2022年1月29日土曜日

1月30日 年間第4主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ 松村神父】

年間第四主日

今日は福音のメッセージというよりも、分かち合いになることでしょう。

さて、私は札幌産まれ札幌育ちですので、私自身の事を知っている人は現在でも沢山います。一緒に育った仲間はまだまだ健在で、私の至らないところを青年時代に見てきた人もいるし、今となっては言えないことも見てきている人は存在しています。また私の成長を見守って祈ってくれて来た人も大勢います。今はどのぐらい記憶に残っているか、はたまた私などの事を覚えていてくれている人は何人いるかはわかりません。しかし私個人としては「知られている」と、どこか恥ずかしくもあり、小さくなっている自分もいます。「あの頃は悪ガキだったのに~」と言う神父様もいる事でしょう。そんな私が今神父として偉そうなことを言っています。信者さんの中には知り合いだから何とかしてくれるという人もいる傍ら、知合いであっても心を鬼にしてシビアな回答を伝えなければならない時もあります。昔と比較するだけならまだいいけれど、「あんな奴の言うことは大したことない」と言われても仕方がないこともあるでしょう。そのような中で司祭叙階によって受けた恵は、自分の中にもともとあったものではない、神様からの恵み。かつての自分では言わないようなことが口から出てきます。他者から見れば、「よく育ったものだ」という人も「自分の過去を振り返ってみろ」という人もいておかしくない中で、威厳を持って語る事の勇気というのは思いのほかあるものです。出身地で司祭を続けるのは良い面も悪い面もあります。その面、違う土地で働くことは、大胆にも自分を表現できるのでしょう。そんな体験は皆さんにもあるのではないでしょうか。

昨今「SNSの過去リセット」というのが話題になっています。自分の携帯に入っている友達を整理し、リセットするという行為です。心機一転、本当につながっている人以外は連絡網から削除するのですが、意外にも世間だけに限らず精神科医や心理学者などもあながち悪い行為ではないと好意的に受け取っています。本物の絆を残し、雑多な関係を見つめ直すというのは自分自身の絆を見つめ直す行為であると言われています。聖書のイエスを見ていくと、まさにイエスは過去に縛られず、本当の絆づくりを作り出そうとしており、過去の絆に縛られない歩みを始めています。それは神様からの使命であり、聖霊の導きだからです。それは今日の第一朗読のエレミヤの言葉を受けた者の行為であり、律法に適った働きであり、第二朗読でパウロが語る「愛」が無いところに向かう必要がないという結論に導かれています。本物の「愛」があればナザレの人々はイエスを崖から落とすようなことはしません。イエスの故郷に「愛」を見いだせなかったということになるでしょう。「愛」あるところに向かう。「愛」を求めているところに向かう。これがイエスの核心なのかもしれません。

過去の人間関係に縛られず、「愛」に基づいた大胆な宣教活動とは何か。それは今、目の前にある『頑なな現実(変えようのない事実の“今”)』なのではないか。もう一度考え直しチャレンジしてみたいと感じた今日この頃でした。



【聖書朗読箇所】


一人ひとりの心に語りかけてくださる神よ、

  あなたはわたしたちの思いをすべて知っておられます。

  きょうここに集うわたしたちを聖霊によって導いてください。

  あなたの声に素直に心を開くことができますように。

   集会祈願より



第1朗読 エレミヤ書 1章4~5、17~19節


主の言葉がわたしに臨んだ。

「わたしはあなたを母の胎内に造る前から

あなたを知っていた。

母の胎から生まれる前に

わたしはあなたを聖別し

諸国民の預言者として立てた。」


あなたは腰に帯を締め

立って、彼らに語れ

わたしが命じることをすべて。


彼らの前におののくな

わたし自身があなたを

彼らの前でおののかせることがないように。


わたしは今日、あなたをこの国全土に向けて

堅固な町とし、鉄の柱、青銅の城壁として

ユダの王やその高官たち

その祭司や国の民に立ち向かわせる。


彼らはあなたに戦いを挑むが

勝つことはできない。


わたしがあなたと共にいて、救い出すと

主は言われた。



第2朗読 コリントの信徒への手紙一 12章31~13章13節


あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、

愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。


たとえ、預言する賜物を持ち、

あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、

たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、

愛がなければ、無に等しい。


全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、

誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、

愛がなければ、わたしに何の益もない。


愛は忍耐強い。

愛は情け深い。

ねたまない。

愛は自慢せず、高ぶらない。


礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。


愛は決して滅びない。

預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、

わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。


完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、

幼子のように思い、幼子のように考えていた。

成人した今、幼子のことを棄てた。


わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。

だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。

わたしは、今は一部しか知らなくとも、

そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。


それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。

その中で最も大いなるものは、愛である。



福音朗読 ルカによる福音書 4章21~30節


イエスは、「この聖書の言葉は、今日、

あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。


皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。

「この人はヨセフの子ではないか。」


イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、

『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、

『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、

郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」


そして、言われた。「はっきり言っておく。

預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。


確かに言っておく。

エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、

その地方一帯に大飢饉が起こったとき、

イスラエルには多くのやもめがいたが、

エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、

シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。


また、預言者エリシャの時代に、

イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、

シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」


これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、

総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、

町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。

しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。