2022年12月3日土曜日

12月4日 待降節第2主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 待降節第2主日 C年 2022年12月4日 レイナルド神父

今日の待降節のテーマは平和です。ここで神がイエスになされたことを思うと勇気が出ます。神と人との間の平和、そしてお互いの間で築かれた平和です。信者として福音書にあるように、イエスに内在する父なる神によってもたらされた平和を祝います。私たちは平和のうちにイエスの再臨と、平和が地上に満ち、それが全ての人々の生き方となるイエスの新しい世界の訪れを待望します。私たちは平和をイエスのうちにのみ見いだす証人として、できるかぎり今、イエスの平和に与ります。

これは当然そういうことです。イエスの第一の来臨の平和を祝い、そして第二の来臨での究極の平和を待望するなら、今、この時、その平和を生きようとはしないでしょうか? 過去の出来事を祝い、将来も同じように願うのなら、現在の今、それをほんとうに望まないのなら、そのことにどんな意味があるのでしょうか。

しかし今、平和に暮らすというのは簡単なことではなく、キリストなくしては不可能なことです。ですから毎年待降節、一年を通しての主日に思い起こすことが必要なのです。そこではイエスの内に全ての平和の源が見いだされるのです。私たちは靴ひもをしめ、頑張って他の人たちと平和に暮らすようにと言われているのではありません。争いが多い世界で平和に生きる大切さや、他の人たちと平和に暮らしていく方法を聴くために集まるのでもありません。そんなことで平和になるのなら、ずっと以前に平和は訪れていたことでしょう。

私たちはもう一度イエスキリストの内にある神の平和を受けるために集まるのです。イエスが私たちのために用意してくださった平和を受け取ること、互いの交わりのなかで平和を生きること、はじめは教会で、そしてできるかぎり世の中にも拡げます。そうこうしていくうちに努力して世の平和を作ろうとしなくても済むです。むしろイエスこそが唯一の平和の源であるという証人としてそのように生きるのです。

これは教会が一つの共同体として生きることの大切さです。神の三位一体としての集まりの証です。私たちは、イエスキリストの内に平和な生活を共に致しましょうと招く証人なのです。力ではなく平和そのものである主なるイエスの聖霊の力によって私たちは世の平和の作り手となるのです。


【聖書朗読箇所】

恵み豊かな神よ、

あなたの力に強められて罪の妨げに打ち勝ち、

キリストに結ばれることができますように。

主キリストは、聖霊による一致のうちに、

あなたとともに神であり生きて、治めておられます、

世よとこしえに。アーメン。

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ11章1-10節)


エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち

その上に主の霊がとどまる。

知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。

彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。

目に見えるところによって裁きを行わず耳にするところによって弁護することはない。

弱い人のために正当な裁きを行いこの地の貧しい人を公平に弁護する。

その口の鞭をもって地を打ち唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。

正義をその腰の帯とし真実をその身に帯びる。


狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。

子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く。

牛も熊も共に草をはみその子らは共に伏し獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる。

わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。

水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。

その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ国々はそれを求めて集う。

そのとどまるところは栄光に輝く。



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ15章4-9節)


(皆さん、)かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。

それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。

忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、

心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。


だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、

あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。

わたしは言う。

キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。

それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。

「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ3章1-12節)


そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。


「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」


ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。

そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。


ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。

「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

2022年11月26日土曜日

11月27日 待降節第1主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 待降節第1主日 A年 2022年11月27日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日のミサから典礼の日本語が変わるので、福音をゆっくり味わう気分ではないかもしれませんが、待降節に入りますのでこの季節の典礼の意味を考えてみましょう。先週、私たちは王であるキリスト、世の終わりを祈念し、世の終わりについての福音を味わいました。今週から、未来から過去へ、私たちは二千年前のキリストの到来に目を向けていきます。

  福音の中で、イエス様は「人の子が来る時」と言っています。「その時は、ノアの時と同じである。」ここで、重要な言葉は、「時」です。第一の朗読、イザヤの預言では、「終わりの日」という言葉が使われています。戦争が間近に迫ってきている時、イザヤは、世の終わりの時の到来について語ります。その「時」こそ、救いの時だからです。

  第二朗読も見てみましょう。パウロは、ローマの教会に宛てて、「時は近づいた」と語り掛けます。「今がどんな時か分かりますよね。私たちが洗礼を受けた時より、救いの時が近づいています。だから、洗礼を受けた時のように、新たになりましょう。」

  この「時」が重要なのは、それは、「到来の時」だからです。今週は、まだ王であるキリストの雰囲気が残っています。しかし、そこにあるのは「到来の時」です。私たちは、「アドベント」という言葉を聞いたことがあります。待降節を表す言葉です。もともとこの言葉は、「アド・ヴェントゥス」というラテン語から来る言葉です。その意味は、向こう側からこちらへ「やって(アド)」「くる(ヴェントゥス)」という意味です。その意味は、「もういくつ寝るとお正月」と待つことではありません。また、努力して引き寄せること、実現させることでもありません。私たちにはどうにもできない「時」なのです。ただ、神様がやってくる、実現してくださるその時を、待つことしかできません。

  ところが、私たちは、そのことをいつも意識できているわけではありません。イエス様は、ノアの時の例を挙げています。「人々は、食べたり飲んだりしていた。」つまり、普通に日常生活をしていたということです。この「到来」の時は、日常に起こることです。それが待つことしかできない時を待つということですが、たいていは、すっかり意識していない時でもあるのです。ですから、私たちは「第三の到来」ということを考え、意識する必要があるでしょう。第一の到来は二千年前の到来、もう一つの到来は世の終わりの到来。そして第三の到来です。これも、私たちの日常生活の中で起こります。

  第三の到来は、普通あまり意識されませんが、日常生活の中で、父である神が、御子であるキリストが、そして聖霊が、私たちに語り掛けます。いつ、何を語り掛けるかわかりません。待降節を迎えたこの季節、日常生活に起こるこの第三の到来を、考えてみませんか。私たちは、いつ語り掛けられてきてもよい用意ができているでしょうか。 



【聖書朗読箇所】

父である神よ、

  あなたは救いを待ち望むすべての人とともにいてくださいます。

  待降節を迎えたわたしたちの心を照らしてください。

  争いや対立が絶えないこの世界にあって、

  キリストの光を頼りに歩んでいくことができますように。

集会祈願より



第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ2章1-5節)


アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。


終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ちどの峰よりも高くそびえる。

国々はこぞって大河のようにそこに向かい


多くの民が来て言う。

「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。

わたしたちはその道を歩もう」と。

主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。


主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。


ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ13章11-14a節)


更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。

あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。

今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。


夜は更け、日は近づいた。

だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。


日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。

酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、


主イエス・キリストを身にまといなさい。

欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ24章37-44節)


(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)

「人の子が来るのは、ノアの時と同じである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。

そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。

そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

このことをわきまえていなさい。

家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

2022年11月18日金曜日

11月20日 王であるキリスト

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 王であるキリスト C年 2022年11月20日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日は、教会の暦の中でこの一年間の最後の主日です。そして、王であるキリスト、世の終わりの完成を記念します。しかし、朗読個所は、なぜ十字架の場面なのでしょうか。それは、第一朗読との関係でわかります。第一朗読は、ダビデが全イスラエルの王となる個所です。彼は、油注がれることによって王となりました。イエス様は、エルサレムに入城し、メシア、王として十字架にかかることによって、ご自分がキリスト、メシアであることを示されました。ここで、大きな誤解が生まれました。

  第一朗読によると、ユダ族とそれに属さない部族の間に和解が生じ、ユダ族の長であるダビデのもとに、他の部族が集結し、彼らはダビデに油を注ぐことで、イスラエル統一王国を成立させました。この出来事は、後々メシアのモデルになっていきます。当時の人たちは、こうして神様から油注がれる(メシアになる)と、彼は政治的経済的もちろん軍事的力を持ち、諸国を征服し、神の国の完成のためにイスラエルの人々を率いてエルサレムに王として君臨するはず、とイメージしました。それが伝統的なメシアのイメージだったからです。だから、本物のメシアなら十字架などから降りて、諸国に対して王として君臨するはずです。だからそれを、イエス様に求めました。「十字架から降りてこい」

  しかし、実際のイエス様は、そうではありませんでした。その逆で、むざむざと殺されていきました。伝統に生きるイスラエル人としては、イエス様のその姿を、とてもメシアとして見ることができませんでした。ただ一人、イエス様と一緒に十字架にかけられた盗賊の人だけが例外でした。後に、エマオに向かう弟子たちに、聖書を通して教えたように、伝統的なメシア理解とは別のことが聖書には書かれていました。人々は、それを知ることができませんでした。イエス様が教えても。

  このことは、そう簡単ではありません。同じ歴史を生き、伝統を重んじ、聖書を知り、神様を知ったとしても、まったく別の理解になってしまったこのイスラエルの人たちと同じことを起こしかねません。今日の福音は、こうした私たちの持つ危険性を教えています。世の終わりの完成の時、違っていましたでは済まされない事が起こり得るからです。キリストは、人間の姿で現れ、わたしたちのうちに暮らしました。そこにイエス様の求めたものを、私たちが求めるべきものを見逃さないようにしましょう。それには、わたしたちと暮らしたイエス様の言動から目を離さないことでしょう。イエス様は常に話しかけています。父である神様のように、そして、聖霊のように。耳を傾け、識別することを心がけていきましょう。


【聖書朗読箇所】

父である神よ、

  あなたは十字架につけられたひとり子イエスを、

  すべての人の救い主として示してくださいました。

  キリストこそ、世界に平和をもたらし、

  人類を一つにする主であることを、

  きょう、深く心にとめることができますように。

集会祈願より



第1朗読 サムエル記 (サムエル下5章1-3節)


(その日、)イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。

「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」


イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。

ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。

長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。



第2朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 (コロサイ1章12-20節)


(皆さん、わたしたちは、)光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝(しています。)


御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。


御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。

こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。


神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。



福音朗読 ルカによる福音 (ルカ23章35-43節)


民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」


兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。


十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

すると、もう一人の方がたしなめた。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。


するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

2022年11月12日土曜日

11月13日 年間第33主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。





【福音メッセージ】 年間第33主日 C年 2022年11月13日 松村神父

現代人にとって世の終わりとは何を示すのでしょうか?1999年を迎えた時、あちらこちらで“2000年になるとコンピューターが誤作動を起こす”とか、“ノストラダムスの大予言で地球が滅びる”とか、はたまたこの世の終わりをつげカルト教団が街のあちらこちらで説法を説いて、市民をあおっていました。私自身も声をかけられた事がありました。「あなたは不幸にみえますよ!手をかざしてあげますから安心してください。」と。よっぽど私の顔が暗く見えたのでしょう。でもニコニコして歩いている人などは逆に奇妙ですよね。

 この世の終わりや、人生の終わりに恐怖を覚えるということはどういった心の動きがあるのでしょう。それは“未練”と“執着”ということなのかもしれません。それは何かに対する“不完全さ”を表すと同時に、「もっと」「さらに」という“欲求”の表れかもしれません。逆にそれだけ“成し遂げていない”思いや、“満足できていない”ということなのかもしれません。

 今日の福音の前提には、エルサレム神殿を見たイエスのこの世的人間の儚さが目に映っていたことがあげられます。この世で成し遂げることに翻弄される人々。しかし神殿が後に崩壊の道をたどることを予見し、今の“人”の努力には限界がある事を示します。ここでイエスが語りたいのは“神”の働きを中心に置かなければならないこと。神殿は人の体そのものである事が忘れ去られ、形と見えるものにその重要度が移されてしまっていることです。イエスの到来は「神を愛し、隣人を愛すること」を宣べ伝えることで、形・体裁に力点が置かれる事ではありません。ヘロデ大王によって改築されたエルサレムの神殿は人間のエゴそのもので形作られてしまったことへの嘆きなのかもしれません。つまり本来的ではないということです。

 揺るがない神の示す道がありますが、私たちの世界には横から人の想いで意見を指し示す人が現れたり、「私の信仰こそ正しい」と、自分の信仰を揺るがす人がいます。これを偽預言者やイエスの名を語るものと表現されています。そこにいさかいや戦いが生じます。迫害もあり苦しみも生じます。しかし神の想い、キリストの想いを中心に置いたときには、それらの事は「神のみ旨に」と聖母マリアのようにお捧げして、忍耐の中で“しるし”が現れるまで耐え忍ぶこと、そして自身の中におごり高ぶる心に回心を促すことこそ大切ではないでしょうか。なかなか一人で乗り越えることは難しいかもしれません。ですから教会共同体の謙虚な分かち合い、現在進められているシノドスの動きは、私たちを成長に導いていくのです。愚痴のはけ口の場ではなく、自身の至らなさを分かち合い、全ての人の回心への神の導きを通して、主の来臨まで耐え忍んでいきたいと思います。耐え忍ぶと言われると苦しいように感じますが、私たち一人一人は先に救いの道を示された弟子のひとりであることに、安心と勇気をもって、互いの信頼のうちに過ごしていきたいと思います。


【聖書朗読箇所】

すべてのものの主である神よ、

  あなたはご自分をおそれ敬う者を助け、導いてくださいます。

  み前に集うわたしたちを聖霊によって強めてください。

  どのような試練にあっても、キリストに従うことができますように。

集会祈願より



第1朗読 マラキの預言 (マラキ3章19-20a節)

見よ、その日が来る炉のように燃える日が。

高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。

到来するその日は、と万軍の主は言われる。

彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。

その翼にはいやす力がある。



第2朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 (Ⅱテサロニケ3章7-12節)


(皆さん、あなたがたは、)わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。

わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。


また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。

むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。


援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、

あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。


実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、

「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。


ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、

少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。


そのような者たちに、わたしたちは

主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。

自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。



福音朗読 ルカによる福音 (ルカ21章5-19節)


(そのとき、)ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。


「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」


そこで、彼らはイエスに尋ねた。

「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」


イエスは言われた。

「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」


そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

2022年11月5日土曜日

11月6日 年間第32主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第32主日 C年 2022年11月6日 レイ神父

イエスを試すのにサドカイ派の人々は難しい質問をしました。跡継ぎを残さずに亡くなっていった7人の兄弟のことを尋ねます。長男が亡くなるとその妻を次々とその兄弟がめとっていくのです。

彼らの質問はこうでした。復活の時この女はだれの妻となるのか?イエスを試すために彼らはこのように尋ねたのです。前のところではサドカイ派の人々は復活があることを否定しています。

イエスは、結婚は生きている時のことであり復活の時の事ではないと彼らに説明し、答えます。それは罠にかけようとしたサドカイ派の人たちを負かし、死者の復活を信じていた律法学者たちはイエスを讃えます。

この話は、私たちに真実は完全でそれは打ち負かすことはできないことを明らかにします。真実は常に勝利します。イエスは何が真実かを述べ、サドカイ派の人々の愚かさを暴露します。どんな人間の策略も真実を打ち負かすことはできないと教えます。

これは私たちがここで学べる大切な教訓であり、生活全てにあてはまります。サドカイ派の人々のような質問を受けることはなくても、人生の中で難しい質問に出会うでしょう。イエスにしかけられたようなものでなくても、そのような問は必ずあるでしょう。

私たちがどんなに困ってもその答えはある、とこの福音は確信させてくれます。たとえ理解しえなくても、もし真実を探し求めるのなら、私たちはその真実を見つけ出すのです。


今日は、あなたの信仰の旅で最も挑戦的なことについて黙想しましょう。 それは死後の世界、苦しみ、あるいは創造についての質問かもしれませんし、大変個人的なこともかもしれません。あるいは現在はまだ、私たちは主への質問に充分な時間を取ってないかもしれません。それが何であれ、全てのことに真実を求め、主に知恵を尋ね、そうすることで日毎にさらに深い信仰に入って行くことでしょう。


【聖書朗読箇所】

すべての人の救いを望まれる神よ、

   ひとり子イエスは、死からの復活によって、

   永遠のいのちの扉を開いてくださいました。

   ここに集められたわたしたちに希望の光を注ぎ、

   尽きることのない喜びで満たしてください。

集会祈願より



第1朗読 マカバイ記 (Ⅱマカバイ7章1-2,9-14節)

また次のようなこともあった。

七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。


彼らの一人が皆に代わって言った。

「いったいあなたは、我々から何を聞き出し、何を知ろうというのか。我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。」


(二番目の者も)息を引き取る間際に言った。

「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」


彼に続いて三番目の者もなぶりものにされた。

彼は命ぜられると即座に舌を差し出し、勇敢に両手を差し伸べ、毅然として言った。

「わたしは天からこの舌や手を授かったが、主の律法のためなら、惜しいとは思わない。

わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと確信している。」

そこで、王自身も、供の者たちも、苦痛をいささかも意に介さないこの若者の精神に驚嘆した。


やがて彼も息を引き取ると、彼らは四番目の者も同様に苦しめ、拷問にかけた。

死ぬ間際に彼は言った。

「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。」



第2朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 (Ⅱテサロニケ2章16-3章5節)

(皆さん、)わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。


終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。

すべての人に、信仰があるわけではないのです。

しかし、主は真実な方です。

必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。

そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。


どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。



福音朗読 ルカによる福音 (ルカ20章27-38節)

(そのとき、)復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。


「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。

ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。

すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」


イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。

死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

2022年10月29日土曜日

10月30日 年間第31主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第31主日 C年 2022年10月30日 松村神父

今日の福音、有名なザアカイについての物語について次のような見方をしたことがある。最初ザアカイは木の上にいる。イエスは下を歩く。見下ろすザアカイと見下ろされるイエス。次にイエスの呼びかけでザアカイが降りてくると、ザアカイは背が低いので最初はイエスを捜すところから始まり、そして見つけるとイエスを見上げる。イエスは背の低いザアカイを見下ろす。最後にイエスとザアカイは共に家に入り椅子に座り食卓に着くと、ほぼ同じ目線となる。

ここで大きく変わったのはイエスによる呼びかけであろう。「人を見下すのではなく、地に足を付けてごらん。ザアカイに自らの行動を通して伝えたかったのは、人を見下ろすのではなく、与えられた自分を受け入れ、すべてを見上げる姿勢、すなわち尊敬の念をもって見る事ではないだろうか?ということ。自分の存在、体格、性格、職業、どれをとっても決してよろしくはない。しかし、「それが事実で、それが自分そのもの」であるという劣等感を捨てて、受け入れたザアカイの心は晴れやかになり、解放感に心が満たされたのではないだろうか。イエスは「今のあなたが、あなたそのもの。自分を愛するように隣人を愛せ」ということを思い出し、「自分を愛することの大切さ」を伝えたとも読み取れる。そしてそこに衝撃的な一言。「あなたの家に泊まります。」というイエスの呼びかけ。そこで湧き起る衝動は、自分の心をつかんだ主が、私を選ばれたことへの喜び。出エジプト記には過ぎ越しによる救いが現されているが、ここでは主が目の前で立ち止まられる出来事。同じ目線に立ち関わるイエスとの体験は、多くの弟子が体験した出来事。それは弟子以外の他の人々にも与えられていたのではないだろうか。そしてこの選びこそ召命そのものでもあろう。選ばれた者はすぐにその使命に気づかされる。ザアカイの使命は、受けた恵を返すこと。しかもそれをさらに実践にまで高め「財産を半分施し、また罪を犯した場合は4倍にしてでも返済し、赦しを願う」こと。

ザアカイの人間性はこの福音書では最初は見た目だけであったが、徐々にその姿が内面にまで掘りさげられ、イエスの前で丸裸にされた。そしてなすすべもなくあらわにされた人ザアカイは、最後にイエスに語ったことは回心による信仰宣言だった。イエスが最も望んだ結果だったに違いない。無くした1枚の金貨が返ってきた出来事と同じである。

私たちはミサで定型文の信仰宣言を唱えています。しかし、他の場では祈りとして、私たち一人一人の信仰宣言があってもいいのではないか。喜びの・赦しの・栄光の信仰宣言等。長い信仰宣言でなくても私たちのつたない言葉が、「イエスは主である」ということを語れる言葉は、すべて信仰宣言であることに気づかされる。今日の第一朗読の知恵の書の一文一文が、私たちにその信仰宣言の語り方を伝えるために描かれているように感じられる。

さぁ、今日も私の中から湧き起るイエスへの想いを信仰宣言にして捧げてみようじゃありませんか。


【聖書朗読箇所】

いつくしみ深い神よ、

  あなたは失われたものを探し救うために、

  ひとり子を世にお遣わしになりました。

  きょうここに集うわたしたちが、

  救い主であるイエスを迎える喜びに満たされますように。

集会祈願より


第1朗読 知恵の書 (知恵 11章22-12章2節)

(主よ、)

御前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、

朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。

全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、

回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。

あなたは存在するものすべてを愛し、

お造りになったものを何一つ嫌われない。

憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。

あなたがお望みにならないのに存続し、

あなたが呼び出されないのに存在するものが

  果たしてあるだろうか。

命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、

  あなたはすべてをいとおしまれる。

あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。

主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、

罪のきっかけを思い出させて人を諭される。

悪を捨ててあなたを信じるようになるために。


第2朗読 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 (2テサロニケ1章11-2章2節)

(皆さん、わたしたちは)いつもあなたがたのために祈っています。 どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、 また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、 わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、 あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。

 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、 そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。 霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、 主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、 すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ19章1-10節)

(そのとき、)イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 そこにザアカイという人がいた。 この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 イエスがどんな人か見ようとしたが、 背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。 そこを通り過ぎようとしておられたからである。 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 これを見た人たちは皆つぶやいた。 「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。 「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。 また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 イエスは言われた。 「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

2022年10月14日金曜日

10月23日 年間第30主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第30主日 C年 2022年10月23日 レイ神父

ファリサイ派の人と徴税人のたとえ

この福音の箇所はファリサイ人と徴税人のたとえ話です。このたとえでは二人の態度の際立った対比がされています。まず、ファリサイ人の態度は自身や世間のイメージを高く評価し、自らの罪のことは意識していないということがわかります。

次に徴税人の態度は自分の罪を深く意識し、それを悔やみ、神の憐れみを必要としていることがわかります。この全く異なった二人の態度の結果は、徴税人は義とされて家に帰り、一方でファリサイ人はそうではなかったとあります。義とされるとはどういうことでしょうか?それは徴税人は明らかに罪悪感を持っており、真理に根差していたのです。かれは憐れみを必要としている事をわかっていたしそれを懇願して、それを受け取ったのです。彼は自分にも、他人にも、神にも嘘はつかなかったのです。彼は自分が何者かがわかっており、そしてこの真実により神は彼を高めたのです。徴税人が義とされたのは、彼の人生における罪の許しとそして神からの憐れみを授かることだったのです。

ファリサイ人の方は皆に見えるように立ったことで、ある意味自分自身は気持ちよく感じていたかもしれません。自分の正しさを確信していましたが、しかしそれは正しさではありませんでした。ただ自分が正しいと思っていただけです。彼は嘘に生き、そしてその嘘を信じており、他人にもその嘘を信じ込ませようとしていたかもしれません。しかし事実はそのままです。ファリサイ人は不正であり、そして真に義とされません。

この箇所からくみ取るべきことは真理に生きる大切さを深く悟ることです。誤った自己認識をするものは自分をだまし、そして他人さえもあざむくかもしれません。ですが神をだますことはできませんし、おのれの魂の平安を得ることもできません。わたしたちは皆自分たちの罪や弱さを謙虚に認め、そうすることで唯一の救いである神の憐れみを乞うのです。.

この徴税人のことを今日は黙想しましょう。「神様、罪人の私を憐れんでください。」(ルカ18章13節)あなたの祈りにしてください。神の憐れみが必要だと認め、神の義のうちに神の憐れみによってあなたを高めましょう。


【聖書朗読箇所】

恵み豊かな神よ、

  わたしたちが自分のありのままを差し出すとき、

  あなたは大きな愛をもって受けとめてくださいます。

  ともに祈るわたしたちが、あなたにすべてをゆだねることができますように。

集会祈願より


第1朗読 シラ書 (シラ 35章15b-17,20-22a)

 主は裁く方であり、

人を偏り見られることはない。

貧しいからといって主はえこひいきされないが、

虐げられている者の祈りを聞き入れられる。

主はみなしごの願いを無視されず、

やもめの訴える苦情を顧みられる。

御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、

その祈りは雲にまで届く。

謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、

それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。

彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、

正しい人々のために裁きをなし、

  正義を行われるときまで。


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (2テモテ 4章6-8,16-18節)

(愛する者よ、)わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。 世を去る時が近づきました。 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、 決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 今や、義の栄冠を受けるばかりです。 正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。 しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、 だれにでも授けてくださいます。

 わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、 皆わたしを見捨てました。 彼らにその責めが負わされませんように。 しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、 すべての民族がそれを聞くようになるために、 主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。 そして、わたしは獅子の口から救われました。 主はわたしをすべての悪い業から助け出し、 天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。 主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ18章9-14節)

(そのとき、)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、 イエスは次のたとえを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。 一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。 『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、 姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者 でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、 胸を打ちながら言った。 『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、 あのファリサイ派の人ではない。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

10月16日 年間第29主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第29主日 C年 2022年10月16日 湯澤神父

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音も、ルカだけが残している個所です。ルカは、イエス様が「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を教えるためにこのたとえ話を残したと記しています。そして、最後にこうした強い信仰があってほしいというイエス様の望みを付け加えています。

  ところで、今日の第一朗読は、『出エジプト記』から採られています。イスラエル民族は、シナイ山で神様と契約を結んで神の民として歩み始めました。しかし、まだ神様に助けてもらう必要がありました。同時にまた、自分の力で歩まなければなりませんでした。つまり、異民族から食べ物や水を奪う必要がありました。つまり、勝利できる部族や民族を選び、戦いを挑み、食べ物や財産を略奪しなければなりませんでした。そうしないと生きていけないからです。その最初の相手がアマレク人でした。アマレク人にしてもイスラエル人にしても生きるか死ぬかですから必死で戦います。ここではモーセが手を挙げている間は、優勢に戦えていますが、疲れて手を下すとアマレク人が優勢になり、一進一退の戦いが続いたと記されています。夕方までこの戦いは続きましたが、ここでは象徴的な形が記されています。イスラエル人にとって手を上げるとイスラエル人は優勢となり、疲れて手を下すと劣勢になった、と。モーセが手を上げることは祈りの一つの形だったのです。つまり、モーセとその助け手たちは、一日中モーセと共にいて、祈り続けたことになります。

  この話しは、裁判官を訪れて願い続けた婦人の姿にどこか似ています。神を畏れず人を人とも思わない裁判官は、冷徹で非情な裁判官というよりは、ある意味では公正な裁判官と言えるでしょう。何ものにも左右されない公正さを持ち合わせています。そこに一人の婦人が尋ねてきます。この裁判官は、最初は婦人の訴えを取り上げようとはしませんでしたが、婦人の執拗さに、ついに取り上げることにしました。

  最初のアマレクの出来事もこの婦人の出来事も、物事の善悪を問う話ではありません。一日中祈り続けたモーセと従者のように、ひっきりなしにやって来る婦人。この祈り続ける姿をイエス様は問題にしたかったようです。そこには頼り切る姿、絶えず祈る姿を見ることができます。

イエス様は最後に言います。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」と。十字架を目の前にしてのイエス様の言葉であることを心に留めましょう。その時、イエス様を、そして神様を信頼し、頼る心をもって十字架に、また御父に迎うことができるでしょうか。徹底的に、頼れるでしょうか。イエス様の言葉は、単に祈り方を教える言葉ではなく、もっと厳しい言葉のようですね。        湯澤民夫


【聖書朗読箇所】

信じる者の力である神よ、

  あなたは呼び求める者の願いにこたえてくださいます。

  わたしたちが祈りと信頼の心をもって、あなたに近づくことができますように。

集会祈願より


第1朗読 出エジプト記 (出エジプト 17章8-13)

 アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、 モーセはヨシュアに言った。

 「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。 明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」

 ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。 モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。 モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、 手を下ろすと、アマレクが優勢になった。 モーセの手が重くなったので、 アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。 モーセはその上に座り、 アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。 その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。 ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (2テモテ 3章14-4章2節)

 (愛する者よ、)あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。 あなたは、それをだれから学んだかを知っており、 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。 この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、 あなたに与えることができます。 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、 人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、 十分に整えられるのです。

 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られる キリスト・イエスの御前で、 その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。 御言葉を宣べ伝えなさい。 折が良くても悪くても励みなさい。 とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ18章1-8節)

 (そのとき、)イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、 弟子たちにたとえを話された。 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。 ところが、その町に一人のやもめがいて、 裁判官のところに来ては、 『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。 しかし、その後に考えた。 『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから 、彼女のために裁判をしてやろう。 さもないと、ひっきりなしにやって来て、 わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 それから、主は言われた。 「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、 彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。 しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

2022年10月8日土曜日

10月9日 年間第28主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第28主日 C年 2022年10月9日 松村神父

水平社宣言100年にあたり、現在シンポジウムが数度行われ改めて忘れてはならない事が思い起こさせられています。さて、この水平社宣言とは北海道の人にはなじみがないと思います。なぜならばその宣言は部落差別に対して、強い思いのなか部落の人々がその人権を主張し、社会を変えようとした宣言であるからです。蝦夷全体がそもそも部落のようだという人もいるほど、私たちはすでにその中で生きていますし、江戸以降の歴史が薄い北海道にとって認識が薄いのは致し方ありません。せいぜい松前藩によるアイヌ民族迫害やオホーツク沿岸に居住されていた北方少数民族ぐらいしか脳裏をよぎらないことでしょう。しかし誰しも差別を身近なものとして、そこに向かって思いめぐらすことなく世界の家族の共存の道はありません。

今日の聖書では重い皮膚病の人を中心に描かれています。「ハンセン病」と呼ばれ、かつて日本では「ライ病」と呼ばれていた人。「ライ」は差別用語にもなり、家族親族まで忌み嫌われていきました。

少し話は変わりますが、先週、私の恩師である元東京カトリック神学院の院長を務めた東京教区の寺西英夫神父様が亡くなりました。寺西神父からは神学生時代に随分と心の助けをいただきました。その中でも神山復生病院に一緒に行った時の事を思い出します。

まだ入学して間もない私にとって、初めて見たハンセン病の一人の患者さんは驚く姿をされていました。目は白濁、鼻は崩れ落ち、手足の指は無く、口も裂けていました。寝たきりのその患者さんは80代。その方のもとに寺西神父と共に二人で会いに行ったのですが、寺西神父は当たり前のように枕元に近寄り、ティッシュをつまんで零れ落ちるよだれをふきながら優しく声をかけられました。もちろん今の時代は感染することはありませんが、衝撃が走り近寄ることに恐れが生じました。しかし寺西神父の姿によって、気が付いたら足をさすりながら自己紹介を始めていました。その間僅か10秒ほどでしょうか。

この寺西神父の姿を見て患者さんに磁石のように引き寄せられた体験は、患者さんへの自己の感情や意識した壁を越えられたといった問題ではなく、神父さんの姿の中から勇気や力が湧いたことを思い出させられました。

理屈で整理することが得意な私にとって、引き寄せられた体験は初めてだったかもしれません。この差別を受けている人たちへの関わりとは、自分の能力や態度ではなく、私たちに与えられた神の態度とその恵みに突き動かされる衝動なのでしょう。神学生になって間もない頃のこの体験は、貴重なものでした。

今日の福音では異邦人のみが感謝のためにイエスのもとに戻ります。この出来事は信仰生活が長いから、年長者だから、信仰に熱心だからという“言い訳や主張”を否定し、神から受けた恵みを“受け止められるセンス”を求めていることが語られています。

たった10秒の中に起きた自分の中での出来事を、その後何度も何度も反芻し考えていく中で、センスの無い私でも寺西神父を通して自分の中に起きた神体験は今も忘れることはありませんし、忘れてはならないと感じています。そしてそのことに限らず、同時に差別を受ける人々がまだ大勢居り、私にさらに心の開放を求めている主がおられることも忘れてはならないことが語られていると感じました。


【聖書朗読箇所】


いつくしみあふれる神よ、

  あなたはすべての人をいやし、豊かないのちを与えてくださいます。

  ここに集うわたしたちが感謝の心を一つにして、賛美の祈りをささげることができますように。

集会祈願より


第1朗読 列王記 (列王記下 5章14-17)

  (その日、シリアの)ナアマンは神の人(エリシャ)の言葉どおりに下って行って、ヨルダン(川)に七度身を浸した。 彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。

 彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。 「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。 今この僕からの贈り物をお受け取りください。」 神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。 わたしは受け取らない」と辞退した。 ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。 ナアマンは言った。 「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。 僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物や その他のいけにえをささげることはしません。」


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (2テモテ 2章8-13節)

 (愛する者よ、)イエス・キリストのことを思い起こしなさい。 わたしの宣べ伝える福音によれば、 この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。 この福音のためにわたしは苦しみを受け、 ついに犯罪人のように鎖につながれています。 しかし、神の言葉はつながれていません。 だから、わたしは、選ばれた人々のために、 あらゆることを耐え忍んでいます。 彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。 次の言葉は真実です。

 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、

  キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、

  キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、

  キリストもわたしたちを否まれる。  わたしたちが誠実でなくても、

  キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自身を否むことができないからである。」


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ17章11-19節)

 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、 遠くの方に立ち止まったまま、 声を張り上げて、 「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、 「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。 彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、 大声で神を賛美しながら戻って来た。 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。 この人はサマリア人だった。 そこで、イエスは言われた。 「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 それから、イエスはその人に言われた。 「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

2022年10月1日土曜日

10月2日 年間第27主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第27主日 C年 2022年10月2日 レイ神父

この命令を行うのは難しいです。私たちはたいてい上手に何かをしたり、義務を果たしたときには褒められ認められることを求めます。私たちは注目されたいのです。これは普通のことですが、とても謙虚といえる反応ではありません。謙虚さには様々な程度があり、最もへりくだった人が上記の一節を繰り返し、それを意味することができるのです。

まず、神のご意志は私たちにとって良いものであると気づかねばなりません。それは私たちに愛の義務を課します。神の意志を果たすとき、そのことだけを喜ぶべきです。なぜならそれは良いことだからです。神の意志を果たすそのことは私たちの喜びの源となります。他人から認められることではありません。

一方、他の人の良さを見てそれを認めるのは良いことです。その人たちのエゴを助長するためではなく、良いことがなされたと神を称えるためにするのです。そして他の人から私たちの生きざまに神のご意志が成し遂げられた、と認められたとき、私たちはその賞賛を自分のプライドにするのではなく、神は良いものであり、神の意志がなされつつあるのだと直に認めなければなりません。私たちは「しなければならないこと」が出来たことに感謝すべきです。

神のご意志に聖なる義務として従うことで、私たちはそれをより完全に果たすことができます。神の意志を果たすことが何か途方もないことのように思えるとき、私たちは正しいやり方をしていないのかもしれません。それは愛からの任務であり、なすべき当たり前の行為であると見なされるとき、神の意志により完全に従うことはたやすいのです。

この謙虚さについて今日は黙想しましょう。「私どもは取るにたらない僕です。しなければならないことをしただけです。」そう言ってみましょう。そのつもりでいましょう。そしてこの言葉をあなたの日々の神への奉仕への基礎にしてみてください。そうすることであなたは聖性への「高速コース」につくのです。


【聖書朗読箇所】

父である神よ、

  あなたはすべての人を招き、信仰の道を歩むよう支えてくださいます。

  キリストの名のもとに集うわたしたちが、信じる心をたえず新たにし、

  福音をよりどころとして生きることができますように。

集会祈願より


第1朗読 ハバククの預言 (ハバクク1:2-3,2:2-4)

 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、 あなたは聞いてくださらないのか。 わたしが、あなたに「不法」と訴えているのにあなたは助けてくださらない。

 どうして、あなたはわたしに災いを見させ 労苦に目を留めさせられるのか。

暴虐と不法がわたしの前にあり争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。


主はわたしに答えて、言われた。

「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。 定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。 それは終わりの時に向かって急ぐ。 人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。 それは必ず来る、遅れることはない。 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」


第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (Ⅱテモテ1:6-8 ,13-14)

(愛する者よ、)そういうわけで、わたしが手を置いたことによって あなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。 神は、おくびょうの霊ではなく、 力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 だから、わたしたちの主を証しすることも、 わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。 むしろ、神の力に支えられて、 福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。 キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、 わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。 あなたにゆだねられている良いものを、 わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。


福音朗読 ルカによる福音 (ルカ17:5-10)

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 主は言われた。 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、 この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、 言うことを聞くであろう。

 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、 その僕が畑から帰って来たとき、 『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、 わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。 お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 あなたがたも同じことだ。 自分に命じられたことをみな果たしたら、 『わたしどもは取るに足りない僕です。 しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」