湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音メッセージ 湯澤神父】
2022年5月8日 復活節第4主日
✚ Pax et Bonum
兄弟姉妹の皆様
今日の福音の箇所は、短いですが、善い牧者であるキリストについて語っています。この章(10章)では、初めからイエス様の教え、羊飼い、羊の門、良い羊飼いなどのたとえが語られています。羊飼いのイメージは、旧約聖書の中でも用いられており、もともと遊牧民族であったイスラエル人たちにとってイメージしやすいものだったのでしょう。イエス様も、見失った羊など、いくつかたとえ話を残しています。続いて神殿奉献記念祭の頃の出来事として、今日の福音の箇所が登場します。これは、これらのたとえ話の前の盲人を癒す出来事(9章)と関連しています。見ても見分けられない、聞いても聞き分けられないユダヤ人に対する言葉です。
話は飛びますが、私がまだ大学生だった頃、ある日、主任司祭が「怒られちゃったよ」と話しかけてきました。「どうしたんですか」「『〇〇に、お宅は男の子が多いのだから一人くらい神様に捧げてはどうか』と言ったら、『どうでもいい子なんて一人もいません。一人ひとり私の大切な子です』と叱られた」。その頃は、子供が多い家庭がいくつかあって四五人の男の子がいる家庭もありました。主任司祭としては、一人くらい神様にお捧げしていいのではないかと考えたのでしょうが、「一人くらい」という言葉にお母さんとしては引っかかったようです。
イエス様と羊の関係も同じなのでしょうね。たとえ百頭いても、「百頭いるから一頭くらいはいなくなってもいいや」という関係ではないようです。共観福音書の見失った羊を探す例えはこの関係を示しています。ヨハネの福音書では、この関係が直接語られています。「誰も奪い去ることはできない」。なぜなら、何よりも価値があるから、大切だからです。イエス様は、ご自身そして御父と私たちとの関係をこう表現しています。旧約聖書では、民と契約を結んだ神様を、「慈しみと誠実さに満ちている」と表現しています。イスラエルの民を植民の中から選だ慈しみ深い神様は、その民との関係に「忠実であること(誠実さに満ちている)こと」を意味しています。父である神様と民との関係は、イエス様と私たちの関係と同じです。
ここで、少し考えてみましょう。絆は、誰かとの絆、双方向的な関係です。一方通行的な関係ではありません。イエス様や神様がこうした絆を私たちと結んでくださったとしたら、その相手である私たちはどうでしょう。私たちは、選んで、新しい命を与えてくださった父である神様とイエス様に対して、「誠実」でしょうか。イエス様は、私たちに別のたとえ話でこれを表しています。ブドウの幹と枝の関係です。ヨハネは、共観福音書と違って特にイエス様との人格的な、個人的なつながり、絆を強調しています。イエス様は、羊飼いのたとえで神様の側からの関係を語っていますが、私たちの側からの関係を考えてみることも重要なことではないでしょうか。絆は相互の関係ですから。 湯澤民夫
【聖書朗読箇所】
救いの源である神よ、
まことの過越(すぎこし)の小羊であるイエスは、
すべての羊にいのちを与えるために自ら苦しみをお受けになりました。
主の過越をともに祝うわたしたちを、
キリストの愛といのちで満たしてください。
集会祈願より
第1朗読 使徒言行録 13章14、43~52節
パウロとバルナバはペルゲから進んで、
ピシディア州のアンティオキアに到着した。
そして、安息日に会堂に入って席に着いた。
集会が終わってからも、
多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、
二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。
次の安息日になると、
ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。
しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、
口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。
そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。
「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。
だがあなたがたはそれを拒み、
自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。
見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。
主はわたしたちにこう命じておられるからです。
『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、
あなたが、地の果てにまでも
救いをもたらすために。』」
異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。
そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。
こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。
ところが、ユダヤ人は、
神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、
パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。
それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。
他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
第2朗読 ヨハネの黙示録 7章9、14b~17節
この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って[いた。]
長老はまた、わたしに言った。
「彼らは大きな苦難を通って来た者で、
その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、
昼も夜もその神殿で神に仕える。
玉座に座っておられる方が、
この者たちの上に幕屋を張る。
彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、
太陽も、どのような暑さも、
彼らを襲うことはない。
玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、
命の水の泉へ導き、
神が彼らの目から涙をことごとく
ぬぐわれるからである。」
福音朗読 ヨハネによる福音書 10章27~30節
わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。
わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
わたしは彼らに永遠の命を与える。
彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
わたしの父がわたしにくださったものは、
すべてのものより偉大であり、
だれも父の手から奪うことはできない。
わたしと父とは一つである。」