2020年7月19日日曜日

年間第16主日

A年 第16主日の福音朗読は、マタイ13章24-30「毒麦のたとえ」です。
世の終わりには、毒麦(悪い者)は選別され火で焼かれしまうという一見恐ろしい内容ですが、そこには限りない神のいつくしみと寛容を読み取ることができます。

この日の主日ミサは、勝谷司教様と松村神父様の共同司式により行われました。
司教様のお説教と、湯澤神父様からいただいた主日メッセージを併せてご紹介します。


  

【勝谷司教様お説教】

 今日の福音を皆さんはどう読みますか。終わりの日に、「毒麦」は焼かれ、「麦」 は倉にいれられる。これを終わりの日の裁き、個人的な回心を求めるたとえと 読んではいないでしょうか。
 今日の福音は、むしろ逆のことを言っています。たとえ悪人であっても、神 は忍耐をもってご覧になり、第一朗読にあるように「裁き」ではなく「寛容」 と「慈悲」を持っておのぞみになるのです。
 この箇所を個人主義的に読んでは本来の意味を見落としてしまいます。今日 のメッセージは、書かれた当時も現代も「共同体」に向けられたメッセージで す。この話を私たちの社会や教会共同体に当てはめて考えてみてください。「な ぜあんな人がいるのか」、「この人さえいなければ...」。私たちは自分勝手な好み や独善的な正義感で人を裁いてしまう傾向があります。それが多数派になれば、 その人を排除しようとする動きも出てきます。「毒麦」を抜こうとする僕の姿は このように私たちの共同体にも良く見ることができます。
 しかし、福音にも書かれている通り、実際は「毒麦」と「麦」の区別はつき にくいのです。あの人は「毒麦」だと思っても、その人から見ればあなたが「毒 麦」に見えているはずです。アウグスチヌスやフランシスコなど、私たちの知 る聖人の多くははじめのうち人々から「毒麦」と思われる人たちでした。実際、 だれが「自分は神の倉に入れられる『良い麦』だ」、などといえるでしょうか。 むしろ、自分を「良い麦」と考え、人を「毒麦」だと断罪し排斥しようとする 者こそ、イエスが「神の国」から遠いと指摘されたファリサイ人と同類である ことを知るべきでしょう。私たちの内、誰一人として完全な善人や絶対的な悪 人はいません。全ての人のうちに、毒麦も良い麦も存在するのです。全てを善 か悪か、白か黒かはっきりさせて裁いてしまおうとする態度はイエスが批判し た律法学者の態度なのです。
 そう考えると、終わりのときの焼かれる毒麦のたとえは「恐ろしい裁き」で はなく、むしろ喜ばしい「救い」のメッセージであると気づきます。誰かが、 裁きを受けて焼き滅ぼされるのではなく、全ての人の中にある毒麦が取り除か れるのです。焼き尽くされるのは、私たちの中の「愛に反する心」で、この炎 を通して、私たちは純粋な愛の世界へと導きいれられるのです。自分の力では 克服できなかった悪への傾き、罪の現実が、神の愛の息吹と炎によってもみ殻 のように吹き飛ばされ、焼き尽くされるのです。残るのは、キリストを中心と して完全な愛の交わりに生きる「私たち」なのです。


【湯澤神父様メッセージ】

2020年7月19日 年間第16主日(マタイ、13章24~43節)
✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様
 今日の福音は、『マタイ福音書』にある五つの説教集の真ん中、第三の説教集からとられています。ここでは、天の国(神の国)の秘儀について語られています。皆さんもご存知の通り、「神の国」の「国」は、場所や国境に囲まれた地域を指す言葉ではありません。支配、統治といった意味です。つまり、天の国とは、神の国と同じことで、「神の統治、支配、その力が及んでいること」を意味しています。イスラエルの人たちは、かつてダビデがイスラエル全体と統治したような国をイメージしています。その完成、世の終わりには、神自身が全イスラエルと統治する国が実現すると思っていました。

 しかし、イエス様の場合、少しニュアンスが異なります。先週の福音の「種蒔きのたとえ話し」を思い出してみましょう。一人ひとりの心に種が蒔かれ、様々な実りをもたらしました。福音の種のように、神の支配は、一人ひとりの心に及びます。神の支配を神の呼び掛けのようにイメージしてみましょう。神は、一人ひとりの心にその都度語り掛けます。その実りは、神の呼び掛けにその人が出すその人なりの応えと考えられます。従って、良い種が蒔かれたのに、毒麦が生えることもあることも分かります。神の支配は、力ずくで言うことを効かせるような意味での支配ではありません。呼びかけですから、どう応えるかは、応える人の自由に任せられることになります。

 毒麦は、最初は小麦とほとんど見分けがつかないのですが、そのうち違いが表れ、収穫時にははっきりと違いが判るようになります。おそらくキリストの周りに集まった弟子たちの中にも、最初はよい弟子たちと違わなかったのに、だんだん本物ではない弟子が現れたのでしょう。マタイの時代の教会も同じだったのではないでしょうか。そんな時に、私たちはつい毒麦を排除したくなるものです。実際に排除という行動に移さなくても、裁いてしまうことがあります。しかし、イエス様は、判断するのは、つまり、裁くのは、父である神だと教えています。

 ひとつおもしろい話があります。当時の人たちは、雨の日が続く年は、小麦が毒麦に変わると思っていたというのです。発育の差なのか原因は分かりませんが、そう思われていたのでしょう。小麦でさえ毒麦に変わるとしたら、まして人間も変わり得るでしょう。好ましい人が好ましくなく変わることもあり、その逆もあり得るわけです。だとしたらますます、早急に今判断し、裁くことは、小麦まで抜いてしまう危険性となり得ます。

 そこで、私たちが目を向けるべきことは、私たち一人ひとりが自分の心に語り掛けるという形で、神の力が、神の支配が実現していることに気づくことです。そして、その都度、相応しい実りを実らせることが求められていることに気づくことです。どんな実を実らせるかは、私たち自身に任せられています。この説教集の最初と最後で同じ言葉が用いられています。「耳のある人は聞きなさい」。気づきを求める言葉といえるでしょう。