2021年3月6日土曜日

四旬節第3主日

 3月7日(日)四旬節第3主日 レイ神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。(英語版も掲載しています)




【福音メッセージ レイ神父様】

• ヨハネによる福音書 2章13-25

 この福音書の話を聞いた人は誰もが少し驚いてしまうと思います。イエスが鞭を持ち人々を怒りを含んだ声と絶望感で追い出した話など聞いたことがありません。イエスらしくありません。私たちが大いに期待する辛抱強くやさしく憐れみ深い人が、突然自制心を失ったかに見えるからです。他に考えられることはありますか?いえ、ないのです。あなたたちは見過ごしたかもしれませんがイエスはある理由を語ります。

 初めて神殿に上った少年イエスのことを覚えていますか?父母と一緒でしたが神殿に心を奪われてしまい、そこに留まったのです。両親は帰って行きましたが、イエスがいないことに気がつき、走り戻ってきました。そこで見たのは、イエスが年上の人たちと質問したり答えたりしながら座っている姿でした。

 私たちの教会において神殿の意味にこれ以上のものはありません。それは神のシェキナーと呼ばれたもので、そこはこの世における神の最高の居場所、神の住む最も神聖な場所であり、神に礼拝がなされる大切な場所でした。多くの苦しみ、砂漠や辛い状況をくぐり抜けてきた一群の人々が最後にたどり着いた小さな選ばれし土地。そこに神殿、美しい神殿が建てられ、神のシェキナーが栄光のうちにきらめき、はるか遠くから訪れたすべての参拝者はこの世で神の最高の居場所である素晴らしい神殿を見たのです。

 さて成人となったイエスはその神殿に入り、そこで何が起こっていたのかを目撃します。そこで商売がされ人々は貧欲に金儲けをしています。何のために?父なる神のシェキナーのために?「父の、父の家を家畜市場にしてはダメだ!」イエスはこんなのは決してされるべきではないと大声で訴える少年です。怒りでほとんど許すことができません。そこで鞭を手に人々を蹴散らします。もちろんこの人たちだけが追い出されるべきではなく、そこを仕切っていた人々が問題なのです。これを許可していた祭司長たちが分っているべきだったのです。場所をわきまえず金儲けをしようとしていた欲深い小者たち。イエスはそれを承知していたので答えはとても不思議なものでした。祭司長たちが来て「なんでこんなことをするのか、どんな権威があるのか?」と言うとイエスは不思議なお答えをされます。「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる。」

 イエスはご自分の体のことを話しておられたのです。周りにいる人々をご覧になりながら、悟っていまた。もしこのようなことが神の神殿でされたなら、イエスの心の底にあった大きな恐れは本当でした-いつの日か人々は彼を捕らえ生贄とし丘の上で磔にする。そして生まれた日と同様にはっきりとわかっておられたに違いありません。

自分が来たのは、何と悲しい・・・

しかし、聖書にあるご自分の話と神のシェキナーをご存知でした。神、父ご自身がイエスを送り、その命と引き換えに世の罪を贖い、そして人類と神との新しい関係の、世界の果てまで到る章を開くことを知っておられました。なぜなら自分がメシアであることを理解し始めていたからです。父の選ばれし者、神のシェキナーの平和と喜びを再びもたらす者、そしてそれは地の果てまで届いて行くのです。

そのように福音記者は彼のこのことを書き記します。

 イエスが過ぎ越し祭の間イスラエルにいた時、多くの人々はイエスのされていることを見て彼の名を信じ始めました。しかしイエスは彼らをすべてご存知でしたし、人間の性分を語る必要もないので敢えて彼らを信用されようとしませんでした。神ご自身が人間となります。人間であることが何を意味するのか、苦痛に耐え、期待は打ち砕かれ、最後に死に直面することを彼が知らなかったとは誰も言わないでしょう。イエスは心の中でそれを知っていました。これがイエスの大きな気持ちのわけです。「どうして、どうして愛することを学べないのか。なぜこのような行いをするのか、どうして先に行かねばと思うのか、なぜ人々は傷つけ合うのか?なぜ人々は神の偉大な寛大さを腐った市場に変えてしまうのか?」神への愛がイエスを突き動かします。十字架上から言われたように、神への愛が理解をします。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」

 そうです、今日、私たちはここでイエスに出会います。ここで自身の人生を見つめ始めます。メシアがこの教会で私たちのところに来られたからです。私たちと一緒にいるために来られたのです。私たちを勇気づけるために、癒すために来られたのです。神のシェキナーは今やイエスそのものです。そしてこのことは今日の朗読の意味です。「救い主はどこにいますか?」あなたの中に、たがいの中に、共同体の中に、そしてここにおられます。次に私たちは何をしようとするでしょうか?イエスの時代の人々のように「しるしを見せてください、奇跡をおこしてください、派手にいろいろやってください」と催促しますか?

いいえ、イエスはわかりやすく言われました。「今日、明日、いつも、そして世の終わりまであなたと一緒いる。」あなたの人生とは何でしょうか。それはイエスと共に歩き、語り、感化されることです。そうすることであなたも人生を喜びと、平和と、そしてなによりも新しい愛と共に、神に向かってではなく、イエスに向かってでもなく、お互いに向かって歩むことができるのです。


• Gospel: John 2:13-25  

I’m sure you, as everybody who hears this gospel, are a bit surprised. And never have we heard Jesus taking a whip and driving people out and anger in his voice and almost desperation. It is so unlike him, the one who is patient and kind and forgiving and all these things that we expect of him, and, all of a sudden, it seems that he’s lost a gigantic temper. Is there any way out of this? No, there isn’t. And he tells you – you might have missed it – he tells you one of the reasons why.

Do you remember the little boy Jesus, who went to the temple for the first time? He went with his mother and his father. And he was so fascinated by the temple that he stayed there. And his parents went away and then they realised they’d lost him and they came running back and they found him sitting in the temple with the elders, asking and answering questions.

We have nothing like the meaning of the temple in our church. The temple was what they call the Shekinah of God, where God was most present in this world, where God lived in the Holy of Holies, where God was worshipped and treasured by a people who went through so much pain, through deserts and some terrible conditions, to finally get to the little place, the chosen land, and build a temple, a beautiful temple, a temple where the Shekinah of God could blaze in glory to all the visitors that would come from far, far away to see this wonderful temple where God was most present in the whole world.

And now grown to manhood, Jesus walks into the temple and he sees what has happened to it. He sees a shopping area. He sees people hungry with greed to make money. And to make it on what? The Shekinah of his Father? And he says, “You have taken my Father’s house, my Father’s house, and you’ve turned it into a cattle market. How could you do that?” He’s a little boy complaining in a great voice, that this should never have been done. And he is almost unforgivable in his anger. And he does take up a whip and he does drive them out. And, of course, these are the people who don’t deserve the whip or the driving out. It’s those who are in charge, the high priests who allowed this to take place in their temple, they should have known better. These are only greedy little people trying to make money and don’t care where they try to make it.

And Jesus knows that and that’s why his answer is so strange. When the chief priests come up to him and say, “How dare you do this! By what authority do you do it?” and he says, very strange, he says, “Destroy this temple and in three days I will raise it up again.”

And he was talking about his body. He was talking about — he knew, he looked at them and he looked at the people around him — if they could do this to God’s temple, then the great fear that he had within his heart was true: one day they would take him and he would be the sacrifice and they would drive him up a hill and they would crucify him. And he must have seen that as clear as the day he was born.

And how sad, he who came…

But he also knew his Scriptures and he knew the Shekinah of God. He knew that God Himself, his Father, was sending him to lay his life down that he might redeem the world and to open another chapter in God’s relationship with mankind, a chapter that would reach the farthest ends of the earth.

For he began to understand that he was the Messiah, the Chosen One of his Father, who would bring back the peace and joy of the Shekinah of God and it would go into the farthest ends of the earth.

And so it is that the writer says this of him,。

While he was in Jerusalem for the feast of Passover,
many began to believe in his name
when they saw the signs he was doing.
But Jesus would not trust himself to them because he knew them all,
and did not need anyone to testify about human nature.

God Himself becomes man. No one can say that he does not know what it means to be a human being, to suffer pain, to have expectations shattered and, finally, to have to face death. He knew that in his heart.

And this is the cause of his great feeling. “Why, why, why can they not learn to love? Why must they act this way? Why must they feel they must get ahead? Why must they hurt each other? Why must they take the great goodness of God Himself and turn it into a rotten market place?”

The love of God drives him on. The love of God allows him to understand just as he said from the cross, “Father, forgive them. They know not what they do.”

Yes, this is where we meet him today. This is where we begin to look into our own lives.

Because the Messiah has come to us in this church. He has come to be with us. He has come to encourage us. He has come to heal us. The Shekinah of God is now Jesus himself.

And this is the meaning of the reading today.

When you say, “Where is the Messiah?” He is in you, in each other, in the community, and he is here.

And what are we to do? Challenge him as the people of his own time did and said, “Show us signs, show us miracles, do some razzle dazzle”?

No. He just said very simply, “I am with you, today, tomorrow, all days, even to the consummation of the world." And what is your life? Your life is to walk with him and talk with him and let him influence you, so that you too can walk through life with joy, with peace, and, most of all, with a new love, not for God, not for Jesus, but for each other.



【聖書朗読箇所】

信じる者の力である神よ、
あなたは、祈り、節制、愛のわざによって、
  わたしたちが罪に打ち勝つことをお望みになります。
  弱さのために倒れて力を落とすわたしたちを、
  いつもあわれみをもって助け起こしてください。
   集会祈願より

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第1朗読 出エジプト記 20章1~17節

神はこれらすべての言葉を告げられた。
「わたしは主、あなたの神、
あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

あなたはいかなる像も造ってはならない。
上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、
いかなるものの形も造ってはならない。
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、
それらに仕えたりしてはならない。
わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。
わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、
幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

安息日を心に留め、これを聖別せよ。
六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、
いかなる仕事もしてはならない。
あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、
あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、
七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して
聖別(せいべつ)されたのである。

あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、
主が与えられる土地に長く生きることができる。
殺してはならない。
姦淫(かんいん)してはならない。
盗んではならない。
隣人に関して偽証してはならない。
隣人の家を欲してはならない。
隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」


第2朗読 コリントの信徒への手紙一 1章22~25節

ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。
すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、
異邦人には愚かなものですが、
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、
神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。


福音朗読 ヨハネによる福音書 2章13~25節

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、
イエスはエルサレムへ上って行かれた。
そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、
座って両替をしている者たちを御覧になった。
イエスは縄で鞭(むち)を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、
両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」
と書いてあるのを思い出した。

ユダヤ人たちはイエスに、
「あなたは、こんなことをするからには、
どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
イエスは答えて言われた。
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
それでユダヤ人たちは、
「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、
あなたは三日で建て直すのか」と言った。
イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。

イエスが死者の中から復活されたとき、
弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、
聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

イエスは過越祭(すぎこしさい)の間エルサレムにおられたが、
そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。
それは、すべての人のことを知っておられ、
人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

2021年2月27日土曜日

四旬節第2主日

 2月28日(日)四旬節第2主日 湯澤神父様の「福音への一言」を、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


【福音への一言 湯澤神父様】

2021年2月28日 四旬節第二主日(マルコ、9章2~10節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

今日の福音書の個所は、イエス様のご変容の出来事を語っています。そしてこの個所を理解するには、前後の出来事を踏まえる必要があります。それで、簡単に流れを遡ってみましょう。フィリポ・カイザリアで、イエス様は御自分のことをどう思っているか尋ねます。ペトロが「あなたはメシア(キリスト)です」と答えます。すると誰にも話さないように言いますが、それでいてイエス様は、御自分の受難について公然と話し出します。そこで今度は、ペトロがイエス様に話さないようにアドバイスします。するとイエス様は、それは人間の考えであって、神様の考えではないと激しく叱り付けます。

「イエス様がキリスト(メシア・神の子)である」とはどういうことなのでしょうか。実は、ペトロを始めその当時のイスラエル人すべてが知っている「メシア」という存在のイメージを、イエス様は根本から変えようとしています。人間的な考え、それは誰もが持っている同時の人々のメシア観なのです。しかし、神様がイエス様を通して示し、教えようとしたメシア観はまったく違ったものでした。これを最も明確に示すものが十字架の死と復活だったのです。ですから、公然と受難について語り始めたのです。

こうしたことを背景にイエス様の御変容の出来事があります。そこで、神様は、神的存在と思われていたモーセとエリヤと共に、イエス様に神様の輝きを示させます。イエス様は受け身で、弟子たちも受け身で、それを見させられます。ここで、世の終わりに来るメシアと受難のメシアを区別させようとしています。この出来事は、イスラエルの人たちのメシア観、世の終わりと栄光のメシアというメシア観と、神様の示そうとする、歴史の中で苦難を受けて殺され、復活するメシア観を分けて見るようにさせる出来事なのです。

四旬節は洗礼志願者と共に過ごすときです。洗礼志願者は、イエス様がキリスト(メシア)であることを信じそれを、聖土曜日には宣言しようと知的にも霊的にも準備しています。私たちも彼らと四旬節を共に過ごそうとしているとしたら、私たち、洗礼を受けた者も、もう一度イエス様がキリストであると信じたその信仰を見直してみようではありませんか。何か人間の思いが付け加わって、神様が示そうとした姿からずれてしまっているかもしれません。この見直しの上に立って、聖土曜日に洗礼を受けた時のような、初めてキリストに出会った時のような新たな気持ちで、聖土曜日の「洗礼式」の後に行われる「洗礼更新式」を受けるようにしてみませんか。  

では、どのようにしたらいいのでしょうか。ご変容の場面で神様は私たちに向けて言葉を残しています。「これは、私の愛する子。これに聞け。」私たちが今なさなければならないことは、この世に来られて来られたイエス様にもう一度目を注ぎ、その言葉にもう一度耳を傾けることではないでしょうか。                

湯澤民夫


【聖書朗読箇所】


聖なる父よ、

  あなたは「愛する子に聞け」とお命じになりました。

  みことばによってわたしたちを養ってください。

  信仰の目が清められて

  あなたの顔を仰ぎ見ることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 創世記 22章1~2, 9a, 10~13, 15~18節


これらのことの後で、神はアブラハムを試された。

神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、

神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子

イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。

わたしが命じる山の一つに登り、

彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」


神が命じられた場所に着くと、

アブラハムはそこに祭壇を築き、薪(たきぎ)を並べた。

そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠(ほふ)ろうとした。

そのとき、天から主の御使(みつか)いが、

「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、

御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。

あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。

あなたは、自分の独り子である息子すら、

わたしにささげることを惜しまなかった。」


アブラハムは目を凝らして見回した。

すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。

アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、

息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。


主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。

御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。

あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、

あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、

海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。

地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。

あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」



第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章31b~34節


もし神がわたしたちの味方であるならば、

だれがわたしたちに敵対できますか。

わたしたちすべてのために、

その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、

御子と一緒にすべてのものを

わたしたちに賜(たまわ)らないはずがありましょうか。


だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。

人を義としてくださるのは神なのです。

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。

死んだ方、否(いな)、むしろ、

復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、

わたしたちのために執(と)り成してくださるのです。



福音朗読 マルコによる福音書 9章2~10節


六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、

高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、

服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も

及ばぬほど白くなった。


エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

ペトロが口をはさんでイエスに言った。

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。

仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、

一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。

弟子たちは非常に恐れていたのである。


すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、

ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

一同が山を下りるとき、イエスは、

「人の子が死者の中から復活するまでは、

今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

彼らはこの言葉を心に留めて、

死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。 

2021年2月20日土曜日

四旬節第1主日

 2月17日「灰の水曜日」から四旬節が始まりました。

灰の式は、勝谷司教様と松村神父様の共同司式により行われました。



2月21日 四旬節第1主日の松村神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。

【福音メッセージ 松村神父様】

2月21日四旬節第一主日 メッセージ

昔はよく街角で「神を信じなさい!洗礼を受けると救われます!」「信じる者は救われる!洗礼を受けたものに救いが与えられます!」とアナウンスが流れていた。特に1999年の世紀末問題では似たようなキリスト教系の宗教や新興宗教・新新宗教・カルト教が人の不安に付け込んで、救いをちらつかせて人々に恐怖からの救済を伝えていた。私は同じキリスト教を信じる者として、その伝え方に詐欺めいたものを感じていた。確かに文言は間違いではないのだけど、メリットしか伝えない手法は詐欺師の常とう手段。実際私たちの信仰はメリットばかりではない。

私たちは洗礼を受けるとバラ色の人生が待っているように受け止めがちだが、実際皆さんの生活がバラ色である人はそれほど多くないだろう。日常生活が多くの問題を私たちに投げかけている中で、信仰と生活の間でもがいているのが一般的でしょう。

四旬節第一主日の福音ではイエスが誘惑に合うシーンが読まれる。何故洗礼を受けたのに誘惑に合うのだろう。そもそも洗礼の時に天が開け、霊がイエスにやってきた後、さっそくその霊に導かれて生活が面倒な荒れ野に連れていかれた。今回の誘惑もバラ色なイエスの人生であればあり得ないが、実際霊の導きと支えにより乗り越えた。今日のメッセージでは洗礼を受けることは決してバラ色ではない事を示されたのではないだろうか。それよりも霊の導きに従う生き方そのものが洗礼を受けたたまものであることを強調しているのではないだろうか。アダムは蛇の誘惑に負けてエデンを追放される。霊ではなく自由意志に従った結果である。イエスは自由意志に加え、サタンの誘惑に霊の導きをもって乗り越える。洗礼を受けることは自由意志と霊の導きに人生をかけることであり、特に聖霊に耳を傾ける事なのだろう。実生活の中でよいことが起こるのが洗礼ではなく、洗礼は霊の導きを知りそれに耳を傾けて生きる力が与えられる恵み。だから日常生活でも不幸が起き、多くの問題が起き、誘惑があり、傷つき、泣き、倒れることもある私たちの生活は当たり前で、そのことが起こったから「神様などいない」とご利益信仰を掲げるのは私たちの信仰ではない。洗礼による力は諸問題を神の価値観で乗り越えるため霊に導かれるということを知る力なのだろう。つまり日常生活の問題は霊を知り霊に生かされていることを知る神の誘惑の場であるということで、そこから逃れて生きることは社会集団に属する私たちの生き方ではないことが言えると感じている。皆さんの日常生活こそ神と出会える生々しい現場であることを今日は知らされたことだろう。だから不幸を悲しみながらも、乗り越えるための希望を聖霊に願いながら歩まなければならない。それに誠実であれば、私たちは救われる。

消してメリットだけではない。その過程こそ最も大事であることを忘れて「洗礼を受けると救われます!」と飴だけを渡すようなことは避けねばならないことに気づかされる。

もう一度私たちに与えられた洗礼を洗礼志願者と共にこの四旬節中に思い起こすことを始めましょう。


【聖書朗読箇所】

全能の神よ、

  年ごとに行われる四旬節の典礼を通して、わたしたちに、

  キリストの死と復活の神秘を深く悟らせてください。

  日々、キリストのいのちに生きることができますように。

   集会祈願より

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第1朗読 創世記 9章8~15節


神はノアと彼の息子たちに言われた。

「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。

あなたたちと共にいるすべての生き物、

またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、

箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。

わたしがあなたたちと契約を立てたならば、

二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、

洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」


更に神は言われた。

「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、

代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。

すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。

これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。

わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、

わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、

すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。

水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。



第2朗読 ペトロの手紙一 3章18~22節


キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。

正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。

あなたがたを神のもとへ導くためです。

キリストは、肉では死に渡されましたが、

霊では生きる者とされたのです。


そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちの

ところへ行って宣教されました。

この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、

神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。

この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが

水の中を通って救われました。


この水で前もって表された洗礼は、

今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。

洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、

神に正しい良心を願い求めることです。

キリストは、天に上って神の右におられます。

天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。



福音朗読 マルコによる福音書 1章12~15節


それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。

イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。

その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。


ヨハネが捕らえられた後、

イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 

2021年2月13日土曜日

年間第6主日

 年間第6主日の福音メッセージをウルバン神父様からいただきましたので、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


【福音メッセージ ウルバン神父様】


“私は望む、清くなれ”。                 2月14日  ウルバン神父


皆さんは今日の福音の言葉を聞いたことがありますか。誰かが震えながら、泣きながらイエスに近づいてその前にひれ伏しました。ひどい皮膚病に傷つけられた顔を見上げようとして言いました:主よ、お望みでしたら、私を治すことができます。その時、どんな心、どんな顔、どんな目でイエスを見たでしょうか。暗闇と切望の中で光は一つしかありませんでした、それはイエスでした。

十数年前に私は十数人の中学生と共に外国へ行きました。深い田舎の中で私たちはバスを待っていました。バスが来ましたが、すごく混んでいました。それなのに、人々は私たちの可愛い日本人の女の子供たちを見た時、中へ詰めて親切に乗せてくれました。私たちが安心して外の景色を眺めた時、バスの中ですごい叫び声が聞こえた。次々と人が叫び出して、最後にバスのすべての人は騒いでいました。田舎の真中で、何もない所でバスが止まって、一人の男の人は蹴とばされて外へ追い出されました。後で言われたのは:まゆ毛が少し薄かったので、らい病人だと思われたのです。本当に病気だったでしょうか。バスはまた動き出して、寂しい所で追い出された人はだんだん見えなくなりました。あの方の顔を、孤独と恐れにあふれた顔を忘れませんでした。

イエスの前にひれ伏した人も心配して、それでも希望をもって主の顔を眺めながら待っていました。この方も皆と同じく石を拾うでしょうか。“汚れた者、人と神に嫌われた者、あっち行け”と言うでしょうか。いえ、そうではありませんでした。イエスの顔は哀れみにあふれ、また声が聞こえた。“私は望む、清くなれ”。その時、病人はどのように感じたでしょうか。彼にも天は開き光が見えたでしょう。僕は捨てられたもの、人のくずではない。僕も愛されていると深く感じて喜びにあふれ、それだけではなく、イエスは手を述べて彼に触れた。何年も人に逃げられた人は、初めて人の温かい手を感じました。その時、体の傷だけではなく、もっと深い傷、心の傷はイエスの手に癒されたのでした。イエスの言葉は本当です:”私は裁くためではなく、救うために遣わされた“。イエスは今日も私たちを救うために来ます、私たち一人一人を見て話します:”私は望む、あなたの救い、あなたの喜びを。“

上に話したバス旅は、森の中にあるらい病人の村への旅でした。ある子は初めて病人を見た時、ショックになって倒れてしまった。一日彼らと共に暮らしたあと、別れの時が来ました。言葉は通じなくて、あげるものも何もありませんでした。その時、子供たちは突然、別れの涙を流しながら手を伸べて病人を抱き始めた。村の人たちはびっくりしました。あの方々にとって最高のプレセントでした。別れはつらかった。村から離れた時、皆の姿はだんだん小さくなって、とうとう見えなくなったが、私たちの心の中にずっと生きていました。寝る前、皆で分かち合った時、皆は喜んでいました:イエス様が心の中に生きたら、私たちの手もイエス様になります。どこかの人は私たちの手を待っています。


【聖書朗読箇所】


救いの源である神よ、

  ひとり子イエスのことばと行いによって、

  あなたの愛は世に現されました。

  悩み、苦しみの中から救いを求める わたしたちの声を聞き、

  きょうもいつくしみの手を差し伸べてください。

   集会祈願より


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第1朗読 創世記 3章16~19節


神は女に向かって言われた。

「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。

お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め

彼はお前を支配する。」


神はアダムに向かって言われた。

「お前は女の声に従い

取って食べるなと命じた木から食べた。

お前のゆえに、土は呪(のろ)われるものとなった。

お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。

お前に対して

土は茨とあざみを生(は)えいでさせる

野の草を食べようとするお前に。

お前は顔に汗を流してパンを得る

土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。

塵(ちり)にすぎないお前は塵に返る。」



第2朗読 コリントの信徒への手紙一 10章31~11章1節


だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、

何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、

あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。

わたしも、人々を救うために、

自分の益ではなく多くの人の益を求めて、

すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。

わたしがキリストに倣(なら)う者であるように、

あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。



福音朗読 マルコによる福音書 1章40~45節


さて、重い皮膚病を患(わずら)っている人が、

イエスのところに来てひざまずいて願い、

「御心(みこころ)ならば、

わたしを清くすることがおできになります」と言った。

イエスが深く憐(あわ)れんで、手を差し伸べてその人に触れ、

「よろしい。清くなれ」と言われると、

たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。


イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。

「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。

ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを

清めのために献(ささ)げて、人々に証明しなさい。」


しかし、彼はそこを立ち去ると、

大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。

それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、

町の外の人のいない所におられた。

それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。


注:「重い皮膚病」は、1987年の新共同訳聖書とは異なります。


2021年2月7日日曜日

年間第5主日

 レイ神父様からいただきました年間第5主日の福音メッセージをご紹介します。(英語版も最後に掲載しています)



なぜイエスがこの世に来たかについて様々な説明がありますが、神が御ひとり子を最後の楽園のこの世に送られた本当の理由には殆どが至っておりません。

アフリカのことわざに「どこで雨が打ち始めるかを知らない者は、どこで体が乾いたかは言えない」。私たちがどうしてこの罪深い状態に陥ったのかをよく理解するために、どこでこの罪の雨が打ち始めたのかを振り返って見ましょう。以下の聖書の所でどのようにして人間が神の無条件の恩恵と土地より、制限のある場所へと追放されてしまったのがわかります。「主なる神は言われた。見よ、人は我々の一人のように、善悪を知るものとなった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者になるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼にそこから取られた土を耕せることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎をおかれた。

悪魔は人間の不幸の起源であります。天国から神に追放されたのち、神の国でなされていることとはまるで反対の性質のこの世の王国を作ることにとりかかったのです。神と悪魔の戦いの本質はどちらを称え賛美するかにあります。しかし、この世全ては神の創造であるということを忘れてはなりません。悪魔でさえ神の創造であり、それはこの世とその被造物に働きかけます。神がアダムとイブを造られたのち、悪魔は人間の注意、信頼、従順さを神から自分に向けようとしました。蛇を用い人間から神の恵みを取り去り、命の木のある天国と呼ぶエデンの園から追放させたのです。

神は自らの姿に似せて人間を造られました。創造に先立ち、神はなぜ私たちを造るのかをご存知でした。生まれたときから死ぬときまで私たちのすべきことをご存知です。目的なく神に造られた者はおりません。この世に生れ落ちるとき、それぞれの才能により働くよう望まれます。それを使い成し遂げ、その道のりで神に仕え、称え、賞賛すべきなのです。つまり私たちは神から来てこの世でそれぞれの任務を行うのです。それを終えると、栄光のうちに最後に神の元に戻ることを望まれます。イエスが遣わされたのはイエスの多くの教えによって、この世にいる間に悪魔の罠に陥らず燃えさかる地獄に行くことがないよう私たちに気を付けさせるためなのです。イエスは私たちのもとの家、天国に帰るのを望まれています。

イエスは言われます。自分の才能を活用しその成功を神に帰すことをしなければ私たちは罪に陥ります。成功すると富、地位そして世の権力を崇拝し始めます。この世にある全てのものは神に在り、栄光は神のみに与えるべしということを忘れてしまいます。イエスは何を表しますか?富を得たとき、神を称え賛美するということなのです。富やこの世の王を称えて神を忘れるのは罪なのです。イエスはこうも言われます。神はあなた方がよりよく神に仕えることができるようにと富をあたえたと。しかし我々人間はお金をくださいと神に祈り、それを得ると神を忘れ、それを崇拝しはじめるのです。イエスが金持ちの若者に話された通りです。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。


Many people ask why Jesus Christ came to earth. They get different explanations from different people, but mostly they do not get the real reason that made God to send His only begotten Son to the world as the last resort.

There is an African proverb that says, “a man who does not know where the rain began to beat him cannot say where he dried his body!” Therefore, to better understand how we got ourselves to this deep state of sin, let us retrace back our steps to where this rain of sin started beating us.

From the Bible Verse below we see how man was banished from the unconditional God’s Grace and Providence to conditional providence. “Then the Lord God said: See! The man has become like one of us, knowing good and evil! Now, what if he also reaches out his hand to take fruit from the tree of life, and eats of it and lives forever? The Lord God, therefore, banished him from the garden of Eden, to till the ground from which he had been taken. He expelled the man, stationing the cherubim and the fiery revolving sword east of the garden of Eden, to guard the way to the tree of life.

Satan was the genesis of man’s misery. After being banished by God from the Heavenly Kingdom, he set forth in quest to build his earthly kingdom whose characteristics are the exact opposite of what is practised in God’s Kingdom. The bone of contention now between God and Satan is who will praised and glorified more than the other. But don’t forget that the whole world is a creation of God, but Satan, still a creation of God, works entirely on earth and its contents. So, after God created Adam and Eve, Satan had his chance to divert man’s attention, faithfulness and obedience from God to himself. So using the serpent, he managed to remove man from the Grace of God and man was banished from the Garden of Eden, which we can equate to the Kingdom of Heaven, where the Tree of Life is found. You know, God created us in His own image. Before He creates us He already knows for what reason He is creating us. He knows the exact tasks we will perform right from when we are born until death. No one is created by God without a purpose. When God creates us and places us on earth, He expects us to work as per our talents. We are then required to exploit and utilize our talents and on the process serve, praise and glorify God.

So it means we initially come from God, then He places us on earth to accomplish a particular task. Then once we accomplish that, He wishes that we go back to Him on the last day in glory.

Therefore Jesus, from His many teachings, was sent to make sure that while we are here on earth we don’t get trapped by Satan and end up in the fiery Gehennah. Jesus wants us to return to Heaven our original home. Jesus tells us that we fall into sin when we exploit our talents and fail to attribute our success to God. When we become successful, we start worshipping money, social status and earthly power. We forget that all that is in this earth belong to God and only Him we should give glory to.

What does Jesus Mean? He means that when you get money, praise and glorify God. Don’t praise money and an earthly king and forget God because that is sin.

Jesus also says that God gives you money to enable you to serve Him better. But we human beings pray to God to give us money but after we get it we forget God and start worshipping money. That is the one reason Jesus told the rich young man that it is easier for a camel to enter through the eye of a needle than for a rich man to enter into heaven.



2021年1月30日土曜日

年間第4主日

 1月31日 年間第4主日 湯澤神父様の「福音への一言」をご紹介します。



【福音への一言 form 湯澤神父様】

2021年1月31日 年間第3主日(マルコ、1章21~28節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

今日の福音は、イエス様が四人の弟子を呼び、彼らを連れて、神の国の到来を言葉としるしで告げ始めた最初の出来事です。教えたその教えの内容については語られていませんから、イエス様が何を語られたのかわかりませんが、とにかく人々は驚きました。マルコは、イエス様が、律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられたからだと述べています。

ところで何かを教え、語る時、たいていは何かの権威に基づいて教え、語ります。テレビのコメンテーターの「弁護士」などというタイトルを持つ人は、法律が後ろ盾、権威としてありますから信用されます。コロナの解説者の「○○大学病院院長」は、医学が権威です。会堂で教える律法学者は、聖書、律法、「神の言葉」が後ろ盾としてありますから信用されています。しかもユダヤ教では「律法」が最高権威ですから、これ以上の権威はありません。ですから、イエス様は権威あるものとして語られた。つまり、御自分を権威として語られたということでしょう。しかし、普通は、「私が言っているのだから正しい」などと自分を権威としたら誰も信用してくれませんし、驚きもしません。

この権威を証明する「しるし」が続く出来事です。ここでこんな言葉を思い出せます。「神の言葉は生きていて、力がある」(ヘブ、4.12)。人々は「権威ある新しい教えだ」と驚きました。ここでは、教えというより、言葉と理解していいでしょう。イエス様が言葉を発するとそれが実現するからです。そして「光あれ、こうして光があった」(創、1.3)、「神が仰せになると、そのようになる」(詩、33.9)など言葉も思い浮かびます。イエス様が命じられると、悪霊でさえ言うことを聞く。おそらく人々は、イエス様の言葉が神様の言葉と同じようなものだと感じたのでしょう。

このように見てみると、先週の湖畔での出来事も、違った面を見ることができます。イエス様が「私について来なさい」と言われると、ペトロとアンデレの二人はすぐに網などを捨てて従いました。ヤコブとヨハネを呼ばれると、彼らも父親や雇人を置いてすぐについて行きました。旧約時代、神様が誰かを預言者を呼ばれると、彼は預言を始めました。アモスやイザヤなどはその良い例です。私たちはミサで「神の言葉」を聞いています。侍者などが朗読後に「神の言葉」或いは「神に感謝」などと答えているあの「神の言葉」です。私たちは、その「神の言葉」を意識して「神の」言葉として聞いているでしょうか。たとえそうできなくても預言者ヨナの例にあるように、神様の言葉は実現していきます。私たちはミサだけではなく、色々なところで「神の言葉」を聞く機会があります。そんな時、「神の」言葉として意識して聞いてみませんか。その力を感じ取ることができるかもしれません。   

湯澤民夫


2021年1月24日日曜日

年間第3主日

 松村神父様からいただきました「福音のメッセージ」をご紹介します。



2021年1月24日 年間第三主日の福音のメッセージ 

松村繁彦神父

 今日は福音に書かれている「時は満ちた」「私についてきなさい」「2人はすぐに網を捨てて」という三つのポイントから、私たちに語られているメッセージを分かち合いたい。

1) 時は満ちたとは何だろう

イエスがこの世にお生まれになり、福音宣教を始める前に荒れ野で準備をし、イエスの使命を認識して福音宣教を始めた。神が人類をイエスに託したことをもって神の直接介入は以降教会に委ねられる。イエスにとっての最後の関わりという意味で私たちに緊張感を持たせているのだろう。神の国の到来を意味するこの言葉は、既に来ている“神の国”、まだ完成していない“神の国”という矛盾のように聞こえるこの両者の間で、気を引き締める言葉として私たちに投げかけられたのではないだろうか。であるから回心してまずイエスの福音の言葉に心をわしづかみされるよう導かれているのだろう。

2) 私についてきなさいとは

この言葉には力強い神の信頼を感じる。命令として私たちにその使命をゆだね、神の使命を私たちに委ね、その使命を全人類に広めてほしいという強い願いでしょう。もちろん私たちはそれほどの能力はない。しかし、それでも共に生活し、福音を聞き、歩むことを通して至らない私たちに少しでも成長し、罪やミスを犯す私達でも付き従うことが許され、共にイエスの生涯から学び取るよう身近に置いてくださった。イエスは信頼を私たちに持ってくださっていることを喜びとしたい。

3) 2人はすぐに網を捨ててとは

ここでは“すぐ”という言葉が強調されている。旧約聖書での召命物語では声をかけられた後には多少のゆとりがある。(列王記19:19~)エリヤはエリシャに親族への挨拶を許しているが、イエスはいとまごいに行かせることを許していない。(マタイ8:21~では)私たちはつい油断やゆとり、自分の都合や事情を言い訳に自分を正当化してしまうが、神のみ旨を行う者はまさに“今”の行いが問われているのだろう。目の前に倒れている人を前に、ちょっと用事があるので終わらせてから!と言えるだろうか・・・・ということである。後回しにしてしまう性質を見抜いて厳しさが要求される。なぜならば愛は常に今、目の前で行われるべきだからであろう。イエスが十字架にかかったことも、神ならばもっと後回しにもできたはずだが、あえてそのタイミングを受け入れることが求められた。“時が満ち”というその時のしるしは常に救いのため、弱い者・救いを求めている者への徹底した態度だからと感じる。そこを中心に置かれるイエスの姿勢は、人類に強い言葉をもって示し、要求されたのだろう。

信仰生活、特に日々の私たちの生き方にスパイスを与えてくれた今日の福音。至らない私でいいんだ!そんなあなたを選んだ!というイエスの覚悟。しかしその先には救いを待ち望んでいる人々がいるというイエスの暖かなまなざし。そこに私たちも“今”共感し、共に痛み寄り添うための心構えが“今”伝えられたのではないだろうか。


2021年1月17日日曜日

年間第2主日

 1月17日(日)主日ミサの様子 松村神父様司式

ウルバン神父様からいただきました年間第2主日の福音メッセージをご紹介します。


出会い                        年間第二主日  2021. 1. 17

今日共にヨルダン川へ行きましょう。もう午後になって西風が吹い始めたので、気分が少し楽になりました。大群衆も弟子もいないのでその辺りは静かになった。洗礼者ヨハネと二人の弟子、アンドレとヨハネ、川沿いに休んでいた。“あの方は今どこにいるでしょうか、何をやっているでしょ言うか。もう一回会えるでしょうか”と、ため息の中に洗礼者の心から流れ出た。ヨハネは川の中のあの方との出会いを忘れることができません。その方の名前さえも知りませんが、いつかまた会うこと心から望んで、その日を待っています。 

目を上げてみると、遠くから誰かが来るのを見ています。“もしかしたら、あの方ではないでしょうか。本当にそのとおりだよ”。感動と嬉しさで震えながらヨハネは二人に言った:“見よ、これは神の子羊ですよ”。三人はじっとイエスの近付いて来るのを見ています。ところがあの方が静かに左右を見ないで三人の前を通って行ってしまいました。その時二人の若い弟子は自分の先生ヨハネを全く忘れて静かにイエスに付いていきました。この方の不思議な神秘に心が捕らえられた。

しばらく後について歩いたら、イエスが振り向いて二人を見つめた。二人も足を止めて恥ずかしそうに足元を除いていた。声が聞こえた:“何を探しているのか”。何と答えたらいいかと困っていた。それで子供のように素直に尋ねた:“ラビ、あなたはどこに住んでいるのか”。イエスはこの素直な心の中から出た願いを聞いた時どんなに喜んだでしょうか。イエスの答えも二人の心の真中に入りました。“来なさい、そうすればわかるでしょう”。その時二人は急いでイエスのそばに来て、共に歩き続きました。その後どこへ行ったか、何を見たか、何を体験したか、二人は誰とも話しませんでした。

イエスとの出会いの美しさ、その深い感動を言葉で言い表せないのです。何も言いませんでしたが、心の中の力の泉とのようになりました。使徒ヨハネが何十年後この出会いについて書いたのは:“これは午後、四時ごろでした”。イエスとの出会い心の中で何十年生きていた。弟子たちにとって一生の思い出、心の中に抱く消えない宝です。私たちも二人の弟子のように探しに付いて行こう。イエス様も私たちの付いて来るのを待っています。いつかあなたにも、私にも振り向いて言う:“来なさい。そうすれば、分かる”。

何年前のことで、三日間の黙想会―マリッジエンカウンターの帰り道の時でした。車の中で9歳の息子は参加した未信者のお父さんに聞きました。“お父さん、イエス様が好き?”お父さんは返事しませんでした。しばらくたつと、子供はもう一度聞きました。“お父さん、イエス様が好き?” 返事はありませんでした。夜になって家に近くなった時、子供はもう一回聞きました。”お父さん、イエス様が好き?“ 返事は:”うるさい“。それで家に着きましたが、お父さんはドアを広く開けて、深いおじぎをしながら大きな声で言った:”イエス様、どうぞ、私の家に入ってきてください“。そのあと家族は家の中にはいりました。確実に、その時イエスは彼の家にだけではなく、彼の心にも入ったのです。復活祭の夜みなの前で聞かれた時 ”洗礼を望みますか“と、彼が ”はい、望みます“と答えた。彼もイエス様に出会って、喜びにあふれた。              ウルバン神父


2021年1月10日日曜日

主の洗礼

 レイ神父様からいただきました「主の洗礼」の福音メッセージをご紹介します。


主の洗礼の祝日

 私たちの洗礼と今日の洗礼の更新約束により、イエスの福音宣教と十字架において、私たちは引き続きキリストと共に旅をする約束を新たにするのを思い出すべきです。

 イエスは洗礼により、私たち人間の罪ある状態をご自身に罪がなくても明らかにされ、そして、その方が世の罪をやがて取り去るのです。しかし私たちはイエスに尋ね従順である必要があります。

この洗礼でイエスは30年前に受肉されたように、この世へともう一度水に浸りました。典礼的には少し前のクリスマスの日にです。この期間最後の日である今日、私たちはもう一度神が私たちと結びつき、抱き、愛し、皆を求められ、そうです、すべての人々が神の統治の中にいるのを見ます。

 洗礼者ヨハネが舞台から去りイエスが中心となるこの時、わたしたち自身の洗礼は、罪深い過去をとり除きキリストのうちに新しい生活を始めることを思い出させます。洗礼は私たち皆にとって新しい始まりであり、神の生活の中での共有であります。神は私たちと共にある。あまりにも美しく力強いので、ときおり私たちは神がいかに私たちを愛し、神の子どもとして作られたということをわかりずらくします。残念なことに私たちの多くは、洗礼やそれが私たちの生活や態度に意味をなす新しい始まりを覚えていません。ですから特に今日、私たちは洗礼が意味する全てのことを思い起こさねばなりません。僅か10日前、新年の決意とともに新しいスタートを切ったことでしょう。2週間も経っていませんが、いかがですか。今日は私たちの新しい始まりを振り返る日であります。洗礼からの呼びかけ、それを再約束し、新年の決意のようにそれを怠っていないかを振り返る日なのです。

 イエスにとって洗礼は神に愛されるものであるということを認識する、大変重要な経験でありました。それは私たちの洗礼がクリスチャンとしての旅の始まりであるのと同様に、イエスの旅の一部でした。私たちへの洗礼は、ヨハネが差し出したものよりもはるかに大きなものでした。ヨハネの洗礼に身をゆだねることによりイエスは洗礼の水を祝福しました。ですから私たちの洗礼は罪が流されるだけではなく、キリストの体と結びつき、神の子どもに成るのです。私たちの洗礼は他の秘跡への入り口であり、究極的には永遠の命に続きます。(カテキズム1213)

 洗礼を受けたクリスチャンである私たちは皆、世に出て行き、良き知らせをするよう呼びかけられています。創設者の言葉を借りれば、キリストを熱狂的に信じ、御父に愛されていることを人々に知らせるべきなのです。洗礼の油によって、私たちは災難、特に悪を克服する神の強さを受けます。頭に水が注がれ、聖霊の賜物により浄化と清めがなされます。「司祭であり、預言者であり、王である」ことを示すため、「イエスの体の一部であり、永遠の命を分かち合いながら」いつも生きるようにと香油が塗油されました。洗礼によりイエスの伝道を分かち合い、「十字架上でイエスの胸を刺しぬいたところへと導く己の態度、選択、任務」をするよう、既に述べたように呼ばれています。洗礼とはなんという挑戦でしょうか。今日の更新、その覚悟はできていますか?


January 10, 2021 Feast of the Lord’s Baptism

Our baptism and the renewal of our baptismal promises today, should remind us of our continual need for new beginnings in our lives, of renewing our commitment continually to journeying with Christ in his evangelical and crucified life.

With his baptism, Jesus is identifying with our human sinful state, even though he was sinless, and he who is without sin will take away the sins of the world. But we to need ask and submit ourselves to Jesus. With his baptism, Jesus immerses himself once again into our world just as he did with his incarnation thirty years previously, and in liturgical terms, only a short time ago on Christmas Day. Today on our last day of the Christmas season, we once again see our God identifying with us, embracing our humanity, loving us and wanting all of us, yes all of humanity, to be part of the reign of God.

Now as John the Baptist disappears off the scene and Jesus comes into focus, we are reminded of how our own baptism eliminates our sinful past and begins our new live in Christ. Baptism is a new beginning for all of us, it’s a sharing in the life of God, God-With-Us. It’s so beautiful and powerful, that it’s sometimes hard for us to grasp how much God loves us and makes us his children.

Unfortunately many of us do not remember our Baptism or the new beginning it was meant to be to our lives and attitudes. That’s why, especially today we should remind ourselves about all that our baptism should mean to us. Only ten days ago we may have started a new beginning with our New Year’s resolution. How are we doing with these less than two weeks on? Today is a day to reflect on another new beginning in our lives, our baptismal calling, and recommit to it, like our New Year’s resolution, if we are not living up to it.

For Jesus, his baptism was a very important experience in him coming to know that he was beloved of God. It was the part of his journey, just as our baptism was the beginning of our journey as Christians. Our baptism offered us something greater than what John offered.

“Jesus, in submitting to John’s baptism, blessed the waters of baptism, and so our baptism is not just the cleansing of our sins, but of our incorporation into the body of Christ, making us children of God. Our baptism is the gateway sacrament to the other sacraments, and ultimately eternal life” (CCC 1213).


All of us as baptised Christians are called then to go out into the world and proclaim the Good News. We are, to borrow a phrase from our founders, to be zealots, to bring people to know they are beloved of the Father. Through the oil of Catechumen we received God’s strength to overcome adversity and especially evil. Water was poured on our heads to remind us of our cleansing and purification through the gift of the Holy Spirit, and we were anointed with Chrism to show that we are ‘Priest, Prophet and King’ and to live always ‘as a member of His body, sharing everlasting life’. By our Baptism we share in the mission of Jesus and we are asked, as mentioned already, to make ‘our own the attitudes, options and tasks that led Jesus to the point of having his heart transpierced on the cross’. What a challenge our Baptism should be! Renewing it today, are we ready to live it?



2021年1月3日日曜日

主の公現

 湯澤神父様からいただきました主日メッセージ「福音への一言」をご紹介します。

2021年1月3日 主の公現(マタイ、2章1~12節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

今日は、主の御公現の祝日です。今日の福音は、東方から来た三人の博士たちがイエス様を見出し、礼拝したという『マタイ福音書』の個所が読まれます。この物語が『民数記』の「バラアムの物語」を背景にしていることは、よく知られています。先日、クリスマスのミサに参加できない洗礼志願者たちを対象に小さいオルガン・メディテイションを行いましたが、その時にこの個所を皆さんで黙想していただきました。

東方に住むこのイスラエル人ではない人たちは、ある星の出現に気づき、その星に導かれて救い主を求めてユダヤまでやってきましたが、この先どこに行けばよいかわかりません。しかし、彼らは、聖書を手掛かりにベトレヘムへ向かうようにと知らされました。こうして、星と聖書によって救い主を探し当てることができました。星と聖書は、救い主に導く導き手だったのです。これは、彼らに限らず、今の私たちにとっても同じです。

では、星に当たる導き手は何でしょう。「神様は私たちに二冊の書物を与えてくださった。一つは自然で、自然は神様について語っており、昔は、この本を読めば神様を知ることができた。しかし、アダムが罪を犯したために、それだけでは神様を知ることができなくなってしまった。そこで、神様は、第二の本、聖書を与えてくれた」と、ボナヴェントゥラが語ったと伝えられています。ここでいう「自然」は、「星」に当たります。単純に自然的存在や自然現象だけではなく、書物や人との出会い、私たちの周りで起こる様々な出来事をも指しています。極端なことを言えば、私たちを含めたあらゆるものが神様について語っています。私たちはその声を聴き、それを見るだけで神様に導かれるはずです。しかし、現実にはそれだけでは全く不完全であることを、切実に実感するところです。

そこで、私たちには、どうしても「神様の言葉」である「聖書」が必要なのです。ここでいう聖書とは、単なる書物ではありません。教会の中で語られる神様の言葉です。あらゆる人々に聞かれるために語られている生きた神様の言葉なのです。典型的な神様の言葉は、ミサその他、典礼の中で語られています。それだけではありません。信徒が伝える神様の言葉も含まれます。信徒一人ひとりは、教会共同体の中で神様の言葉を預かっているからです。それを聖霊に助けられてあらゆる機会に語っているはずだからです。

さて、私たちは、いつどこであの「星」を見たでしょうか。そして、その星が指し示す方に救い主を探して歩んできたでしょうか。いつどこであの「聖書」がベトレヘムにおられる救い主を教えてくれたでしょうか。私たちは、何度「星」を見つけたでしょうか。何度「聖書」、神様の言葉を聞き、助けられたでしょうか。この二つのしるしに導かれて何度イエス様を探し当てたでしょうか。もし、見出せた体験に気づくことができたとしたら、神様を賛美し、感謝しないではいられないでしょう。          湯澤民夫