2015年3月29日日曜日

受難の主日(枝の主日)

今日から聖週間に入ります。
イエスのエルサレム入城を記念し、神父様に祝福を受けた棕櫚の葉を手に、枝の行列が聖堂へと歩みました。



ミサでは、「マルコによる主イエス・キリストの受難」が朗読されました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『四世紀から続いているこの「枝の行列」は、オリーブ山からエルサレムの町の中心部まで、歌いながら行列したと伝えられています。そして、その800年後にはローマで行列が行われるようになっていったと伝えられています。
中世以降は、枝には災いから守られるという不思議な力があるという民間信仰も生まれていったようです。
教皇庁の典礼秘跡庁は、キリストとその過ぎ越しの勝利への信仰の証として、信者が枝を家に持ち帰り保管するように勧めていました。今日の家庭ではまさに、典礼秘跡庁のその勧めが生きています。そして、民間信仰の中に生まれた枝に対する不思議な力は、信者が枝を大切に飾って、家族の安全を願うということにつながっているようです。
今、私たちが枝の行列の中で歌った賛歌は、821年にオルレアンの司教様が作られたと聞いています。
今年はB年で、マルコによる主イエス・キリストの受難が朗読されました。マルコが伝える受難の物語のイエスは力ある方ではなく、一見無力で苦しむただの人に見える姿を私たちに伝えています。そして、その極限において十字架上で叫ぶ「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、この言葉は人によっては、弱々しいイエスの姿を考えさせるものなのかもしれません。しかし、イエスの叫んだこの言葉は、旧約聖書の詩篇にうたわれている言葉でもあります。そして末尾の言葉も深い印象を私たちに与えてくれます。
「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、告げ知らせるでしょう。」
このように救い主を語る言葉で詩篇はうたわれています。ですから信仰を持ってその言葉を受け止める人と、信仰をなくしてその言葉を味わう人では、ずい分違ったイエスの印象につながっていくのだと思います。
人々の手に渡されて殺されるイエス、十字架の死という姿を示したイエスのどこにそんな救いの力が、神の力があったのだろうか? 時に、そんなことを考えてしまいます。
救いを期待した人々でさえ挫折してしまう、それほど当時の社会は、混乱や貧しさ、苦しみの中にあったということだと思います。
マルコはその時のことを伝え、ローマ軍の100人隊長の言葉を表しました。
「本当に、この人は神の子だった。」
この元々クリスチャンを迫害する兵士たちが、キリストに出会い、キリストの言葉を耳にし、触れて、「本当に、この人は神の子だった。」と信仰宣言をするまでに至ります。100人隊長が漏らしたその言葉は、苦しみの中にあっても、弱々しい叫び声であったとしても、そのイエスだけが、大きな力を持って、その人の心に迫ったという現われであったと思います。イエスを見て、信じるということが、一人一人の生き方をどんなに変えていくものかということが、この100人隊長の姿をとおして黙想すると、私たちもそれを感じることができると思います。
今、私たちは2000年前にエルサレムで起こった出来事を記念して、枝を手にし行列をつくって、賛美しながらお御堂に入ってきました。
皆さん一人一人が、枝を手にして、心の中では、何を感じ、行列の歩みをしていたでしょうか?
当時の群衆のホザンナという声にあわせて、自分もその中に入って行列をしたでしょうか?
心の目で見ようとしなければ、感じようとしなければ、心の目はイエスを見ることも、感じることもできないような気がしています。
イエスの受難を見つめながら、信仰を生きる私たちにとって、何が大切でしょうか?
私たちはどこまで、イエスとつながっていると言えるでしょうか?
イエスが人々の救いとなった、罪の重荷を担ったその思いを、担いあうことが私たちには出来ているでしょうか?
それを問い続けることが、私たちの信仰かもしれません。
それが今、私たちが求められている信仰だと言えると思います。』

2015年3月22日日曜日

四旬節第5主日

四旬節も残り僅かとなりました。来週は受難の主日を迎えます。
受難の道へと歩み始められたイエスの姿をとおして、わたしたち自身の日常の思い・行いについて黙想してみましょう。


ミサの中で洗礼志願者のためのお祈りが行われました。お二人の方が洗礼を迎えられる予定です。


ミサの後、後藤神父様の講話により黙想会が行われました。
「罪と回心」について黙想を行いました。
講話の内容は、また改めてご紹介する予定です。


今日の後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

『今日私たちが聞いた御言葉は、イエスがご自分の受難と死をはっきりと自覚した時に話されていたことが告げられました。
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』」この一言が、私はとても印象的に感じています。そして、その言葉を黙想していると胸が強く打たれるような気がします。イエスのこの言葉は、苦しい時も共に歩んできた弟子たちやその仲間たち、愛する友や兄弟たちへの別れがたい思いを感じて話されたように思えます。その背景には、イエスの限りない優しさ、弟子たちに対する溢れる思いが奥に見えるような気がします。でもその思いを超えて、イエスは御父から授かった自分の命について語っています。それは死をとおして生きる命の話です。イエスの話される命は、形を変えこの世に留まる命ではなく、新しい命に変容する永遠の命を表しています。そしてイエスは一粒の麦の話をされています。
麦の種がこの地上の土の中に落ちる。そこに死というものがある。土の中に落ちて時間が経つと朽ちていきます。種そのものの命はそこで終わりを遂げるかのようですけれども、そこから生まれる豊かな実りの命について、イエスは私たちに語ります。
聖書の言葉では、一粒の麦の命が地上に落ちて自分の存在を託す、そしてそれは自分を否定することも表しているかのようです。そして、その御言葉を黙想すると、イエスの受難と十字架の死につながっていくようです。人々から踏みつけられるイエスの命、受難の道は侮辱され、傷付けられるままに歩み続けなければならない道でした。それはまさにイエスの死とこの一粒の麦の命に重なってきます。
私には死を前にして、果たして自分はどんな心境になろうかと考えるときがあります。死を前にしても自分はきっと、欲望や根強い執着が消えないだろうなと、そのなことを考えます。生きたい、幸せになりたいという気持ちはきっと、死ぬ瞬間まで自分の内からは消えそうも無いと、考えてしまいます。それは誰しもが持つ本能的な感情かもしれません。でもイエスの死は、私たちの死とは少し違うものと考えられます。その命さえ否定しようとするイエスがそこにいます。
イエスはこう話されます。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」
人間としての幸せ、そして喜びが、どんなにしても私たちから離れない、イエスはそれを振り払って、それを捨てて十字架に上られた。
自分はそんなイエスの思いになれるだろうか?自分は執着や欲望や幸せの願望、一日でも長く生きていたいという願望を捨てきれるだろうか?
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』」この言葉の中には、神の子イエス・キリストと同時に、人間であるイエス・キリストの感情のようなものも私は感じます。イエスも私たちと同じように悩み苦しみがある、神の子としてその命を差し出す、それは自分に与えられた使命を生きるということでもありました。天の御父の御旨に従って、十字架の死という自己否定の道を歩まれた、それがイエスです。それによって復活の勝利、永遠の命、栄光の姿を私たちに示そうとします。イエスのこの指し示す復活の命、栄光の姿を見て、私たちはひたすら自分の思いを超えて、イエスにつながろうとしていきます。
四旬節の道のりも僅かとなってきています。来週は受難の道に向かう「枝の主日」を迎えようとしています。この四旬節では、私たち一人一人の信仰を見つめ直し、積もり積もった心の汚れを清めることが大切です。そのためには、悔い改めること、強い回心が必要であると教会は呼びかけます。』

黙想会での後藤神父様の講話をご紹介します。
『ミサで祈り、十字架の道行きで祈り、今また主の祈りで、祈りが続きました。説教
の中で詩を紹介しましたが、 短い詩を読み、少しリラックスしてもらおうかなと思
います。手許に少し詩を用意しましたが、一つの詩は「主の日」、主日というテーマ
がついている詩です。
「あなたの日である今日の一日 永遠のいのちの言葉を聴くため 主よ御許にとどま
ります
 むなしいちまたの騒音に 疲れた頭を休めるために 祈りと聖歌を口ずさみ 私は
御許にと どまります いのちの源である父よ 御国の澄んだ空間を 自由自在に駆
け巡ります
 そのとき私は 新たな力に満ち 心は喜びに溢れるでしょう」
 日曜日、まさに今日の日を詠った詩ですが、皆さんはこの詩のうたにあるように、
永遠のいのちのことばを聴くためにこの教会に足を運ばれたはずです。永遠のいのち
の言葉、どの言葉が今、心にとどまっているでしょうか。ミサの中で祈りの言葉、神
の言葉、聖書の言葉、たくさん聴いていましたが、どんな言葉が心の中に届いたので
しょうか。そしてとどまっているのでしょうか。もしかしたら、私たちは教会に主の
言葉を聴くためにではなく、別な用事で来たかもしれません。どなたかと約束をして
その話をするため、そういう人がいるかもしれません。本来、私たちの教会の日曜日
の集まりは、主の日のみ言葉を聴くために来るということをもう一度、大切にされな
ければならないでしょう。もちろん神様の言葉を聴きながら、神と親しく交わり、神
様と同じくらい大切な私たち教会共同体の隣人の交わりも大事にされなければならな
いと思います。私は時々、神様への交わりは熱心だけれども周りの人や社会に対して
あまりわたしたちは熱心さをもっていないのではないでしょうか。それは、自分自身
に対しても言っていることです。教会のため、神様のためなら比較的自由に時間もさ
さげられるはずなのに、ほかのことなら少しなまけぐせが出たり、非協力的態度に
なってしまったりすることが良くあるような気がします。私たちの信仰はそういう意
味で神様と、そして神の民である私たちの隣人、社会、共同体、この被造の世界すべ
てを大切にするということが、前提になているはずですが、どちらかというと間違っ
たせまい考え方で、教会は大切にするけれども、社会はそれほど深く考えないことも
良くあるような気がします。神の目から見れば、私たちの教会だけでなくて、私たち
の住む教会そのものが、神様から贈られたもの、その意味ではけっしてないがしろに
は出来ないはずですが、どうかすると教会だけ、信者さんたちだけ、大切にしなけれ
ばならないと言い聞かせて、自分たちは社会での歩みを続けているような気がしま
す。こういうことからも、自分たちの生き方、考え方を考えていけば、神様の前で頭
を下げなければならないことがたくさんあるような気がします。
 私たちのこの四旬節。神との和解、罪は赦されて清められて、神ともう一度ひとつ
になって、新しい出発をするということが四旬節の大きな、大きなテーマになってい
ると思いますが、そのことを少しみんなで考え、私たちの心の中にある気づかない間
違え、罪というものを少し自分なりに見つめて、そこから新しい出発ができればと考
えています。
 この黙想会を作る企画は信者さんや役員の話し合いの中で出て来ていました。私た
ちのこの北一条教会の中でかつては共同回心式が行われていたけれども、様々な事情
があって、理由があって、うまく進められなくなっているという状況があると聞いた
ことがあります。皆さんの意識、そして協力ということが必要なときに、なかなかひ
とつになれなかったということが原因だったと思います。私は、今回、この黙想会の
準備のために昔のファイルを引っ張り出してパラパラとめくっていましたら、かつて
私が札幌にいたときの資料もその中にありました。ゆるしの秘跡のときに各教会に
行ったときの資料も入っていたのですが、北一条教会の共同回心式に手伝いにいった
ときのメモも入っていました。ですから、かつて北一条教会の共同回心式には私も手
伝いにいっていたんだと感じました。つい最近までは続けられたことが、この1年ほ
どは回心式として出来なかったことが、今回の黙想会は罪について、ゆるしについ
て、もう一度学ぶ機会があって、共同回心式に繋がっていけばと、私の思いにはあり
ました。ですから、10日ほど前になりますか、先々週の金曜日、司教様の司式によ
る、教皇様のよびかけによる24時間の聖なる時間、この北一条教会でも午後の2時
間、そうした時間を持ちました。札幌地区からたくさんの信者さんが集まりました。
日曜日のミサのときと同じように一杯になる人が集まった聖なる時間。そのときも、
赦しの秘跡も授けるようなプログラムを作っていました。うかがったところ、スター
トのときには司祭の数が足りなくて、参加したひとがみんな受けるのでしたら大変か
なと思いましたが、最終的には6人の司教、神父さん方が告解を聴いてくださること
になって、予定どおり進められ、ミサに入っていきました。この中にはそのときに赦
しの秘跡を頂いた方もおられる思います。赦しの秘跡は受けたいときはいつでも受け
られます。個人的に司祭の赦しの秘跡を受けたいときはお申し出ください。共同回心
式が定着していくと、個人の赦しの秘跡が大切にされなくなったと思うような現象が
見られました。司祭同士の間でも話題にされます。でも昔からの赦しの秘跡はいつで
も必要なときに受けられる、受けるということが大切なこと。時々、共同回心式がな
いと赦しの秘跡が受けられないと誤解されている人もいます。赦しの秘跡はもし大き
な過ちを犯したらなら、赦しの秘跡を受けたいと思ったら、いつでもできるだけすみ
やかにその心を清める、出来るだけ早いほうが良いのです。日曜日を待つ必要はない
のです。自分に都合の良い時間があるのなら、そして神父さんがそれを受け入れてく
れるなら、平日でも可能なことです。赦しの秘跡は信者にとって大切なことであり、
司祭はできるだけ時間をとって、時間の都合ですぐに出来ない場合もありますが、大
切にしています。

 さて、赦しの秘跡、罪と言うことを皆さんといっしょに考えていきたいと思いま
す。時々、私は罪や赦しの秘跡を考えると、告白するような罪は無いですよね、とい
う人がいます。とっても幸いだなと思う反面、本当かなと思うときもあります。もち
ろん私たちは一人ひとりの良心や信仰に照らして、自分の罪を考えますので、その人
の自覚ということがとても大事である。ですから罪についていろいろ説明がありま
す。いろんな本で、いろいろな形で説明があるのですが、ひとつ、ふたつテキストみ
たいに説明してみたいとおもいます。
 ある本は「罪とは何か」というところにこのように説明しています。皆さん、これ
を聴いて何がそこで大切なのか考えて聴いてほしいと思います。ひとつの説明はこう
いう説明です。「罪とは何か。神の法律、人となった法律である、キリストに対立す
るものに罪がある。」キリストに対立する、逆らうと言うことだが、そこに罪がある
のだ。キリスト、神に置き換えても良いと思う。罪は考えなれないほどの凄い行いで
あり、罪について錯覚、小心、誤解とかいう言い分は成立しない。では罪とは一体何
であろうか。罪とは自由意志が認識し、知りながら民の法律をおかす行いである。神
と対立する、キリストと対立すること。自由意志が認識し、知りながら、この条件が
備わるとき罪が成り立つ。ですから、この条件が欠けるなら、罪は成り立たないとい
うことになります。でも、一人一人の信仰の中で、ある人には罪と感じなくても、そ
の人の信仰において、神様に対する信仰の度合いにおいて、私は間違いをおかした、
そむいてしまったという、そういう罪意識は生じるものです。ですから、霊的に深い
信仰を生きた聖人の中に、小さな小さな行いも神様にお詫びすべき、自分の過ちであ
るという、告解をささげた聖人はたくさんいます。罪は人と比較して、比べて考える
もの、自分の心の中で、自分の信仰に照らし、自分の自由意志に照らして神と自分と
の関係はどうであったのか、基本になろうかと思います。同じ事をしてもある人は
まったく悪さを感じないけれど、ある人はとっても申し訳ないことをしたという違い
は、私たちのあいだにもいくつも考えられることだと思います。
人に対して云々、人を裁くなと良く言われますが、まさにそういうことではないで
しょうか。
 弱さや無知というもは罪ではなく欠点である、ということもこのテキストの中には
出て来ています。弱さや無知を私たちはどこかで罪といっしょに考えてしまう場合が
あります。それはその人の弱さであって、間違いであって、それも罪と考えられるこ
とがたくさんあるような気がします。でも私たちは「それは罪はありませんよ」と言
うのではなくて、その人が心から神様の前で自分の心を清めようとしているならば、
その小さな小さな至らない欠点であっても、神様は赦してくださって、新しいちから
を与えてくださる、これも赦しの秘跡になっていると思います。
 今、説明した中で強調されていたのは自由意志ということでした。人間のもってい
る自由ということでした。罪が成り立つには、その私たちの自由というものが大切に
なっている。よくよく考えてみたら、天地創造を伝えて神様が人間をお作りになった
ときに、自由を与えた。アダムとエヴァはその自由を使って罪を犯してしまったこと
が、原罪というものになっていることを思い出すと思います。神様のことよりも自分
のことを中心にしてそれを選びとったがゆえに、原罪というものがそこに起こって
いった。そこでもやはり人間の作った自由を尊重したけれども、その自由を間違った
がために原罪というものがおこったことが、聖書の世界にあるわけです。

 もうひとつ、罪を説明しているテキストのほうに入ってみます。これは赦しの秘
跡、和解の秘跡を説明したテキストの中に説明されている罪についてです。ここでは
こういう表現がとられています。「罪とは自己に固執して偏って意識的に、神と人々
との愛を拒否することである。」ここでも意識的にとは、自分の自由によってと置き
換えられます。私たちがある重要な事柄に関して、それが悪いことであるとはっきり
知りつつ、自由意志を持って、自分の良心に背き、神と自分、自分と他の人々とを結
ぶ愛の絆をまったく断ち切ってしまうならば、神の子の資格を失い神を離れ、また兄
弟からも離れてしまう。罪とは、そういうことである。これも私たちに大切なことを
築かさせてくださる。やはりここでも悪いこと、はっきり分かっていて、自分の自由
なる意志を持って、それに逆らうこと、反対すること。ある時には自分の良心の進め
に対しても背くことも罪になると触れています。それは神と自分との関係を壊すこ
と。また、自分とほかの人々との愛の関係をこわすこと。このように罪を表現してい
ます。その体系にはわたしたちが創造物として神に似せて作られたものとして、愛を
基本によりいのちをいただいています。愛に生きる責任を負っていますが、その愛に
そむくことを罪と言っていると考えられます。愛を失うことによって、人間同士の絆
もまた少しずつくずれていく、そういう罪になる。罪はどちらかというと神と私の関
係でしょという人もいますが、神様とわたしは周りにいる多くの
人々、園児共同体、家族との繋がりにも及ぶんだと言うことが良く言われています。
信仰も神様と私の関係ですとの関係だけではない。そこにとどまることはなくて、神
と自分と周りにいる教会共同体との繋がり、社会との繋がりも持っていることを忘れ
てはならないと思います。
 ですから、私たちは共同回心式をするときに、私も言うことがありますが、その共
同回心式が終わったときに、おめでとうございますと言ってましたが、罪が赦されて
新しい出発に入っていくんだから。あまり理解出来ない人は何がおめでたい…。他の
神父さんもいっしょに皆さんを力づけて「さあ、行きましょう」と。罪の赦しを受け
ることは、片寄ったものを修正し、しこみも全部くずしてもらって、新しい出発とい
う、私たちにはもう一度新しいいのちをとりもどすものに繋がっていると思います。
みんながそのような喜びを得られるわけではありませんが。ゆっくり、じっくりその
よろこびを味わうこと人もいると思います。
 赦しの秘跡の中で、罪をどのように自分の中に見いだして、心を見せて悔い改めて
新しい出発をしようか、これが大事です。今日、説教の中で使った小学校3年生の女
の子の身近な身近な詩の中に、悔い改める心もきっと皆さんに伝わったと思います。
その子が犯してしまった過ちは、最初に感じたことは自分の罪ばかりではなくて、
いっしょに、もしかしたらその子がさそったのかも知れない、誘われたのかもしれな
い、詩だけでは分からない。しかし、少なくても二人で過ちを犯したという詩でし
た。女の子は学年が少し年上だから、年下の子ということで罪意識につながって、申
し訳ないという気持ちが芽生えたのだと思います。そして、さらにそのことは、分
かって、分かって知られて学校の先生に注意されたのでしょうか。先生から両親に連
絡がいったでしょうか。そのことを知ったお母さんが、本当に苦しみ悩み涙を流しま
した。きっと、お母さんはその子が、そんな過ちを犯すと思ってもいなかったでしょ
う。大事に育ててそんな悪さをするなんて、考えも及ばなかったでしょう。その子が
犯してしまった罪を自分自身の心の中で、溢れてきた涙の苦しみ悲しみが彼女に伝
わって、お母さんをどんなに苦しめてしまったか、自分と神様との関係だけでなく
て、周りの人との繋がりもこんなに傷つけてしまう、悔い改め回心するという、詩の
内容が私たちにも理解出来たのでは思います。

 皆さんはかつて、罪を究明するときに、十戒を思い出す人がいっぱいおられたので
はないでしょうか。天使の十戒というものがありました。今、天使の十戒を思い浮か
べて自分の罪を告解する方はどのくらいおられるでしょうか。少なくなったような気
がするんです。わたし自身もそういう思いを十戒に向けられませんね、良心を究明す
るときに。この十戒は私たちにとって、教会にとって、大切な掟であると思います。
究明するためには「手軽」といいますか、究明する良い材料だと思います。
 今、改めて十の規則(戒め)を読んでみたいと思いますが、「我は汝の主なり、我
を唯一の天主として礼拝すべし、汝天使の名をみだりに呼ぶなかれ、汝安息日を聖と
すべきことを覚えゆべし、汝父母を敬うべし、汝殺すなかれ、汝姦淫するなかれ、汝
盗むなかれ、汝偽証するなかれ、汝人の妻を欲するなかれ、汝人の持ち物をみだりに
望むなかれ」これは1940年代に使われていた十戒です。今は口語訳になっていま
す。文語訳の方がピンと来る方が今日は多いように思えます。この一つ一つを究明す
るときに私たちは、自分のいたらなかったこと、罪というものを思い起こすときにと
ても良い十の戒めだと思います。
 同時に皆さんは教会の「おきて」を六つあったことを思い出しますか。うなずいて
おられる方もたくさんおられますが。かつては、六つの教会のおきてが示されていた
んです。しかし、第二バチカン公会議が進む中で五つのおきてに変わったことはあま
り覚えておられる方はいませんけれど。十戒と同じ内容を持っているのですが。

 教会の掟について思い起こしてみましょう。
 第一のおきて「主日と守るべき祝日にミサにあずかり、労働を休むこと。」天主の
十戒は聖書からきています。創世記や出エジプト記などから。モーセの石の板に刻み
込まれた跡だという話しがあります。教会の五つのおきては聖書からきたものではな
く、教会が定めた規定になっています。ですから第一のおきては、教会が信徒に向け
て信仰を守る上で大切なものを五つにまとめていますので、主日と守るべき祝日にミ
サにあずかり、労働を休むこと、となっています。このおきては、主の復活を記念す
る日、主たる祝祭日を聖とするように信者の求めています。日本の場合、守るべき祝
日はとても少なくなっていますが、日本から離れて外国にいくと守るべき主日がたく
さんあるのです。日本は主の御降誕と元旦、一月一日、元旦の神の母の二回だけ。で
すから、この日は教会法上は労働を休んでそのミサを大切にするというくらい厳しい
おきてになっているわけです。
 第二のおきては「少なくても年に一度、罪を告白すること。」こういうおきても示
されていますが、意識されて無い方も多いのでは。少なくても年に一度は罪を告白す
ることは信者の努めとして、教会は示しています。どうしてでしょう。何故、年に一
度なのでしょう。回心のわざと洗礼による赦しのわざを継続するこの赦しの秘跡を受
けることによって、罪を赦してもらうことによって、聖体に備えていくことが何より
も大事と、一人ひとりに呼びかけているのです。聖体をいただくときに、日曜日のミ
サの最初の祈りの時に、罪の告白、赦しの祈りをして、聖体に向かい祈りに続いてい
るのです。兄弟の皆さんに告白しますという祈りは、聖体に近づくものとしてミサの
最初に持ってきているのです。大きな罪ではないから心配することではないかもしれ
ませんが、もし大きな罪であればミサ前に個別告解をしてミサにあずかる方が大切な
場合があると思います。大きな罪はそんなにいつもあるわけではありませんので、ミ
サの最初の祈りで聖体に向かい、祈りが続くのだと思います。
  第一のおきて「主日と守るべき祝日にミサにあずかり、労働を休むこと。」は教会
法第1247条にでています。皆さんは教会法を見たこと、開いたことがないかもし
れません。10数年前に少し見直されて新教会法というふうになっています。機会が
あれば読んで見てください。良い勉強にもなります。信徒の努めもふれていますし、
秘跡やカテキズムのような内容は教会法に繋がっています。もちろん、司祭や司教の
厳しい努めについてもでています。
  「少なくても年に一度、罪を告白すること。」は教会法の第989条です。「すべ
ての信者は分別の年齢に至った後は、重大な罪を少なくても1年に1回忠実に告白す
る義務を有する。」
もし重大な罪を赦していただいてないで、先延ばしをしていたら、これは自分の信仰
のためにも教会共同体の信仰のためにも、間違いであるといっています。重大な罪が
なければ、する必要は無いのですが、1回にこだわっているとあっても無くてもしな
くてはならない解釈になってしまう…けっしてそんなことではない。要は、重大な罪
を先のばししないというのが前提になっています。
 第三のおきては「少なくても復活節のうちに聖体の秘跡を受ける。」こんなおきて
があったこと知ってました。どこかで聞いていたことがあったかもしれないが、忘れ
てしまうのが私たちですね。少なくても復活節のうちに聖体の秘跡を受けるのが信徒
の努めになっています。このおきてはキリスト教的典礼の期限である、その中心であ
る復活祭との繋がりのある季節に主の御からだと御血を受けるよう求めているもので
す。教会の典礼の中では復活祭が頂点であるというでしょう。クリスマスという人が
いるかもしれません。クリスマスより復活祭のほうが信仰の上ではとても大切です。
復活祭に向けて御からだをいただくことが大事です。教会法第920条「初聖体を受
領したすべての信者は、少なくても年に1回聖体を拝領する義務を負う。」ですか
ら、幼児洗礼を受けたけれど初聖体がまだの人には、この聖体を受ける規定の適用は
ありません。一度初聖体を受けた人、その秘跡を受けた人は信仰の道を歩んでいるわ
けですから、復活節のあいだに聖体を受けることが大事、信徒の努めであるというこ
とです。
  第四のおきては「教会の決めた日に大斎、小斎を守る。」四旬節に入り大斎、小斎
について何度かふれていますが、これも信徒の努めとして教会が定めたもの。あらた
めて認識しなければなりません。やったほうが良いんでしょう。大人の信者であれば
これは教会が決めた信徒の努めであること。大斎、小斎を守ることは一人ひとりにも
課せられた努めでもあるんです。教会法は第1249条からです。「すべてのキリス
ト信者は、自己の様式に従って償いを果たす神法上の義務を有する。…その日には、
キリスト信者は、特別に祈りに専念し、信心の行為及び愛徳の業を実行し、自己の業
務をいっそう忠実に果たし、以下の条文の規定に従って、特に大斎と小斎を順守する
ことによって自己を放棄しなければならない。」大斎と小斎を守ることによって自分
の欲望を捨てなければならない。今日の説教の中でも、自分の欲望を捨てなければな
らないが、私自身は手放せないのではとお話しました。でも、大斎、小斎を守ること
もそういった戦いではないでしょうか。時々、笑い話しになってしまいますが、大
斎、小斎の日だけおなかがすくという経験をしてるような気がします。その日だけ捧
げることを意識するとおなかがすきます。何かに熱中したり、時間がなくてというこ
とで食事が出来ないことがありますが、そういうときは気にせず時間は過ぎていきま
すが、自ら進んで犠牲をして大斎、小齊に取り組んだときは、その欲望との戦いは凄
いことです。だから、人間って不思議だなーと思います。集中力が足りないと言われ
ればそれまでかも知れませんが、特にその日に限っておなかがグーグーなるのきっと
皆さんも同じではと思います。肉食を控える小斎、灰の水曜日がその努めの時。特別
に守らなければ成らない日。もうひとつはどこでしたか。聖金曜日ですね。まもなく
来ますよ。これも1年に2回しかありません。信者として取り組まなければいけませ
ん。現実と欲望の戦いの日になるかもしれません。それも自分たちの信仰を変えてい
くことになります。小斎を守るのは14歳に達した人、大斎を守るのは60歳に達す
るまでのすべての成人信者です。ここにおられる方は8割方免除されておられるかも
しれません。(笑い)熱心な信者さんは年齢に関係なく取り組んでいるのが現実だと
思います。
 第五のおきて。ちょっと説明しずらい。司祭からいわれると皆さんの眼差しが厳し
くなるような。「教会の維持費を負担すること。」日本だけでなく全世界のこと。信
者には各々の分に応じて教会の財政を助ける義務があることを明らかにしています。
新教会法典の第222条で定めています。「キリスト信者は、神の礼拝、使徒職及び
愛の業、並びに奉仕者の生活の正当な維持に必要なものを援助するために教会の要請
に応ずる義務を有する。」教会を助けなければならない、維持しなければならない。
そういう意味で教会維持費が信徒には義務つけられる。さらに皆さんが出される教会
献金は、こういうものにも向けられていると書かれています。「キリスト信者は、社
会正義を促進し、主の命令を心に留め、自己の所得をもって貧しい人を援助する義務
を有する。」そういった形で集められたお金は教会のためにも使われるし、社会に向
けて必要な時に使えることにもなっています。皆さんは社会への献金は別袋で献金さ
れておられる方が多いかもしれません。いろいろな意味で私たちが支え合う大切さ
が、教会のおきてであり、信仰を生きる者の努めであると思います。
 十の戒めも一つずつ具体的に見ると、良心の究明に役立つものになっていると思い
ます。今日はそこまで入っていけませんでしたが、この戒めを中心に、私たちが忘れ
てしまったかもしれない教会のおきても、こころみながら、私たちの信仰生活を豊か
にしていければと、そしてお互いに支え合っていければと考えています。
 (この後、黙想を5分)』


2015年3月15日日曜日

四旬節第4主日

四旬節の後半に入っていきます。
悔い改めの心を持って復活の日々を祝う準備をしていきましょう。

ミサの中で、「洗礼志願者のための典礼」が行われました。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『四旬節の第4主日を迎えました。皆さんにとってはどんな1週間だったでしょうか?
私にとっては、珍しく毎日が時間に追われ、忙しくも非常に充実した1週間でした。
月曜日から月例会、司祭協議会など5つの会議が続き、2つの教会の共同回心式のお手伝い、そして11日には4年目を迎えた東日本大震災の追悼ミサがありました。また、金曜日には教皇様の意向による呼びかけがあり、24時間の「聖なる時間」がこの教会で行われました。
行事が続きましたので、たくさんの方々の支えや祈りがあり大変感謝しています。

11日に行われた大震災の4年目の追悼ミサでは、犠牲者とさらなる復興のために私たちは祈り、司教様を中心にして御ミサも捧げられましたが、私も改めて震災当時を思い起こしました。震災後はその様子をテレビを食い入るように見ていましたが、1年後を迎える頃に見たニュース報道では、感動し忘れられない思い出があります。
気仙沼の一人の被災者の男性がテレビで話をされており、その一言一言に胸が詰まる思いがしました。
「海さ行ったと思っていたら、こんなに近くにいたなんて。見つけられなくて申し訳なかった。先が見えない苦しみの中にいたが、これからは供養の気持ちで生きられる。」
その方は、奥さんが見つからず毎日毎日探し続けていたと言っていました。その奥さんは一年後に、ようやく自宅傍の崩壊した倉庫の瓦礫の山の下で見つかったとのことでした。これまで見つけられなくて本当にすまなかった、という男性の一言一言に本当に心が揺さぶられました。無念さがその一言一言に溢れていました。
今、4年目を迎えた震災ですが、まだ家族を見つけられないで探し続けている方も、まだたくさんおられるという現実も私たちは見つめています。4年目が過ぎようとして周りからは、もう前を見て元気に生きなければと励まされ、そして自分自身にも前を見て生きなければならないと何度も言い聞かせるけれど、見つからない家族や遺族のことを考えると悲しみが心の中を包んでしまう。いくら前を見て歩んで行こうと思っても悲しみの方が勝ってしまう、という話をニュースでも聞きました。私たちの記憶から震災の出来事がだんだんと薄れかけてきている現実がありますが、悲しみを抱えている家族がまだいるのだということを忘れないことが大切です。震災だけではなく、同じような悲しみを背負っている隣人は、私たちの周りにたくさんいるということも合わせて、私たちは祈り続けなければならないと思います。
悲しみ苦しみを背負う人、孤独な隣人に私たちは心を向けて祈りを捧げていくことを、私たちは大切にしていかなければならないと思います。そして、四旬節の愛と犠牲もまた、そのような人たちに向けられることができるようにと思います。
今日の聖書の御言葉は、寛大な神の言葉が私たちに希望や力を与えてくれるものと思いました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
「一人も滅びないで永遠の命を得る」それは、全ての人の救いを待ち望む神の思いの言葉が記されていたことだと思います。この言葉の中には、キリスト者だけではなく、全ての人を救いへと招く、神の寛大な愛があると思っています。
キリストは十字架の上から全ての人を十字架の元へ引き寄せ、十字架上で御父に霊をお渡しになることで、信じる全ての人々に永遠の命となられた方。私たちはまさに、キリストの十字架を見つめながら復活へと希望を託します。
四旬節の後半に入っていきます。悔い改めの心を持って復活の日々を祝う準備をしていきましょう。』

2015年3月14日土曜日

「ゆるしの秘跡と祈りの時間 ~主にささげる聖時間~」

3月13日(金)午後4時から、北一条教会聖堂で教皇様の意向にこたえて
「「ゆるしの秘跡と祈りの時間~主にささげる聖時間~」が行われ、150名ほどが参加しました。

聖体賛美式、聖体礼拝、そしてゆるしの秘跡の後、
午後6時から、先週叙階されたばかりの佐藤助祭の式長によりミサがおこなわれました。








佐藤助祭のお説教をご紹介します。

『今日は助祭となって初めて式長というものを任されて、非常に緊張しています。そし
て、ミサの中で説教をしなければならないと(笑い)胃が痛くなる思いです。(笑
い)助祭になってちょっと苦しみが…これもお恵みと思います。(笑い)

今日は教皇様の意向によって私たちは、主に捧げる聖時間、聖体賛美式を行い、沈黙
の中で赦しの秘跡を受けるということを行いました。ところで、教皇フランシスコは
教皇メッセージの中で、私たちが神と隣人に対して無関心であることを指摘しておら
れます。昨今、情報技術が発達して誰でも自ら情報を発信できる世の中になりまし
た。その中には、人々の苦しみを伝える報道や衝撃的な映像が氾濫しています。それ
を見た私たちは「自分たちには何も出来ないし、遠いはるか彼方の話しだと感じて、
何もしないでいるほうが良い」と、思うようになっていないでしょうか。そのような
報道や映像にふれるたびに、神はいないのかと考えたりしていないでしょうか。私た
ちは地上の教会と天上の教会の交わりのうちに祈ることが出来ると教皇様はおっ
しゃっておられます。「祈りのうちに結ばれた多くの人々の声は世を動かす力となり
ます。たとえ直接的なものとならなくても、祈りの必要性は忘れてはならない」と教
皇様は言っておられます。そのために、今日、そして、明日の夕方まで、「主に祈り
を捧げる24時間」を教皇様は勧めているのです。そして、私たちが多くの人々との
交わりの中で祈ることを望んでいるのです。聖体礼拝の中で私たちは個人個人黙想
し、沈黙のうちに祈りを捧げ、赦しの秘跡にあずかるということを経験しました。そ
れらは自分一人で祈っていると言うものではありません。自分と神、自分と隣人との
関係の中で黙想し祈っているのです。

 今日の福音の中でイエス様は、もっとも大切な掟をのべられました。神である主を
愛しなさい、そして、隣人を自分のように愛しなさい、という二つです。この二つの
掟はまったく別のような掟ですが、表裏一体のものです。神を愛すると言うことは、
神が創られたすべてのものを愛するということです。ですから。神が創られたものを
憎んで、神を愛することは矛盾することです。逆に神を憎んで、神が創られたものを
愛するということも矛盾することです。ある神学者はこのような矛盾した状態ことを
「地獄」と呼んでいます。地獄とはどこかにある場所のことではなくて、神を愛して
いると言いながら、神が創られたものを憎む状態のことを言うのです。神を拒否しな
がら、神を愛するということも地獄という状態です。

 この四旬節をとおして、私たちはこの世の中の何かを憎んでいないでしょうか、そ
して、私たちはそれらを赦すことができないでしょうか、ということを黙想していく
と良いと思います。私たちもこの律法学者のように、心を尽くし神を愛し、また自分
のように隣人を愛することはどんなものにも勝ると答え、それを行うことが出来るよ
うになれば、神の国は私たちのすぐそばにあると、感じることが出来ると思います。
今日過ごした聖時間、そして、このミサの中で私たちの回心の歩みを、もっと深めて
いくことができるように、神に祈り続けて参りましょう。』


ミサの後、聖堂で24時まで、北一条教会として祈りが続けられ、
朝6時から24時までの「祈りのリレー」が繋がりました。

2015年3月12日木曜日

東日本大震災犠牲者 「追悼と復興の祈り」

3月11日(水)午後2時から、カトリック北一条教会で、
東日本大震災犠牲者 「追悼と復興の祈り」のミサが勝谷司教様の主司式により行われ、
約150名が祈りを捧げました。
ミサの後、被災地で演奏活動を続けているアンサンブル奏楽の演奏がありました。
素晴らしかったです。
また、聖堂に隣接するカテドラルホールでは、被災者が作られた昆布などが展示販売されたくさんの人で賑わいました。













勝谷司教様のお説教の内容をご紹介します。

『教皇フランシスコは四旬節のメッセージの中で、何度も無関心ということについて述
べています。非常に懸念されることは無関心のグローバル化という言葉で私たちに警
告を発しておられるわけです。私たちは、今回の大震災の復興支援の中でけっして無
関心ではないと思っているかもしれません。確かに札幌教区は宮古で継続的に支援を
行っています。今後もそれを続けて行く予定です。しかし、後方でそれをサポートし
ている私たちは、いつのまにか無関心ではないが、何か違ったかたちで、マスコミの
言う風化している、このことが私たちの中にあるのではと懸念されています。震災で
亡くなった方は2万人弱、震災関連死は2万人を超えています。今なお、約23万人
の方が避難生活を余儀なくされていると報じられています。しかし、この数字を現実
として受け止めていく時に、私たちはひとつの落とし穴に陥ってしまいます。このよ
うな数字を統計の数字と理解してしまいます。この数字の中にそれぞれの人生、ひと
つひとつの人生にピンとこなくなってしまいます。それに慣れてしまっています。

私は震災の後に、サポートやベースをいろいろ回って歩く機会があって、最近は3回
ほど福島を中心に歩きました。そこで、都度言われていることは「マスコミは本当の
事をきちんと報道していない。」今日もそうですが、4年を経ていろいろな復興がな
されています。多くの悲しみを乗り越えて、希望に満ちて歩んでいこうとする人たち
の姿が写し出されています。
未来に向けて希望をもたらす報道は当然と思いますが、そこに関わっているボラン
ティアやそこに来ている方達の声を聞くと、そのような希望に見い出せない現実、
もっと苦しい絶望的な気持ちにある。先ほども触れたように、自死者を含めて2万人
以上の方が亡くなっている、その重たさに現実に真剣に取り組んでいる報道機関がほ
とんどない、そういった不満が被災者から必ず聞かれます。

被災者の中にも時間を経て行く中で様々な軋轢やいろいろなきしみが生じてきていま
す。最初に私が訪れたところは「いわきサポートセンター」(ベース)ですが、福島
からの最大級の避難者、あるいは津波で家を失った被災者、同じ存在ではないが同じ
地区におられる。その中で、補償問題、原発で被害のあった人たちには手厚い補償、
そうではない人たち、道路一本隔てて向こうに住んでいたかこちらにいたかで、その
補償金額にあまりにも差があるので、その同じ地域の人たちの中で、あるいはその避
難してきている人たちと、いわき市の市民の中で軋轢が起こって大きな問題となって
います。そういう現実を聞かされて来ました。
二度目に訪問したときには、会津若松の教会で自主避難している人たちをサポートし
ている人たちの話しを聞きました。小さい子供を抱えていて本当に福島に住んでいて
良いのか、、福島市はチェノブイリの基準でいうと完全に避難しなければならない、
住んではならない値なのです。しかし、日本政府は安全だ、本当にそれを信じていい
のか。実際に人類が経験したことのない中でどのレベルで安全で危険なのか、後に
なってみないと分からない。やはり不安をもって自主的に避難をしている。そして、
申し訳ないけれど福島の産物は口にできない。しかし、そういう人たちに対する支援
は手薄。そこで、教会の人たちが支援する側についている。

次に、二本松教会で支援を行っているボランティアの人の声を聞きました。そこの人
たちは福島を復興させるために、風評被害の状況の中で、一個一個の農作物を放射能
検査をして絶対安全なものとして出荷している。だから、福島の農家を支援してくだ
さいと言っている。彼らが批判するのは同じ福島県民でありながら、風評被害を助長
させている自主避難者たちがいるということなんです。両方ともカリタス・ジャパン
のボランティアが関わっている。二つのグループに軋轢が現実があると聞かされてき
ました。

そして、この間、行ってきたのは染料の高くていろいろ心配されましたが、司教団た
ちは最高では8マイクロシーベルトの所に行きました。そこでは帰宅が許されている
けれども、家族はまだまだ安心できない。別々に暮らさざるを得ない、実際に帰宅し
ても周りに誰も住んでいない状況で、どのように生活していったら良いのか分からな
い。まったく先の見えない現実の中で一家が離散しているという、切々と訴える被災
者達の話しを聞いてきました、

問題は時が経つにつれ、解決に向かうのではなく、深刻化しているという印象をうけ
ています。このような中で私たちは、希望に満ちた報道にだけ接している、本当の現
実をオブラートに包んだようなかたちで、見させてもらえないところとにある。そし
て、私たちが意図せずして風化という現象をおこしてしまっているのではないか、そ
ういうことを懸念しています。実際、私たちがそこに出かけて行って、そこにいる人
たちと関わり話しを聞くという、宮古のような支援活動を行えば良いのですが、なか
なかできない現実の中で、どうしたらこの現実を伝えられるのかというもどかしさの
中で現実を感じています。少なくても私たちはこの現実をありのまま受け止める現実
の中で、今私たちが出来ることは何であるのか、札幌教区として今続けている支援
を、継続出来るように、どのようなかたちで支援できるのか、皆さんに考えてほしい
と思います。私たちの歩みをとおして、いつも神が導びき守ってくださるように、そ
してよりよい方向に導いてくださるように祈りましょう。』

2015年3月11日水曜日

「函館巡礼の旅」アルバム

3月6日(金)~7日(土)に行って来ました「函館巡礼の旅」の写真を追加します。

函館湯の川教会
函館元町教会
トラピスチヌ修道院
函館宮前町教会で行われた佐藤神学生の助祭叙階式と佐久間神学生の朗読奉仕者選任式