2015年3月1日日曜日

四旬節第2主日

福寿草が咲いた!先日、テレビのニュースで例年より数週間早い開花情報が流れていました。北の大地に住む私たちにとって、福寿草の開花は春の到来が近づいた良い知らせです。
祈り、施し、断食、の償いをする四旬節が始まっていますが、私の心の中は、3月7日に助祭叙階を受けられる佐藤神学生の助祭叙階式に何としても参列したいという思いと、日本独自の祝日として承認された3月17日の「日本の信徒発見の聖母」の祝日を迎える喜びで溢れています。長崎は遠く150周年記念ミサに与る事が出来ませんが、札幌の地で、禁教令下で信仰を守り抜いた先達への讃仰と感謝の気持ちを込めて祈りたいと思います。


<勝谷司教様の説教概要>
2月23日から26日まで臨時司教総会があり、最終日に司教団メッセージ「平和を実現する人は幸い~今こそ武力に頼らない平和を」を発表しました。メッセージには、今の政治の流れ、沖縄米軍基地建設の問題、日米安全保障条約、政策に関わる事にまで言及し、強い批判を覚悟で政治的スタンスを打ち出しました。内容は長いので、中央協議会ホームページ、朝日新聞デジタル版などに既に掲載されているので個別に読んで下さい。
私たちはこの世の事柄に具体的に関わることなくして神の救いについて語ることは出来ません。飢えている人を無視して天上の死後の救いについて述べる事は出来ません。私たちは、今ここで打ち立てられている現実、人間の尊厳や、肉体に関わることも含めて、それらが侵されているならば、その人たちに変わって声をあげなければいけません。私たちの心の中では、いつか理想的な平和な世界を完成させると信じていますが、しかしそれは待って何もせずして与えられるものではなく、私たちが世代を積んでこの地上に実現して行くものに召されています。この世のドロドロとした現実の中で求められているものです。今日の福音で、まさにペトロがそこに見たのは、そういった理想郷のような世界でした。しかし現実はそうではありません、現実はイエス様が先取りする形で、この救いの栄光の姿を見せて下さいますが、しかしそこに至るには受難と十字架を通って行かなければなりません。その事を弟子たちにしっかりと教えているわけです。
染色職人は美しい花びらの色を出すためには、花弁ではなくその色を根から抽出します。この世を超えた美しい花びらの色、私たちの救いは、根すなわち現実の中にあります、日常のドロドロとした中で、それを煎じて飲む生き方の中にこそ天上の救い、理想の世界があります。救いは既にこの厳しい現実の中にこそあります、しかし今は完全な姿ではない。それが教会の考え方です。
キリストご自身が十字架にかかって死んだことは、罪のためにもがき苦しむ人類のためで、憐れみのロープを天井から投げる方ではなく、ご自身も地上の泥の中に降りてきて、憐れみによって人類を救いあげようとする、それが神の愛なのです。同じように私たちはこの世にあって、泥の中に飛び込み、自分を泥だらけにし、共に苦しむことによって救いの完成を追及して行くのです。
私たちは現実の生活の中で、どの様な選択をするかが問われています。最初にお話しした司教団メッセージは、今の政治政策に関わる内容になっていますが、「カトリック信者はこれに従わなければならない」という類のものではありません。司教団はこう考えます、それに共感して賛同するか反対するかは信徒の自由です。無条件に従うのではなく、教会の中で自由に議論されるべきもので、どう受け止め、自分の中でどう解釈して自分の生き方とするかは皆さんの自由です。