2022年1月29日土曜日

1月30日 年間第4主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ 松村神父】

年間第四主日

今日は福音のメッセージというよりも、分かち合いになることでしょう。

さて、私は札幌産まれ札幌育ちですので、私自身の事を知っている人は現在でも沢山います。一緒に育った仲間はまだまだ健在で、私の至らないところを青年時代に見てきた人もいるし、今となっては言えないことも見てきている人は存在しています。また私の成長を見守って祈ってくれて来た人も大勢います。今はどのぐらい記憶に残っているか、はたまた私などの事を覚えていてくれている人は何人いるかはわかりません。しかし私個人としては「知られている」と、どこか恥ずかしくもあり、小さくなっている自分もいます。「あの頃は悪ガキだったのに~」と言う神父様もいる事でしょう。そんな私が今神父として偉そうなことを言っています。信者さんの中には知り合いだから何とかしてくれるという人もいる傍ら、知合いであっても心を鬼にしてシビアな回答を伝えなければならない時もあります。昔と比較するだけならまだいいけれど、「あんな奴の言うことは大したことない」と言われても仕方がないこともあるでしょう。そのような中で司祭叙階によって受けた恵は、自分の中にもともとあったものではない、神様からの恵み。かつての自分では言わないようなことが口から出てきます。他者から見れば、「よく育ったものだ」という人も「自分の過去を振り返ってみろ」という人もいておかしくない中で、威厳を持って語る事の勇気というのは思いのほかあるものです。出身地で司祭を続けるのは良い面も悪い面もあります。その面、違う土地で働くことは、大胆にも自分を表現できるのでしょう。そんな体験は皆さんにもあるのではないでしょうか。

昨今「SNSの過去リセット」というのが話題になっています。自分の携帯に入っている友達を整理し、リセットするという行為です。心機一転、本当につながっている人以外は連絡網から削除するのですが、意外にも世間だけに限らず精神科医や心理学者などもあながち悪い行為ではないと好意的に受け取っています。本物の絆を残し、雑多な関係を見つめ直すというのは自分自身の絆を見つめ直す行為であると言われています。聖書のイエスを見ていくと、まさにイエスは過去に縛られず、本当の絆づくりを作り出そうとしており、過去の絆に縛られない歩みを始めています。それは神様からの使命であり、聖霊の導きだからです。それは今日の第一朗読のエレミヤの言葉を受けた者の行為であり、律法に適った働きであり、第二朗読でパウロが語る「愛」が無いところに向かう必要がないという結論に導かれています。本物の「愛」があればナザレの人々はイエスを崖から落とすようなことはしません。イエスの故郷に「愛」を見いだせなかったということになるでしょう。「愛」あるところに向かう。「愛」を求めているところに向かう。これがイエスの核心なのかもしれません。

過去の人間関係に縛られず、「愛」に基づいた大胆な宣教活動とは何か。それは今、目の前にある『頑なな現実(変えようのない事実の“今”)』なのではないか。もう一度考え直しチャレンジしてみたいと感じた今日この頃でした。



【聖書朗読箇所】


一人ひとりの心に語りかけてくださる神よ、

  あなたはわたしたちの思いをすべて知っておられます。

  きょうここに集うわたしたちを聖霊によって導いてください。

  あなたの声に素直に心を開くことができますように。

   集会祈願より



第1朗読 エレミヤ書 1章4~5、17~19節


主の言葉がわたしに臨んだ。

「わたしはあなたを母の胎内に造る前から

あなたを知っていた。

母の胎から生まれる前に

わたしはあなたを聖別し

諸国民の預言者として立てた。」


あなたは腰に帯を締め

立って、彼らに語れ

わたしが命じることをすべて。


彼らの前におののくな

わたし自身があなたを

彼らの前でおののかせることがないように。


わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて

堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として

ユダの王やその高官たち

その祭司や国の民に立ち向かわせる。


彼らはあなたに戦いを挑むが

勝つことはできない。


わたしがあなたと共にいて、救い出すと

主は言われた。



第2朗読 コリントの信徒への手紙一 12章31~13章13節


あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、

愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。


たとえ、預言する賜物を持ち、

あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、

たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、

愛がなければ、無に等しい。


全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、

誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、

愛がなければ、わたしに何の益もない。


愛は忍耐強い。

愛は情け深い。

ねたまない。

愛は自慢せず、高ぶらない。


礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。


愛は決して滅びない。

預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、

わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。


完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、

幼子のように思い、幼子のように考えていた。

成人した今、幼子のことを棄てた。


わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。

だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。

わたしは、今は一部しか知らなくとも、

そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。


それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。

その中で最も大いなるものは、愛である。



福音朗読 ルカによる福音書 4章21~30節


イエスは、「この聖書の言葉は、今日、

あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。


皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。

「この人はヨセフの子ではないか。」


イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、

『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、

『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、

郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」


そして、言われた。「はっきり言っておく。

預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。


確かに言っておく。

エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、

その地方一帯に大飢饉が起こったとき、

イスラエルには多くのやもめがいたが、

エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、

シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。


また、預言者エリシャの時代に、

イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、

シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」


これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、

総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、

町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。

しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。


2022年1月22日土曜日

1月23日 年間第3主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】


年間第3主日   2022年 1月23日   “主の霊は私の上にある”  ウルバン神父

 

 さて、イエス様は霊に満ちてガリラヤに帰られた。私達は今日またイエス様と共に歩こう。共に時間を過ごし、共に歩めば、イエスの姿を眺めることができます。顔の表情を見、心に触れたら、自分の心が温まって、生き生きして、豊かになります。寂しそうな気持、弱くて、力のない心を喜ぶ人がいるでしょうか。だから、主と共にいて、共に歩むことを喜ぼう。

 何週間前にイエスはナザレから出て来た。数日も一人でヨルダン川に向かって歩きながら「アバ、父よ、今、僕が来ます。何をしてほしいでしょうか。何でもします」と心の中で繰り返した。ヨルダン川に着いた時、川に沈みながら「お父さん、私の全てをあなたの手に」と祈った。

 いま帰る道に、主の姿、主の顔の表情は違います。心には新しい火が燃えて、目に光と美しい微笑みがあります。「イエスは霊に満ちてガリラヤに帰られた」と聖書に書いてあります。「私は自分の見たことや聞いたことについて黙っていられない」と思いながら、故郷に向かって、急いで歩いています。死の谷にすむ人は一日も早く光を見えるように。

 イエス様と共に歩いている私達のなかにも、この火が燃えているでしょうか。自分の心は同じ霊に動かされているでしょうか。暗闇にいる人に福音を伝える望み。使徒パウロは、疲れた沈んだ心ですごく乱れた町コリントの道々を歩いた時、声が聞こえた。「パウロ、恐れるな。話せ。私のこの町に多くの人がいる」。イエスは共に歩いているあなたに振り向いて、同じように言うでしょう。「恐れるな、あなたの周りの闇にいる人に良い便りを伝えなさい。心配するな。私の霊はあなたの口に言葉を入れる。やってみなさい。多くの人の心は飢えている」。

 ある時の事です。一人の入院した信徒、よく祈る心を持っていたおばちゃんは、御聖体を待っていました。私は毎週病院へ行って、共に祈って、御聖体を授け、ちょっとおしゃべりした後, 帰りました。二人部屋でした。ある日、帰ろうとした時、振り向くと、知らないうんと年老いたおばあちゃんが横たわっていた。足元に付き添いさんが昼も夜も座っていた。おばあちゃんを見た時、付き添いさんに言われた。「このおばあちゃんは何もわからない。一つも聞こえない。もうだめだ。頭はもう“パァァァ”だ」と。それでも不思議に私の心は動かされて、おばあちゃんに頭を下げて、ただ一言を言った。「おばあちゃん、神様はおばあちゃんを愛しているよ」。その時あの死んだ顔が生きてきて、おばあちゃんは頭を動かして、大きな目で私を見て言った「本当ですか」。あの声は深く私の心に響いていた。乾き飢えた心の声でした。私はこたえた。「本当ですよ。神様はおばあちゃんを愛している」。その時の彼女の顔の表情を言葉で言い表せない。そこで静かに目を閉じた。一週間あとにまた行った時、おばあちゃんはもう死にました。もし黙って帰ったら。。。その時、イエス様に出会ったことを信じます。長い生活の道の最後にイエスに抱かれて死にました。

 イエスは愛する故郷ナザレに戻って、会堂に集まった懐かしい幼なじみの前に言った「主の霊が私の上におられる。貧しい人に喜びの便りを告げ知らせるために私は遣わされた」。すべての人の目がイエスに注がれた。イエスは小さい時から皆を知って、嬉しそうな目で会堂を見回しながら皆を慈しんで見ていた。私達も皆と一緒に会堂の中に座っています。イエスの目は私にも言う「心配するな。あなたも貧しくても、愛されている。我が子よ、喜んで出かけて、人に伝えなさい:あなたも愛されている。安心しなさい、あなたの名もいつもイエスの手、イエスの心に書かれている」。



【聖書朗読箇所】


喜びの源である神よ、

  あなたは、主キリストのもとに集まるわたしたちに、

  救いの福音を聞かせてくださいます。

  今日は聖なる日、神の語られることばが実現する日。

  あなたに感謝するこの集いが、

  わたしたちの生きる力の源となりますように。

   集会祈願より



第1朗読 ネヘミヤ記 8章2~4a、5~6、8~10節


祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。

そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。

第七の月の一日のことであった。


彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、

理解することのできる年齢に達した者に向かって、

夜明けから正午までそれを読み上げた。

民は皆、その律法の書に耳を傾けた。

書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立った。


エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。

彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。


エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、

「アーメン、アーメン」と唱和し、

ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。


彼らは神の律法の書を翻訳し、

意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。


総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、

律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。

「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。

嘆いたり、泣いたりしてはならない。」

民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。


彼らは更に言った。

「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。

その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。

今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。

悲しんではならない。

主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」



第2朗読 コリントの信徒への手紙一 12章12~30節


体は一つでも、多くの部分から成り、

体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、

キリストの場合も同様である。


つまり、一つの霊によって、わたしたちは、

ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、

奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、

皆一つの体となるために洗礼を受け、

皆一つの霊をのませてもらったのです。


体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。


足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」

と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。


耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」

と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。


もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。

もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。


そこで神は、御自分の望みのままに、

体に一つ一つの部分を置かれたのです。

すべてが一つの部分になってしまったら、

どこに体というものがあるでしょう。


だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。


目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、

また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。


それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、

かえって必要なのです。


わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、

もっと恰好よくしようとし、

見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。


見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。

神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。


それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、

一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。


あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。

第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、

その次に病気をいやす賜物を持つ者、

援助する者、管理する者、異言を語る者などです。


皆が使徒であろうか。

皆が預言者であろうか。

皆が教師であろうか。

皆が奇跡を行う者であろうか。

皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。

皆が異言を語るだろうか。

皆がそれを解釈するだろうか。


あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。



福音朗読 ルカによる福音書 1章1~4節、4章14~21節


わたしたちの間で実現した事柄について、

最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、

物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。


そこで、敬愛するテオフィロさま、

わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、

順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。

お受けになった教えが確実なものであることを、

よく分かっていただきたいのであります。


イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。

その評判が周りの地方一帯に広まった。

イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。


イエスはお育ちになったナザレに来て、

いつものとおり安息日に会堂に入り、

聖書を朗読しようとしてお立ちになった。


預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、

次のように書いてある個所が目に留まった。


「主の霊がわたしの上におられる。

貧しい人に福音を告げ知らせるために、

主がわたしに油を注がれたからである。

主がわたしを遣わされたのは、

捕らわれている人に解放を、

目の見えない人に視力の回復を告げ、

圧迫されている人を自由にし、

主の恵みの年を告げるためである。」


イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。

会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。


そこでイエスは、

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」

と話し始められた。

2022年1月14日金曜日

1月16日 年間第2主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 湯澤神父】


2022年1月16日 年間第2主日

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

 今日の福音は、有名なカナの婚宴の出来事です。「み言葉の賛歌」と「洗礼者ヨハネ」の話が終わって、第二章だし、福音本文に入っているのかなと思ってしまいます。が、日付からすると「はじめに」で始まる日から数えて七日目、ちょうど『創世記』の「はじめに」で始まる天地創造のお話の第七日目に当たります。それで、区切りとしては、序文に属するようです。そんなこんなで、たくさんのことを味わうことができる個所です。

 皆さんもそうかもしれませんが、私は、この福音の箇所で、非常に不思議に思う言葉があります。それは、葡萄酒がなくなったことを告げに来た母親に向かって「婦人よ」と呼びかけるのに用いている言葉です。自分の母親と同じ年の女性に向かって、尊敬の意味を込めて「婦人よ」ということは不思議ではありません。しかし、どう考えても自分の母親に向かってこうした呼び方はしません。一番新しい訳では、「女よ」となっています。ますます二人の人間関係について、訳が分からなくなります。

 イエス様の答えの内容も不思議で、「私と何の関係もないでしょ」というものです。理由は、「私の時はまだ来ていない」ということでした。あえて捉えれば、「あなたの気遣っていることと、私の死と復活時と、今は無関係です」という意味でしょう。ここから少し飛ばして福音書の終わりの方を見てみましょう。十字架の場面でもう一度この「婦人よ」という呼びかけが出てきます。その箇所は、イエス様が自分の愛する弟子たちをマリア様に委ねていく場面です。「これがあなたの子供たちです」と。そして、愛する弟子には、「これがあなた方のお母さんです」。実は、マリア様が本当に気遣うべきものは、イエス様が委ねていこうとしていた弟子たちだったです。マリア様は、それで「私たちの母」、「私たちの貴婦人(ノートル・ダーム)」になるのです。その時こそイエス様の時、死と復活の時、新しい契約が結ばれた時なのです。

 もう一つ連想を広げると、マリア様の召使に向かって語り掛ける言葉に行き着きます。「この人の言葉にはすべて従ってください」。この言葉は、エジプトを出たイスラエルの人々にモーセが語り聞かせた神の言葉に対する民の答えを思い起こさせます。イスラエル人たちは、「主の言葉と掟には、全て聞き従います」と答えます。そういう民にモーセは血を振りかけ、イスラエルは神の民となり、契約が成立(旧約)します。イエス様が愛する弟子を委ねていくとき、イエス様の血(葡萄酒)によって新しい契約が成立します。新しい民は、あの召使のように、イエス様のことばに全て聞き従う人たちなのです。

 こうして、聖書の箇所を読み、連想を広げていくと、時間が過ぎるのを忘れてしまうことがあります。皆さんもこうして色々と福音を味わってみませんか。   湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


愛の源である神よ、

  あなたは心から祈る者の声を聞き、

  こたえてくださいます。

  この集いを主キリストとともに祝う喜びの宴としてください。

  賛美と感謝をささげる一人ひとりのうちに、

  あなたの愛が満ちあふれますように。

   集会祈願より



第1朗読 イザヤ書 62章1~5節


シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず

エルサレムのために、わたしは決して黙さない。

彼女の正しさが光と輝き出で

彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。


諸国の民はあなたの正しさを見

王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。

主の口が定めた新しい名をもって

あなたは呼ばれるであろう。


あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり

あなたの神の御手の中で王冠となる。


あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく

あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。

あなたは「望まれるもの」と呼ばれ

あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。

主があなたを望まれ

あなたの土地は夫を得るからである。


若者がおとめをめとるように

あなたを再建される方があなたをめとり

花婿が花嫁を喜びとするように

あなたの神はあなたを喜びとされる。



第2朗読 コリントの信徒への手紙一 12章4~11節


賜物にはいろいろありますが、

それをお与えになるのは同じ霊です。


務めにはいろいろありますが、

それをお与えになるのは同じ主です。


働きにはいろいろありますが、

すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。


一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。


ある人には“霊”によって知恵の言葉、

ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、

ある人にはその同じ“霊”によって信仰、

ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、

ある人には奇跡を行う力、

ある人には預言する力、

ある人には霊を見分ける力、

ある人には種々の異言を語る力、

ある人には異言を解釈する力が与えられています。


これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、

“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。



福音朗読 ヨハネによる福音書 2章1~11節


三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。

イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。


ぶどう酒が足りなくなったので、

母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。

イエスは母に言われた。

「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。

わたしの時はまだ来ていません。」


しかし、母は召し使いたちに、

「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。


そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。

いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。


イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、

召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。

イエスは、

「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。

召し使いたちは運んで行った。


世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。

このぶどう酒がどこから来たのか、

水をくんだ召し使いたちは知っていたが、

世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。

「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、

酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、

あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」


イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。

それで、弟子たちはイエスを信じた。

2022年1月8日土曜日

1月9日 主の洗礼

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介
します。



【福音メッセージ 松村神父】

1月9日 主の洗礼 福音のメッセージ

子どもの頃婆ちゃんに「お天道様が見ているから恥ずかしくないように振舞いなさい!」と言われたことがあります。幼心に「私には隠れる所がない」と怯えたものでした。それでも悪いことは沢山してきて、大きくなるにつれて「お天道様に顔向けできない」ことが多々あったと思います。いつどんな罰を受けるのかと、洗礼を受けるまでびくびくしていました。しかし洗礼を受けるとそれは更に強まり、子ども心に「あれ~おかしいぞ!キリスト教の方がもっときついぞ!」と感じたものでした。ある時キリスト教は「赦し」と「共同体の支え」「教会が補う」ということを通して慰めて励ましが与えられていることを聞き、イソップ童話の「北風と太陽」の「太陽」のような天の父の姿を心に据え置くことができた時、私たちの宗教は「緊張と緩和」の中で「成長する」ことが大切であるということに気づかされ、そこから自分の心がニュートラルな状態に落ち着きました。今日はそんな思いを持ちながら主の洗礼について考えてみたいと思います。

ルカの福音のイエスの洗礼のシーンは、他の福音書とは少々異なります。それはイエスが水に入りヨハネから洗礼を受けるシーンが欠けており、洗礼を受けられた後の話に飛んでいます。ルカの福音では「イエスが洗礼を受けて祈っておられると~」と洗礼後の出来事に焦点が当てられています。天が開くこと、聖霊がイエスに降ること、神の声が語られる事は、ルカが書いた使徒言行録の聖霊降臨の出来事の強調でしょう。聖霊降臨は教会の誕生と位置づけらえていますが、キリストの洗礼はその核心。しかし聖霊降臨と唯一違うのは「聖霊と火」の「火」の解釈が聖霊降臨で語られる「炎のような舌」とは若干違います。ルカが語るこの「火」とは「審判(積極的審判・消極的審判)」を指すと言われています。最後の裁きの時に相応しい存在であったかが問われるということですが、教会とは常に「あなたたちはキリスト者としてふさわしい存在でしょうか?」と問われています。しかしその存在のあり方には審判の性質と照らすと、積極的であり、消極的でもあるあり方があるようです。私たちは“行動すること”と“行動しないこと”という両面にそれぞれに良さも悪さもあります。キリスト者だからわき目も降らず活動すること、与え続けるという積極性に大切さを持ちながらも、一方で見守ることの大事さ、動かない消極性の大事さもあります。動くことに正当性を持たせる事、逆に動かないことに言い訳を見出す事をしてしまいがちな私たちは、それを自分の正義として肯定しようとしてしまいます。しかし大事なことは「聖霊」である一致の目がなければ完成しません。つまり自分一人の正義は「聖霊」の動きとは違います「聖霊」は愛を行います。「私の愛する子、私の心に適う者」とは、「愛」が中心にあったというものでしょう。ですから私たちの行動は「私の愛」ではなく「神の愛」に基づいて判断されなければなりません。動く愛と見守る愛です。この見極めこそが聖霊による識別ではないでしょうか。コロナ禍ではまさにそこが問われていると思います。

 「北風と太陽」はどちらが悪いというお話ではないでしょう。ただその状況下の中で、その一人と「共にいた神」がどう対応されるのか?と理解するのがしっくりきます。その時「太陽」がその人に相応しいあり方だったのです。主の洗礼は「愛」に基づき「積極的・消極的動き」へと広がり、「北風か太陽か」を考える「愛」そのものの活動が「お天道様に相応しい」姿であったのかと考えるのです。

 洗礼者ヨハネの水による洗い清め、である自分の罪の免れだけに留まらず、他者へ向けられた洗礼である事こそ、今日私たちに教えてくださった洗礼。つまり他者を「愛」で包む洗礼、キリストの洗礼なのです。

私たちに与えられた洗礼は、私たちを信頼して下さった神様の恵み。自信と誇りを持って歩みましょう。


【聖書朗読箇所】


全能永遠の神よ、

  ヨルダン川で洗礼を受けられたイエスに

  あなたは聖霊を注ぎ、

  愛する子であるあることを示してくださいました。

  洗礼によって新たに生まれ、

  あなたの子どもとされたわたしたちが、

  いつもみ心に従うことができますように。

   集会祈願より


第1朗読 イザヤ書 40章1~5、9~11節


慰めよ、わたしの民を慰めよと

あなたたちの神は言われる。


エルサレムの心に語りかけ

彼女に呼びかけよ

苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。

罪のすべてに倍する報いを

主の御手から受けた、と。


呼びかける声がある。

主のために、荒れ野に道を備え

わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。


谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。

険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。


主の栄光がこうして現れるのを

肉なる者は共に見る。

主の口がこう宣言される。


高い山に登れ

良い知らせをシオンに伝える者よ。

力を振るって声をあげよ

良い知らせをエルサレムに伝える者よ。

声をあげよ、恐れるな

ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神


見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ

御腕をもって統治される。

見よ、主のかち得られたものは御もとに従い

主の働きの実りは御前を進む。


主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め

小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。



第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14、3章4~7節


実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。


その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、

この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、


また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、

わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを

待ち望むように教えています。


キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、

わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、

良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。


十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。

だれにも侮られてはなりません。


しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、

人間に対する愛とが現れたときに、


神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、

御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。

この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、

新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。


神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、

この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。


こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、

希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。



福音朗読 ルカによる福音書 3章15~16、21~22節


民衆はメシアを待ち望んでいて、

ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、

皆心の中で考えていた。


そこで、ヨハネは皆に向かって言った。

「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、

わたしよりも優れた方が来られる。

わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。

その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。


民衆が皆洗礼を受け、

イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、


聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。

すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、

天から聞こえた。



2022年1月6日木曜日

1月1日 神の母聖マリア

 遅くなってしまいましたが、1月1日に勝谷司教様の司式により北一条教会で行われました元旦ミサでのお説教をご紹介します。


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2022年1月1日 神の母聖マリアの祭日、世界平和の日  勝谷司教ミサ説教

 私たち人間が他の被造物と違うところは、自分の存在の意義というものを常に問い続けるように造られているところだと思います。人生の意味、自分は何のために生きているのか、あるいは自分自身どう生きるように召されているのか。これらの問いに応えていくように造られています。

 アウシュビッツの強制収容所を体験したフランクルという精神学者は、「夜と霧」という有名な本を出していますが、その中で書いてあることがあります。強制収容所の中で生きるために必死にもがいている人たち、しかし彼らが突然ばたばたと死んでいく。これは何を意味するのか。自分も同じ収容者でありながら、精神科医という立場で観察し続けある結論を導き出しました。この人生が自分にとって何の意味があるのか。今、与えられている現実に何の意味も感じとることが出来ない状況のもとで、人はそれだけで死んでいってしまう。しかし逆に、こんなひどい状況の中にあって、いつ逮捕されるか、というよりもこのまま死んでいく。無意味に死んでいく可能性の方がはるかに高い状況の中で、その中であっても、こんな過酷な状況も意にも意味があるのだと問い続けていました。彼らはその人間性を最後まで失わず、ひとつのパンをめぐって争い合う中であっても、それを敢えて分かち合う心を失わずにいた、そういう内容のことが書かれています。

 この本を書いたフランクルは精神分析医として、フロイトが無意識というものはすべて衝動的なものに生理的なものに置き換えることが出来る。すべての人間の精神活動はすべて衝動、無意識な世界が反映して分析しそれを突き詰めていくならば、最終的にはそこにいくのだと説いていました。確かにこの無意識の発展というのは心理学の世界に高貴な影響を与えましたが、しかしフランクルは人間というのはただ衝動性によって支配されているのではなくて、精神的なものも無意識であり、それを精神的無意識と呼び、まさに十分すぎる生きる意味を無意識のうちに追い求めている存在である。その意味が満たされていなければ人間は不安定であると語っています。このような言い方もしています。この人生が自分にとってどういう意味があるのかを多くの人は問いかけます。しかし、大切なことは人生が今、この私にどういう意味があるのか問いかけているのだ。その答えを求めるために生きていく、これが大切なことである。

 これは精神分析医の人の表現ですが、私はこれを信仰者の目で捉えてみると、人生が問いかけてくる意味というものは、神が私たちに与えられた命である。そしてそれを突き詰めていくならば、一人一人あたえられている召命ではないかと感じています。自分がこの世に生まれた意味、何を祈り求められているのか、多くの場合それは何か分からない中で、現実に起きている出来事の中で翻弄され流されて、その意味を問いかけるゆとりのないままに過ごしてしまっている人が多いのではないでしょうか。

  しかし、その中にあっても今、この人生この状況は必ず何か意味がある。神が私に何らかの意味を与えて今この状況になっている。だから自分はそれに応えていきたいと思っている。必ずその人生の意味を見いだすことが出来る。なかなかこの現在の状況に意味を与えると言うことは難しいことです。多くの場合、過去を振り返ったときに、あのときの出来事の意味はこうだったんだと、気づくことが多いのではないでしょうか。私たちは起こった出来事を変えることはできません。しかしその出来事の意味を変えて、明日に向かって歩んでいく存在でもあるのです。 

 今日の福音書の中でもほかの箇所でも、何度も出てくるマリア様の「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて思い巡らしていた。」(ルカ2:19)。マリア様自身も人生の今、与えられている意味をすべて理解し、信仰によって人生のすべてを何の迷いも無く過ごしていることはあり得ない。誕生の場面から多くの危険にさらされて、ヨセフとどうやってこの家族を守ったら良いのか。命の危険から逃れるためにエジプトに避難し、ヘロデが死ぬまで難民として生活していたのです。また帰ってきたあともこの間の「聖家族の主日」の福音のなかで、エルサレルムの巡礼したとき、イエス様一人だけエルサレムに残り、神殿で律法学者たちと問答していいた。「何でこんなことをしてくれたの。」自分の子供が自分の理解を超えている。何をしようとしているのか分からない。どん家庭でもこのような子育ての悩みは経験していると思いますが、マリア様のすぐれているところは、何か人格的に優れているとか(本当は優れているのです。)、何か大きなことを成し遂げたとか、そういうことではなくて、むしろ自分自身のすべてを神に捧げて、そしてそこに与えられている「今、現状は何を意味しているのか」、それも理解出来ない。そして今とは比べものにもならないほど危険に満ちた世界の中で翻弄され、そして生きて行かざるを得ない状況にあるのです。こんな人世、こんな生活、どういう意味があるのか。それは起こった出来事を常に心に留め思い巡らしていたマリア様の姿を、まさにこの人世の意味、問いかけに応え続けていこうとする、神の召し出しにそれに応えているものと私は感じています。

 そう考えるならば今私たちは、コロナ禍の状況にあって、教会としては致命的な交わることの出来ない苦しみを味わっています。集まることが出来ないということは、教会にとってどうしようものないこと。その中にあって私たちはこのように工夫しながら(分散ミサ)、その信仰を保ち共同体の中で支え合い克服していこうと努力しています。

 いったい今起こっていることにどういう意味があるのか、まだ私たちには示されていない。この先どうなるのか分からない現況にあって、一人一人がこのコロナ禍にあって翻弄され、それぞれの人世が影響を受けています。後になってこの時のことを思い出すならば、その思い起こしている人の数だけその人世の意味があると思います。

 私たちはこの状況を心に留め思い出す。すなわち黙想しながら神が与えられているこの現状の中でどのように、そして応えていったらよいのか、常に問いかけられている存在であることを忘れないでいただきたいと思います。


2022年1月1日土曜日

1月2日 主の公現

新年あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】


「公現」とは現れるという意味です。そして「主の公現」とは東方の三博士たちだけでなく、象徴的ですが全世界にイエスが現れたということです。ユダヤではない外国から旅してきた博士たちは、イエスは全ての人のために来られて、あがめられると明らかにしました。

博士たちは占星術を学んだ賢者であり、メシアが来るというユダヤ人たちの考えを知っていました。彼らはその日の出来事をよくわかっていたでしょうし、ユダヤ人のメシア信仰に興味があったことでしょう。

神はキリストを賛美するために彼らを招き、博士たちが親しみを持っているものを用いました。星です。博士たちは星のことを理解していましたから、この新しくめずらしい星をベツレヘムの上空に見た時、何か特別なことが起こっているとわかりました。まず、私たちがここから学ぶことは、神が私たちを招かれる時、なにか私たちがよく知っているものを使われるということです。神があなたを招かれる時に使われる「星」をみつけましょう。思いのほか身近にあります。

二つ目に注目することは、博士たちが幼子であるキリストの前にひれ伏したことです。彼らは完全に幼子の身元に命を投げ出し拝みました。そのことは私たちへの大変よい手本となりました。外国からの占星術学者たちがこのように深い意味ある方法でキリストを礼拝しに来ることができたのなら、私たちも同じようにしなければなりません。たぶん、文字通りこの日、祈るときには博士たちに倣ってひれ伏すか、または、少なくとも心の中での祈りでそのようにすることができるでしょう。あなたの命を完全にゆだねてイエスをあがめましょう。

最後に、博士たちは黄金, 乳香、没薬を持ってきました。私たちの主に捧げられたこの三つの贈り物は、この幼子が罪から私たちを救うために亡くなる神聖な王であると彼らが認めたこと示します。黄金は王のため、乳香は神への焼香のため、そして没薬は死に逝く者のために用いられます。ですから博士たちの礼拝はこの幼子が誰であるかという真実に基づいています。もし私たちがキリストを正しく拝もうとするならばこの3つのやりかたであがめなければならないのです。



【聖書朗読箇所】


すべての民の光である父よ、

   あなたはこの日、

   星の導きによって御ひとり子を諸国の民に示されました。

   信仰の光によって歩むわたしたちを、

   あなたの顔を仰ぎ見る日まで導いてください。

   集会祈願より


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第1朗読 イザヤ書 60章1~6節


起きよ、光を放て。

あなたを照らす光は昇り

主の栄光はあなたの上に輝く。


見よ、闇は地を覆い

暗黒が国々を包んでいる。

しかし、あなたの上には主が輝き出で

主の栄光があなたの上に現れる。


国々はあなたを照らす光に向かい

王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。


目を上げて、見渡すがよい。

みな集い、あなたのもとに来る。

息子たちは遠くから

娘たちは抱かれて、進んで来る。


そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き

おののきつつも心は晴れやかになる。

海からの宝があなたに送られ

国々の富はあなたのもとに集まる。


らくだの大群

ミディアンとエファの若いらくだが

あなたのもとに押し寄せる。

シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。

こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。



第2朗読 エフェソの信徒への手紙 3章2,3b,5~6節


あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、

あなたがたは聞いたにちがいありません。


秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。


この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、

今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。


すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、

約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、

同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。



福音朗読 マタイによる福音書 2章1~12節


イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。

そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、

言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。

わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」


これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。

エルサレムの人々も皆、同様であった。


王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、

メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

彼らは言った。

「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。


『ユダの地、ベツレヘムよ、

お前はユダの指導者たちの中で

決していちばん小さいものではない。

お前から指導者が現れ、

わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」


そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、

星の現れた時期を確かめた。


そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。

わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。


彼らが王の言葉を聞いて出かけると、

東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。


家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。

彼らはひれ伏して幼子を拝み、

宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。


ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、

別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。