2016年3月12日土曜日

3月11日(金) 追悼と復興の祈り

2011年3月11日(金)に起きた東日本大震災から5周年に当たり、犠牲となられた方々を追悼するとともに被災地の一日も早い復興を願い祈りの集いが行われました。
主催: カトリック札幌教区サポートセンター

13:00~ 勝谷司教様の司式によりミサが捧げられました。


14:00~ 天使大学生によるボランティア体験報告


14:20~ アンサンブル奏楽(そら)演奏・報告


カテドラルホールでの手物品販売・飲み物サービス




2016年3月9日水曜日

四旬節第4主日 -放蕩息子のたとえ-

「カナシミ節ヲスゴシテマス」
杉本ゆり達がプリジャン神父に「ワタシノ旨アナタトオナジ」と、語った後に続く言葉です。
四旬節第3主日を2日後に控えた1865年の3月17日金曜日、浦上の人たちが恐々と南蛮寺に向かい、勇気を振り絞って発した3つの言葉の一つが四旬節でした。
櫻谷委員長が何時も口にされる「共同体と地区制度の活性化」について、キリシタンのコンフラリアを通して思いを馳せながら、復活祭までを大切に過ごしたいと思います。




<後藤神父様の説教概要>
私たちはどの様に四旬節を過ごしていますか?
今日のみ言葉は、40年の旅の末にカナンの地を前にして過越祭を祝った話、流離の末に約束の地で新しい生活の第1歩が記されている第1朗読から、放蕩息子の例えに繋がっています。
神のいつくしみの計画に中にあった40年の旅と同じように、自分の所から離れて遠い国へと旅立った息子を父は一日千秋の思いで待ち続け、遂に死んでいたかのような息子を生き返らせました。父親は息子の過ちを問うことなく迎えに出ます、その姿は、まさに父の愛、神様の愛に結びつけて考えられます。この父と息子の姿を通して、私たちは自分と神様を見つめることになります。
第2朗読では神様との和解がテーマになっていますが、ゆるしの秘跡も和解が中心です。
もう一度喩えを味わいましょう。前半は、自ら走り寄って行った父親の愛が息子との距離を埋め、赦しを与え抱擁するという感動的な姿を私たちに示します。後半では、父親に対する非難が兄の口から飛び出します。兄には一緒に喜ばずに反発心しかありません。兄を霊的にみると、神からの私たちへの問いかけです。
兄は父親といつも一緒に居ましたが、その心は遠く父から離れていました。私たちはいつも神のそばにいようとしていますか?私たちは一生懸命に祈り、ミサにも来ていますが、心は本当に神の近くにいますか?いつも一緒にいる生活、信仰を持っていても本当に心はどこにあるか、その事をこの喩えを通して神様が問いかけています。
神はどんなに時間がかかろうとも、悔い改めて帰ってくるのを待っています。私たちは、神が何時でも待っていると言う事を忘れて、祈りにおいても自分の都合でしか考えられず、神をみることをしません。私たちは、四旬節の間、悔い改めが求められています、和解する機会を神はひたすら待ち望んでいます。罪を犯して神の愛を受け入れるに値しないと思ってしまう私たちですが、それでも神様は私たち見守って下さっています。それが、今、私たちが歩んでいる四旬節です。
弟子たち、ファリサイ派、罪人、群衆の一人、それぞれの立場に自分をおいて耳を傾けると、其々の形でイエスの話を霊的に感じることができます。そして、私たちの現実の姿を重ねると胸が熱くなり、心が痛みます

2016年2月28日日曜日

四旬節第3主日

今日の福音では、四旬節を歩む私たちへ神は悔い改めと回心を呼びかけています。
神は私たちの回心を忍耐強く待っていて下さっています。


先週の四旬節第2主日から、御ミサの後、信心業として「十字架の道行」が始まりました。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『四旬節の半ば、どのような日々を過ごしているのでしょうか?
初代教会の信者さんの信仰と、現代を生きる私たちの信仰とは違いあるのだろうか、ということを少し思い巡らしてみました。
四旬節という季節に限って考えてみると、初代教会の人たちの復活祭に向かう思いとして、断食、奉仕、苦行をとおして信仰が表れていたというというのが文章の中に時々出てきます。今の私たちも昔の習慣に則って大事にその習慣を守っている方も多くおられると思いますが、昔の人と比べて違いがあるのだろうかと思い巡らします。昔の人と比べると現代ではその意識は薄いのではないかとも感じますが、皆さんはいかがでしょうか?
初代教会の信者は永遠の命を願い、復活のキリストをとおして、尽きることのない栄光の姿を示したキリストに対して、信仰において全てをかけて歩んでいた、そのような文章がたくさん目に触れてきます。きっとそれは初代教会の人たちは、イエスの死と復活を私たち以上に身近に感じていたということかもしれません。2000年が経過している私たちにとって、その意識は少し薄れてしまっているのかもしれない、そのようなことも感じます。
イエスは弟子たちにご自身の受難と死について、そして三日目に復活することを知らせましたが、その時の弟子たちはイエスが離されたその受難と死について、どこまで理解できたでしょうか。ほとんどその真意を理解できずにイエスに付き従っていたと思います。弟子たちはイエスから伝えられたことを十分に呑み込めないままに、イエスの時は刻一刻と過ぎていくことになります。
今日の私たちに語られた福音は、そのことをまた私たちに知らせているような気がします。イエスの呼びかけは回心であり、熱を帯びたその切実な言葉は私たちにも届くような気がします。今日聞いたこのみ言葉の中にもイエス自身の言葉で、悔い改めることの重要さが話されています。
四旬節を歩んでいる私たちにとっての悔い改めは、どうなっているのでしょうか。毎日、私たちはそのイエスと共に歩んでいるのでしょうか。イエスの受難と復活を私たちの捧げる祈りの中で思い起こしているでしょうか。
イエスは悔い改めを私たちに告げています。神の前では今も昔も悪や罪の問題が私たちを苦しませ悩ませます。でも神の憐れみによってのみ私たちは赦されることを知っています。罪びとは赦されることなくして心の平和を持つことはできません。悔い改めや回心が大切であるということは私たち一人一人も知っていることです。でもその一歩を踏み出すことをできないことは私たち自身にもあろうかと思います。四旬節はその意味において、私たちの信仰をよく見つめ考えさせられる季節でもあります。
灰の水曜日から始まった四旬節の歩み、18日目を迎えていますが、四旬節というのは40という数値に深く関わってきたというのも皆さんもご存知です。この40という数値を表す言葉が四旬節と言われるようになりました。40というのは旧約聖書の中でも新約聖書の中でもたくさん象徴的に使われています。その一つには四旬節第一主日で読まれたイエスの荒れ野での40日の出来事があります。旧約時代での40という数値は出エジプト記の中で、エジプトを脱出したイスラエルの民の40年間におよぶ荒れ野の旅がありました。ノアの洪水の雨の期間もまた40という数値でした。さらにモーセがシナイ山に籠って断食した期間も40でした。旧約の出来事には試練と苦難の時を40という数値で表されています。その40という試練と苦難をとおして、神の憐れみを体験してきたのがイスラエルの民でもあったということです。初代教会の人たちはそうした聖書の出来事を象徴的に表す40という数値を心に留め、そして祈りの中に組み込まれて四旬節という中で断食をし苦行するということが生じていったようです。それは少しでもイエスの断食と祈りに習おうという初代教会の信者の信仰に深く結ばれたものでした。四旬節のキリスト者の断食と祈りによって、私たち一人一人もまたキリストに模られていくことを願うそのような精神が深く信仰の中に息づいていたということだと思います。主の過ぎ越しを一年に一度祝う盛大な復活祭の準備として、主の受難と死を偲び断食するという習慣は、このようにして初代教会の時から始まっていたというのが教会の四旬節でもあります。このような初代教会の人たちの信仰を思い起こすときに、私たち現代のキリスト者はどうなんだろうということをお話ししました。
今日私たちに語られたみ言葉の中では、二つの出来事が語られました。イエスは災難と罪との因果関係を否定しながらも悔い改めること回心することの必要を説かれています。悔い改めなければ滅びると言いながらも、神は私たちの回心を忍耐強く待っていて下さる方だと話されます。今日の二つ目の出来事の中では、いちじくのたとえ話が話されました。実が結ばないから刈り取ってしまいなさい、そのように話されましたが、三年待ってくださいという神のいつくしみが示されます。それはただ待ってくださるということではなく、悔い改めの実を結べということでもあるようです。待つことが神様の愛であり、いつくしみであり、憐れみでもあるならば、その神様のいつくしみに対し私たちは、応えていかなければならないでしょう。悔い改めない人を神は厳しく罰しますが、同時に忍耐強く私たちに回心を呼びかけ待ってくださる神、その神の呼びかけに私たちは応えるものでありたいと思います。
放蕩息子のたとえにおいては、この放蕩息子は、天に対して、そして父に対して罪を犯したという告白を行い、そして父の赦しを乞うため帰ってきます。この告白の中には、今私たちが悔い改めのときに大切な要素が示されていると思います。私たちがゆるしの秘跡を受けるときに、神様に心は向かうが、人に対してあまり思い巡らずに赦しをもらうおうとすることの方が多いような気がしています。もちろん神に対して罪を犯したということははっきりとあるでしょうが、私たちの罪は人間関係の中で生まれているものも多いかと思います。神との和解だけではなく、人との和解もとても大切なことだと思います。私たちが悔い改めて新しく出発するとき、そのことをもう一度考え黙想し、新しい出発に向けて行きたいと思います。
いつくしみの特別聖年を今歩んでいますが、教皇様の呼びかけとして、「この四旬節を、神のいつくしみを祝い、また実践するための集中期間として、深く味わいながら過ごすことができますように」。神のいつくしみを単に祝うだけではなくて、それを実践するための期間として過ごして欲しいというのが、教皇様の呼びかけです。
試練の時ほど神の愛を知ることができるとよく言われます。四旬節を機会に神のやさしい悔い改めの呼びかけに応え、神の導きに全てを委ねて、私たちの四旬節を生きる決心を改めてしたいと思います。』

2016年2月21日日曜日

四旬節第2主日

今日の福音では、イエスの変容の出来事が語られました。私たちも神の栄光に変えられることを願いながら、日々イエスとの出会いをもって、神の慈しみを深く味わい四旬節の歩みを大切にしていきたいと思います。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は四旬節の第2の主日を迎えて、聖書のお話は変容の物語が私たちに告げられています。先週は東京から幸田司教様が見えられてミサを捧げてくださいました。そして午後からは平和講演のお話をうかがうことができました。

この四旬節、私たちはどのように歩んでいるのでしょうか?
先週の聖書のテーマは、毎年四旬節第一主日に三つの福音書で共通して読まれるイエスの荒れ野での40日間の出来事でした。今日の第2主日も主の変容の場面が毎年読まれることになっています。
今私たちはみ言葉に耳を傾けて、イエスと一緒に山に登る弟子たちの姿をどのように思い浮かべていたでしょうか。ルカの福音書をたどってみると、山に登る前、弟子たちにはある大きな出来事がありました。それが今日の箇所に繋がっているのですが、その出来事とは、イエスが弟子たちに聞いた「あなた方は私を何者だと言うのか」、するとペトロが「神からのメシアです」と答え、ここにペトロの信仰告白がありました。イエスはペトロの信仰告白を聞いて、自分がこの後苦しみを受け殺されることになる、そして死んで三日目に復活するということを弟子たちに話されました。その話を聞いたとき、弟子たちはどのようにこの言葉を受け止めたのか、それは聖書の中では具体的に語られていません。十分に理解したとはとても思えない出来事がその後、聖書の中で語られています。しかしイエスは自分が死んで復活するということを弟子たちに告げたとき、このことは誰にも話さないようにと注意をしています。きっとそれは公にするにはまだ、時間が必要なことだったのかもしれません。そしてイエスはこの後、弟子たちの3人を連れて山に登ったというのが今日のお話に繋がっているのです。
イエスに魅了された弟子たち、イエスの話に驚いた弟子たち、しかしイエスの教えを聞き流し、イエスに従いイエスへの信仰をだんだんと築いていった弟子たち。一方では、この人と一緒にいれば、安心だということもあったのかもしれません。この人は今自分たちの住んでいる社会を変えてくださる方、革命を起こしてくださる方、そういう不思議な力を持っているリーダーでもある、そんな思いで付き従っていた弟子たちがいたかもしれません。しかし、そのような弟子たちでありましたが、彼らの期待を裏切るような、自分は死んでそして復活する。その死に方も普通ではないということも知らされます。イエスは改めて弟子たちに言いました。「それでも私に付いてきたいものは、自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい。」
ご自分の死、そして復活、十字架の死、受難を告げた後、そのことを話されて、弟子たちは従おうとしていた。受難の苦しみに耐える姿、群衆に蔑まれ罵声をかけられ、唾さえ吐き掛けられた惨めなイエスの姿を、このとき弟子たちは想像できることではなかったと思います。でもイエスに付き従っていこうとしている弟子たちの姿は見えています。イエスがこのとき弟子たちに語られた言葉、「それでも私に付いてきたいものは、自分を捨て日々自分の十字架を背負って私に従いなさい。」この言葉をそうした背景で、そうした経緯で聞くならば、この上ない重みを持った言葉になっています。イエスは3人の弟子を選んで山に登りましたが、聖書では詳しく調べて福音を書いたというルカの言葉がここにはっきりと示されます。それは「祈るために山に登られた」と書き記されています。山に登る目的に一つは祈るためであった。イエスは十字架にかかり自分の命を捧げなければならない、そこに十字架の秘儀がありますが、その十字架の秘儀を理解するためには、祈ることが必要だったのかもしれません。また弟子として、自分の将来がかかったうえで、さらに従っていくのだとしたら、祈ることがまた必要であるということを、山に連れていきながらそれを実感させていったのかもしれません。きっとイエスは身をもって祈ることの大切さを弟子たちと共に、行動しながら教えられたのではないでしょうか。でも現実は山に登るということは簡単なことではないはずです。十分な水も持っていくことができない時代でした。そのような中で身も心もへとへとになり、疲れが絶頂に達し、眠気に襲われたと聖書は記しています。まさに祈るどころではないそんな状況の中で、不思議な出来事に遭遇する弟子たちでした。
山に登る一歩一歩は、その苦しみとの激しい戦いの道でもあったはず、その苦しみを背負うということは、自己放棄でもあったはず。でも自分の肉体的な弱さ精神的な弱さの中で、イエスの栄光の姿を見せつけられた時は、弱さの中にあって栄光を弟子たちは見つめる、そうした素晴らしい時を与えられたということです。イエスはこの出来事を立ち会わせることによって、彼らの心のうちに信仰の土台を築かれたのかなあと私は考えてしまいます。何度も何度も叱られながらもイエスに付き従ったペトロの姿は皆さんもご存知です。失敗を繰り返しながら、イエスへの信仰を深めていく弟子たち、ペトロを代表して聖書の中でいろいろな場面で私たちは見つめることができます。
私たちは今日、聖書の変容のみ言葉に触れたとき、私たちはどのように感じ受け止めたでしょう。イエスのように私たちも主の栄光に与り天の国で変容できるようにと、そんな祈りの言葉をもって聞いていたでしょうか。イエスの十字架が一人一人の罪を贖うことを私たちはすでに知っています。イエスは私たち一人一人を導き、それを可能にすることを心に留めてこのみ言葉を聞いたでしょうか。

「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」
変容の時、天から声がしたと語られました。そのみ言葉を聞きながら、私たちもまた聞かせてくださいと祈ったでしょうか?
救いに切り離すことができない十字架があります。そしてキリストの十字架は私たちの信仰そのものでもあると思います。
私たちにとっての十字架、それはどのように見えているでしょうか。どのような重さを私たちに感じさせているでしょうか。
四旬節に入りました。み言葉を黙想するとともに、四旬節の歩みの中で、教会の長い伝統で培われた十字架の道行も大切にされます。道行の祈りを祈る人々はこの四旬節たくさんおられると思います。信仰が揺らぐような私たちの毎日、試練の中にあっても主によって十字架の前にしっかりと立ち続けることができるよう、そうありたいと思います。
今日の第2朗読の中でパウロも私たちに呼びかけます。「このように主によってしっかりと立ちなさい。」。主に対する信頼は、私たちが試練や誘惑の中にあっても戦いの中にあっても私たちを強くしてくれる力をもたらしてくださる。
四旬節の歩みの中でもう一度私たちは、私たち一人一人に与えられた十字架を見つめながら、主にますます近づいていきたいと思います。

旧約時代にはモーセの変容の話もありました。モーセがシナイ山に登って、神から十戒を授けられたとき、イエスの変容の姿を彷彿とさせるようなそういう出来事があったと旧約聖書は告げています。でもモーセよりも遥かに偉大なる変容の姿が今日語られました。これこそ私の最愛の子であるという父からの宣言もありました。変容するイエスの姿は私たちに希望をもたらすものでもあると思います。パウロも述べています「わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」
この場面を体験し感動したペトロは、後に燃えるような信仰に成長していきます。そして最後は勇ましく十字架に逆さ釣りにされて亡くなったと伝えられています。
四旬節の初めに変容の物語が私たちに語られる理由は、一人一人が犯した罪を悔い改め、愛の秘儀に与ることによって、私たちも変容の秘儀に参与することができるのだということを、希望を持って語られているからだと思います。
私たちも神の栄光に変えられることを願いながら、日々イエスとの出会いをもって、神の慈しみを深く味わい四旬節の歩みを大切にしていきたいと思います。』

2016年2月14日日曜日

四旬節第1主日

四旬節の最初の主日を迎えました。
教会はこの期間に、洗礼志願者の最終準備をします。
私たちの共同体にも、復活祭に向けて洗礼を受ける準備をしている方がおられます。
共同体の新しいメンバーとして迎えられることができるようお祈りしたいと思います。

今日のミサは、この日の午後に行われる平和講演会のために来札された東京大司教区 ヤコブ幸田和生司教様、2月6日に神学校をめでたく卒業された佐藤謙一助祭、そして主任司祭の後藤神父様の共同司式により行われました。





幸田司教様のプロフィールについては下記をご覧ください。

東京大司教区公式HP
http://tokyo.catholic.jp/auxiliary_bishop/18100/
幸田司教ブログ
http://nativitas.blog130.fc2.com/

札幌教区からの神学生として6年間、日本カトリック神学院で学んでこられたパウロ佐藤謙一助祭が、2月6日に無事ご卒業されました。
そして、いよいよ4月29日(祝)に当教会で司祭叙階式を迎えられることになります。


佐藤助祭による福音朗読

この日のミサでの幸田司教様のお説教をご紹介します。

『皆さんは「浦河ベテルの家」をご存知ですか?日高の浦河町にある、社会福祉法人そしていろいろな仕事をしているわけですが、元々、浦河の日赤病院のところの精神科に閉鎖病棟があって、そこにいた統合失調症などの精神障害の方々を病院から出して、地域の中で生活できるというように、そういうことを始めて、今では100人くらいの当事者の方が街の中の何軒かの家に住んでいる生活の共同体であり、働く場としての共同体であり、ケアの共同体であるという、そういう場所だそうです。
  当事者研究ということで全国的に世界的にもかなり有名になっているところだそうです。実は2月11日の祝日の日でしたが、東京でキリスト教の社会福祉の集まりがあって、そこにベテルの家の皆さん、向谷地生良さん、スタッフの方、当事者の方が来てくださってお話をお聞きするチャンスがありました。私は本を読んで少しは知っていましたので、何となくベテルの家を理想的な共同体として描いていたところがありました。しかし、そのときのお話によるとベテルの家の歩みは失敗の連続、一人ひとりの当事者の方々も苦労の連続、そういうようなお話しでした。精神科の閉鎖病棟からやっと出て来た人たちが共同生活をしていくわけですから、そんな簡単にいくわけはないですね。でも、その中で精一杯生きていますし、何か生き生きとしている。失敗があってはいけないんだとか、苦労があってはいけないんだという、今の世の中の風潮、常識を覆すような話しで、私には興味深かったのです。

 今日の福音を読みながらその話を思い出して、人生というものはそもそも荒野ようなものではないかなと思いました。ものごとがうまくいって何の苦労もなく何の病気もなく、それがあるべき人生だとしたら、私たちの人生はそのようなものとはずいぶん違うような気がします。
むしろ人生は荒野ではないか。そういうことで見えてくる世界があるような気がします。
 イスラエルの民は40年間、荒野で旅をしたと言われています。旧約聖書に伝えられていますけれど、紀元前13世紀のころです。エジプトの奴隷状態から、モーセを指導者として神からそこから救い出されて、自由になったイスラエルの民でしたが、彼らを待ち受けていたのは荒野での苦しい生活でした。水も食べ物のもなく、さそりがいたり毒蛇やいたりする危険に満ちた、ぎりぎりの生活がそこにはありました。イスラエルの民はモーセと神に、何度も不平を言ったと伝えられています。
 神様はその民を見捨てずに、不平を言う民に岩から水を湧き出させ、天からマナという不思議な食べ物をふらせ、ずっと民を養い育ててくれた。それが荒野の民の物語です。
  そしてその荒野の旅の中で「シナイ契約」という神様との特別の契約。ぎりぎりの生活ですが。その中でも神様との生活、人と人とが支え合って生きている、それが荒野の生活といっていいかもしれません。苦労があってはいけませんではなく、苦労があるからこそ神様の助けがいつも必要だし、苦労があるからこそお互いに助け合っていくこと、それが私たちの歩みでもあるはずです。

 今日の第一朗読は申命記26章でした。申命記というのは神様が与えると約束された土地を目も前にして民に語って聞かせる遺言のような説教です。モーセはもう約束の地にはいることは出来ない。だけど民はこれから約束の地に入っていって定住生活を始めるでしょう。でも、その時になっても決して神様のことは忘れてはいけないよと、一生懸命語るのが申命記です。
そして、その中で今日の26章は面白いのですが、その地に入って最初に取れた作物を神様に捧げなさいと言っています。この荒野でのぎりぎりの生活の中では、いつもいつも本当にぎりぎりで、いつも神様の助けなしには食べものを得ることも、水を得ることも出来なかった。その中ではいつも神様のことを意識しなくてはならなかった。与えられるものはすべて神様からのものと感じながら生きてきた。ところが、定住して農耕生活を始めれば、作物は自然に手に入る、それをどんどん蓄えいく、人間の力で何でも出来るとおごるようになる。でもそうではないんだ。本当はすべて神様から与えられているんだと思い出すために、取れた作物の初物を神様に捧げるようにしなさいと命じるのがこの箇所です。
  いつの間にか何でも人間の力で出来るのが当たり前と思ったときに、人間は神様との繋がりを忘れてしまう。人と人とが支え合って生きているということも忘れてしまう。自分の力で何でも出来ると思ったところに、そういう問題が起こってきます。私たちは根本には、荒野というのか苦労があり、失敗があり、大変なことがあって、だからこそ神様に支えられなければ、人と人とが支え合わなければ生きていけない、その部分をもって生きているんだということ、それを思い出すことが私たちの四旬節のテーマだと思うのです。

 イエス様の人生も荒野の旅だった、荒野の連続だったと言えると思います。今日はイエス様の活動の始めに40日間、荒野で悪魔から誘惑を受けた場面でしたが、でもイエス様の誘惑、悪魔との戦いは、決してこの40日のことばかりではなく、ずっと続いていく歩みだったでしょう。十字架の死に至るまで、イエス様は誘惑と戦い続けたと言えると思います。
 イエス様はそうやって最後の最後まで誘惑と戦い続けて歩んでいかれますが、そのご自分と同じように、荒野を歩む民に、弟子達に与えた祈りが「主の祈り」だと思います。主の祈りというのは、何となく物事がうまくいっていて、毎日順調にいっている、そういう時の祈りというよりも、本当に苦しくて、荒野の中での祈りではないかと思います。
 前半、神様についての祈りがあります。「御名が聖とされますように、御国が来ますように、御旨が行われますように」。本当にその苦しい中で神様との繋がりを思う祈りです。そして後半はまずパンを願います。パンは私たちが生きていく上でのシンボルです。私たちの「日ごとの糧」と訳してありますが、原文は「パン」という言葉で、本当に必要なものは全部神様が与えてくださるものだと思いながら願う。そして、与えられたものに感謝する祈りだと思います。
そして、「私たちの罪をおゆるしください」と祈ります。罪というのは、根本的には神様との断絶、隣人との断絶といったら良いでしょう。本当に神様との繋がりを見失ってしまうこと、
隣人との繋がりを見失って自分さえ良ければと思うこと、根本的な神の問題です。その中で神様との繋がりを取り戻していくこと、隣人との繋がりを取り戻していくこと、それを主の祈りの中で祈ります。そして、最後は「私たちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」。
今日の福音の根本にあるように、誘惑の根本は私たちを神様から引き離そうとする力です。
そこからお救いください、何とか神様から離れることのないように守ってください。それが主の祈りの最後の祈りです。

  私たちこの四旬節を迎えて、イエス様とともに、普段順調に毎日過ごしておられる方もおられるかもしれませんが、もしかしたらどこかで毎日つらい思いをしながら過ごしているかもしれない。その荒野のような日々をイエス様と共に歩んでいって、私たちがその中でこそ、神様の助けをしっかり受け取って、神様の助けを祈り続けしっかりと受け取って、そして人と人とが何とか支え合って歩んでいく。その恵みを今日のミサを通して心から祈っていきたいと思います。』

今日は、教会の”雪割り”の日でもありました。”雪割り”とは軒下や屋根などに溜まった雪を排雪する作業のことです。今年は例年よりかなり雪が少なかったのですが、20名程が1時間ほど汗を流しました。




雪割り後は、D地区の皆様が心を込めて用意してくださった豚汁をいただきました。
心も体も温まりました!


午後2時からは、幸田司教様による「平和講演会」が行われました。




2016年2月13日土曜日

2月11日(木) 司祭叙階ダイヤモンド祝記念ミサ

2月11日(木・祝日)午前11時から、手稲・花川教会協力司祭 ヨゼフ 久野勉神父様と、札幌地区協力司祭 ジュール・ロー神父様の司祭叙階60周年記念ミサがカトリック北一条教会で行われました。


ミサは、勝谷司教様と司祭23名による共同司式により執り行われ、300名ほどの信徒が集まり、両神父様の叙階60周年を祝いました。





ミサでの勝谷司教様のお説教の一部をご紹介します。

福音朗読 ヨハネ 15章9-17節

『「互いに愛し合いなさい」
今、読まれた福音は、イエスがいつも弟子たちに語られた言葉です。
同様に、まず私たちは優れた能力があるから選ばれたのではなく、キリストによって呼ばれ、そして選ばれ派遣されて私たちは司祭職を務めているわけです。
イエス様のこの地上における活動とは何であるのか?
病人の上に手を置いて癒やし、悪霊を追放しなさい。全ての人の罪を赦しなさい。そのような形で弟子たちを派遣しておられます。
今日はルルドのマリア様の記念日であり、そしてこの日は毎年「病者の日」と定められています。イエス様がなさった病気を治すという業は、ただ病気を治すということが目的ではなく、その奥にあるものを私たちに指し示すためのしるしとして、意義があるわけです。もし、病気の癒しそのものが目的であるとするならば、全ての人は何らかの病で、必ず死を迎えなければならないわけであり、私たちは死に対して無力であるという現実を突き付けられ、敗北のうちに失意のうちにこの世を去ることになります。
イエス様が示したのは、この病気においてその中で苦しんでいる人にこそ、主が共におられ、そしてその病気の先にある永遠の命、たとえ死を迎えることがあったとしても、神はあなたと共におられ、永遠の住まいに招いておられるということです。私たちはこのしるしの意味を忘れてはいけません。
同様に悪霊の追放ということも聖書には何度も出てきますが、多くの場合、この悪霊というものは、病気であったり、あるいはその人自身の弱さや罪深さから陥っていく、荒んだ生活状態であったり、あるいはその人本人に責任はなくても社会的に蔑まれ罪に追いやられ、この世において小さくされている人たち、その人たちは悪霊憑きと呼ばれ、軽蔑され人々の交わりから排除されていったわけです。ですから悪霊を追放せよという意味は、そのような状況から解放させるということです。
病気の癒しも悪霊の追放も別な言い方をするならば、神があなたと共におられる、あなたは決して一人ではなく、あなたを愛しておられる方がいるのだ、そのことを私たちのこの活動をとおして示すことができるならば、たとえイエス様のように一瞬にして病気を癒すことをできなくても、たとえ長い時間がかかってもその人の快復のために寄り添っていくなら、たとえ死に至ることがあったにせよ、しかしその人が人間の関わりの中でそこで神の愛を見出し、確信し永遠の命に希望をおいていくならば、それは本質的にイエス様の行った奇跡的な治癒だとかあるいは悪霊の追放の業と同じ業を私たちは行っていることになるのです。
私たちが召されているのは、私たちの活動をとおして、主があなたと共におられる、そしてその神は、決して裁きの神ではなく、常にいつくしみの眼差しを向けておられる神なのだ、そのことを私たちは伝える使命を持ってここに集まっているわけです。

今日、お祝いするお二人の神父様も、60年の長きにわたって、この使命を生きてこられました。
ロー神父様は1956年2月2日、そして久野神父様は1955年12月21日に叙階され、この年は私の生まれた年ですが、本当に途方もない長い期間、司祭として生きてきたということに心から敬意を表したいと思います。』


御ミサの後、隣の聖園こども家で祝賀会が行われ、お二人にお祝いの言葉が贈られました。











2016年2月9日火曜日

年間第5主日

先週末から雪祭りが開催され、今年も大勢の外国人旅行者が来札されているようです。
ニュースでは旅行者、特に中国からの旅行者のスタイルが「モノからコト」に変わってきていると流れていました。ツアーから個人旅行へ、爆買から体験に変化しているそうです。
比較は適切ではありませんが、私たちの教会も変化の過程にあります。札幌教区が大きく変わろうとしている時に、私たちの教会だけが現状維持に汲々とする様な事が無い様にしっかりと「変化」を時のしるしとして進んで行きたいものです。


<後藤神父様の説教概要>
今日のみ言葉は「自分を頼みとして自己中心に生きて罪をおかした者も、神のいつくしみとみ言葉で救われる人は幸い」と語られています。そしてペトロの召し出しの話に繋がって行きます。イエスの言葉を受け入れ難いペトロと、言葉に従ったペトロが語られます。群衆はイエスから神の言葉を聞こうとして押し寄せますが、ペトロはどんな態度をとっていたと思いますか?
今日の福音に至る前の聖書では、ペトロの姑が熱を出している話があります。人々はペトロの姑が熱を出している事を知りイエスを招き入れます。イエスが不思議な出来事を行った時、ある人々は拒絶しましたが、ある人々は驚いてイエスに付き従いました。ペトロはどの様にその出来事を見ていたのでしょうか?今日の福音では、ペトロは漁師としての経験を十分に積んだ自分の生き方に拘っています。魚が一杯になり網が破れそうになった時、自分を思い、自分の心に気づき「罪を犯しました」と告白します。イエスは「あなたを、人間を繋ぐものにしよう」と招き入れます。今日の話は単純ですが人の心の機微が豊かに想像できます。私たちにも同じような事があるのではないでしょうか?イエスの御言葉は人智を超えた神の力を私たちに示します。その力に触れたとき、私たちの信仰はまた変わるように思います。私たちが心を頑なにしているならば、そうした瞬間があっても気がつかずに過ぎて行きます。ペトロを神の前に恐れ慄かせた現実、その瞬間からペトロは大きく変えられました。
私たちはどんな信仰を生きているでしょうか?どの様な形でみ言葉を大切にしているでしょうか?素直な気持ちみ言葉を受け入れ、み言葉に生きていますか?み言葉を信じ、み言葉に従う事によって私たちは神に触れることができ、私たちの信仰生活は更に新しくなります。
神の力を知らず、神の言葉を聞いても頭だけで考えていては心も変わりようがありません。
第1朗読で、天使が「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と賛美しているように、私たちも心からみ言葉に賛美を奉げたいと思います。

2016年1月31日日曜日

年間第4主日 「カトリック児童福祉の日・献金」

福音で語られるイエスの宣教の出来事にもう一度目を向けて、神に従い仕える心を忘れることなく、信仰によって成長できるよう祈りましょう。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『1月の最後の日曜日を迎えています。
今日は「カトリック児童福祉の日・献金」の日ですので、最初にそのことに少し触れたいと思います。毎年、1月の最後の日曜日は「カトリック児童福祉の日」になっています。児童福祉、これは日本だけのことではなくて、全世界に向けられた献金でもあります。皆さんの祈りや協力、理解のもと、温かいご支援を毎年いただいています。子供たちが置かれている今の世界の環境は、決して安心できるものではないと言えます。代表的なこととしては深刻化する難民問題が挙げられます。様々な国の代表者が話し合いを続けていますが、厳しい状況に置かれています。難民やその子供たちは、不適切な環境で暮らし、屋外で眠り、肉体だけではなく精神的にも健康的な危機にさらされているといえます。栄養失調からくる感染症が流行っており、十分な食事もとれず、寒い中で眠り、健康を害している子供たちが大勢います。教皇様は一人でも多くの子供たちの命を救うために、全世界の教会に、心からの祈りと献金を委ねています。これは難民の問題が起きたからではなく、毎年続けられていることでもあります。どの国でも子供たちが少なくなったといわれる時代、未来を託された大切な子供たちが、今もなお厳しい状況に置かれているということを、私たちはもう一度意識して心に留めたいと思います。今日の児童福祉の日の献金は、ミサ中に集められたそのすべてが司教館をとおして、教皇庁に送られます。そして全世界から集められた献金は、世界中の様々な国の子供たちの支援のために使われようとしています。子供たちの問題は、遠くで起こっている問題ではありません。いつくしみ深い神もきっと心を痛めている問題だと思います。今日のミサの中で、皆さんの祈りと献金を、その子供たちのためにお願いしたいと思います。

さて、今日の福音は、故郷に帰られたイエスの姿を私たちに示します。そして故郷でイエスを迎い入れた人々の態度、行動も私たちに示されました。マタイの福音やマルコの福音では、ガリラヤの説教はイエスの宣教の終わりになっています。しかし今日、私たちに語られたルカの福音だけが、宣教の初めに故郷で話されているイエスを私たちに告げているものです。聖書学者はイエスのナザレの訪問が2度あったと伝えています。今年はルカの福音が読まれる典礼になっています。そして先週はルカの福音の第一章の最初が読まれました。そこで私たちが耳にしたこと、イエスの言葉は「あなた方が耳にした言葉は今日実現した」という、ナザレの会堂で語られたイエスの言葉でした。イエスは故郷の人たち、そして私たちにもメシアであるご自分に対する信仰を求められたとも言えます。
イエスが故郷に帰ってきて、人々は直接イエスから話をうかがい、その口から出る恵み深い言葉に驚きました。イエスが語ったことによる故郷の人たちの体験は、驚きのなかに拒絶の心もあったということが、今日の聖書のお話です。人々の驚きは信仰から出る驚きではありませんでした。イエスを褒め、驚きながらも人々の心は、「この人はヨゼフの子ではないか?」という軽蔑が含まれた言い方をしていました。
キリスト、救い主を信じるとは、どういうことでしょうか。キリストの全てを信じて、受け入れることであるはず、十字架上で悶え苦しんで亡くなられるキリストを受け入れること、それが私たちの信仰であり、キリストを信じるということだと思います。
故郷に帰ってきたイエスの語られた言葉、でもその言葉は人々に驚きを与えましたが、歓迎されることではなかったようです。拒絶されたイエスではありましたが、イエスの道はただ一つです。父なる神の使命を生きる道であり、たとえ人々に軽蔑され拒絶されたとしても、苦しみがあっても、十字架の道であるものとして前に進んで行く、それがイエスの道でした。そして宣教を示唆するように、救いの福音は祖国の人々だけに与えられるものではなく、異邦人を含む全ての人に向けられていたということを告げています。
それにしても、このルカの福音では、故郷での宣教が拒絶されるというイエスの活動の始まりは、非常に象徴したような形で私たちに語り続けています。この故郷の人たちに受け入れられないことは、すでに予言されていることでもありました。イエスは様々な反対を受けながらも旧約の預言者のように、受難に向かって突き進んでいく人でした。このような背景で、イエスはナザレの人々の不信に対して、旧約聖書にある二つの例を引き合いに出しています。この二つは、いずれも異邦人に対するお話になっていました。異邦人がイスラエルの預言者から主の恵みを受けたという内容です。今の異邦人とは同じ宗教を持つ人々とは違う人を指していますが、当時のユダヤ教の人々にとっては、敵対するかのような人々と考えられていました。ですから、異邦人に神から恵みがもたらされるということは、とても理解できないような出来事だったのです。でも旧約の時代にも異邦人に向けられた神の恵みの出来事だったということを私たちにも告げています。
一つは、飢饉のときエリヤがシドン地方のサレプタの未亡人のところに遣わされた。もう一つは、エリシャがシリア人のナアマンにだけ病気を癒す奇跡を行った出来事でした。
神の民である私たちを差し置いて、神の恵みは神を信じない人々の上に下ったということは、故郷の人々にとっては、驚きとともに神の恵みを少し疑うような内容でした。信仰が十分に熟していないイスラエル人であったということでしょうか。異邦人が主の恵みに与るということを不愉快に思ったようです。
私たちには、そのような心がないでしょうか?私たちの心の隅の何処かに持ち合わせているものではないでしょうか?
ルカは、イエスの教えと恵みはイスラエルの民の不信仰により、異邦人の世界に向けられていることを語りました。それはまた、旧約の時代にもあった出来事として重なるものでした。預言者は何度もそのような体験を繰り返しながらイスラエルの民を導いていました。でも、イスラエルの民は預言者の言葉を受け入れずに拒絶し、自分たちの偏った信仰を生きていたということでもあったと思います。イエスは故郷の人々を退けるとき、単純に拒否したのではなくて、聖書の証言に基づき話されています。イエスにとって何よりも尊いことは、神の民と距離的に近いということではなく、神の召命、神の導きに従うということが大事だということを語ります。神の指し示される道を愛によってひたすら歩むことがイエスの使命であり、目的でもありました。そして神の民の目的・使命もイエスに繋がることであったはずです。私たちの信仰も、改めてよく考えてみなければならないようです。
私たちの信仰は、信仰を持たない人よりも、よい人生を歩むためにあるのでしょうか?
信仰を生きることは、自分の栄光の道だから信仰を歩んでいるのでしょうか?
信仰においてさえもえてして、私たちは自分中心になっていることがあるような気がします。ひたすら自己主張をしていることに、気が付くことがあるような気がします。仕える心よりも、自分のことの方が先に考えられていることがあります。仕える心の方を大事にしなけれならないのは、私たちの信仰だと思います。神の道に従うことが栄光の道であるならば、その道を歩めばよいでしょう。もしそれが苦難の道であって、それが自分に与えられた道だとすれば、それを喜んで選び取っていくところに、私たちの信仰もあると思います。決して楽をするために、ただ単に恵みをいただくための信仰ではないはずです。
故郷のナザレで、イエスは町の外に追い出され、崖から突き落とされそうになりました。でもイエスは人々の間を通り抜け立ち去られました。それが今日の福音の最後に語られていることです。拒絶にあっても殺されそうになっても、イエスはただひたすらそこを通り抜けて、自分に与えられた使命のために十字架に向かって歩んで行こうとしています。イエスが人々から受けたその姿をとおして、またその行動をとおして、私たちは今どのように考えるべきでしょうか?
福音で語られるイエスの宣教の出来事にもう一度目を向けて、神に従い仕える心を忘れることなく今日のみ言葉に耳を傾け、信仰によって成長することができるように祈っていきたいと思います。』

2016年1月24日日曜日

年間第3主日 ルカ福音書

先週語られた「カナの婚礼」の後、イエスの宣教活動が始まります。今日から読まれるルカ福音書には、多くのイエスの宣教活動が記されています。

全国的に真冬の厳しい寒さが訪れていますが、
札幌は今日、束の間の好天に恵まれた一日でした。


後藤神父様のお説教の一部をご紹介します。


『先週の福音では、イエスが「カナの婚礼」で水をぶどう酒に変えた奇跡が語られました。
聖書を読んでいくと、この奇跡の直後からイエスの宣教活動を物語る話がいろいろと出てきます。今日のルカの福音もその一つです。
今日読まれたルカ福音書の最初の序文は、聖書をどういう理由で書くのかということを私たちにも伝えています。イエスを中心にした活動、福音宣教の一部始終を伝えること、そしてその教えが事実に基づくものであることをルカは伝えたいそう思って、これまで自分が聞いて来た、そしてすでに書物で残されているものをいろいろと調べ上げながら、それを整理して書くということでした。この聖書を書いたルカは、ギリシャ語のよく理解できる教養のある人だと言われています。また医者であったとも伝えられています。さらに、異教徒でもあったルカは、パウロと出会うことによって、改宗者として信仰を得た人です。パウロと一緒にマケドニアやギリシャや小アジアを弟子として宣教旅行へも同伴したということも聖書で語られています。自分が聞いたこと、そして伝えられた事実を確認しながら、キリストの教えや出来事を書いた、それが私たちが手にするルカの福音書であるということです。それ故、他の福音書と比べるとイエスの活動のエピソードも一番多く記していると言われています。私たちが聞くみ言葉はそういう意味で、単なるお話しではなく事実として伝えられているということです。私たちもそれを理解したうえで聖書に触れ、読むということが大切なことです。
イエスの宣教はガリラヤから始まります。ガリラヤは当時のエルサレムから約65キロほど離れている小さな町でした。私たちの身近な場所で例えるなら、札幌から苫小牧までの距離に相当します。カナの婚礼が行われた町は、ガリラヤのナザレとは3キロ程のごく近い距離にあります。恐らくイエスはカナの婚礼が終わった後、歩いてナザレまで帰ったことでしょう。しかし、その帰路の道はぶどう酒を飲んで、ほろ酔い気分で歩まれた道でなかったと思います。イエスの歩むべき道は、父なる神について語り、神の国を告げ知らせ、そして神のみ心を人々に告げ知らせることでした。先週もお話ししましたが、水をぶどう酒に変えたその目的は、神の業を知らせることでした。単に奇跡を行ったということではなく、その奇跡を知らしめることが神の業を伝えるという目的であったわけです。もうすでに貧しい大工の息子としてのイエスではなく、洗礼を受けて聖霊に満たされた歩き始めた救い主イエスであります。そして預言者でもあります。
イザヤの書に書かれていたように、主の霊が私の上におられ、聖霊の力によって今イエスは主の恵みを告げる活発な宣教活動を開始しようとしています。今日のみ言葉は、そのような意味で私たちにとって、「いつくしみの特別聖年」のスタートをもう一度考えさせるような内容になっているようにも私は感じます。
イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けたとありますが、いつもイエスは会堂で聖書を開いて皆に語り、そして教えを宣べられました。少し私は思い起こしますが、かつて教会で勉強会をしていたときに、「イエスが会堂に入って読んだ聖書は新約聖書ですか、旧約聖書ですか」と、まだ教会に入られて間もない人が質問しました。皆さんはその質問がどんな意味を持っているのか分かりましたか?新約聖書はまだその時代にはなかったのでイエスが語ったのは旧約聖書であったわけです。ユダヤ人はその旧約聖書、律法の書を大切にして自分たちの先祖伝来の信仰を守っていたのですが、熱心な人々にとっては私たちも何度も聞いている聖書の言葉「イスラエルよ聞け、主は我々の神、唯一のものである。あなたの神である主を心をつくし魂をつくし全力をつくして愛しなさい。私が今日、命じる言葉がいつまでも心にあるように、それらをあなたの子らに教え込み、家にいるときも道を歩むときも、横たわっているときも、立っているときも、それらを語り伝えよ。そして門も框に書き記せ。」このような旧約聖書の言葉をいつも心に留めながら、いつも触れながらユダヤの人々は自分たちの先祖から伝えられた信仰を大切にし生きていたということでした。
イエスの時代、会堂では信仰宣言のあと聖書朗読を行ったといわれています。ですからイエスが聖書を読む前にはおそらく信仰宣言も行われていたことだと思います。そしてイエスが手に取ったその聖書の箇所がイザヤ書であったとルカも記しています。
イエスは聖書を朗読した後、み言葉が未来への希望としてよりも、今人々の前で見事に実現した、という宣言をしました。今私たちが聞いているその聖書の言葉は、今日実現したと。そのイエスの言葉、宣言に人々は驚いたでしょう。でも人々の心の中には福音の光が差し込む瞬間でもあったでしょう。戸惑う人、驚く人がいてたでしょうが、一方ではこの新しいイエスのみ言葉の宣言に信仰の新しい道が開かれようとしていました。
私たちにとっても常にみ言葉をとおして、イエスは私たちの信仰に迫ってきます。そして私たちに大切なことは、イエスの神秘に少しでも迫っていくということだと思います。私たちもまた真剣勝負で、イエスのみ言葉に接して、イエスに近づいていくことが求められるような気がします。よい教えを私たち一人一人が生きられるように、私たちの周りの人にもすばらしいみ言葉が伝えられるように、それが私たちに求められる福音宣教であると思います。
ルカの書いた福音書には「尊敬するテオフィロさま宛に」と記されました。このテオフィロさまという名前は「神を愛するもの」という意味を持っています。そして書き記そうとしたその内容は、仕える人たち、神に仕える、み言葉に仕える人についてのことを書き記しますと述べられています。それはすなわちイエスが選んだ使徒たち、弟子たちの働きについて私は書き記します、それがルカの福音書になっているということです。そしてあなた方が聞いた聖書の言葉は今日実現したと明言されました。』

2016年1月22日金曜日

年間第2主日 カナの婚礼

今日の福音では、カナの婚礼でイエスが水をぶどう酒に変えるという最初のしるしが語られました。

後藤神父様のお説教をご紹介します。


今日の聖書のお話し、皆さんはどんな場面、どんな言葉がが心に響いているでしょうか。
  お酒は嗜まないという人はたくさんいますけれど 、もし、イエスが水をぶどう酒に変えたという、そのぶどう酒が目の前にあったら少しは味わってみたいと、誰もが思うのではないでしょうか。イエスが造られたぶどう酒、どんな味がしたのでしょうか。それを考えると酒を嗜まない人であっても、そのぶどう酒をひと口味わってみたいと思うような気がします。かつて、ぶどう酒は私たち日本人にとって高級のようなイメージがあったような気がします。私が小さいときから見てきたぶどう酒は酒に比べ手に入らないものであったし、高級であったと感じます。でも、今の私たちにとっては、健康にも良いと言われているぶどう酒になっています。値段も手頃な値段で変えるような時代です。ぶどう酒を嗜むのは男性に限らず女性も多くなっているような気がします。
  ワインにまつわる面白いワイン談義があります。(ここで、神父様は年に何回か開催される司祭会議の夕食で、ドイツやフランスなどの外国人神父の自国のワインのおいしさを自慢し合う熱の入ったやりとりのエピソードを語ります。)最初にお話ししましたが、イエス様が水をぶどう酒に変えられた、その味はどんなものかやはり気になります。
 今日はそのカナンの婚宴の奇跡のことが告げられています。このイエス様の奇跡は最初の奇跡であると聖書は記しています。その目的も聖書ははっきりと告げられています。「イエスは、この最初の奇跡をガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。」(ヨハネ福音書2章11節)いつも奇跡を行うのは神様の栄光を表すためと聖書は語っておられます。病気の人を治したとしても、それは神様の栄光を表すためにと、人々に示されたようです。今、私たちの典礼の季節は「年間」の典礼の季節に入りました。イエス様の栄光の業も季節に合わせて、私たちに示されています。イエスの栄光を表すこのしるしは、はっきりとご自分の栄光を表すことによって弟子達を探り信じさせたと聖書は告げています。今日のみ言葉の最後の一節は「イエスは栄光を表された。弟子達は信じた。」 イエスを信じ、近づいた弟子達。
 今日、聖書によって神から語られたこの言葉は、一番最初は「そのとき」という言葉が添えられて始まっています。「そのとき」…どんなときのことを表していたでしょうか。聖書で読んでいくとき「そのとき」という聖書の言葉は使われていませんが、私たちは毎日曜日にい前の聖書の箇所に繋がれてきますので、「そのとき」という表願が使われいるのです。先週はヨハネの福音ではなかったのですが「主の洗礼」のお話でした。主の洗礼を意識して「そのとき」を読んでいくとその流れが見えてきます。
  「そのとき」はガリラヤのカナで婚礼があったと読み始めることになります。「あるとき」から3日がたって行われたのがカナの婚宴の奇跡である。では3日前にには何があったのか、ということになりますが、それは先週、私たちが祝った主の洗礼の出来後であるということになります。イエスの洗礼があってから三日後にこの婚礼があったことが私たちに告げられます。主の洗礼の翌日には何があったでしょうか。聖書では、最初の弟子がイエスに従う様子が語られています。そして、洗礼を授けたヨハネがイエスを見て「神の小羊だ」と話しています。アンデレとペトロが主に従う姿が翌日に起こりました。さらにその翌日、フィリッポに会った時、イエスは「私に従いなさい。」と招いておられます。そして、その翌日、三日目、カナの婚宴の日を迎えたと、主の洗礼から一日一日続いてきていることが今日の福音で語られています。
「三日目」という表現もシンボリックな表現になります。皆さんは「三日目」というと、どんなことを思い浮かべますか。三日目にキリストが復活するということを思い浮かべる方もおられるでしょう。この「三日目」というシンボリックな表現も、聖書には度々でてきて、ゆっくり読むと気づかされます。
 さて、この物語になっている婚礼。旧約聖書の話しの中で、神と民との一致を「婚礼」を表す表現で使われています。また、新約聖書でもキリストと教会の関係を、夫と妻の関係をもって示すように、密接に教会とイエス・キリスト。私たちにとっても、キリストの肢体となってイエスに繋がっていることも暗示している、この奇跡の話しになっていると思います。召し出しを受けた弟子達はイエスに従って一致して、神の国を証しする旅に出かけ始めたのですが、カナの婚宴で奇跡を見て、さらにイエスに繋がっていく、弟子達の信仰がさらに成長していく、そういうふうに繋がっていきます。
 しるしと使われるこのぶどう酒は、旧約の時代には神が救われる人に与える宝としてのシンボルを表していました。そして、イエスにおいて考えると、十字架で流された御血のカタログとしてぶどう酒を表してもいるわけです。ぶどう酒を喜びの源として、聖霊をとおして人々に豊に与えてくれる、それが私たちがいつも記念する主の食卓の上で、キリストの御血として 変えられるという形でミサがあります。ただ、カナの婚宴として奇跡をみるだけでなく、そこに深い信仰的な聖書的な背景が描かれていることを、黙想のうちに学び、聖書をとおして深く信仰の喜び、イエスと繋がっている私たちの信仰を表すということも味わいたいと思います。
 この婚礼の席には母マリアも出席しています。マリアとのやりとりも少し不思議な経過をもたらしています。「ぶどう酒がありません。」とイエスに言われたマリアですが、何となく聖書の記述だけでみると、表面的にみるとマリアを突き放すようにして「私のときはまだきていません。」と答えているイエス。そう答えられたイエスに対してマリアは一歩も引くどころか、イエスに信頼を寄せていますから、「何でもこの人の言うとおりにしてください。」と逆にイエスに信頼を表すような話しをしています。ヨハネが書かれたこの意味深いカナの婚礼の出来事、そのみ言葉を黙想することによって、私たちはこの婚礼の祝宴のひとときが、私たちのミサ、聖体にも深く繋がっているようなことのように見えてくるような気がします。

 新しい契約は、このミサで表される聖体祭儀をとおして、私たちに関わります。そのことを心にとめながら今日の聖書の言葉、ミサをすすめていきたいと思います。そして私たちにとって聖母マリアの存在もまた、心にとめておきたいと思います。マリアはいつもイエスとともにイエスに信頼を寄せてそこにおられた。宣教ということが私たちの役割、使命として語られる時代に入っていますが、私たちの宣教がイエスとともにあるように、マリアが示された信頼とともに、私たちの宣教の働きが出来るように、み言葉をとおしてもう一度イエスとともに、マリアとともに  新しい旅立ちをしていきたいと思います。