レイ神父様からいただきました年間第20主日(8/16)の福音メッセージをご紹介します。
『神の沈黙
年間第20主日 A年 2020年8月16日
今日は日本ではお盆にあたりますが、他の国の死者の日と似ています。この日、人々は仕事を休み家族のもとに帰り、亡くなった先祖を弔いながら、彼らの人生を思い出します。それでは、日本の、特にここ札幌の世を去った兄弟姉妹のために祈りましょう。全てのみ霊に、神の恵みのご冥福をお祈りいたします。
今日の福音書の中で、私たちはイエスとカナンの女の間に起こった劇的なシーンを目のあたりにします。
すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」マタイ15章22-23。
これは、イエスの誤解され易い、魅力的な話の一つです。話はさらに、イエスはこの女の助けの求め次のように答えます。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」なんと!これは最初は、失礼に聞こえます。しかし、勿論、そうではありません。イエスは決してそんな方ではなかったからです。
イエスのこの女に対する最初の沈黙と一見無礼な言葉は、この女の信仰を浄化させるのみではなく、彼女の信仰を皆に証明する機会を与えるものでした。最後にイエスはお答えになります。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」
もし、あなたが神聖な道を歩もうとするのなら、この物語はあなたの為のものです。次のように理解しましょう。大きな信仰は清めと揺るぐことのない信頼の結果として来たると。この女はイエスに言います。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」言いかえますと、自分は価値のないものと知りながら憐れみを乞うのです。
神は時々沈黙するかに見えるということを理解するのは大変重要です。これは神からの深い愛の行為であり、すなわち、それはまさにもっと深いレベルにおいて、神に向くようにとの招きであるからです。神の沈黙は、賛美と感情に導かれた信仰から、神の憐れみのうちに清らかな信頼によって育てられた信仰へと私たちが移っていくのを許します。
黙想しましょう。今、神が沈黙しているようにあなた方が感じているこの瞬間を。そして実はこの時とは、新たなもっと深いレベルにある信頼への招きである、ということを知りましょう。信頼し、あなたの信仰がもっと充分に清められるがままに、神があなたの中に、あなたを通じ、偉大なわざが出来ますように。
主よ、あなたの恵みと憐れみに、私は人生のすべてにおいて相応しくないと、しかし、こうもわかっております。あなたは理解を超えて憐れみ深く、その憐れみは偉大で、この貧しく価値のない罪びとである私の上にその憐れみを注いで下さろうとしています。私はその恵みを願います。主よ、私はあなたに全面的な信頼を置きます。イエスよ、私はあなたを完全に信じます。 』