場崎神父様からいただきました主日メッセージ「福音のヒント」をご紹介します。
「年間第21主日(2020年8月23日)福音のヒント」 場﨑 洋 神父様
しかしながら人間にはもう一つの側面をもっています。1981年、教皇ヨハネ・パウロ二世が広島で平和アピールをしたときの言葉を想い起こしてください。「戦争は人間の仕業です」。この言葉を聞いたとき、それは「わたし」ではなく、戦争を興した「悪い者ども」のことだと思っていたかもしれません。しかし、わたしたち一人ひとりも人間であり、心のなかで「あの人がいなくなればいいのに」と、戦争の引き金を引いています。職場、教会、家庭など人間関係のなかで起こっていることを忘れてなりません。
作家、開高健は凄烈な体験のもとで書いた「輝ける闇」でベトナムの公開死刑の情景を赤裸々に描いています。処刑されたのは、はだしで立つベトナムの少年でした。べトコン(反米、反サイゴン政権の略)に協力していた、という理由で銃殺刑になるのです。
「十人の憲兵の十挺(ちょう)のカービン銃が一人の子供を射った。子供は膝を崩した。胸、腹、腿(もも)にいくつかの小さな、黒い穴があいた。それぞれの穴からゆっくりと鮮血が流れだし、細い糸のような川となって腿を浸し・・・少年はうなだれたまま声なく首を右に、左にゆっくりとふった。将校が回転式拳銃をぬき、こめかみに一発射ちこんだ。血が右のこめかみからほとばしった。少年は崩れ落ち、柱から縄で吊され、動かなくなった・・・・」(「輝ける闇」)。そこにはまた見物にきた少女たちがはしゃいだり、処刑前、ジュースを飲んだり、うどんを食べたりしている群衆の姿もとらえられています。
開高は、処刑を見たあと、膝がふるえ、胃がよじれ、もだえ、嘔気(はきけ)がこみあげます。翌日また、少年の処刑を見た自分は「汗もかかず、ふるえもせず、嘔気も催さなかった。・・・・・」と。このような変化を、再び、処刑の場に立ち会って書けるものなのか、それが人間の常なのかどうか・・・と苦悶しました。人間の恐ろしさ、人間の残酷さ、人間の卑劣さ、人間の狂気、人間の弱さ、人間のいい加減さ、人間のどうしようもない醜さ、そういうものを開高はひたすら見すえています。自分もまた、おぞましい愚かな人間の一人であるという、いらだたしい思いを持て余しながら戦争の現場を書いています。わたしは戦争を知りませんが、わたしが育った時代にベトナム戦争(1955~1975)は激化し、沖縄基地から米軍が出動していました。わたしは同時代に、この少年の死を知らずにのほほんと生きていたのですから、やはり闇と光の間を生きていたひとりの人間です。
教会はただ美しいものを求めているのではありません。神に呼び集められた民は重々知っているはずです。「平和を祈る子供たち」と「祈りさえできない銃殺刑の少年」の狭間でわたしたちは生きているのです。信仰の光は、苦しみを忘れさせるものではありません。苦しむ人、悲しむ人、泣く人が、どれほど多くの信仰者にとって光の仲介者となったことでしょうか。信仰はわたしたちの暗闇をすべて打ち払う光ではありません。むしろそれは、夜の闇の中でわたしたちの歩みを導く「ともしび」です。「光は闇のなかで輝いている」(ヨハネ1・5)のです。信仰における人類の共通善への務めはつねに希望への奉仕になります。この意味で教会は信仰によって真理である希望の光に導かれていきます。たとえわたしたちの地上の住みかが滅びても、神がキリストとそのからだのうちにすでに備えられた永遠の住みかがあることを保証してくださっています(Ⅱコリ4・16・5)。こうして教会は神の相談相手(第二朗読、ロマ11・34)として霊的実りを培っていくための使命を担い続けるのです。
わたしたちは闇と光のなかで「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(同11・35)という光に絶えず導かれていくのです。