2016年5月29日日曜日

三位一体の主日

三位一体の祝日を記念する今日、洗礼によって神の民が教会共同体の一員となった私たち一人一人を祝福し、導いてくださることを感謝いたしましょう。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の日曜日は三位一体の祭日を迎えています。
教会の典礼は先週もお話ししたように年間の季節に入り、典礼の色は緑に変わっていますが、5月の主日は祝祭日が続きますので、日曜日の祭服の色は白が続くことになります。ということで、最近、緑の祭服を新調したのですが、皆さんにお披露目するのは6月に入ってからということになってしまい少し残念です。
さて今日は三位一体の祭日です。説教をするのには難しい日曜日が続いているのです。私にとっても日曜日を迎えるのが心が苦しくなるような状況なのですけれど、三位一体については話しづらいのですが、少しお話をしていきたいと思います。
私の神学生時代、ネメシェギ神父様(イエズス会のペトロ・ネメシェギ神父様)という方が講義をしてくださっていました。皆さんもご存知の方が多いと思います。今は御高齢になって自分の国に帰られています。それでも2,3年おきには日本に戻ってきて講演をしてくださっています。そのネメシェギ神父様が三位一体の授業で話されたことを思い起こしています。三位一体とは何かという説明の中で私たち神学生に問題提起をして話されたことを思い出します。ネメシェギ神父様も神学者の一人ではありますが、神学者は「父と子と聖霊」それ自体に関する一切の研究を断念して、唯一の神の人間に対する働きだけを考察しなければならない、こういったご自分の見解を問題提起として私たちに話されたことがあります。とても驚くようなお話だと思うのですが、それは、神様が私たち人間に対する働きを聖書は語っているので、そのことに心を向けなければならない。聖書自体は神が人間のために何をなさり、人間とどのような関係を結んでいるのかということを聖書は語っているのであるから、「父と子と聖霊」がそれ自体、誰であり何であるかという質問を出してはいけない。神とは何かということを語るのは私たち人間の業ではないということを私たちに話されていたのだと思います。何よりも神様が私たちに何を望み、何をしようとし、何を教えているのか、何を大切にしなければならないのか、ということの方が私たちには大切なことではないか、ということを訴えられたわけです。
皆さんはどう考えるでしょうか?
人間に対する神様の働きをまず何よりも大事にしてみたらどうですか、ということを私たち若い神学生に話された三位一体論の神学者であるネメシェギ神父様のお話を思い出します。もしかしたら、「あなた方にいくら説明しても理解できないだろう」ということが前提にあったのではないかと今になっては思うこともあるのですが、そのくらい三位一体の授業は私にとっても難しいものでした。非常に日本語が堪能で、お話が上手であったネメシェギ神父様の傍にいてお話を聞いているだけで神様の平和を感じられ、三位一体の授業よりもそちらの思い出の方が印象に残っています。
人間は他者を知り他者を愛する能力を持っているから偉大である。知識欲がある故に、神自体についても私たちは語ろうとしてしまう、神様の定義を勝手に私たちが作ってしまう、というようなことも話されていたような気がします。
ネメシェギ神父様は今遠くにおられますが、私たち神学生一人一人に、何が大切なのか、ということを本当に一生懸命伝えようとしていたその時代を私も振り返り懐かしく考えています。
三位一体の教義を説明する神学書は数多くありますが、父と子の愛から派出されるのが聖霊であるという説明が多くて、神学者であっても人間の知性で理解することはとても難しいと言われます。ですから今、三位一体について分かりやすく何かを伝えようとは思うのですが、それは至難の業です。私自身は自分の信仰において、この三位一体の神をただ信じるということに集中して自分の信仰を生きているような気がします。「父と子と聖霊」は一つである。三位一体の説明の思い出の中で、去年も皆さんにお話ししたかもしれませんが、私に公教要理を指導された神父様は、三角形を示して、三角形全体が神様であり、その角に父と子と聖霊があり、その中のどこをとっても神様なのだと話されました。公教要理を習い始めたころは、私の信仰もおぼつかないものでしたので、それはそれで分かりやすい三位一体論の説明であったと思います。もっともっと深遠なる教義がそこにはあると思いますが、子供たちにとっても分かりやすい説明だと思います。
皆さんは、「父と子と聖霊」というその三位一体に向かう祈りの言葉を毎日のように使いながらどんな理解をされているのかと思います。聖書の中でイエスの話される言葉で三位一体を示す話があります。今日のヨハネの福音の短い朗読においても、三位一体論を表すみ言葉が語られました。
今日のみ言葉で少し触れてみますと、真理の霊が来るというところから入っていきました。真理の霊とは、聖霊、弁護者を表します。中ほどから語られたみ言葉は、「その方はわたしに栄光を与える。」という表現をとっています。聖霊を”その方”と人格を表す言葉で表現しています。「聖霊はわたしに栄光を与える。」と言い換えられます。続いて、「わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」ここの「わたしのもの」いうのはイエス自身を表していますが、「イエス自身を受けてあなた方に告げる」と、イエスと聖霊の深い一致をここで表現しています。さらに次の一節では、「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。」ここでは、御父とイエス自身との関係について語られ、父とイエスは一つであるということが表されています。そして、「父と子と聖霊」の一体がここで示されます。
「神を見たものはひとりもいないが、父のふところにおいでになるおんひとり子の神がこれをお示しになった。」「わたしを見るものは父を見る、わたしは父におる、父はわたしのうちにおられる。」父と子の関係は、聖書の中では度々語られています。
聖霊については、御父と御子がおくってくださるのが聖霊であることを、復活の主であるイエスが弟子たちの前から去る時に説明します。「わたしが去ることは、あなたたちにとってよいことである。わたしが去らないなら弁護者は来ない。弁護者すなわち父が私の名によって遣わすのが聖霊である。」このように、聖霊のはたらきについても弟子たちに説明しました。それ故、父と子と聖霊は一体であることを私たちが受け入れ、三位一体を神秘として私たちは信じるということになると思います。
何よりも一番に、身近にイエスを信じて私たちは祈っていると思います。そしてゆるぎない希望を持って、歩み続けています。イエスを愛することによって、父なる神もまたそのことを愛してくださるとイエスは約束されました。父と子が一体であるように、イエスは私たちともまた、一つになることを望んでいます。イエスと一つになるということは三位一体の神と私たちが一つになるということでもあります。
いつくしみの特別聖年を歩んでいるなかで、私たちは一人一人の信仰者として、自分の信仰をさらに見つめて成長し、前に進んで行かなければなりません。それを導いてくださるのも三位一体の神でもあり、聖霊の導きです。
教会の恵みの秘跡である洗礼の秘跡が、三位一体の神との交わりに招いてくださったことを私たちは忘れてはならないと思います。私たち一人一人が洗礼の恵みによって、三位一体の神に深く結ばれているということ、そしてその交わりを深めていくことが、私たちの新たな歩みであり、このいつくしみの特別聖年の招きでもあると思います。
三位一体の祝日を記念する今日、洗礼によって神の民が教会共同体の一員となった私たち一人一人を祝福し導いてくださることを感謝いたしましょう。
キリスト者として、三位一体の神との交わりから新しい力を汲み取っていくことができるよう皆さんとともにこのミサで祈り前に進んで行きたいと思います。』

2016年5月15日日曜日

聖霊降臨の主日

聖霊のはたらきによって、イエスはいつも私たちとともにおられ、そしてイエスのみ言葉を思い起こすことができます。



今日の後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『今日で復活節が終わり、明日からは年間の典礼になります。
復活のローソクも今日で取り外され、典礼の色も緑に変わります。
先週の主日(主の昇天)のみ言葉で、イエスは聖霊の訪れを告げます。
そして、今日のみ言葉「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」において、イエスはいつも私たちとともにいて下さるということを語りかけています。
ミサの中では、聖霊に対する祈りが多くあります。今日はそのことを少し意識してミサに与りましょう。
今日の福音朗読では、聖霊のはたらきのうち「いつもイエスと一緒にいさせてくださる」、「イエスのみ言葉を思い起こさせてくださる」という2つのはたらきが語られています。
私たちも弟子たちのように聖霊のはたらきを信じ、私たちのエゴイズムを打ち消し、人を赦し、そして愛し、私たちの信仰を深め成長させていきましょう。』

2016年5月8日日曜日

主の昇天

「主の昇天」の祭日を迎えました。復活して弟子たちに姿を現したイエスが、天に昇る日となりました。

ミサの後、教会総会が行われました。




後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は主の昇天の祝日を迎えます。
 使徒言行録では、復活の後40日目に昇天があったと記されています。ルカの今日の福音では弟子たちを祝福した後で、復活の主イエスは空で天で昇っていきます。そのイエスの最後の姿を見つめる弟子たち。イエスとの別れの寂しさよりも、この時はイエスが神の世界に移っていかれるというその情景を見つめながら、心に留めながら、弟子たちは平和に満たされています。その光景を見ながら弟子たちは礼拝したと聖書は記しています。きっと心は喜びに満ち溢れ、イエスの教えに基づきエルサレムに心は向かっていたのだと思います。
 でも今しばし、聖霊が降るまで留まっていなければならなかった。主の昇天の出来事は大きな転換を与えるもの、そういう出来事であったようです。キリストの地上での役割が終わりをつげて、同時に使徒たち弟子たちを中心とした、新しい教会の誕生をも告げるかのような出来事になりました。
  主の昇天、私たち人間が簡単に「はい。」と言うことの出来ない神の世界への誘いであるようです。人間の目には隠されている神の臨在する、その天の世界にイエスが招いていた。もし自分が天に上げられるイエスの姿を見ることができたらとしたら、どんな気持ちになるのかなと想像します。喜びで満ち溢れてその姿を見送るでしょうか。ただ驚き恐れる方が先になって、落ち着かない状況で見つめてしまうのではないか、そのような気もします。心の平和に満たされる、そういう落ち着き、信頼を持って主とともに自分の信仰を成長させたいとただ願います。
  私たちの今の世界、それは桜の開花を待っている、心の平和、現実に重なってくるような気もします。空を見つめるその心はイエスの昇天から与えられた平和。日本人の心は桜を見つめながら歩く、なぜかしら平和を感じる国民性も持っているかのようです。札幌の桜は今、どうでしょうか。ところ変われば今なお、 地震に対する不安な生活をおくる人々がいるなかで、北海道の人たちは桜の咲く季節を迎え、淡い桜色の花びらがもたらす平和を味わっている、そういう私たちがいます。時折冷たい風、雨の日もありますが 太陽の光は初夏を運んできているような気もします。桜に包まれる世界は私たちにとってもひとときではありますが、平和をもたらす季節のような気がしています。
  弟子たちは自分たちのもとを離れて昇天するイエスを見つめました。そして伏し拝んでいます。苦しみを全うされ、三日目に死者の中から復活したイエスは、今や礼拝を受ける身となって天に昇られ、父のもとから今度は約束した聖霊を送ると言い残されました。そういう主の昇天を私たちは黙想しながら、平和な心を持って新しい一歩を踏み出すことが出来るように、そのミサの中でも祈っていきたいと思います。

 部屋の書類を整理していると1枚の絵はがきに出会いました。その絵はがきは東京の大先輩の神父さんが描かれたものです。表には絵と詩も添えられています。小さな文字で創作された神父さんの名前もありました。良く知っている神父さんですが、絵を描いたり詩を創ったりする神父さんとは全く想像もしていませんでした。その詩を少し紹介したいと思います。
 「  今日 一日中  ぶつぶつ言っていました
   茨の棘のように 人を突き刺していました
   気持ちを あなたに向けるのは  大変です
   ぶつぶつばかりが 心の中を占領し
     あなたの居場所は ないのです
   明日 空を見上げます
   そして 大きく 伸びをします  」
短い詩ですがそこに「空を見上げる」という言葉がありました。この昇天の日を迎えて、この一言に心惹かれてこの詩を味わってみました。空を見上げます。自分が日頃抱えている心を見ながら、もう一度空を見つめていたい。そういう神父さんの信条が詠われている詩でした。一日、不平不満を言っている自分に気づきながら空を見上げてみよう。正直に自分の心を表現している詩(うた)だと思いました。そして、自分にも神父さんが詠まれたその世界、いろんな形で気づかされ考えさせてくれました。
  この一週間、祝祭日が続いていましたが、自分はこの一週間どのように過ごしていたのだろうか。不平不満を口にしない日は何日あったろうか。そんなことも考えてしまいます。休暇が続いたこの一週間の間に何度人に喜ばれることをしたのだろうか。心から神様に自分の心を向けた日は、時間はあっただろうか。私の心の中に神様の居場所があって、それを大切にしただろうか。心を落ちつけて空を見上げる余裕は自分にあったのだろうか。心から神に祈るひとときは自分は持てたのだろうか。祈りをしているつもりで、心を神に向けるのではなくて、自分が出合った様々な人に心を向けて、時には不平不満を思い浮かべていたり、そういう時間の方が長かったのではないだろうか。そんなことを考えてしまいました。どんな祈りをしたのか。誰のために何のために自分は祈ったのだろか。神のいつくしみの特別聖年を歩む中で、ゆっくり落ち着いて心を見つめると、自分の信仰の課題、祈りの課題もまた気づかされるような気がしました。皆さんはこの一週間、どのような日々を過ごしてこられたでしょうか。そんな黙想をしながら、今日の主の昇天の祝日を迎えました。

  イエスは別れを前に改めて弟子たちにメシアの苦しみ、死から三日目に復活すること、そして、罪の赦しについても話しをし、その後に宣教が世界に広がっていくことを話されました。やがて聖霊があなたがたを包みこむから、それまでは都エルサレムに留まるように。その後、弟子たちは新しい使命を受けることになりました。あなたがたはこれらのことの証人となる。イエスは手を上げて弟子たちを祝福し天に昇られた。そのキリストの心に触れた弟子たち、十字架の死と復活を体験した弟子たちは、キリストの証人(あかしびと)となる使命を十分に自覚して教会を築いていきます。そして、自分たちの役割をしっかりと受けとめて、新しい出発をしていきます。主の昇天は弟子たちにとっても、大きな転換を与える出来事でした。その弟子たちの役割が、私たち一人ひとりにも与えられていることを、今日改めて心に留めたいと思います。弟子たちとともにおられる主は今、私たちのうちにもおられます。わたしたちとともに留まってくださる主でもあります。私たちの信仰はその主であるイエスを証しする信仰でなければならないはず。私たちはそのイエスを信じ、ミサに与り聖体をいただいています。自分の目で見たり耳でその声を確かめられるものではありませんが、キリストは私たちの信仰の目でとらえられる、現存する存在でもあります。

 今日の主の昇天の祝日から始まって日曜日は大きな祭日、祝日が続いていきます。来週は聖霊降臨の主日を迎えて復活節の典礼が終わりを告げます。主の昇天を黙想しながら、聖霊の恵みを願い、新しい一週間の日々を過ごしていきたいと思います。
  私たちには祈らなければならないことがたくさんあります。新聞の紙面を見ていても苦しむ人の事件がたくさん出てきます。日本だけではなく、海外においても同じ状況がたくさん見えてきます。私たちの祈りを本当に心から捧げて、主の平和が私たち一人ひとりの心に満ち溢れる、そして一人ひとりの心にその平和が届けられるように、今日もまた主の祭壇を囲んで祈りを捧げたいと思います。』

2016年5月1日日曜日

復活節第6主日

今日のミサは佐藤神父様の主日における初ミサでした。



佐藤神父様のお説教をご紹介します。



『司祭叙階されて最初の主日を迎えました。
皆さんの祈りと励ましにささえられてここまで来ることができたと叙階式のときに感じました。これから毎週迎える主日をミサに与るだけではなく、ミサという秘跡を執行することになります。自分自身に与えられた使命をこれから毎週毎週ずっと果たしていきます。皆さんにとってもうれしいことだと思いますが、わたし自身にとっても大変ありがたいことです。
ところで、ミサの中で司祭に与えられた第ーの職務は、司教の協力者として、神の福音をすべての人に告げ知らせることです。福音の朗読を通してみことばを告げ知らせ、説教によって皆さんがよりよくみことばを理解する助けをする役目です。信者の方々が自分の実践していることを十分に理解していなかったり、信じていなかったりするときのために、すべての秘跡の中でみことばの説教が必要です。あらゆる秘跡は信仰がその根底にあり、信仰はみことばによって生まれ養われるからです。特にミサの中でのことばの典礼では重要なことです。ミサにおいて主の死と復活が告げられ、それにみことばを聞く人々がそれに応えることと、祈りと聖体拝領によってミサに参加することは分けることができないほど重要なことなのです。そしてそれは、その場において司祭がいなければできないことなのです。ですから、今神学校で学んでいる神学生だけではなく、これからも司祭になろうとする方々が多く出て来るように祈りましょう。

今日の第ー朗読は使徒言行録でした。
アンティオキアの教会での意見の対立と論争の中、分裂の危機に直面した初代教会の様子が描かれています。初代教会は最終的に、異邦人とユダヤ人の間には何の差別もすべきではないという結論に至りました。現代のわたしたちにとってみれば、何らかの特権階級であったり、どこの国の人だからというレッテルを張ったり、肌の色による差別として、実際に存在している問題です。これらのあらゆる隔てが完全に取り払われたときにのみ、キリスト教の真の意味が分かるということを示しています。どうしてもわたしたちは何らかの差別をしてしまいます。そのようなとき聖霊の助けを願って祈ることが必要です。今日の箇所では、「聖霊とわたしたちは次のように決めた」とあります。聖霊の導きによって一致を見いだしたのです。
さて、ヨハネの黙示録では、ヨハネの幻が語られますが、城壁に十二の門があると言っています。この十二の門は神の国に入るにはたくさんの道があるということです。
召命としては、信徒としての召命、修道者としての召命、司祭としての召命などがあります。他人のためにいのちを捨てることをもいとわない召命があります。
東の門が示しているのは、日が昇る方角です。人生の初めを示します。イエスを子供のころに友として知り、あるいは青年時代の理想、英雄として知り、聖なる都に入った人を表します。
北の門が示しているのは、寒く冷たい方角です。イエスを思索し、理論的に理性的に検討して、心情よりも理性によって信仰に入った人を表します。
南の門が示しているのは、暖かい方角です。これは感情を通してキリストに導かれた人たち、理性よりもむしろ心でキリストを受け入れた人たちであり、十字架にふれて愛の泉がわき出た人たちを表します。
西の門が示しているのは、日が沈む方角です。これは人生の黄昏にキリストを受け入れた人たち、旅路の終わりに信仰に入った人たちを表します。聖なる都に入る道、つまり神のみ前に出る道が数多くあり、人はそれぞれ自分の道を見つけることができるのです。このことはたとえ人生のどんな時期にキリストと出会っても人それぞれに自分の道を見いだすことができるということを表しています。

わたしの司祭召命が42歳という年齢であっても遅すぎるということはないということを示していると思います。今日のヨハネによる福音では、イエス様は「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とおっしやっています。イエス様は死んで復活し使徒たちの前に現れましたが、父である神とともに聖霊を遺わすために父のもとに昇天してくださったのです。わたしたちはその聖霊によって力づけられそれぞれの召命を歩むことができるのです。このように、主の昇天、そして聖霊降臨を迎える前にイエス様は聖霊の派遺を約束してくださいました。 聖霊は、キリストのことばの真の意味を時と場所、またその状況に応じて理解させてくださいます。 この聖霊を祈り求め、わたしたち自身の中にいる聖霊に感謝しながら、聖霊降臨の祝日に向けて、このミサを続けてまいりましょう。』

2016年4月30日土曜日

パウロ佐藤謙一司祭 初ミサ

昨日、司祭に叙階されたパウロ佐藤謙一司祭の初ミサが、午前7時から当教会聖堂で行われました。後藤神父様と森田神父様による共同司式でした。

時折、霰もぱらつく寒い朝でしたが、100人ほどがミサに与りました。




佐藤神父様のお説教をご紹介します。


『皆さん、お早うございます。
このようにごいっしょにお祈りできることを本当に光栄に思います。昨日叙階されて一晩経ちましたが、私自身はそんなに変わっていないつもりです。ただ、司祭になるといろんなことを自分でしていかなくてはいけないということを感じています。今日のミサでも、この後、感謝の祭儀を祝うわけですが、本当に大変な奉仕の仕事を任されたという実感が徐々に沸いてきています。
  今日読まれた福音は、昨日の叙階式で読まれた福音(ヨハネ15:12-17)の続きの部分です。昨日の福音では「互いに愛し合いなさい。」ということが言われていました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ということが言われていました。昨日の福音の中でイエス様はわたしたちに、本当に大きな掟…自分の命を捨てて他人を愛するという大きな掟を与えてくださったのだと思います。それを私自身も心に刻んで歩んで行きたいと思っております。
  今日の福音(ヨハネ15:18-21)ではその続きで、逆に「憎む」という言葉が出てきています。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」と言われています。私たちは人を愛するということと同時に、人を憎むことも出来ると言われています。憎むことも出来るというよりも、どうしても私たちは人を憎んでしまわざるを得ない存在だと思います。イエス様ははっきりとそのような私たちのどうしようもない性質、愛したいのに憎むという性質を示しているのだと思います。今日の福音の中で「人々はわたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。」と言われています。しかし、私たちは洗礼によって、そうではない者とされたのだと言うことです。イエス様といっしょに世に憎まれたとしても、イエス様の教えは正しいということを、私たちは伝えていくことが出来る、そういう者にされたということです。
  私自身は幼児洗礼ですので、自分から進んで信仰に入ったというわけではありません。その後の親の教育、指導によって信仰を深めていったものです。成人洗礼の方々は、私にとってみると、本当に素晴らしいことだと思うことは、自分の意志でイエス様について行くという信仰を自分で選びとったということ、私にとって本当に素晴らしいことだと思います。成人洗礼の方々はそんなにでもイエス様を信頼して、イエス様の歩まれた道について行こうとしているからです。
 私は今、司祭となって皆さんにその信仰を伝えていく者となりました。私もイエス様の後をついて行こうとしていますが、皆さんと同じように私自身もイエス様から離れたり、別の道を歩もうとしたりすることがあるかもしれません。それは私が一人の人間であって、私自身が素晴らしい者であるということではありません。皆さんと同じように私も罪深い者であるからイエス様について行こうとしているわけです。
  詩編に語られているように、「私たちはひとつの神の民」と語られています。そして、私たちはイエス様から大きな行動の基本となる教えを受けています。個人個人の信仰は大切なことですが、私たち全体が一つとなって歩んでいくことこそが大切だと 信仰の中心にあるのはそこだと思います。これからも私自身、司祭叙階されて信仰を支えてくれるものも、いっしょに歩む皆さんの信仰に支えられているのだと思います。ですから皆さんといっしょにこれからも、イエス様が歩まれた道を歩んで行きたいと思います。
  昨日叙階式がありました。厳密な意味で言いますと昨日の叙階式が「初ミサ」です。しかし、今日のこのミサで主司式者としてミサを執り行う、今日が最初ですから、司祭の第一歩だとすれば、記念すべき一日であるのではと思います。今日、皆さんと共に祈るこの日を心に刻んで、これから歩んで行く司祭生活を充実したものにしていきたいと思います。ですから、皆さん、私のためにもお祈りください。私も皆さんのためにもこれからもずっとお祈りしていきたいと思います。』

聖体拝領


ミサの後には、佐藤神父様から信徒一人一人に祝福がありました。




パウロ佐藤謙一助祭 司祭叙階式

4月29日(祭)当教会聖堂において、札幌教区では実に8年ぶりとなるパウロ佐藤謙一助祭の司祭叙階式が行われました。


まず最初に、佐藤助祭の略歴をご紹介したいと思います。

1966年 函館市で誕生
1967年 宮前町教会で受洗
2010年 日本カトリック神学院入学
2015年 助祭叙階

ようやく桜が咲き始めた札幌ですが、
この日は雨模様の天気で肌寒い一日となりましたが、叙階式が始まる前から聖堂内は祝賀ムードに満ち溢れ熱気に包まれていました。


500名近くの信徒や関係者が集う聖堂に、勝谷司教をはじめ司祭団、助祭、神学生、侍者も合わせて40名が入堂し、11時から叙階式ミサが始まりました。




福音朗読の後、叙階の儀に移り、司祭候補者の選出では場崎神父様が証言されました。


引き続き、勝谷司教様から佐藤助祭へ訓話があり、佐藤助祭が「司祭に叙階される者の約束」を行いました。

「連願」の後、
「司祭叙階の典礼」に移りました。


「嘆願の祈り」の後、受階者に司教様と司祭団から按手がなされました。



司教様の叙階の祈りにより、新司祭が誕生しました。

佐藤新司祭は、司祭服を着衣し、司教様から手のひらに塗油を塗られ、パンとぶどう酒が手渡されました。



司教様からは、次のようなお言葉がありました。

『全国的にみても召命が減少しているなか、札幌教区では8年ぶりに新司祭が誕生しました。今日は横浜と広島教区でも司祭叙階式が行われていますが、それぞれの教区が抱えている問題は同じです。司祭不足ということが重く私たちの課題として圧し掛かっています。しかし、私たちが努力し祈り求めていても、結果としてこの与えられている現実は、神様のみ旨ではないかと考えています。この流れの中で私たちがどのようにして教会を築いていくのか、新しいチャレンジをするように求められていると感じています。しかし、先ほどの訓話の中にもありましたように、私たちの共同体はただ神のみ言葉に強められて信じる人たちが集まっているのでなはなく、目に見える秘跡によって強く養われ築き上げられてきたものです。そしてその要である秘跡を執行する者として存在するのが司祭です。この司祭が要として存在しなければ、私たちの共同体はありえません。そのような意味では今後も札幌教区の中で司祭がたくさん生まれてくるように、皆さんに切に祈り捧げていただきたいと思います。
佐藤新司祭は長い年月をかけて司祭になりましたが、本当の試練はこれからです。司祭として歩んで行くことの困難さは、人には理解し難いたくさんのことがあります。皆さんの祈りと具体的な支えなくしては、司祭生活を続けることは出来ませんので、今後も今日の喜びと共に、長く私たち司祭を支えて下さるように切にお願いします。』

新司祭になられた佐藤神父様へ花束が贈呈されました。



佐藤新司祭からは次のような感謝の言葉がありました。
『皆さん、今日はたくさんお集まりいただき本当に有難うございました。お陰様で皆さんの祈りと支援に支えられ、そして神の恵みによって司祭に叙階したと感じています。これまで司祭になろうと決心してから7年が経ちました。私自身にとっては、あっという間に過ぎ去った7年間だったと思います。そして、この叙階式からが本当の始まりなんだという決意で、これから司祭として皆さんとともに祈りを捧げていきたいと思います。本日は本当に有難うございました。』

叙階式ミサの後は、場所を「聖園こどもの家」に移し、祝賀会が盛大に行われました。




2016年4月24日日曜日

復活節第5主日

この日のミサは、勝谷司教様、後藤神父様、そして今月の29日に司祭叙階式を控えている佐藤助祭の共同司式により行われました。司教様のお説教では福音の非暴力についてのお話がありました。


お説教の中でもご紹介されていましたが、
先々週の16日にローマで行われたカトリックの平和ネットワーク、パックス・クリスティ・インターナショナルとバチカンの正義と平和協議会の共同主催による3日間の国際会議に出席された勝谷司教様が、現地に千羽鶴を持参されました。この千羽鶴は北一条教会の信徒の皆さんが折ったものです。会議の後、イラクのシスターに手渡されたそうです。とても喜んでいたとのこと。




この国際会議には、世界中の紛争地帯から約80人の神学者や平和運動家たちが集まったそうです。最終声明文は、非暴力運動という福音のメッセージを探求するとともに、「非暴力と正義に基づく平和(Just Peace)に関する回勅を世界に伝えるよう」教皇フランシスコに上申されました。

声明文の日本語訳(勝谷司教FaceBookより)はこちらを↓


勝谷司教様のお説教の概要をご紹介します。

『復活祭が終わってから、フィリピン ミンダナオ島のイースタービレッジに行ってきました。
現地は、大干ばつによる影響で作物が全滅し、行政の無策に腹をたてた農民が一揆を起こし警官隊と衝突、多くの犠牲者が出るという悲劇的な出来事がありました。しかし、今回の悲劇の背景には、政治的な思惑も見え隠れしているようでした。ビレッジのあるキダパワンへ向かう道はすべて閉鎖され、一日遅れでのビレッジ到着となりましたが、外の騒ぎとは対照的に施設内は平穏であり子供たちも無事で、皆でバーベキューも楽しむことができたことが幸いでした。

フィリピンを後にしてから、一週間後にはローマで3日間の「非暴力」の会議に出席してきました。北アイルランド、クロアチア、南スーダンなど、かつての、あるいは今現在の紛争地域からも世界的に著名な平和活動家も多数参加していました。中でも北アイルランド問題で平和的解決に尽力されノーベル平和賞を受賞されたマイレッド・コリガン・マグワイアさんとお話をする機会も与えられました。また、南スーダンの司教との会話では、現地に派遣されている自衛隊に対しては、非暴力が徹底されているということから、地元からは厚い信頼を受けているという話も聞くことができました。

3日間缶詰の会議では、非暴力による抵抗は、暴力による抵抗に勝るということ、かつて正義の名のもとに行われた聖戦というものは絶対にありえない、ということなどが話し合われました。
「構造的暴力がはびこっていた社会にたいし、イエスは神の無条件の愛に根ざした新しい非暴力の秩序を宣言されました。イエスの非暴力は弱い無抵抗ではなく、行動としての愛の力です。イエスはご自分のビジョンと実践において、非暴力の神を顕し、体現されました。この真実が、十字架と復活によって明らかにされているのです。そして私たちが非暴力の平和構築を深めるように招かれます。」
会議の最終声明文は直接、教皇フランシスコに上申されました。』

2016年4月17日日曜日

復活節第4主日

熊本地方が大きな地震の被害に見舞われました。被災された方々のもとへ物心ともに支援が行き届きますように、そして亡くなられた方々が主の御元に招かれますように、お祈りを捧げたいと思います。



今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『5年前の東日本大震災を思い起こすような大地震が熊本地方を襲いました。地震の発生から4日目を迎えますが、今なお大きな余震も頻発し多くの人々が大変な状況に置かれています。テレビでも建物の倒壊や火災の発生、土砂崩れ等の映像が流され、非難場所となるはずの市役所や病院、施設までもが崩れてしまい、対策本部の設営もテントになってしまったというニュースも聞いています。災害や事故の犠牲は突然に起こり、一瞬で人の命を奪うことになります。そうすると、家族との最後の言葉も交わせず亡くなっていくという現実を目の当たりにしなければなりません。何の準備もなく、何の別れの言葉を告げられず、亡くなっていかざるをえない、そのような現実を今回の地震をとおして考えさせられます。悲しみに寄り添うことは簡単なことではありません。ただ、亡くなられた方々のため、そしてその遺族のため、被災者のために、私たちは今誰もが祈りを捧げようとしています。私たちは今、悲しみと不安の中にいる人々の心が少しでも安らぎますようにと、ただ祈るしかないような気がしています。今日いち早く、役員の方々が献金箱を準備してくださっていますが、今後カリタスジャパンをとおしても私たちに呼びかけが来ることと思います。今私たちは自分たちに出来る祈りと共に、被災者のため、復興のために私たちに出来るせめてもの善意を、積み重ねていきたいと思っています。

さて、今日の聖書の言葉を皆さんは、どのように聞いたでしょうか。
今日は非常に短い聖書の言葉でした。そして今日は復活節第4主日であり、毎年、「よき牧者」の聖書の箇所が朗読されることになっており、そのみ言葉が私たちに語られました。今日のヨハネの福音朗読の箇所を前後から読んでいくと、その印象は冬のように感じられました。エルサレムの冬は寒く、イエスは神殿の境内でソロモンの廊を歩いていたと、今日の朗読の少し手前に書かれています。紀元前170年頃、エルサレムはシリアの攻撃によって陥落しています。そして神殿も決定的に汚されてしまいました。祭壇の上で豚を焼かれるという非常に屈辱的な状況をユダヤ人は体験しています。しかしその後、ユダヤ人たちは激しい戦いの末、再びエルサレムの神殿を奪い返します。そして神殿を改めて聖別し清めて奉献したとあります。それが聖書で書かれる「宮きよめ」という行事につながっていったそうです。「宮きよめ」は、八日間喜びを表すという行事としてイエスの時代には続いていたそうです。そのような喜びの祭りが行われている回廊をイエスが歩いていたというのが今日の朗読箇所の背景です。
八日間の喜びの祭りが行われ、自分たちの信仰の世界が戻ってきたことで、ユダヤ人たちは、再び狭い律法主義の虜になる人々がたくさん出てきたそうです。そのような時代になってイエスが現れ、イエスが新しい聖書の教えを説き、人々の注目を今集めていました。律法の虜になってしまいイエスを認めることができない人々、イスラエルの民、ユダヤの民を正しく牧することができないでいたそうした人々は、イエスの声に従うこともできずに再びイエスを取り囲んで論争を仕掛けました。こうした場面は新約聖書のあちこちに記されています。
「もしあなたがキリストならはっきり言ってください」今日の場面はそのような問答から始まっていました。
不躾な質問です。でもイエスは彼らの心を見抜いています。父である神が自分を派遣したことを信じようとしない人たち、自分が話をしてもそれを受け入れることができない、信じることができない人たちであるならば、どんな答えも馬の耳に念仏と、イエスは彼らの不信仰を指摘しているのです。聖書の中で、聞く耳のあるものは聞きなさいという言葉が繰り返し出てくるのも、こうした背景と重なってくるような気がします。いくら話しても最初から聞こうとしない人たちには、イエスは神の国を理解するのはまだまだ難しいということを悟ったと思います。
そうしたイエスとの論争が続く中で、二つの事が明らかにされようとしています。
一つはイエスが来たのは古いイスラエルの考えを徹底的に剥がすためでした。イエスはこれまで熱心なユダヤ人たちが守ってきた教えに、新しい考え方を付け加えて、罪ではなく、がんじがらみになった規則を守るためではなく、愛を大切にすることを説かれました。
二つ目は、新しいイスラエルである神の民はイエスをキリストと信じ、永遠の命を受ける新しい共同体として聖別させること。それは取りも直さず、私たち一人一人を神の御国へ導くということでした。
この二つの使命が神殿から始まってくるということを、私たちは聖書で理解できています。聖書のある箇所は、イエスの公的な宣教が神殿から始まっていたことを告げています。私たちもそのことを思い起こすことができます。イエスはある日神殿に入っていったら、神殿の中庭で商売をしている人たちがたくさんいたということが聖書に書かれています。イエスはそれを見ながら、父の家を商売の家としてはならないと、商売道具を引っくり返すというイエスの一面も聖書は語っています。そしてその時イエスはこう言いました。「「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(ヨハネ2・19)こうしたイエスの公的な宣言も神殿から始まっていたということです。
三日で神殿を立て直す、後々それはイエスの体のことであると弟子たちは理解しましたが、その時はそのことがイエスが死んで三日目に復活するということだとは十分に理解できないまま心に留めていたわけです。イエス・キリストの体である教会は、よき牧者であるイエスの声に聞き従う羊の群れにも例えられます。よき牧者の元に集う共同体、それが教会の姿でもあるということ、そしてイエスに従うものには永遠の命が約束されることがそこで語られます。私たち一人一人が集うこの教会もまた、そのよき牧者のもとに集まる羊であり、教会共同体であり、永遠の命に招かれている一人一人であるのだと思います。

今私たちは、いつくみの特別聖年を歩んでいます。よき牧者であるイエスによって、一人一人が招かれ、呼び集められているということを私たちはもう一度意識したいを思います。私たち一人一人がいつくしみを持って、イエスのもとに集まることを神は願っている。その呼びかけに耳を傾けられないということなら、この羊の群れから、教会共同体から脱落してしまうということになってしまうのでしょうか。たとえ今は囲いの外にあっても、その群れを導き、永遠の命の祝福を与えてくださるということは、聖書がいつも告げている中心的なテーマでもあります。四つの福音書はみな、そのことを中心にして主張しています。
父である神から遣わされたイエスによって、十字架の贖いによって、私たちは一人一人罪が赦され、永遠の命に招かれるものであるということ。
私と父は一つであるとイエスは話されました。キリストに守られ、父なる神の御手に守られているのは、イエスの御業が父なる神の御業に他ならないことだと言えると思います。よき牧者であられるイエスは、一人一人を主の招きに応えられるように今日も自分に従う信者が一つになることをひたすら願っている、そう私は信じます。今、主の祭壇の前に一つになって祈りを捧げ、イエスに深くつながろうとしています。
私たちの信仰、その感謝の心をもって、今日も主の食卓を囲み、祈りを一つにしたいと思います。』

2016年4月10日日曜日

復活節第3主日

さあ、来て、朝の食事をしなさい(ヨハネ21・12より)



復活節第3主日を迎えました。
今日の福音では、ヨハネ福音書の最終章(21章)が朗読されました。この最終章はヨハネの弟子によって後に書き加えられたと考えられています。

イエスの死後、弟子たちはガリラヤ湖で一晩中漁をしていましたが、魚はまったく獲れませんでした。
そこに、復活されたイエスが現れますが、弟子たちは気付きません。
イエスが彼らに「舟の右側に網を打ちなさい。」と告げ、
実際そのようにすると、網を引き揚げられないだけの大量の魚がかかりました。
弟子の一人はおそらく、イエスとの最初の出会いの出来事(ルカ5・4-8)を思い出したのでしょう。「主だ」と言いました。
その後、イエスは、ペトロに三度 「私を愛しているか」と自分への思いをお尋ねになりました。

後藤神父様のお説教をご紹介します。


『イエスの復活を祝って私たちは2週間を過ごしてきました。パウロは「キリストの復活がなかったなら、教会の宣教は無駄となり、私たちの信仰もまた空しく、私たちは今もなお罪の中にいることになる。」(1コリント15:12-19)と、このように大胆に話しています。復活を祝った私たちの信仰を持って今日もまた私たちは教会に集います。そして主の祭壇を前に一致して祈ります。イエスの復活によって新しくされたその信仰は、私たちに実感出来ているでしょうか。復活を祝った私たちですが、その復活を私たちは、自分の信仰で一人ひとりが実感出来ているでしょうか。復活を祝ったと言いますが、具体的に私たちは何を記念しお祝いしたのでしょうか。その一人ひとりの信仰をいつも問われているような気がします。

  み言葉に耳を傾けながらイエスへの信仰を私たちは強めていきたいものだと思います。今日のみ言葉はペトロと弟子たちとの間にあって、復活されたイエスとの出会いの物語が語られます。復活祭を迎えてから、その復活の主との出会いがみ言葉を通して私たちに語られます。それぞれ四つの福音書がイエスの復活の出来事を詳細に記しています。ヨハネの福音では、墓のあったエルサレム近郊と弟子たちが隠れていた場所にイエスが復活の姿を現します。私たちに告げられているヨハネ福音の21章、今日の物語は20章の出来事を踏まえて書かれたものです。ヨハネ福音の21章は福音書の最後にあたります。一番最後の章になっています。内容を見てみるとヨハネ福音の20章で中味は終わっているのです。実際は20章でヨハネの福音書は終わりを告げています。それなのに、もう1章加えられて今日の福音が語られているのです。何故そのようなことがあるのか、どのような理由があったのでしょうか。そんなことを私たちは少しを考えてみると、この福音書が書かれた目的も深く理解出来ることになります。                                                
  20章の最後にこう加えられています。「このほかにも、イエスが弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためである。」(20:30-31)復活した出来事、そして復活した主との出会いを通して弟子たちが変わってきたこと、変わっていくこと、そのことをこのヨハネの福音書は目的として書かれている。だから、一応終わったけれど、様々にイエスの伝承を誰もが語り聞いています。イエスの復活物語は、きっと聖書のほかにもいろいろないい伝えがあったのだと思います。ですから出来るだけそのことを知らせましょう、書きましょう、記しましょうということを、また加えられた内容がを今日、読まれた内容でもあるということです。

   弟子たちのリーダーであったペトロは一度ならず、二度、三度と復活のイエスと出会っていることが聖書に書かれます。最初にペトロが復活したイエスに出会ったことは、実は聖書には具体的に詳しくは記されていないのです。本当に小さな記事でしか書かれていない。よくよく注意して読まないと、その箇所はほとんど記憶に留まらないかたちで読み過ごしてしまいそうな内容です。
  紹介しますと、その一つはルカによる福音書の24章にあります。あのエマオの旅人の中に
触れられているのです。「エルサレムに戻ってみると11人とその仲間が集まって本当に主は復活してシモンに現れたと言っていた。」(ルカ24:34)このような記事が書かれています。シモンに現れたと言っていた。エマオに向かう二人の弟子たちが、その道々で復活したイエスに会ったという出来事の中の1節に「シモンに現れた。」ということが記されているだけなのです。どんな状況でペトロに現れたかは、具体的な内容は聖書には触れられていません。弟子たちの中でも特別な存在であったペトロでしたから、イエスはなるべく早くペトロに現れていたのかもしれません。ペトロが他の人たちに先立って復活された主に出会っていたのだ、このように推測するしかありません。とはいえ復活の主はいつまでもいっしょに居てくれる復活の主ではありませんでした。復活の記事の中を見てもいつもそうです。復活の主は現れるんです。私たちの間に、みんなが集まっている中に、永く留まったという記事はどこにもありません。ふと現れて弟子たちと話しをしながら、そこからいなくなっているということが、繰り返えされるだけです。
  復活のイエスに出会ったとしても、寝食を共にしたかつてのイエスの姿に触れることはできません。ペトロも弟子たちも黙って座っているわけには、復活の主を待っているだけではいられない状況が続きます。いつでもいっしょにいてくれるなら、また違った行動になるのでしょうが、復活の主は現れるけれど自分たちからまた姿を消し、それを繰り返された時、どう考えたら良いのでしょうか。
 復活のイエスを待ちつつも、ペトロは漁師の仕事に戻っていこうと考えた。それが今日のみ言葉に綴られています。彼らはまだ共同生活をしていたかのようです、いっしよに自分たちのかつてしていた猟の仕事をしようとします。しばらくは猟から離れてイエスと共に生活をしていた弟子たちですけれども。夜通し網を降ろしていました。でもその日は何も魚が捕れなかった。でもそんなことは誰も驚きはしません。そんな経験はかつて何度も何度もしてきたことでした。この日の猟は諦めようと岸に引き返してきます。岸に近づいてくると、誰かが声をかけ「何か食べ物はあるか。」と叫んできました。弟子たちは夜通し網を打って何も捕れず、仕事に疲れ、おなかも空かしていたことでしょう。何か食べ物はあるか、腹立たしい質問に聞こえたかもしれません。「食べ物はない。」と答えました。でもすぐ今度は「舟の右の方に網を打ちなさい。」と声がかかります。夜通し苦労して働き帰って来たのに、また網を打てとはどういうことなのか。冗談でも言われたかのように受けとめたかもしれませんが、それでも網を打ってみました。すると不思議なこと網に魚が入っている手応えが伝わってきます。どういうことだろうか。夜通し網を打って引き上げても魚一匹捕れなかったのに。いま網を打てと言われて素直に従ったときに、魚がたくさん網にかかっている、その手応えを今感じている。どういうことなのか、ためらいがちに沈黙してしまいます。でも弟子の一人であるヨハネは気づきました。岸の方から自分たちをじっと見ているその人を指さして「主だ。」とヨハネは叫びました。ヨハネは過去の出来事を思い出しました。過去にも同じ事がありました。大漁である理由もそれで分かりました。でもヨハネは気づいた後、ほかの弟子も次から次へと過去の出来事とまったく同じ事が起きている。そのことに気づいています。

 もし、私たちが神に与えられた本来の姿を生きていなければ、生きていても死んでいるといえるかもしれません。もし、私たちが神に与えられた本当の自分の価値を知らないで、自分をおとしめるような生き方をしているならば、それは生きていても死んでいるといえるかもしれません。ペトロもほかの弟子たちもきっとそのことを考えていたと思います。神から与えられたその使命を生きていなければ自分たちはいったい何なのだろう。そんな想いが弟子たち一人ひとりの中にあったようです。自分たちが十字架に架かったイエスを見捨てて逃げてしまったこと、自分たちの罪の重さもそういう想いの中に浮かんできます。罪深い私たち、あんなに愛され、指導を受けて喜びを共有してきた自分たちであったのに。それでも私たちは十字架のイエスを見て逃げてしまった。そういう一面を弟子たちは考え、何度も何度もイエスと出会ったとしても、もう戻って来てはくれないだろうとそんな不安も抱えていました。復活のイエスに出会ったとしても、それはあくまでイエスの出来事であって、自分自身の復活の出来事につながってこなかった。ペトロはそういう意味で死んでいたのかもしれません。イエスに召し出され愛され、その中でなおかつ「あなたは岩である。その岩の上にわたしの教会を建てよう。」(マタイ16:18)という光栄ある言葉をいただいたペトロであったのに、ペトロは神から託された使命を自覚できないままで、イエスに従っていたのかもしれません。復活のイエスとの出会いを繰り返しながら、死んだペトロを立ち上がらせ生かしたのはまさに復活の主イエスでした。

  良く私たちは分かち合いをする中で、神様の愛、イエスの愛について考えます。そして、ある人は、神様は私たちを無条件に愛してくれているんですねと気づいています。失敗しても、落ち込んだとしても、イエスの愛はこの自分に注がれている。立ち上がるまで、生き返るまで
、神の愛は私たちの上に注ぎ込まれています。
  今日のみ言葉の中で、私はとてもうれしい一節(ひとこと)に出合っています。きっと弟子たちもその言葉におおきな喜びを感じたはずです。疲れて岸に戻ってきて、復活の主がそこにいました。復活の主は薪を燃やし暖をとるように弟子たちを迎えてくれます。その火の上には魚が焼かれ、パンまで用意されていました。イエスのやさしさぬくもりに弟子たちは本当に心休まる思いでイエスのもとに戻ってきたと思います。イエスは彼らに声をかけます。「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」
 私は『聖書と典礼』を最初に手にしたとき、表紙の絵の上にも「さあ、来て、朝の食事をしなさい」という言葉が綴られていました。私たちもこの教会に集い、このミサに与り、イエスに招かれ「朝の食事をしなさい。」と、ご聖体を用意されているかのように受けとめています。私たちにも呼びかけてくるイエスの言葉のように聴こえてきます。弟子たちにもそうであったように、わたしたちの飢え、渇きを満たしてくださるイエスです。恵みに満たされた処から「新しい一日を、新しい命を生きなさい。」そう言ってくださるのが復活の主であると思います。
  今日もまた、このミサの中で私たちはご聖体の恵みをいただきます。「朝の食事をしなさい」と語りかけてくださっているイエスの声を聴きながら、私たちはこのミサで共に祈り、感謝してご聖体に近づきたいと思います。』

2016年4月3日日曜日

復活節第2主日(神のいつくしみの主日)


先週の復活祭から一週間が経ち、私たちは今日「神のいつくしみの主日」を迎えています。

喜びも束の間、現実に引き戻された私たちの心の中には、主の御復活の喜びはちゃんと残っているでしょうか。
今日の福音にあったトマスのように、信仰がゆらぎそうなときに、主よどうか弱い私たちを強めてください。





この日のミサでは、佐藤謙一助祭が北一条教会で初めてのお説教をされました。

早速、ご紹介したいと思います。

『先週、イエス・キリストは復活されました。
十字架の死に打ち勝ち復活し神の永遠のいのちの中に生きておられます。
先週の復活徹夜祭や日中の復活の主日では空になった墓を婦人たちやペトロとヨハネが確認しました。

復活の八日間の週日のミサの朗読では復活したイエスのことばが語られていました。
イエスのことばは聖金曜日の「成し遂げられた」ということばが最後のことばでした。
さて、復活したイエスはまず、婦人たちに「おはよう」と言い、マグダラのマリアには「婦人よ、なぜ泣 いているのか。誰を探しているのか」と言いました。
エマオへと失意のうちに歩いて行く二人の弟子と一緒にイエスは歩き始められ「やり取りしているその話 は何のことですか」と尋ねました。
そしてエマオから戻った弟子たちと一緒に11人の弟子たちがこれまでのことの次第を話し合っていたときに、イエスは突然現れ「あなたがたに平和があるように」と言われました。
また、漁をしていた弟子たちに「子たちよ何か食べ物があるか」と言われ、魚の取れるところを指示し、わざわざ炭火まで起こして待っていてくれました。
そして土曜日には弟子たちに向かって「全世界に行って福音をのべ伝えなさい」と言われました。


今日は、隠れ潜んでいた弟子たちの真ん中にイエスが突然現れ「あなたがたに平和があるように」と言われました。
このように復活したイエスは婦人たちや弟子たちに現れて、いつもともにいることを示し励ましてくれたのでした。
今日の福音でもイエスは「あなたがたに平和があるように」ということばで話されました。
木曜日の福音でもこれと同じことばが述べられましたが、そのときは弟子たちは恐れおののき亡霊を見ているのだと思ったとあります。
今日の福音ではどうでしょう。弟子たちは部屋に鍵をかけてユダヤ人が入ってこられないようにしていました。自分たちにもどんな迫害が及ぶかもわからない。町にはイエスを支持していた残党をとらえようとしている人々がいるかもしれない。弟子たちはそう思っていたのかもしれません。一つの家に閉じこもり中から鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていました。
そこに突然イエスが真ん中に現れたのです。その主を見て弟子たちはとても喜んだとあります。恐れにふるえていた弟子たちにとってイエスの存在はとても力強かったのでしよう。「あなたがたに平和があるように」とイエスは言います。
このことばは意味深いことばです。弟子たちはユダヤ人を恐れて自分たちに危害が加えられないようにじっとしていました。
じっとしていてすべてが過ぎ去るまで何もないように、ということが平和ではありません。おそれのうちにいるうちは何もなくても心に平和はありません。平和というのは無関心のうちに過ぎ去ることではないのです。何もなければ平和だというのは間違っています。平和はたとえ迫害されたとしても間違っていることは間違っていると主張し、正しい方向へ導くことで得られるものです。
また、復活のイエスとの出会いは弟子たちにとってゆるしの場でもあります。自分たちがユダヤ人たちにおびえ閉じこもっていたときに復活のイエスが現れ、自分たちを喜びに満たしてくださいます。それによってイエスは復活されたのだとの確信が生まれました。このとき、イエスの死から今まで神を信頼していなかった自分を悔い改めたのではないでしょうか、あらためて神との和解を弟子たちは果たすことができたのだと思います。
そしてイエスは弟子たちに聖霊を授けます。聖霊を受けてそれに突き動かされてこれから弟子たちはイエス・キリストが復活されたことを宣べ伝えて、神の愛とゆるしを説いていきます。

しかし、トマスは、この時いませんでした。もしかしたら失望して弟子たちの中から離れていこうとしていたのかもしれません。ほかの弟子たちに復活のイエスに会ったと聞かされても見なければ信じないと言います。
見なければ信じないという言葉は一見正当性があるように感じます。しかし世の中のことは本当は見てもいないのに信じていることが多いのです。ほとんどの人はニュースや言い伝えで話されていることを信じています。実際にみてもいない、その場に行ってもいないのに信じています。
神からのよい知らせである福音を聞いて信じないで、世の中のことを聞いて信じるだけではもったいないことだと思います。
トマスはほかの弟子がイエスを見たといったのを聞いて、疑いと同時に、もしかしたら自分の人生のすべてが変わるかもしれないと思って八日ののち一緒にいたのかもしれません。
イエスはトマスを信じる者に変えてくださいました。
「わたしの主、わたしの神よ」と。
イエスはトマスの信仰をよみがえらせてくださったのです。
イエスはわたしたちが信仰に疑いを持つようなときに、必ずわたしたちに働きかけてくださるはずです。
使徒たちの時代は復活のイエスが主の昇天まで現れていました。
そののちのすべてのキリスト者は復活のイエスを実際には見ていません。
「見ないで信じる者は幸いである」というのはイエスの祝福のことばです。
わたしたちがトマスのように「イエスよ、あなたはわたしの主、わたしの神です」と言えるようにイエスは望んでいます。
このように復活したイエスを信じることはわたしたちの生き方に関わってくることなのです。
わたしたちもトマスのように復活のイエスを信じていくことができるよう祈ってまいりましょう。』