2020年8月10日月曜日

8月9日 年間第19主日

 場崎神父様から届きました主日メッセージ「福音のヒント」をご紹介します。






『今日の福音の中で出てくる御言葉は、人間の心にある「恐れ」です。弟子たちの心理状態はいつも恐れのなかに引きずり込まれていました。

「逆風のために波に悩まされていた」。「『幽霊』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた」。「強い風に気づいて怖くなり、沈みかけた」。

弟子たちは網を捨て、家族を捨ててイエスの弟子になりました。しかし、神の子・イエスについて彼らが期待していたものとは違っていました。弟子たちはイエスがなさった教えや奇跡に対して、彼らなりの評価をしていました。本心はわたしたちの心と同じ自慢と自己利益に過ぎなかったのです。主は民衆の前で素晴らしい教えを説き、絶大な人気を博したので、自分たちは鼻高々です。ある時は病人を癒し、死者を蘇らせた主は間違いなく神の子・救い主として光り輝いていました。しかし、ペトロは自分に不吉なことが起こると不安、恐れになりました。イエスがご自身の受難について予告をすると、そんなことがあってはならないと、いさめはじめました。しまいに「わたしはあの人を知らない」と言ってイエスとの関係(信仰)を絶ち切ってしまうのです。

今日の福音でもそうです。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と願うのです。彼は恐れるあまり「しるし」を求めたのです。しかし、そのしるしは、ペトロの信仰の根幹を突いて、沈みかけるという「しるし」に変わってしまいました。わたしたちも弟子たちと同じ信仰、誤信で日々生きていることが多いのです。イエスの核心、それは福音の成就であり、十字架を回避して本当の喜び(復活)を実現することはできないということなのです。

「今日はバスに乗り遅れなかったから、運がいい」。「今日はいい買い物をしなかったので、運が悪い」。「株で儲かった。運がいい」。などと、気づけば、つねに「正しいか、間違っているか」、「善か、悪か」、「成功か、失敗か」、「幸運か、悪運か」・・・・・と頭で考えてしまうものです。こうして、自分の日常に「○か、×か」をつけて一喜一憂しているのです。だから悩みや、不安や、恐れが生まれてくるのです。

イエスは「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」(マタイ6・25~34)と言われます。自然界に目を向けると偉大な方からの答えが分かってきます。四季折々に咲く花の美しさには善いも悪いもありません。ただ、人間が自分の好みで観るものですから、評価が分かれるだけなのです。同じように、私たちが生きている日常の一コマ一コマにも出来、不出来などありません。自分の欲で判断するものですから、「成功だ、失敗だ」と明暗を分けてしまっているのです。「今日はよい日だ。悪い日だ」と判断するのではなく、ただあるがままを受けとめ、瞬間、瞬間を生きることです。その清々しく生きているという瞬間の境地を求めることが大切なのです。そのなかに愉しみ、喜びもあれば、嘆きや、悲しみもあること知らねばなりません。パウロは言います。「わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(第二朗読:ロマ9・1~2)。花も鳥も動物も、自分の毎日に「○」や「×」をつけたりはしません。人間だけが、勝手に迷って、勝手に悩んで、勝手に恐れて右往左往しているのです。起こった出来事に目くじらを立てるより、ただ、ひと呼吸、ひと呼吸に「いのち」を実感する生き方のほうがはるかに霊的に豊かで自由なのです。首から上を使わないようにすることです。いつも頭を空っぽにしておけばいいのです。あくせくしてはならないのです。そうしないと恐れて裁いてしまうことになりかねません。ただ「安心しなさい。わたし(愛)だ。恐れることはない」と言われた方に身を委ねるだけなのです。イエスは手を伸ばしていつもわたしたちの腕を捕まえてくださっています。でも信仰の薄い私たちは捕まえられていることさえ忘れてしまいます。だから沈みかけるのです。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネ4・18)。             (場﨑  洋)』