ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音メッセージ】
年間第3主日 2022年 1月23日 “主の霊は私の上にある” ウルバン神父
さて、イエス様は霊に満ちてガリラヤに帰られた。私達は今日またイエス様と共に歩こう。共に時間を過ごし、共に歩めば、イエスの姿を眺めることができます。顔の表情を見、心に触れたら、自分の心が温まって、生き生きして、豊かになります。寂しそうな気持、弱くて、力のない心を喜ぶ人がいるでしょうか。だから、主と共にいて、共に歩むことを喜ぼう。
何週間前にイエスはナザレから出て来た。数日も一人でヨルダン川に向かって歩きながら「アバ、父よ、今、僕が来ます。何をしてほしいでしょうか。何でもします」と心の中で繰り返した。ヨルダン川に着いた時、川に沈みながら「お父さん、私の全てをあなたの手に」と祈った。
いま帰る道に、主の姿、主の顔の表情は違います。心には新しい火が燃えて、目に光と美しい微笑みがあります。「イエスは霊に満ちてガリラヤに帰られた」と聖書に書いてあります。「私は自分の見たことや聞いたことについて黙っていられない」と思いながら、故郷に向かって、急いで歩いています。死の谷にすむ人は一日も早く光を見えるように。
イエス様と共に歩いている私達のなかにも、この火が燃えているでしょうか。自分の心は同じ霊に動かされているでしょうか。暗闇にいる人に福音を伝える望み。使徒パウロは、疲れた沈んだ心ですごく乱れた町コリントの道々を歩いた時、声が聞こえた。「パウロ、恐れるな。話せ。私のこの町に多くの人がいる」。イエスは共に歩いているあなたに振り向いて、同じように言うでしょう。「恐れるな、あなたの周りの闇にいる人に良い便りを伝えなさい。心配するな。私の霊はあなたの口に言葉を入れる。やってみなさい。多くの人の心は飢えている」。
ある時の事です。一人の入院した信徒、よく祈る心を持っていたおばちゃんは、御聖体を待っていました。私は毎週病院へ行って、共に祈って、御聖体を授け、ちょっとおしゃべりした後, 帰りました。二人部屋でした。ある日、帰ろうとした時、振り向くと、知らないうんと年老いたおばあちゃんが横たわっていた。足元に付き添いさんが昼も夜も座っていた。おばあちゃんを見た時、付き添いさんに言われた。「このおばあちゃんは何もわからない。一つも聞こえない。もうだめだ。頭はもう“パァァァ”だ」と。それでも不思議に私の心は動かされて、おばあちゃんに頭を下げて、ただ一言を言った。「おばあちゃん、神様はおばあちゃんを愛しているよ」。その時あの死んだ顔が生きてきて、おばあちゃんは頭を動かして、大きな目で私を見て言った「本当ですか」。あの声は深く私の心に響いていた。乾き飢えた心の声でした。私はこたえた。「本当ですよ。神様はおばあちゃんを愛している」。その時の彼女の顔の表情を言葉で言い表せない。そこで静かに目を閉じた。一週間あとにまた行った時、おばあちゃんはもう死にました。もし黙って帰ったら。。。その時、イエス様に出会ったことを信じます。長い生活の道の最後にイエスに抱かれて死にました。
イエスは愛する故郷ナザレに戻って、会堂に集まった懐かしい幼なじみの前に言った「主の霊が私の上におられる。貧しい人に喜びの便りを告げ知らせるために私は遣わされた」。すべての人の目がイエスに注がれた。イエスは小さい時から皆を知って、嬉しそうな目で会堂を見回しながら皆を慈しんで見ていた。私達も皆と一緒に会堂の中に座っています。イエスの目は私にも言う「心配するな。あなたも貧しくても、愛されている。我が子よ、喜んで出かけて、人に伝えなさい:あなたも愛されている。安心しなさい、あなたの名もいつもイエスの手、イエスの心に書かれている」。
【聖書朗読箇所】
喜びの源である神よ、
あなたは、主キリストのもとに集まるわたしたちに、
救いの福音を聞かせてくださいます。
今日は聖なる日、神の語られることばが実現する日。
あなたに感謝するこの集いが、
わたしたちの生きる力の源となりますように。
集会祈願より
第1朗読 ネヘミヤ記 8章2~4a、5~6、8~10節
祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。
そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。
第七の月の一日のことであった。
彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、
理解することのできる年齢に達した者に向かって、
夜明けから正午までそれを読み上げた。
民は皆、その律法の書に耳を傾けた。
書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立った。
エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。
彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。
エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、
「アーメン、アーメン」と唱和し、
ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。
彼らは神の律法の書を翻訳し、
意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。
総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、
律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。
「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。
嘆いたり、泣いたりしてはならない。」
民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。
彼らは更に言った。
「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。
その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。
今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。
悲しんではならない。
主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 12章12~30節
体は一つでも、多くの部分から成り、
体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、
キリストの場合も同様である。
つまり、一つの霊によって、わたしたちは、
ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、
奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、
皆一つの体となるために洗礼を受け、
皆一つの霊をのませてもらったのです。
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」
と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」
と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。
もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
そこで神は、御自分の望みのままに、
体に一つ一つの部分を置かれたのです。
すべてが一つの部分になってしまったら、
どこに体というものがあるでしょう。
だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、
また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、
かえって必要なのです。
わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、
もっと恰好よくしようとし、
見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。
神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。
第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、
その次に病気をいやす賜物を持つ者、
援助する者、管理する者、異言を語る者などです。
皆が使徒であろうか。
皆が預言者であろうか。
皆が教師であろうか。
皆が奇跡を行う者であろうか。
皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。
皆が異言を語るだろうか。
皆がそれを解釈するだろうか。
あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
福音朗読 ルカによる福音書 1章1~4節、4章14~21節
わたしたちの間で実現した事柄について、
最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、
物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。
そこで、敬愛するテオフィロさま、
わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、
順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。
お受けになった教えが確実なものであることを、
よく分かっていただきたいのであります。
イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。
その評判が周りの地方一帯に広まった。
イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
イエスはお育ちになったナザレに来て、
いつものとおり安息日に会堂に入り、
聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、
次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。
会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
そこでイエスは、
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
と話し始められた。