2020年8月31日月曜日

8月30日 年間第22主日

 松村神父様の主日ミサの説教をご紹介します。


『今日、皆さんには、受付で「エコロジーについての新回勅ラウダート・シ概観」とその中に挟んである「すべての命を守るための月間」というパンフレットが配られたと思います。今週からこの「すべての命を守るための月間」が始まります。教皇フランシスコそして日本の司教団は、毎年9月1日から10月4日までを、すべての命を守るということを特に強く思い、感じ、祈り、生きることを私たちに示してくださいました。そのためには教皇の回勅「ラウダート・シ」の本をしっかり読み込むことが大切です。回勅ですから難しい内容です。ましてや子供たちにとっては「何のことだろう?」と思うので、今日は教会学校があるということもあるので、簡単なお話を皆さんと分かち合いたいと思います。

 この「すべての命を守るため」という教皇の思いですが、私は去年1年間教皇訪日の準備のために、毎月大阪から東京に通っていろいろな準備をしてきました。皆さんが集まるためのハード面を一生懸命準備するだけでなく、教皇はどういう思いで世界や日本を見ているのか、このことを私自身も痛感し、すべての人がやはり回心からスタートし、自分の生活をしっかりと見直しをしていくこと、神の信仰をどう実践していくのかということを、毎日毎日の生活の中で表していかなければならないと感じました。


 そこで今日は子供ばかりでなく、皆さんにも分かりやすいお話をしたいと思います。私が小さな時に読んだ一冊の本ですが、「ひとつのからだ」という絵本でした。「口(くち)君」という子と「手(て)君」という子と「胃(い)君」という子の3者がいっしょに共同生活をしていました。あるとき、手君と口君が喧嘩をしたのです。手君が口君におまえは嫌いだから大好きなカレーライスを口に運んでやるのを止めてやる。えーっと口君は怒り、俺は食べたいんだよと。胃君はおとなしい子で喧嘩はやだなと、でも食べ物が入ってきてくれないと元気になれないしなぁと、森の木陰から眺めているようにひっそりと傍観していたのです。手君は「ドラエモン」(漫画)からいうとジャイアンみたいな人です。おまえのものは俺のもの、俺のものは俺のもの。俺が嫌いだからおまえにはやらん。ざまあみろ。口君はさびしいな、今日も嚙みたいな。顎がだんだん痩せていってしまうよ。そういう日が何日も続いたらどうなるのでしょう。口君にはあまり問題はなかったのですが、胃君はだんだん小さくなっていくのです。弱まっていくのです。(手君は)ざまあみろといいながら、関係の無い胃君が弱まっているなぁ。胃君が弱まってくると今度は手に力がはいらなくなってくるのです。おかしいな、おかしいな。…という簡単なお話です。


 これはエゴの例えについてのお話ですが、すべての命を守る、世界を命として捉えたときの私たちの生き方ととても良く似ています。一部分だけが元気であったり、一部分の主張だけを下心で聞く、これは影響があります。口も顎が痩せてくる。胃が小さくなる。結果的にからだ全体が弱まってくる。そして、元気がなくなる。手君のわがままのために、手君のひとつの正義のために、自分は正しいと思うがために行うことは、必ずしもからだ全体のためにならない。教皇が言う「すべての命を守る」ということは、自分の活動と世界全体のあらゆることが、どこかで繋がっているのだということです。

 それを考えずに自分の正義、自分の信仰だけを推し進めたらどうなるのでしょう。必ず弱まっていくところがあります。弱まっているところがあると必ず自分に返ってくるのだと。このことを教皇は「ラウダート・シ」の難しい回勅の中で伝えているのです。

 例えば、私は大阪に去年までいましたので、和歌山のお話をしたいと思います。和歌山にキリバスという国の漁師たちがたくさん来て「カツオの一本釣り」の勉強をしていたのです。どうしてなのかと聞いたら、自分たちの村はとても低い海面に近いところの村だった。地球の温暖化のために南極の氷が溶けて水になり自分たちの村が水没した。自分たちの村がなくなったので住むことが出来ない。そこで生きることが出来ない、働くことが出来ない。だから自分たちがどこに行ってもしっかり漁ができるようにと仕事を習いに来たのです。キリバスというと赤道に近く、あまりカツオはとれないのです。どこに行っても魚を釣る技術を会得することで全世界で生きることが出来る。その村は大変な思いをしながら生きることを選んでいます。 

  そのきっかけは何かと言うと地球の温暖化です。南極の氷が溶ける。南極の氷を溶かしているのは誰ですか。それは世界中の人々です。そして、私たちもその一部分を担っています。ですから私たちは、エコロジー、節約、節電をしていくことが、そういう人たちの命を守ることにも繋がっているかもしれない。大事なことは私たちが一つ一つ、いろいろな行動をおこなった時、どこの人が喜んでいるか、どこの人が命を守られているか、一つ一つの行動が実はどこかで命を守っている。そういう思いを私たちは一人一人しっかりと心に秘めて毎日を生きていくことが大切です。または、そういう生き方をしていかなければこの地球は滅んでしまうでしょう。先ほどのからだ全体が弱まってしまうことと同じです。手だけのわがままだけのためにからだが滅んではいけません。


 教皇のすべての命を守るためというメッセージ。去年の東京ドームや長崎でも、そのほかのところでも強く強調されました。そのことを、私たちは9月1日から10月4日までのこの月間に、特に強く思い起こしながら考え生きていきましょう。日本の司教団も考える時だと呼びかけています。日常生活の中で、ささやかなことだけれど誰かが喜んでいる。どこかで命が守られている。そのことを思いながら生きていきましょう。自分は便利だから楽だから、好きだから、頑固に自分の生活を変えない、自分の考え方を変えない。このことが、実は人の命を殺していることにも繋がる。実際に自分の生活を少し振り返ってみましょう。

 今日の福音にあった「自分の十字架を背負って私に従いなさい」。自分の十字架とは何かと言うと神様の命、イエス様の命、その命を私たちは背負っています。その命は全世界の救い、喜び、幸せ、希望、そういう十字架を私たちは背負うのだということです。そのことを考えなければいけません。すべての人が同時に喜んでいられる世界を小さなことから始める。すべての命を守ることに繋がる神様が創造されたこの世界、宇宙も含めて被造物と言いますが、すべては私たちの命と繋がっています。

  私たちは何でも出来る人間ではありません。だから小さなことから、出来ることから、気づくことから私たちは一歩一歩進んで行きたいと思います。でも、そう言う心が無ければ、今までの生活は変わらないでしょう。


 今日の御ミサ、福音を、そして「すべての命を守るための月間」について、特に少し考えてみましょう。思い起こしてみましょう。ちょっと力を込めてそこに自分の生活を導いていきましょう。このことを私たちも日々の生活の中で振り返りながら、先ほどの手君、口君、胃君の話でもいいですし、キリバスの話でもいいですから、皆さんもピンとくることを思い起こしながら、日常生活の中でひとつでも変わる、ひとつでも歩み、語れたら。豊かになっていけるように、今日、この御ミサの中で神様のたくさんの力を頂いていこうと思います。一緒に祈って参りましょう。』

2020年8月23日日曜日

年間第21主日「福音のヒント」

 場崎神父様からいただきました主日メッセージ「福音のヒント」をご紹介します。

 「年間第21主日(2020年8月23日)福音のヒント」  場﨑 洋 神父様

 わたしたちは「ありがとう」「ごめんね」「すばらしいね」「大丈夫」だけの言葉で平和をつくることができます。心を込めて、魂を込めて、言葉にいのちを注ぎ込むことができるのであれば、それは立派な「平和の祈り」になります。わたしたちは子供が互いに「ごめんね」と言って仲直りしているところを見たことがあります。わたしたちは子供たちが、からだいっぱいに歌をうたっているところを見たことがあります。わたしたちは子供たちがお誕生日を祝っているところを見たことがあります。幼な子が母親の胸のなかで眠っているところを見たことがあります。これらの情景は美しく本物の祈りの姿、本当の平和な姿です。子供の祈りは雲を通すほどの不思議な力を秘めています。神は大人よりも子供の祈りをよく聞いてくださいます。子供のすべての行為が純粋無垢で、ありのままなのですから、神の心を映し出している鏡に似ています。このように人間は美しく成長することができる賜物を小さいときからいただいていることを忘れてはなりません。

 しかしながら人間にはもう一つの側面をもっています。1981年、教皇ヨハネ・パウロ二世が広島で平和アピールをしたときの言葉を想い起こしてください。「戦争は人間の仕業です」。この言葉を聞いたとき、それは「わたし」ではなく、戦争を興した「悪い者ども」のことだと思っていたかもしれません。しかし、わたしたち一人ひとりも人間であり、心のなかで「あの人がいなくなればいいのに」と、戦争の引き金を引いています。職場、教会、家庭など人間関係のなかで起こっていることを忘れてなりません。

 作家、開高健は凄烈な体験のもとで書いた「輝ける闇」でベトナムの公開死刑の情景を赤裸々に描いています。処刑されたのは、はだしで立つベトナムの少年でした。べトコン(反米、反サイゴン政権の略)に協力していた、という理由で銃殺刑になるのです。

 「十人の憲兵の十挺(ちょう)のカービン銃が一人の子供を射った。子供は膝を崩した。胸、腹、腿(もも)にいくつかの小さな、黒い穴があいた。それぞれの穴からゆっくりと鮮血が流れだし、細い糸のような川となって腿を浸し・・・少年はうなだれたまま声なく首を右に、左にゆっくりとふった。将校が回転式拳銃をぬき、こめかみに一発射ちこんだ。血が右のこめかみからほとばしった。少年は崩れ落ち、柱から縄で吊され、動かなくなった・・・・」(「輝ける闇」)。そこにはまた見物にきた少女たちがはしゃいだり、処刑前、ジュースを飲んだり、うどんを食べたりしている群衆の姿もとらえられています。

 開高は、処刑を見たあと、膝がふるえ、胃がよじれ、もだえ、嘔気(はきけ)がこみあげます。翌日また、少年の処刑を見た自分は「汗もかかず、ふるえもせず、嘔気も催さなかった。・・・・・」と。このような変化を、再び、処刑の場に立ち会って書けるものなのか、それが人間の常なのかどうか・・・と苦悶しました。人間の恐ろしさ、人間の残酷さ、人間の卑劣さ、人間の狂気、人間の弱さ、人間のいい加減さ、人間のどうしようもない醜さ、そういうものを開高はひたすら見すえています。自分もまた、おぞましい愚かな人間の一人であるという、いらだたしい思いを持て余しながら戦争の現場を書いています。わたしは戦争を知りませんが、わたしが育った時代にベトナム戦争(1955~1975)は激化し、沖縄基地から米軍が出動していました。わたしは同時代に、この少年の死を知らずにのほほんと生きていたのですから、やはり闇と光の間を生きていたひとりの人間です。

 教会はただ美しいものを求めているのではありません。神に呼び集められた民は重々知っているはずです。「平和を祈る子供たち」と「祈りさえできない銃殺刑の少年」の狭間でわたしたちは生きているのです。信仰の光は、苦しみを忘れさせるものではありません。苦しむ人、悲しむ人、泣く人が、どれほど多くの信仰者にとって光の仲介者となったことでしょうか。信仰はわたしたちの暗闇をすべて打ち払う光ではありません。むしろそれは、夜の闇の中でわたしたちの歩みを導く「ともしび」です。「光は闇のなかで輝いている」(ヨハネ1・5)のです。信仰における人類の共通善への務めはつねに希望への奉仕になります。この意味で教会は信仰によって真理である希望の光に導かれていきます。たとえわたしたちの地上の住みかが滅びても、神がキリストとそのからだのうちにすでに備えられた永遠の住みかがあることを保証してくださっています(Ⅱコリ4・16・5)。こうして教会は神の相談相手(第二朗読、ロマ11・34)として霊的実りを培っていくための使命を担い続けるのです。

 わたしたちは闇と光のなかで「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(同11・35)という光に絶えず導かれていくのです。

2020年8月16日日曜日

年間第20主日(8/16)

 レイ神父様からいただきました年間第20主日(8/16)の福音メッセージをご紹介します。



『神の沈黙

年間第20主日 A年 2020年8月16日

今日は日本ではお盆にあたりますが、他の国の死者の日と似ています。この日、人々は仕事を休み家族のもとに帰り、亡くなった先祖を弔いながら、彼らの人生を思い出します。それでは、日本の、特にここ札幌の世を去った兄弟姉妹のために祈りましょう。全てのみ霊に、神の恵みのご冥福をお祈りいたします。

今日の福音書の中で、私たちはイエスとカナンの女の間に起こった劇的なシーンを目のあたりにします。

 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」マタイ15章22-23。

 これは、イエスの誤解され易い、魅力的な話の一つです。話はさらに、イエスはこの女の助けの求め次のように答えます。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」なんと!これは最初は、失礼に聞こえます。しかし、勿論、そうではありません。イエスは決してそんな方ではなかったからです。

 イエスのこの女に対する最初の沈黙と一見無礼な言葉は、この女の信仰を浄化させるのみではなく、彼女の信仰を皆に証明する機会を与えるものでした。最後にイエスはお答えになります。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」

 もし、あなたが神聖な道を歩もうとするのなら、この物語はあなたの為のものです。次のように理解しましょう。大きな信仰は清めと揺るぐことのない信頼の結果として来たると。この女はイエスに言います。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」言いかえますと、自分は価値のないものと知りながら憐れみを乞うのです。

 神は時々沈黙するかに見えるということを理解するのは大変重要です。これは神からの深い愛の行為であり、すなわち、それはまさにもっと深いレベルにおいて、神に向くようにとの招きであるからです。神の沈黙は、賛美と感情に導かれた信仰から、神の憐れみのうちに清らかな信頼によって育てられた信仰へと私たちが移っていくのを許します。

 黙想しましょう。今、神が沈黙しているようにあなた方が感じているこの瞬間を。そして実はこの時とは、新たなもっと深いレベルにある信頼への招きである、ということを知りましょう。信頼し、あなたの信仰がもっと充分に清められるがままに、神があなたの中に、あなたを通じ、偉大なわざが出来ますように。

 主よ、あなたの恵みと憐れみに、私は人生のすべてにおいて相応しくないと、しかし、こうもわかっております。あなたは理解を超えて憐れみ深く、その憐れみは偉大で、この貧しく価値のない罪びとである私の上にその憐れみを注いで下さろうとしています。私はその恵みを願います。主よ、私はあなたに全面的な信頼を置きます。イエスよ、私はあなたを完全に信じます。 』

2020年8月10日月曜日

8月9日 年間第19主日

 場崎神父様から届きました主日メッセージ「福音のヒント」をご紹介します。






『今日の福音の中で出てくる御言葉は、人間の心にある「恐れ」です。弟子たちの心理状態はいつも恐れのなかに引きずり込まれていました。

「逆風のために波に悩まされていた」。「『幽霊』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた」。「強い風に気づいて怖くなり、沈みかけた」。

弟子たちは網を捨て、家族を捨ててイエスの弟子になりました。しかし、神の子・イエスについて彼らが期待していたものとは違っていました。弟子たちはイエスがなさった教えや奇跡に対して、彼らなりの評価をしていました。本心はわたしたちの心と同じ自慢と自己利益に過ぎなかったのです。主は民衆の前で素晴らしい教えを説き、絶大な人気を博したので、自分たちは鼻高々です。ある時は病人を癒し、死者を蘇らせた主は間違いなく神の子・救い主として光り輝いていました。しかし、ペトロは自分に不吉なことが起こると不安、恐れになりました。イエスがご自身の受難について予告をすると、そんなことがあってはならないと、いさめはじめました。しまいに「わたしはあの人を知らない」と言ってイエスとの関係(信仰)を絶ち切ってしまうのです。

今日の福音でもそうです。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と願うのです。彼は恐れるあまり「しるし」を求めたのです。しかし、そのしるしは、ペトロの信仰の根幹を突いて、沈みかけるという「しるし」に変わってしまいました。わたしたちも弟子たちと同じ信仰、誤信で日々生きていることが多いのです。イエスの核心、それは福音の成就であり、十字架を回避して本当の喜び(復活)を実現することはできないということなのです。

「今日はバスに乗り遅れなかったから、運がいい」。「今日はいい買い物をしなかったので、運が悪い」。「株で儲かった。運がいい」。などと、気づけば、つねに「正しいか、間違っているか」、「善か、悪か」、「成功か、失敗か」、「幸運か、悪運か」・・・・・と頭で考えてしまうものです。こうして、自分の日常に「○か、×か」をつけて一喜一憂しているのです。だから悩みや、不安や、恐れが生まれてくるのです。

イエスは「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」(マタイ6・25~34)と言われます。自然界に目を向けると偉大な方からの答えが分かってきます。四季折々に咲く花の美しさには善いも悪いもありません。ただ、人間が自分の好みで観るものですから、評価が分かれるだけなのです。同じように、私たちが生きている日常の一コマ一コマにも出来、不出来などありません。自分の欲で判断するものですから、「成功だ、失敗だ」と明暗を分けてしまっているのです。「今日はよい日だ。悪い日だ」と判断するのではなく、ただあるがままを受けとめ、瞬間、瞬間を生きることです。その清々しく生きているという瞬間の境地を求めることが大切なのです。そのなかに愉しみ、喜びもあれば、嘆きや、悲しみもあること知らねばなりません。パウロは言います。「わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(第二朗読:ロマ9・1~2)。花も鳥も動物も、自分の毎日に「○」や「×」をつけたりはしません。人間だけが、勝手に迷って、勝手に悩んで、勝手に恐れて右往左往しているのです。起こった出来事に目くじらを立てるより、ただ、ひと呼吸、ひと呼吸に「いのち」を実感する生き方のほうがはるかに霊的に豊かで自由なのです。首から上を使わないようにすることです。いつも頭を空っぽにしておけばいいのです。あくせくしてはならないのです。そうしないと恐れて裁いてしまうことになりかねません。ただ「安心しなさい。わたし(愛)だ。恐れることはない」と言われた方に身を委ねるだけなのです。イエスは手を伸ばしていつもわたしたちの腕を捕まえてくださっています。でも信仰の薄い私たちは捕まえられていることさえ忘れてしまいます。だから沈みかけるのです。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネ4・18)。             (場﨑  洋)』

2020年8月2日日曜日

年間第18主日

湯澤神父様から届きました主日メッセージ「福音の一言」をご紹介します。

2020年8月2日 年間第18主日(マタイ、14章13~21節)
✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様
今日の福音の個所に関して、フランシスコ会訳では「パンを増やす」というサブタイトルがついています。こうしたタイトルがついていると、どうも私たちは、そこで起こった奇跡、パンが増えたことに関心が向いてしまいます。共同訳では「五千人を養う」となっています。こうしたタイトルは聖書についていませんから、訳した人の理解が反映されており、良し悪しに関係なく、読む人はそれに左右されてしまいます。
さて、イエス様の目の前にいる人々は群れを成して町から出て、イエス様の後を追ってきた人たちです。その人たちは、哀れを模様させる人たちで、夕方で空腹を感じています。イエス様は彼らを草の上に座らせます。そして、満腹するまでパンと魚で養います。こうした状況から、ある連想が可能になります。それは、モーセの後を追って荒れ野を旅しているイスラエルの人々のイメージです。マタイの福音を聞く人々は、律法を大切にしたユダヤ人キリスト教徒の伝統を受け継いでいますから、こうした連想は容易ではなかったかと思います。
エジプトを出たイスラエル人は、ヒツジやヤギを連れ、そのため草地を求めながら旅していました。現地調達する食料は、常に潤っていたわけではないでしょう。むしろ手に入れることは困難を極めたでしょう。空腹を感じて、モーセに文句も言いたくなります。モーセが目の前の飢えた哀れな人たちを見て、神様に取り次ぐと、神様はマンナを、そして海から飛んでくるウズラを与え、こうして旅の終わりまで養い続けたと書かれています。イスラエルの人たちは、人生の旅の中、常に自分たちと共にいて、養い、配慮してくれるいつくしみ深い神様を感じることができました。マタイの福音を聞く人たちにとって、イエス様の出来事と旧約聖書の出来事を重ね合わるという連想は、容易だったのではないかと思います。出エジプト後の旅の間、常に民族と共にいてくれたあの神様の姿を、イエス様の中にも見た時、共にいる神様(インマヌエル)であり、世の終わりまで私たちと共にいる神様であると理解できたのではないかと思います。
私たちは、「日々の糧を今日もお与えください」と祈りながら、日々の一つ一つの出来事の中に、共におられる神様の慈しみ深い配慮を感じ取っているでしょうか。マタイがもとにしたマルコ福音書では、「心が頑なで、パンの出来事が理解できなかった」ので、湖の上を歩くイエス様の出来事にただ驚くだけだった、と書いています。しかし、マタイは、ペトロの出来事も含めて、イエス様が神様(神の子)だと認めたと書いています。私たちも信仰を見直してみる必要があるかもしれません。サブタイトルのようにパンが増えたと驚いて終わってしまうのか、更に深くまで連想を及ぼすことができるのか。それによって神様の実感そのものが変わってくるのではないでしょうか。       湯澤民夫


【日本カトリック平和旬間】

1981年 教皇ヨハネ・パウロ二世は広島で「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と言われ、日本国内外に平和メッセージを発信しました。戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく、具体的な行動でなければなりません。
日本のカトリック教会は、その翌年(1982年)、もっとも身近で忘れることのできない、広島や長崎の事実を思い起こすのに適した8月6日から15日までの10日間を「日本カトリック平和旬間」と定めました。
(カトリック中央協議会より)

北一条教会では、平和を祈り、次の時間に教会の鐘を鳴らします。
皆様は、それぞれの場所で、同じ時刻に「ロザリオの祈り」、フランシスコの「平和を求める祈り」等を祈りましょう。

8月6日(木曜日)8時15分   ヒロシマ原爆犠牲者のため。
8月9日(日曜日)11時02分  ナガサキ原爆犠牲者のため。
8月15日(土曜日)12時00分  すべての戦争犠牲者のため。