2016年3月27日日曜日

復活の主日

主のご復活おめでとうございます!

昨夜の「復活徹夜祭」から一夜明け、主イエス・キリストの復活の朝を私たちは迎えました。


復活の主日ミサは、勝谷司教様と後藤神父様の共同司式により行われました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『主イエス・キリストの復活の朝を私たちは迎えました。
主イエス・キリストの復活、おめでとうございます。
復活したキリストの恵みと光が皆さんの上に豊かに注がれますように、今日の日を皆さんとともに喜びお祝いしたいと思います。
そして、この喜びの中で、ミサの初めに司教様も話されていましたが、私たちの隣人に心を向けたいと思います。教会は大きな喜びを迎えていますが、その喜びを受け入れられない人々が私たちの隣人の中にいるということを。突然の悲しみに遭った人、被災された人、事故に遭った人、そうした人々は、またその家族も同様だと思いますが、喜びの日を迎えたとしても、心の悲しみや傷は癒されることなく深く重い心を抱えていると思います。そのような人々に少しでも早く、主のいつくしみや平和が訪れますように、祈りを捧げてきたいと思います。
春の雪が、聖なる三日間に舞い落ちる日がありました。でもこの季節の中での雪は、私たちは静かな心でこの雪を受け入れています。春の雪は天からの贈り物のようで厳しさを感じる雪ではありません。そして今朝は朝から、青空が広がっています。まさに復活の日曜日にふさわしい日を迎えているように感じます。この日を皆さんと共に迎えられたことを本当にうれしく思います。
教会はこの復活祭が一年の中で頂点を迎える典礼となっており、今日の日を迎えるにあたっては、教会のたくさんの方々が様々な奉仕に尽力してくださいました。連日の奉仕で疲れがみえる中、復活の喜びを心の中から消すことがないよう、そしてこの喜びを私たちのこの教会の献堂100年に向けて皆さんとともに、これからもまた歩み続けていけることができますように。
今日の聖書の言葉をもう一度振り返ってみましょう。
イエスに従う人々は12人の弟子たちの他にも、たくさんの人々がいたということを聖書は語っています。でもイエスが十字架に架かり亡くなったという現実を目の当たりにしながら、親しい人々の力ではどうすることもできない無力感を、愛する人々は感じていました。イエスに対する裁きは、残忍な姿を人目に晒す十字架の死という結果になってしまいました。イエスの死を現実にしたとき、不安に過ごしていた弟子たちやマリアを始めとする婦人たちは、遺体を引き取りに行きたくても、キリスト者に対する軋轢を考えると思い切った行動もできずにいました。自分たちも愛するイエスと同じように殺されてしまうのではないだろうかと、イエスと親しくしていた人々の心は不安で満たされていたと思います。
昨日の福音では、安息日が終わるのを待って、イエスの遺体に香料を塗るために準備をしていた婦人たちの姿も描かれていました。少しでも早くイエスの遺体を引き取りたいけれど、墓の石を自分たちの力で開けられるかどうかさえ心配し相談していたのが婦人たちでした。追い詰められて切羽詰まった時の婦人たちの強さが、聖書の中では示されています。昔もそうですが、今の時代も、また教会の中でも女性たちの力強さを私は感じます。
聖書では、あんなに愛され亡くなられる前には足を洗ってくれたイエスに対しても、男性である弟子たちの存在感は、婦人たちよりも希薄に描かれています。でも今日(こんにち)では、少し変化があるように感じます。男性と女性は昔よりも協力し合って行事をこなしているのが教会の姿かもしれません。福音では、婦人たちが弟子たちよりも早く墓に着いて、墓石を除けることが出来るかどうか不安であった婦人たちにとって、すでに墓石が取り除かれてあったことは驚きでした。一体どこに遺体はあるのか、どこに置かれたのか、遺体が無いことに婦人たちは戸惑います。弟子たちに知らせ、弟子たちは急いで墓に駆けつけました。弟子たちはイエスが死んで復活するという話を聞いてはいましたが、まだこの時は、深い理解を持つことができないまま、遺体が無いということだけは見て信じました。
イエスの遺体が無いことに戸惑う婦人たちの中で、マグダラのマリアは、弟子たちが帰った後も悲しみ暮れて泣きながらそこに留まっていました。そこに復活の主が現れてマリアに声をかけた、というのが聖書のお話になります。何故マリアだけがこんなにも悲しみ、こんなにも途方に暮れて、墓の前に留まっていたのでしょうか。だれでもイエスと深く出会った者がそうであるように、イエスの赦しにより新しい歩みを始めていたのがマリアだったのかもしれません。新しい命の道を歩み始めていたマリアは、イエスの愛によって救われた一人でした。イエスの愛によって救われていると実感できなければ、イエスの十字架の死の悲しみも薄れてしまう、そして復活の喜びもまた、深くは感じられない。
現在の私たちにとっては、復活の行事の準備で疲れ果ててしまい、復活の喜びも疲れの方が自分の心を支配してしまっているということになってしまう。私は、昨日の復活徹夜祭が終わり教会の戸締りをしている時に、そのようなことを自問自答していました。そして少し寂しい気分になっていました。でも、めげてもいられないと今朝気持ちを新たにしています。
「今日こそ神がつくられた日、この日をともに喜び祝おう」
教会は主の日を、これから50日にわたってお祝いします。復活祭から聖霊降臨まで、おおいなる50日が始まろうとしています。イエスと出会い聖霊によって主と結ばれ、新しい道を歩んでいる私たちです。一切の苦難と死の彼方には、復活の永遠の命が待っていることをもっと深く信じたいと思います。そして希望を絶やすことなく燃え立たせたい、そのように思っています。皆さんとも今日の日を心から祝いながら早く歩み出したいと思います。
十字架の死は、死の闇の中で私たちの罪を赦されました。赦しが無ければ復活もないと思います。私たち一人一人が神からの慈しみによって赦しをいただき新たにされ、日々生かされている、そのことをもっともっと心から感謝して、主の復活をともに喜びたいと思います。』


派遣の祝福の前に、司教により復活の卵が祝福されました。


御ミサが終わった後、子供たちの侍者から会衆の皆さんへ卵が手渡されました。




カテドラルホールでは、復活祭と改宗され共同体に加わられたお二人を祝して、パーティーが行われました。


参加者全員で、讃美歌を歌い祝賀会は盛り上がりました


午後から行われた英語ミサの様子です。





復活の聖なる徹夜祭

復活徹夜祭は、旧約の時代から続いている一年の典礼のうち最も盛大で中心的な祭儀です。ご復活のシンボルであるローソクの祝福、そして光の行列へと進む「光の祭儀」から始まりました。

第一部「光の祭儀」

【火の祝福】
聖堂に隣接するカテドラルホールに信徒が集まり、勝谷司教様により火の祝福が行われました。


【ろうそくの祝福】
続いて復活のローソクが祝福されました。


新しい火が復活のローソクに灯されました。
「輝かしく復活したキリストの光が、心の やみを照らしますように。」


【光の行列】
復活のロウソクを手にした司祭が「キリストの光」と唱えるなか、信徒は「神に感謝」とこたえ、行列は聖堂へと進みます。
司祭が聖堂の入口で二度目の「キリストの光」と唱えた後、復活のロウソクから信徒のロウソクへと火が移され入堂しました。




【復活賛歌】
聖堂がロウソクの火にほのかに包まれる中、復活賛歌が歌われました。


第二部 「ことばの典礼」

【聖書朗読】
旧約聖書から7つの箇所が朗読されました。


【栄光の賛歌】
栄光の賛歌が歌われている間、十字架、御像にかけられていた紫布が取り外されました。


【福音朗読】
佐藤助祭による福音朗読


勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『皆さん、ご復活おめでとうございます。
  私たち人間は人生の意味を問わずにはいられない存在です。しかし、考えてみてください。今の生きる意味は、今、完全に知ることはできません。それは常に未来において振り返った時に明らかにされてくるものです。今の取組が必ず将来のためになると信じて生きるのが今です。同様に人生全体の意味は、永遠という観点においてしか明らかになりません。永遠を否定しては人生を今を生きる意味も無くなってしまいます。今、生きているということにどういう意味があるのかという問いは、特に厳しい現実、望ましくない状況に直面させられるときに悲痛な問いとなって発せられます。自らの落ち度でそうなってしまったのなら自業自得かもしれません。それでも、苦しい現実を誰かのせいにしたくなるときもあります。さらに、与えられた状況に対して、私たちの側に何の落ち度も責任もないことも多いでしょう。しかし、与えられた環境に私たちの責任はなくても、そこでどう生きるかは私たちに委ねられており、その選びとった生き方に  私たちは責任を持たなければならないのです。
  選びようのない現実、それが逃れられない現実であるならば、私たちはそれを受け入れ、選び取って歩んでいくほかありません。それを召命と呼ぶこともできます。
  すなわち神が私にそこに生きるように召しておられること、そこで生きるよう神が望んでおられるのなら、必ず必要な助けも神が与えてくださるに違いないと信じることができます。たとえ、今の苦しみに意味を見出すことが出来なくても、それが選びようのない現実にあるならば、神が私をそこに召しておられる。だから必ず、今は分からないけれども、知られざる意味があるのだということです。
 アウシュビツを体験した精神科医フランクルは、収容所での体験した手記のなかで、生きる意味を失ったとき、人は生きる気力を失い 、それだけで命を落としていったことを記しています。フランクルは言います。自分にとってこの人生に意味があるのかと問う人が、「人生から何も期待することが出来ない。」と語らざるを得なくなったとき次々と倒れていったと。そして、視点を変えて、答えを求めた人が生き延びました。それは、私が人生の意味を問うのでなくて、自分の人生が私にその意味を問うている、という視点の転換でした。
  私の人生が私に何を求めているのか、と問われ続けているのがそれが私たちなのだと。復活を信じる者にとって、自分の人生にとって意味があるのかが問題ではなく、神がお与えになったこの人生に私が応え続けて、その意味を見いだしていくのです
  人生の招きに私たちは応えているのでしょうか。どんな絶望的な状況においても、人生には意味がある。そのことを主の復活をとおして私たちは確信できます。限られた「今」という時間の中では見えないものも、永遠の時間の中にある復活の主が私の人生を知り、愛し招いておられるのです。
 その主が言われます。「恐れるな、私はすでに世に打ち勝った。」私たちは復活の信仰によって、初めて苦しみを積極的に選び取り、捧げることができるようになるのです。この確信に基づいて、私たちはたとえ厳しい現実であってもそこで生きることを選びとることが出来るのです。』

第三部

【改宗式】

改宗式が行われ、お二人の方が新たに共同体に招かれました。おめでとうございます。


【洗礼の約束の更新】
神に従うという洗礼の約束を新たにした後、司教が祝福された水を会衆にふりかけました。



第四部 「感謝の典礼」


派遣の祝福の前に、この日、改宗されたお二人に記念品が贈られ、ご挨拶をいただきました。



2016年3月25日金曜日

聖金曜日 主の受難

この日の祭儀ではヨハネ福音書から受難の朗読が行われました。捕らえられたイエスが裁判にかけられ、十字架の死に至るまでの様子が語られました。


十字架の顕示

司祭が「見よ、キリストの十字架 世の救い」と唱え

会衆が「ともに あがめたたえよう」とこたえます。


十字架の礼拝


仮祭壇から御聖体が運ばれ聖体拝領が行われました


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『主の受難を記念する聖金曜日を私たちは迎えています。(この後、聖地エルサレム献金について紹介。)
  キリストの受難と死を思い起こす今日の祭儀。最後の晩餐の翌日にかけての出来事、今、私たちは受難の朗読を聴きました。伝統的な典礼によると、キリストが息を引き取ったとされる午後の3時頃に、今日のこの「受難の典礼」は行われることが基本となっています。教会は2千年の間、イエスが弟子たちと食事をした、最後の晩餐で記念をしたミサを行ってきています。 でも、今日の金曜日だけは教会の伝統に則って、「主の過ぎ越しを記念するミサ」ではなく、「受難の祭儀」として私たちはイエス・キリストの受難と死、それを偲びながら 断食を守る日としてきています。
 皆様も毎年、この日を迎えながら、何度もお話しを聴いてきていると思います。記録によると、4世紀末頃のエルサレムでは、木曜日から続く徹夜の祈りの後で、キリストが十字架に架けられた場所に立つ教会に人々は集まったそうです。そして、その場所でイエスの受難の出来事の中から、ピラトによる尋問による箇所が、今日の朗読でもありましたが、それを聴き礼拝するという形が、今日(こんにち)典礼の中に組み込まれたと言われます。その最初はエルサレムに巡礼した熱心なエテリナという女性信者が、巡礼で体験した思い出を書き残したことによって、そうした典礼が段々と形づくられたと言われています。当時、教会で行われていた典礼がある一人の女性の巡礼者の記憶を辿って書かれ残されてきたのものがひとつとなって、今日(こんにち)の典礼に反映されているということです。
  救いの歴史におけるキリストの受難と死の意味をかみしめなければなりません。復活の希望のうちに十字架の勝利を私たちは賛美しています。朗読された受難の箇所は、ヨハネの福音ですが、最後の晩餐で弟子たちといっしょに過ごし、やがて来たるべき自分の死の後で、迫害が起こることも予見され、イエス・キリストは自分が従えてきた12人の弟子たちを前に、互いに仕え合うことの大切さをイエス自ら弟子たちの足を洗うことで、その姿を示されました。仕えられるため、仕えるため、私たちはどちらを大切にしているでしょうか。イエスの姿を思い起こしながら、仕えることの大切さをもう一度私たちは心に刻んでおきたいと思います。
 そのときイエスは弟子の一人が裏切ること、やがて自分が裁かれ、十字架へと歩まなければばならないことを知りながらも、父なる神が遣わされた自分の使命を思い起こし、心に刻み、暗い闇と閉ざされた道を弟子たちとともに進んでいくことになりました。聖書はこの受難の物語を誰もが書いています。マタイの福音ではそのときの様子を「私の魂は死ぬばかりに悲しんでいる。」(38節、直訳)と、こういう言葉で表現しています。ルカの福音では「父よ思し召しならばこの杯を私から遠ざけてください。しかし、私の意のままではなく、あなたの思し召しのままに。」(42節)こうイエスは神に向かって叫んだことを記しています。自分が今、辿らなければならない、それは自分にとって大切な使命であるとともに、その使命の中にすべての人を父なる神のもとに導いていく思いもまたあったんだと思います。全身から流れる冷たい汗、イエスの祈る姿もそこに重なってきます。神の子であるイエスでさえ、その瞬間は私たち人間と同じ苦しみに襲われたと思います。そして、すべての人々の罪が今、イエスの上にのし掛かっているということを私たちも感じたいと思います。
  私たち人間の過ち、数え切れないほどの罪がそこから見えてきます。邪淫の罪、怒り、貪欲、裏切り、邪推、偽証。きりがないくらい過ちの言葉が私たちの心の中にも浮かんでくるようです。そうした数え切れないほどの罪がイエスを襲い、被さっていく。私たちの罪も含めてイエスはそれを受けとめてくださる。聖書の朗読の中に「バラバを赦しキリストを十字架につけよ。」と叫んだ群衆は、イエスをあざ笑い、わめくばかり。それでもイエスは彼らに愛を注いで「父よ、彼らをお赦しください。」と祈っています。
  受難の祭儀を記念するこの聖なる金曜日。イエスの十字架の苦しみと死を深く黙想しながら、限りないイエスの愛を、そして、イエスの慈しみを考え、私たち一人ひとりが負わなければならない自分の十字架を背負いながら、イエスの後に従っていけるように共に祈り続けたいと思います。』

2016年3月24日木曜日

聖木曜日 主の晩餐のミサ

「聖なる過ぎ越しの三日間」が始まりました。主の晩餐のミサは、イエスとその弟子たちによる最後の晩餐を直接記念するものとして行われます。



勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『神学校に入学した時、まずラテン語を勉強しなければならなかったのですが、それは今の神学生も同じだと思います。最初に習うラテン語の例文が「Manus manum lavat.(マヌス・マヌム・ラウァト)」。「手は手を洗う」という意味です。例文自体に深い意味があったかは分かりませんが、自分が両手を洗うのでは何の意味もないわけです。手を独立した片手のもので考えると、その手が汚れていても片手では洗えません。手を合わせて初めて汚れを落とすことができます。手を合わせることによって、汚れを落とすことができる。このことを思い出しました。
  今日の福音書の箇所。互いに足を洗い合わなければならないというイエス様の命令。これは何を意味しているのか。互いにその弱さを受け入れ、赦し合うという奨めに感じますが、考えて見るならば、私たちの罪や汚れというものは本当の意味では、他者との関わり合いなくして、赦されたり、癒されたりしないのではないかと思ったわけです。人間というものは基本的に他者との関わりの中でしか幸福を見いだすことが出来ないようにつくられています。人間の根本的な欲求を突き詰めていくならば、自己実現という意味で、その行き着く先は愛したい、愛されたいということにつきるのではと私は思っています。つまり、人間は基本的に一人では幸福になるようにはつくられていない。必ず他者との関わりの中でしか自己実現出来ない。あるいは本当の意味で幸福を見いだすことが出来ないようにつくられているのです。人間の本質は愛し愛されるときに実現されていく。人間が神の似姿としてつくられたという意味は、単に外見が似ていることではないのです。この愛し愛される存在、それが三位一体の神の中で完全なかたちで実現している。その似姿として私たちはつくられた。愛し愛されるときに、私たちは初めて神の本性に与るものになっていくのです。しかし、人間は弱い存在であり罪を犯すものです。私たちが罪を犯すというとき、キリスト教的意味でいうならば、愛の関わりの中で、人に対する罪、愛に背を向けたり、傷つけたり、壊したり。愛との関わりの中で罪というものが見えてくるのです。そうではなくて、ただ単に自分が正しい生き方をしているかどうかという、自分のみを基準にし、自分にのみ目を向けて正しさを追い求めたのが律法学者やファリサイ派と言われる人たちです。彼らにはこの交わりの世界で罪が癒されていくことが理解できない。あるいは、その中でおいてこそ罪の裏返しである愛の招きの世界があることを気づけない人たち。
放蕩息子のたとえでいうならば「お兄さん」。言いつけに背いたことは一度もない。ずっと、あなた(父)の前で奴隷のように働いてきた。でも、そこで正しさのみを追求するうちに、あの放蕩の限りをつくして還ってきた弟を無条件に迎え入れる父親の慈しみ深い姿、豊かな愛の交わりの世界をまったく理解できない人間であったわけです。私たちが本当の意味で罪深い人間であるというときは、必ずこのような一人よがりの次元を求める罪ではなくて、人との愛の関わりの中で見えてくる罪深さです。
  そう考えるならば、その罪と癒しも同じように関わりの中でしか得られることができない。
自分一人で勝手に赦されたとか、癒されたとかと思うのは非常に困難です。しかしときどき私たちは、誤解することがあります。特に赦しの秘跡などを受けるときの心の姿勢として。例えば嫌いな人の悪口を言ったとか、あるいはその人と喧嘩をしてしまったとかいうときに、喧嘩をしたとか悪口をいったとか、正しいものである自分のプライドを傷つけるものとして、苦々しく思うのですね。だから誰かの悪口を言いましたとか、誰々と喧嘩しましたという告白をして、その行為自他赦されないことはないのですが、大きく架けている点があるのです。悪口を言ったり、喧嘩をしたりしたと言うならば、その裏返し、何かと言うならばその人と仲直りすることです。あの人は嫌いなままで、これからも話しもしたくない。これからも顔を合わせる度に喧嘩をするだろう。でも、喧嘩した苦々しさは赦してもらいたい。あの人とは仲良くしたくない。そういうならば全然意味がない。私たちは関わり合いの中で愛の招きに応えているかということをいつも問われていることを忘れてはならないと思います。この関わりの中で互いに癒されるというとき、個人的な関わりの世界ではなく、目を広げて世界を見わたす必要があります。
  今日、互いに足を洗いなさいといったイエス様は、その席で聖体の秘跡を制定されました。
聖体はまさにイエス様が私たちのために、命さえ惜しまず与えつくそうとする愛の印です。それをすべての人に分かち合うように、すべての人を招くかたちでこの食卓を囲むように、すべての人に開かれています。しかし、現実の社会はどうであるのか。私たちの愛の交わりの世界から排斥され、およそ幸せという世界からは関わり合いのないない世界に追いやられている人がたくさんいるわけです。そういう人たちのことを全く顧みることなくして、今の自分たちの
淡麗な状態を感謝するというのでは、これも何かに欠けているというこに気づかなければならないでしょう。今の社会を見渡すならば、特に難民という人たちのことが大きな問題となっています。さらには未だに多くの人たちが饑餓に苦しみ、栄養失調で命を落としている。あるいは、5歳となる前に病気で命を落とす。簡単な綺麗な水さえあれば、そのためのやる気があるならば、救える命が救えずに。今でも、国連のミレニアム計画、去年までに達成させるといっていたものが、ある程度実現してきましたが、それが認められていたのは3秒に一人の割合で幼児が亡くなっていました。それが今、5秒で一人となったというものです。今でも圧倒的多数の子供たちが亡くなっている現実。
 そういう現実がありながらも日本においては、1800万トンの食料が食べないで捨てられています。そのうち家庭からでるゴミが800万トン。国際社会が食料援助として国際的に援助している総数は500万トン。それをはるかに超えるまだ食べられる食料を私たちは廃棄している。廃棄の文化の中で生きています。
  先ほどの難民の問題も、日本ではなかなか難しい問題です。たくさんの人が難民申請をしていますが、ほとんど受け入れられることがありません。去年、認められたのは11人という現状です。フェイスブックでシリアの女性が私に友達申請してきました。誰だか分からないのでお断りしましたが、自己紹介してきました。元イスラム教徒でカトリックに改宗(転会)して
シリアから逃れて今、隣国トルコと思いますが、カトリック教会に匿われている。何とか自分はそこから出て日本に行きたい、日本の大学で勉強したいと言ってきたのです。が、何もしてあげられることができない。いろいろ問い合わせたが非常に難しい現実があります。彼女のフェイスブックは家族といっしょにいる楽しげな写真しか載っていないのですが、それは内戦の起こる前のものです。今は非常に命の危険にさらされている状態で、必死に助けを求めてくるのですが何もしてあげることが出来ないことで、私は心を痛めています。
 同じように今の世界は、このようなかたちで情報を含めて、私たちの日常生活と直接、間接的に繋がっている世界です。そのなかにおいて、私たちが今、どういう状況に置かれているのか、それをしかっりと見極める中で 、同じ神からの招きを受けている、幸福に生きるように招かれている兄弟たちが苦しい状態にいるのに、私たちが何もしないという決断をするのが赦されるのか、強く自分の心に問うてみなければならないことだと思います。そして同じように私たちは共同体としても、日本の教会として何が出来るのか、これを真剣に模索していくように、強く求められているのです。確かに今は何も出来ないという状況の中で、その状態を素直に認めながら、でも出来る何かを見出し、実行に移すことが出来るように祈り、求めていくことにしたいと思います。』


お説教の後、洗足式が行われ、司教が12名の男性信徒の足を洗われました。


聖体拝領の後、聖体がカテドラルホールに設置された仮祭壇の聖櫃に安置されました。


ミサの後、祭壇の装飾が取り払われ、十字架と御像には紫の布がかけられました。


2016年3月23日水曜日

3月22日(火) 聖香油のミサ

勝谷司教の主司式により、午前11時から聖香油のミサが厳かに行われました。
小教区における司祭の秘跡の執行で用いられる聖なる油が、司教と司祭団により祝別されました。説教のあとで司祭団は、それぞれが司祭に叙階された日の決意を思い起こし、司教の招きに続いて沈黙の内にその決意を新たにしました。





勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『今、福音朗読した佐藤謙一助祭は、司祭になるための宣言文に署名、捺印され司祭になる誓いをたてました。助祭の時に聖職者となる誓いがありますが、司祭になる際にも同じようなことがあります。来る4月29日に新しい司祭が久しぶりに誕生することになります。どうか皆様も彼のためにお祈りください。

   実はこの宣言文は、司教になる祭にもあるのです。私の場合は、東京大司教区で行うはずだったのですが、バチカンの福音宣教省に(司教選任の)挨拶に行った際に、まだ行っていないならばここでやりなさいと、英語の宣誓文を読まされました。そのとき、いっしょにいたのがパキスタンで新しく司教に任命された人でした。いっしょに二人で宣誓したのでした。その後、彼とは新任司教研修会でローマで会いました。何故か彼とはその後も、先月、フィリッピンのセブ島で行われた国際聖体大会で、パキスタンの巡礼団の代表としてお会いしました。私は日本の巡礼団の代表でした。私にとってショックだったのは、パキスタンはご存知のようにイスラム教の国で、キリスト教徒は多くの迫害を受けています。あまり大きなニュースにはなりませんが、教会はタリバンの標的などになっています。非常に困難な状況にありながらも、パキスタンの代表団は40人の信者を大会に送りこんできました。日本は30人でした。台湾は600人の巡礼団でした。日本だけが抜きんでて少ない。これが今の日本の現状でしょう。私もこれまであまり大会には注目していなかった。どちらかというと高齢者の方の大会と思っていました。日本からの参加者も多くが高齢者の方々でした。
 実際にフィリッピンに行くと、フィリッピン自体が若い国ですが、他の国の巡礼団も若い人の参加が多く、フィリッピンも子供や若者がたくさん参加していました。実は初聖体の儀式も行われたのですが、5千人の初聖体でした。(驚きの声)運動場で行われたミサでしたが、まったく教会の勢いが違います。韓国はもちろんですが、ベトナム、インドネシア、そのほかの国々。非常に活気があります。その熱気と活気に圧倒されて帰国し、司教総会で報告したときに、何故、日本だけがこうなんだと問題提起したのです。

 しかし、この現実を受けとめるしかないわけです。今の札幌教区だけでなく、欧米諸国もそうですが、実際に高齢化して教会に集まる人も少なくなってきている。その中でアジア、アフリカ、南米の教会が活気に満ちています。これは「時のしるし」ではないかと感じています。私は司教になってから、ますます司祭が不足している現状から、信徒が自立し教会を担っていく、信徒の養成が急務であると感じていました。しかし、秘跡の執行でさえままならぬという状況が将来なることを考えたときに、その場所だけであったとしても宣教師を派遣していただきたいと。しかし、もう欧米にはそれを頼むことは出来ない状況です。力があるのはアジアの諸国です。そのアジア諸国から宣教師を派遣してくれるよう奔走しているのですが、司教になって3年目になりましが、どうも思惑どおりにことが進まない現実もあります。今後どうなるかは分かりませんが、それは私たちが祈り、そして宣教師を派遣してくれるように努力しているにもかかわらず、そのようにならないというのは、そこには、物事の結果には、神の意思がが表れているのではないかと感じます。つまり、今の状態で何が出来るのか考えなさいと言われているんだと感じます。そうすると見えてくるのは、先ほどお話しした信徒が養成されて教会を担っていく姿とともに、新しい司祭の役割ですね。かつてのようなひとつの教会にどっしりと構えている司祭、あるいは自分の役割を持たされて、それの専従として関わることができる、そういった司祭のイメージを私たちは捨て去らなければならないかもしれません。

 しかし、教会として取り組まなければならない問題は、むしろ新しい様々な問題が出て来ています。今日の福音書で「貧しい人に福音を告げ知らせるため、捕らわれ人に解放を、目の見えない人に視力の回復を、圧迫されている人に自由を、主の恵みの年を告げるため」。教皇フランシスコは今年を「いつくしみの特別聖年」…主の恵みの年は聖年を意味します…。そこで特に強調しているのは、世界の悲惨な状況に置かれている人たちがたくさんいる。この世界の人たちのため具体的に活動するようにと求めておられます。祈りも大切ですが、祈りをとおして具体的な行動を起こしなさいと何回も何回も呼びかけておられます。実際に私たちは、ヨーロッパにおける難民問題とか、貧困や飢餓ということに関しては、あまり私たちの生活の実感として、直接的に関わり合いのないことかもしれません。しかし、その中にあってこの世界と連帯して何かをするように、当然求められているのは確かです。

 さらに今までなかったことで、教皇様は特に環境問題に力を入れています。回勅『ラウダート・シ』がだされましたが、まだ邦訳が完成していません。これで早急に求められているのはそれに対応する部門をつくることです。しかし、世界中で見ると環境に対応する部門があります。つい先月も香港でアジアの担当者の会議が行われました。でも、日本にはその担当部門がないのです。菊地司教様が派遣されましたが、日本ではどの部門で担当するか、まだ結論はでていません。この少ない司教団の中で、みんないろいろ兼務しているのです。新しい部門を立ち上げて、その担当司教を決める余力はないのです。実はそのほかにも、女性と子供の権利に関して、これについても早急に新たな担当部門を設けなければなりません。でも、担当司教ではなく、どこか今ある委員会の下に部会というかたちで置くしかないといわれています。そのほかにもたくさん既存のものがあり、具体的に取り組んでいかなければならない状況です。

  札幌教区を考えてみるならば、一人ひとりの司祭がいくつもの役割を兼務し、いっぱいの状態です。そこに新たな役割を担ってくださいというのは、心苦しい状況になっています。特に、今年、私の年頭司牧書簡の中でも、青少年と外国人の課題について重点的に取り組んでいきたいと考えています。しかし、青少年と外国人の課題に対しても、専従とし関わることが出来る司祭をつけることはもう出来ない状態です。
 このようなことばかり言うと悲観的な感じになるかもしれませんが、実は私はあまり悲観してはいません。この状況こそが、新しいものをつくりあげていくためのステップ、バネになるのではと考えています。今まで私たちが考えていた既成の教会のイメージから、今、違うものをつくりあげよという神様からの、「時のしるし」として与えられているということではと感じているわけです。先日の選任式でもお話しましたが、私たちが考えている教会のイメージは、たぶん10年後、20年後はまったく別なかたちになっているかもしれません。今の教会のかたち自体が、30年前には考えられなかった状態になっています。さらに進んで20年後、私たちは違う教会の中で、ひょっとしたらほかの国に負けないような活性化した教会のすがたを作り出しているかもしれません。ですから、決して悲観することなく、今、与えられている現状の中で何が出来るのか、それに取り組んでいく、それが求められていると思います。

 そこで、私たちは老人ばかりでないかという考えもあるかもしれませんが、先ほどの国際聖体大会の話しに戻ります。約4キロ、5キロの道のりを歩く巡礼、聖体行列がありました。ものすごい熱さと混雑のの中、日本の巡礼団は皆、お年寄りなので、歩き切ることができないだろうと考えていました。その中に92歳の方がおられて、この行列のためにトレーニングを積んでこられたと言ってました。参加されたいとのことでしたが、私たちはホテルで休んでていてほしいと願いましたが、ガンとして聞き入れてくれませんでした。私たち30人の中で完歩したのは7、8人でしたが、 その中に92歳の方も入っていました。多くの人が脱落していく中で、92歳の方が一番元気でした。気力と気概があれば歳は関係なく、何かを駆り立てる原動力になり得るのですね。私たちもそれを見習って、将来の教会のために皆様、立ち上がっていただきたいと思います。』

2016年3月22日火曜日

3月20日(日) 受難の主日(枝の主日)

聖週間に入りました。
イエスのエルサレム入城を記念し、司教様の祝福を受けた棕櫚の葉を手に、枝の行列が聖堂へと歩みました。






福音朗読では、ルカによる主イエス・キリストの受難が読まれました。

勝谷司教様のお説教の一部をご紹介します。

『今日の福音朗読は非常に長いので、全体についての解説はせずに、イエス様の十字架の意味を説明するために、この朗読の中の一箇所だけに焦点をあててみたいと思います。

それは、イエス様と一緒に磔にされたされた犯罪人の一人が、
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
と言ったことに対して、
「あなたはきょう、わたしと一緒に楽園にいる。」
とイエス様がこの犯罪人に言われた箇所です。
今まで散々、悪いことに手を染めていたであろう彼は、人生の最後の最後の瞬間にイエス様に出会いすがったとき、全てが赦され楽園に入ることになりました。このこと自体は、私たちの腑に落ち、受け入れることができるのではないかと思います。
しかし、この物語、他の福音書の箇所と照らし合わせてみると、全く同じ主題になっているものがいくつかあります。
私たちが良く知っている「放蕩息子のたとえ」もまさに同じテーマです。放蕩の限りを尽くして帰ってきた息子を父親は無条件に受け入れたのです。しかし、そのとき兄は受け入れることができませんでした。
もう一つ、福音の中で同じテーマで語られている部分は、あの「葡萄園の労働者」の話です。一日、1デナリオンの約束で朝早くから働いた労働者の不平です。朝早くから一日中炎天下で汗を流して働いた労働者は、最後の1時間だけしか働かなかった者の報酬が全く同じ賃金であったことに不平を漏らします。
これらの話になると、放蕩息子の兄だけではなくて、読み手である私たちも、何か変じゃないかと、私たちの常識が邪魔をして、すんなり腑に落ちない印象を持つのではないでしょうか。
確かにこの世のことを語っているのであれば、不正ではないですけれど、働かされている者であれば文句も言いたくなる気持ちも分かると思います。
しかし、神の国に入るという観点で考えるなら、私たちはどう考えたら良いのでしょうか?
私たちの犯した罪とその償い、その償いをきちんと果たした者だけが、救われ、神の国に入ることができるのだと、長い間、私たちは疑問を持たずにそう信じてきました。それは間違っているのではありません。
しかし、逆説的なもう一つの観点が欠落していたのです。罪とその償いという観点から物事を捉えるなら、正しいものが報われ、正しくないものはそうならない、という当然のような考え方のもと、私たちは不正義がきちんと償われることを心のどこかで望んでいます。にも関わらず、間違っていたと思われる人が償いを果たさずに神の国に招かれたりすることは、放蕩息子のお兄さんや葡萄園の労働者と同じように、私たちも文句を言いたくなるのかもしれません。
教皇様はこの点について、
私たちは長い間、正義を追及してこようとしていましたが、正義のみを追求するあまり、その正義を行使することによって、結果的に正義を台無しにしてしまっていたのではないでしょうか。
と、特別聖年の大勅書の中で教皇様はそのように語っています。
そして、正義よりも神はいつくしみであって、そして最終的にはゆるしによって開かれている、これがとても大切です。神の愛といつくしみ、この観点を忘れてただ正義のみを追求することの危険性を教皇様は強調しています。』


2016年3月19日土曜日

祭壇奉仕者および朗読奉仕者選任式ミサ

3月19日(土)午前11時から
カトリック北1条教会聖堂において、ベルナルド勝谷太治司教と18名の司祭の司式により、
札幌司教区神学生の祭壇奉仕者および朗読奉仕者選任式ミサが行われました。
この日、祭壇奉仕者にはパウロ三木 佐久間力神学生、そして朗読奉仕者にはボナヴェントゥラ蓑島克哉神学生が選任されました。
聖堂には約200名程の信徒が集い、お二人の出身教会がある伊達そして帯広からも、ご家族、ご友人、信徒の皆さんがミサに与りともに喜びを分かち合いました。



選任式の後、蓑島神学生は、第一朗読「出エジプト24・3-8」を朗読され、
佐久間神学生は聖体奉仕者を務められました。


勝谷司教様のお説教では、お二人のように一度社会人を経験してから司祭を目指す神学生の苦労や、そのような神学生が司祭になってから、信徒はどう受け止めていったらよいのかというお話がありました。

閉祭の前に花束贈呈があり、お二人から感謝の言葉と、これからもお祈りしてくださいというご挨拶がありました。




おめでとうございます。そして、召命が果たせられますようこれからもお祈り申し上げます。

2016年3月13日日曜日

四旬節第5主日 黙想会”神のいつくしみにふれられて”

今日の福音では「姦通の女」の話をとおして、神の愛といつくしみが語られました。
罪人に対するイエスのゆるしと回心の呼びかけに心を傾け黙想会が行われました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。
『四旬節の第5主日を迎え、今日、私たちは「罪人の女」の箇所のみ言葉を聴いています。来週は四旬節の最後、後半に入っていきますので、復活もさらに近づいている気がいたします。今日、教会の庭を窓から覗いてみましたら雪がすっかり消えて路面が出ています。まさに、春が来ていることは外の景色からも感じますけれど、私たちの心の中に春は来ているでしょうか。復活祭は近づいて来ているんでしょうか。

  今日のお話を思い出しながら、皆で黙想し考えてみたいと思います。旧約の律法は細かな規定によって罪と呪いを説き裁くことが多いと言われるのに対して、新約の世界に入るとイエスの福音は人々に神の愛と赦しを説き教えます。裁くのではなく、罪を咎めるのではなく、愛と赦しを優先して、イエスの福音は人々に大きな感動をよんでいたようです。
 しかし、イエスの罪の赦しを耳にする律法学者やファリサイ派の人々は、それが気にいらなかった。今日のみ言葉では「かねてからキリストを罪に陥れ訴えようと、その告発をさがし続けている律法学者やファリサイ派の人々がイエスの前に一人の罪人、姦通の現場で捕らえられた女の人を連れて来て、しつこくイエスの前で質問をしようとしています。その彼らの企てたたくらみは巧妙です。何故かと言うと、もし、罪の女をイエスが赦すとすれば、モーセの律法に背くことになります。それは神を冒涜するという口実になります。また、律法で命じられているとおり罪を犯した女の人を石で撃ち殺せと命ずるならば、イエスがこれまで教え説いてきた愛と神の憐れみの教えについて、自ら踏みにじる、その教えを覆すことになる。さらに、イエスが律法に従って「殺しても構わない」ということにするとすれば、死刑の判決をくだすことになり、当時、イスラエルの国はローマ帝国の支配のもとにありますから、死刑に関する権限を持つローマ帝国に反する政治的な犯罪者としても、告発することが出来るということになります。ですから、律法学者やファリサイ派の人々の意向、意図は必ずしも宗教的なものだけではなくて、政治的な意図もそこに含んでいたことが想像されます。その巧妙さは、まさに極まりの様相をみせていたということになります。

 いつの時代でも自分の正しさを主張する者がいます。人の良い行いや喜びに対して、素直に喜ぶのが難しいのが私たちにもあると思います。先週の「放蕩息子」の話しの中にもそのことが描かれていました。弟が還ってきて父親が喜んでいるのに、長男である兄はとても冷ややかな態度でした。妬んでいる態度にもみえました。特に、真面目な人間は、悪い者は罰せられて当たり前だという考えが強いように思われます。赦すことがなかなか歓迎出来ない、超まじめ人間は私たちの中にもいるような気がします。そして、私も中にもそういう一面があるようにも感じます
 私たちはいったいどちらの側に立っている人間でしょうか。イエスのように人を愛し、人を赦す側に立っているでしょうか。それとも妬んで人の罪を揶揄する立場に立っているのでしょうか。自分の罪に目がゆかず、自分の罪に対しはまさに盲目で、人の罪を責め立ていきり立って訴えている人。時には自分もそうした人の中に立っているような気がします。あるいは、反対に人に訴えられている罪人になっているのかもしれません。私たちは一人で二役を演じているような気がします。罪人を揶揄する自分と、自分では気づかないけれど人から訴えられている自分がいるのではないでしょうか。でも、聖書で私たちに姿を示されるイエス・キリストは
罪人に対して、差別されている人に対しても手を差しのべている人です。「たとえ話」にでてくるように99匹の羊ではなく、群れから離れてさまよい迷った羊の一匹を探し出したことを心から喜ぶように、失われたものを見いだそうとするイエス・キリストは、いつも私たちのそばに立っています。

 私たちは、様々な考えをもって、生活をもって、価値観をもって社会の中で生活しています。人から拒絶される人にはそれなりの理由があります。もし、その人自身だけを見るだけなら、とても愛することは難しいことだと思います。その人に注がれている、もし神の愛を見ることができるならば、私たちは少し違った目で人と接することができるような気がします。失われたものに近づくことも、見いだすことも、ただ一方的に見るならば、それは難しいことだと思います。さらに、その人を愛することは簡単にはできないことだと思います。神がその人を大切にされておられる、神が愛している、神がその人を救いに招いておられる。そういう目で私たちも人を見ることが出来るならば、私たちの心の中に愛の光が、愛のぬくもりが、きっと周りの人にもあてて見ることが出来るような気がします。

  今日のみ言葉で、イエスの前に連れてこられた一人の女は罪人でした。誰もが罪を犯した女であることを認める人でした。ですから、この人の犯した罪は当時の律法では石殺しの刑に処せられてもおかしくないと思われる人でした。でも、律法学者やファリサイ派の人々はイエスをこころよく思っていませんでしたから、イエスが罪人に対してどのような反応をみせるのか興味津々でありました。イエスがその人を赦すと言えば律法を破る、殺せと言えばイエスがこれまで愛を説き赦しを説いてきたことに矛盾し相反することになる。ただひたすらイエスを窮地に陥れようとしていた人たちは、イエスの答えをただ待ち続けました。
 イエスは沈黙しています。地面に指で何かを書いておられたと聖書は語っていますけれど、イエスはその時何を考え、何を地面に画いていたのでしょうか。沈黙が流れる中でイエスは立ち上がり「罪のない者がまず石を投げなさい。」と言われました。自分自身を深く考えてみると、私たちはお互いにそんなことは出来ないのではないか、そういう言葉に聞こえてきます。石を投げようと拳に石を握っていた人々は、イエスの「罪のない者がまず石を投げなさい。」という言葉を心に留めました。心に響きました。年長者の方もいます、信仰に熱心な方もいます、律法をひたすら守ってきた人々もそこにいました。法で定められたことであるということも知っておられる方もたくさんおられたと思います。でも、イエスの言葉が心に響いた。長老の人たちもまた、イエスの言葉にもう一度、自分自身を見つめる一瞬がありました。
  人生の様々な経験をしてきた年長者の人々でさえ、自分の心を思い巡らして、石を握った手が緩んでしまう、自分にはそういう資格がないということに気づかされます。私も罪人である。私はけっして罪を犯した人間ではないと誰もが自信を持って言えませんでした。罪人の女に石を投げつけようと立っていた人々は、同じ神の前で赦されなければならない、人間の一人であると気づからされました。彼らの姿は私たちの惨めさであるともいえるでしょう。私たちも自分の罪や欠点に盲目になります。そして、人の過ちには厳しく敏感になります。パウロは今日の第二朗読の中で真理のうちに自分を見つめ回心するようにと勧めています。「なすべきことはただひとつ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神を目指てしひたすら歩みなさい。」(フィリピの教会への手紙3章13~14節)それは過ぎ去った過去に目を向けるのではなく、悔い改めたならば、その新しい心をもって前に向かいなさいということだと思います。第一朗読(イザヤの預言)の言葉にもそうした勧めがありました。始めからのことを思い出すな、昔のことを思い出すな。過去の罪を含めて、過去にとらわれることなく前に進みなさいという言葉が第一朗読の中にもみられます。人生経験の豊かな年長者が自分の罪深さに気づいたように、イエスの言葉は私たちに気づきを与えてくださます。罪を犯した女性にイエスは声をかけました。「私もあなたを罪に定めない。」神の愛、神のいつくしみがどんなに大きなものか、どんな罪深い人に対しても神のあわれみは注がれていることか。
 でも、罪に定められていることは 、自分が人を裁くほど清廉潔白ではないということではないと思います。イエスにとって、あなたを罪に定めないということは、十字架において  その罪をイエスは引き受けられるからです。イエスがどんな罪をも赦す理由は、一つの願いが 託されていることを私たちは忘れてはならないようです。その願いということは、これからはもう罪を犯してはならないということ。それは、ゆるしの秘跡の中でも入って深く繋がっていきます。

 イエスによる新しい出発には 、罪を赦してくださったイエスに対して、真実、罪を犯さないように生きることです。また、そこには新しい生き方が生まれることであり、隣人に対して他者に対して、愛が始まることでもあるということです。四旬節、 悔い改め、すべての人が神の懐に戻るとき、回心のときです。赦しの恵みをいただく私たちは、その恵みをくださった神の愛に生きることで、神の子に相応しく、罪から解放され、新しい自分を発見することになると思います。私たちが洗礼のときに頂いたその恵みにもう一度立ち帰り、新しい人として生きる決心をして、神の祝福、神の赦しを願って歩みたいと思います。』


「派遣の祝福」の前に神父様から、今回、改宗されることになったお二方の紹介がありました。


御ミサの後、黙想会の第2部として、
今日の福音「ヨハネ8・1-11」が再び朗読された後、黙想を行いました。
その後、分かち合いとして、お二人の信徒からご自身の信仰についてのお話しをいただきました。