2023年6月18日日曜日

6月18日 年間第11主日

 この日の主日ミサ司式は、メリノール会のケン・スレイマン神父様でした。

お説教では、ご自身の自己紹介と生い立ちにも触れられ、とてもユーモアとフレンドリーな内容でした。ミサの最後には父の日にちなみ、会衆に祝福をくださいました。



お説教は、こちらをどうぞ。



【聖書朗読箇所】


第1朗読 出エジプト記 19章2~6a節


 彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。

 イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。


 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。

 「ヤコブの家にこのように語り

 イスラエルの人々に告げなさい。


 あなたたちは見た

 わたしがエジプト人にしたこと

 また、あなたたちを鷲の翼に乗せて

 わたしのもとに連れて来たことを。


 今、もしわたしの声に聞き従い

 わたしの契約を守るならば

 あなたたちはすべての民の間にあって

 わたしの宝となる。

 世界はすべてわたしのものである。


 あなたたちは、わたしにとって

 祭司の王国、聖なる国民となる。



第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章6~11節


 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、

 不信心な者のために死んでくださった。


 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。

 善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。


 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、

 キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、

 神はわたしたちに対する愛を示されました。


 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、

 キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。


 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、

 和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。


 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、

 わたしたちは神を誇りとしています。

 今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。



福音朗読 マタイによる福音書 9章36~10章8節


 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、

 打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。


 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。


 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」


 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。

 汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。


 十二使徒の名は次のとおりである。

 まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、

 ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、


 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、


 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。


 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。

 「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。


 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。


 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。


 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、

 悪霊を追い払いなさい。

 ただで受けたのだから、ただで与えなさい。


2023年6月11日日曜日

6月11日 キリストの聖体

この日の主日ミサは松村神父様の司式でした。



お説教は、この日の「聖書と典例」に掲載されていた大阪教区 上田神父様「ご聖体はどんな味?」を交えた内容でした。



今日のご聖体は皆さんにとって、どんな味でしたでしょうか?


ミサ後カテドラルホールで、3年ぶりにミニバザーが行われました。

手作りのおにぎり、お赤飯、総菜などの食べ物類、ブーケや手作り小物等が販売され、賑わいました。

2023年4月3日月曜日

4月2日 受難の主日

レイナルド神父様は、人事異動でイタリア(ローマ)に転勤されることになりました。

北一条教会での最後の福音メッセージをご紹介します。




受難の主日 2023年4月2日 9時ミサ

今日の典礼で私たちは経験した事と感情の間の大きな対比に直面します。最初はイエスがエルサレムに大きな喜びと期待で迎えられる話で始まります。‛ホサナ、いと高きところにホサナ!’と人々は叫びます。イエスは当然そうされるべきでした。人々はイエスをみてたいへん興奮します。

でも、この興奮は今日の朗読をさらに深く読み進んでいきますとショックと恐怖に変わります。イエスが十字架につけられ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫んだとき福音書は最高潮になります。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」そう言ってから「イエスは再び大声で叫び、息をひきとられた」。まさにこのとき全ての会衆は沈黙のうちにひざまずきキリストの死の現実を深く考えます。

一週間の短い間でものごとはこうも変わるのでしょうか。イエスがエルサレムに入られたときに叫び賞賛した人々に何が起こったのでしょうか。どうして会衆はイエスが十字架の刑と死を受け止めることを見過ごすことができたのでしょうか。

この問への重大な答えは私たちが思いもよらないものです。その答えとは、天の父がそれを望まれたということです。神は御心のままに、多くの人々がイエスから離れ、打ち捨て、十字架にかけられる事を望まれたのです。これを理解することが非常に大切です。

最初の聖週間のどの時点でもイエスはその聖なる力を用いて十字架を拒否することができたで事でしょう。しかにそうはなさいませんでした。それどころかイエスはこれから受ける苦難と拒絶を胸に抱きながらすすんでこの週を過ごされたのです。そしていやいやながらでも、後悔さえなさいませんでした。自分のご意思で選び、すすんでこの期間を受け入れられたのです。

なぜ、イエスはそんなことをされたのでしょうか?なぜ苦難と死を選ばれたのでしょうか。それは父なる神の完全な知恵の中に、この苦難と死はさらに大きな目的があったからです。イエスご自身の受難と十字架の刑を用いることで私たちの神聖の完全な手段として、神はこの世の知恵を困惑させることを選ばれたのです。こうして神は最大の悪を最大の善へと変えられたのです。

この事から私たちの信仰のあかしとして、十字架は私たちの教会や家の中央にかけられています。そうすることで最大の悪でさえ神の力、知恵、愛には勝てないといつも思い起すことができるのです。神は死そのものより力があり、全てが失われたように思えるときでも最後に勝利するのです。

2023年3月26日日曜日

3月26日 四旬節第5主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてお送りします。




【福音メッセージ】 四旬節第5主日A年 2023年3月26日 ウルバン神父“イエスは涙を流された“


“主よ、あなたの愛しておられる者は病気なのです”とイエスは知らされたが、姉妹マルタとマリアが泣きながら待っているのを知って、なお二日間、動きませんでした。“主よ、どこにいるのか、早く来てください、必死に待っているよ”と涙のうちに呼びながら、村の入り口まで走って行って、遠くまで覗こうとしたが、何も見えませんでした。“どうして来ないか分からないが、いつかきっと来ます”と、姉妹達は互いお慰めあって。

ある時、5歳の信者のかわいい女の子が病気になった。頭の中にがんがあった。お父さんも、私も何回も子供の床のそばに立って祈っていたが、病気はますます悪くなって、頭はがんでスイカのように膨らんできた。信者ではない母親は泣きながら私達の祈る姿を見ていたが、慰めになりませんでした。子供が死にました。教会へ行って、教えてもらいなさいと、主人に勧められたが、娘を助けに来なかった神様に心を開けませんでした。教会から家へ戻った時、いつも深いうつに沈んだ。もう来なくなった。娘は神様に愛されなかった。何年か後、母もイエスに出会って、子も愛されて、光に生きていることを知った。長い暗闇の道を歩いた後、顔に微笑みが戻った。

マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行って、イエスの足元に平伏した。イエスは慈しんで手を伸べて言った。“私を信じる者は、死んでも生きる。信じる者は決して死ぬことはない。マルタ、このことを信じるのか”。マルタはイエスの顔をみて、“はい、主よ、私は信じております”と、答えた。イエスは、ご自分の足元にひれ伏し泣いている姉妹マリアと、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見た。その時、イエスは心に憤り、涙を流された。

この主の涙は私たちの心に響いています。忘れる事が出来ません。主の心の中を見ているのではないでしょうか。このイエスに私もついて行きたい、ゆるぎなく信じたいのです。今日もイエスは私とあなたに手を伸べて話しています。“我が子よ、我が愛する子よ、私はあなたを見ています。あなたの毎日の苦労、体と心の疲れ、周りの理解できない暗闇、あなたの疑い、力と弱さ、悲しみと喜び、あなたの夢、心の餓え渇き、全て知っています。いつもあなたに近いのです。道が見えなくなっても、もし信じるなら、我が子よ、あなたも神の栄光が見られる”。

もう何十年も前の事です。丁度、ドイツにいた時、父母の結婚金祝に参加する事が出来た。大きな喜びでしたが、もうすぐ、別れのつらい日が来ました。母にがんの病があって、もう長く生きる事はないのを知っていた。出発の朝、母はもう一回私を静かな所へ呼んで、私に別れの祝福を与えた。いつも聖水で頭、胸、肩に泣きながら十字架のしるしをしたが、今回は泣きませんでした。私が泣いた。母の最後の言葉はまだ心に響いています。“今度、天国で会おう”。それは別れの言葉でした。マルタが言われた言葉、“信じれば、神の栄光を見る”は、母の中に生きていた。神に賛美。



【聖書朗読箇所】


全能の、神である父よ、

  御子キリストは、人々を愛してみずからを死に渡されました。

  わたしたちも、この愛のうちに力強く歩むことができますように。

会祈願より



第1朗読 エゼキエルの預言 (エゼキエル37章12-14節)


主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。

わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。


わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、

わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。


また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。

わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。

そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、

行ったことを知るようになる」と主は言われる。



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ8章8-11節)


(皆さん、)肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。

神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。

キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。


もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。



福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ11章1-45節)


(そのとき、)ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。

このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。(ラザロの)姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。

イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」


弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、

またそこへ行かれるのですか。」

イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」

こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。


イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。


さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。

マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。


マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」


マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。


イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。


マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。

彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、(イエスは)心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。


イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。

イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、

「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。

イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。


人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。

しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。


※コロナウィルス感染症拡大でミサに参加できない信徒の皆様に、主日の神父様の説教と聖書朗読箇所をお届けして参りました。

先日、勝谷司教よりミサ参加の各種制限撤廃が発表されたことを受け、各小教区でもコロナ前の状況に戻りつつあります。

「主日の福音メッセージ」は今回の配信で最後となります。これからは、ミサで神父様の説教と聖書のみ言葉にご一緒に耳を傾けて参りましょう。

2023年3月17日金曜日

3月19日 四旬節第4主日

 山谷神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


【福音メッセージ】 四旬節第4主日 A年 2023年3月19日 山谷神父

今日の福音は奇跡のお話しですね。以前、ルルドの奇跡を興味本位で取り上げていたテレビ番組を見たことがありますが、この中でカトリックの神父さんがインタビューに答えていて、「奇跡があったことよりも、むしろ奇跡を体験した人がその後、どのように生きたのかが大切だ」と言っていました。

今日の福音はヨハネ9章の盲人の癒しでした。イエスと出会い癒しの恵みをいただきます。普通の奇跡物語のパターンではこれで終わりですが、今日のお話しの特徴は、癒しの恵みをいただいた人の後日談が語られています。むしろこちらの方がメインのストーリになっています。同じように後日談が語られているのが5章のベトザタの池の癒しです。今日のシロアムの池のお話しと、ベトザタの池のお話しは非常によく似た展開で語られ、対をなしていると見ていいでしょう。ですから、二つの物語を比較することで、ヨハネ福音書が伝えようとするメッセージが見えてきます。

ベトザタの池の癒しでは、癒しの恵みをいただいた人は、ユダヤ人から尋問され、結局イエスのことを裏切るかたちで終わっています。ところが今日のシロアムのお話しでは、ファリサイ派の人々から尋問されますが、臆せず反論し、結局会堂を追放になり、イエスを信じてイエスを礼拝する形で終わっています。同じような展開でありながらも、二人の癒やされた者の結末は全く異なるものになってゆきます。ここでヨハネ福音書は、イエスとの出会いが癒しというご利益で終わるのか、それともイエスとの関係がご利益を超えた深い絆を結ぶ出会いにまで深まるのかを問いかけているのでしょう。

5章のベトザタの池のお話しよりも、今日のシロアムの池のお話の方が圧倒的に長いお話になっています。それは、癒やされた者のその後の歩みを丁寧に描いているからです。イエスは泥をこねて彼の目に塗りました。泥をこねるのは創世記で神が人間を土から形作るお話しを暗示しており、新しい人間の創造という意味があります。そして、シロアムの池での洗いは、洗礼を意味しているでしょう。洗礼を受けて新しく生まれた彼は光をもらいました。しかし、彼にはまだイエスは見えていません。ベトザタのお話しもシロアムのお話も、癒しの後、イエスは一旦その場を立ち去り隠れてしまいます。このような描き方は、真のイエスを探すという意味があります。表面的なイエスとの出会いから、もっと深くイエスと出会うためにイエスは一旦見えなくなっているのです。

シロアムの池で癒やされた盲人は、再びイエスと出会い、「信じます」と答えてイエスを礼拝しました。イエスを信じたために彼は会堂から追放され、ユダヤ人の社会では生きられない者にされてしまいます。しかし、そのような試練に会っても、彼はイエスとの離れられない絆を結んで行ったのです。ご利益を超えた、イエスとの真の絆が結ばれていったのです。私たちのイエスとの関係も、都合のいい時だけの関係で終わっていないでしょうか。



【聖書朗読箇所】


聖なる父よ、

  あなたは御子の苦しみと死によって、ゆるしの恵みをもたらしてくださいました。

  キリストを信じる人々が、信仰と愛に満たされ、主の過越を迎えることができますように。

集会祈願より



第1朗読 サムエル記 (サムエル上16章1b,6-7,10-13a節)


(その日、主はサムエルに言われた。)「角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」


彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」


エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。

「主はこれらの者をお選びにならない。」サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」

「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」


エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」

サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。



第2朗読 使徒パウロのエフェソの教会への手紙 (エフェソ5章8-14節)


(皆さん、)あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。

光の子として歩みなさい。

――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――

何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。

実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。

彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。

しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。

明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。

「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」



福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ9章1-41節)


(そのとき、)イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」


イエスはお答えになった。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」


こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。

そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。


近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。

「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。


そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」


人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。

イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。

そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」


ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。


そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」

彼は「あの方は預言者です」と言った。


それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。

「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」


両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」


両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。

両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。


さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。

「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」

彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」


すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」

彼は答えた。

「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」


そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」


彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」


彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。


イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。

彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」

イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

彼(は、)「主よ、信じます」と言って、ひざまず(いた。)

イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」


イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。

イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

2023年3月11日土曜日

3月12日 四旬節第3主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 四旬節第3主日 A年 2023年3月12日 松村神父

旅で「疲れ切ったイエスの姿」であった事と、「水を汲みに来た女性」が来たのは正午であったことから、いくつかの推測をすることができます。今日はそのことから二つの視点で紐解いていきたいと思います。

第一に、旧約時代エルサレムを中心とした南ユダ王国とサマリアを中心とした北イスラエル王国に分かれ、同じ神を讃えてはいたが、エルサレム神殿に対抗するようにサマリアは自分たちの神殿を作った。唯一の神を自分たちこそ正しく讃えるんだという、なんとも神中心よりも人中心的な発想で始めてしまった。ユダヤ教にとっての中心はあくまでエルサレムでしたので、サマリアの宗教はユダヤ教の分派であり、あくまでも異教徒の集団であると理解されていた。「サマリアの女」とは、ユダヤ人にとって敵対・異端・異文化という対象であったが、イエスはそこに自分の旅で疲れて弱りはてた姿と、対話をもって「身を低くした“しもべ”の姿」で関わっていったということは、象徴的な宣教するキリスト者の姿が垣間見える。宣教する者の姿が、上から教えてあげるという姿勢を取り続けてきたことへの警告ではないだろうか。

第二に、本来女性の役割として、朝早く、一日に必要な家庭の水を汲みに井戸にやって来ては、集まった婦人たちと僅かな井戸端会議を行い、帰って家族のために作業に取り掛かります。しかしこの女性は正午に来たということは、他の女性と会うことができない幾つかの理由があったのだろうと読むことができます。実際イエスとの会話から夫が5人いたようだが、現在の連れ添いも本当の夫ではないということは、この女性は日の目を浴びることができない仕事についていたということであろう。つまり他の婦人たちと顔も併せられず、周りから理解されず、助ける者もおらず、社会から外れ、孤独にさいなまれていた一人の女性であった。現代ではLGBTQや自殺願望を持つ人、精神疾患を持つ人など、教会内ではまだまだ声を上げられない一人がいる事を理解する必要があるのだろう。自分の知っている価値観を乗り越えなければ、真の神の国へは届かないことを指しているのかもしれない。

 今日の話は、これらの事を踏まえて、井戸からの尽きる泉の限界を知り、イエスから来る無限の恵みに人生をかける事を思い起こすことが大切なのだろう。泉の限界とはこの世的な人の経験であり、また態度を指し、イエスから来る水は永遠の命を思い起こすことにある。教皇フランシスコは多くの回勅などの書簡を通して「解放」を示し、無限の愛で包まれることを強調されています。サマリアの女は指摘されても仕方がない人生なのかもしれないが、それでもゆるし、包み込み、励まし、派遣される神の愛を、この回心の時に思い起こしたい。自分の回心は、人を許す愛の業から始まることを大切にして、この四旬節を過ごしていってはと思います。



【聖書朗読箇所】


信じる者の力である神よ、

  あなたは祈り、節制、愛のわざによって、

  わたしたちが罪に打ち勝つことをお望みになります。

  弱さのために倒れて力を落とすわたしたちを、

  いつもあわれみをもって助け起こしてください。

集会祈願より



第1朗読 出エジプト記 (出エジプト17章3-7節)


(その日、)民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。

「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」


モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。

「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。

見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」

モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。


彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ5章1-2,5-8節)


(皆さん、)わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。


希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。


しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。



福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ4章5-42節)


(そのとき、イエスは、)ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。


サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。


イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」


女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」


イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」


女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」


イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。

イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」


女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」


イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」


女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」


イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」


ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。

しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。


女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」


人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。


イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、

その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」


さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と

証言した女の言葉によって、イエスを信じた。


そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。


彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

2023年3月4日土曜日

3月5日 四旬節第2主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 四旬節第2主日 A年 2023年3月5日


「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16章24節)

キリストの弟子になるのは決してたやすくありません。背負う十字架が重たすぎる時があり、さらに待ち受ける困難を思うと恐ろしくさえなります。

イエスの姿の変容から得られる教訓は、恐れや疲労、後悔をもたないでイエスに従い、私たちを前に進ませる助けになるということです。3人の弟子たちが最後には気がついたように、やがて全てが良い結果になるという確信があります。それはハッピーエンドになるのを知っている小説を読むようです。主人公がどんな困難にあおうとも、私たちはめげずに読み進んでいきます。その物語が幸せな結末で終わると知っているからです。

最後の晩餐でイエスは私たちに永遠の記念、すなわちご聖体を残されます。それはイエスが実存するという秘跡、それによりイエスの「私は世のおわりまであなた方と共にいる」という約束を果たすためです。何が起ころうと、イエスはいつも私たちと共におられ、とくにご聖体の中にいらっしゃいます。

私たちは3人の弟子たちが山で行ったように信仰の目を開け、大聖グレゴリウス教皇が宣言した「典礼は本来、神のみ前の聖なる行いであり、神父の賞賛に答えるミサ聖贄のとき、天は開き、天使たちの歌声はこの神秘に立ち合い、上にあるもの下にあるもの, 天と地が結びつき、見えるもの、見えないものが一緒になる」。これこそが変容の経験ではないでしょうか?

確かに私たちの感覚は何の変化も感じません。パンは同じパンに見え葡萄酒もそうです。しかしその変化は外観にはなく、そのものの中にあります。パンは未だにパンに見え、葡萄酒も葡萄酒のままに見えます。しかし聖別のとき、それはキリストの体、キリストのおん血となります。私たちのカトリックの神学ではこれを聖変化と呼びます。

聖フランシスコ・サレジオは次のように説明します。「しかしながら祭壇に祝福されたご聖体があるとき、そしてこの存在はもはや想像ではなくまさに現実なのです。そしてこの聖なるものはたとえ私たちがイエスその人を見ることができなくても、実在の救い主がその後ろから見守り見つめるベールであるのです。

ミサはまさに「地上の天国」と言われます。天国とは神と一緒にいる状態のことです。もし私たちがイエスは本当にご聖体のなかにおられると信じるのなら、すなわちミサとは地上の天国を経験することです。私たちがミサに与っているときこの貴重な瞬間をどれだけ深く大切にし感謝しているでしょうか。

イエスはまことにおられ, わたしたちと共にいらっしゃいます。天国は、ここ、ミサ中に始まるのです。



【聖書朗読箇所】


聖なる父よ、

  あなたは「愛する子に聞け」とお命じになりました。

  みことばによってわたしたちを養ってください。

  信仰の目が清められて

  あなたの顔を仰ぎ見ることができますように。

集会祈願より



第1朗読 創世記 (創世記12章1-4a節)


(その日、)主はアブラムに言われた。

「あなたは生まれ故郷

父の家を離れて

わたしが示す地に行きなさい。


わたしはあなたを大いなる国民にし

あなたを祝福し、あなたの名を高める

祝福の源となるように。


あなたを祝福する人をわたしは祝福し

あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて

あなたによって祝福に入る。」


アブラムは、主の言葉に従って旅立った。



第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (2テモテ1章8b-10節)


(愛する者よ、)神の力に支えられて、

福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。

神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、

わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。

この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、

今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。

キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ17章1-9節)


(そのとき、)イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。

見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。

ペトロが口をはさんでイエスに言った。

「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」


ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。

すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。

弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。


イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」

彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。


一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

2023年2月25日土曜日

2月26日 四旬節第1主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 


四旬節第1主日A年2023年2月26日 ウルバン神父 “人はパンだけで生きるのではない”


ヨルダン川沿いに一人の男の方が歩いている。ゆっくり、よろよろしながら歩いている。何かに酔っているみたい。歩く所をちゃんと見ているでしょうか。目をほとんど閉じて一歩、一歩を進んでいます。確かに酔っていますが、密かに顔の表情を見ると、言葉で言い表せない深い体験と喜びに酔っている。ちょっと前に先駆者ヨハネは、この方の上に天が開き、神の偉大さ、聖霊が鳩の姿で降りて来るのを見た。その時この方が天に手を上げ、体が震えて、心が喜びに踊るのを見た。‘この方だよ、神の聖なるものだよ’と感動した時、‘お名前は’と聞こうとしたが、その方はもう行ってしまった。目で見送ったが、ヨハネの思いからその方はもう離れませんでした。

イエスは、死海の近くにある荒れ野、ユダヤの砂漠に着いた。この荒野は恐ろしいほど寂しい所で、動物の鳴き声も、水の流れる音もない。たまに崖から転がる石の音しかありません。ところが、この砂漠こそは聖なる所で、神の出会いの所です。イエスは疲れて、どこかの岩に座っていた。もう夕方になって、やっと涼しい風が増えてきた。段々暗くなると、美しい星空も見えてきた。イエスはヨルダン川での深い体験を抱いて、賑やかな群衆を避けて、荒れ野の静けさの中、深い星空の下で父と共に居たかった。心の中に、唇の上には常に祈りが住んでいた。‘アバ、アバ、お父ちゃん、わがお父ちゃん、私に何をして欲しいでしょう。教えてください。あなたのために何でもします’。イエスの荒れ野の中の姿を見ると、歌の言葉が浮かんでくる。‘谷川の水を求めて喘ぎさまよう鹿のように、神よ、私はあなたを慕う’。目を閉じて、心の目を開くと、イエスは荒れ野の中で歩き回って、何日もさまよう姿を見て、心の叫びを聞いているのではないでしょうか。‘アバ、アバ、我が道、救いの道を示してください。望むとおりにします、道を示してください’。

朝になって、また夜になった。何日も過ぎた後、イエスは飢えた。朝の汁をなめて、迷ったイナゴを食べたかもしれませんが、今は酷く飢えた。その時を敵が狙っていた。‘この者は俺に最高に危ない人物です。うまく滅ぼそう’。人が神様に近づこうとすると、聖霊が助けるだけではなく、敵も狙って来る。優れたインテリのある敵。飢えているイエスの優しい心を知って、飢えで泣いている人の姿を見せた。‘神の子なら、この石をパンにしたら、どうだい。パンあれば、助かるよ。必ずついて来るぞ’。何日も妄想のように飢えている人を見ていた。本当に狡猾な誘惑でした。その時、主の目が開き、人が互いにパンを奪い合って、激しく争っているのを見た。その時イエスの目の前に道は開かれた。‘サタン、退け。人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる’と。40日たった後、主は荒れ野から出て、確信をもって、道を歩き始めた。

私達も道を失って、荒野をさまよい、飢え渇いて歩む時もある。その時、望めば、私も、あなたも体験する。私は神の口から出る一つひとつの言葉によって生き、私は喜びに潤される。私達を愛している主は約束した。‘子よ、私について来る人はもう暗闇に歩まない、光の中に歩む’。



【聖書朗読箇所】


全能の神よ、

  年ごとに行われる四旬節の典礼を通して、

  わたしたちに、キリストの死と復活の神秘を深く悟らせてください。

  日々、キリストのいのちに生きることができますように。

集会祈願より



第1朗読 創世記 (創世記2章7-9,3章1-7節)


主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、

その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

主なる神は、東の方のエデンに園を設け、

自ら形づくった人をそこに置かれた。

主なる神は、見るからに好ましく、

食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、

また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。

蛇は女に言った。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

女は蛇に答えた。

「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。

でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、

触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。

それを食べると、目が開け、

神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、

目を引き付け、賢くなるように唆していた。

女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。

二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、

二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ5章12-19節)


(皆さん、)一人の人によって罪が世に入り、

罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。

すべての人が罪を犯したからです。

律法が与えられる前にも罪は世にあったが、

律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。

しかし、アダムからモーセまでの間にも、

アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。

実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。

一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、

なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、

多くの人に豊かに注がれるのです。

この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。

裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、

恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。

一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、

なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、

一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。

そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、

一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。

一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、

一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ4章1-11節)


(そのとき、)イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。

そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。

「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

イエスはお答えになった。

「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。

「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」

イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。

すると、イエスは言われた。

「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

2023年2月18日土曜日

2月19日 年間第7主日

 山谷神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


【福音メッセージ】 年間第7主日 A年 2023年2月19日 山谷神父

第一朗読のレビ記では、「あなたたちは聖なる者となりなさい」と言い、福音書ではそれを「あなたがたも完全な者となりなさい」と言い換えています。神様が聖なる者であり、完全な者だから、あなたがたも神様と同じようになれと言っているわけです。第二朗読のパウロも、コリント教会の人々を聖なる神殿にたとえています。そうした意味で今日の聖書は共通して聖なる者になるというテーマが流れています。

時々光明社のレジをしていると、買ったご絵やロザリオを祝別してくださいと頼まれることがあります。聖別とか祝別というのは、何を意味しているかというと神様のものになるということです。パウロの手紙の最後にも「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの」と言っているように、聖なる者になるということは、神様のものになりなさいという意味です。

コリント教会の手紙は「キリスト・イエスと一致して神のものとされ、召されて聖なる人々へ」と書き出しています。この「聖なる人々」はいわゆる聖人のことではなく、一般のコリント教会の信者さんたちのことを「聖なる人々」と呼んでいます。パウロの手紙は一般の信者さんたちを聖性へと招く手紙であり、今日の福音のイエスも特別な聖人に向けてのメッセージではありません。

小さき花のテレジア、リジューのテレジアの子どもの頃のエピソードに、お姉さんがある日、リボンの入った綺麗な箱を開けて「どれか一つ選びなさい、あなたにあげましょう」と言われ、テレジアは「全部欲しい」と言ったそうです。意外と欲張りだったんですね。テレジアは聖人になりたいと本気で思っていて、修道院に入った後も、宣教師になりたい、司祭になりたい、聖人になるのならあらゆる者になりたいと望み、全ての召命を生きたいと思っていました。つまり、すべてのリボンを選んでいたわけです。そのために、ある意味で完璧主義の修道生活を送るわけです。小さな罪でも犯していないかと調べ、ありとあらゆる苦行を積極的に行い、完全な者になることを目指していました。ところがある日、Ⅰコリント書13章の有名な愛の讃歌を読んだとき、愛はすべての召命を含むことに気づきます。つまり、愛を選ぶことは全てを選ぶことだと気づくわけです。

聖なる者になる、神様のものになるというのは、人間の努力や力によって獲得して行くのではなく、愛である神様を選び、その信頼のうちに生きることだとテレジアは発見して行くわけです。それは、誰にでも聖人になる道が開かれているという発見でもありました。

律法を完成してくださるのはイエスです。不完全なわたしたちをイエスは完全な者としてくださるのです。一部の特別な人だけが聖なる者に招かれているのではなく、誰にでも聖性への道は開かれています。イエスに信頼してこの招きに応えて行きましょう。


【聖書朗読箇所】


全能永遠の神よ、

   わたしたちがいつも聖霊の光を求め、

   ことばと行いをもって

   み旨を果たすことができるように導いてください。

集会祈願より

第1朗読 レビ記 (レビ19章1-2,17-18節)

主はモーセに仰せになった。

イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。

あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。


心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。


第2朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 (1コリント3章16-23節)

(皆さん、)あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。


だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。


「神は、知恵のある者たちを その悪賢さによって捕らえられる」

と書いてあり、また、

「主は知っておられる、 知恵のある者たちの論議がむなしいことを」


とも書いてあります。ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。


福音朗読 マタイによる福音 (マタイ5章38-48節)

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)


「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」


「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

2023年2月10日金曜日

2月12日 年間第6主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてお送りします。



【福音メッセージ】 年間第6主日 A年 2023年2月12日 松村神父

かつて学問の研究をしていた時、ある聖書学者の神父様からこんなことを言われました。「常に新しさを求めるように」と。新しさとは何だろうとしばらく考えていましたが、それは学問に向き合う姿勢である事と、信仰に対しても新たな局面を見出す事であると答えを導き出しました。もちろん信仰に新しさなどはありませんが、しかしヒントになるのは今日の福音ではないかと感じました。

今日の福音は旧約の律法に立ち戻ることを語りながら、人間が解釈した内容に留まり続ける事への危険性を訴えているのではないでしょうか。もちろん律法は間違ったことは言ってはいません。しかし完成されていなかったことをイエスは語ります。イエスの完成とは、律法に付さなければならないものがある。逆に言うと律法の運用に欠けていたものがあったということ示しています。それは愛の視点から運用を見直すこと。パウロが語るように「愛が無ければ無に等しい」ということでしょう。イエスの死後も、平和の宗教が各々信仰を守るという名目で争いが起こり、人は一致しない歴史をたどってきました。キリスト教の迫害、キリスト教の分裂はいつの時代にも起こってきました。「一致の霊である聖霊」はどこに行ってしまったのか。第二朗読はそのことを語っているように読めます。そして人間がその聖霊の識別を忘れてきた歴史ではないかとも思います。せっかくすばらしい信仰なのに分裂が起きる。愛の寛容さ、赦しの大切さ、謙虚な心がいつも私たちから遠ざかっています。イエスの目から見て特に律法学者、祭司長にその姿が堅調にうかがえたのではないかと思うと、私自身も反省しなければと思う今日この頃です。

さて、愛が欠けると掟がないがしろになります。結果、人が人を“裁き”“殺し”“姦淫し”“離縁し”“誓いを立てる”。信仰の主体が自分にしてしまうと、まるで神の右の座にいるように、他人よりも優位に立ってしまう。だから神の前で「はい」という言葉だけが重要であるということになるのではないでしょうか。

いつもいただく恵みに、謙虚に、そして固定した考え方から脱却して、過去から与えられた伝統に縛られず、愛を生きるために自分を変え、他者のために生きる道を選ぶことこそが、信仰の新しさ。固定された者からの解放。信仰の根本は○○(思い込み・しがらみ・罪・悲しみ等々)からの解放にあるということを今の自分の信仰に新たな見方として捉えてみましょう。


【聖書朗読箇所】


聖なる父よ、

   あなたは、正義を求める人、誠実な人と共におられます。

   わたしたちが、恵みに支えられて

   豊かな実りをもたらすことができますように。

集会祈願より



第1朗読 シラ書 (シラ15章15-20節)


その意志さえあれば、お前は掟を守り、

しかも快く忠実にそれを行うことができる。

主は、お前の前に火と水を置かれた。

手を差し伸べて、欲しい方を取ればよい。

人間の前には、生と死が置かれている。

望んで選んだ道が、彼に与えられる。

主の知恵は豊かであり、

主の力は強く、すべてを見通される。

主は、御自分を畏れる人たちに目を注がれる。

人間の行いはすべて主に知られている。

主は、不信仰であれとは、

だれにも命じたことはなく、

罪を犯すことを、許されたこともなかった。


第2朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 (1コリント2章6-10節)

 (皆さん、)わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、

「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」

と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。


福音朗読 マタイによる福音 (マタイ5章17-37節)

 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)

 《「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するため ではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」》

 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、 あなたがたは決して天の国に入ることができない。」 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。

 《兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。》

 あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。《もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。》

 また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。

 《天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。》

 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」