2020年11月28日土曜日

待降節第1主日

今日から待降節、新しい典礼暦年が始まります。

待降節を迎えるにあたって、11月28日にクリスマスの飾りつけを行いました。



松村神父様からいただきました主日の福音メッセージをご紹介します。


『「目を覚ましていなさい」と言われ、いつまで目を覚ましていればいいのだろうか。果たしてその時とはどんな時なのだろうか。体力が限られている私たちに「起き続けろ」ということなのだろうか?聖書によく出てくる「目を覚ましていなさい」という言葉は時にはプレッシャーに聞こえる言葉であるが、福音書は喜びの知らせ。きっとそこに喜びがあるはずと捉えてみよう。そこでこの疑問を解くヒントとして、“時”の捉え方を整理してみてはどうだろう。

私たちは何かがやってくる瞬間を量的な時で考えます。例えばおなかが減った時、誰かと待ち合わせている時などは時間に伴う動きが解決します。しかし空が雲で覆われている時に突然一筋の光の筋が見える時があります。雲に覆われていた空が晴れなければ光が差し込まないと、ただ時間が経つのを待っている時がありますが、その時は突然しかも一瞬だけやってくることがあります。予測もつかないし対応はできない瞬間があります。逆にスコールなど、晴れている時に突然雨が降ることもあります。その地域の特性で雨が降ることがわかっていれば傘などを用意はできるでしょうが、旅先で突然見舞われると対応に困ります。このように予測できる時と、突然やってくる時があり、私たちは量的時間で測れない時がある事を知ります。さらに濃い時間、無駄な時間、貴重な時間など、他と比較ができないといった時間自体を質で測ることもあります。

今日の福音は、この時を瞬間の時と質の時と捉えるとどうだろう。「突然やってくる時」そして「目を覚ますべき質としての時」。3週間ほど前にミサで読まれた福音「賢い乙女と愚かな乙女」の箇所では花婿を迎えるために準備する油をめぐってやり取りされたが、油は分けられるものであったのに対し、内面にある花婿を迎える「愛」や「希望」というものは分けることは出来ない。つまり準備するのは灯の油とは物量ではなく質そのものであることが示されていた。今日の時も質を向上させ、いつでも対応できる準備をすることを大切にすると解釈すれば、私たちは今からそれに対応できる体と心づくりを始めることが問われているのだろう。急に腹筋が割れるわけもなく、長い距離を走れるわけでもない。つまり日ごろの体調管理が大事な様に心づくりも必要なのだ。御降誕にむけて、また新たな共同体づくりにむけて、そして今訪れているコロナ対策に向けて「明日からします!」とダイエットのように振舞うのではなく、今この瞬間からできる実践を始めることに意味があるのです。

先々週の福音「タラントの話」にあるようにタレントをいただいた私たちは、一人一人に与えられている個性を輝かせ、自分なりの歩みに任され一歩踏み出す勇気が与えられていることに喜びを感じたい。聖書の言葉で語るならば、一日でも早い預金は利息が多く付くからである。心豊かになることを望む主人の姿は、この1カ月のミサの朗読の中にふんだんに隠されていた。そして今日の福音にある主人である神様は、私たちを信じて仕事を託して旅に出られている。これは門番を信頼している主人の愛。私たちも応えられるように、神様の信頼と愛を感じながら今からできることを行う者になっていきましょう。「待降節に入りました」という準備の挨拶は、怠け心の多い私たちに「実践を再開する時です」という合図なのです。』


2020年11月22日日曜日

王であるキリスト

 今年4月から、当教会を含む3教会(北11条、北26条)の協力司祭を務めておられますウルバン・サワビエ神父様(フランシスコ会)から、11月22日「王であるキリスト」の福音メッセージをいただきましたのでご紹介します。

 ウルバン神父様の前任地のカトリック戸塚教会ホームページに掲載されている転任にあたってのご挨拶と写真を転載させていただきます。

戸塚教会だより 2020年4月号 No.188 


【福音メッセージ ウルバン神父様】

2020.11.22 王であるキリスト

ウルバン・サワビエ神父 

今日は王であるキリストの祝日です。

この日はあんがい新しい祝日です。私は子供の時通った教会には大きな十字架がありました。そのイエス様の姿の十字架か私は好きでした。十字架の釘は大きかったけれども子供にとって恐ろしくなかった。体に傷と血があったがそれも痛そうに見えなかった。頭に冠があったが、冠にとげはなかった。王の輝く冠でした。イエスは手を広げて偉大なる力のある姿を現した。本当に王の姿でした。王らしい顔、優しい目のまなざしでずっと遠くまで見ているようがしました。誰を見て、だれを探しているでしょうか。イエス様、ぼくをも見ているかと聞いたこともありますが、私のほうへ見てくれませんでした。やっぱりイエス様は王様だ。この優しい、強いイエス様についていきたいと思いました。それで9歳に侍者になった時、いつも丁寧に、また丁寧に十字架の前に深いおじぎをしました。この故郷の十字架のイエス様はつねに心の中に残りました。

終戦後になって王であるキリストの祝日の時でした。私たち若者はみながある大好きな歌を生き生きした声で歌いました。 ‘わが王キリストよ、あなたのみ愛することを誓います、美しい白い百合のような愛、また忠実を、死に至るまで’。それを何回も張り切って歌いながら、体も心も熱くなって、心は革新と喜びにあふれた。やはりキリストは私たちの王です と私たちが深く感じました。

何年か後のことでした。渋谷か新宿駅のラッシュアワーに大勢の人々の間を歩いた時、人の大群衆でびっくりして、人に酔っていました。こんなに大勢の人を見たことはありませんでした。海の波のように見えました。その時思ったのは:イエス、あなたはどこにいるのか。あなたはここでも王なのか?あなたをどこもみえません。皆はあなたを知りません。あなたはいったいどこにいるでしょうか。何回も寂しそうに、悲しそうに心の中で言った。ある時声が聞こえるようにした。心配するな。私は皆の主、皆はわたしの子供ではないか。誰も私を知らなくても、私が一人、一人をしている。私はみなに命を与えたのではないか。私の手から出た心は愛に飢えている。またその心に私の声が聞こえる、私の慰め、励ます声。そしていつか私に会う。

40年前に数人の若者とともに韓国へ行きました。韓国戦そのあとで、生活はまだ厳しかった。ある日私たちはライ病者の村にも行きました。貧しいわら小屋の村でした。ある小屋の前に一人の男の人が座って誰かに自分の足を出した。その足の下はもうきえて、その足の残りの中から血とうみが流れ出た。その人の前に一人が土の上で座って病人の足を手にもって、それを治療して、血とうみを丁寧に洗っていた。私は王であるが、私が来たのは使えられるためではなく、使えるために来たと知った。その時私は心の底まで感動した。イエス様の姿が見えた。今日イエス様私とあなたを見ています。静かな声が聞こえるでしょうか。私について来ますか。あなたは最も小さな者にしたのは私にしたのである。


2020年11月15日日曜日

年間第33主日

 レイ神父様からいただきました年間第33主日の福音メッセージをご紹介します。



第一朗読は箴言(31・10-13, 19-29, 30-31)からです。本日選ばれた箇所はこの本の最終章の最後の半分で、理想的な妻への賛歌です。作者は、賢く、慎重で、働き者の妻は夫の人生に、そしてその民族に果たす役割が大いに賞賛されるに値すると見ています。

第二朗読は聖パウロのテサロニケの教会への手紙(5・1-6)からで、ここでパウロはキリストの再臨について議論を続けています。彼同様に、テサロニケの改宗者たちはその再臨の時期についてよくわかっていると言いました。説教の中で、それは突然であろうと主は言われたとパウロはすでに語ってましたが、このことは彼らを心配させるのではなく、毎日信仰の内に生きているため、彼らの準備は出来ているということです。

福音書はマタイ(25・14-30または25・14-15、19-21)からです。このたとえの教えは福音書の全てがそうであるように、初代の信者と同様に今日の私たちにも当てはまります。キリストや聖なる父との関係において、今日の私たちの世界は一世紀のパレスチナとよく似ています。キリストと神には反対する者と従う者がおります。今日の反対者はキリストの時代にファリサイ派の人々やそのリーダーたちの行動と同じ理由をもっています。彼らは約束の地、快楽と贅沢の王国を地上で求め、世俗的なものへの限りない自由が欲しいのです。うぬぼれたプライドは彼らの基準に合わない神格や神聖な権威には頭を下げようとはしません。ファリサイ派の人々のようにキリスト教は真実ではなく、キリストは君臨せず、最後の審判の日は来ないと思いこみ続けようとしています。

しかし、キリストや神を排除しようという努力にもかかわらず、小さな良心の声は完全にだまらせておくことはできません。かれらの愚かさをしつこく気付かせます。「飲み、食べ、寝て、楽しく」という快楽主義の言葉が響かない時もあります。努力に忠実なキリストに従う人々にはこのたとえばなしは励みであり慰めとなります。時には私たちの進み道を阻むものがあり、闘いは果てるともなく思えます。しかし神は私たち一人一人に最終の勝利を確実にする必要な助けを与えます。これらの助けは各自の必要に応じて与えられます。たとえ話にある5と2タラントンを預けられた僕たちはそれらを忠実にうまく使いました。1タラントン預かった者は1タラントンしか必要なく、忠実な僕であったなら、それをうまく活かすことができたはずでした。

永遠の幸せとは、この世で忠実に行ったことへの神聖な報酬です。3人目の僕の間違った言い訳は今も私たちの間で様々な形で繰り返されています。「神は厳格すぎる。そんな犠牲を払うことを私に期待できない。自分の為に備えなければならない。約束と脅しは単に口先だけかもしれない。清算しに、数えるために戻って来ないかもしれない。」これらの言い訳はこのたとえばなしでは間違っているとされています。

神は私たちのことをいつも心にとめてくださる優しい父です。私たちが必要な犠牲を払うことを大いに期待されてます。その方法はゴルゴタの地で示されました。神のために働くことで私たちは自分たちの未来に備えているのです。神からの栄光と私たちの永遠の救いは労働への等価です。神はもちろん清算するために戻ってこられますが、そのとき何か変えようとしても遅すぎます。賢くありましょう。まだ時間があるうちに訂正すれば、私たちの帳簿は計算の日には整っていることでしょう。

元の説教はフランシスコ会、ケビン・オサリバン神父により書かれたものです。


November15、2020

33rd Sunday in ordinary Time Year A

Sunday Readings

The first reading is taken from the Book of Proverbs 31:10-13, 19-20, 30-31. The verses chosen for today are taken from the last half of the last chapter of the book and are a hymn in praise of the ideal wife. The author saw to it that the part that a wise, prudent and industrious wife plays in a man's life, and hence in the life of the nation, deserved to be stressed and admired.

The second reading is from the first Letter of St. Paul to the Thessalonians 5:1-6. In this reading St. Paul continues his discussion of the parousia. He tells his Thessalonian converts that they know as much as he does about the time of that second coming. He had already told them in his preaching that our Lord had said that it would be unexpected. However, this need not frighten them, they would be prepared because they were living their Christian faith every day.

The Gospel is from St. Matthew 25:14-30 or 25:14-15, 19-21. The lesson of this parable, like all the teaching of the gospel, is as applicable to us today as it was to the first generation of Christians. In its relation to Christ and to his divine Father our world today is very similar to first century Palestine. Christ and God have opponents and followers. Their opponents today have the very same reasons that moved the Pharisees and leaders of the people in Christ's day. They want their messianic kingdom here on earth, a kingdom of pleasure and plenty; they want no limits set to their freedom to

follow their own earthly inclinations. Their pride in their own self-exalted dignity will not let them bow the head to any deity or divine authority which does not conform to their standards. Like the Pharisees they keep on trying to convince themselves that Christianity is not true, that Christ will not reign, that there will be no day of reckoning.

Yet with all their efforts to get rid of Christ and God, the small inner voice of conscience is not completely silenced. It has the nasty habit of reminding them of their folly. They have their troubled moments when the epicurean motto "eat, drink, sleep and be merry" does not somehow ring true.

For the followers of Christ who are sincere in their efforts, the parable has a message of encouragement and consolation. At times the road we have to travel seems strewn with obstacles, our battles seem never-ending, yet God has provided each one of us with the necessary helps to ensure the final victory. These helps are given according to each one's need. Those servants in the parable who received five and two talents used them faithfully and successfully. He who received one talent needed only one, and could have succeeded with it had he been a faithful servant

Eternal happiness is the divine reward for an earthly service faithfully rendered. The false excuse of the third servant is repeated in many forms among us still "God is too austere, he could not expect me to make such sacrifices. I have to provide for myself; his promises and threats may be only empty words. He may never return to demand a reckoning, to settle accounts with us. These and all other such excuses are proved false in this parable.

God is a kind Father who has our eternal interests at heart. He does expect us to make the necessary sacrifices. He showed us the way on Calvary. When working for God we are really providing for our own future; his external glory and our eternal salvation are the fruits of the same labor. He will certainly return to settle accounts—it will then be too late to make any changes. Let us be wise and make the changes now while we have time and then our books will be in order on the day of reckoning.

This homily was originally written by Fr. Kevin O'Sullivan, O.F.M.

2020年11月8日日曜日

年間第32主日 福音への一言

 湯澤神父様からいただきました主日メッセージ「福音への一言」をご紹介します。



2020年11月8日 年間第32主日(マタイ、25章1~13節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

今日の福音は、『マタイ福音書』の第五の説教集の後半に出てくる一つのたとえ話です。この部分は弟子たちに向けられた話で、一般の人たちに向けられたものではありません。つまり、キリスト者である私たちに向けられた言葉です。この前にあるノアの箱舟のたとえ話に出てくる、「目を覚まして」いなさいという言葉がここにも出てきます。どうやらこの言葉がこれらのたとえ話にとって重要な言葉のようです。この「目を覚まして」は、第一朗読にも登場してきます。ところが、この十人の乙女のたとえ話では、全員が眠りこけてしまいますから、「目を覚まして」とは、単純に「眠らない」ことを意味しているのではなさそうです。

ところで、「終活」という言葉を皆さんはご存知でしょう。今から十年ほど前から知られるようになった言葉で、自分の人生の終わりに向けた活動を意味しています。具体的には、遺言書を書いたり、お葬式や墓の準備をしたりなど、自分の身の回りの生前整理を意味していました。しかし、次第に「人生の終わりを考えることで、今をよりよく生きるための活動」を意味するようになりました。私たちは、「人はいつかは死ぬものだが、差し当たって今ではない、自分ではない」と自分とは無関係のものとして片づけています。しかし、終活は、その死を個人化します。即ち、自分の死を、自分の今の問題として取り上げ、今の自分を振り返り、意識して今を生きることを意味しています。

マタイのこの説教集は、神の国、特に終わりについてのイエス様の言葉で、旧約時代からある「黙示的説話」の形をとっています。この特徴の一つは、世の終わりについて語りながら、具体的個人的な今に目を向けさせることです。「死の個人化」に似ています。つまり、世の終わりを考えることで、今をよりよく生きることを勧告しています。『コへレトの言葉』の中に有名な「時の詩」があります。「すべてに時がある。……生まれる時、死ぬ時……泣く時、笑う時……抱擁する時、抱擁を遠ざける時……愛する時、憎む時」。コへレトは、まさに日常のあらゆる瞬間、それらの時が、神様の時、神様と触れる時になると述べています。

乙女たちにとって、居眠りしているその時が、「その時」になりました。「その時」、神様の声が聞こえます。「その時」は、灯を灯して、照らさなければならない「時」です。その「時」、油がない。油が必要な時に用意がなくて相応しく応えられない。その「時」肝心の物が用意できていない彼女らを「愚か」と呼んでいます。もしかしたら、そういう神様の時がある事にも気づいていないからかもしれませんね。神様の時、神様と出会う時、それは、日常茶飯事の出来事や人々の中にあるのです。「知恵の書」の言葉は、「(日常の彼方に)知恵(神様)に思いをはせることは、最も賢いこと、知恵(神様)を思って目を覚ましていれば、心配も消える」と読むこともできます。          湯澤民夫




2020年11月1日日曜日

11月1日「諸聖人」

 松村神父様からいただきました主日の福音メッセージをご紹介します。


幼稚園児のハナコちゃんは、両手いっぱいにお菓子を握りしめながら私のところにやってきた。ちょうどシュークリームをもらったのであげようとしたが、突然泣き出した。「どうしたの?」と声をかけると、両手のお菓子は大好きなお友達からもらった大切なお菓子でした。でも好物のシュークリームも欲しい。手のお菓子を置く場所もない。選びたいのに選べない心の葛藤。子どもらしい姿でありながら、そこから私たちの至らなさも気づかされたことがあった。

さて、山上の説教と呼ばれる冒頭の言葉「心の貧しい人々は、幸いである」という呼びかけは、本来「なんと幸いなることだろうか!」という驚きの呼びかけの知らせであった。マタイ福音書ではその前に病人を癒す場面が描かれていることから、イエス様ご自身がおびただしい病人を癒しながら、ご自身につき従ってきた人々をご覧になり感激したのではないだろうか。今日の喜びのメッセージはこのようにイエス様も貧しい人々から元気をもらったと理解したい。私もハナコちゃんから学ばせてもらったからである。

本来の貧しい人々は、権力者から虐げられた人々を指す。お金・権力・経験・伝統・制度などなど、人間の活動や社会の活動によって積み重ねてきた物における圧力に押しつぶされている人々を指すのではないか。しかし、いつもイエスはその正反対の場に出向き、癒し慰め勇気を与えてきた。しかし与える以上にイエス様ご自身がいつも感情豊かに、時には憤慨し、時には逆上し、時には感動していた。イエス様の心を動かしたものは人々の目が届かないところにある信仰の強さなのでしょう。それがイエスを知らない人であっても、神と唱えなくとも、救い主を求める姿の中に見出したのかもしれない。異邦人に対して、また異邦人の土地における癒しはまさにそのことを物語る。

この地上において能力を持つということはそれぞれの分野で選ばれた人だけに与えられるかもしれないが、弱くなることは誰にでもできる。子どもが大人に突然なることは出来ないが、子どもを体験している大人が子どものようになることが出来ることと同じである。貧しくなる事とは、回心して自分が持つ何かを捨てる事であろう。断捨離すれば身軽になる。物を持てば引っ越しは大変である。私たち司祭が転勤するたびにそのことを強く感じる。身軽になればどこにでも行くことが出来る。心身ともに所有することに固執しない生活を送りたいものだ。ハナコちゃんはそれを私に教えてくれたのだった。

聖人とは必ずしも私たちが理解するような立派な人ではありません。失敗も犯すような私たちと変わらない人です。罪もあります。しかしそれ以上にその人が活動や救い主である神へと、多くの人を導く活動を行えた人びとなのでしょう。皆さんも是非周りの人たちを眺めて聖人がいないか探してみてはいかがだろうか。かつてヨハネパウロ二世は青年たちに強く呼びかけました。「あなた方も聖人になりなさい!」と。実は私たちも聖人の延長線上におり、その可能性が開かれているからです。