四旬節の後半に入っていきます。
悔い改めの心を持って復活の日々を祝う準備をしていきましょう。
ミサの中で、「洗礼志願者のための典礼」が行われました。
今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『四旬節の第4主日を迎えました。皆さんにとってはどんな1週間だったでしょうか?
私にとっては、珍しく毎日が時間に追われ、忙しくも非常に充実した1週間でした。
月曜日から月例会、司祭協議会など5つの会議が続き、2つの教会の共同回心式のお手伝い、そして11日には4年目を迎えた東日本大震災の追悼ミサがありました。また、金曜日には教皇様の意向による呼びかけがあり、24時間の「聖なる時間」がこの教会で行われました。
行事が続きましたので、たくさんの方々の支えや祈りがあり大変感謝しています。
11日に行われた大震災の4年目の追悼ミサでは、犠牲者とさらなる復興のために私たちは祈り、司教様を中心にして御ミサも捧げられましたが、私も改めて震災当時を思い起こしました。震災後はその様子をテレビを食い入るように見ていましたが、1年後を迎える頃に見たニュース報道では、感動し忘れられない思い出があります。
気仙沼の一人の被災者の男性がテレビで話をされており、その一言一言に胸が詰まる思いがしました。
「海さ行ったと思っていたら、こんなに近くにいたなんて。見つけられなくて申し訳なかった。先が見えない苦しみの中にいたが、これからは供養の気持ちで生きられる。」
その方は、奥さんが見つからず毎日毎日探し続けていたと言っていました。その奥さんは一年後に、ようやく自宅傍の崩壊した倉庫の瓦礫の山の下で見つかったとのことでした。これまで見つけられなくて本当にすまなかった、という男性の一言一言に本当に心が揺さぶられました。無念さがその一言一言に溢れていました。
今、4年目を迎えた震災ですが、まだ家族を見つけられないで探し続けている方も、まだたくさんおられるという現実も私たちは見つめています。4年目が過ぎようとして周りからは、もう前を見て元気に生きなければと励まされ、そして自分自身にも前を見て生きなければならないと何度も言い聞かせるけれど、見つからない家族や遺族のことを考えると悲しみが心の中を包んでしまう。いくら前を見て歩んで行こうと思っても悲しみの方が勝ってしまう、という話をニュースでも聞きました。私たちの記憶から震災の出来事がだんだんと薄れかけてきている現実がありますが、悲しみを抱えている家族がまだいるのだということを忘れないことが大切です。震災だけではなく、同じような悲しみを背負っている隣人は、私たちの周りにたくさんいるということも合わせて、私たちは祈り続けなければならないと思います。
悲しみ苦しみを背負う人、孤独な隣人に私たちは心を向けて祈りを捧げていくことを、私たちは大切にしていかなければならないと思います。そして、四旬節の愛と犠牲もまた、そのような人たちに向けられることができるようにと思います。
今日の聖書の御言葉は、寛大な神の言葉が私たちに希望や力を与えてくれるものと思いました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
「一人も滅びないで永遠の命を得る」それは、全ての人の救いを待ち望む神の思いの言葉が記されていたことだと思います。この言葉の中には、キリスト者だけではなく、全ての人を救いへと招く、神の寛大な愛があると思っています。
キリストは十字架の上から全ての人を十字架の元へ引き寄せ、十字架上で御父に霊をお渡しになることで、信じる全ての人々に永遠の命となられた方。私たちはまさに、キリストの十字架を見つめながら復活へと希望を託します。
四旬節の後半に入っていきます。悔い改めの心を持って復活の日々を祝う準備をしていきましょう。』