2020年7月5日日曜日

年間第14主日ミサ

この日の主日ミサは、松村神父様と佐藤神父様の共同司式により行われました。

この日はD地区が対象でした。今回でミサが再開されてから全4地区が一巡したことになります。待ちに待った方もいらっしゃったことでしょう。
次週からはまた、A地区から順番に廻ることになります。



松村神父様のお説教を紹介します。

『今日のお話は私たち良く知っている聖書の箇所です。その中で重箱の隅を突っつくような話しをしたいと思います。
 『ある幼稚園で男の子が園庭の隅で背中を地面につけバタバタしていました。お友達がやって来て、○○ちゃんあっち行こうよ、立ちなよと声をかけるのです。それでも機嫌が悪かったのか全然立とうとしなかった。そこで先生がやって来て、そんな横になっていたら泥だらけになってしまうよ、教室に戻りましょうねと、一生懸命声を掛けるのです。でも虫の居所が悪いのか、バタバタしているのです。そんなところに一人の女の子が駆け寄って行って、声を掛ける前に自分もゴロンと横になったのです。そして、何してるのと声を掛けたのです。男の子の口から応えはなかなか出てこなかったけれど、でもバタバタはやめて、何となく空を見ながら、いっしょに「お空青いね」「うーん」とやっと返事をしました。』
  この話しは時々、いろいろな所でするのですが、たいした話しではないですね。だけど、この一連の流れの中に、とても大事な要素が隠されているのです。最初にお話ししたお友達や先生たちはある意味「知識」の中で、「体験」の中でこうした方が良い、ああした方が良い、こうすべきだ、ああすべきだと。背中はそのままだと汚れる、体験でしょうね。
立って教室に戻りましょう、それはルールですね。知識の中にその男の子を立たせようとする。でも女の子は知識はどうでも良かった。何してるのとその人に寄り添う、ひとつの姿。寄り添った意識があるかどうかは別として。その男の子の元にまずを心を読み解こうと。自分も興味本位だったかもしれない、何か見えるのかなと。これは知識ではなく、人間が元々持つ「知恵」だと思うのです。

 今日の福音の中で、知恵ある者、賢い者とはイエスからしてみたら律法学者のことを指しています。つまり歴史的な体験、習慣、知識、そういうもので人々を迫害していた。この時代には女子、子供は悪い言い方をすると無能力者という言い方をしていました。能力の無い者だから、律法に贖うことは出来ない存在、そして非常に差別をしていました。知識がある者、伝統を重んじる者こそ素晴らしい。でもイエス様の考え方はまったく違いますね。幼子のような者にお示しになりました。それは元々神様から私たち一人一人いただいた、神の知恵なんです。神の知恵とは何かというとイエスそのものなのです。どのようなものであったのか。ともに歩む者。インマニエル。あなたとともに歩む者。けっして勉強とか、経験とかが力強い世界ではない。もっともっと「感性」の世界。「知恵」の世界。そんなところに今日の福音はポイントをおいているように感じます。

  私たちが社会の中で生きようとするときに、人間同士でうまくいくようにするために、いっしょに学んだり、考えたりするわけです。そして人の上に立とうとするために、一生懸命に知識を頭の中に詰め込んでいこうとする。けっしてそれは悪いことではないです。でも同時に、私たちはそれに支配されていないだろうか。イエス様の重荷は、そういうたくさん詰め込むいろいろな学習ではなくて、ごろんと寝転ぶ重荷なんだ。机の上で一生懸命勉強する、または一生懸命経験を積む、そういう重荷ではなくて、ごろんと寝転んで何してるのと聞く、そういう感性をイエス様の重荷である。そういう知恵を私たちは持てるのか。今日は私たち一人一人にその疑問を投げかけています。
 違うもので満たされていないだろうか、でももっと根本的に私たち誰もが持っている、人といっしょに手を取り合って歩もうとするその心。そのものがイエスの重荷であるからこそ実は非常に軽い。でもそれはけっして重荷であることは確かである。イエスの重荷はすでに私たち一人一人が持っているもの、それを敢えて心からそれを使おうとするか。でも、そういうものよりも優先されるべきものが、私たちこの社会の中で忙しい中でどんどん詰め込まれていって、いつのまにか積み重ねていくことの大事さが優先されてしまう。でもだれもが持っている神の知恵というものを私たちはもう一度しっかり見つめ直し、一人一人に与えられたともに 歩む、ともに寄り添う、そういう姿に私たちはもう一度心を向けていかなければならない。実際に心を向けてともに歩むといっても、そんなに力を私たち一人一人力を持っているわけではない。だからこそ一人で出来ないので、たくさんの仲間とともに、ともに歩みその中で新たな知恵を見いだして、僅かな力を積み上げていきながら、多くの人たちへの支えとなっていく共同体になっていければと念願するわけです。
イエスの荷は軽い。でも、イエスの荷は私たちの中にあることを気づかずに忘れてしまうことがある。一番恐るべきことかなと思います。

  このコロナの状況の中で、まだまだ苦労しているたくさんの医療従事者をはじめ、実際にこのコロナに罹った人々がおられます。原因とかいろんな問題を突き詰めていくと、それはいろんな課題があるかもしれませんが、でも実際に魘されている人たちがいる。  そこに私たちは心を裂いて祈り、何かの支えが出来ないか。また、ミサの冒頭に話したように熊本や鹿児島、または世界に目を広げていけば難民の問題であったり、日本の中においても外国籍の方々の労働の問題であったり、いろんな課題が山積みになっています。実際に何が出来るのか、それはひとつひとつ違いますが、まず私たちが心を寄せることの重要性、そこに心を委ねることの大事さ。幼子のような者に示したというのは、かわいそうだなと心が割れんばかりに思うかどうか。
 そう言う意味では日頃のニュースを見ながら、特に私たちの心がぐるっと動くのか。ギリシア語では「哀れにおもう」を「スプランクニゾマイ」と言う言葉を使いますが、はらわたが動くような悲しみがこの世界の中にたくさんある。たぶんそうだなと子供のように思える、そのことにもう一度私たちは目を向けて、そこに今神様が目を向けなさい受けと言っておられる。そこに共同体としての仲間たち、兄弟たち、姉妹たち、自分の家族のように思えるのか。教皇フランシスコが「全地球家族」という言い方をしていますが、すべての人々が私たちの家族であるともう一度思いおこしながら、幼子のような心を私たち持っていますがもう一度目覚め、そしてイエスがそこに気づこうと今日呼びかけておられることに耳を傾けていきたいと思います。
 時々、その対象は私自身になることもあります。他者になることもある。自分が渦中に巻き込まれることもあると思います。渦中に巻き込まれたときに、多くの人たちの祈りがある。そう感じたときの大きな心。強い応援を感じるならば、私たちも今元気なときには、今苦しんでいる人のために、心をしっかり傾けることが出来るか問われていると思います。幼子のような私たちになっていけることが出来るように、このミサの中で改めて、律法学者にならない、一人一人の心に寄り添うその感性を磨いて、その気づきを与えていただけるように、聖霊の促しを願って御ミサを続けていきたいと思います。』