2020年7月5日日曜日

年間第14主日

場崎神父様から、主日のメッセージが届いています。
ご紹介します。


(北26条教会HPより_2014)

見よ、あなたの王が来る。……高ぶることなく、ろばに乗ってく来る(ゼカリヤ9・9より)

年間第14主日(2020年7月5日)。福音朗読(マタイ11・25~30)説教のヒント

場﨑 洋 神父
                        
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)。今日の福音のことばです。軛とは牛車や荷物、あるいは畑を耕す農機具を牛に引かせるときに使う、首に掛ける横木です。二頭以上の場合は力が分散させないように固定させます。イエスはお育ちになった環境のなかで、牛の首に掛けてある軛を注視しながらいつも気の毒に思っていました。動くたびに重圧がかかり、擦れて痛みます。かえって牛にストレスを与えて傷つけてしまいます。イエスはその苦しみを人間の苦しみと重ね合わせながら、生きていく霊的方向と霊的力の術(すべ)を教えようとされます。わたしたちに迫りくる、困難、逆境、病気、老い、罪という軛をどのように担い、どのように歩んでいかなくてはならないでしょうか。

 社会の中でもっとも基本となる共同体は家族です。家族の中で一番弱い絆は夫婦です。もともと夫婦には血のつながりがありません。夫婦は誓約によって新しい絆が結ばれます。しかし、その絆は軛となって襲ってきます。これほどまでに荷が重く、疲れてしまうものだと溜息がつくほどです。そこには相手を支配しようという力が働き、そう思えば思うほど絆は重い軛に変わってしまいます。軛は家族単位から社会生活における関係性のなかで現れます。人間は肉と精神と魂を持っている限り、自分のエゴ、自分の病気、自分の老いと対峙しながらそれぞれの軛を担うことになります。

 イエスは私たちに新しい軛の存在をお教えになります。「わたしの軛は負いやすく、荷は軽いからである」(11:30)。ここで申し上げなくてはなりません。軛は負う必要はないということではありません。軛は自分で負わなければなりません。しかし、負うのはあなた一人ではないということです。その答えは今日の福音の冒頭のところにあります。「・・・これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(11:25)。軛でもって疲れている者、重荷となっている者は自分の高慢とおごりという知識(軛)を捨てて、幼子の心になるということです。それは赦しです。赦しによって、軛の締め付けが緩んだり、引っ張られたりする力が弱められたりして、荷は軽くなるのです。それは幼子(御子)のように母親(御父)にすべてを委ねることです。ですからイエスの言われる軛はイエスと共に担う軛なのです。軛によって苦しむのであれば赦しによって苦しみの軛から解き放たれていくのです。生きていく以上、すべての苦しみから逃れられません。しかしイエスが共に担ってくだることにより、軛は負いやすく、荷は軽くなるのです。そこでイエスは新しいいのちの息を送られて私たちの体と魂を休ませてくださるのです。主はエスコート(同伴)してくださるのです。「神の霊があなたがたの内に宿っている限り、あなたがたは肉ではなく、霊の支配下にあります」(第二朗読:ロマ8・9)。すべては「私の意志の実現ではなく、私を通しての主の実現です」。主の霊は主が示される柔和で謙遜な軛を通して各々の個性を磨き、いのちの泉を湧き上がらせてくださるのです。