2017年1月29日日曜日

年間第4主日 - 佐藤謙一神父様 北一条教会初ミサ - 後藤神父様 霊名記念 - 

今日の主日ミサは、昨年4月に司祭叙階された佐藤謙一神父様の当教会での初ミサでした。
叙階されてから10ヶ月を迎え、現在、月寒教会で助任司祭を務められている御多忙の中、主日ミサを司式くださいました。


また併せて、この日は当教会の主任司祭 後藤神父様の霊名「聖ヨハネ・ボスコ司祭」記念日(1月31日)をお祝いしました。
両神父様へは、日頃への感謝を込めて、ささやかな記念品がお贈りされました。




この日の佐藤神父様のお説教をご紹介します。


『司祭に叙階されてから、もう10か月目になります。
司祭叙階記念カードを今一度見てみると、「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」というルカ福音書の言葉を取っていました。
なぜこの言葉を選んだのかというと、今は泣いているが、慰められて、笑うようになるという積極的な意味が込められているからだと思ったからです。
今日のマタイによる福音でも同じようなことが言われています。
「悲しむ人は幸いである、その人たちは慰められる」。
ルカ福音書ではさらに「笑うようになる」と言われています。
神は慰めてくれるが、さらに自分は笑うようになるともう一歩先の段階まで行くことを示しています。
それで選んだのです。
いろいろなことでわたしたちは悲しんだり泣いたりします。
しかし、イエスがいつもそばにいてくれるということが分かると、慰められ、そして笑うようになるのだということです。
わたし自身両親の死をきっかけに司祭召命の道を歩み始めましたが、わたしと同じように司祭叙階記念カードの言葉のように皆さんがなってくれたらと思います。
「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」。

ところで、今日の福音の「真福八端」と呼ばれる個所は、信徒としてのあり方を問う個所として取り上げられることがあります。
倫理的な基準として考えられることがあります。
しかしそうしなければならないと考えるよりも、そうされてしまった人々に対して神がどう見ているかと考えるべきだと思います。
ここでイエスが語ったことばは、目の前にいる弟子たちに向けて語った祝福の言葉です。
いろいろな悩みや病気、問題を抱えてきた群衆に向かって語った言葉です。
「貧しい人」「悲しむ人」「飢え渇く人」がなぜ幸いなのか。
それは「天の国はあなた がたのもの」だからです。
「国」はギリシア語で「支配」という意味や「王であること、王となること」を意味します。
神は決してあなたがたを見捨 ててはいない、神が王となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのだというのです。
 「満たされる」とか「慰められる」のは神によってという言葉が付け加えられれば、よりわかりやすいと思います。
つまりこれこそ、わたしたち自身に向けられた「福音=よい知らせ」なのです。

福音の最後に「喜びなさい。大いに喜びなさい」とあります。
わたしたちはこの福音を聞いたときに、喜びに満ちあふれて生きていかなければならないのです。
8つの幸いのうちの、後半の4つは、貧しいだけでなく、その中でもっと前向きに生き ようとする人々の姿を表しています。
それは「憐れみ深い」「心の清い」「平和を実現す る」「義のために迫害される」という生き方です
そういう生き方をわたしたちができるかということが問われていると思います。
そういう生き方を通して、イエスのために「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」わたしたちは神に祝福されるのです。
来週、ユスト高山右近が列福されます。
彼の生き方を通して今日の「真福八端」を見つめるのもよい信仰の振り返りとなると思います。
キリストの十字架の道のりはまさにこの「しんぷくはったん」を表しています。
キリストの十字架を背負ってどう生きていくかということがこの8つの幸いの中に込められています。
わたしたちの人生の歩みをこの8つの幸いという祝福の言葉に当てはめて考えてみるのもよい信仰の振り返りになるのではないでしょうか。』


御ミサの後、場所をカテドラルホールに移して、主日初ミサと霊名記念の祝賀会を行いました。


2017年1月24日火曜日

年間第3主日

「悔い改めなさい。天の国は近づいた。」
先日、封切られた遠藤周作の小説を映画化した「沈黙 -サイレンス-」と重ねて、この日のみ言葉について、後藤神父様がお説教されました。


『昨日、「沈黙-サイレンス」という映画が封切られました。私は、8時45分の一番最初の映画を駆けつけて観てきました。映画の中の世界でも、今の私たちの世界と変わらない面があると考えます。黙想するとそういう思い、そういう一瞬の場面が今の時代と変わらない、そんな気もします。地上の生活が苦しく厳しく、また悲しみが深まれば深まるほど、信仰を奪われた苦しむ民にとっては、イエスの深い憐れみの心は新しい春の訪れのようであるかのようです。希望の光、救いの光としてイエスは信仰者とともに歩んでくださる方になっていくような気がします。映画の中でもそんな思いで眺めていました。

 「沈黙」という映画と重ねて、今日のみ言葉を黙想することもできます。み言葉の場面は、イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネが捕らえられ、首を斬られて殉教する時代を描いています。一言でヨハネが捕らえられたと表現されていますが、聖書をみますと捕らえられたヨハネは首を斬られ殉教するという様子が描かれます。まさに、聖書の世界でも迫害時代が始まる状況を私たちに示されています。黙想する一瞬の背景には、迫害の中にあって貧しさ苦しさ悲惨な状況、闇である世界を見せつけてくれます。イエスはそういう中にあっても、闇の世界にあっても、喜びの訪れを告げるために人々の中に入っていきました。当時の人々もまた、私たちもまた、そのイエスの愛と憐れみを受け取るための人間として、そのイエスの前に立つことが求められるようです。
 イエスは洗者ヨハネが伝えていたように、イエスもまた「悔い改めなさい。天の国は近づいた。」と話されています。呼びかけています。信仰の喜び信仰の救いとは、神との関係から私たちに伝えられるもの、私たちに入ってくるもの。悔い改めの呼びかけは、その意味では大切な要素になります。洗者ヨハネも繰り返し呼びかけた、救いと天国への準備の悔い改めでもあったはずです。心を入れ替えて神にかえり、そういう悔い改めに対して逆に悔い改めない心とはどういうことを考えるでしょうか。自分に対しても人に対しても 悲しみの深さを理解することが出来ない、その心を指しているような気がします。
  罪について私たちはもっともっと深く黙想しながら、自分の信仰にあわせながら考えていかなければならないようです。そこには自分の弱さ、自分のもろさを知らない思い上がった心があるために、悔い改めに繋がらない自分が立ち止まってしまいます。そういう心を持っていては、悔い改めることが出来ない状況であるならば、イエスとの真の出会いは難しいのではないでしょうか。
 イエスと出会うために、イエスと再び生きるために「沈黙」という映画の中では告解、悔い改め…長崎の当時の言葉では「コンヒサン」と呼んでいました。…そのコンヒサンを訪れた司祭に願って、悔い改めるシーンが何度も何度も繰り返し、映画では描かれています。そして、何度も何度も告解する「キチジロー」という主役に近い登場人物がいますが、自分の弱さゆえに告解を繰り返ししなければならない状況を、映画は強調して描いているように思いました。

  「人間がこんなに悲しいのに、主よ海があまりにも青いのです。」遠藤周作は小説を書かれた後にそう言う言葉を残しているそうです。時代は変わっても、海の青さはそのまま私たちに見せている。でも、その青い海の中に殉教した多くの人々がその命を埋めていった、沈めていった。そういう現実がまた見えてきます。「キチジロー」という人の告白、告解、悔いあたらめ、映画でも小説でもそうですが、だらしなく、いくじのない「キチジロー」の姿を私たちに見せつけます。不安と恐れにかられてあまりにも弱い姿を、私たちにいやというほど見せつけるのが遠藤周作の世界であり、映画でもそういうことが強調されています。そして「キチジロー」の転び、罪は誰にでもある悩みであり、格闘する心、不安な心に繋がっているようでもあります。私たちも決して「転ばない。」とは言い切れない、そういう不安を抱えているのではないでしょうか。

  「悔い改めよ、天の国は近づいた。」その後に弟子たちを招くイエスに言葉は「私についてきなさい。」という言葉です。イエスの招きは、私たちの洗礼に始まる信仰の歩みでもあったはずです。私たちもイエスの招きによって洗礼の恵みをいただいて信仰を得ています。そしてその信仰を歩んでいます。
 私たちのその信仰はどんな信仰でしょうか。本当にイエスに出会い、イエスからの光を大切にして、それを生きているでしょうか。イエスの教えを本当に守っているでしょうか。過ちを犯したならば、それを悔い改める信仰になっているでしょうか。誰もが救いの光、希望の光、安らぎの光をイエスに求めます。最後にはきっと天の国に入る、いや入れてもらえるという思いをもって、私たちは信仰を生きているような気がします。そこに甘えも見えてくる。私自身そのような思いで映画を観たと。「キチジロー」が転んで悔い改めて赦しを願う姿を見ながら、私自身の甘い信仰もまた見つめています。いつかは天の国に行く私も招かれている、招かれているはずだ。でも、悔い改めもしないままで、神様はそのまま天の門に招き入れるのでしょうか。改めることも出来ない状況で、そのことは強く私の心に留まっています。

  私たちの教会の中では「赦しの秘跡」、「共同回心式」について、昨年あたりからいろいろと話しをしています。悔い改めることは大切、赦しの秘跡は大切だと分かっていながらも、前に一歩も進めずに立ち止まっている私たちがあります。私たちの共同体はそこにあるようにも感じます。誰もが大切であると知りながら、その一歩を踏み出せないままで、私たちは天の国に入ると、また甘えの信仰を生きているのではないか、そんなことも考えたりしています。
  今日のミサの十字架のしるしをした、最初の祈りの中にも悔い改めの祈りがありました。私たちは罪を認め心を改めましょうと呼びかけられて、心を清め改めてもう一度イエスといっしょに歩んで、この祈りに入っていくために悔い改めの祈りをしています。私たちの罪を思えていたときにどんな罪を考えたのでしょうか。罪とはいっているけれど、具体的に自分の罪を思い浮かべることなくして、告白の祈りを唱えている人も多いのではないでしょうか。具体的にこのミサの前に、私はどのような思いをもってミサに入ろうとしていたのでしょうか。罪というのは言葉では簡単にひとことで言ってしまいますが、私たちの罪はそんなに簡単なものでしょうか。弱い自分を理解して欲しい、弱い自分を理解して欲しい、知って欲しいといいながらも、悔い改めて神の恵みを取り戻そうともしない、自分の信仰に甘んじている私たちがいるのではないでしょうか。そんな自分自身の信仰を見つめさせる映画でもありました。自分の心さえ抉ってくるような、そんな場面に何度も何度も出会いながら映画を鑑賞していました。

  イエスは弟子たちを集め、闇の中にいるすべての人を、そして私たち一人ひとりを照らす光として、福音の良い便りを伝えようとしています。年間の季節に入って、マタイによる福音によって宣教活動を開始するイエスを、これから毎日曜日、朗読されることになります。ガリラヤよりもナザレの田舎の方が安定であったはずなのに、イエスは世の中に出て、闇の中に入っていって人々に光を差し出して、そこから救いだそうとされます。「ガリラヤに退かれた。」というこの表現の中にイエスの宣教の決意、意気込みを私たちは感じることができます。イエスの歩みは、より貧しいより悲しい、そういう悲しみ溢れる人々の中にイエスの期待はさらに照らし出されていきます。深い悲しみの涙の流れるところに、イエスの歩みは繋がっていきます。でも、私たちは甘んじて信仰を生きることなく、甘えでイエスの手をただつかみ取るのではなくて、私たち自身も努力をしながら本当に真の出会いがあるように、イエスの手を私たちは受けとめたいと思います。弟子たちを招いたイエスに私たちの思いも重ねながら、イエスに信頼して希望の光を見失うことなく、従いつつ歩んで行きたいと思います。

  子供たちの三学期が始まりました。春は進学、就職の季節であり、厳しい競争社会の中に入っていく若者もたくさんいる季節です。生きる試練を経験する人も少なくないと思います。憐れみの光をしっかりと見つめる幼子のように、単純な信頼でイエスとの絆をより強めると思います。子供たちや私たちが出会う人々に、イエスが告げた良き便りを私たちからも伝えられるように、宣教の働きを大切にしたいと思います。
  映画の中で「神の沈黙」ということは観た後も解決することもなく、一人の心をつかんでしまうと思います。小説を読まれたときから、ずっとそのテーマが皆さまの心にもあるのではないでしょうか。
 「神の沈黙」…難しいテーマだと思います。映画を観ても解決するわけではありません。でも、私たちのその沈黙の中に神の愛が感じられます。そして闇の中にあったとしても、ひとすじの光が自分の方に向かってくる、そんな恵みもまた感じられます。私たちの信仰をもう一度見つめながら、神の沈黙と対峙して私たちの信仰を成長させたいと思います。』

2017年1月15日日曜日

年間第2主日

典礼は年間の季節に入りました。
ミサの後、聖堂で、ボーイスカウト26団の子供たちによるマザーテレサをテーマにした聖劇が行われました。この日のために一生懸命練習を積んだとのことです。
マザーテレサの無償の愛の姿が伝わって来るような、大変素晴らしい出来栄えに、
鑑賞した皆さんから、たくさんの温かい拍手がありました。




この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『冬至を過ぎてからは、日暮れが少しずつ遅くなって、春が近づいてゆくのですが、北海道はこの季節が一番寒い季節となっています。この冬は「大寒」を前にして、雪も寒さも記録的ですから、一歩、家から出るにしても緊張があり健康維持も大変になります。
昨日から始まったセンター試験も、受験生たちが試験の前から会場に着くまで緊張を強いられているようで気の毒でした。今朝の新聞でも「道内は今日から大荒れ」と大きな見出しが出ていました。
今日のミサ後に、ボーイスカウトの子供たちによるマザーテレサをテーマにした聖劇が発表されます。昨日も寒い聖堂で一生懸命練習していました。是非見てあげて、温かい拍手を送ってあげてください。

さて、これまで白い祭服を着てミサをしていましたが、今日から色が緑に変わりました。何故だかわかりましたか?先週「主の公現」の日曜日が終わり、翌日の「主の洗礼」を迎え平日から年間の季節に入ったのです。3月1日の「灰の水曜日」から始まる「四旬節」まで年間の季節となります。
今年はA年ですから、日曜日ごとに「マタイの福音」のみ言葉をとおして、キリストの生涯と宣教の様子が語られますが、年間の第2主日の今日だけは、決まってABC年ともにヨハネの福音の最初の部分、イエスの洗礼の出来事が朗読され、イエスが宣教活動に乗り出す場面が語られます。

今日のみ言葉を黙想してみましょう。第一朗読 イザヤ予言書の印象的なみ言葉は、最初の「あなたはわたしの僕、あなたによってわたしの輝きは現れる」であり、すでに主の公現、主の洗礼の出来事につながっているように思えます。また「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」とイザヤの予言は「救いの到来」を告げていますが、これこそ救い主イエスの到来と一致するのです。
イザヤは旧約の時代、紀元前745年~695年の時代に生きて活躍した予言者です。紀元前722年、当時の北王国であったイスラエルが滅び、南のユダ王国が残りました。イザヤも信仰の民も、苦しみの時が過ぎると神の民には輝かしい未来が到来すると、神の約束を信じていました。しかし、その時代は、政治的腐敗と圧政、道徳的堕落がはびこっていました。青年であったイザヤは民の偶像崇拝に心を悩ませると同時に、神の救いを保証する使命に燃えていたようです。若き予言者イザヤの心にその熱き信仰と使命を考えながら耳を傾けるなら、聖書の一節一節、一言一言にも思いが伝わって来るようです。

答唱詩編では「わたしはせつに神を呼び求め、神は耳を傾けてわたしの叫びを聞き入れられた」と歌うとき、イザヤの切なる願いが感謝の歌、賛美の歌となります。
そこから、福音のみ言葉を味わうならば、イエスの到来、イエスの洗礼の現実は、全能の父である神の計画に圧倒される思いになり、イエスに託されたすべての人々に対する救いの使命は、私たちの願い、祈りでなければならないと強く思わされます。
洗礼者ヨハネは、自分の使命を「道を整える者に過ぎない」と述べていましたが、イエスに洗礼を授け、真理について証する者となりました。主である神は、洗礼の恵みを受けたわたしたち一人一人にもイエスを証する者となるように願っているのではないでしょうか。

最初、「わたしはこの方を知らなかった」とヨハネは述べていますが、日曜日ごとに「信仰宣言」をするわたしたちは、神の子であるイエスを証するように、すでに招かれているのです。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と、ヨハネはイエスを指し示しています。小羊は苦しみの僕として、イエスの姿を示すいけにえの小羊です。
人類全体を、そしてわたしたち一人一人を救うために十字架にのぼられた尊いいけにえ 神の子イエスの姿なのです。イエスの歩まれた道を歩むために、「神の小羊」であるイエスを深く黙想して宣教のためにも祈りましょう。
力が足りないというのなら聖霊の助けを祈りながら、語り伝えることが宣教につながっていくことだと思います。』

2017年1月9日月曜日

1月8日(日) 主の公現

この日の主日ミサでの後藤神父様のお説教をご紹介します。


『今日は、3人の博士が幼子イエスを訪問するという「主の公現」のお祝い日を迎えています。礼拝する3人の博士を思い浮かべると何となく明るい光景がそこに見えてくるようです。皆さんは今日の馬小屋をしっかり覗かれていたでしょうか。今までの馬小屋の飾りの中に3人の博士が加わって、幼子のそばに立たせてあります。私たちはクリスマスや主の降誕というと、いろいろな絵物語をイメージするのだと思います。クリスマスカードの中にも3人の博士が遠くから砂漠を越えてくるカードなどがありますが、皆さんのクリスマスのストーリーはどんな理解をされているでしょうか。
 主の公現の日…主の顕現という言葉も良く使われてきています。顕現の日…幼子、神の子が公になったという意味もあるようです。そして、元々はキリストの洗礼を祝う日が先行していました。ところが東方教会ではキリストの洗礼のお祝い日として大事にされてきたのが、西方教会にそうした習慣が入って来るときに、3人の博士の方が強調されるようになって、キリストの洗礼を祝うよりも、3人の博士の訪問、礼拝をお祝いする日になったことのようです。
  聖書の解釈の歴史も豊かなものがあって、聖書では描かれていない内容も盛り込まれて、この3人の博士のストーリが作られていったようです。「3人の博士」と私たちは今、普通に言いますが、聖書の中には「3人」ということはどこにも書かれていないのです。「博士たち」と複数では表現されていますが、博士たちが3人であったのか5人であったのかは一切書かれていません。ところが、教会の解釈の中ではもう3人の博士で定着しているわけです。どうして3人になったのかというと、黄金・乳香・没薬のこの3種類が登場したために、3人の博士で定着したものと考えられます。さらに3人の博士には名前も付けられるようにもなりました。メルヒオール、バルタザール、カスパル、こういう名前が博士の名前と言われるようになりました。それは7世紀になってから、キリスト誕生から700年くらいたってから出来上がった物語になってくるのです。
 ですから私たちが理解している、そうだと思っている内容もどこかで、私たちの信仰の創造によって作られた物語が定着してしまったということがたくさんあるようです。さらに、そうしたストーリはこの3人の博士たちが世界の3大陸…当時は3つの大陸しか考えられなかった時代でした。ですから、ヨーロッパ、アジア、アフリカの大陸しか考えられない時代でしたから、その大陸の代表者である一人ひとりが3人の博士となって、イエスを訪れたというストーリも作られてしまうわけです。同時にそれぞれの3人の博士は、老人であり、壮年の一人であり、青年としても描かれているようです。インターネットでも3人の博士を見てみると、それぞれ同じキリスト教の世界でも宗派の違うキリスト教の教会では3人の博士の名前はそれぞれ違ったかたちで登場してきます。非常に興味深いものとなります。
  創造と解釈の発展も私たちにとって良く見ようとすれば、興味深いものがそこからたくさん見えてきます。少なくても今日私たちが聴いたマタイの福音では、イエスの誕生の状況を詳細には語っていません。ユダヤのベトレヘムでイエスが生まれたことのみを語っているのであって、そこはダビデ王の出身地であるベトレヘムであるともマタイが記している内容です。
 占星術の学者たちはエルサレムを経由して幼子イエスの前にひれ伏して拝んだ。マタイの福音は幼子を最初に礼拝した人たちが外国人、すなわちそれは異邦人ということを表しますが、ユダヤの人ではなくて外国人、異邦人であることが強調されています。ここにも大きな意味があることを教会は見いだしています。それはとりもなおさず救いはイスラエルやユダヤの国だけではなくて、異邦の民に及ぶという主の公現の救いの広がり、救いの豊かさを示しているとも言われます。キリスト教の世界、イスラエルの信仰の世界に留まる救いではなくて、イエスの訪れ、イエスの誕生は世界の人々の救いに繋がっていくのだとマタイの福音記者は書いている、強調したのです。今日の聖書の中でもイエスが誕生した、救い主が誕生したということは、博士たちによってまずヘロデ王にも話されています。当然、長老や律法学者たちもその話に加わっています。でも長老や律法学者たちの誰一人としてイエスを礼拝するということはなかった。むしろヘロデ王も長老や祭司長たちものちのちイエスを抹殺しようとしたということになります。歓迎するのではなくてヘロデ王に関してはエルサレムに住む2歳以下の幼子を皆殺しにしなさいという命令さえ出した。そういう状況のもとで幼子が誕生している。けっしてロマチックな誕生物語ではなくて、厳しい現実がそこにあったということです。博士たちも砂漠を越えて命がけで幼子のところにたどり着いたと言えるでしょう。私たちが主の祭壇に捧げる祈り、その祈りも神を信じる人たちばかりの祈りではなくて、この世界のすべての人に及ぶものになるよう、今日は祈りを捧げたいと思います。

 3人の博士をとおして、黄金・乳香・没薬という当時の社会の中では貴重で高価なものがイエスに捧げられています。価値ある最高の贈り物であると言えると思います。黄金は金属の中でも朽ちることのない崇高なもの、今でいう「金」と言っても良いと思いますが、純粋で価値ある黄金が捧げられる。乳香というのは高価な香料であったそうです。また、薬としても使われたそうです。それは抗菌、殺菌、防腐剤としての効果もあったと言われています。エジプトではミイラの防腐剤として有効と言われていますから、これもまた一般の人は手にすることの出来ない貴重なものと考えられます。没薬はイエスが十字架に付けられたときに、兵士から痛みを和らげるために葡萄酒に混ぜて飲ませたとも言われているものです。それは痛みを和らげる効果があるそうです。そうした当時で言えばまさに一般の人には触れることも出来ない高価で貴重なものが、この3人の博士によって贈り物として捧げられたことのようです。
  イエスへの最高の捧げ物がイエスの生涯の歩みにも繋がっています。黄金は王である権威を表す。没薬はイエスの十字架の死を後々象徴するものと考えられました。乳香は祭司が使うもので、王職とか祭司職といわれるイエスの3つの役割も、この3つの捧げ物にも表されるとも言われます。

  博士たちが捧げた贈り物。それにちなんでかどうか、クリスマスには贈り物が一般的に使われるようになっているようですが、私たちは幼子イエスのお祝いをしながらどんな贈り物を携えていたでしょうか。
 子ども達はクリスマスケーキやたくさんの贈り物を期待しているクリスマスかもしれませんが、私たちが神様から贈られた幼子。私たちがその幼子に捧げる贈り物はいったい何であったでしょうか。そんなことも考えています。親しい人に贈り物が出来るならば、それはとても嬉しいクリスマスになってくるでしょうが、なかなか思うようにはならない、そういうことがあります。

   私が北一条教会に赴任したその年のクリスマスだったと思います。お金のかからない、いらない贈り物もありますよと話したことがありますが、覚えておられますか。私たちはそれを周りの人に捧げることが出来ますよとお話しましたが、思い出せますか。もう一度繰り返してその話しをします。

  • 「聞く」贈り物。人の話を良く聞く贈り物を自分の心の中で決心することが、周りの人に贈り物を準備することになる、そんな話をした記憶があります。そういう心がけでクリスマス、新年を迎える新しい一年に向かったらどうでしょうか。
  • 「励まし」の贈り物もあります。人を励ます言葉を大切にしていきましょうというお話をしました。
  • 「笑い」の贈り物。つまり、人に笑顔を贈ること。
  • 「一筆」の贈り物。それは一言のメッセージ、手紙を遠く離れた人に、身近な人にも心をこめて一筆捧げる贈り物が出来るのではないでしょうか。
  • 「褒めことば」の贈り物。人を大切にすることに繋がっていきます。笑顔を贈ることにも繋がっていきます。
  • 「親切」の贈り物についても触れたと思います。
  • 「一人っきりにする」贈り物。何でもかんでも関わって相手を患わせるのではなくて、少しそっとしておく。そういう心がけも贈り物として出来るのではないでしょうか。
  • 最後の贈り物は、「明るい雰囲気づくり」も贈り物になるのではないでしょうか。

こうした贈り物はお金のかからない贈り物として私たちが準備出来るものですよと、話しをしたことがありました。
  贈り物は大切な人への愛のしるしにもなるかもしれません。博士たちのような高価な贈り物は出来ないけれど、私たちが心をこめて出来る贈り物は工夫すれば、努力すればたくさんあるような気がします。

  今日私たちが捧げる祈りも贈り物として、この世界に生きるすべての人の平和と救いのためになりますようにと、祈りを贈り物にして捧げたたいと思います。主の公現を祝う一年の始まりに私たちが教会共同体として共に集まり、共同体のメンバーとして一緒に祈るひとときが神のみ旨に適うことであれば、それはまた最高の贈り物になるような気がします。
  今日は心をこめて最高の贈り物を、最高の祈りとして捧げる祈りとしたいと思います。』

2017年1月1日日曜日

1月1日(日) 神の母聖マリア

新年明けましておめでとうございます。
新しい年が神の恵みに満ちた平和な一年でありますように。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『皆さん、新年明けましておめでとうございます。
神に感謝し、共に喜びお祝いいたします。

雪と寒さに溜息をついていた私たちではないでしょうか。
でも、大みそかの日と今日の元旦は、穏やかな一日を迎えています。
この穏やかな自然に包まれていると、心も平和を取り戻すようなそんな落ち着きを私は感じています。その心の平和を味わっていると、そこに神の恵みも感じられてきます。
教会は毎年の元旦を「神の母聖マリア」の祭日として、世界中の教会、信徒がこの地上に世界平和を祈る日となっています。教皇様は既に全世界の信徒に向けて、メッセージを出されています。信仰と希望における父として、旧約聖書のアブラハムの姿を教皇様は私たちに告げ知らせています。人間が一見不可能と思われるその中に希望があるということを旧約聖書のアブラハムの物語でも示されています。
「希望は新たな地平を開き、想像もつかないところに夢を見させる。希望は不確かな未来の闇の中に歩むための光を私たちにもたらす。」教皇様はこうメッセージの中で触れています。
聖書を見ますと、アブラハムの歩みは困難なものであって、失望や老いや疲れを感じる中で、子孫を持たずに死ぬことを神に嘆いたりするアブラハムの姿が旧約聖書で語られます。この神に嘆くということ自体が一つの信仰の形ではないか、一つの祈りではないかと、教皇様はメッセージの中で触れられています。実際、私たちも信仰生活を送るなかで、神様に愚痴をこぼすことがたくさんあるような気がします。でもそれもまた神に向っての祈りにつながっていくと思います。信仰はただ黙って受け入れるのではなくて、格闘でもあると教皇様は言われます。希望は決して失望させることはないと強調されています。どんなにつらくても、嘆きを言わざるをえなくても、希望を失わずに祈り続けなさい、そう言われているような気がします。教皇様のクリスマスのメッセージのなかでも、平和について、そしてこの世にある嘆き苦しみについて触れられています。特にこの地球に住む人たち、とりわけシリアやウクライナ、そして聖地パレスチナおよびイスラエルを始め、世界中で行われている戦争や激しい紛争の結果、苦しんでいるすべての人たちのもとへ平和が訪れますようにと。今、私たちの世界、私たちの社会、いつでも大きな不安を私たちにもたらす世界になっています。テロは遠い国で起こることではなくて、私たちの身近な世界・社会にも起こっています。教皇様はそういうなかで、テロの犠牲者たちにも慰めの言葉をクリスマスのメッセージのなかに込めていました。平和はなかなか進展していません。それはとても残念なことですが、そのようななかにあっても私たちは希望を持ち続けなければなりません。イスラエルとパレスチナの問題に対しては、歴史の新たな一ページを記す勇気と決意を持つこと、さらには残忍なテロ行為の結果として大切な人を失くした人たちには平和を希望しますと、教皇様は語られます。

私たちもどこかで挫折しそうな時が出てくるかもしれません。自分の思いはなかなか現実とはならない歯がゆさも感じることが度々あるかもしれません。でも神が一人一人を呼び集めてくださったこの私たちの教会から、私たちが一つになって心から祈るその願いは、新しい一歩として希望の光をもたらすことができると私たちは信じています。

今日、平和を祈る私たち、私たちのその聖なる心の祈りをいつも忘れることのない、この一年の歩みといたしましょう。
そして、教区100年、北一条教会の献堂100年を祝った私たちの祈りが、いつも神のみ心にかない私たちに勇気を与えるものとなりますように。
全ての人の平和を実現するための行動が伴う日々となりますように。
幼子を送ってくださった神に感謝し、地には平和が訪れますように。
み心にかなう人に幸せが来ますように。
また、教会のモットーでもあった「次の世代に繋ぐ」というその言葉がかないますように。
新しい年に、神の祝福が全ての人に行き渡るように、心を合わせて祈るこのミサを捧げていきたいと思います。』

2016年12月26日月曜日

降誕祭ミサ(日中のミサ)

クリスマス・イブから一夜明けて、降誕祭 日中のミサが午前10時から行われました。
感謝のうちにキリストの生誕をお祝いしました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『主の御降誕、クリスマスおめでとうございます。
 昨日のクリスマス・イヴと今日は穏やかな一日を迎えられそうです。好天に恵まれるクリスマスになりましたが、一昨日までは大変な雪、50年ぶりの大雪だそうですが、真っ白な雪にすっぽりと包まれた北海道、そして札幌です。近くの郵便局に行こうとしましたが、歩道は歩く人がいないせいか歩くところが消えてしまい、車道を歩くしか方法はありませんでした。昨日、今日と除雪が進んで道路は綺麗になったと、今朝、来られた方に伺っています。
 クリスマスをお祝いするために、初めて教会に来られた方がおられるようです。ともにクリスマスを祝い、ともに祈ることを感謝いたします。ようこそお出でくださいました。
 今朝、御聖堂のドアを開けて一歩外に出て空を見上げました。月がくっきりと目にとびこんできました。久しぶりに見る夜明けの月にみとれていましたが、よくよく空を見ていると星もいくつか輝いているのも気づきました。寒さを一瞬忘れる久しぶりの朝焼けの空でした。星も出ているので、あわてて部屋に戻ってカメラを持ち出して、外に出て写真を記録しました。クリスマスの喜びをカメラに写すような気分でした。
 イヴの大雪の後の穏やかな天気。昨日の夜にミサに来られた方に伺ってみますと、自宅から4時間かかって教会に来ました、そう言う声も昨日は聞かれました。歩くのも、車で来るのも大変という中、私たちはこのクリスマス、主の降誕を祝っています。そして、キリスト教徒ではないけれど「メーリークリスマス」と乾杯した人も昨日は多かったのではないでしょうか。また、今日もそういう乾杯をする人がたくさんいると思います。

  日本ではいつからクリスマスをお祝いしているでしょうか。考えたことがあるでしょうか。少し調べてみました。日本では室町の戦国時代にまで遡ります。1552年に現在の山口県山口市の教会で降誕祭のミサを行ったという記録が残されています。その記録が日本で降誕祭を祝ったという証しがあります。当時はイエスの誕生のことを「ナターリス」という呼び方をしたそうです。ナターリスというのはラテン語。そしてラテン語で「誕生」という意味だそうです。当時のキリシタンは「ナタラ」という呼び方をしていたそうです。こういう記録が残されています。日本に来ていた宣教師フロイスという人が手紙をしたためて、自分の国へ日本での宣教の様子をいろいろ書いています。そうした中にも度々、クリスマスのことが表されるようになったそうです。その記録の一部の文書はこういう表現がされています。『告白し、聖体拝領するために八里ないし十里の遠方から来ることもいとわず、篭や馬に乗って運ばれることも出来たのに、一同はその信心、信仰から徒歩でやってきたのである。』こういう表現、記録が見られます。八里ないし十里の遠方、今の時代は車で、タクシーで駆けつける状態ですが、随分長い距離を歩いて12月の寒い中、教会に来てクリスマスを祝った当時のクリスチャンの信仰が偲ばれます。でも、今年の大雪を考えると私たちも皆さんもきっと何時間もかかってやって来たということは、当時の人たちに通じるクリスマスを昨日、迎えていたのではと思っています。『信者の人たちはミサに与って幼子イエスの誕生の福音を喜びのうちに聞いていました。ミサの後、集めたお金で 食事の用意をし年長の信者が給仕をした。』こういう表現も記録の中に見られます。それはきっと私たちの現代のクリスマス・パーティの最初の状況を表しているのかもしれません。

  幼子イエスの誕生の福音の喜びを聞いていた。今日の福音は皆さんに喜びをもたらす福音の内容だったでしょうか。ちょっと今日のヨハネの福音は、「はじめにことばがあった。」との表現から始まりますが、ちょっとむずかしい。神学的、哲学的な内容の福音になりました。昨日のクリスマス・イヴの福音はそういう意味では、わたしたちが良く絵本などで見ているクリスマスの内容をしたためた福音が読まれています。皇帝アウグストゥスから登録をせよとの勅令がでて最初の住民登録が行われることになりました。当時の人々が住民登録をするために自分の出身地まで行かなければならなかった。マリアもヨゼフもダビデ家に属していたのでガリラヤの町ナザレからユダヤのベトレヘムというダビデの町へ上って行った。こういうお話が昨日のイヴの福音の内容です。ですから、皆さんが小さい頃から絵本などでクリスマスのお話を聞いた内容は、昨日のイヴの福音の中で語られていることです。そういう登録をするためにマリアとヨゼフはお腹が大きい状態でしたが旅をすることになりました。そして、その旅の途中で幼子イエスが誕生することになったというのが、昨日読まれたルカの福音のお話です。

  クリスマスをどのように感じ、どのように祝うかはその時代時代によって大きく変わってきているようです。聖書の物語からつくられたクリスマスに飾られる馬小屋、私たちの教会もそちらに飾られていますが、これは聖書に書かれている内容を想像しながら造られた飾りです。私たちは教会で一般的に馬小屋という表現をとっています。飼い葉桶に寝かされた幼子の傍にはお父さん、お母さんであるヨゼフとマリアが、その幼子を見守っているのが馬小屋の光景になります。何故、神の子イエス・キリストは馬小屋で産まれたのか。クリスマスを祝う時にそうしたことは忘れてしまってお祝いをしているような気がしますが、それも昨日のイヴの福音の中で語られていました。誕生間近にして旅をしなければならなかったマリアはベトレヘムに来て宿屋も無く、夫のヨゼフは慌てて準備をしようとしたのですが、見つけたところは暗く冷たい馬小屋であった。そこは暗くて不衛生なところ。貧しい場所で神の子が産まれるということは誰が想像したでしょうか。不衛生、汚くて暗くて寒くて、そこに幼な子神の子が誕生するはめになります。旅の途中であったということは、大変なことでもあった。私たちはそうしたことをクリスマスに思いを馳せながら、私たちの社会、私たちの周りを見つめたとき、同じような状況におかれている人がたくさんいるということを気づかされます。難民と呼ばれる人たちはまさにそういう状況の中に、今もおかれているのではないでしょうか。そういう状況を知ることによって、このイエスの誕生はさらに大きな感謝と大きな喜びになるような気がします。そして、私たち一人ひとりがそのことを深く見つめること、理解することによって、私たちの周りをさらに見つめる機会にもなっていきます。
  このクリスマスの一日、家族の中にある悲しみ苦しみを抱えながらも主の降誕を迎えている人はたくさんいると思います。私たちの教会の中においてもつい最近、家族の大切な一人を亡くされた方がいます。悲しみを抱えながらも主の降誕を祝う人たちが、そういう状況の中で本当に周りにたくさんいるのではないでしょうか。病気の人も自分の苦しみと闘いながら、主の降誕を祝っているでしょう。
  外へ目を向けてみるとつい先日、新潟県の糸魚川市で大火がありました。突然の出来事で本当に驚きながらも、ひもじさの中で今日のクリスマスを迎えている人がいると思います。さらに外国に目を向けると、テロに怯える映像がたくさん私たちに見えてきます。そして、それぞれの国の中における内戦。紛争が続いていて何百万人という難民が私たちの世界にはいるという現実もあります。

  父なる神は幼な子を通して私たちの歩むべき道を示そうとしているのではないでしょうか。クリスマスを祝いながら私たちの現実を見つめ、感謝と喜びのうちに、私たちは周りの人と本当に平和を築いていかなければならない。そんな思いが強くされます。地には平和が訪れますように。御心の適う人に幸せがきますように。天使の賛美の声が夜空にこだましたと聖書は告げています。その天使の賛美の声、祈りが私たちの心からの祈りに重なっていきますように。そして、隣人と世界中の人々の心に私たちの祈りが届き、世界中の人の幸せに繋がっていきますように。喜びのクリスマス、イエス・キリストの誕生を語る聖書のお話は、大変な家庭の姿を描いています。それは旅の途中で我が子を出産しなければならないという大変な状況でもありました。クリスマスはいっけんロマンチックな物語のように捉えらる人が多いと思いますが、けっしてロマンチックな夢物語ではありませんでした。神は現実のドロドロした生活をしっかりと受けとめてくださっているというのが証言でもあるような気がします。その神の愛、キリストの誕生を祝うのが私たちの本当のクリスマスになるのだと思います。

 クリスマスそれは、父である神の心からの感謝を捧げる日になるのではないでしょうか。今日、私たちはもう一度心に留めながら、私たちの幸せに感謝し、そして私たちの幸せが周りの人にも分かち合うことが出来ますように。そうしたことを祈りながらこのミサを捧げ、また  新しい1年もその幸せに繋がっていくように、ともに祈りたいと思います。』

2016年12月25日日曜日

降誕祭ミサ(夜半のミサ)

主のご降誕おめでとうございます。


12月24日(土)午後7時から、カトリック北一条教会(札幌教区司教座聖堂)において、
ベルナルド勝谷太治司教様の司式により、降誕祭ミサが行われました。




札幌は前日まで、50年振りとなる大雪に見舞われましたが、聖夜の夜は穏やかな天候に恵まれ、聖堂は400名以上の方々で埋め尽くされました。
教会に所属する信徒の他に、外国人ツーリストの方々もたくさん訪れていました。

聖堂の照明が消され、ローソクを持った侍者が先導する中、勝谷司教様が幼子イエス様の御像を抱き入場しました。



祭壇前に御像が安置された後、入祭の歌「やみに住む民は光を見た」が歌われる中、侍者のローソクの火は会衆の持つローソクへと移され、聖堂はやがて仄かな明かりに満たされました。



勝谷司教様は、お説教の中で、
今年一年の自身が経験されたフィリピンでの出来事と、バチカンでの「正義と平和協議会」会議を振り返り、教皇フランシスコの回勅を引用しながら、平和は決して武力では得られない、平和への道は一人一人の家庭が出発点になる、と訴えかけられました。


ミサが終わった後、子どもたちによる聖歌の合唱が行われました。


隣接するカテドラルホールでは、祝賀会が行われました。





2016年12月12日月曜日

待降節第3主日

待降節第3主日を迎えました。

教会は古くから「喜びの主日」と言ってこの日を迎えています。
ガウデーテの主日、バラの主日とも言われています。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日、待降節第3主日。教会は古くから「喜びの主日」と言ってこの日を迎えています。 ガウデーテの主日、バラの主日とも言われています。紫の待降節の季節の中で、教会によっては待降節第3主日にバラ色の祭服を着るところもあるようです。北一条教会ではバラ色の祭服は用意されていませんので、いつもの紫色の祭服を着ています。4本のロウソクをそのようなかたちで色を付けている教会もたくさんあるようです。昨日は円山教会の共同回心式でしたが、4本のうち1本はピンク系統のロウソクが置かれていました。その前には真駒内教会にも行きましたが、やはり同じようなロウソクを使っていました。  

  喜びの主日。私たちにとって喜びの主日になっているでしょうか。今日、大雪のなか、教会に足を運んだ皆さんには喜びの主日になっているのではないかと思います。がんばって教会に行こうと思ったけれど、バス停までの大雪の道を考えたら、今日はちょっと出かけられない というお年寄り、病気の方もたくさんおられたのではないでしょうかか。
  今日の入祭唱では、喜びの主日に見合ったみ言葉が述べられています。私たちは、入祭の歌を歌いましたから、入祭唱の言葉を味わっていませんが、「聖書と典礼」をみますと2ページの下にその言葉を味わうことができます。どうぞ、今日は「聖書と典礼」を持ち帰られて、その喜びの主日を心にとめて、今日のみ言葉をこの1週間、繰り返し、繰り返しみ味わってみてはいかがでしょうか。入祭唱の言葉は「主にあっていつも喜べ、。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる。」(フィリピ4:4-5)こういうみ言葉が用意されていました。今日のイザヤの預言も「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ」という言葉で始まっています。さらに今日の福音もその内容は、期待や希望を持たせる「喜び」のテーマが流れているような気がします。
 今日の待降節第3主日の全体のみ言葉を黙想するとそこには 、基本的にテーマは「喜び」ということがあげられるような気がします。それはまた、御降誕を前にした主における喜びではないでしょうか。私たちにとっての主の降誕、クリスマス、少し安易に流れてしまう、そういうクリスマスを迎える、そういう人がいるような気もいたします。
 喜びとはどういうことを言うのでしょうか。私たち一人ひとりも喜び、それはどういうことなのか、もう一度考えてみても良いような気がします。そして、クリスマスを迎える為に私たちが成すべきことは何でしょうか。待降節の中日(なかび)を迎えて、さらに準備の日々を過ごしたいと思います。

  待降節に入って聖書をとおして呼びかけられた言葉、どんなことを皆さんは思い出すことが出来ますか。「目を覚ましていなさい。思わぬ時に人の子は来る。回心せよ。天の国は近づいた。」いろんなメッセージが私たちの耳に響いていました。心からの平和と救いを願い求める時代に、洗者ヨハネの「悔い改めよ。天の国は近づいた。」という呼びかけの言葉に、イスラエルの民は自分たちの歴史を顧みながら祈り続けています。これまでの苦しい旅する教会の姿をとったイスラエルの民にとって、その呼びかけの言葉は、大きな希望をもたらすような気もいたします。人々はヨハネの言葉を聴いて、いよいよそういう時が自分たちのもとに近づいたんだという意識もきっと持たれたと思います。罪を清めるためにある人々はヨルダン川の水に浸り清めの洗礼を受けます。ヨハネの言葉には無味乾燥した、いっけん何もないかのような砂漠や荒地に花が咲くときが訪れ、そういう希望をもたらす喜びのメッセージがあったようです。私たちは毎年そういうみ言葉を聴いていますが、私たちは呼びかけの言葉にどのくらい希望を見いだしているでしょうか。私たち現代に生きる人間にとっては、ヨハネの言葉は少し自分たちの心にはあまり響いていないのかもしれません。2000年前のイスラエルの民にとって、渇いた砂漠や荒野は自分たちの目の前に広まる大自然でした。いっけん暗闇にも見える砂漠の中にひと雨があれば、そこから植物は大地から芽吹き成長し、花を咲かせる大自然の神秘を経験したと思います。
 私たち日本人には、そういった砂漠や大自然は、ほとんど縁がないため想像がつかないかもしれません。イスラエルの砂漠の中に小さな小さな植物が一滴の水だけでも、命の元気を大きく開かせて成長すると言われます。普段は渇いてずっと縮こまっているようですが、一滴の水で大きく命は蘇るといわれます。そういう大自然の中で自分たちの歴史にも重ねてヨハネの言葉を聴くときに、今度こそ大きな喜び、平和が訪れるという期待が高まったんだと思います。目覚めよ、思わぬ時に人の子は来るとは、まさにそんな時を連想させたのだと思います。何よりも神の約束が成就すると信じてきた民にとって、救い主によって願い求めてきた祈りが実現に向かう。悲しみ嘆きは私たちの生活から消え去る。そういう信仰、期待、確信があったようです。私たちはそういうイスラエルの民の信仰を黙想しながら、考えながら私たちの待降節の日々を過ごし、大きな喜びの日を迎えたいと思っています。

  牢屋に閉じ込められていたヨハネは、キリストの噂、み業を伝え聞きます。そして、イエスのもとに自分の弟子を送って質問します。「来るべき御方はあなたですか。それとも他の方を待つべきでしょうか。」そのヨハネの弟子の質問に対して、イエスは旧約聖書のイザヤの預言の言葉をもって答えます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、貧しい人には福音が告げ知らされる。」。ひとつの解釈は、まさにご自分が預言の実現者である。また、ヨハネは正義の救い主を期待していますが、囚われの牢屋の中で聞くその噂は、キリストが慈悲深い愛の人であると聞いたことによって、正義の救い主というイメージを大きくします。正義の救い主、それは、愛の救い主であることでもあるようです。イエス・キリストは正義の方であると同時に完全な愛の方でもありました。でも、当時の人々は正義を優先するのか、愛を優先させるのか、そのようにどっちにしか考えられない人も多かったようです。それはある意味でキリストに対するつまずきの始まりでもありました。自分たちを解放してくれる、社会を解放して私たちの生活を少しでも楽にしてくれる、力ある権威あるリーダーである。そういう期待のほうが政治的な現実的な世俗的な期待だけをふくらませていた人にとっては、おおきなつまずきが後にやってくるようです。期待したその人は無残にも十字架の上で人からあざけりを受け、亡くなってしまう。

 今、私たちが生きる現代は、ヨハネの生きた時代とは余りにも違いがあるかもしせません。私たちの毎日に思いどおりにならないことがたくさんあるという点では、昔も今も変わらないかもしれません。喜びよりも悲しみの方が多い毎日であると感じている人もたくさんいる私たちの社会です。自分の小ささ、自分の努力がやるせない気持ちにさせている現実を私たちはたくさん見てきています。自分自身も経験します。
 喜び踊れ。この招きは絶望の淵に立つ、ぎりぎりの人間のもろさの中で愛の神が差し伸べてくる御手を感じることができる言葉です。私たちはもう一度、今日の「喜びの主日」にあたって喜びの心を私たちの心にも取り戻したいと思います。この喜びの招きはほって置けば消え失せる世界にあって、私たちを支え満たしてくれる神の招きでもあるとも思います。ヨハネのようにひたむきに神を渇望し、神の訪れを待ち続けるとき、私たちのために、私たちに近づいてくる神の姿を感じることができるのではないでしょうか。ひたすら待ち続けることによって、神の喜びが私たちのもとにやってきます。
  待降節も半ば残すところ 2週間となりました。自分の無欲を体験する現実の生活の中で、 神の訪れが真の喜びになるように、私たちも主に信頼をおいて、幼子イエスを待ち続ける日々を今日からまた歩みたいと思います。』

2016年12月4日日曜日

待降節第2主日

待降節も2週目に入り、アドベントクランツの2本目のローソクにも火が灯されました。

「悔い改めよ」と呼び掛ける洗礼者ヨハネの声を聞きながら、待降節を生きることができるように祈りましょう。

聖堂に飾り付けられた馬小屋です。



後藤神父様のお説教をご紹介します。



『待降節も2週目に入り、アドベントクランツの2本目のローソクにも火が灯されました。このローソクの火を見ていると、クリスマスが近づいてくることが実感されます。
12月に入り、気忙しい季節となりましたが、皆さんはどのような気持ちでこの12月を迎えているでしょうか?今日の福音の中でも「悔い改め」という言葉が出てきていますが、昨日は真駒内教会で共同回心式が行われていました。昨日は北11条教会でも「虹の会」の集いがあったそうですし、こちらの教会ではカリタス家庭支援センターのチャリティコンサートが行われ、他の教会からも沢山の方がみえていました。真駒内教会の近藤神父様は昨日の共同回心式の参加者の少なさを嘆いておられましたが、他の行事と重なったことを話すと信者さんたちの忙しさも少し理解されたようでした。いずれにしても、共同回心式は待降節のなかにあって、私たちが準備をしていく上で、とても大切な儀式になっています。今週の土曜日は山鼻教会で、来週は北26条教会でそれぞれ共同回心式が行われることになっています。私たちの教会では共同回心式の計画はありませんでしたが、信徒の一人一人が回心のひとときを過ごすことができるように、個人告解はいつでもできますので、私に声掛けをして、赦しの秘跡や恵みを受けることを改めてお伝えしておきます。

さて、昨日の12月4日はフランシスコ・ザビエルの祝日を迎えていましたが、皆さんはそのことを思い起こしていたでしょうか。私たち日本の教会にとってフランシスコ・ザビエルは日本宣教の保護者として、私たち日本人信徒の信仰の上では切っても切れないご縁のある方です。今日は、「宣教地司祭育成の日・献金」ですが、今年6月の定例司教総会で「宣教地召命促進の日」と名称が変更されました。日本ではザビエルを始め、海外から多くの宣教師が来て、キリスト教の信仰をもたらしました。現在の信徒数に対して、司祭の数がとやかく言われる時代が来ました。司祭が少なくなったという話もよく聞く話です。キリストを知らない人の数を考えると、もっと司祭がいてもいいと考えることもできますが、急に増える状況ではありません。そういう意味では、いつも言われているように、私たち一人一人が宣教の使命を担っているということが益々大切になると思います。そのような意味でも、この日の献金はローマに送られて全世界の宣教地の司祭育成のために使われることになりますので、改めてご協力をお願いします。

「宣教」について少しお話をしたいと思います。
私たち日本の国では今やクリスマスは、社会行事になったように思えます。嬉しい反面、ちょっとそれでいいのかな、という思いもあります。美味しいケーキはクリスマスに用意されますけれど、そこに神様がおられるのか、イエス・キリストがそこにおられるのか、ということを少し考えてみる必要がありそうです。クリスマスを何のために祝っているのか?迎えているのか?
かつて私はお説教でも触れましたが、私は函館江差教会の出身ですけれど、江差教会での降誕祭の夜のミサで、信者さんが帰るときに私は何人かの人たちの送り迎えをしていたのですが、夜中の人の出入りを不審に思ったのでしょうか、警察が教会の前に来ていて尋ねてきたので、「今日はクリスマスなので」と答えたところ、「え?クリスマスは教会と関係があるんですか?」と言われ、私の方がとてもびっくりしたことがあります。世の中はそういうものなのかなと思っています。クリスマスは一般的に誰もがお祝いするようになってきていますが、本当のクリスマスになっていないということがいえるのだと思います。イエス・キリストが不在のクリスマスというものを私たちはどのように受け止めればいいのでしょうか?
私たち一人一人もクリスマスを祝うということの本当の意味をもっと深く心に留めて、周囲の人と話す機会が出来るならば、そこから私たちの福音宣教も可能になっていくことだと思います。本当に意味のクリスマスを伝えるということだけでも大きな宣教になるのではないかと思います。

今日の福音でも、宣教する洗礼者ヨハネの姿が示されました。洗礼者ヨハネは宣教活動を開始するに当たってユダヤの荒れ野に赴いています。ちなみにイエス・キリストが公生活を始めて宣教を開始されたのはガリラヤでした。宣教の始まり、それは決して人が大勢いる都会であると考える必要はないと思います。大切なことは、一人一人の心に語りかけられることが大切ではないでしょうか。どんな人の心にも神様の訪れが近づいているということを伝えることだと思います。

洗礼者ヨハネは「悔い改めよ!」という言葉から始めています。最初から神の言葉を語り伝えているのではなく、一人一人の心を見つめさせ、回心を促し、神に心を向けさせていく洗礼者ヨハネに私たちも習いたいと思います。
まず心を洗われること、そして新しい生き方があるのだということを知ってもらい、そこから神への道、神に至る道が始まっていくということでもあるということ。
「回心せよ!」との洗礼者ヨハネの声は、私たち現代社会にも響いてくると思います。それは欲望に取りつかれ争いの絶えない社会が今日あり、また人間性を無視する犯罪が毎日のように起こる私たちの社会でもあります。さらには食料不足で命を失くす世界もある、命の軽視で罪のない幼い子供の命が奪われる事件が絶えることのない現実があり、心を痛める私たちですが、時には出来ることから始めなければという思いも強くしています。でもそのような思いはなかなか現実の行動に繋げることは簡単ではありません。
待降節を迎えて、まず私たちは自分自身の心を振り返り、自分自身を深く見つめ、回心することから始めないとならないようです。
人から受け入れられないことは、誰にもつらいことです。人間関係で思いや心に、何か食い違いを起こしていることも、つらいことではないでしょうか。何を始めなければならないのか、何を改めなければならないのか、それが回心につながってくることではないかと思います。
「キリストに向って、同じ思いを抱かせてくださいますように」と、思いや心の深いところで一つになることは、希望の光や愛の心をもたらすはずです。

洗礼者ヨハネの声を聞きながら、待降節を生きることができるように祈りましょう。』

2016年11月27日日曜日

待降節第1主日

教会暦では新しい年を、そして待降節を迎えました。
教会ではこの日、降誕祭を迎えるためのクリスマスツリー、馬小屋の飾りつけを行いました。


後藤神父様のお説教をご紹介します。



『皆さんは待降節という言葉の響きからどんな思いを抱いているでしょうか。私は求道者の時代をいれると50年経ちますので、50回目のクリスマスを迎えようとしています。私はクリスマスの洗礼でしたから、待降節、クリスマスは私にとっては、特に思い出深い待降節、クリスマスになっていますが、皆さんにとって待降節、クリスマスはどんな思いで今日を迎え、教会の歩みをしようとしているでしょうか。今日は、ノアの方舟の話しも少しふれられていますが、私たちのこの教会の設計、デザインは、ノアの方舟の舟底を逆さまにした形のデザインだと言われています。こうして見ているだけでも、そのことを改めて、ノアの方舟はこんなふうだったのかなと考えたりします。そして、方舟の中に入った人々が救われたということを考えると、今日ここに集まっている人々も、教会に足を運んで救いをいただく、その恵みをいただく人々である。そんな思いも私にはしてきます。

  待降節。いろいろな受けとめ方をして今日からの一日を始めるはずです。待降節は元々、私たちが待ち望むというよりも、神が現れて決定的な救いを与えるという意味合いが強かったそうです。でもきっと今の私たちは、私たちが待ち望む、私たちがという、人間の方が中心になって待降節を待つ気持ちの方が強いかなという気がします。元々は神様が現れ救い主を遣わして、この世に神が現れるという意味合いが、待降節に深く結ばれていたということです。 

  世の中の騒がしさに惑わされることなく、神から与えられるその時を見過ごすことのないように、「目を覚ましていなさい。」と今日の福音は私たちに呼びかけます。目覚めていなさい、目を覚ましていなさい。私たちはどんなことに目覚めていなければいけないのか。そんなことも黙想しながら考え、待降節の間、そのことを大切にして主の降誕までいきたいと思います。
  福音は救い主の訪れよりも、主の再臨の時を思わせる内容になっていると思います。いずれにせよ、新しい典礼暦の始めとなる待降節を私たちは今日から迎えています。昨日は、典礼委員を中心として多くの人々がこのクリスマスに向けての準備のために、作業をしてくださいました。馬小屋はまだ出来ていませんが、まず4本のローソクが飾られたアドベントクランツは準備されております。国によってクリスマスツリーを飾ったり、アドベントクランツの4本のローソクを飾ったり、後は馬小屋を飾ったり、その国の伝統、習慣が教会に大きな影響をもたらしたといわれます。でも、今日の教会ではツリーも4本のローソクも馬小屋も全部準備する教会が多くなったのではと思います。目で見えることからもクリスマスを意識して準備の日々を歩むことが出来るようです。今日からの4週間、主の降誕の日を目標にして、救いの喜びを受け取るために私たちは歩んでいきます。父である神は、幼子・救い主を送ってくださるのですから、その幼子を私たちは相応しく迎えることができるように準備をしたいと思います。相応しい準備とは、私たち一人ひとりにとってどんなことでしょうか。自分は幼子を迎えるに相応しい準備が出来ているのでしょうか。どういうふうにその準備をしたら良いのでしょうか。そのことを考える、そして考えながら歩むというのが待降節でもあります。ですから、一人ひとりそのことを忘れないようにして、今日からの待降節を歩むことにいたしましょう。

 皆さんはこの待降節を迎えて何か特別な思いおこしがあったでしょうか? 私は待降節を迎えて、ベネディクト16世教皇は在任期間は短かったのですが、私たち教会にメッセージを下さったことがあります。前の教皇ですが、待降節にあたって、私たちのために生まれた幼子を迎える時にあたり、「すべての命のために祈って欲しい。」そういうメッセージを流されたことがあります。幼子だけを待ち、そして幼子だけを待ち望むのではなくて、すべての命を考えましょう、というメッセージでした。そのとき全世界の教会は共に祈ったと思います。皆さんも同じ意向で祈ったのではと思います。私は今日、待降節の一日目を歩むこの時、そのことを少し思い出しました。今の私たちの少子化の時代、私たちは口にしていますが、様々な原因がそこにはあると思います。そして、全世界を見れば命がどんなに無残に消されているかという時代も、今日だと思っています。少子化だけの問題ではなくて、難民とか内戦、紛争、様々な争いの中で、また自然災害の中で貧しい人が子供を育てられない、子供に食事を与えられないそういう厳しい状況に置かれている人々も、大勢いるということが私たちのこの世界にもあると思います。幼子を待つという中で、命についても忘れてはならないということです。このときベネディクト教皇は、主イエスが人となられ完全にご自身を捧げることによって、すべての人の命の価値と尊厳を示してくださったことに感謝して、すべての人の命を守ってくださるように主に願い求めましょう、こういうメッセージがありました。私たちも与えられた命に感謝するとともに、すべての命、特に幼子の命が大切にされる社会を願いながら歩みたいと思っています。

   幼子を待つ待降節。私たちにとって幼子の存在はいつも大きな希望をもたらしてくださる
命です。今日の入堂のときに子供のほっぺたを少しつつきながら入堂しましたが、幼子、子供をみているだけで私たちの心は喜びに溢れます。純粋な気持ちにかえることが出来ます。私たちの周りに幼い子供がいるということは、私たちにとっても幸せなときであるとも思います。そういうことを大切にしたいと思います。そういう心を見失わないように、いつも私たちは持っていたいと思います。時々、お歳を召されてきますと子供の声が煩わしいという時もあるかと思います。健康上の理由でそのようなことがあるかと思いますが、私たちの周りに若い人、子供や赤ちゃんがいるというだけで、素晴らしい私たちの社会、世界であるということに喜びを見いだせる心を保ちたいと思っています。

  さて、「目を覚ましていなさい。」。いろんなことが考えられる目覚めていなさいという言葉です。私たちはみ言葉をとおしていつも目覚めていられるように、その心を大切に出来るようにこの1年を歩んでいきましょう。今年の待降節、今日から3年周期の福音朗読ではマタイの福音が朗読されることになります。今日も最初としてマタイの福音が朗読されましたが、終末と主の来臨を告げるそういう内容になりました。でも、今日の福音の中心は、いつ何が起こっても不思議ではない、そういう恐れを私たちに募らせていきます。それがいつ起こるのか、どういうことなのか、イエスから直接話しを聞いている人々も不安を感じながら その言葉に耳を傾けていました。今、私たちは福音を通しても、そのことに少し不安や戸惑いを感じながら、み言葉に耳を傾けています。イエスは彼らの期待に反して、その日その時は誰も知らない。それは思わぬ時に突然やってくると言います。パウロは今日の第2朗読で、「救いは近い。」と言う言葉を使っていますが、救いと言うよりも何か訳の分からない恐ろしいことが起こるのではないかと、パウロの言葉に耳を傾けた人が多かったようです。私たちの命の歩み、人生は いつ何が起きてもおかしくない、そういう日々を生きています。明日のことは誰も保証されていないことを時々言葉にだしますが、明日のことは心配しないで済むのでは、そういう生き方をしていると思います。
 そのとき私たちは何が起きるか分からないとう状態で人生を歩んでいるんだと思います。このお話はキリストが十字架に架けられ、受難の苦しみを受け、弟子たちの前から去っていく直前の時の話しでもあります。遺言のように語られている言葉ですが、弟子たちにはまだそのことが分からないままに聞いています。ですから、不安でしょうがなかった。聖書の話しは二人の男が畑にいても、二人の女がいっしょに臼をひいていても、一人は連れていかれ、一人は残る。そういわれます。同じ仕事、同じ場所にいたはずなのに「どうして一人だけが連れていかれるのですか。」というのが私たちの考えになってしまうと思います。死というものは同じ仕事、同じ場所にいたとしても、時には何の予告もなく訪れます。思いがけなく突然にやってくることを伝えています。それはとりもなおさず、弟子たちにそして私たちに常に警戒し用意しておく必要を諭すためのお話でした。だから、目を覚ましていなさいというメッセージになっています。
 盗人のたとえも同じことを言っています。霊的な宝を不用心のために盗まれて、大切なものを失うことがないように、目覚めて警戒しているようにと諭します。私たちが本当に大切なものをしっかり心の中に保っていることが何よりも大事なんだということを言います。私たちは一番大切なものを本当に心の中でしっかりと保っているでしょうか。大切なものよりも違う方向に目を向けて、そっちに気遣いだけをしている、そういうことも多い私たちです。でも、イエスの目から大切なものをいつも大切にしなさい、見失うことのないようにしなさいと、私たちに諭します。
 現代の時代を不信仰の時代と神不在の時代と呼ぶ人がいます。ストレスが爆発して誰でもいいから殺傷するという事件も、一年に何度も何度も新聞やテレビで聞いています。まさにその時、同じ場所にいても、親しい家族が亡くなり自分だけが助かるという状況を経験する時代です。自分だけは大丈夫とは云えない時代になっていると思います。ましてや幼い命、子供の命がそういう中で踏みにじられ消えていく、そういう時代を私たちは生きています。でも、そういう時代を変えていかなければならないのも私たちの努めだと思います。

 主の降誕を待つ準備をしながら、生まれてくる子ども達がいつものびのびと成長する社会を描いて、人権が尊ばれ社会の一員として健康に恵まれるように、私たちは祈り続けなければならないし、そのためにも私たちの行動が大切になっています。その心を見失うことなく、いつも目覚めていられるように、今日はこのミサの中で特に祈りたいと思います。私たち自身も世の騒がしさに惑わされることなく、信仰と神への信頼のうちに主の訪れと喜びを受け入れることが出来ますように。待降節を歩む私たちが、私たち一人ひとりに相応しい道のりを自分の足で、自分のペースで幸せに歩くことが出来る、これこそ私たちが願っていることだと思います。その足もとを主の光がいつまでも照らしてくださるように。待降節、いろいろな意味で私たちは相応しい準備をしていかなければなりません。私にとっての相応しい準備、私たちの教会にとっての相応しい準備を考えながら、共に歩んで行きましょう。』