イエスのエルサレム入城を記念し、神父様に祝福を受けた棕櫚の葉を手に、枝の行列が聖堂へと歩みました。
ミサでは、「マルコによる主イエス・キリストの受難」が朗読されました。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『四世紀から続いているこの「枝の行列」は、オリーブ山からエルサレムの町の中心部まで、歌いながら行列したと伝えられています。そして、その800年後にはローマで行列が行われるようになっていったと伝えられています。
中世以降は、枝には災いから守られるという不思議な力があるという民間信仰も生まれていったようです。
教皇庁の典礼秘跡庁は、キリストとその過ぎ越しの勝利への信仰の証として、信者が枝を家に持ち帰り保管するように勧めていました。今日の家庭ではまさに、典礼秘跡庁のその勧めが生きています。そして、民間信仰の中に生まれた枝に対する不思議な力は、信者が枝を大切に飾って、家族の安全を願うということにつながっているようです。
今、私たちが枝の行列の中で歌った賛歌は、821年にオルレアンの司教様が作られたと聞いています。
今年はB年で、マルコによる主イエス・キリストの受難が朗読されました。マルコが伝える受難の物語のイエスは力ある方ではなく、一見無力で苦しむただの人に見える姿を私たちに伝えています。そして、その極限において十字架上で叫ぶ「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、この言葉は人によっては、弱々しいイエスの姿を考えさせるものなのかもしれません。しかし、イエスの叫んだこの言葉は、旧約聖書の詩篇にうたわれている言葉でもあります。そして末尾の言葉も深い印象を私たちに与えてくれます。
「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、告げ知らせるでしょう。」
このように救い主を語る言葉で詩篇はうたわれています。ですから信仰を持ってその言葉を受け止める人と、信仰をなくしてその言葉を味わう人では、ずい分違ったイエスの印象につながっていくのだと思います。
人々の手に渡されて殺されるイエス、十字架の死という姿を示したイエスのどこにそんな救いの力が、神の力があったのだろうか? 時に、そんなことを考えてしまいます。
救いを期待した人々でさえ挫折してしまう、それほど当時の社会は、混乱や貧しさ、苦しみの中にあったということだと思います。
マルコはその時のことを伝え、ローマ軍の100人隊長の言葉を表しました。
「本当に、この人は神の子だった。」
この元々クリスチャンを迫害する兵士たちが、キリストに出会い、キリストの言葉を耳にし、触れて、「本当に、この人は神の子だった。」と信仰宣言をするまでに至ります。100人隊長が漏らしたその言葉は、苦しみの中にあっても、弱々しい叫び声であったとしても、そのイエスだけが、大きな力を持って、その人の心に迫ったという現われであったと思います。イエスを見て、信じるということが、一人一人の生き方をどんなに変えていくものかということが、この100人隊長の姿をとおして黙想すると、私たちもそれを感じることができると思います。
今、私たちは2000年前にエルサレムで起こった出来事を記念して、枝を手にし行列をつくって、賛美しながらお御堂に入ってきました。
皆さん一人一人が、枝を手にして、心の中では、何を感じ、行列の歩みをしていたでしょうか?
当時の群衆のホザンナという声にあわせて、自分もその中に入って行列をしたでしょうか?
心の目で見ようとしなければ、感じようとしなければ、心の目はイエスを見ることも、感じることもできないような気がしています。
イエスの受難を見つめながら、信仰を生きる私たちにとって、何が大切でしょうか?
私たちはどこまで、イエスとつながっていると言えるでしょうか?
イエスが人々の救いとなった、罪の重荷を担ったその思いを、担いあうことが私たちには出来ているでしょうか?
それを問い続けることが、私たちの信仰かもしれません。
それが今、私たちが求められている信仰だと言えると思います。』