その答えは今日の福音の冒頭のところにあります。「・・・これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(11:25)。軛でもって疲れている者、重荷となっている者は自分の高慢とおごりという知識(軛)を捨てて、幼子の心になるということです。それは赦しです。赦しによって、軛の締め付けが緩んだり、引っ張られたりする力が弱められたりして、荷は軽くなるのです。それは幼子(御子)のように母親(御父)にすべてを委ねることです。ですからイエスの言われる軛はイエスと共に担う軛なのです。軛によって苦しむのであれば赦しによって苦しみの軛から解き放たれていくのです。生きていく以上、すべての苦しみから逃れられません。しかしイエスが共に担ってくだることにより、軛は負いやすく、荷は軽くなるのです。そこでイエスは新しいいのちの息を送られて私たちの体と魂を休ませてくださるのです。主はエスコート(同伴)してくださるのです。「神の霊があなたがたの内に宿っている限り、あなたがたは肉ではなく、霊の支配下にあります」(第二朗読:ロマ8・9)。すべては「私の意志の実現ではなく、私を通しての主の実現です」。主の霊は主が示される柔和で謙遜な軛を通して各々の個性を磨き、いのちの泉を湧き上がらせてくださるのです。
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