2022年1月6日木曜日

1月1日 神の母聖マリア

 遅くなってしまいましたが、1月1日に勝谷司教様の司式により北一条教会で行われました元旦ミサでのお説教をご紹介します。


.


2022年1月1日 神の母聖マリアの祭日、世界平和の日  勝谷司教ミサ説教

 私たち人間が他の被造物と違うところは、自分の存在の意義というものを常に問い続けるように造られているところだと思います。人生の意味、自分は何のために生きているのか、あるいは自分自身どう生きるように召されているのか。これらの問いに応えていくように造られています。

 アウシュビッツの強制収容所を体験したフランクルという精神学者は、「夜と霧」という有名な本を出していますが、その中で書いてあることがあります。強制収容所の中で生きるために必死にもがいている人たち、しかし彼らが突然ばたばたと死んでいく。これは何を意味するのか。自分も同じ収容者でありながら、精神科医という立場で観察し続けある結論を導き出しました。この人生が自分にとって何の意味があるのか。今、与えられている現実に何の意味も感じとることが出来ない状況のもとで、人はそれだけで死んでいってしまう。しかし逆に、こんなひどい状況の中にあって、いつ逮捕されるか、というよりもこのまま死んでいく。無意味に死んでいく可能性の方がはるかに高い状況の中で、その中であっても、こんな過酷な状況も意にも意味があるのだと問い続けていました。彼らはその人間性を最後まで失わず、ひとつのパンをめぐって争い合う中であっても、それを敢えて分かち合う心を失わずにいた、そういう内容のことが書かれています。

 この本を書いたフランクルは精神分析医として、フロイトが無意識というものはすべて衝動的なものに生理的なものに置き換えることが出来る。すべての人間の精神活動はすべて衝動、無意識な世界が反映して分析しそれを突き詰めていくならば、最終的にはそこにいくのだと説いていました。確かにこの無意識の発展というのは心理学の世界に高貴な影響を与えましたが、しかしフランクルは人間というのはただ衝動性によって支配されているのではなくて、精神的なものも無意識であり、それを精神的無意識と呼び、まさに十分すぎる生きる意味を無意識のうちに追い求めている存在である。その意味が満たされていなければ人間は不安定であると語っています。このような言い方もしています。この人生が自分にとってどういう意味があるのかを多くの人は問いかけます。しかし、大切なことは人生が今、この私にどういう意味があるのか問いかけているのだ。その答えを求めるために生きていく、これが大切なことである。

 これは精神分析医の人の表現ですが、私はこれを信仰者の目で捉えてみると、人生が問いかけてくる意味というものは、神が私たちに与えられた命である。そしてそれを突き詰めていくならば、一人一人あたえられている召命ではないかと感じています。自分がこの世に生まれた意味、何を祈り求められているのか、多くの場合それは何か分からない中で、現実に起きている出来事の中で翻弄され流されて、その意味を問いかけるゆとりのないままに過ごしてしまっている人が多いのではないでしょうか。

  しかし、その中にあっても今、この人生この状況は必ず何か意味がある。神が私に何らかの意味を与えて今この状況になっている。だから自分はそれに応えていきたいと思っている。必ずその人生の意味を見いだすことが出来る。なかなかこの現在の状況に意味を与えると言うことは難しいことです。多くの場合、過去を振り返ったときに、あのときの出来事の意味はこうだったんだと、気づくことが多いのではないでしょうか。私たちは起こった出来事を変えることはできません。しかしその出来事の意味を変えて、明日に向かって歩んでいく存在でもあるのです。 

 今日の福音書の中でもほかの箇所でも、何度も出てくるマリア様の「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて思い巡らしていた。」(ルカ2:19)。マリア様自身も人生の今、与えられている意味をすべて理解し、信仰によって人生のすべてを何の迷いも無く過ごしていることはあり得ない。誕生の場面から多くの危険にさらされて、ヨセフとどうやってこの家族を守ったら良いのか。命の危険から逃れるためにエジプトに避難し、ヘロデが死ぬまで難民として生活していたのです。また帰ってきたあともこの間の「聖家族の主日」の福音のなかで、エルサレルムの巡礼したとき、イエス様一人だけエルサレムに残り、神殿で律法学者たちと問答していいた。「何でこんなことをしてくれたの。」自分の子供が自分の理解を超えている。何をしようとしているのか分からない。どん家庭でもこのような子育ての悩みは経験していると思いますが、マリア様のすぐれているところは、何か人格的に優れているとか(本当は優れているのです。)、何か大きなことを成し遂げたとか、そういうことではなくて、むしろ自分自身のすべてを神に捧げて、そしてそこに与えられている「今、現状は何を意味しているのか」、それも理解出来ない。そして今とは比べものにもならないほど危険に満ちた世界の中で翻弄され、そして生きて行かざるを得ない状況にあるのです。こんな人世、こんな生活、どういう意味があるのか。それは起こった出来事を常に心に留め思い巡らしていたマリア様の姿を、まさにこの人世の意味、問いかけに応え続けていこうとする、神の召し出しにそれに応えているものと私は感じています。

 そう考えるならば今私たちは、コロナ禍の状況にあって、教会としては致命的な交わることの出来ない苦しみを味わっています。集まることが出来ないということは、教会にとってどうしようものないこと。その中にあって私たちはこのように工夫しながら(分散ミサ)、その信仰を保ち共同体の中で支え合い克服していこうと努力しています。

 いったい今起こっていることにどういう意味があるのか、まだ私たちには示されていない。この先どうなるのか分からない現況にあって、一人一人がこのコロナ禍にあって翻弄され、それぞれの人世が影響を受けています。後になってこの時のことを思い出すならば、その思い起こしている人の数だけその人世の意味があると思います。

 私たちはこの状況を心に留め思い出す。すなわち黙想しながら神が与えられているこの現状の中でどのように、そして応えていったらよいのか、常に問いかけられている存在であることを忘れないでいただきたいと思います。