2022年11月12日土曜日

11月13日 年間第33主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。





【福音メッセージ】 年間第33主日 C年 2022年11月13日 松村神父

現代人にとって世の終わりとは何を示すのでしょうか?1999年を迎えた時、あちらこちらで“2000年になるとコンピューターが誤作動を起こす”とか、“ノストラダムスの大予言で地球が滅びる”とか、はたまたこの世の終わりをつげカルト教団が街のあちらこちらで説法を説いて、市民をあおっていました。私自身も声をかけられた事がありました。「あなたは不幸にみえますよ!手をかざしてあげますから安心してください。」と。よっぽど私の顔が暗く見えたのでしょう。でもニコニコして歩いている人などは逆に奇妙ですよね。

 この世の終わりや、人生の終わりに恐怖を覚えるということはどういった心の動きがあるのでしょう。それは“未練”と“執着”ということなのかもしれません。それは何かに対する“不完全さ”を表すと同時に、「もっと」「さらに」という“欲求”の表れかもしれません。逆にそれだけ“成し遂げていない”思いや、“満足できていない”ということなのかもしれません。

 今日の福音の前提には、エルサレム神殿を見たイエスのこの世的人間の儚さが目に映っていたことがあげられます。この世で成し遂げることに翻弄される人々。しかし神殿が後に崩壊の道をたどることを予見し、今の“人”の努力には限界がある事を示します。ここでイエスが語りたいのは“神”の働きを中心に置かなければならないこと。神殿は人の体そのものである事が忘れ去られ、形と見えるものにその重要度が移されてしまっていることです。イエスの到来は「神を愛し、隣人を愛すること」を宣べ伝えることで、形・体裁に力点が置かれる事ではありません。ヘロデ大王によって改築されたエルサレムの神殿は人間のエゴそのもので形作られてしまったことへの嘆きなのかもしれません。つまり本来的ではないということです。

 揺るがない神の示す道がありますが、私たちの世界には横から人の想いで意見を指し示す人が現れたり、「私の信仰こそ正しい」と、自分の信仰を揺るがす人がいます。これを偽預言者やイエスの名を語るものと表現されています。そこにいさかいや戦いが生じます。迫害もあり苦しみも生じます。しかし神の想い、キリストの想いを中心に置いたときには、それらの事は「神のみ旨に」と聖母マリアのようにお捧げして、忍耐の中で“しるし”が現れるまで耐え忍ぶこと、そして自身の中におごり高ぶる心に回心を促すことこそ大切ではないでしょうか。なかなか一人で乗り越えることは難しいかもしれません。ですから教会共同体の謙虚な分かち合い、現在進められているシノドスの動きは、私たちを成長に導いていくのです。愚痴のはけ口の場ではなく、自身の至らなさを分かち合い、全ての人の回心への神の導きを通して、主の来臨まで耐え忍んでいきたいと思います。耐え忍ぶと言われると苦しいように感じますが、私たち一人一人は先に救いの道を示された弟子のひとりであることに、安心と勇気をもって、互いの信頼のうちに過ごしていきたいと思います。


【聖書朗読箇所】

すべてのものの主である神よ、

  あなたはご自分をおそれ敬う者を助け、導いてくださいます。

  み前に集うわたしたちを聖霊によって強めてください。

  どのような試練にあっても、キリストに従うことができますように。

集会祈願より



第1朗読 マラキの預言 (マラキ3章19-20a節)

見よ、その日が来る炉のように燃える日が。

高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。

到来するその日は、と万軍の主は言われる。

彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。

その翼にはいやす力がある。



第2朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 (Ⅱテサロニケ3章7-12節)


(皆さん、あなたがたは、)わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。

わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。


また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。

むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。


援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、

あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。


実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、

「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。


ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、

少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。


そのような者たちに、わたしたちは

主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。

自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。



福音朗読 ルカによる福音 (ルカ21章5-19節)


(そのとき、)ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。


「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」


そこで、彼らはイエスに尋ねた。

「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」


イエスは言われた。

「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」


そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

2022年11月5日土曜日

11月6日 年間第32主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第32主日 C年 2022年11月6日 レイ神父

イエスを試すのにサドカイ派の人々は難しい質問をしました。跡継ぎを残さずに亡くなっていった7人の兄弟のことを尋ねます。長男が亡くなるとその妻を次々とその兄弟がめとっていくのです。

彼らの質問はこうでした。復活の時この女はだれの妻となるのか?イエスを試すために彼らはこのように尋ねたのです。前のところではサドカイ派の人々は復活があることを否定しています。

イエスは、結婚は生きている時のことであり復活の時の事ではないと彼らに説明し、答えます。それは罠にかけようとしたサドカイ派の人たちを負かし、死者の復活を信じていた律法学者たちはイエスを讃えます。

この話は、私たちに真実は完全でそれは打ち負かすことはできないことを明らかにします。真実は常に勝利します。イエスは何が真実かを述べ、サドカイ派の人々の愚かさを暴露します。どんな人間の策略も真実を打ち負かすことはできないと教えます。

これは私たちがここで学べる大切な教訓であり、生活全てにあてはまります。サドカイ派の人々のような質問を受けることはなくても、人生の中で難しい質問に出会うでしょう。イエスにしかけられたようなものでなくても、そのような問は必ずあるでしょう。

私たちがどんなに困ってもその答えはある、とこの福音は確信させてくれます。たとえ理解しえなくても、もし真実を探し求めるのなら、私たちはその真実を見つけ出すのです。


今日は、あなたの信仰の旅で最も挑戦的なことについて黙想しましょう。 それは死後の世界、苦しみ、あるいは創造についての質問かもしれませんし、大変個人的なこともかもしれません。あるいは現在はまだ、私たちは主への質問に充分な時間を取ってないかもしれません。それが何であれ、全てのことに真実を求め、主に知恵を尋ね、そうすることで日毎にさらに深い信仰に入って行くことでしょう。


【聖書朗読箇所】

すべての人の救いを望まれる神よ、

   ひとり子イエスは、死からの復活によって、

   永遠のいのちの扉を開いてくださいました。

   ここに集められたわたしたちに希望の光を注ぎ、

   尽きることのない喜びで満たしてください。

集会祈願より



第1朗読 マカバイ記 (Ⅱマカバイ7章1-2,9-14節)

また次のようなこともあった。

七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。


彼らの一人が皆に代わって言った。

「いったいあなたは、我々から何を聞き出し、何を知ろうというのか。我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。」


(二番目の者も)息を引き取る間際に言った。

「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」


彼に続いて三番目の者もなぶりものにされた。

彼は命ぜられると即座に舌を差し出し、勇敢に両手を差し伸べ、毅然として言った。

「わたしは天からこの舌や手を授かったが、主の律法のためなら、惜しいとは思わない。

わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと確信している。」

そこで、王自身も、供の者たちも、苦痛をいささかも意に介さないこの若者の精神に驚嘆した。


やがて彼も息を引き取ると、彼らは四番目の者も同様に苦しめ、拷問にかけた。

死ぬ間際に彼は言った。

「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。」



第2朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 (Ⅱテサロニケ2章16-3章5節)

(皆さん、)わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。


終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。

すべての人に、信仰があるわけではないのです。

しかし、主は真実な方です。

必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。

そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。


どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。



福音朗読 ルカによる福音 (ルカ20章27-38節)

(そのとき、)復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。


「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。

ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。

すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」


イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。

死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

2022年10月29日土曜日

10月30日 年間第31主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第31主日 C年 2022年10月30日 松村神父

今日の福音、有名なザアカイについての物語について次のような見方をしたことがある。最初ザアカイは木の上にいる。イエスは下を歩く。見下ろすザアカイと見下ろされるイエス。次にイエスの呼びかけでザアカイが降りてくると、ザアカイは背が低いので最初はイエスを捜すところから始まり、そして見つけるとイエスを見上げる。イエスは背の低いザアカイを見下ろす。最後にイエスとザアカイは共に家に入り椅子に座り食卓に着くと、ほぼ同じ目線となる。

ここで大きく変わったのはイエスによる呼びかけであろう。「人を見下すのではなく、地に足を付けてごらん。ザアカイに自らの行動を通して伝えたかったのは、人を見下ろすのではなく、与えられた自分を受け入れ、すべてを見上げる姿勢、すなわち尊敬の念をもって見る事ではないだろうか?ということ。自分の存在、体格、性格、職業、どれをとっても決してよろしくはない。しかし、「それが事実で、それが自分そのもの」であるという劣等感を捨てて、受け入れたザアカイの心は晴れやかになり、解放感に心が満たされたのではないだろうか。イエスは「今のあなたが、あなたそのもの。自分を愛するように隣人を愛せ」ということを思い出し、「自分を愛することの大切さ」を伝えたとも読み取れる。そしてそこに衝撃的な一言。「あなたの家に泊まります。」というイエスの呼びかけ。そこで湧き起る衝動は、自分の心をつかんだ主が、私を選ばれたことへの喜び。出エジプト記には過ぎ越しによる救いが現されているが、ここでは主が目の前で立ち止まられる出来事。同じ目線に立ち関わるイエスとの体験は、多くの弟子が体験した出来事。それは弟子以外の他の人々にも与えられていたのではないだろうか。そしてこの選びこそ召命そのものでもあろう。選ばれた者はすぐにその使命に気づかされる。ザアカイの使命は、受けた恵を返すこと。しかもそれをさらに実践にまで高め「財産を半分施し、また罪を犯した場合は4倍にしてでも返済し、赦しを願う」こと。

ザアカイの人間性はこの福音書では最初は見た目だけであったが、徐々にその姿が内面にまで掘りさげられ、イエスの前で丸裸にされた。そしてなすすべもなくあらわにされた人ザアカイは、最後にイエスに語ったことは回心による信仰宣言だった。イエスが最も望んだ結果だったに違いない。無くした1枚の金貨が返ってきた出来事と同じである。

私たちはミサで定型文の信仰宣言を唱えています。しかし、他の場では祈りとして、私たち一人一人の信仰宣言があってもいいのではないか。喜びの・赦しの・栄光の信仰宣言等。長い信仰宣言でなくても私たちのつたない言葉が、「イエスは主である」ということを語れる言葉は、すべて信仰宣言であることに気づかされる。今日の第一朗読の知恵の書の一文一文が、私たちにその信仰宣言の語り方を伝えるために描かれているように感じられる。

さぁ、今日も私の中から湧き起るイエスへの想いを信仰宣言にして捧げてみようじゃありませんか。


【聖書朗読箇所】

いつくしみ深い神よ、

  あなたは失われたものを探し救うために、

  ひとり子を世にお遣わしになりました。

  きょうここに集うわたしたちが、

  救い主であるイエスを迎える喜びに満たされますように。

集会祈願より


第1朗読 知恵の書 (知恵 11章22-12章2節)

(主よ、)

御前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、

朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。

全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、

回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。

あなたは存在するものすべてを愛し、

お造りになったものを何一つ嫌われない。

憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。

あなたがお望みにならないのに存続し、

あなたが呼び出されないのに存在するものが

  果たしてあるだろうか。

命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、

  あなたはすべてをいとおしまれる。

あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。

主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、

罪のきっかけを思い出させて人を諭される。

悪を捨ててあなたを信じるようになるために。


第2朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 (2テサロニケ1章11-2章2節)

(皆さん、わたしたちは)いつもあなたがたのために祈っています。 どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、 また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、 わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、 あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。

 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、 そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。 霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、 主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、 すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ19章1-10節)

(そのとき、)イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 そこにザアカイという人がいた。 この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 イエスがどんな人か見ようとしたが、 背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。 そこを通り過ぎようとしておられたからである。 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 これを見た人たちは皆つぶやいた。 「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。 「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。 また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 イエスは言われた。 「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

2022年10月14日金曜日

10月23日 年間第30主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第30主日 C年 2022年10月23日 レイ神父

ファリサイ派の人と徴税人のたとえ

この福音の箇所はファリサイ人と徴税人のたとえ話です。このたとえでは二人の態度の際立った対比がされています。まず、ファリサイ人の態度は自身や世間のイメージを高く評価し、自らの罪のことは意識していないということがわかります。

次に徴税人の態度は自分の罪を深く意識し、それを悔やみ、神の憐れみを必要としていることがわかります。この全く異なった二人の態度の結果は、徴税人は義とされて家に帰り、一方でファリサイ人はそうではなかったとあります。義とされるとはどういうことでしょうか?それは徴税人は明らかに罪悪感を持っており、真理に根差していたのです。かれは憐れみを必要としている事をわかっていたしそれを懇願して、それを受け取ったのです。彼は自分にも、他人にも、神にも嘘はつかなかったのです。彼は自分が何者かがわかっており、そしてこの真実により神は彼を高めたのです。徴税人が義とされたのは、彼の人生における罪の許しとそして神からの憐れみを授かることだったのです。

ファリサイ人の方は皆に見えるように立ったことで、ある意味自分自身は気持ちよく感じていたかもしれません。自分の正しさを確信していましたが、しかしそれは正しさではありませんでした。ただ自分が正しいと思っていただけです。彼は嘘に生き、そしてその嘘を信じており、他人にもその嘘を信じ込ませようとしていたかもしれません。しかし事実はそのままです。ファリサイ人は不正であり、そして真に義とされません。

この箇所からくみ取るべきことは真理に生きる大切さを深く悟ることです。誤った自己認識をするものは自分をだまし、そして他人さえもあざむくかもしれません。ですが神をだますことはできませんし、おのれの魂の平安を得ることもできません。わたしたちは皆自分たちの罪や弱さを謙虚に認め、そうすることで唯一の救いである神の憐れみを乞うのです。.

この徴税人のことを今日は黙想しましょう。「神様、罪人の私を憐れんでください。」(ルカ18章13節)あなたの祈りにしてください。神の憐れみが必要だと認め、神の義のうちに神の憐れみによってあなたを高めましょう。


【聖書朗読箇所】

恵み豊かな神よ、

  わたしたちが自分のありのままを差し出すとき、

  あなたは大きな愛をもって受けとめてくださいます。

  ともに祈るわたしたちが、あなたにすべてをゆだねることができますように。

集会祈願より


第1朗読 シラ書 (シラ 35章15b-17,20-22a)

 主は裁く方であり、

人を偏り見られることはない。

貧しいからといって主はえこひいきされないが、

虐げられている者の祈りを聞き入れられる。

主はみなしごの願いを無視されず、

やもめの訴える苦情を顧みられる。

御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、

その祈りは雲にまで届く。

謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、

それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。

彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、

正しい人々のために裁きをなし、

  正義を行われるときまで。


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (2テモテ 4章6-8,16-18節)

(愛する者よ、)わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。 世を去る時が近づきました。 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、 決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 今や、義の栄冠を受けるばかりです。 正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。 しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、 だれにでも授けてくださいます。

 わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、 皆わたしを見捨てました。 彼らにその責めが負わされませんように。 しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、 すべての民族がそれを聞くようになるために、 主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。 そして、わたしは獅子の口から救われました。 主はわたしをすべての悪い業から助け出し、 天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。 主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ18章9-14節)

(そのとき、)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、 イエスは次のたとえを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。 一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。 『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、 姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者 でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、 胸を打ちながら言った。 『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、 あのファリサイ派の人ではない。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

10月16日 年間第29主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第29主日 C年 2022年10月16日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音も、ルカだけが残している個所です。ルカは、イエス様が「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を教えるためにこのたとえ話を残したと記しています。そして、最後にこうした強い信仰があってほしいというイエス様の望みを付け加えています。

  ところで、今日の第一朗読は、『出エジプト記』から採られています。イスラエル民族は、シナイ山で神様と契約を結んで神の民として歩み始めました。しかし、まだ神様に助けてもらう必要がありました。同時にまた、自分の力で歩まなければなりませんでした。つまり、異民族から食べ物や水を奪う必要がありました。つまり、勝利できる部族や民族を選び、戦いを挑み、食べ物や財産を略奪しなければなりませんでした。そうしないと生きていけないからです。その最初の相手がアマレク人でした。アマレク人にしてもイスラエル人にしても生きるか死ぬかですから必死で戦います。ここではモーセが手を挙げている間は、優勢に戦えていますが、疲れて手を下すとアマレク人が優勢になり、一進一退の戦いが続いたと記されています。夕方までこの戦いは続きましたが、ここでは象徴的な形が記されています。イスラエル人にとって手を上げるとイスラエル人は優勢となり、疲れて手を下すと劣勢になった、と。モーセが手を上げることは祈りの一つの形だったのです。つまり、モーセとその助け手たちは、一日中モーセと共にいて、祈り続けたことになります。

  この話しは、裁判官を訪れて願い続けた婦人の姿にどこか似ています。神を畏れず人を人とも思わない裁判官は、冷徹で非情な裁判官というよりは、ある意味では公正な裁判官と言えるでしょう。何ものにも左右されない公正さを持ち合わせています。そこに一人の婦人が尋ねてきます。この裁判官は、最初は婦人の訴えを取り上げようとはしませんでしたが、婦人の執拗さに、ついに取り上げることにしました。

  最初のアマレクの出来事もこの婦人の出来事も、物事の善悪を問う話ではありません。一日中祈り続けたモーセと従者のように、ひっきりなしにやって来る婦人。この祈り続ける姿をイエス様は問題にしたかったようです。そこには頼り切る姿、絶えず祈る姿を見ることができます。

イエス様は最後に言います。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」と。十字架を目の前にしてのイエス様の言葉であることを心に留めましょう。その時、イエス様を、そして神様を信頼し、頼る心をもって十字架に、また御父に迎うことができるでしょうか。徹底的に、頼れるでしょうか。イエス様の言葉は、単に祈り方を教える言葉ではなく、もっと厳しい言葉のようですね。        湯澤民夫


【聖書朗読箇所】

信じる者の力である神よ、

  あなたは呼び求める者の願いにこたえてくださいます。

  わたしたちが祈りと信頼の心をもって、あなたに近づくことができますように。

集会祈願より


第1朗読 出エジプト記 (出エジプト 17章8-13)

 アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、 モーセはヨシュアに言った。

 「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。 明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」

 ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。 モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。 モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、 手を下ろすと、アマレクが優勢になった。 モーセの手が重くなったので、 アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。 モーセはその上に座り、 アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。 その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。 ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (2テモテ 3章14-4章2節)

 (愛する者よ、)あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。 あなたは、それをだれから学んだかを知っており、 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。 この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、 あなたに与えることができます。 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、 人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、 十分に整えられるのです。

 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られる キリスト・イエスの御前で、 その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。 御言葉を宣べ伝えなさい。 折が良くても悪くても励みなさい。 とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ18章1-8節)

 (そのとき、)イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、 弟子たちにたとえを話された。 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。 ところが、その町に一人のやもめがいて、 裁判官のところに来ては、 『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。 しかし、その後に考えた。 『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから 、彼女のために裁判をしてやろう。 さもないと、ひっきりなしにやって来て、 わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 それから、主は言われた。 「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、 彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。 しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

2022年10月8日土曜日

10月9日 年間第28主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第28主日 C年 2022年10月9日 松村神父

水平社宣言100年にあたり、現在シンポジウムが数度行われ改めて忘れてはならない事が思い起こさせられています。さて、この水平社宣言とは北海道の人にはなじみがないと思います。なぜならばその宣言は部落差別に対して、強い思いのなか部落の人々がその人権を主張し、社会を変えようとした宣言であるからです。蝦夷全体がそもそも部落のようだという人もいるほど、私たちはすでにその中で生きていますし、江戸以降の歴史が薄い北海道にとって認識が薄いのは致し方ありません。せいぜい松前藩によるアイヌ民族迫害やオホーツク沿岸に居住されていた北方少数民族ぐらいしか脳裏をよぎらないことでしょう。しかし誰しも差別を身近なものとして、そこに向かって思いめぐらすことなく世界の家族の共存の道はありません。

今日の聖書では重い皮膚病の人を中心に描かれています。「ハンセン病」と呼ばれ、かつて日本では「ライ病」と呼ばれていた人。「ライ」は差別用語にもなり、家族親族まで忌み嫌われていきました。

少し話は変わりますが、先週、私の恩師である元東京カトリック神学院の院長を務めた東京教区の寺西英夫神父様が亡くなりました。寺西神父からは神学生時代に随分と心の助けをいただきました。その中でも神山復生病院に一緒に行った時の事を思い出します。

まだ入学して間もない私にとって、初めて見たハンセン病の一人の患者さんは驚く姿をされていました。目は白濁、鼻は崩れ落ち、手足の指は無く、口も裂けていました。寝たきりのその患者さんは80代。その方のもとに寺西神父と共に二人で会いに行ったのですが、寺西神父は当たり前のように枕元に近寄り、ティッシュをつまんで零れ落ちるよだれをふきながら優しく声をかけられました。もちろん今の時代は感染することはありませんが、衝撃が走り近寄ることに恐れが生じました。しかし寺西神父の姿によって、気が付いたら足をさすりながら自己紹介を始めていました。その間僅か10秒ほどでしょうか。

この寺西神父の姿を見て患者さんに磁石のように引き寄せられた体験は、患者さんへの自己の感情や意識した壁を越えられたといった問題ではなく、神父さんの姿の中から勇気や力が湧いたことを思い出させられました。

理屈で整理することが得意な私にとって、引き寄せられた体験は初めてだったかもしれません。この差別を受けている人たちへの関わりとは、自分の能力や態度ではなく、私たちに与えられた神の態度とその恵みに突き動かされる衝動なのでしょう。神学生になって間もない頃のこの体験は、貴重なものでした。

今日の福音では異邦人のみが感謝のためにイエスのもとに戻ります。この出来事は信仰生活が長いから、年長者だから、信仰に熱心だからという“言い訳や主張”を否定し、神から受けた恵みを“受け止められるセンス”を求めていることが語られています。

たった10秒の中に起きた自分の中での出来事を、その後何度も何度も反芻し考えていく中で、センスの無い私でも寺西神父を通して自分の中に起きた神体験は今も忘れることはありませんし、忘れてはならないと感じています。そしてそのことに限らず、同時に差別を受ける人々がまだ大勢居り、私にさらに心の開放を求めている主がおられることも忘れてはならないことが語られていると感じました。


【聖書朗読箇所】


いつくしみあふれる神よ、

  あなたはすべての人をいやし、豊かないのちを与えてくださいます。

  ここに集うわたしたちが感謝の心を一つにして、賛美の祈りをささげることができますように。

集会祈願より


第1朗読 列王記 (列王記下 5章14-17)

  (その日、シリアの)ナアマンは神の人(エリシャ)の言葉どおりに下って行って、ヨルダン(川)に七度身を浸した。 彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。

 彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。 「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。 今この僕からの贈り物をお受け取りください。」 神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。 わたしは受け取らない」と辞退した。 ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。 ナアマンは言った。 「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。 僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物や その他のいけにえをささげることはしません。」


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (2テモテ 2章8-13節)

 (愛する者よ、)イエス・キリストのことを思い起こしなさい。 わたしの宣べ伝える福音によれば、 この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。 この福音のためにわたしは苦しみを受け、 ついに犯罪人のように鎖につながれています。 しかし、神の言葉はつながれていません。 だから、わたしは、選ばれた人々のために、 あらゆることを耐え忍んでいます。 彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。 次の言葉は真実です。

 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、

  キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、

  キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、

  キリストもわたしたちを否まれる。  わたしたちが誠実でなくても、

  キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自身を否むことができないからである。」


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ17章11-19節)

 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、 遠くの方に立ち止まったまま、 声を張り上げて、 「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、 「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。 彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、 大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。 この人はサマリア人だった。 そこで、イエスは言われた。 「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 それから、イエスはその人に言われた。 「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

2022年10月1日土曜日

10月2日 年間第27主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第27主日 C年 2022年10月2日 レイ神父

この命令を行うのは難しいです。私たちはたいてい上手に何かをしたり、義務を果たしたときには褒められ認められることを求めます。私たちは注目されたいのです。これは普通のことですが、とても謙虚といえる反応ではありません。謙虚さには様々な程度があり、最もへりくだった人が上記の一節を繰り返し、それを意味することができるのです。

まず、神のご意志は私たちにとって良いものであると気づかねばなりません。それは私たちに愛の義務を課します。神の意志を果たすとき、そのことだけを喜ぶべきです。なぜならそれは良いことだからです。神の意志を果たすそのことは私たちの喜びの源となります。他人から認められることではありません。

一方、他の人の良さを見てそれを認めるのは良いことです。その人たちのエゴを助長するためではなく、良いことがなされたと神を称えるためにするのです。そして他の人から私たちの生きざまに神のご意志が成し遂げられた、と認められたとき、私たちはその賞賛を自分のプライドにするのではなく、神は良いものであり、神の意志がなされつつあるのだと直に認めなければなりません。私たちは「しなければならないこと」が出来たことに感謝すべきです。

神のご意志に聖なる義務として従うことで、私たちはそれをより完全に果たすことができます。神の意志を果たすことが何か途方もないことのように思えるとき、私たちは正しいやり方をしていないのかもしれません。それは愛からの任務であり、なすべき当たり前の行為であると見なされるとき、神の意志により完全に従うことはたやすいのです。

この謙虚さについて今日は黙想しましょう。「私どもは取るにたらない僕です。しなければならないことをしただけです。」そう言ってみましょう。そのつもりでいましょう。そしてこの言葉をあなたの日々の神への奉仕への基礎にしてみてください。そうすることであなたは聖性への「高速コース」につくのです。


【聖書朗読箇所】

父である神よ、

  あなたはすべての人を招き、信仰の道を歩むよう支えてくださいます。

  キリストの名のもとに集うわたしたちが、信じる心をたえず新たにし、

  福音をよりどころとして生きることができますように。

集会祈願より


第1朗読 ハバククの預言 (ハバクク1:2-3,2:2-4)

 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、 あなたは聞いてくださらないのか。 わたしが、あなたに「不法」と訴えているのにあなたは助けてくださらない。

 どうして、あなたはわたしに災いを見させ 労苦に目を留めさせられるのか。

暴虐と不法がわたしの前にあり争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。


主はわたしに答えて、言われた。

「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。 定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。 それは終わりの時に向かって急ぐ。 人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。 それは必ず来る、遅れることはない。 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (Ⅱテモテ1:6-8 ,13-14)

(愛する者よ、)そういうわけで、わたしが手を置いたことによって あなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。 神は、おくびょうの霊ではなく、 力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 だから、わたしたちの主を証しすることも、 わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。 むしろ、神の力に支えられて、 福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。 キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、 わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。 あなたにゆだねられている良いものを、 わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ17:5-10)

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 主は言われた。 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、 この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、 言うことを聞くであろう。

 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、 その僕が畑から帰って来たとき、 『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、 わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。 お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 あなたがたも同じことだ。 自分に命じられたことをみな果たしたら、 『わたしどもは取るに足りない僕です。 しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

2022年9月23日金曜日

9月25日 年間第26主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第26主日 C年 2022年9月25日 湯澤神父

兄弟姉妹の皆様

  この箇所はルカだけが残しているたとえ話です。お金持ちがお金持ちらしい生活をしています。その門前にラザロという皮膚病を病む貧しい人が物貰いをしています。お金持ちもラザロがいることを知り、家の出入りのたびに、なにがしかの施しをしていたのでしょう。また、ラザロもお金持ちの家の入り口にいて、お金持ちから何らかのものを、何らかの施しを受けていたのでしょう。おそらくこれが彼らの日常的な生活だったのでしょう。金持ちもラザロを虐めていたわけではなく、日常というのはそうしたものではなかったかと思います。私たちは、こうした日常生活を想像することができます。

  しかし、イエス様があえてこの話をしたのは、それで十分ではなかったからだと思います。イエス様は、最初に「モーセと預言者に耳を傾けなさい」とのべています。これは、日常、常識の世界です。旧約聖書では、弱い人、貧しい人に心を配るようにと教えています。特に、孤児、未亡人、難民に対して配慮することが求められています。彼らは、食べる手段を持たないからです。こういう在り方は、隣人愛の教えとして旧約聖書の中で繰り返し教えられています。ですから、たとえばホームレスの人たちにワンコインを施すことはある意味では普段の日常なのです。

  しかし、ここで、イエス様は二つのことを教えているのではないでしょうか。一つは、もう一度その人たちを見直してみることです。イエス様は、サマリア人のたとえ話をしています。ファリザイ派の人々も祭司も悪い人ではなかったでしょう。しかし、自分の日常を生きたのではないでしょうか。彼らは与えられた使命、与えられた仕事を果たすことそれを優先したに過ぎないでしょう。しかし、そこでもう一度怪我人に目を注いだのはサマリア人でした。イエス様は、日常の中で出会う人たちの中でもう一度見直す必要のある人のいることに気付いて欲しかったのではないかと思います。この金持ちにとっては、それが、毎日が見慣れたラザロではなかったかと思います。

  もう一つは、イエス様の十字架です。イエス様はこの話を十字架に向かうときに話をしています。そして、十字架を暗示することを金持ちに語らせています。「誰か死んだ者が生き返って兄弟のところに行ったら気が付くのではないでしょうか」。しかし、アブラハムの口を借りてイエス様は語っています。「旧約聖書で語られていることが理解できなければ、実際十字架にかかって死んでもそれが理解できないだろう」。十字架の在り方は、人のためにという在り方です。

  こうして見ると、実は、イエス様の言いたいことは一つの同じことだったのではないかと思います。このたとえ話を通して、もう一度普段の在り方を見直し、一番そばにいる人を見直し、人のために生きることが何か、考え直してはいかがでしょうか。


【聖書朗読箇所】

 いつくしみ深い神、

  苦しむ者の叫びを聞き、

  貧しい者の嘆きにこたえてくださる方。

  あなたのもとに集まったわたしたちに

  救いのことばを語りかけてください。

  みことばの光によって、

  わたしたちの住む世界が照らされますように。

集会祈願より


第1朗読 アモスの預言 6章1a,4-7節

 (主は言われる)災いだ、シオンに安住しサマリアの山で安逸をむさぼる者らは。

お前たちは象牙の寝台に横たわり長いすに寝そべり

羊の群れから小羊を取り牛舎から子牛を取って宴を開き

竪琴の音に合わせて歌に興じダビデのように楽器を考え出す。

大杯でぶどう酒を飲み最高の香油を身に注ぐ。

しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。

それゆえ、今や彼らは捕囚の列の先頭を行き

寝そべって酒宴を楽しむことはなくなる。


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 1テモテ 6章11-16節

 神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。 正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。 信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。 命を得るために、あなたは神から召され、 多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。 万物に命をお与えになる神の御前で、 そして、ポンティオ・ピラトの面前で 立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、 あなたに命じます。 わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、 おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。 神は、定められた時にキリストを現してくださいます。 神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、 唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、 だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。 この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。


福音朗読 ルカによる福音 16章19-31節

 「そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた)ある金持ちがいた。 いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。 犬もやって来ては、そのできものをなめた。 やがて、この貧しい人は死んで、 天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。 金持ちも死んで葬られた。 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、 宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 そこで、大声で言った。 『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。 ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。 わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 しかし、アブラハムは言った。 『子よ、思い出してみるがよい。 お前は生きている間に良いものをもらっていたが、 ラザロは反対に悪いものをもらっていた。 今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、 ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、 そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 金持ちは言った。 『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 わたしには兄弟が五人います。 あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、 よく言い聞かせてください。』 しかし、アブラハムは言った。 『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。 彼らに耳を傾けるがよい。』 金持ちは言った。 『いいえ、父アブラハムよ、 もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、 悔い改めるでしょう。』 アブラハムは言った。 『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、 たとえ死者の中から生き返る者があっても、 その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

2022年9月17日土曜日

9月18日 年間第25主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第25主日 C年 2022年9月18日 松村神父

今日の福音の個所は、司祭を含めて大きな壁の個所と言われています。だからこそ、どこに着目するかで、その解釈は大きく変わり、場合によればキリスト教に対する不信感を得るかもしれません。そのため、この福音を喜びの知らせに変換させる視点は、私たちの信仰、私たちのイエスに対する見方が問われているのかもしれないと思い、私はいつもドキドキしながらこの聖書の個所に挑んでいます。

聖書に向き合うたびに、毎回その視点は変わり新しさをくみ取っている個所となります。

さて、今日の個所を今の私から眺めてみると、次のように感じましたので、分かち合いたいと思います。

「不正な富」と言われていますが、そもそも「富」とはこの世で人間が作り出したもう一つの神に似たものではないかと思うわけです。私たちは「富」の誘惑といつも戦っています。人によっては「富」の虜になってしまい、奴隷になってしまう恐れまである強い力を宿すものです。だからこそすべてを捨てて「富」との関係性を断ち、神に向かって邁進するようにアシジのフランシスコは心を決めて歩みました。必要なもの、「日ごとの糧」を神から受ける托鉢修道会の誕生です。しかし世俗の中で生きる私たちは、その生活基盤を支える「富」なしに生きてはいけません。ついつい少し多めに、はたまたゆとりをもっていきたいと願うのが私たちです。昨今残りの人生2000万円騒動もあったぐらいです。だからこそ有り余るほど持ちたいと願う人も少なくなく、またお金で何でもできると考える人まで出てきます。もともと人間の心を揺るがす「富」は、「不正を起こさせる富」として人間社会に存在しています。これを「不正な富」と表現しているのであればあながち間違ってはいません。問題はこの「不正な富」を上手に制御し、神から離れないようにしなければなりません。神と富とどちらに使えるか。それは神を私たちが制御することはできませんが、「富」は私たちの心もち一つで制御できるのです。

いろいろな神父様を見てみると、定期的にご自身の給与を寄付される人もいれば、貧しい方を支援している人もいます。多額の寄付を貧しい団体に寄付している人もいれば、良い活動を陰ながら支援をしている人もいます。それはキリストの心でもありながら同時に、ため込まずご自身が「富」に左右されない生き方を示しているということでもあります。自分を律し、富に心を奪われないように、溜まれば放出するというダム的な考え方ですね。

ある学校で私は先生たちにこのように説明したことがあります。「頭のいい生徒を育ててください」「お金持ちになるように育ててください」と。なんという神父でしょうと言われるかもしれません。でもそのあとに付け加えます。「得た頭脳、得たお金を誰のために使うかも、必ず教えてください」と。それぞれ持てる人は持てない人のために働く使命がキリストから来ているからです。分かち合うことが何よりも大切。人をさげすんだり、比べたり、蹴落としたりするために教育しているのではありませんし、そのためにミッション校は存在していません。誰かのために「富」を得ているのであって、自分の為ではありません。もともと親からもらった命だし、そもそも神から与えられた命だからです。だから持てない人の分をしっかり稼いで、分かち合う必要があるのです。

だから今日の福音は、「不正な富」を制御する管理者になり、神の働き手になっていくことが求められているという意味で、不正な管理人が褒められていることを忘れてはいけないと感じるのです。「不正な富」が悪いのではなく、その「富」に制御されないように、イエス様は私たちの心に最大の恵みである「愛」を注いでいるのです。


【聖書朗読箇所】

 恵み豊かな神よ、

  ひとり子イエスは、その生涯をとおして、

  貧しさに徹して生きる道を示してくださいました。

  キリストに従うわたしたちが、

  まことの豊かさを知ることができますように。

集会祈願より



第1朗読 アモスの預言 8章4-7節


このことを聞け。

貧しい者を踏みつけ

苦しむ農民を押さえつける者たちよ。

お前たちは言う。 「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。

安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。 

エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。

弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。 また、くず麦を売ろう。」

主はヤコブの誇りにかけて誓われる。

「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない。」



第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 1テモテ 2章1-8節

(愛する者よ、)まず第一に勧めます。 願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。 わたしたちが常に信心と品位を保ち、 平穏で落ち着いた生活を送るためです。 これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、 喜ばれることです。 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、 人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。 これは定められた時になされた証しです。 わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、 すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。 わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。

 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、 清い手を上げてどこででも祈ることです。


福音朗読 ルカによる福音 16章1-13節

(そのとき、イエスは、弟子たちに言われた。   「ある金持ちに一人の管理人がいた。 この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。 『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。 会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 管理人は考えた。 『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。 土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 そうだ。こうしよう。 管理の仕事をやめさせられても、 自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、 まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。 『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。 『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。 『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。 この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。 そうしておけば、金がなくなったとき、 あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。 ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、 だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 また、他人のものについて忠実でなければ、 だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。 一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。 あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」


2022年9月8日木曜日

9月11日 年間第24主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第24主日 C年 2022年9月11日

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音は、「主の憐みに三つのたとえ話」などとタイトルが付けられている個所です。また、それぞれ「見失った羊のたとえ」、「なくした銀貨のたとえ」、「いなくなった息子のたとえ」と別々のタイトルをつけているものもあります。いずれにせよ、今日読まれる最初の状況設定が大切になります。そのために三つのたとえ話がここにまとめられているからです。その意味では、一つ一つのたとえ話に囚われてしまうと、大切な全体が見えてこなくなってしまいます。

  まず大切なことは、ルカが三つのたとえ話をここにまとめ上げるきっかけとなった出来事です。それは、徴税人や罪人たちがイエス様の話を聞きに来た時、ファリザイ派の人たちや律法学者たちがそれを、「あんな人たちまで仲間にして」と、好ましく思わなかったということです。それで、三つのたとえ話を並べています。これら全体のまとめになるのは、放蕩息子のたとえ話のお兄さんと父親との会話です。

  探し、見つけるものはそれぞれのたとえで異なっていますが、共通しているのは、喜びです。そしてその喜びは、変わっていきます。最初の見失った羊のたとえでは、見失ったもの(一頭の羊)を見つけることは、「喜びです」。次に、なくした銀貨を見つけることは、「近所の人と一緒に喜ぶような喜びです」。最後に行方知れずになった弟を見つけることは、「ともに喜ぶべきことではないか」、そうした喜びです。喜びは、周りの人たちを引き入れて深まっていきます(喜ぶ、喜ぼう、喜ぶべきだと)。

  ところで徴税人は、政務書の役人ではなく、徴税請負人のことです。その職業のゆえに差別されている人たちです。罪びとは、犯罪者ではなく、悪いことをする半端ものでもありません。様々な理由でファリザイ派の人たちのように律法に従って生きることが難しい人たち、神様から離れてしまった人たちです。神様を知らない人も含まれるでしょう。

  もしかしたら、ここに宣教の原型があるかもしれません。皆さんの周りに一人でもキリストに興味を持つ人がいたら、それは見失った羊のように喜びでしょう。少なくとも神様にとっては喜びだとイエス様は教えています。もしそんな人を見いだせたら、神様にとって喜びでしょうし、私たちも一緒に喜ぶよう招かれています。それは、兄が弟にしたように、それはファリザイ派の人がしていたようですが、評価したり、裁いたりすべきことではなく、喜ぶべくことなのです。

  イエス様のたとえ話は、実は非常に身近なことです。しかし、私たちは、宣教も含めて遠いところに置いてしまって、評価したり、栽いたりして、喜ぶことを忘れていないでしょうか。もし、身近なものとして味わえたら、イエス様の残念さが、この例え話をしなければならなかった気持ちがわかるのではないでしょうか。

湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


 いつくしみ深い神よ、

  あなたはひとり子を遣わし、

  すべての人を回心の道へと招いておられます。

  キリストのもとに集められたわたしたちが、

  たえずあなたの救いを喜び歌うことができますように。

集会祈願より


第1朗読 出エジプト記 32章7-11,13-14節

 (その日、)主はモーセに仰せになった。 「直ちに下山せよ。 あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、 それにひれ伏し、いけにえをささげて、 『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と 叫んでいる。」 主は更に、モーセに言われた。 「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 今は、わたしを引き止めるな。 わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。 わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」 モーセは主なる神をなだめて言った。 「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。 あなたが大いなる御力と強い御手をもって エジプトの国から導き出された民ではありませんか。 どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを 思い起こしてください。 あなたは彼らに自ら誓って、 『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、 わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、 永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」 主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 1テモテ 1章12-17節

(愛する者よ、わたしは、)わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。 この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。 しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、 あふれるほど与えられました。 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、 そのまま受け入れるに値します。 わたしは、その罪人の中で最たる者です。 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、 キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、 わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、 誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


福音朗読 ルカによる福音 15章1-32節

(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、 「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と 不平を言いだした。 そこで、イエスは次のたとえを話された。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、 その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、 見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、 『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、 悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも 大きな喜びが天にある。」

 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、 その一枚を無くしたとすれば、 ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、 『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、 神の天使たちの間に喜びがある。」

  (また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前を ください』と言った。 それで、父親は財産を二人に分けてやった。 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、 そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、 彼は食べるにも困り始めた。 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、 その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、 食べ物をくれる人はだれもいなかった。 そこで、彼は我に返って言った。 『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、 わたしはここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。 「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。 雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。 ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、 憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 息子は言った。 『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。 『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、 足に履物を履かせなさい。 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』 そして、祝宴を始めた。

  ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、 音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。 無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 しかし、兄は父親に言った。 『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。 言いつけに背いたことは一度もありません。 それなのに、わたしが友達と宴会をするために、 子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 ところが、あなたのあの息子が、 娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、 肥えた子牛を屠っておやりになる。』 すると、父親は言った。 『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。 いなくなっていたのに見つかったのだ。 祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」)