2018年7月29日日曜日

年間第17主日「パンの奇跡」

今日の福音では「パンの奇跡」が語られました。
イエスは弱い立場にある人々に対して飢えを満たす奇跡をもって神のいつくしみを示されました。


今日の後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『パンの奇跡の物語は、四つの福音いずれにも出ているものです。それは聖書が書かれた時代に生きる人々にとって大きな慰めでもあり、人々はイエスの神の業をみて確信し、信仰の原点にもなったからではないでしょうか?
 飼い主のいない羊のように弱い立場にある人々は、大きな声を上げることができません。癒してもらおう、飢えを満たしてもらおうとイエスにすがりつくのです。この時代、貧しい生活を送らざるを得なかった時代に生きる人々にとっては、愛されること、愛する人々とともにいられることは生きる上で何よりの力になったはずです。イエスはそのよううな人々に対し神について語り、人々の飢えを満たす奇跡をもって、神のいつくしみを示し、喜びを分かち合い、神の存在を知らしめました。
 
 しかし、ユダヤの人々はイエスの行ったこのしるしを見て、「まさにこの方こそ世に来られるはずの預言者である」と、ローマの支配から解放してくれる自分たちの指導者、王に担ぎ上げようとますます熱心にイエスを迎え入れました。
 人々の目には”地上の王”としかイエスを見ることができませんでした。ですから、「永遠のいのちのパン」は、飢えを満たすパンでしかありませんでした。
 イエスにとっての奇跡はしるしに過ぎないのですが、ここでも、まだイエスの思いと時は満たされません。それでイエスは、ただひとり人里離れた山に退かれました。

”よき牧者”キリストにとって、迷える子羊に豊かな牧草を与えますが、ご自分のからだを食べ物として与えるにはまだ少し時間が必要であったようです。
 私たちはミサをとおして、永遠のいのちのパンをいただくことができますが、聖体をとおしてイエスとの出会いの道がさらに開かれるよう祈りましょう。』

2018年7月25日水曜日

年間第16主日

宣教から成功裏のうちに帰ってきた弟子達の様子をみたイエスは、過信に陥らないよう自省する機会を弟子達に与えました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音は先週に続いて、宣教のことが語られているようです。イエスは宣教に弟子たちを遣わすにあたって、貧しくあるべきだと先週話されています。杖以外はパンも下着も持つことのないように、そんな宣教への送り出し。弟子たちの振る舞いがどうあるべきかということを諭されたようです。そして、二人ずつ組にして宣教に遣わされた。二人ずつというお話しを佐藤神父さんは興味深く話され、神学校時代の思い出話しも語られていましたが。私たちは一人でやれば自由に、自分の思い通りに出来るのではないだろうか。そんなことを考えてしまう人もいるかもしれません。でも、旧約聖書を見ると、そうは教えていないようです。一人ではなく、二人ないし三人というのが、ずっと信仰の中で伝えられてきたようです。また、裁判のような場で証言が採用されるためには、一人の証言ではなく、二人以上の証言が必要であることも聖書は触れています。
  現代の教会法の中でもそういう内容が引き続いて決められています。皆さんは結婚式に参列された方がいると思いますが、教会の結婚式では必ず二人の証人が立ち会うことと定められています。ですから、教会での結婚式では新郎新婦の傍に二人の証人がおられる。そういう流れで結婚式が行われます。これもきっと昔から聖書と深い繋がりがあると思っています。
 旧約の聖書の中ではいくつかそう言う箇所が示されているようです。ひとつ、そういう内容を紹介しましょう。「コヘレトの書」の中にそれは書かれています。「コヘレトの書」は以前は「伝道の書」と言われていました。その中の4章9~12節で「ひとりよりもふたりの方が良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいが ひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」こんな内容でコヘレト書に記されています。ひとりよりもふたりで活動するほうの利点について語ります。ですから、私たちが信仰者としてひとりで行動することなく、この教会に集められているのは私たちの弱さを知る、私たちはそれぞれ信仰者としての使命を果たすことが出来るようにと、神様が出してくださる「恵み」と言えるかもしれません。一人ではなく、二人で。二人ではなく三人で。そこに主もおられるという言葉が、聖書で語られているようです。

 弟子たちはいぜれにせよ、心強い仲間とともに宣教して、神の国について人々に話し聞かせる福音伝道をしてきました。その働きに手応えを感じ、弟子たちは喜びと感謝に満ちて帰ってきたのではないでしょうか。福音を聞いて感動して、そのまま弟子たちに付いてイエスのところまで来た人々も、多かったに違いありません。今日の聖書の中でも、弟子たちは出入りする人が多くて、食事をする暇もなかった。そんな記述があります。弟子たちも伝道旅行が成功裡に終わって、きっとそのまま弟子たちといっしょにイエスのもとに駆けつけた人も多かった。さらに、イエスの元に遠く近くから人々が集まってきたことも、聖書には書かれています。
 私はこの聖書の後半の前半に入って、弟子たちに話すイエスの言葉が一番注目されて黙想しています。弟子たちは感動して、その成功裡に終わった自分たちの仕事を省みながら、イエスに詳しく報告していたと思います。そういう弟子たちの情熱的な報告を聞きながら、イエスは弟子たちに奨めます。しばらく休むが良い。弟子たちの経験はその報告を聞くにつけ、自分たちの成功に有頂天となり、み言葉の力は凄いものだと喜びと感謝で興奮し、心が高揚化し続けていました。きっとイエスは弟子たちのそれを見て、言葉を聞いて、何か感じたようです。このようなときこそ、一番危険である。そんなことをきっと弟子たちの姿をとおして知ったのではないでしょうか。成功に終わったとしても、その過信はサタンが心の中に入ってくる期待ともなり、その危険から逃れる道はただひとつ。それは人を避け、寂しいところへ行って、ひとりで神に向かって自分の心を見つめることだけです。人里離れたところに行ってしばらく休みなさい。自分を振り返りなさい。その働きは確かに弟子たちの努力もあったでしょう。汗を流して福音を説いて人々に受け入れられた時、弟子たちは本当に喜び感謝の気持ちで満たされたと思います。でも、それは弟子たちの力であったでしょうか。神の恵みがそこに働いたということでしょうか。それを取り違えて自分たちの力である。弟子たちの過信にイエスが危険を感じたひとつの出来ごとだったのです。自分自身の力ではないことに気付かなければならない。弟子たちはそのことを意識していたでしょうか。自分自身を見つめることは次の新しい歩み、戦いの準備にもなるはずでした。私たちもそういう危険にさらされていることがあるような気がします。努力が報われ成功するならば誰もが喜びに満たされます。そのことを周りの人に理解してもらいたい、知ってもらうことも自分たちの喜びにもなります。それがある意味、自然かもしれません。
 でも私たちはそういう経験を思い出すときに、過信は禁物であると心の中で思い浮かべています。自信に満ち溢れ、自分の力でそれをなし得たことであると決めつけるならば、大きな間違いを犯すかもしれません。イエスは弟子たち一人ひとりに、このような小さな体験を積み重ねながら教え導いていきます。宣教者として、神のみ言葉をのべ伝える弟子として、何が一番大切なのかを教えようとしています。

  金曜日(20日)、カルチャーナイトで教会に多くの方が訪れていました。教会の皆さんの奉仕の姿の中にも、訪れる人のために「おもてなし」の心が溢れていたように思います。始まる前に、そういうお話しを皆で確認しました。少しでも訪れる人におもてなしの心が伝わって教会でのひとときが実りあるものになりますように。そんな祈りをしながらカルチャーナイトは始まっていきました。それは私たちが出来るひとつの福音宣教でもあったと私は思っています。きっと教会での訪れと出会いによって、皆さんがどこかで育っていくのではないかと私は信じています。
  プログラムが終わって一人の青年が私のところにこられました。きっと、聖堂の案内を聴いた後だと思います。「安息日、主の日」の説明を受けたらしく「日曜は休むということなんですね。」と、私に話されていました。きっと、その青年は「安息日」という言葉を、教会や聖書でどのように話されているか、初めて聞いたのではないかと思います。感心するように私にそのことを話してきました。休むことの大切さに気付かされたかのような話しでした。そういう出会いと経験が教会の中でひとつあったことを嬉しく感じました。
  皆さんは一人ひとり出会いの時をもって、それぞれに手応えを感じたり、喜びを感じたりしたと思います。来年はさらに、信徒として一人でも多くの人がこの伝道の喜び、出会いの喜びを体験することを願っています。

  もし、飼い主のいない羊がいるとすれば、私たちの手でイエスのもとへ導くことが出来ます。今日の福音をとおしてそのように考えています。私たちの周りには飼い主の見失った羊もおられるかと思います。そういう人が教会に足を運んで何かを見出したい。飼い主である神、イエスと出会ったりすることが出来るのならば、私たちの喜びであると思います。日々の生活をとおして、私たちが小さな福音の勉強が出来ると思います。いつも言います。笑顔のひとつに、挨拶の一言も、福音宣教に繋がるのではないでしょうかと話したことがあります。人の心に慈しみや憐れみや神の恵みが届く瞬間が私たちから伝えられるならば、それは福音の喜びに繋がっていくのだと思います。
  新しい一日をまた始めようとしています。私たちの働きが主イエスへと人々を導くことが出来るように。今日も心から祈り、主の祭壇に近づくようにいたしましょう。』

2018年7月21日土曜日

7月20日(金)カルチャーナイト2018に参加しました

今年もカルチャーナイトに参加し、ミサ聖祭のあと、オルガン演奏、聖堂内の聖画・装飾の紹介、DVD鑑賞会、教会活動の紹介などを行いました。
会場は、聖堂、カテドラルホール、そしてお隣のカトリックセンター1Fでも喫茶コーナーを開設しました。


ミサ聖祭は、18:30より森田神父様と後藤神父様の共同司式により行われました。


ミサの後、パイプオルガンのミニ演奏会を行いました。


聖堂内の聖画・装飾の紹介では、大勢の方々がスタッフの説明に熱心に耳を傾けられておりました。



隣のカトリックセンター会場では、教会活動を紹介しました。



2018年7月15日日曜日

年間第15主日

一人だと不安かもしれませんが、
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」
とイエスは励ましてくださいます。

今日のミサの主司式は佐藤神父様でした。


佐藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日のマルコによる福音の箇所は、マタイによる福音にも、ルカによる福音にも書かれています。しかし、マルコによる福音の中では、杖を一本持って行ってもよい、と書かれています。他の福音書では、杖も持たず、と書かれているので、そういう意味では少し優しいイエス様が描かれているのではないかと感じます。また、他の福音書では「下着を持って行ってはならない」と書かれていますが、ここでは、「2枚着てはならない」とあり、持って行ってもよいと受け取ることもできます。このようにマルコによる福音書は、少し私たちにとって、優しい感じがするかもしれません。

先週の福音の続きですけれども、先週の福音の最後では、イエスはガリラヤの村を巡り歩いて宣教していたと、締めくくられていました。その続きの箇所です。今日の福音では弟子たちがイエスによって派遣されるという場面になっています。
ずっとイエスの傍にいてイエスの言葉、そして行いを見てきたこの弟子たちを、イエスは人々の中に派遣させることにします。そして、その弟子たちを二人一組にして遣わされるということをなさいます。二人ずつというのは、当然一人で宣教するよりもずっと心強いしお互いに協力して歩んでいくことができることを意味しています。
マタイによる福音の中でイエスは、「二人あるいは三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と言われています。二人一組で遣わされるとき、イエスご自身もその二人の中に共におられるのだということを意味しているのだと思います。だから、二人で出かけて行って安心して宣教しなさい、ということも意味しているのではないかと思います。
神学校で学んでいたころ、二人で組になって何かをするということが非常に多かったと思います。典礼の当番に当たった時も侍者として二人で協力して祭壇の準備をしたり、先唱係と香部屋係の当番になった時には、香部屋係が蝋燭を点けると同時に、先唱係が聖堂の灯りを点けるということをしていました。また、先唱係がミサの初めに案内をしたりする時には、香部屋係が聖堂の扉を閉めたりするという、そのような協力体制が出来ていました。
神学校の生活の場でも、二人一組というのは行われています。それを思い出すのは土曜日の昼食の準備の時のことです。土曜日の昼食はいつもカレーライスでした。カレーの準備も二人一組で行っていました。皿とスプーンを出して、炊飯器のスイッチを入れる人と、カレーを温める人に役割を分けていました。後片付けも二人一組でした。一人が皿とスプーンを片付け、もう一人がカレーの鍋を洗うということをしていました。先にお話しした典礼の当番もカレーの当番も、どちらも一人でやろうとすると非常に大変ですけれども、二人ならそれほど苦にはならずに楽にできます。これは非常に不思議なことだなと思います。
そして、私の大先輩の神父様が神学生の頃の話を聞いたことがありますけれど、散歩に行くにも二人一組で行かなければならなかったそうです。今はないですけれどそのような決まりがあったそうです。二人で散歩をする中で、お互いの中にイエスがおられる、聖霊がおられるということを感じるように、そういう意味があったのではないかと思います。中には、二人で散歩という組み合わせの中では、あまり気の合わない人もいたかもしれず、そういう時には気が重かったということも聞いています。神学生同士だから何とかうまくやっていけるというものでもありません。皆さんと同じように相手を苦手に感じたり、いやな奴だなあと思ったりすることも結構あります。ただ、二人一組で散歩したりする時に、いやな奴だなあと思ったにしても、実際に話をしてみると実はいい人だったとか、実は気が合う奴だったとか、ということもあります。人を誤解していたということも非常に多くあります。そういう新たな発見を期待して、二人一組で行動させる、遣わすということをしているのかもしれません。
そして神学生は司祭になって、司牧者として教会へ派遣されるわけですが、その中で多くの人々と接し、物おじせずに話が出来るとか、いやだなあと思う人がいても、しっかり話をして付き合っていくことができると、そういう訓練であったというふうにも思います。
今日の福音に戻りますが、弟子たちの派遣にあたって、いろいろな指示が下されています。食べ物を持たず、袋を持たず、金も持たず、下着も一枚だけ着るようにと、言われています。
誰の世話にならないように全て自分で準備しておくということではなく、人との出会いの中で、宿のことでも食べ物のことでも人の世話になるようにしなさいということだと思います。必ず迎え入れる人がいるのだというふうにイエスは言っているのだと思います。
自分のことは自分でしなさいと、この世の中ではよく言われることですけれど、自分の力ではどうしようもないということもあります。今日の福音では、神の呼びかけに応えていこうとする時に、神が全てを配慮してくださるという信頼と、人との出会いに対して、恐れずに関わるということを大切にしていくということが述べられているというように思います。

今日私たちは、イエスが示された神の国をこの世に実現するために呼びかけられています。一人では不安かもしれませんが、二人あるいは三人であれば、心強く歩んでいけると思います。互いに助け合い、そして出来ることを分担していけば、神の国を大胆に伝えていくことが出来るのはないでしょうか。
弟子たちはイエスに呼ばれて、イエスが行ってきたことをイエスと同じように実践しました。イエスをとおしてここに呼ばれた私たちも弟子たちのように、二人三人で出かけて行って出会う人々に言葉だけではなく行いをもって、イエス・キリストを証しすることが出来るわけです。
このミサの中で、私たちもその勇気と希望を持つことができるように、祈り求めてまいりましょう。』

2018年7月10日火曜日

7月8日 年間第14主日

 私たちはいつの時代であっても神に心を向けながら、思い上がったり、時には強欲な心を捨てきれません。
この日の集会祈願を心に留めましょう。
「ここに集う私たちがあなたの言葉を深く受けとめ、心からあなたを賛美することができますように」


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音です。そのときイエスは故郷にお帰りになった。イエスの故郷でのお話しが語られています。この最初の1行を読んで、私も今日、50年ぶりか50数年ぶりで故郷、羽幌町に帰ります。今日午後から、同窓会があるのです。最初の言葉が私と同じだと読んでいました。 今日の集会祈願を味わいます。私は良く集会祈願を心に留めて味わうのです。どんな祈りの言葉だったか、少し分かち合います。「ここに集う私たちがあなたの言葉を深く受けとめ、心からあなたを賛美することができますように。」ミサの最初の祈りの祈願の言葉です。「心からあなたを賛美することができますように。」今日、ミサの中で本当に心から神を賛美することが出来るように祈りたいと思いますが、私たちはいつの時代であっても神に心を向けながら、自分中心の傾きを抑えることが出来ず、思い上がったり、神に従うよりも、時には強欲な心を捨てきれないまま、神様のほうにまた、自分中心の生活の方へと、行ったり来たりしているような気がします。
 今日の第二朗読のコリントのみ言葉の中にも、弱さの中で思い上がることのないようにと  私たちを導いてくださるみ言葉がみられます。思い上がる心。どうして、なぜ、私たちの心の中から湧き上がるものなのでしょうか。きっと誰もが体験している、経験していることだと思います。自分の思い上がり、身勝手さ。それに気付くと少し恥ずかしくもあり、反省もありますが、日々繰り返しているのが私たちでもあるともいえます。
 イエスが故郷に帰った時の故郷の人々の反応も そういう心に繋がる思いでイエスを見、そしてイエスを非難しています。故郷の人々はそのイエスの業や奇跡について受け入れることよりも、賛美することよりも疑問が先になりました。何故、大工の家の子であるイエスがそんなことできるのか、考えられない、信じられない、受け入れることが出来ないことになってしまいます。もちろん故郷の人は、イエスの小さな時からきっと知っている方がたくさんおられます。なおのこと、何故、こんな素晴らしい立派なお話しを出来るようになったのだろうか。そういう思いが心の中から払拭されないかぎり、片寄った考え方、自分中心の考え方から抜け出すことが出来ないと思います。
  先入観。それはある意味で不審な目で見ることが先になることにも繋がってくるようです。こうしたことは私たちの日常生活にも見られること。神を信じる。神を信じたい。そんな信仰の道を歩んでいる私たちにもおこっていること。イエスが不信仰に驚かれたということは、故郷の人に言われたのではなく、まさに私たちに向けられて言われているのではないかと感じられます。

 先週、私は殉教者の話を取り上げました。今日もまた皆さんといっしょにミサの前に 殉教者の祈りを唱えていますが、「殉教者の信仰、その生き方の中に、現代を生きる私たちがどのような困難な時にも聖霊の助けを信頼し、キリストに従いあなたへの道をひたすら歩むことが出来ますように。」こういう祈りの言葉がありました。キリストに従い、ひたすらあなたへの道を歩むことが出来ますように。主が示される道を歩くこと、そのことを願いながら、何故か自分の思いが優先する道を選んでしまう私たち。主への道をひたすら歩むことと自分の道を選びとって自分の都合の良い道を歩いてしまう私たち。行ったり来たりしていると思います。
  先週、7月1日の日曜日は、ペトロ岐部と同志殉教者の10年目の記念日だということを皆さん思い出しておられると思います。以前お話ししたか定かではありませんが、もう一度伝えたいと思います。長崎のある神父様のお話です。殉教者と言えば長崎に多く見られるところですが、その深い信仰、強い信仰が尊敬を受けます。私の知っている長崎の神父様が話したことを私は忘れることが出来ず、また思い起こしています。「迫害以来、拷問を受けて多くの信者は信仰を捨てざるを得ませんでした。中には家族を思い小さな我が子を思う余り、信仰を捨てざるを得なかった人たちがいたということ。自分ではなく、我が子のため、子供の将来のために自分の信仰を捨てざるを得なかった。目の前に踏み絵が置かれます。十字架やマリア様の御像が置かれます。そして、それを踏みなさいと命令されます。踏むことによって信仰を捨てたことを証しするということになっています。」小さな我が子を持つ親の信条はいかばかりだったでしょうか。長崎の神父様の話しは「私の先祖が信仰を捨てたことによって、今、私が司祭である。」とのお話しでした。信仰を捨てる、棄教するということは、弱い信仰者のレッテルを貼られるかもしれません。でも、子どものために信仰を捨てる。信仰を捨てると言いながら「隠れキリシタン」として自分の信仰をひたすらに生きるという、そんな生き方を選ぶ人は少なくありませんでした。見かけは信仰を捨てた。我が子のために、愛する家族のために。でも、心の内では信仰を周りの人には隠して、隠れキリシタンとして生きる彼ら。その信仰を守り続け、何百年と経ってその子孫が司祭として信仰を導いているとしたら、殉教者の信仰に負けない、隠れキリシタンの信仰があったからではないでしょうか。それこそ、今日告げられたみ言葉。キリストの力が私たちのうちに宿るなら、むしろ大いに喜んで、自分の弱さを誇りましょうと言えるのではないでしょうか。棄教する、踏み絵を踏む。外見から見れば、弱さそのものを表すかもしれません。でもその弱さを誇りとして、隠れキリシタンとして信仰を生き抜いた人がたくさんおられたということ。

 聖書の中では、本当に愚かで弱さを抱える弟子たちの姿もたくさん見られます。ペトロもその一人だったと思います。美徳なまでに愚かさをイエスの前に見せる。叱られます。でも、ペトロは何度叱られても立ち上がります。それはイエスの愛と慈しみの手をいつも感じることが出来るペトロの信仰があったからだと思います。キリストに従い、あなたへの道をひたすら歩むことが出来ますように。ペトロもまた、殉教者の祈りの言葉の信仰がそこにあったように思えます。キリストから離れることなく歩み続けたペトロは、やがて何度も失敗を繰り返したにもかかわらず教会の頭に選ばれています。イエスを受け入れる心、ひたむきな心、そしてイエスを証しする心が誰よりも強く、深い意味で、あったに違いありません。ペトロももちろん最期は殉教して亡くなりますが、ペトロの殉教者の心を長崎の隠れキリシタンの多くの人たちが受け継いでいたこと、証しかもしれません。つまづいても手を伸ばして立ち上がらせてくださる愛と慈しみの主に、私たちは赦しを願いながら愛し続けることができます。

   今日も私たちの弱さの中で主の霊を、主の心を願い、思い上がることのない日々を過ごすことが出来るように、共にこのミサの中で心を合わせて祈りたいと思います。』


ミサの後、初めての消防避難訓練を行いました。
ほとんどの人が初めての体験で戸惑いもありましたが、無事終了しました。




◎カテキズム要約版を読む会が60回目を迎えました。
5年ほど前の信仰年を機会に立ち上げ、参加者も最近は増え、多いときには20名近くになっています。


2018年7月1日日曜日

年間第13主日

今日は「ペトロ岐部と187殉教者」の記念日でもありました。
殉教者少年ディエゴの残したことばを心に留めてイエスのもとに歩みましょう。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『先週は月曜日から4日間、全道司祭会議で教会を留守にしていました。わずか4日間の日程でしたが、長い旅をして教会に帰ってきたような気がしています。今年は35名の司祭が全道から集まっての会議でした。
今年のテーマは、「これからの札幌教区の福音宣教」というものでした。私たち司祭にとっても今年の会議は、これまでとは少し意識が違う状況で話し合いが行われました。通常は3日間の日程なのですが、今年は重いテーマで、もっと真剣に語り合わなければならないとのことで、4日間の日程になりました。
皆さんは、今回のテーマである「これからの札幌教区の福音宣教」ということについて、どのような印象を持たれるでしょうか?皆さんも既に聞いていると思いますが、2019年には札幌教区の各教会に派遣されているフランシスコ会の神父様が引き揚げるという話が、ずっとここ数年続いていました。いよいよ来年、その時期を迎えるということで、私たちもさらに真剣に、そのことを考えていかなければならないというのが今年の会議の主旨でした。現実的には、全ての教会からフランシスコ会の神父様がいなくなる訳ではありませんが、フランシスコ会日本管区の方針として、修道会司祭の高齢化の状況を鑑み、一人で地方の教会を任されて、そこで生活するという現状を見直すということであり、教区司祭も現実的な対応を突きつけられているところです。来年に向けて大きな移動があるということも勝谷司教さんも口にされていますが、いよいよ差し迫ってきたという状況の中での会議となりました。たくさんの祈りを皆さんからもいただけたことと思います。お礼を申し上げたいと思います。少しづつ具体的な案については、司教さんを中心に皆さんとも考えていかなければならないテーマだと思います。これからもまた、一緒に祈りながらご協力をお願いしたいと思います。

さて、今日のみ言葉について、皆さんはどのように受け留められたでしょうか?
大勢の群衆がイエスのもとに向かってひたすら進んでいく情景がわたしたちに語られました。二千年を過ぎた現代においても、日曜日になると大勢の信者がイエスを求め、今日のミサのように教会に集まってきます。
聖書で語られるイエスのもとに集まる「群衆」という言葉が繰り返される中で、その人々の情景と、私たちが今集まっている教会の現状と、何が同じで何が違うのだろうかと、私は昨日から考えています。イエスのもとに集まった群衆と、教会に集まる私たちと、その心のうちは同じでしょうか?
み言葉では、群衆のなかの一人として会堂長ヤイロのイエスに向かう信仰の姿が浮き彫りにされています。愛する我が子を救うためにイエスの前に進み出て、足元にひれ伏し、しきりに願うその姿が描かれています。その心のうちは、神へのイエスへの信頼そのものでした。父親の信頼とその思いは、ただイエスに触れたい、触れられたいという願いでいっぱいだったと思います。イエスは命の主そのもの、イエスに出会い、イエスに触れることによって救いがあると、この会堂長ヤイロは考えていたに違いありません。その信頼は揺るぎないものであったと思います。
み言葉の後半では、誰もが死んだと思われた会堂長の12歳の娘は、イエスによって救いが現実となっています。大勢の群衆もまた、様々な形で救いを求めていたはずです。イエスを信じていたはずです。イエスに対する信頼は深いものであったにも関わらず、死んだはずの少女が歩く姿を見たとき、信じ難い出来事として「群衆は我を忘れ、驚いた」と記されています。100%イエスを信じていなかった故の驚きだったのでしょうか?
この話の合間に、もう一つの話が加わっています。長い間、病気に苦しむ女性もまた、イエスに近づき触れようとしていました。イエスに触れることで自分の病気が治っていくことを感じながら。イエスの体から力が出て行ったと聖書は記しています。そしてイエスは「誰がわたしに触れたのか」とそのことを突き止めようとしています。
救いをもたらすイエスへの信頼によって、「あなたの信仰があなたを救った」とやさしく声を掛けられています。
いま、私たちは神を、そしてイエスを、どこまで信じているでしょうか?そんなことを考えながら今日を迎えています。私たちはイエスに救いをどこまで真剣に求めているのでしょうか?私たちは何を求めてこの教会に、今日来たのでしょうか?本当にイエスに触れたいという思いが心の中に生きていたでしょうか?
日曜日のミサに与る私たちは、習慣のようになってしまって、何を求めることなくただ教会に来てしまった、という人はいないでしょうか?
そした私たちは、救いということをどのように考えているでしょうか?

今日は、最初の集会祈願でも触れたように、特別な日です。「ペトロ岐部と187殉教者」の記念日が重なりました。そのことについても少しお話したいと思います。
日本の司教団から通知文書が届いており、掲示板にも貼られています。
2008年11月、日本の新しい聖人である「ペトロ岐部と187殉教者」が列福されて10年を迎えました。その後、ユスト高山右近も列福され、今度は、聖人となる運動を展開しているのが、今の私たち日本の教会です。
司教団からの文書は、列聖を求める祈りをぜひ今日皆さんと共に祈りをささげて欲しいという内容でした。その列聖の取り次ぎの祈りのなかに「現代に生きるわたしたちが、どのような困難のときにも、聖霊の助けを信頼し、キリストに従い、あなたへの道をひたすら歩むことが出来ますように」とあります。これはまさに殉教者と同じ道を歩みましょう、という呼びかけでもあります。
日本の司教団からこの日を思い起こして祈ってくださいというメッセージ。そして10年前を思い起こして、今日教会のホールに置いていた小冊子から、一人の少年殉教者を紹介します。
この少年殉教者は、「わたしを歩かせてください。イエス様はカルワリオ山へ歩いて行かれました」という言葉を残したそうです。
その経緯は、1613年10月7日、長崎の島原半島、有間川の中州で、3家族8人が縛られ、火あぶりの中で殉教しました。信者たちの信仰生活を助けるために、「サンタマリアの組」、「ご聖体の組」、「ミゼリコルディアの組」などを組織していた有馬の教会は、当地で迫害が始まると、1612年、城下町に新しい組を結成しました。「殉教の組」です。これは信者が殉教できるよう祈り、苦行をもって神のおん助けを求める信心会です。これに倣い少年たちも「子供の殉教の組」をつくり、大人に負けないほど熱心に祈り、苦行に励んでいたといいます。12歳の少年福者ディエゴ林田は、このとき、有馬の「子どもの殉教の組」の頭でした。ディエゴは、仲間と共に殉教の恵みを受けるために祈り、組の集まりでは皆を導き、ともに苦行に励んでいました。その殉教の記録は、素朴なこころの少年が、精神的に立派な大人に成長していたことを伝えています。
有馬の信者たちが殉教に立ち会おうと集まってきて、捕らわれた人々をすでに殉教者と呼び、その取次ぎを求めました。すると少年ディエゴは、「死ぬ前に殉教者の名はふさわしくありません。でもその名をいただくのは嬉しいことです」と言いました。そして、「まだまだです。まずオラショ(祈り)を頼みます」と皆の祈りによる支えを願ったのです。
のちに迫害で火あぶりにされたドミニコ会司祭ハシント・オルファネル神父は、ディエゴのこの言葉を日本語のまま記録しています。
ディエゴのこれらのことばは、長崎の潜伏キリシタンが殉教の心得として伝えてきたことを思い起こさせます。
「殉教とは死ぬこと、殉教は神からのめぐみであること、人は皆弱いので、殉教のとき力を与えられるよう、ふだんからいつも祈りと苦行に努めること」などです。

「わたしを歩かせてください。イエス様はカルワリオ山へ歩いて行かれました」
少年ディエゴが残した言葉です。
私たちもイエスのもとに歩いていかなければなりません。必死になって歩かなければならないでしょう。

私たちの教会は、2年前に「次の世代につなぐ」というテーマを掲げて聖堂献堂100年を祝いました。「次の世代につなぐ」、まさにこの殉教者少年ディエゴの心を私たちはもっと大切にしなければ、私たちの信仰は中途半端な形で伝えることになるような気がします。殉教者の思いを伝える「明日の教会を託される子どもたち」というテーマは、私たちにとっても大切なテーマであり、私たちの教会が掲げた「次の世代につなぐ」というテーマに深くつながっていると思います。
幼い少年殉教者は、私たちを信仰の道へと導いているような気がします。神の目からみると私たちも弱く幼い信仰者なのかもしれません。イエスのいのちに出会うため、一人一人に示された十字架の道を歩むことができるよう祈りましょう。』

2018年6月25日月曜日

6月24日(日)洗礼者聖ヨハネの誕生

イエスが誕生した6ヶ月前の今日、洗礼者ヨハネの誕生をお祝いしました。
主司式は勝谷太治司教でした。


勝谷司教のお説教をご紹介します。


『洗礼者ヨハネの祝日は、洗礼者ヨハネの殉教と誕生を祈願しますが、特にこの誕生の日は 祭日と扱われ、しかも日曜日に優先する祭日になっています。通常、日曜日に優先するのはマリア様とイエス様ご自身のものです。すなわち、ヨハネの誕生、存在というものが、イエス様の救いの営みに深く関わっている。いわばイエス様が誕生されて救いを成し遂げるまで、その生涯のプロローグにあたるもとして、非常に重要な位置を示している。
 しかし、今日の福音書はそうは言っても、主人公は誰であるかと言うと、ヨハネを産んだエリザベトとその父ザカリアの話しになります。ザカリアはエリザベトがこの男の子を宿すという天使のお告げを信じなかった。そのために口がきけなくなったと書かれています。今日の福音書を見ると、「この子に何と名をつけたいか。」と、手振りで尋ねたという記述があることから、ただ口がきけなかったのではなくて、耳も聞こえなくなっていたと推測されます。これは天使のお告げを信じなかったから、その罰としてそうなったのでしょう。わたしはそうは思わないのです。このザカリアという人、今日の福音の前の部分を見ると、エリザベトも含めて二人、非常に敬虔で熱心な掟を守っていたユダヤ教の信者と思われます。すなわち自分たちに与えられた努めを忠実に果たし、律法を守り 敬虔に信仰生活を営んでいた人たちです。
 しかし彼らは自分たちをとおして神がなさろうとする、全く予想谷しなかった出来事、常識では考えられないような、この年老いた女が身ごもるということ、これを受け入れることが出来ない、それを超えたことを考えることが出来なかったわけです。ですから、毎日の生活の中で忠実に熱心に与えられた仕事、決められた掟を守り続けるし、生活を送っていましたが、自分の生活はおろか、身の周りでおこるこの神のこのダイナミックな業に対して、それに気付くことが、それに協力すると言う考えをまったく持ち合わせていなかった。そういうことが言えるわけです。
  この沈黙、耳が聞こえなくなり、話せなくなることが何を意味するのか。今、エリザベトをとおして行われる神の業を、いわゆる周りの常識的な雑念を捨てる中で、ただ沈黙のうちにそれを祈り続けるもの。この男の子が産まれるまでの間の、この沈黙の時間というものは、ザカリアにとっては、自分たちの生活をとおして神の業が実現していくものを深く受けとめる、黙想する期間であっと言えるのではないかなと思います。
 そして、この子が誕生し「ヨハネ」という名を付けたと。実は今日の箇所では省略していますが、聖霊に満たされたザカリアの預言があります。「神を誉め称えよイスラエルの民を/ 神は民を訪れて購い/ わたしたちのために力強い救い主を与えられた」。そのザカリアの預言は世界中の聖職者が毎日朝、聖務日課で唱えている祈りです。自分たちをとおして実現していった神の業、それに対する賛美を高らかに唄っています。
  この出来事は私たちにとって何を意味しているのでしょうか。  私たちと同様にこのミサに与っている人たちは、信仰生活を熱心に、そして社会人としても、人の子の親としても、非常に模範的な生活をしていると思われます。しかし、それは自分の生活というものをしっかり計画を組み立て、忠実に信仰生活を営んでいたとしても、今、ダイナミックに働かれる神の業に対して、開かれた心の目を持ち合わせているかどうか、自分たちに問い合わせなければならないことです。時々、この単調な私たちの生活の中で、まったく予想谷しなかったことが起こり、それについて考えさせられることは良くあります。
 今日の物語は誕生の物語ですが、年老いて私たちが経験することは、両親や配偶者との死別だと思います。さらに長寿社会になっていくならば、場合によっては自分の我が子の死別も体験しなければならない。そのような出来事は避けようのないことです。ですから、何故死んだのかということを問うことは、ある意味、現実にわたしたちは直面しなければならないのです。
「何故、今なのか」ということは常に、私たちの心に湧き上がってくる疑問だと思います。しかし、そこにどういう意味を見出すのか。神がわたしに、何故今わたしにこれを体験させるのか。そして、どこに導こうとされているのか。悲しみや苦しみを受けとめながら、その中にあってもなお神が私たちの人生に介入され、常により良いように導かれていることに信頼し続けていける。何が起こっても、そこにわたしたちは、常に臨機応変に、その神の出来事をとおしてわたしたちに与えられる招きに、応えることが出来るようになっていく。そういうセンス、常に与えられる日を祈り続ける必要があると思います。

  しかし、その死滅のような悲しい出来事だけではありません。歳をとってからまったく違う生き方に召されることがあります。停年退職がそれかもしれませんが、それ以外にも様々なケースが考えられます。
 余談になりますが、昨日、ローマ法王庁は日本時間の午後7時、幸田司教様の退任を承認されました。幸田司教様は東京教区の補佐司教として永年、岡田司教のもとで仕えてきましたが、昨日をもって補佐司教の職を解かれます。司教は司祭と同じで約束で与えられたり、解任されるものではなくて、一生司教のままです。役職は解かれますが、引退司教としての生活を送ることになり、今は 南相馬のベースで復興支援活動にもっぱら取り組んでおられます。今後もそうなると思います。幸田司教様は引退ですが、最近任命された司教様方は皆、高齢ですね。それよりも、これから自分の人生をあとゆっくり、今まで与えられていた役割を果たして、あとは死ぬだけだと思っていたときに、突然、青天の霹靂のように重責を負わされることになります。
 これは、この間任命された司教様方ばかりでなく、わたしたちの人生の中にもそのような出来事は起こりうるものです。その時々にわたしたちがどう応えるのか。今まで生きてきた常識にとらわれるならば、神がなさろうとするこの非常識的なことを受け入れることは出来ない。あるいは、ただそれを傍観しようとする。受け身的な態度を取ってしまいがちですが。しかし、今日のザカリアの態度が示していることは、ザカリア自身もわたしたちと同じと思われますが、この神の強い導きによって、自分をこうして働かれる神の業を深く受けとめる恵みをいただきました。
 わたしたちも、いつどんなときにも、何があろうとも常に神はわたしたちの自立性を見守る、
そして導いてくださっている。ですから、わたしたちの予想を超えた出来事は起こっても、 そこに神様の何らかの意図がある。その人生の意味をわたしたちは見出していくように求められていると思います。わたしたちがとるべきは、人生にどういう意味があるのかと、神様に問うのではなくて、神はこの出来事をとおして、わたしたちにどういう人生の意味を見出すよう求めておられるか。それをわたしたちは、そのように求めるべきではないかと考えています。』

2018年6月17日日曜日

年間第11主日 

私たちの心の中に蒔かれた”みことば”の種は、神様が育ててくださいます。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『マルコの福音によるとイエスの宣教はガリラヤから始まっています。
「時は満ち、神の国は近づいた。だから、悔い改めて福音を信じなさい」と言われて、ガリラヤ湖畔に弟子たちを招き、やがて12人の弟子たちと共にガリラヤ地方を巡回して、会堂を中心に宣教する姿が聖書に描かれます。マルコの福音の第1章は既にそのようなイエスの姿が現れています。
イエスの語る話は、これまで聞いたことのない教えであり、人々は驚き、イエスのもとに集まります。そして、神の教えだけではなく病気の人を癒すことでも、イエスの業を見た人々を感動させ、神を賛美する様子を聖書は語っています。イエスの話、ことばはきっとやさしく、心の中にも響く平和なひと時をもたらしていたのではなかったでしょうか。

今日のみ言葉は、神の国を「種をまく人」のたとえで語られるイエスの姿が語られています。そして、種を蒔く人は「神のことば」を種として蒔くのだと話しています。「神のことば」を種として蒔く、それが神の国の話に深くつながっています。当時の人々も神の国に関心を持っていたのだと思います。そして現代に生きる私たちも決して神の国について無関心ではありません。
マルコだけが語るこのたとえ話では、蒔かれた種、神のことばは聞く人の心に入り、根付いて、そして成長します。
この蒔かれた種の話は、とても印象深い記述で展開しています。
蒔かれた種は、特に世話をしなくても人が寝ている間に芽を出して育っていくという表現がされています。肥料や水をやったりしないで、どうして育っていくのか、それを人は知らないと聖書ははっきり述べています。人手によらず実を結び、それはやがて豊かな収穫の時を迎える。それが神の国である。まさに神秘的な話です。私たちが手を下さなくても神の国は訪れると。
蒔かれた種、すなわちみ言葉は、いっぺんに成長するのでないとも話されています。人が気付かないうちに芽を出し、茎が伸び、葉を開き花が咲き、やがて実を結ぶというように段階的に成長していくと述べられます。
種が実り成長を遂げると、収穫の時が訪れますが、その収穫の時というのは、この世の終わりの時でもあるかのような暗示が語られています。

イエスは、今その時が近づいていると話されています。今私たちは2000年の時を経て、聖書の話として耳を傾けていますけれど、直接イエスのことばで語られるならば、どんな心境になるのでしょうか。聞いている人たちは真剣にならざるを得ないでしょう。見過ごすことのできない話として、自分自身のこととして、なおざりにはできない話だ思うのは当然のことではないでしょうか。
続いて話された「からし種」のたとえでは、小さく目に見えないような種であっても、やがて鳥が宿るような大きな枝を張り成長する。イスラエル、ユダヤの国では、3メートル程にも成長するそうです。そういう「からし種」のたとえは、神の国は一つの共同体であるかのようにして話されます。
神に支配される霊的な共同体は、世の終わりには神の支配が世に行き渡るようになる。完成に至る。このような話になっています。

神の国、私たち一人一人はどのように神の国を考えるでしょうか?
時々、神の国の話をすると、どうしても死後の世界にある「天国」というイメージで捉えることがよくあります。神の国は死後の世界、天の国ある。でもよくよく考えてみると、それは狭い偏った天国のイメージに過ぎません。何故なら、イエスがこの世に来られた使命と目的は、神の国を実現するためであるからです。また、神の国は、私たちがこの世で進歩させ、発展させ努力して造り出すこの世の平和な場所、ということでもないということです。「神の国」は、私たちが造り出す世界ではなく、神の支配がおよぶ国といってもいいかもしれません。ですから、神の世界が完成されるように、私たちは今もその努力を続けて神の国の実現のために、協力して働かなければなりません。

イエスの話に耳を傾ける人々は、ふと、神に選ばれた先祖の人たちの信仰を思い浮かべたかもしれません。過去を振り返ると神のことばを信じ約束された国に向かって旅するイスラエルの民でした。でも困難が生じると、神の教えを破って自分たちの立場を優先し、自分たちの判断に従って進もうとした時に、不平不満による分裂が広がっていきました。自分たちが中心になったり、自分の力に過信したりすると、神の国はどんどんと遠ざかっていくかのようです。
神がいつも近くにおられることを忘れてはならない。当時、耳を傾けた人たちもまた、先祖の信仰を思い起こして心にそう感じたことだと思います。イエスはこの地上に神の国をもたらすために来られたのです。そのことを私たちも今一度、心にしっかりと留めておかなければなりません。

神の国、神のみ言葉は、それを聞く人の心の中で育っていきます。神が育ててくださっています。私たちの心の中に蒔かれた種も同様です。
自分が育てるのではなくて、神が育ててくださることを信じるならば、み言葉の種まきにも、私たちは惜しみなく、協力することが出来るのではないでしょうか。神のみ言葉を種として私たちが成長するとき、神のみ言葉、その種は人々の心の中で、神が育てていきます。そのように考えるなら、私たちはもっと惜しみなく、み言葉の宣教に当たれるような気がします。自分の責任だけを強く感じてみ言葉の種まきをするならば、やがて壁にぶち当たるかもしれません。もしかすると傲慢な形で、人との関係を作っていくのかもしれません。神に信頼して種蒔きをすることが、何より大切なことのようです。

今日のみ言葉を黙想しながら、旧約聖書のイザヤ書にも同じような内容が触れられていることが思い出されます。イザヤ書55章の中に、このような記述がありました。
「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」
このようなイザヤ書のことばがあります。「わたしが与えた使命を必ず果たす」
み言葉の種まきによって、神の国は完成に近づいていくのだ。このように旧約のみ言葉の中にありました。

神の国の完成のために共に祈りつつ、私たちは今日もまた主の祭壇に近づきたいと思います。』

2018年6月11日月曜日

年間第10主日

今日の福音をとおして、教会共同体とは何か?ということを黙想してみましょう。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『私の目の前にも、私の母、兄弟、姉妹…こういう宣言が素直でいつでも出来れたら良いなと思います。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また、母なのだ。私たち教会共同体がこの言葉を常に胸にひめて、私たちの共同体での交わりも大切に出来たら、どんなに素晴らしいことかと考えてしまいます。

  私は今日のみ言葉を少し緊張感を持って耳を傾けています。イエスの熱心さは何かにとりつかれているように、人の目からは異常に見られていたのでしょうか。良く芸能人や人気のスターを追いかける人を「追っかけ」と呼んでいますが、イエスを追っかける人々も異常なほど大勢いたようです。食事をする暇もなかったといいますから、イエスの働きぶりはいかほどであったか、そう考えさせられます。そして、イエスの親類、身内のものが、イエスに対する律法学者たちからの非難や中傷を聞くと、心配のあまり連れ戻すために引き取りに来たと聖書のみ言葉は語っています。
  イエスは何故、皆さんから驚きの目をもって見られているのでしょうか。異常であると見られるほどの働きの理由は、いったいどんなものだったでしょうか。私たちはみ言葉の奥深く、心を込めて入っていかなければイエスの真の姿は見えてこないかもしれません。その働きの理由は汚れた霊にとりつかれた病気からの解放、癒し、救いでした。闇から光へと目を開き、サタンの支配から信仰に立ち帰させるために、イエスは救いを求める人に奇跡を行っていたようです。でもイエスのこの熱狂的とさえ言えるような働き、身を捧げる働きに、人々は尋常ではない姿を見ていたようです。救いのために身を粉にして働くイエスは彼への忠告も聞かず、そのイエスの行動を止める者はいなかったようです。そのために最後の最後、イエスの母と兄弟が説得に来たと聖書は語ります。イエスの母、イエスの兄弟、彼らの住まいはナザレでしたから、ナザレから50キロメートル。私たちは50キロメートルをどのように考えるでしょうか。50キロメートル離れたところから自分の身内であるイエスを連れ戻すためにやってくる。一人二人ではないのです。身内の者、親類の者、イエスの母もという表現がとられています。ナザレから50キロメートル離れたカテナウムという町までこぞって身内、親類はイエスを連れ戻すために、身内も親類も真剣であったということが、み言葉から受けとめられます。

 そういうみ言葉から見えてくるイエスの働く姿を黙想していると、神のために仕えられるためではなく、仕えるために、そして自分の命を与えるために奉仕しているイエスの姿は浮かびあがってきます。イエスの人々に対する憐れみの心の深さも強さも感じられます。ヨハネの福音の中でも語っていますが、イエスのこの熱心な働きの姿。ヨハネの福音では、盲人を癒したときの言葉ですが、このような表現がありました。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。」(ヨハネ福音9:4 )こういう言葉がありますが、イエスの働く使命というものが伺えます。イエスのこうした働きの姿は、後に弟子たちの姿にも見られます。福音のために奉仕したパウロも周囲の人々から気が狂ったと思われたと言われています。パウロもまたイエスのために身を粉にして働かれたと聖書の他の箇所で見られます。恵まれた生活、健康と体力をいただいて神に働く。尊い働きですが、今、自分に当てはめて省みずにはいられません。私は、そして私たちは恵まれた身体、生活をいただいていながらどのくらい真剣に神のために奉仕できているのでしょうか。
 一方、わざわざエルサレムからやって来たと表現されている律法学者たちは、この機会をとらえてイエスの力ある働きを見つめながらも、イエスの働きが悪霊によるものだと非難します。
イエスがとにかく気になってしょうがない律法学者、ファリサイ派の人たち。このイエスの働きに対して悪霊によってそうしている。それは神を冒涜する行為なのだ。こういう非難をし始めます。でもイエスはすぐに反論して明白に彼らに答えました。「どんな罪も赦されるが聖霊に逆らう罪は永遠に赦されない。」どんな罪も赦される、イエスはこう話されました。今日の第一朗読。天地創造によって神の似姿に造られた人間が、原罪という罪を犯す箇所が語られます。蛇はサタンの誘惑、悪の誘いだったと思います。でも、その罪も赦されるということをイエスは語られます。そのことを心に留めると、本当に希望が沸いてきます。私たちもたくさん過ちを犯し続けます。でも赦される。その一言は私たちに大きな希望をもたらすものだと思います。
 でも、聖霊に逆らう罪は永遠に赦されない。聖霊に逆らう罪、何故でしょうか。何故、聖霊に対する罪は赦されないと言われるのでしょうか。聖霊の働き、役割についてもう一度思いおこさなければなりません。聖霊は私たちに信仰を語らせます。聖霊の力は私たちを神に向かわせます。その神に向かわさせる聖霊への働きを冒涜する罪は、赦されないとイエスは警告しています。が犯す罪はすべて赦される。この言葉だけ心に留めると本当に私たちはホッとしますが、甘えてばかりはいられないでしょう。軽く考えてもいけないと思います。もっと真剣に神様に向かっていくことが何より大切だと思います。

 洗礼によって神の子となり、神の家族の一員となった私たちにとって、忘れてはならない言葉が最後にありました。「神の御心を行う人こそ私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」この言葉はまさに私たちが良く言葉に発している「教会共同体」をも指し示す、そういう言葉だと思います。家族の絆はだれにとっても大切、大事なことですが、霊的家族において、その絆は信仰において結ばれますし、内面的な関係を持っているものです。それは天において消すことの出来ない神との永遠的な関係であることを示しています。
  神の御心を行う人こそ私たちの教会共同体の一人、私たちも神の家族の一人である。これは消すことの出来ない永遠のものである。私たちはとかく好き嫌いがあって、なかなか何かうまく話せない人も周りにたくさんいると思います。神の恵みによって導きによって、神の家族の一員であることをもっともっと自覚して、互いに支え合うこと、愛し合うことも大切なものとして、行っていかなければいけないと思います。

 イエスは今日も私たちを神へ導き招きます。今日いただく恵みをからだいっぱいに頂いて、
新しい一歩を踏み出すことが出来るように祈り続けましょう。』


2018年6月3日日曜日

キリストの聖体

私たちの教会が、”キリストのからだ”に救われて、お互いに一致して共に歩んでいく共同体でありますように。

今日のミサは、佐藤謙一神父様の主司式で行われました。


佐藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は「キリストの聖体」の祭日です。季節は年間に入っておりますが、復活節の余韻を残しながら、今日の祭日を祝います。
この”聖体の祭日”というのは、皆さんご存知のように今日の祭日の他にも、キリストの聖体を制定したことを記念するお祝いがあります。それは、聖なる過ぎ越しの3日間の最初の日に当たる聖木曜日「主の晩餐の夕べのミサ」の中で祝われます。
「主の晩餐の夕べのミサ」の中では、聖体の制定を祝うばかりではなく、イエスの受難、死、復活という出来事を忠実に祝おうとしています。もちろん今日のミサの中でも、同じようにイエスの受難、死、復活、昇天を記念する、ということは行います。
感謝の祭儀の中で、「信仰の神秘、主の死を思い復活をたたえよう、主が来られるまで」というように私たちは唱えます。イエスは私たちの罪を背負い死に渡され、私たちが義とされるために復活されたのだという信仰宣言です。それを私たちはミサの度にとなえます。

今日のミサでは、聖なる過ぎ越しの3日間の聖木曜日「主の晩餐の夕べのミサ」の中から、改めてキリストの聖体について私たちは祝おうとしています。聖なる過ぎ越しの3日間というのは、復活徹夜祭に至るまで、洗礼、堅信、聖体、ゆるしの秘跡というものが行われます。北一条教会でも多くの人が洗礼を受けたと思います。
この3つの秘跡というのは、キリスト者になるための秘跡ということです。洗礼を受けてキリスト者となり、そしてキリストのからだを受けてキリストに結ばれ、共にキリストのからだを受ける他のキリスト者、私たちの共同体と一致するという、そのような秘跡です。

聖体の秘跡というものは、新たにキリスト者となったことを完成させる秘跡であり、洗礼や堅信を受けるだけでは完成ではありません。聖体の秘跡を受けてそれでキリスト者として完成するのだということです。特に成人の入信式は、復活徹夜祭で洗礼と堅信を受けて、聖体をいただき、その時点でキリスト者としての完成になるのです。これら3つの秘跡の違いは、洗礼と堅信は一度きりですが、聖体の秘跡は何度も受けます。それはこの世で生きている中で、私たちがいつもキリストに強められて歩んでいくことが出来るようにという意味があります。私たちはこの秘跡をいつも受けることができます。日々キリスト者としての信仰を生き続ける私たちは、この秘跡に与る恵みというものをいつも与えられているというように考えることが出来ます。
この聖体の秘跡は、私たちの権利でもありますし、同時にキリスト者としての使命を果たす義務を与える秘跡でもあるということを心に留めておいていただきたいと思います。

イエスが亡くなった後の、最初の使徒たちの共同体というものは、イエスのことばに従って、信者の家に集まって、そしてパンを割いて共に食べ、葡萄酒を杯から飲み、イエスの死を多くの人に告げ知らせるということをしていました。この聖体の秘跡というものが、この二千年後の今でも続けられているということです。
今日の福音書の終わりに、「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」とのイエスの言葉があります。イエスご自身は、世の終わりに神の国が完成されるときに、亡くなられた全ての人たちと共に、そして私たちと共に、再び救い主イエス・キリストの食卓につくのだということです。その時まで私たちは、ミサの度ごとにイエスの死と復活、昇天を記念し、ご聖体をいただき、イエスの再臨を待ち望むということです。

最近、私はいろいろな教会に行っているのですが、先週は北見教会に行ってまいりました。北見教会でも同じように感謝の祭儀、ミサ聖祭というものが行われています。帯広の教会にも行きましたが、各地の教会によってやはり雰囲気が違います。教区の神父様がいる教会とフランシスコ会の神父様が司牧している教会では違いが感じられます。
この北一条教会でミサをする時いつも感じることは、やはり模範となる教会であるなあという感じがします。ミサ曲の歌い方にしても朗読の仕方にしても、皆さんは全道の教会の模範になるような教会であるように思います。今後も模範となる教会となっていけばいいなと思っています。

主の晩餐を行うということ、それは私たちがミサの中で、イエス・キリストがただ一度きり行われた受難、十字架上の死、そして復活というものを、何回も毎週毎週記念しているということです。私たちがキリストのからだに救われて、そして互いに一致して、歩んでいく、そういう共同体でありたいと思います。キリストのからだを柱とした教会の中で、私たちはそれぞれ様々な役割を持ちながら互いに協力しつつ、一つづつからだを構成している共同体です。そしてイエスが死者の中から復活して栄光のからだとなったように、私たちも死者の中から復活して、主の栄光の姿にあやかるということになります。これまでに教会共同体の中で亡くなられた方々とともに、私たちもいつかキリストが来られる時に、同じ栄光のからだをもって、最終的に神の国の完成を私たちも共にするのだということです。
私たちの希望は、死が全ての終わりではないということです。死をとおして、そしてキリストと共に、神の国の完成を待ち望むのだということです。
これからいただくご聖体は、私たちの命の糧となるものです。この聖体の秘跡をとおして、私たちはキリスト者としての生き方を、死に至るまで深めていくことができるのだということを今日のミサの中で再確認していきたいと思います。
イエス・キリストの残してくださった聖体の神秘に感謝して、今日のミサを続けてまいりたいと思います。』