松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介
します。
【福音メッセージ 松村神父】
1月9日 主の洗礼 福音のメッセージ
子どもの頃婆ちゃんに「お天道様が見ているから恥ずかしくないように振舞いなさい!」と言われたことがあります。幼心に「私には隠れる所がない」と怯えたものでした。それでも悪いことは沢山してきて、大きくなるにつれて「お天道様に顔向けできない」ことが多々あったと思います。いつどんな罰を受けるのかと、洗礼を受けるまでびくびくしていました。しかし洗礼を受けるとそれは更に強まり、子ども心に「あれ~おかしいぞ!キリスト教の方がもっときついぞ!」と感じたものでした。ある時キリスト教は「赦し」と「共同体の支え」「教会が補う」ということを通して慰めて励ましが与えられていることを聞き、イソップ童話の「北風と太陽」の「太陽」のような天の父の姿を心に据え置くことができた時、私たちの宗教は「緊張と緩和」の中で「成長する」ことが大切であるということに気づかされ、そこから自分の心がニュートラルな状態に落ち着きました。今日はそんな思いを持ちながら主の洗礼について考えてみたいと思います。
ルカの福音のイエスの洗礼のシーンは、他の福音書とは少々異なります。それはイエスが水に入りヨハネから洗礼を受けるシーンが欠けており、洗礼を受けられた後の話に飛んでいます。ルカの福音では「イエスが洗礼を受けて祈っておられると~」と洗礼後の出来事に焦点が当てられています。天が開くこと、聖霊がイエスに降ること、神の声が語られる事は、ルカが書いた使徒言行録の聖霊降臨の出来事の強調でしょう。聖霊降臨は教会の誕生と位置づけらえていますが、キリストの洗礼はその核心。しかし聖霊降臨と唯一違うのは「聖霊と火」の「火」の解釈が聖霊降臨で語られる「炎のような舌」とは若干違います。ルカが語るこの「火」とは「審判(積極的審判・消極的審判)」を指すと言われています。最後の裁きの時に相応しい存在であったかが問われるということですが、教会とは常に「あなたたちはキリスト者としてふさわしい存在でしょうか?」と問われています。しかしその存在のあり方には審判の性質と照らすと、積極的であり、消極的でもあるあり方があるようです。私たちは“行動すること”と“行動しないこと”という両面にそれぞれに良さも悪さもあります。キリスト者だからわき目も降らず活動すること、与え続けるという積極性に大切さを持ちながらも、一方で見守ることの大事さ、動かない消極性の大事さもあります。動くことに正当性を持たせる事、逆に動かないことに言い訳を見出す事をしてしまいがちな私たちは、それを自分の正義として肯定しようとしてしまいます。しかし大事なことは「聖霊」である一致の目がなければ完成しません。つまり自分一人の正義は「聖霊」の動きとは違います「聖霊」は愛を行います。「私の愛する子、私の心に適う者」とは、「愛」が中心にあったというものでしょう。ですから私たちの行動は「私の愛」ではなく「神の愛」に基づいて判断されなければなりません。動く愛と見守る愛です。この見極めこそが聖霊による識別ではないでしょうか。コロナ禍ではまさにそこが問われていると思います。
「北風と太陽」はどちらが悪いというお話ではないでしょう。ただその状況下の中で、その一人と「共にいた神」がどう対応されるのか?と理解するのがしっくりきます。その時「太陽」がその人に相応しいあり方だったのです。主の洗礼は「愛」に基づき「積極的・消極的動き」へと広がり、「北風か太陽か」を考える「愛」そのものの活動が「お天道様に相応しい」姿であったのかと考えるのです。
洗礼者ヨハネの水による洗い清め、である自分の罪の免れだけに留まらず、他者へ向けられた洗礼である事こそ、今日私たちに教えてくださった洗礼。つまり他者を「愛」で包む洗礼、キリストの洗礼なのです。
私たちに与えられた洗礼は、私たちを信頼して下さった神様の恵み。自信と誇りを持って歩みましょう。
【聖書朗読箇所】
全能永遠の神よ、
ヨルダン川で洗礼を受けられたイエスに
あなたは聖霊を注ぎ、
愛する子であるあることを示してくださいました。
洗礼によって新たに生まれ、
あなたの子どもとされたわたしたちが、
いつもみ心に従うことができますように。
集会祈願より
第1朗読 イザヤ書 40章1~5、9~11節
慰めよ、わたしの民を慰めよと
あなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ
彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを
主の御手から受けた、と。
呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
主の栄光がこうして現れるのを
肉なる者は共に見る。
主の口がこう宣言される。
高い山に登れ
良い知らせをシオンに伝える者よ。
力を振るって声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
声をあげよ、恐れるな
ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神
見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ
御腕をもって統治される。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む。
主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。
第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14、3章4~7節
実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、
この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、
また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、
わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを
待ち望むように教えています。
キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、
わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、
良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。
だれにも侮られてはなりません。
しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、
人間に対する愛とが現れたときに、
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、
御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。
この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、
新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、
この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。
こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、
希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
福音朗読 ルカによる福音書 3章15~16、21~22節
民衆はメシアを待ち望んでいて、
ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、
皆心の中で考えていた。
そこで、ヨハネは皆に向かって言った。
「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、
わたしよりも優れた方が来られる。
わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
民衆が皆洗礼を受け、
イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、
天から聞こえた。