2020年7月12日日曜日

7月12日(日)年間第15主日

この日の分散ミサはA地区対象でした。
松村神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音の中心的な言葉は「種」というものです。その「種」は第一朗読の中に書かれています。「私の口から出る私の言葉」、これが「種」に該当します。ですから、今日の第一朗読は本当に重要なところだと思います。神様の言葉をとおして私たちは、何を受け入れるか、受け止めることが出来るか考えてみたいと思います。
 
 ニュースを見ていると、週刊誌もあれば新聞、テレビやネットのニュースなどいろいろ問題ある記事が出てきています。いろいろな課題があって、その中で叩かれる人がいます。芸能人しかり行政の方々しかり、それを私たちは鵜呑みにしています 
  ところで、最近はネットをとおしていろいろ弁明の機会が与えられています。本当か嘘かは分かりませんが、随分報道とは違うなということがたくさんあると思います。言葉全体の一部分だけ切り取られて、面白おかしく取り上げられていることも現実あります。真意、現実は分からないが、ニュースの半分近くはそんなことが多い感じです。私たちはそういったニュースを疑いの気持ちを持ちながらも、正しく評価出来ないといけないと思います。自分に良い耳をもつことの大事さ、ニュースを聞きながら感じさせられます。 

 聖書の世界も実は同じで、私たちどのようにして聖書の言葉を聴いているでしょうか
これがまず、今日私たちに与えられた課題のひとつです。時々私たちは苦しみに向けて神様の言葉を受けて、厳しいなとか、逆にこれは今の苦しんでいる自分にぴったりとか、思うときがあります。でも、2000年前に書かれた聖書が今の私のことを指しているのかと言うと、けっしてそうではないですね。もし、私のことを今の聖書が書いているのだとするなら、それは御利益的な信仰としてとらえていないだろうか。私の苦しみを慰める、逆に私の苦しみをさらに増す言葉は聖書は言ってないはずだ。このように、都合良く聖書を読み解いてしまう、そう言う危険性があります。
 でも、私たちはこの約2000年前に書かれた聖書は、人類すべてが神様の恵みによって救われる。今日の福音の中にも、私たちは良い土が与えられている。先に土壌がしっかりと与えられている。そこに神様の種が投げかけられている。あなたたちならば、必ずこの種を、選ばれた者はこの種を成長させることが出来るのだ。絶対的な信頼が先にある。神様は先に私たちに救いを与えて、種の成長が出来る能力を与えてくださっている。私たちは無条件で喜んでいる。イエス様はそのようにして弟子たちを励まし、いろいろな艱難や苦難はあろうが、あなたたちであれば大丈夫、必ず希望がある。でも、そこにはすべて自分があたるとは限らない。波風はあるだろうし、大きな迫害はあるだろうし、苦しみもあるだろう。でも例えば、私たちが骨を折って完治したとき、折ったところの骨は丈夫になっているように、時には壁を私たちの成長のために与えてくださっている。病気も私たちがそれを乗り越えたときに、更に元気な身体になり、神にそのような免疫をつけるための、そういう(艱難や困難などの)壁を与えてくれている。あなたたちならば大丈夫と全面的な信頼と希望を神様はおいてくださっている。このことを忘れてしまうと、神様の言葉は私たちの日常生活の中で、ふらふらと都合良く神様の言葉を切り抜いて使ってしまう恐れがあります。私たちはこのような立派な土地をいただいた。問題は切り抜いていないだろうか。都合良く使っていないだろうか。または、聞きたくないと耳を塞いでいないだろうか。
 私たちに与えらた種が、私たちの感性によって都合良く置き換えられてしまっている。
この聖書に対する私たちの向き合い方が、今日改めて問われています。だからこそイエス様は当時の弟子たちに向けて、救いたいと願う多くの人たちに向けられたまなざし、それはすでに用意はされている。あとはあなたたちの受け止め方なんだ。自分のご都合主義ではなくて、神様がまず救ってくださっていることを胸に秘めておかなければ、どんな言葉を投げかけても、結局自分の都合良く、その言葉を受け止めてしまっている。このことを気を付けなさいと言われているのです。

 今日の聖書の後半は、初代教会の弟子たちが後から解釈を皆で再解釈し直して、書かれた聖書の箇所が付け加えられています。彼らもイエス様の言葉を最初から素直に理解したわけではありません。みんなで悩みながらイエス様の言葉を思い返して、やはり私たちには恵みが与えられていた。だけど私たちの姿勢が問われている。だからわざわざその解釈後世に向けて付け加えられた、そういう理解でいます。
 どんなに私たちが神様によって選ばれて、救いの対象になっていったのか。その喜びから福音全体が私たちに投げかけられているし、私たち一人一人にまず種が投げかけられ、選ばれている。神様は変な種はまかない。最初から成長しないところに播くことはない。 私たちを選んでくださった喜びがありますが、改めて神様の言葉は本質的に何を言っているのか、確かに今聞く言葉は苦しいかもしれない、今日は喜びかもしれない。日によってころころと変わる。私たちの体調や気分、置かれる状況によって神様の言葉に対する 向き合い方が変わります。だけど大前提として、苦しいけれど私を救うために、今日私に言葉を投げかけてくださっている。神様に選ばれて救いに導かれようとしている。そのことに気づいた時、至らない私だけれど本質を深めていこう、理解していこう、そういった姿勢が大事になってきます。

 今日の福音をとおして私たちは選ばれ、今日も種を植えられる。言葉を投げかけられる。
お早うと声を掛ける、お元気ですかと声を掛けられることと同じです。今日も信仰に生きてますか、と声を掛けられている。声を掛けられる喜び。私たちも今日その神様の言葉に、しっかりとその本質に気づきながら、真正面から応えていけるように、ミサの中で「神様ありがとう。」「今日、私を見てくださってありがとう。」と答えられるよう、感謝を捧げていきたいと思います。』



【レイ神父様の主日メッセージ】

栄光は私たちに現される

 雨も雪も天から降れば大地を潤し、そして、それは作物、花、木々を天に向けて生い茂らせるという、素晴らしい比喩があります。神の霊感はその雨であり、雪であり、私たちの霊を受けた命には花が咲きます。このイメージは旧約聖書の中でも最も卓越したイザヤ書にある素晴らしい箇所、40-55章に納められており、イザヤは人類の未來に最高位の希望を抱いています。

 聖パウロは憐れみによって与えられた恩恵を説明するのに、私たちは順応する精神と、神の相続人となる精神を与えられており、しかもキリストと共同の相続人であると宣言しました。さらに「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」とつづけます。今日の第二朗読の次の箇所で、パウロはそのことは十分価値のあることに成るだろう、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らないと私は思います」と言います。霊の働きとその恵みの賜物で完全に人間たちを改め、神が私たちに復活した体を与えられる時、私たちはキリストの姿に似たものを思い出します。彼は家族に最初に生まれる長子であり、その全てにはキリストのイメージがあります。

 しかしながら、それは全て神のご意思でしょうか?完成された人間を荒廃した被造物の中に置くことが?回心した人間と、そうでない者との間で絶え間ない衝突がおこることでしょう。そこで創造主は反抗的なものたちだけではなく、全ての被造物にこの素晴らしい更新をすることに心を向けたのです。そこをパウロは「私はそう思う」と冷静に思慮深く結論しました。これは感情が高まった時の束の間の衝動的な思いではありません。冷静な思慮ある判断です。「現在の苦しみ(信者たちがキリストと共に耐えなければならない)は、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らないと私は思います」と言います。わたしたちの現在の苦しみは私たちのものとなる栄光の光の中で消え去るのです。

 それからその栄光を表現しようと、パウロの集中は高まります。被造物の全ては私たちの精神の達成に寄与します。「被造物は、神の子供たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」言い換えますと、神の大切なものたち、彼らが実際は誰であるのかと、神の子供たちが示されるのです。主の栄光の命そのものを分かち合う輝く体、完全な精神と引き上げられたキリストの姿に似たものを完全に表すことが意図されているのです。

The glory to be revealed to us

We have heard the strong metaphor about how the rain and snow, falling from the sky and soaking the earth, then rise towards heaven as plants, flowers and trees. Divine inspiration is the rain and snow, our inspired lives are the blossoming plants. This image concludes the great section of Isaiah 40-55, some of the most sublime literature of the Old Testament. He has the highest of hopes for the future of humanity
St Paul , in explaining the privileges conferred on by grace, has declared that we are given the spirit of adoption, and are given the spirit of heirs and joint heirs with Christ. He adds a qualifying phrase, “provided that we suffer with him, that we may be also glorified with him.” In the following verse, from today’s second Reading, he estimates that it will all have been well worthwhile. “I reckon that the sufferings of this present time are not worthy to be compared with the glory which shall be revealed to us.” By the gift of the Spirit and the operations of the Spirit in renewing human beings from the inside out, when God gives us our resurrected bodies, we shall reflect the likeness of Christ. He will be the Firstborn, the elder Brother in the family, all of which bear His image.
But is that all God’s willed to do: put a perfected humanity into a blighted creation? There would be a constant clash between restored humanity and unrestored creation! So, our Creator has set his heart not only on this marvelous renewal of rebellious mankind, but of the whole of creation. Where Paul says “I reckon,” this is his sober, reflective conclusion. This is not a transient, capricious thought he had in a moment of heightened, emotional fervor. This is his sober, reflective judgment: “That the sufferings of the present time [that believers have to bear in union with Christ] are not worthy to be compared with the glory which shall be revealed to us.” Our present sufferings will pale away in the light of the glory that is to be ours.
Then in trying to describe that glory, Paul’s focus shifts. The whole of creation is contributing to our spiritual fulfillment. “For the earnest expectation of the creation waits for the revealing of the children of God.” In other words, the children of God will be shown for who they really are, God’s precious ones, intended to perfectly reflect the likeness of Christ with perfected spirits and risen, glorified bodies that will share the very life of our Lord’s glory.