2015年6月29日月曜日

年間第13主日




 今日の集会祈願で、私たちは「生きる喜びを新たにすることができますように」と祈ってこのミサに入りました。イエスに出会い、イエスに触れることによって、新しい恵みの道が開かれていきます。

後藤神父様のお説教をご紹介します。



『今日の集会祈願で、私たちはどんな祈りを捧げてこのミサに入ったでしょうか?覚えていますか?
私たちは「生きる喜びを新たにすることができますように」と祈ってこのミサに入ったのでした。
私たちはどんな時に生きる喜びを感じるでしょうか?
喜びよりも、悲しみ苦しみの方が、私たちの心を支配しているのではないかと感じますが、喜びのある生活は誰もが願っていることだと思います。でも私たちの日常の生活の中では、喜びとか平和な時間はそれほど多くはないのかもしれません。日々の生活の中では満たされない思いの方が私たちの心を支配しているのかもしれません。そして様々な思いに私たちは動かされているような気がします。人間関係に悩んだり、傷付いたり、家族の問題や病気のこと、また生活を支える経済のことなど、様々な思いが私たち一人一人の心を溢れさせているのだと思います。そのような中で、誰もが焦りを感じたり、痛みを感じたり、生きる喜びはほんの瞬間あったとしてもすぐに忘れてしまう、そんな日常が私たちの生活なのかもしれません。
私は昨日、ピアノのコンサートに伺うことができ、日常では感じられない喜びと平和なひと時を与えられたことに感謝しています。とても静かで心を平和にする調べがあったり、水が光り輝いてほとばしる噴水のような音色を堪能することができました。
今日のみ言葉では、二つの奇跡が語られています。そしてキリストがもたらす救いが何であるのかを私たちに考えさせて下さっています。
主キリストの命に触れようとする人の思い、その信仰が喜びや恵みにつながっていくということ、さらにイエスに近付く道となるということ。信仰というものが、その人の行動に結びついて恵みや救いの喜びとなるということを私たちに告げている、そんな感動を与えてくれるみ言葉です。
私たちに感動を与えてくれるものはどこから来るのでしょうか?
幸せな日々は誰もが夢見ること、誰もが願うこと。でも幸せは自分の思うように選べないものでもあります。思いもよらないところで、病気になってしまったり、怪我をしたり、悲しい別れがあったり、死というものに出会うこともあります。それが私たちの現実であり、私たちの生活です。
そのような中で、今日の2つの奇跡に登場するヤイロという人は会堂長であったと記されています。かわいい娘の死の危険にあっているヤイロ。もう一人は女性で12年間という長い年月、やがて死に至る血の難病で苦しみ続けていました。血の病気というのは聖書の中で深い意味を持っています。当時のイスラエルの人々にとって、血というものは命のシンボルでもありました。宗教的な深い意味を持っているのが血です。そして、病気の治癒は、キリストが命に関わる力を持つ方であるということを表しています。
最初のお話に登場した会堂長とは、社会的にも尊敬される身分を持った人で、現代でいうと村長さんとか町内会長さんとかそういう立場の人を指しているのでしょう。身分もあり、経済的にも恵まれており、見かけ上は幸せそのものであるはずの家庭生活がそこにあります。でも、自分の思うようにはいかなかったというのが、この会堂長ヤイロの人生でした。かわいい盛りの娘さんが死の危険に脅かされてしまう。身分があっても、周りから尊敬されていたとしても、かわいい娘の突然の病気の前にはなすすべも無く無力でした。ただ心配と不安が、心を過ぎるだけでした。人々を慰める立場にもあった会堂長でしたが、今はそれどころではなく自分の娘のことしか頭にはありません。今はただ自分の無力を告白し、神の前に祈り助けを求め叫ばざるをえないという心境ではなかったかと思います。
しきりにひれ伏して頼んでくるヤイロの姿を見て、イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われ、死を超える力がイエスの中にあることを分からせます。ヤイロは死を超えるイエスの神秘に触れて自分を変えられようとしています。信仰によってイエスに出会い、新しい人生を歩まれた人は、私たちの周りにもたくさんいるかと思います。
イエスに出会い、イエスに触れることによって、新しい恵みの道が開かれていきます。娘の上に手を置いてください、というヤイロもまた、後半のお話にあったイエスの着物に触れるだけでも治していただけると思った女性も、イエスに向かう心と信仰のすばらしさを私たちに見せつけています。
聖アウグスチヌスは、「信仰とはイエスに触れることだ」という言葉を残しています。
私たちも一人一人に与えられた信仰によって、イエスに触れることができるように、祈り、そして学んでいかなければと思います。
イエスの奇跡はいつも信仰が前提となって現れることが聖書の中で告げられています。イエスこそ病と死を命に変える方、絶望的な状況にあってもただ信じることのみを私たちに求めている。私たち一人一人もある時は、霊的に死の危険の状況に追いやられることがあります。神さえも疑ったり、教会から離れてしまおうと思ったりと。でも私たちはイエスに触れることによって、変えられて恵みが与えられる、そして新しい命が与えられるということを体験していかなければと思います。そのためにも私たちは常に、祈りのうちでイエスに触れていくことが大切ではないでしょうか?
「あなたの信仰があなたを救った」というイエスのこの一言、やさしい言葉を私たちも聞くことができるように、そしてイエスに触れる喜びを互いに分かち合うことができるように、そうありたいと思っています。』

2015年6月21日日曜日

6月21日(日) 年間第12主日

今日の福音は、神への信頼について語られています。私たちもしっかりとイエスに目を据えて、多少の嵐があったとしても揺らぐ事のない信仰を生きることができるように祈りましょう。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『皆さんは日々の生活の中で、どのような不安を感じておられるでしょうか?
この一ヶ月間の行事などをとおして会話したなかでは、国会で議論されている憲法改正や自衛隊派遣のことが影響しているのかもしれませんが、戦争体験の話や将来の国の姿などが共通の話題にのぼっており、何かしらの不安を感じている方もおられます。
不安に耐えられず、弱音を吐くと、時にそれは信仰が足りないということになるのでしょうか。
今日、私たちが聞いた聖書の話の中で、向こう岸へ渡ろうというイエスの言葉に従って、弟子たちが舟を出しました。イエスと共にいれば不安などは無いはずだと思っていたかもしれませんが、そうではありませんでした。安全を脅かすような風が吹き嵐が起こって、弟子たちは不安になって助けを求めました。
嵐にはどのような意味が込められて物語が記されたのでしょうか。
もしかするとイエスの時代、迫害が起ころうとしていた、いや既に起こっていたのでしょう。激しい迫害の中で信仰が更に求められることが、この嵐の話につながっているのかもしれません。
自分の負うべき十字架を私たちは背負っているだろうか?そんなことを私は考えています。現実の不安や苦しみ悲しみがあった時、それを受け止める前に投げ出そうとしたり、嘆いたり不安に怯えたり、その試練や苦しみを背負うことができるということは、おそらくより神への信頼が必要なことなのかもしれません。今日の聖書の言葉をとおして、私は今そのようなことを思い巡らせています。
今日の聖書の言葉も先週に続いて、共感福音書のそれぞれで描かれているお話です。
湖に吹き荒れる嵐をイエスは一言で鎮めていますが、今日のマルコの福音では三つの場面でそれを描いています。
ルカ福音書、マタイ福音書においても同じような場面が描かれていますが、微妙に表現が異なっています。まず最初の場面で弟子たちの危機的状況とイエスの静けさが対比され強調されていることを読み取ることができます。ルカの福音では、ただ「突風」という表現が使われ、マルコの福音では「激しい突風」と”激しい”という言葉が付け加わっています。そしてその突風によって波をかぶって水浸しになるほどであったと描かれているので、よほど強く激しい風が舟を襲っていたということが想像できます。
荒れ狂う海というのは、神の支配に対する悪の力と考えられていた古代の人の考え方を想像すると、イエスによって嵐を鎮めるという力は、悪に対する神の偉大な力、勝利というものを示すかのようにも考えることができます。しかし、弟子たちはそんなことを他所にして不安にかられています。一方イエスは、舟の艫(とも、舟の後の方)で枕して眠っていたと描かれています。艫の方には舟を操る舵が付いていることから、イエスが舟の命運を握っているということを暗示しているのかもしれません。
第2の場面は、弟子たちの取った行動とそれに対するイエスの行動についての描写になります。弟子たちは我慢の限界を超えて、じっとしていられなくなりました。イエスを起こして、「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と言い始めます。マタイの福音では「主よ助けてください、おぼれそうです」という記述です。またルカの福音では「先生、先生おぼれそうです」という記述になっています。似たような表現が使われていますが、微妙に違っています。でも舟に乗っている弟子たちは、もともと漁師で荒くれ男であったかもしれません。そんな漁師が揺れる船に乗って不安になり、イエスに助けを求めるというのは、命の危険を感じるほどの状況であったのかもしれません。
イエスはこうした弟子たちの叫びに対して目を覚まし、権威のある口調で風を叱り、湖に向かって「黙れ。静まれ」と命じられました。「黙れ。静まれ」という記述は他の福音には書かれていません。風を叱るイエス。私たちは聖書のいくつかの場面で、イエスの叱る行為を見てきています。イエスは常に悪霊に向かうときに、このような態度を取っていたというようにも考えられます。イエスのこの行為により、風は止み、すっかり凪になった。風もまた霊に通じる心理的な力を表すものとしても考えられるようです。
第3の場面は、イエスの言葉と弟子たちの言葉が紹介されます。イエスは「なぜ怖がるのか」と弟子たちにこう言われました。聖書の中で”怖がるもの”という言葉は、臆病な心から出てくるそうした恐怖を意味しているときに使われます。聖書の黙示録の中でも同じ表現がありますが、それは、不信仰なものに向けられて使われているそうです。
これらの3つの場面で、私たちはどんなことを感じ取り、黙想することができるでしょうか?
イエスと共にいるということは、どんなに悪い状況にあっても、またどんなに悪の力の攻撃を受けているときであっても、揺るがない信頼の源となるということを私たちに伝えているのかもしれません。
現代の私たちの生活の中にある不安、悲しみ、どうしようもない出来事のなかで、私たちは一体、何に目を向け、何を信頼して歩めばよいのでしょうか?
今日のお話を黙想しながら、天の御父の力強さ、そしてイエスの中に生きている神秘を証する力を私たちに伝えているような気がします。
今日は父の日ということでありますが、私たちが本当に信頼を持って人に接するということは、とても大事なことです。特に父の日にあたって考えるとすれば、愛を持って子供や家族に力強さを示せるような父の姿が、何よりも今、求められているのかもしれません。そして、私たちもしっかりとイエスに目を据えて、多少の嵐があったとしても揺らぐ事のない信仰を生きることができるように、今日もまた心をあわせて祈りたいと思います。』

2015年6月15日月曜日

年間第11主日 『からし種の喩え』

典礼は年間の季節に移り、祭服の色が緑色に変わりました。

今日はミサの後、恒例の「春の大掃除」が行われ、外国人の信徒も参加し、聖堂のステンドグラスや照明をきれいにし、敷地内の清掃等を行いました。
大掃除の後は、D地区の皆さんが用意していただいた豚汁とおにぎりをいただきながら、談笑しました。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は、日差しが降り注ぐ日曜日になりました。
札幌の街中は、YOSAKOIソーラン祭りで大変賑やかになっています。

さて、今日の聖書の言葉を皆さんはどのように聞いたでしょうか?
からし種の話。共観福音書それぞれに、この「からし種の話」が取り上げられておりますので、人々に大変受け入れられた話だったのだと思います。
「神の国は一粒のからし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
キリスト教の文化圏では、からし種というのは、信仰心や真理を表す宗教的な言葉としても使われるようになっているといわれます。
インターネットで調べてみたところ、西洋の国では小型の豆本タイプの聖書を「からし種」と呼ぶのだそうです。
「からし種」は、小さいものを表す最少の単位を表し、その小さいものから大きな成果が育つことの喩えとして使われるそうです。
季節が年間に移りました。
弟子たちの宣教の姿が、この年間の季節のみ言葉の中では特に描かれています。
今日のお話もその一つになっています。
イエスと共に歩み続ける弟子たち。イエスの教えを学び歩む弟子たち。そこに弟子たちの信仰の成長もみていくことができ、今日のからし種の話も私たちとって意義深い話となってくるだろうと思います。
年間の季節を迎え、少しゆっくりとした歩みの中で、私たちはイエスの教えに心を開いて、より一層深く心に留めるように歩んでいきたいと考えます。
分かっているつもり、知っているつもりの神の心やイエスの教えも、いつの間にか自分の思いが強くなって、イエスの思いがいつの間にか自分の主張になっていることが、よくあることではないでしょうか?イエスから学んだことを考え話しているつもりが、イエスから離れ自分の思いになってしまい、それを主張し、人とぎこちない話をしてしまったりすることもあるかもしれません。自分の思いが自分の期待以上に私たちを導いて下さるのが神様のはず、ですから神様の教えをいつも自分の中心に置いておかなければと思います。自分の中心に神様の心よりも自分を置いてしまうと、強く自信に満ちた自分になって、ぎこちない関係を人ともつくってしまうことがあるような気がします。
農業の生活から素材を得た今日のイエスの喩え話は、土を耕し種を土の中に蒔くと、やがて成長し実を結ぶという誰にでもわかりやすい内容です。
イエスは、種そのものの成長する力を強調しているように思います。成長には、育って大きくなること、成熟すること、熟成するという意味を持っていると思います。
私たちは日々成長しているでしょうか?私たちの心は日々熟成するように育っているでしょうか?
また、自然におおらかに育つという視点でみると、私たちは人生に違った味わいを持つことができるかもしれません。
当時の生活環境は今と比べると大変厳しいものでしたから、神の国に描かれる世界は、大変すばらしいと誰もが憧れる世界でした。永遠の憩いの場所としての神の国、イエスはそこに一人一人を招き導くために来たということを強調しました。
イエスが招き導く場所はどんなところかということを人々に知ってもらうために、イエスは神の国についていろいろな喩えで話をされたわけです。
そして、神の国のことを知り、それを理解すれば、誰もがそれを憧れるようになります。私たちもきっとそうなのだと思います。神の国がすばらしいものであるならば、生きている今も、そして死んだ後も、神の国に導かれることがどれほど素晴らしく待ち遠しいことになるのではないでしょうか。
しかし、神の国は、其処彼処にあるというものではないという話をイエスはされてきました。ではどこに?といった時に、神の国はあなた方の間にあるのだ、という言い方もされました。少し戸惑ってしまいますが、イエスは、神の国は、その種は、あなたたちの心の中にもあるのだということを話されたわけです。
私たちの心の中に蒔かれたその種とは、時にはイエスのみ言葉でもあります。、
私たちは、その神のみ言葉を聞いて受け入れることで、豊かな実を結ぶことができるということをもっと深く信じなければなりません。
私たちの心に蒔かれた神のみ言葉を、私たちは受け入れ、味わい、大切にして、そこから大きな成長があるということをもっと深く信じてもいいのではないでしょうか。
そのことが私たちの信仰を強め、福音宣教につながるのではないかと思っています。
み言葉を生きることは決して簡単ではないことですが、誰にでも出来ることだと思います。今日のからし種のみ言葉を心に置いて、そのみ言葉から私たち自身が成長できるように、今日もそのことを願いながらイエスの前に近付いていきたいと思います。』

2015年6月7日日曜日

6月7(日) キリストの聖体

6月に入り、札幌は新緑の季節を迎えています。

教会の欅の木もご覧のとおり、木陰ができるまで緑に覆われています。

教会にいるとゆっくりとした時の流れを感じますが、今年も既に6月になり半年が過ぎようとしています。まさに光陰如箭です。
北一条教会では先月の教会総会で櫻谷新委員長が選出されました。櫻谷委員長は1ヶ月の間に献堂100周年記念事業実行委員会を立上げ、会衆に聖堂内の静謐を求め、運営委員会と地区集会の機能性向上、、、その他にも数多くの発信をされ、様々な要因により散逸しつつある北一条教会共同体の一致に、適切なスケジュール感でもって取り組んでいる様に思います。教会共同体の一致は後藤神父が説教や集会等の場で良く言葉にされますが、勝谷司教が言われる「出向いて行く教会」の大切なコンディションの一つでもあると思います。櫻谷委員長に北一条教会共同体の適切な舵取りを期待しますが、委員長任せではなく私たちも共に汗を流して新しい北一条教会共同体を作って行きたいと思います。


「キリストの聖体」の祝日を迎えています。

聖堂の天井には、聖体の祝日を表す「I.H.S」のアルファベット3文字が刻まれています。このI.H.Sは、イエス・キリストを表しています。


後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『キリストの聖体の祝日を迎え、かつて行っていた聖体大会を思い出します。今日の聖体の祝日に相応しいシンボルが聖堂にある事をご存知ですか?天井の前方に目を向けて下さい、イエスキリストを表すIHS(Ihsouz Xristoz)の文字と、その上方に十字架、下方に3本の鎖が刻まれたシンボルがあります。また、天井の中央にはイエスのみこころが刻まれています。私たちは聖堂に入ってきますと、こうしたシンボルや壁面の絵によって沢山の黙想に導かれます。
さて、先ほど私たちはみことばを聞きました。みことばの中で、イエスは賛美と感謝を奉げて祈り、これは私の体であると唱えて新しい契約を示されました。死を目前にしたイエスは、最後の日、最後の時を過ごす中で弟子たちと共に食事の席についていました。そして食事をしながらご聖体を制定なさり、それが、私たちが続けているミサに繋がっています。ミサの歴史はイエスの死と復活を記念する教会の歩みでもあります。
私たちは、イエスキリストの贖いによって神に近づくものとなり、そして日曜日ごとにミサに与り、ミサの中でご聖体を頂いていますが、私たちはご聖体に対しどれくらい積極的に意識しているでしょうか?ご聖体を頂き祈るとき、私たちの心はどの様に結ばれているでしょうか?あまりにも習慣になり過ぎ、ご聖体に対し積極的に心が動かないということも多いのではないでしょうか?信仰において大切なご聖体に向かっていても、ご聖体を頂いても、心のうちに何の感覚もなく過ぎていくなら信仰における危険が入り込んでくるかもしれません。私たちにとってご聖体とは何でしょうか?ご聖体に対する意識はどの様に動いていたでしょうか?ご聖体を拝領する事によって、私たちは主の体に実際に与っています。主との交わりによって、私たちは共同体相互の交わりも高められています。「パンはひとつだから、私たちは大勢でもひとつの体です」私たち共同体にとっての大切なパウロの言葉です。私たちはキリストの体に深く結ばれ一つの体に繋がっています。ブドウとあの枝のように。私たちはもともとキリストに繋がった共同体であり、一つの体であり、私たち一人ひとりはその一つの部分です。
キリストの聖体、私たちは聖体拝領をするとき「キリストの御からだ」という言葉で拝領しています、今日、キリストの聖体を記念する祝日を迎えたことは大切なことです、ご聖体を心に留めて黙想するということも大切です。
私たちは自分の日常生活の中で、「祈っていても神様から何の返事も貰えませんでした、沈黙だけでした」「祈っていても神様は答えてくれませんでした」と言う話をすることがあるように思います。日曜日ごとにキリストを頂いている私たちにとって、常に私たちとともに居て下さるのはキリストであるはずです。私たちが見えないとしても、声を聞けないとしても、キリストは私たちとともに居てくださると言うことを決して忘れてはなりません。旧約の過越しが神の定めとして命じられたように、イエスも私たちに命じられ、私たちを導いておられるのです。ミサの記念は過去の出来事を思い出させながら、現在を照らし、未来に向かって変えていく力を導くものです。それは、イエスが死に打ち勝って、今尚生きておられる、生きておられるイエスを、ご聖体を通して私たちは一つになっているからです。キリストを信じ信仰を生きる私たちにとって、ご聖体をかたどるパンは人間の心と体を養うものです。
今日もミサを通してご聖体のイエス様を頂こうとしています。イエス・キリストが私たち一人ひとりのうちに来てくださることを感謝しながら、ミサの中でご聖体を賛美し感謝したいと思います。』

2015年5月31日日曜日

三位一体の主日

昨日の土曜日は快晴に恵まれ、札幌市内の多くの小学校で運動会が行われました。
教会学校の子供たちも活躍されたのではないでしょうか?

今日の後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。


『今日の「聖書と典礼」の表紙に使われている絵は、日本在住のアルベルト・カルペンティール神父の作品です。この神父様の作品は、身近なところでは山鼻教会の十字架の道行きのステンドグラスで使われており、独特の味わいを持っています。

今日、私たちに語られた福音は、マタイ福音書の最後の章になります。
全ては死によって終わってしまうという時代を生きていた弟子たちにとって、新しい時代の到来を語られる内容となっています。イエスの復活によって、死んでも終わりではないという新しい世界の到来でした。この新しい時代の到来を弟子たちは知っていましたが、周りの多くの人々にはまだ知らされていませんでした。そこでイエスは弟子たちに、まずガリラヤに行くように命じ、不安の中にあった弟子たちは復活の主に出会うことによって不安が消え去ることを体験します。弟子たちは不安という暗闇の世界から、新しい世界に向かって歩み出そうという、それが今日の福音のなかにも感じられます。
復活の主に出会うということは、太陽が昇って光が闇の世界の終わりを告げるというような出来事であったと思います。
「復活の喜びをもって、全ての民を私の弟子にしなさい」とイエスは弟子たちに命じます。そして、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさいと、まさに福音宣教での派遣を復活の主が命じています。父と子と聖霊の一致の精神をもってすれば、難しく思える宣教もまた可能であるということを私たちにも告げているようです。私だけの力では力が及ばず不安であるけれども、父と子と聖霊のみ名によって行うならば、神の恵みが可能にさせるということだと思います。
父と子と聖霊という三位一体の神。その神は三つの位格をもって永遠に相互に与え合っている、それが愛である、ということがよく言われます。それは私たちの信仰告白につながっています。

この愛という言葉を、聖書思想事典で見てみると次のようなことが書かれています。
信仰を日々生きるものは、聖霊によって神との愛の対話のうちに導かれています。その歩みによって神の奥義に近付いていきます。神は私たちに語り、呼びかけ、そして行動を促します。私たちはその神の愛に応えるという道をとおって、神の深い認識に至る。
それは簡単であるとはいえませんが、神は御子キリストをこの世に遣わし、私たちに御子を与えてくださったのであり、神はご自分が愛によって、御子を与えるものであることを私たちに示します。その御子は純粋な愛の対話のうちに、御父とともに生きることによって、自分と御父とが永遠から一つであること、自分が神そのもの、父の懐にいるひとり子であることを明らかにしている。
御父と御子の関係が示されていますが、まさに御父の懐にいて御子ははたらいている、その使命を果たしている、この世に遣わされたとき、イエスの心は常に御父と一つであったということでもあると思います。
こうして子である御子イエスキリストは、誰一人見たことがない父である神を知らせているのです。そして、この神とは聖霊において一致している父と子のことでもあります。
人間が用いる言葉は、豊かな内容と同時に限界も兼ね備えています。
その中でも、三位一体の奥義、つまり父と子と聖霊は永遠に相互に与え合っていることを最もよく表しているのは「愛」なのです。
と、このように聖書思想事典の中では「愛」という言葉が表現されていました。

神は「愛」であるという表現を私たちはよく聞きます。まさに三位一体の神が愛そのものでもあるということを私たちは信仰のなかで何度も聞いています。
私たちの信仰は愛につながっている。愛に結ばれている。ですから私たちが信仰に生きるということは、愛を生きるということでなければならないということです。
三位一体の神秘は、私たち人間の力では、理解することは本当に難しいことです。悟ることはできないけれど、信じることはできます。
新約時代になって旧約時代に知られていなかった神のもう一つの姿が啓示されました。それが御子の姿、イエス・キリストでもありました。キリストは私たちが目に見える姿をとって、この世に遣わされた神でもあります。そのキリストは、弟子たちの前で話されています。「私は天においても地においても全ての権能が与えられているもの。」さらに助け主である聖霊についても語られていました。聖霊はキリストのみ言葉を私たちにより良く理解させる恵みを私たちにもたらしています。キリストの心を心とさせ、アッパ、父よと呼びかけさせるはたらきを持っています。
世の終わりまで、いつもあなた方とともにいると約束されたキリストは、弱い私たちの支えとなって下さる方。三位一体の神秘を理解することは簡単ではありませんが、三位一体の神に心を向け、私たちの揺るぎない信仰によって、どんな時にも見守ってくださる神、イエス・キリストとともに私たちの信仰を歩み続けたいと思います。』

2015年5月26日火曜日

DVD「現代世界憲章への道」の視聴

30日の中央協議会社会司教委員会主催の

シンポジウムに向け、ミサ後、昨年秋に制作

されたDVD「現代世界憲章への道」を

約50名が集まり視聴しました。



現代世界憲章の中の「戦争や平和」に関する部分が

公会議を開催し、米ソの戦争、キューバ危機を

打開するために役割を果たされ教皇ヨハネ23世の

回勅「地上の平和」がその部分を引き継いでいることを

理解しました。

すなわち「軍備の平衡が平和の条件」ではなく

「真の平和は相互の信頼の上にしか構築できない」という

メッセージでした。

おりしから、現在の日本は、安全保障の関連で

これまでの憲法解釈が変更され、

自衛隊が海外にまで赴くような事態が想定されることから、

多くの国民から危惧の声があがっています。

国会で審議が始まろうとしていますが、

これらのことが

キリストの観点からどうなのか考える必要があります。

2015年5月24日日曜日

聖霊降臨の主日

今日で復活節の典礼が終わり、復活のローソクも外されます。
弟子たちが聖霊によって勇気づけられたように、私たちのうえにも聖霊の恵みがありますよう謙虚に清い心で神に感謝し祈りを捧げましょう。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『復活の主日から聖霊降臨の主日に至るまでの50日間を私たちは過ごしてきました。この日をもって復活節の典礼が終わりを告げます。
今日の聖霊降臨を毎年私たちはお祝いしますが、聖霊に対する理解は簡単なものではないと思います。イエスは最後の晩さんの時に、弟子たちに語っていました。約束していた聖霊は、弟子たちに遣わされることが既に弟子たちに話されていました。その具体的な出来事は今日の第一朗読である使徒言行録の中で語られました。
霊は目には見えないものですが、私たちはその”しるし”をいろいろなところで見たり聞いたりしているような気がします。時に自然の中で、音を聞いたり風を感じたりするなかに聖霊を意識する人もたくさんいるのかもしれません。聖書の中では「突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえた」というような表現で聖霊降臨の出来事が始まります。聖霊は、聖書の様々な箇所でいろいろな言葉で表現されています。息吹や風を意味するとも言われています。また、聖霊には聖なる命や聖なる力をもたらすイメージがあります。旧約聖書の創世記の中では、天地創造をされた神が土で人を形作られました。そして、神が息を吹きかけると命がそこから始まったと表現されています。霊は私たちの命に関わっていることを表しています。旧約のイスラエルの民は、神が全てであるという信仰をずっと生き続けています。民を救い、守り、苦しみから解放し導いてくださる、それは神そのものである、その神を信じ教えを守りイスラエルの民は信仰の歴史を歩んでいます。どんなに感謝しても感謝しきれない恵みを与えられてきた、そのような意識がイスラエルの民にはありました。旧約聖書におけるイスラエルの民の神への感謝は、祭りの中で大変重要な意味を持っていました。祭りと密接につながった信仰の民、それがイスラエルの民でもあります。祭りの中でも、過ぎ越し祭、仮庵の祭り(かりいおのまつり)、そして今日出てくる五旬祭の祭りは、三大祭りとしてイスラエルの民の信仰と最も密接に結ばれているものです。イスラエルの民は、この祭りの時には神殿にお参りすることが義務となっていました。
聖霊降臨は、この三大祭りの中の五旬祭と深くつながっています。五旬祭はギリシャ語でペンテコステといわれ、50日間という意味を持っています。これは現代の典礼における復活節の50日間と深くつながって今日に至っています。その50日が今日で終わるということです。祭壇に飾れていた復活のローソクも今日で外されることになります。
目に見えない聖霊の恵みを私たちはたくさんいただいています。イエスはかつて弟子たちにこう話されていました。
「あなた方にはこの世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。」、さらに「言っておきたいことはたくさんあるが、あなた方は理解できない。しかし、真理の霊であるその方が来られると、真理のあらゆる面であなた方を導いてくださる。」こう話されています。
私たちは聖霊について深い理解はできないとしても、私たちの歩みを聖霊がしっかりと導いて下さると、そのように私たちは信じたいと思います。聖霊の恵みが私たち一人一人に与えられているということは、私たちを勇気付けてくれることでもあります。
私たちにとっては、あらゆる面で足りないことばかりです。足りないことを自覚し、神に依り頼むことがあれば、聖霊の恵みがより一層訪れることではないでしょうか。自分は完璧だという思いでいるならば、聖霊の働きは開かれていかないような気がします。
イエス・キリストの十字架を感謝する、イエス・キリストの贖いに私たちは喜ぶことができます。そのことを受け入れることが出来る人に聖霊は与えられます。聖霊は清いものですから、私たちの心も清くしていかなければ、聖霊が入ってくる余地がないのではと思います。私たちの心の汚れをいつも清めて、聖霊を受けいれる準備をしていきたいと思います。
父なる神は、最愛のひとり子をお捧げしています。最愛の子イエス・キリストが、十字架の贖いの業を成し遂げて、私たち一人一人を父である神の御元へ招きます。私たちも感謝を忘れなかったイスラエルの民の信仰を学び、神が成就してくださったその御業を感謝して、その恵みに応えていくことが私たちの信仰の成長につながっていくものだと思います。
今日私たちに告げられた御言葉で、霊の結ぶ実りは愛であると語られています。そして聖霊の賜物は、一般的に七つの賜物として表現されています。教皇様は昨年、ローマを訪れる巡礼の人々への演説のなかで、聖霊の七つの賜物について度々話されています。それは、「上智」「聡明」「賢慮」「勇気」「知識」「孝愛」「主への畏敬」。分かりやすく言い換えると、知恵、理解、判断、勇気、神を知る、神を愛する、そして、神を敬う恵みということになります。信じる心を照らすといわれる聖霊に、私たちは心を開いて、私たち自身と教会のために、そして今、助けを必要としている弱き人、貧しい人のために、祈らなければと思います。』

2015年5月17日日曜日

主の昇天

「主の昇天」を迎え次の主日からは年間の季節が始まります。
私たちの共同体も総会を終え、新しい体制でスタートが切られます。
今日の御言葉をとおして私たちに出来る福音宣教を考えましょう。



今日の後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『今日の「主の昇天」の祭日は、本来は木曜日ですが、日本では守るべき祝日とはなっていないため、復活の第7主日の今日に「主の昇天」を迎えています。復活節が今日で終わり、来週からは年間の季節に移ります。私たちの教会でも先週、教会総会があり新たなスタートが切られています。
私たちの現実は、苦しみや悩みが日々、日常的に起こっています。私も時々お御堂で祈りますが、いつも感謝の祈りばかりではなく、悩みを抱えながら祈りを捧げるときもあります。そういう時に聖堂の壁画に描かれているゲッセマネの園で十字架の死を前にした苦しみの中で祈りを捧げるイエスの姿に、慰めや励ましを感じることがあります。
マルコ福音書は、ガリラヤから始まりガリラヤでイエスの昇天で終わります。マルコ福音は全16章で構成され、福音書の中では最も短いものです。イエスの誕生からイエスの洗礼そして荒れ野での40日間の黙想と断食という第1章から、今日の福音の第16章の最後へと続きます。このイエスの断食と祈りの40日間という数値は、今の私たちの典礼にも引き継がれています。灰の水曜日から主日を除いた40日間の四旬節を過ごし、復活の主日から40日間後の「主の昇天」まで典礼の季節を生きています。主の昇天を迎えている今日、この主の昇天に託されたみ言葉を黙想したいと思います。
イエスは弟子たちとの最後の日、「全世界に行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」このように命令して天に昇っていきました。
弟子たちはその言葉をどのように受け止めたのでしょうか?
長い間、イエスと生活を共にしてきた弟子たちにとって、イエスとの別れは寂しさや不安の気持ちがあったと想像できます。しかしイエスは、辛い時、悲しい時にもみ言葉を宣べ伝える使命を弟子たちに託しました。弟子たちに託したということは、私たちにもその大切さを命令されたということなのだと思います。
イエスの話される言葉は、時に私たちの思いを遥かに超えるものがたくさんあります。私たちの価値観からすると、イエスの言葉はあまりにも大き過ぎたり重過ぎたりするのかもしれません。全ての人に福音を宣べ伝えなさいという言葉も、弟子たちにとっては大き過ぎる命令ではなかったでしょうか。自分達の力の無さを嘆いていたことと思います。でもイエスはその時、聖霊を派遣し弟子たちを励ましました。その助けによって、弟子たちそして私たちも勇気をもって、宣教に専念することができるのだと思います。ですから私たちが聖霊を信頼しなければ、聖霊の助けを願わなければ、私たちの宣教は力不足に終わってしまうのかもしれません。
福音宣教とは、私にとってどういうことだったのだろうかと、今改めて思い起こしています。それは、私自身の召し出しともつながっていたと思います。私は函館地区において、二十歳のときに初めて教会を訪れました。そこから私とキリスト教との関係がスタートしました。初めて訪れた教会は小さな共同体で、そこにおられたのはフランスからきた宣教司でした。そうした出会いから始まり、それから私はどんどんキリスト教に惹かれていくようになりました。パリミッションの神父様との会話をとおして、何故、神父様が祖国から遠く離れたこの田舎の地に来られたのか、こんなにも一生懸命に宣教生活を頑張っておられるのかと不思議に感じていました。その背景には、イエスの「全世界に行って福音を宣べ伝える」というメッセージがあったのだと思います。そのような司祭の情熱、信仰の姿をとおして、私の中に種が蒔かれていたのかなと思います。
皆さんにとって、福音宣教を行うというのはどいうことなのでしょうか?
私たちの福音宣教は、小さいながらもいろいろな形となって現れていると思います。教会の中でも時々感心することがあります。平日のお御堂で椅子の座布団をひとつひとつ並べ直している方々がおられます。初めて教会を訪れた方が聖堂に入ったとき、そのきちっと並べられた座布団を見ることで、心が和み祈りをする気持ちも深まっていくのではないかと思います。小さな行為かもしれませんが、間接的には福音宣教につながっていくのではと思います。このように、私たちにはいろいろな形で出来ることがあるのではないかと思います。私たち一人一人が、小さな行いを大切にして実践していくことで、共同体もより活き活きとしていくことでしょうし、共同体の外とのつながりも深められていくような気がしています。イエスが昇天して姿が見えなくなるまでは、イエスは自ら語り、自ら手を伸ばして、病む人、貧しき人に近付いていきました。慰め癒すのもイエス自らが行うのを弟子たちは身近に見てきましたが、主の昇天の後、弟子たちは自分達がイエスの行いを受け継がなければなりませんでした。しかし、自分達の不足するところは聖霊が助けて下さる、その約束を信じて、弟子たちは力強く歩み出そうとしています。
私たちの福音宣教、それは主の昇天で最後にイエスが託された命令から始まっていきます。福音を宣べ伝えるということは、自分の信念やイデオロギーを伝えるということではないはずです。また、教会を大きくするためでもありません。政治的な影響力を大きくするということでもないはずです。あくまでもイエスを伝えること、人々とイエスとの触れ合いを育てていくこと、それが求められる福音宣教の姿だと思います。人々とイエスとの出会いの場の仲介者として教会があり、そして私たち一人一人が置かれているような気がします。キリストの期待に応えるために、私たちは常に自らの思いを警戒しなければなりません。そして、世界の真実、それをいつも正しく聞き取ることができるような感性を磨いていかなければならないと思います。』

2015年5月5日火曜日

復活節第5主日 「ぶどうの木とその枝のたとえ」

後半のゴールデンウィーク初日のも拘わらず、9時ミサにはいつもの主日と同じくらいの方が集まり、聖堂内は心なしかブルーのウェアーが目立っていました。
そして、今日も子供たちの侍者がたくさん集まりました。


ミサ後にわかりましたが、外国からの方も含めて10名程の旅行者がいらっしゃっていたようです。北一条教会では先週からネパール地震の募金呼びかけを行っていますが、旅先にも拘わらず多くのかたがネパールの子どもたちに心を寄せ、カリタスジャパンを通じての募金活動に賛同をして下さいました。
後藤神父の説教は「聖母月の5月を迎えました~」で始まり、世界中で起きている繋争から私たちの些細な揉事までの解決について、聖母マリアのとりなしを、「ブドウの木」の譬えでは剪定を強調され、私たちの中にある不誠実を戒められたように伝わりました。
北一条教会は、来週10日に教会総会が開かれ、新しい委員長の下で新たな旅立ちが始まりますが、今日の月例集会が現委員長下での最後の月例集会になりました。6年間もの長きに亘って教会共同体を纏めて下さった現委員長に感謝をします。


後藤神父様のお説教の一部をご紹介します。

『今日私たちに語られているのは、ぶどうの木と枝のたとえ話です。イエスが十字架を前にして、イエスを失った後の弟子たちが信仰生活を続けていくために、今何が必要であるのかを話したのが、今日のたとえ話になります。私たちはこのたとえ話をどのように受け止めているでしょうか?
ゆっくり静かに今日のみ言葉を味わうと、神様の愛が私たちの心に響いてきます。いかに私たちは神様とつながっていることが大事なことであるのか、そして本当に神様とつながっているのかを問われているような気がします。
イエスは弟子たちに話されています。「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」そしてその前段では”実を結ばない枝は刈り取られる”という言葉が語られていました。
私たちは実を結ぶことができる枝として、信仰を生きているでしょうか?
イエスにつながっているでしょうか?
また、イエスは次のようにも語れます。
「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」
私たちは時にこのような言葉を聞いて、それでは何かお願いしてみよう、という気になってしまいます。しかし、必ずしも願ったことが叶わないということも私たちは知っています。思うようにならないこともある、ということを私たちは知らなければなりません。そして時に、イエスのみ言葉を十分に理解しないまま、願いがかなえられないと不平不満を言っている私たちがいます。イエスの言葉を注意深く聞いてみましょう「わたしの言葉がいつもあなたがたの内にあるならば、」と言っておられるのです。
私たちの信仰が、いつも神を信仰し一致してイエスのみ言葉を生きているなら、あなた方の願いは何でもかなえてあげようと言っておられるのです。私たちがイエスのみ言葉を蔑ろにしたり、聞く耳を持たなかったり、自分の都合のいいようにだけ解釈して生きているのに、願い事だけは一生懸命となえているということも有り得るような気がします。
また本当に心からイエスの名によって願っていたでしょうか?自分の思いが先になっている願いの方が多かったのではないでしょうか?
ゆっくりと静かに黙想することによって、普段気付かないことにも気付かされます。
ぶどう園の主人というのは、ぶどうの収穫のために、手入れを一生懸命されている方です。広い畑を見回しながら、弱っている枝、痛んでいる枝には消毒もし、肥料もやり、汗水流して一生懸命世話をします。剪定もしなければなりません。神はつながっている枝に対して、そのようなことをされているということを今日のたとえで話されています。つながっている枝に対して、伸び放題に放置しているのではなく、時には痛みを伴う剪定もしているというのがこの話の中にあると思います。”剪定”というのは、私たちの人生の中での痛みや苦しみの体験であり、枝をより丈夫にするための試練なのかもしれません。もしそのように受け止められるのなら、神様の愛をより感じることができ、痛みも苦しみにも耐えることができるような気がします。剪定をしながら、もしかしたら私たちに厳しい訓練をされているのかもしれない、私は黙想をしながらそのようなことも感じます。
つながっているということは、ただ安心して自分の思い通りになっている人生を過ごすということだけではなく、時には思いどおりにならない人生の日々があったにしても、それは神の私たちに対する愛のために受けなければならない厳しい訓練であり痛みなのかもしれません。それは多くの実を結ぶために、神が為されていることだと受け止めることができるなら、私たちはもっと強い生き方をできるような気がします。』

2015年4月29日水曜日

千徳神父様 金祝記念ミサ

4月29日(水・祝日)午前11時から、宮前町教会・湯川教会主任司祭 使徒ヨハネ 千徳康雄神父様の司祭叙階50周年記念ミサがカトリック北一条教会で行われました。
ミサは、勝谷司教様と司祭19名による共同司式により執り行われ、200名ほどの信徒が集まり、千徳神父様の叙階50周年を祝いました。



花束贈呈


御ミサの後、教会に隣接する「聖園こどもの家」に場所を移し、祝賀会が行われました。


叙階50周年の御絵