今日の主日ミサでは、二人の神学生 桶田さんと帰省中の千葉さんが侍者奉仕をしました。
松村神父様のお説教をご紹介します。
『今日の私達への福音のメッセージは、神の前における賢さを持とう!ということでしょう。
大学のころ大失敗をしたことがあります。ある日建築のパース(完成予想)の宿題が出され、家に帰り絵コンテの準備をしたところ、他の学生は模型を作ってきていました。しっかり話を聞いてなかった私が悪いのです。教授の正しい説明を逃し、勝手な思い込みで「~だろう」と思った自分が恥ずかしくなりました。当然宿題は再提出。他の学生と似たようにならないように作成に苦戦したことを思い出しました。
正しく聞き、意図するところを読み解き、指示に従ったことを行う。当たり前のことですが案外私たちはそのいずれかを見誤り失敗してしまいます。
信仰も同じなのかもしれません。一見私たちの信仰は何でも仲間と分かち合い、慰めあい、協働することが大切とされているように感じますが、終末に向けての私たちは一人一人の信仰が問われ、誰も助けてくれないということです。ですから神様の前で緊張感をもって自分の信仰を問うていかなければなりません。
今日の聖書では教会で生きるためにも、また仲間と分かち合うためにも自分の中でしっかりと自己を見つめ、神様との関わりを確認することに重きが置かれているように感じます。
神様の前で賢者は何でもその場ですぐに公にはせず、約束せずに一度隠し、企てを考え準備をしてから望むという向き合い方が示されています。すなわち個人の準備の大切さです。にわかな情報に踊らされることなく、誰かから教わるのではなく、自らしっかりと準備することの大切さが問われています。そしてその為には何が大切なのか、何を隠しておくべきか、その価値を知るためには、神様の価値観を知らなければなりません。なぜならば隠して帰ってもそれは無駄な努力かもしれないからです。また一度帰り十分な準備を行うにしても、どんな準備が必要かわかりません。何を語っているのかをしっかりと読み解く力が必要です。そしてその力が神様の助けが無ければ理解することはできませんので、父と子と聖霊の交わりの中でそれらを理解していく必要があるため、神様そのものを知る必要があります。自分の読み方や理解の仕方ではなく、正しい信仰は弟子たちから与えられ私たちに引き継がれています。そして私たちはそれを次に伝える使命も与えられています。たとえ話で福音が語られているのは弟子とその後継者にその使命が与えられている証拠です。その為には私たちはしっかりと聖書を読み進めていくことが大切です。しかしその前提となっているのは、私たち一人一人はそのために神様よりまず選ばれた者とされたことです。こんな自分でも神様は使命を行う者として呼んでくださっている。これこそ召命の光です。
神様に恥ずかしくない準備を行い、つたなくても丁寧にその使命を担っていく為に祝福を受けて今日も派遣されて行きましょう。』