2022年5月27日金曜日

5月29日 主の昇天

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】


2021年5月29日 主の昇天の主日

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様


  今日の第一朗読は、ルカが描いた『使徒言行録』の箇所で、イエス様が天に昇った後の出来が事が描かれています。ところが、『福音』朗読では、イエス様の宣教活動の終わりが描かれています。つまり、第一朗読では、後で起こった出来事が、福音朗読では先に起こっている出来事が朗読されます。先のものが後になり、後のものが先になる、いわば逆転現象が起きています。ですから、かえってその違いを意識することができます。

  福音書では、イエス様は、ご自分の宣教活動について説明した後、エルサレムを離れないように命じています。それは、聖霊を受けるためでした。他方、第一朗読では、出かけていくように勧めています。それは、聖霊を受けるからです。福音書では、「あらゆる国の人へ」と福音宣教を命じていますが、その地域は抽象的に語られています。しかし、第一朗読では、「エルサレム、ユダヤ、サマリア、地の果てまで」とより具体的な地名を挙げています。更に、『使徒言行録』の内容を見ると、エルサレムから始まる福音宣教は、ステファノの出来事を介してサマリアでの宣教に移り、最終的にフィリポが当時の地の果てと思われていたエチオピアの高級官僚に福音を伝えることで、より具体的になっています。そして更に、スペインを目指したパウロを考えるにいれると、その広がりが、より現実味を帯びてきています。

  二つの朗読を結びつけているのは、聖霊の授与による福音宣教です。聖霊降臨の出来事を介して二つの朗読は、エルサレムに留まるか、出発するかが異なりますが、結局は宣教に出かけるよう呼びかけているのです。ここで面白いのは、二人の人、天使の存在です。おそらく空の墓にいた天使たちでしょう。二人は弟子たちに「なぜ天を見上げて立っているのか」と注意しています。今日的な言い方で表すと、「なぜボケーっと立っているのか」と注意していると理解していいでしょう。弟子たちは、強く福音宣教へと促されています。

  福音書では、福音宣教への促しは、イエス様自身がしていますが、その促しは「食事を共にしていた時に」です。これはミサを暗示していると言えるでしょう。そして、ミサと福音宣教が密接に結びついていることを示しています。『使徒言行録』では、来週記念する聖霊降臨、つまり聖霊の働きと福音宣教が、『福音書』より密接に結び付けられていると言えるかもしれません。それに引き換え、『福音書』ではミサにより密接に結びつけられていると捉えることができます。

  さて、私たちは、ミサに出た時に福音宣教を意識するでしょうか。自分が派遣されていると意識するでしょうか。聖霊の働きだけではなく、ミサにおいてもイエス様は、その都度、私たちを福音宣教に派遣しているのです。このことを私たちは強く意識したいものですね。

湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


全能の神よ、

  あなたは御ひとり子イエスを、

  苦しみと死を通して栄光に高め、

  新しい天と地を開いてくださいました。

  主の昇天に、わたしたちの本来の姿が示されています。

  キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、

  ともに永遠のいのちに入らせてください。

   集会祈願より




第1朗読 使徒言行録 1章1~11節


 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、 イエスが行い、また教え始めてから、 お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、 天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

 イエスは苦難を受けた後、 御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、 四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、 父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、 あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 さて、使徒たちは集まって、 「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、 この時ですか」と尋ねた。 イエスは言われた。 「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、 あなたがたの知るところではない。 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、 また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、 雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 イエスが離れ去って行かれるとき、 彼らは天を見つめていた。 すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。 あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、 天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」




第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章24~28節、10章19~23節


 キリストは、まことのものの写しにすぎない、 人間の手で造られた聖所にではなく、 天そのものに入り、 今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。 また、キリストがそうなさったのは、 大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、 度々御自身をお献げになるためではありません。 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。 ところが実際は、世の終わりにただ一度、 御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、 現れてくださいました。 また、人間にはただ一度死ぬことと、 その後に裁きを受けることが定まっているように、 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、 二度目には、罪を負うためではなく、 御自分を待望している人たちに、 救いをもたらすために現れてくださるのです。

 それで、兄弟たち、 わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。 イエスは、垂れ幕、 つまり、御自分の肉を通って、 新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。 更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、 心は清められて、良心のとがめはなくなり、 体は清い水で洗われています。 信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 約束してくださったのは真実な方なのですから、 公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。




福音朗読 ルカによる福音書 24章46~53節


 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「聖書には)次のように書いてある。 『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、 その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。 エルサレムから始めて、 あなたがたはこれらのことの証人となる。 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。 高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、 手を上げて祝福された。 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。