今年最後の主日ミサでした。
聖家族も当時の迫害から難を逃れようと宿も見つからずに彷徨っていた名もない多くの難民のなかの一家族でした。
この日の勝谷司教のお説教の大要をご紹介します。
『「聖家族」の祝日を迎えました。
第1朗読、第2朗読は、家族の在り方を示しています。
そして、福音書は、どんな困難に直面しても、家族が一つになってその困難を耐えて克服していく姿を描いています。
昨年シノドスがありましたが、それについての話は以前したことがあります。
今の教皇フランシスコが強調していることは、最も弱い立場に追いやられた人たちと共に歩む、そのことを常に機会あるごとに、何処へ行っても主張されています。
今回の訪日に当たっても、その線はぶれることなくお話されていました。
家庭の問題についても、昨年のシノドス以前に開かれた家庭に関するシノドスにおいて、現実は非常に厳しい、特にヨーロッパにおいては、教会が規定している結婚の形態を取らずに、いわゆる正式な結婚をせずに婚姻関係を結んでいることや、シングルマザーの問題など、教会が受け入れることができないような家庭については、教会が勧めるあるべき姿に従っていないということから、疎外され教会から離れざるをえない。でもそれは、彼らが離れていったというよりは、むしろそのような教会の体質が彼らを阻害し追いやっているのだと。
同じような論点から、青年についても言われました。青年が教会を離れていったのではなく、教会が青年から離れていったのだと。
つまり、現代社会が抱えている様々な問題が、教会の勧めるあるべき姿からかけ離れている現実を、良くないことだとして切り捨ててしまうのか。それが従来の”裁く”教会の姿でした。
しかし、教皇フランシスコはそうではなく、まさにそのような現実に生きてその中で苦しみ、そしてその生きる指針を求めている人たちに対して、教会があるべき姿はこうだと、言ってみてもしょうがないことです。むしろ、その人たちの苦しみに寄り添い、共に歩み、その重荷を担うことによって、進むべき方向を指し示していく、それがこれからの教会に求められる姿であると強調されています。
今日の聖家族の祝日は、そのようなテーマが一つにありますが、もう一つ重要なテーマがあります。まず今回、教皇様が訪日され、様々な意趣がありましたけれども、マスコミにほとんど取り上げられずスルーされた問題が一点あります。
私は東京のカテドラルで行われた「青年との集い」の総責任者でした。当初、青年が本当に集まるのか心配していた面もありましたが、予想を遥かに超える申し込みが殺到し、申し込み開始から僅か2日間で席が埋まってしまいました。さらにできるだけ多くの青年たちに参加してもらおうと長椅子を全て取り外しパイプ椅子に置き換え何とか追加の200席を確保しました。
ところが直前になって、あと20席確保するようにと、教皇様から指示がありました。その席は誰のためかというと難民の人たちのためのものでした。そして何とか最前列に20席確保しました。本番の際には、教皇様が正面の扉から入って来て、難民の人たちの前を通った時に足を止めて、教皇様は彼らと親しく話しをしました。
教皇様のスピーチは、3人の青年の代表が話したことに対して答えるという形で行われました。会場には関係者を含めると1000人以上が入っており、そのうちの200人程度は外国籍の青年たちでした。
教皇様は、メッセージの中で、
「日本の社会は、今日ここを見ても分かるとおりモノトーンではない。多様な文化・国の人たちがいます。そして何よりも皆さんの保護を求めて、遠くから来られている難民の人たちがいます。彼らを助けてあげて下さい。」とおっしゃられました。教皇様は、このように難民や移民の人たちに常に心を留めておられます。
実際に日本の教会は、インターナショナル・チャーチになって来ており、多様な文化の人たちがいて、その中では異国に来て困難な状況に置かれている人たちがたくさんいるということを改めて知らされました。
難民だけではなく、技能実習生で不当な扱いを受けている人たちもおり、これに関して札幌教区はこの一年間で格段にその対応が進んでいることが私はうれしく思います。
手稲教会の取り組みは、道新の一面全部で取り上げられていましたし、函館のケースについてもNHKや道新で取り上げられました。教会が、そして教会に来ている高校生や青年が、この難民の人たちと関わり、生活支援だけではなく、直面している労働問題についても対応している。函館市内のプロテスタント教会がクリスマス献金を持ってきて、湯川教会で取り組んでいる技能実習生の支援活動に対して賛同するので、このお金を使ってくださいと持ってきました。
いま地方の教会ほど、国際的な教会になってきており、日曜のミサも多言語で行われています。
北一条教会についても以前からお話しているとおり、英語ミサと同じ共同体のメンバーとして、一つの共同体を作っていくような方向で検討していっていただきたいと願っています。
今日の福音書のテーマというのは、まさに「聖家族」自身がエジプトへと逃れた、つまり難民だったわけです。そして私たちは、クリスマスの宿がなく馬小屋で生まれたというシーンも含めて、特別な二人という見方をしていますが、実はそうではないと私は思うのです。たくさんの人たちが人口調査のために移動していく中で、多くの人たちが宿を見つけられずに彷徨っていた。そういうたくさんの人たちの中の名もない二人だったわけです。ヘロデの迫害はこの二人をピンポイントで狙っていたわではなく、誰だかわからないから大勢の子供たちが殺戮されたわけです。ですからその対象はたくさんいたわけです。聖家族だけではなく他の多くの家族が危機を感じていました。そう考えると、たくさんの人たちが難を逃れようと避難したと考えられます。そういう多くの避難民の中の名もない三人だったわけです。そう考えると、この聖家族は特別なものではなくて、多くの小さき人たちの一人にすぎない。そう考えれば、私たちは現代社会において、日本国内に来て困難に直面している人たちの中にも、この聖家族はいるのだということに、改めて私たちは対応していく必要があるのだと思います。』
2019年12月30日月曜日
2019年12月27日金曜日
12月25日(水)主の降誕(日中のミサ)
平日の日中にも係らず、聖園幼稚園の子供たちをはじめ350名の方がミサに参加しました。ミサ後には聖堂内装飾の紹介を行いました。
この日の森田神父様のお説教の大要をご紹介します。
『昨夜は馬小屋を見ながら、この世にこられたイエス・キリストのお祝いをしました。
今日読まれた福音朗読は少し難しくて、昨日こられたイエス様というのは本来の姿はどういうものであるか、人間となられる前の本来の姿はいったいどういうものであるか、ということを語っています。ひじょうにちょっと深くて、普段ちょっと私たちが考えなかったように、この世の創造にかかわるようなことです。
そして、はじめに言(ことば)があった。言(ことば)がいっぱいでてきます。この「言(ことば)」をイエスに置き換えて読むということです。イエス様が神の言(ことば)であると言われているように。ただ、言(ことば)という言葉には訳しきれない。元々のギリシア語は「ロゴス」と言います。はじめにロゴスがあった。このロゴスはわたしたちが使っている「言(ことば)」という単語ではとてもとても、全部を表していない。もっと深い内容をもっています。例えば「知恵」とも訳されます。言(ことば)は神の知恵。あるいは神の英知。いろんな言葉がそこに入ります。あるいは、もっと大きく言うと、宇宙と生命の源であるというふうに。天の御父、神様はイエス様とともにこの世を創造なされたということが、ここに書かれているのです。イエス様は神の子であって、御父の心であって、知恵であって、御父とともにこの世を創造なさった神である。というのが私たちの信仰ですね。ですからそこまでいくと本来のイエス様の姿をとらえるのは私たちにはとても難しくて、人となってくだされなければ分からないというぐらいの方なのです。
そこでイエス様はあるとき教えの中で、私のことは御父以外には誰も知らない、とおっしゃったことがあります。私のことは御父以外には誰も知らない。つまり33年の生涯をおくられたイエス様のこの世の生涯については、私たちは聖書をとおして知っていますが、その本来のお姿は神の子としての、神の英知として、宇宙に満ちたそういう本来の姿は私たちにはとらえるのは難しい。そういう意味合いがこめられているのだと思います。
そういうような言(ことば)が人となられた。赤ちゃんとなって馬小屋の中で生まれてくださったのです。そしてこの方によって私たちも大きな恵みを受ける。そういう御方から私たちと同じ人間となってくださり、本当に2000年前に33歳の生涯をおくってくださった。そのことによって私たちとその神様との距離がうんと縮められます。私たちも神様のいのちに与る者としていただいた。
それはいろいろな意味があります。そのことを今日は思い起こす。この人となってくださった方がいったいどういう御方であるのか。それは少し難しいけれど、御父とともにこの世を創造された方です。この方に私たちは、「恵みの上にさらに恵みを受ける」(ヨハネ1章16節)ことになりますよう、そういうことを教えています。このみ言葉をもう一度読んで、言葉(ことば)というところに「イエス様」を入れて(置き換え)、本来のこの単語では訳しきれない、深い広い意味だということを思いながら、もう一度、ゆっくりと家で読んでいただければと良いと思います。』
この日の森田神父様のお説教の大要をご紹介します。
『昨夜は馬小屋を見ながら、この世にこられたイエス・キリストのお祝いをしました。
今日読まれた福音朗読は少し難しくて、昨日こられたイエス様というのは本来の姿はどういうものであるか、人間となられる前の本来の姿はいったいどういうものであるか、ということを語っています。ひじょうにちょっと深くて、普段ちょっと私たちが考えなかったように、この世の創造にかかわるようなことです。
そして、はじめに言(ことば)があった。言(ことば)がいっぱいでてきます。この「言(ことば)」をイエスに置き換えて読むということです。イエス様が神の言(ことば)であると言われているように。ただ、言(ことば)という言葉には訳しきれない。元々のギリシア語は「ロゴス」と言います。はじめにロゴスがあった。このロゴスはわたしたちが使っている「言(ことば)」という単語ではとてもとても、全部を表していない。もっと深い内容をもっています。例えば「知恵」とも訳されます。言(ことば)は神の知恵。あるいは神の英知。いろんな言葉がそこに入ります。あるいは、もっと大きく言うと、宇宙と生命の源であるというふうに。天の御父、神様はイエス様とともにこの世を創造なされたということが、ここに書かれているのです。イエス様は神の子であって、御父の心であって、知恵であって、御父とともにこの世を創造なさった神である。というのが私たちの信仰ですね。ですからそこまでいくと本来のイエス様の姿をとらえるのは私たちにはとても難しくて、人となってくだされなければ分からないというぐらいの方なのです。
そこでイエス様はあるとき教えの中で、私のことは御父以外には誰も知らない、とおっしゃったことがあります。私のことは御父以外には誰も知らない。つまり33年の生涯をおくられたイエス様のこの世の生涯については、私たちは聖書をとおして知っていますが、その本来のお姿は神の子としての、神の英知として、宇宙に満ちたそういう本来の姿は私たちにはとらえるのは難しい。そういう意味合いがこめられているのだと思います。
そういうような言(ことば)が人となられた。赤ちゃんとなって馬小屋の中で生まれてくださったのです。そしてこの方によって私たちも大きな恵みを受ける。そういう御方から私たちと同じ人間となってくださり、本当に2000年前に33歳の生涯をおくってくださった。そのことによって私たちとその神様との距離がうんと縮められます。私たちも神様のいのちに与る者としていただいた。
それはいろいろな意味があります。そのことを今日は思い起こす。この人となってくださった方がいったいどういう御方であるのか。それは少し難しいけれど、御父とともにこの世を創造された方です。この方に私たちは、「恵みの上にさらに恵みを受ける」(ヨハネ1章16節)ことになりますよう、そういうことを教えています。このみ言葉をもう一度読んで、言葉(ことば)というところに「イエス様」を入れて(置き換え)、本来のこの単語では訳しきれない、深い広い意味だということを思いながら、もう一度、ゆっくりと家で読んでいただければと良いと思います。』
2019年12月25日水曜日
主の降誕(夜半のミサ)
主のご降誕おめでとうございます。
7時からの夜半のミサには600名の方がお越しになり、一緒に救い主キリストの誕生をお祝いしました。今年は、森田神父、レイ神父、地主名誉司教の共同司式により、英語ミサとの合同ミサで行われました。
森田神父様のお説教をご紹介します。
『マリア様とヨセフ様はベツレヘムに向かいます。マリア様はもしかしたら(イエス様の)誕生に期待をふくらませながら旅についたかもしれません。しかし、旅先は人がごったがえしていて、宿をとれませんでしたので、とうとう馬小屋になってしまいました。そのときに、現代であればインターネットなどで予約がとれるのですが、一生懸命探したあげくとうとう見つからなかった。神様から頂いた尊い子供をこんなところで産むことになってしまった。ある意味で最悪のパターンとなってしまったと言えます。それでヨゼフを責めたくなったかもしれません。けんかをしていたかもしれませんが、きっと一生懸命やったあとならば、もういいということで、聖母はきっとそういう非難をなさらずに、その運命を受け入れられたなんだと思います。
今日、天使たちが羊飼いにあらわれて飼い葉桶に寝ている乳飲み子、これが徴(しるし)であるとおっしゃったのです。このように馬小屋の飼い葉桶に寝かせられるようなことは不幸なのではなくて、逆に神様からの徴(しるし)ですよ。ということが天使にも告げられたということです。後からマリア様は羊飼いたちからこの話しを聞くことになります。そしてこれは神の御心だ、永遠の神様のご計画だったことを知ることになります。
ですから私たちも一生懸命やって、それで駄目であればお互いに責め合うことなく、もしかしたら自分たちが想像していなかった、一般的には最悪と言われることのなかにも、神様の永遠の計らい、お考えがあるかもしれないことを心に留めたいと思います。私たちは一生懸命やっても思い通りにいかない。お互いに責めたくなる。責任的に言えば、悪いことばかりになるかもしれませんが、神様は私たちに自分が一生懸命やったらそれで良い。そして世の中が考えるのがまったく違う。答えも私があなたがたに持ってますよということをおっしゃりたいのだなと思います。イエス様が宮殿の中ではなくこの貧しい馬小屋で生まれたということは、人となってくださったことだけでもありがたいのですが、一般の人や身分の高い人のためにお生まれになったのではなくて、社会から外されてしまった人たちに対してもお生まれになったというメッセージが本当に伝わる気がします。
この後、イエス様は王様に命をねらわれて エジプトに行くわけですが、難民になるわけです。そういうことを良しとされた。ここは私たちの考えとは違う。そして、だからこそいっそう私たちに近くなった。驚くほど近くなられて、私たちよりももっと下になってくださった。こういうメッセージが馬小屋でお生まれになるという中にも読み取れると思います。イエス様がメシヤだ、私たちが考えて最高の場所ではなくて、この最低の場所に生まれたとういうことは、神様の別な計らいであったかもしれない。私たちはそう考えることができるかもしれません。
この旅先、馬小屋。一生懸命やったけれども、そこに私たちもそうだと思いますが、
実は私たちが考えていなかった素晴らしい計らいがあるかもしれない。そのことを今日、考えていきたいと思います。』
7時からの夜半のミサには600名の方がお越しになり、一緒に救い主キリストの誕生をお祝いしました。今年は、森田神父、レイ神父、地主名誉司教の共同司式により、英語ミサとの合同ミサで行われました。
森田神父様のお説教をご紹介します。
『マリア様とヨセフ様はベツレヘムに向かいます。マリア様はもしかしたら(イエス様の)誕生に期待をふくらませながら旅についたかもしれません。しかし、旅先は人がごったがえしていて、宿をとれませんでしたので、とうとう馬小屋になってしまいました。そのときに、現代であればインターネットなどで予約がとれるのですが、一生懸命探したあげくとうとう見つからなかった。神様から頂いた尊い子供をこんなところで産むことになってしまった。ある意味で最悪のパターンとなってしまったと言えます。それでヨゼフを責めたくなったかもしれません。けんかをしていたかもしれませんが、きっと一生懸命やったあとならば、もういいということで、聖母はきっとそういう非難をなさらずに、その運命を受け入れられたなんだと思います。
今日、天使たちが羊飼いにあらわれて飼い葉桶に寝ている乳飲み子、これが徴(しるし)であるとおっしゃったのです。このように馬小屋の飼い葉桶に寝かせられるようなことは不幸なのではなくて、逆に神様からの徴(しるし)ですよ。ということが天使にも告げられたということです。後からマリア様は羊飼いたちからこの話しを聞くことになります。そしてこれは神の御心だ、永遠の神様のご計画だったことを知ることになります。
ですから私たちも一生懸命やって、それで駄目であればお互いに責め合うことなく、もしかしたら自分たちが想像していなかった、一般的には最悪と言われることのなかにも、神様の永遠の計らい、お考えがあるかもしれないことを心に留めたいと思います。私たちは一生懸命やっても思い通りにいかない。お互いに責めたくなる。責任的に言えば、悪いことばかりになるかもしれませんが、神様は私たちに自分が一生懸命やったらそれで良い。そして世の中が考えるのがまったく違う。答えも私があなたがたに持ってますよということをおっしゃりたいのだなと思います。イエス様が宮殿の中ではなくこの貧しい馬小屋で生まれたということは、人となってくださったことだけでもありがたいのですが、一般の人や身分の高い人のためにお生まれになったのではなくて、社会から外されてしまった人たちに対してもお生まれになったというメッセージが本当に伝わる気がします。
この後、イエス様は王様に命をねらわれて エジプトに行くわけですが、難民になるわけです。そういうことを良しとされた。ここは私たちの考えとは違う。そして、だからこそいっそう私たちに近くなった。驚くほど近くなられて、私たちよりももっと下になってくださった。こういうメッセージが馬小屋でお生まれになるという中にも読み取れると思います。イエス様がメシヤだ、私たちが考えて最高の場所ではなくて、この最低の場所に生まれたとういうことは、神様の別な計らいであったかもしれない。私たちはそう考えることができるかもしれません。
この旅先、馬小屋。一生懸命やったけれども、そこに私たちもそうだと思いますが、
実は私たちが考えていなかった素晴らしい計らいがあるかもしれない。そのことを今日、考えていきたいと思います。』
2019年12月22日日曜日
待降節第4主日
降誕祭を迎えるにあたり、両親であるヨセフとマリアの試練について思いを巡らせてみましょう。
この日は森田神父様のミサ司式でした。
森田神父様のお説教の大要をご紹介します。
『今日の福音は、イエス様が生まれる前の試練について語られています。
当時も今も、女性が男性なしに子供を宿すということは有り得ないことです。ですから、絶縁しようと思っても、このようなことは本人が説明すればするほど、怪しいと思われてしまいます。聖霊によって身籠ったということをヨゼフであってもどこまで信じられるかわからないですね。
旧約聖書の律法によれば「石打ちの刑」にあたることです。律法的にだけ判断すると、ヨゼフはマリアを石打ちの刑に引き渡してもおかしくはないわけです。しかし、ヨゼフはマリアを石打ちの刑にあわせないために、自分との縁はなかったことにしようと思ったのです。そのようにマリアを救おうと思ったのです。そのような意味で「ヨセフは正しい人であった」し、さらに愛を持って自己犠牲として、自分が引き下がればマリアを救えると、愛のある正しさを示しました。このような意味でもヨゼフはイエスの父親になるに相応しく、認められるような出来事のような気がします。これは神様による試練の一つではないかと思います。そして、天使が現れて「これは聖霊による業なので安心するように」というお告げがあったわけです。
マリアとしても、こんなことは信じられるはずがない、という思いはあったと思います。そこで、神様が為さったことは、後は神様にやっていただこうと考えたのではないでしょうか。私たちにも似たようなこととして、いま自己弁護しても他の人を傷つけてしまうかもしれない、だから今は自分が罪を被るしかない、という場面も往々にしてあるのではないでしょうか。「善を行って苦しむ者は神の御心にかなっている」と聖書にも書いてあるとおり、あとは神様にお任せするしかないと。
神の御心を行えばみんな分かってもらえる、ということだけではなく、善を行いながら、かつ苦しむ、ヨゼフとマリアはイエスを育てる前に、このような試練を受け、神様からも期待されて教えられていたのだと思います。
メシアがこのように登場して世を救うということをどれほど悪魔が嫌うことか、潰そう潰そうという力が働くわけです。イエスが生まれてすぐに、そのことがヘロデ王の耳に入ります。そして捜索の手が入り見つからないとなると、2歳以下のベツレヘムの子供たちを皆殺しにしてしまいました。このような逃げ場のない状況のなか、ヨゼフは夢のお告げを受けて、真夜中に荒れ野を通ってエジプトへと逃れ王の手からメシアを守ったのです。力や有力者をとおして主を守るのではなく、神様への従順によって主は守られる。この力のない両親によってメシアが守られる。ヨゼフの信仰と勇気がイエスを守りました。
他の試練としては、旅先でマリアが産気づいて宿も見つからず、とうとう馬小屋へ案内されたわけです。神様から授かった命を馬小屋で生んでしまうという葛藤もあったかと思います。しかし、後で羊飼いたちが来て、「天使が現れました。そしてこういいました。飼い葉桶に寝かされている幼子、これがしるしであると」それを聞いた時マリアは、飼い葉桶で生まれるということが”しるし”となったということは、これが神様の計画だったのではないか。神様の御心であったのではないかと、マリアは気付き思いめぐらしていたのだと思います。
今日の福音で私たちは、イエス様が誕生の前から、マリア様とヨゼフ様がいろいろな所で試練にあって、そしてイエス様を守り育てていった、ということを思いながら降誕祭を迎えていきたいと思います。』
ミサの後、いつもお世話になっているボーイスカウトへ活動支援献金をお贈りしました。
この日は森田神父様のミサ司式でした。
森田神父様のお説教の大要をご紹介します。
『今日の福音は、イエス様が生まれる前の試練について語られています。
当時も今も、女性が男性なしに子供を宿すということは有り得ないことです。ですから、絶縁しようと思っても、このようなことは本人が説明すればするほど、怪しいと思われてしまいます。聖霊によって身籠ったということをヨゼフであってもどこまで信じられるかわからないですね。
旧約聖書の律法によれば「石打ちの刑」にあたることです。律法的にだけ判断すると、ヨゼフはマリアを石打ちの刑に引き渡してもおかしくはないわけです。しかし、ヨゼフはマリアを石打ちの刑にあわせないために、自分との縁はなかったことにしようと思ったのです。そのようにマリアを救おうと思ったのです。そのような意味で「ヨセフは正しい人であった」し、さらに愛を持って自己犠牲として、自分が引き下がればマリアを救えると、愛のある正しさを示しました。このような意味でもヨゼフはイエスの父親になるに相応しく、認められるような出来事のような気がします。これは神様による試練の一つではないかと思います。そして、天使が現れて「これは聖霊による業なので安心するように」というお告げがあったわけです。
マリアとしても、こんなことは信じられるはずがない、という思いはあったと思います。そこで、神様が為さったことは、後は神様にやっていただこうと考えたのではないでしょうか。私たちにも似たようなこととして、いま自己弁護しても他の人を傷つけてしまうかもしれない、だから今は自分が罪を被るしかない、という場面も往々にしてあるのではないでしょうか。「善を行って苦しむ者は神の御心にかなっている」と聖書にも書いてあるとおり、あとは神様にお任せするしかないと。
神の御心を行えばみんな分かってもらえる、ということだけではなく、善を行いながら、かつ苦しむ、ヨゼフとマリアはイエスを育てる前に、このような試練を受け、神様からも期待されて教えられていたのだと思います。
メシアがこのように登場して世を救うということをどれほど悪魔が嫌うことか、潰そう潰そうという力が働くわけです。イエスが生まれてすぐに、そのことがヘロデ王の耳に入ります。そして捜索の手が入り見つからないとなると、2歳以下のベツレヘムの子供たちを皆殺しにしてしまいました。このような逃げ場のない状況のなか、ヨゼフは夢のお告げを受けて、真夜中に荒れ野を通ってエジプトへと逃れ王の手からメシアを守ったのです。力や有力者をとおして主を守るのではなく、神様への従順によって主は守られる。この力のない両親によってメシアが守られる。ヨゼフの信仰と勇気がイエスを守りました。
他の試練としては、旅先でマリアが産気づいて宿も見つからず、とうとう馬小屋へ案内されたわけです。神様から授かった命を馬小屋で生んでしまうという葛藤もあったかと思います。しかし、後で羊飼いたちが来て、「天使が現れました。そしてこういいました。飼い葉桶に寝かされている幼子、これがしるしであると」それを聞いた時マリアは、飼い葉桶で生まれるということが”しるし”となったということは、これが神様の計画だったのではないか。神様の御心であったのではないかと、マリアは気付き思いめぐらしていたのだと思います。
今日の福音で私たちは、イエス様が誕生の前から、マリア様とヨゼフ様がいろいろな所で試練にあって、そしてイエス様を守り育てていった、ということを思いながら降誕祭を迎えていきたいと思います。』
ミサの後、いつもお世話になっているボーイスカウトへ活動支援献金をお贈りしました。
2019年12月15日日曜日
待降節第3主日
キリストの教えを、私たちはもっと深いところで理解しているでしょうか?
この日のミサは、2ヶ月ぶりに湯澤主任司祭によるミサ司式でした。
この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『私が学んだ神学校は、教区の神学校と違って、東京の瀬田にあるフランシスコ会の神学校です。学んだ中での教義神学、今は組織神学と言っていますが、公教要理のような難しいものを教える授業があって、ドイツ人の神父様でした。その神父様の部屋にいくと一つの掛軸がかかっているのです。漢字ですが日本語で読むと「鳥啼いて山更に幽なり」という中国の詩人の一節です。今は冬ですが、奥の細道という本があって、ちょうど夏ですね。仙台あたりから山の中を奥羽山脈越えて行くわけです。向こう側に行くと有名な俳句「閑さや岩に染み入る蝉の声」を詠むのですがその前に、山を越える時に似たような言葉が漢詩から引用しているのです。「鳥啼いて山更に幽なり」。ちょうど別な中国の詩人のやはり言葉ですが、啼くか啼かないかの違いですが。全然鳥の声も何もしなくて山の静けさを感じると同時に、鳥が啼くことによって更に山の静けさを感じる。感じることは同じですが。私の教授は中国の北京でも教えていたので中国思想にすごく造詣がある人で、ヨーロッパでは有名な人でしたが、日本ではそうでもなかった。
なぜこのような話しをしたかと言いますと、今日の福音の中で(洗礼者)ヨハネは
「来たるべき方はあなたでしょうか。」「メシアはあなたですか。」と聞いているのです。ちょっと不思議な気がしないわけでもないです。イエス様の母のマリア様と(洗礼者)ヨハネの母のエリザベトはすごく親しくて、ヨハネを妊ってマリア様も神の子を妊って会いにいくわけです。お産の準備をするくらいに親しいのに、子供たちはまったく知らないのですネ。
問題なのはそのキリストの応えです。「見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。」。その前に見ないと伝えられない。自分のしていることを良く見なさい、と言っているのです。福音書の中で最初にヨハネが弟子たちの二人をイエスに付いて行かせる。「あなたはどこにお住まいですか。」「来て見なさい。」具体的には、ここでイザヤの預言を引用していますが、キリストの行動を見たら来るべき方かどうか分かるはずだと、キリストは言っているわけです。同じように弟子たちもヨハネについての理解に関して、あなたがたは何を見に行ったったのか、見たはずだと言うわけです。
先ほどの中国の詩人は音の問題だけですが、ここでは「見る」というもっと知るためには重要な感覚です。百聞は一見にしかずですから、身をもってもっと分かるはずなのに、見えてないことをキリストは言っているわけですね。ヨハネさえも。見えていないのかと言っているのです。
待降節にこの箇所が読まれる意味を考えたときに、キリストは人となってこられたときに、実際に様々なことを行動を示し行ったわけですが、結局は弟子たちも理解できなかったわけです。ルカの福音書ですが、十字架の場面でこの人たちは何をしているのか分かっていないと言いますが、分かってないのは殺すということではないのです。キリストが教えたメシアの姿が理解できていない。弟子たちもあなたは神の子メシアですとペトロが言っているのですが、しかし理解していない。何も見えていない。音を感じながら静けさを感じとれていない。単に感覚的な静けさでないこと、五感の向こう側があるのですが、それ以降の感覚が届いていないということですね。
何を見にいったのか。同じようにヨハネの弟子たちにキリストは語るわけですが、御降誕、キリストが人となって現れて、言葉で説明し、行動で表しにもかかわらず、あなたがたは分かっているのでしょうか、という問いかけです。
クリスマスを前にして、私たちひとり一人にキリストは問いかけていると理解しても良いと思います。(馬小屋を指して)こういうふうに飾られていますが、これの向こうに皆さんは何を見ていますか。ひとつの余談ですが、まだ神父で若い頃、教会全体でクリスマスに誰を招待し、どういう雰囲気にするのか、毎年考えていました。あるときベテランの信者が「貧しさ」を打ち出しました。その「貧しさ」とは何ですかと聞いたら、馬小屋で生まれたからと言いました。それは貧しさではない。貧しさはもっと見えないところに、キリストの貧しさがあるのです。
見えるところで目が止まってしまうというのが、私たちの五感で分かる限界です。限界の向こうをキリストは求めているのです。表現したが、表現していないもっと奥のところが分かってますかとキリストは問いかけています。
明後日12月17日、クリスマスの8日前から、私たちはキリストの問いかけ…人となって現れてくれたけれど、私たちはその奥を見ていたか、自ら問いかけていきたいと思います。』
この日のミサは、2ヶ月ぶりに湯澤主任司祭によるミサ司式でした。
この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『私が学んだ神学校は、教区の神学校と違って、東京の瀬田にあるフランシスコ会の神学校です。学んだ中での教義神学、今は組織神学と言っていますが、公教要理のような難しいものを教える授業があって、ドイツ人の神父様でした。その神父様の部屋にいくと一つの掛軸がかかっているのです。漢字ですが日本語で読むと「鳥啼いて山更に幽なり」という中国の詩人の一節です。今は冬ですが、奥の細道という本があって、ちょうど夏ですね。仙台あたりから山の中を奥羽山脈越えて行くわけです。向こう側に行くと有名な俳句「閑さや岩に染み入る蝉の声」を詠むのですがその前に、山を越える時に似たような言葉が漢詩から引用しているのです。「鳥啼いて山更に幽なり」。ちょうど別な中国の詩人のやはり言葉ですが、啼くか啼かないかの違いですが。全然鳥の声も何もしなくて山の静けさを感じると同時に、鳥が啼くことによって更に山の静けさを感じる。感じることは同じですが。私の教授は中国の北京でも教えていたので中国思想にすごく造詣がある人で、ヨーロッパでは有名な人でしたが、日本ではそうでもなかった。
なぜこのような話しをしたかと言いますと、今日の福音の中で(洗礼者)ヨハネは
「来たるべき方はあなたでしょうか。」「メシアはあなたですか。」と聞いているのです。ちょっと不思議な気がしないわけでもないです。イエス様の母のマリア様と(洗礼者)ヨハネの母のエリザベトはすごく親しくて、ヨハネを妊ってマリア様も神の子を妊って会いにいくわけです。お産の準備をするくらいに親しいのに、子供たちはまったく知らないのですネ。
問題なのはそのキリストの応えです。「見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。」。その前に見ないと伝えられない。自分のしていることを良く見なさい、と言っているのです。福音書の中で最初にヨハネが弟子たちの二人をイエスに付いて行かせる。「あなたはどこにお住まいですか。」「来て見なさい。」具体的には、ここでイザヤの預言を引用していますが、キリストの行動を見たら来るべき方かどうか分かるはずだと、キリストは言っているわけです。同じように弟子たちもヨハネについての理解に関して、あなたがたは何を見に行ったったのか、見たはずだと言うわけです。
先ほどの中国の詩人は音の問題だけですが、ここでは「見る」というもっと知るためには重要な感覚です。百聞は一見にしかずですから、身をもってもっと分かるはずなのに、見えてないことをキリストは言っているわけですね。ヨハネさえも。見えていないのかと言っているのです。
待降節にこの箇所が読まれる意味を考えたときに、キリストは人となってこられたときに、実際に様々なことを行動を示し行ったわけですが、結局は弟子たちも理解できなかったわけです。ルカの福音書ですが、十字架の場面でこの人たちは何をしているのか分かっていないと言いますが、分かってないのは殺すということではないのです。キリストが教えたメシアの姿が理解できていない。弟子たちもあなたは神の子メシアですとペトロが言っているのですが、しかし理解していない。何も見えていない。音を感じながら静けさを感じとれていない。単に感覚的な静けさでないこと、五感の向こう側があるのですが、それ以降の感覚が届いていないということですね。
何を見にいったのか。同じようにヨハネの弟子たちにキリストは語るわけですが、御降誕、キリストが人となって現れて、言葉で説明し、行動で表しにもかかわらず、あなたがたは分かっているのでしょうか、という問いかけです。
クリスマスを前にして、私たちひとり一人にキリストは問いかけていると理解しても良いと思います。(馬小屋を指して)こういうふうに飾られていますが、これの向こうに皆さんは何を見ていますか。ひとつの余談ですが、まだ神父で若い頃、教会全体でクリスマスに誰を招待し、どういう雰囲気にするのか、毎年考えていました。あるときベテランの信者が「貧しさ」を打ち出しました。その「貧しさ」とは何ですかと聞いたら、馬小屋で生まれたからと言いました。それは貧しさではない。貧しさはもっと見えないところに、キリストの貧しさがあるのです。
見えるところで目が止まってしまうというのが、私たちの五感で分かる限界です。限界の向こうをキリストは求めているのです。表現したが、表現していないもっと奥のところが分かってますかとキリストは問いかけています。
明後日12月17日、クリスマスの8日前から、私たちはキリストの問いかけ…人となって現れてくれたけれど、私たちはその奥を見ていたか、自ら問いかけていきたいと思います。』
2019年12月8日日曜日
待降節第2主日
待降節は、主の誕生の「喜び」を、私たち一人一人がイエス様の心を持って「待つ」期間です。先週に引き続きルカ神父様の司式でした。
ルカ神父様のお説教の一部をご紹介します。
『今日のみ言葉は本当に素晴らしいです。
神様が作り出しだした世界、全ての生き物、人間だけでなく、全ての動物、植物。
獅子と牛が一緒に干し草を食べ、子供がマムシの巣に手を入れる、、、。
第一朗読のイザヤ書(イザヤ 11-1-10)は、平和を現しています。
福音朗読では、「準備」ということについて語られています。
洗礼者ヨハネが言った「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」
それがイエス様です。
待降節は、四旬節とは違って「喜び」です。
一人一人が、イエス様の心を持って、待つということです。
そのような気持ち、心で今日のミサに与りましょう。』
ミサ後には、フランシスコ教皇の来日メッセージやミサ説教を分かち合う集い「ひとつになろう」を行いました。
45名位の方が参加し、桜谷運営委員長の挨拶、4つの場面の動画視聴、分かち合いの内容でした。多くの方から、教皇のお言葉への受け止め、気持ちを新たにして信仰生活をしたいなどのお話が聞けました。
ルカ神父様のお説教の一部をご紹介します。
『今日のみ言葉は本当に素晴らしいです。
神様が作り出しだした世界、全ての生き物、人間だけでなく、全ての動物、植物。
獅子と牛が一緒に干し草を食べ、子供がマムシの巣に手を入れる、、、。
第一朗読のイザヤ書(イザヤ 11-1-10)は、平和を現しています。
福音朗読では、「準備」ということについて語られています。
洗礼者ヨハネが言った「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」
それがイエス様です。
待降節は、四旬節とは違って「喜び」です。
一人一人が、イエス様の心を持って、待つということです。
そのような気持ち、心で今日のミサに与りましょう。』
ミサ後には、フランシスコ教皇の来日メッセージやミサ説教を分かち合う集い「ひとつになろう」を行いました。
45名位の方が参加し、桜谷運営委員長の挨拶、4つの場面の動画視聴、分かち合いの内容でした。多くの方から、教皇のお言葉への受け止め、気持ちを新たにして信仰生活をしたいなどのお話が聞けました。
2019年12月1日日曜日
待降節第1主日
待降節を迎えました。
クリスマスツリーと馬小屋の飾りつけをしました。
アドベントクランツのローソクに火が灯りました。
準備は万端です。後は心の準備ですね。
この日のミサは、ルカ神父様の司式でした。
お説教の大要をご紹介します。
『今日の福音はいつ来るか分からないがテーマ。主がいつ来るか分からない。死がいつくるか分からないではない。これは全然違う。信仰を持っていない人が死を迎える。信者が主を迎える。根本的に全然違う。聖フランシスコが「太陽の賛歌」の中で「ようこそ。姉妹なる死。」。なぜなら、あなたをとおして私は主のところ、イエス様のところへ行けるということ。信仰を持っていない人は、死はおしまいと言う。両者は全然違う。信仰からくる喜び、希望。私たちはいつか生まれ、いつか死ぬということではない。すべて神様のご計画の中にり、毎日生活している。主はいつも来られる。ひとり一人の心に訪ねてくださる。待降節は悲しい期間ではない。喜びの時でもある。四週間待つということ。クリスマスツリーも松ですね。エバグリーン、常緑。
この前のパパ様の東京のミサには、飛行機ではなく新幹線で行った。ずっと楽。本を読んだり、祈りをしたり。隣に座っている人にはいつも声をかける。日本人は控えめ。(日本に来て)52年間、いつも声をかけられるのを待っている。今回は青年でした。
ミサは素晴らしかった。5万人。残念なことはドーム以上に広い場所がなく、倍以上の人が入れなかったこと。(抽選もれ)教皇の来日は日本にとっては良かったこと。特に命と平和がテーマ。日本ばかりでなく、すべての国へのメッセージでもあった。
今回はある意味で準備は、教皇様が来られるということで待降節。これからの準備は神のひとり子キリストが人間となられたことを記念するばかりでなく、2000年前の出来事を記念するのではなくて、私たちはいつも典礼を通して、今、今日、今年、キリストが私のために人間となって生まれてくることを記念。
昨年のある新聞の投書欄。北海道の人。「クリスマス 病院で 教会で」
「クリスマスが近づき、街のイルミネーションがいっそう輝きを増してきました。そんな中、病院でクリスマスを過ごす人もいます。親しいご夫婦の奥様が癌を宣告され、これまで6回の抗がん剤治療を行い、もうすぐ手術を受けられます。ご主人は献身的に寄り添っておられます。看護師さんからは仲が良くて羨ましいと言われるそうです。そんな奥様が一番残念なのは、今年のクリスマスは教会ではなく、病院で過ごすことになりますと言われました。でも、その後に教会の皆さんがお祈りしています、とても心強いですと、笑顔で話されます。クリスマスはすべての人の平和を祈るときでもあるようです。私は、クリスマスイヴの夜は近くの教会に行き、「きよしこの夜」を歌いたいと思います。」
どうぞ皆さん、病んでいる人、貧しい人のため、1年の最後の1ヶ月ですが、みんながイエス様から元気、希望をいただけるよう、心の準備をしていきましょう。』
クリスマスツリーと馬小屋の飾りつけをしました。
アドベントクランツのローソクに火が灯りました。
準備は万端です。後は心の準備ですね。
この日のミサは、ルカ神父様の司式でした。
お説教の大要をご紹介します。
『今日の福音はいつ来るか分からないがテーマ。主がいつ来るか分からない。死がいつくるか分からないではない。これは全然違う。信仰を持っていない人が死を迎える。信者が主を迎える。根本的に全然違う。聖フランシスコが「太陽の賛歌」の中で「ようこそ。姉妹なる死。」。なぜなら、あなたをとおして私は主のところ、イエス様のところへ行けるということ。信仰を持っていない人は、死はおしまいと言う。両者は全然違う。信仰からくる喜び、希望。私たちはいつか生まれ、いつか死ぬということではない。すべて神様のご計画の中にり、毎日生活している。主はいつも来られる。ひとり一人の心に訪ねてくださる。待降節は悲しい期間ではない。喜びの時でもある。四週間待つということ。クリスマスツリーも松ですね。エバグリーン、常緑。
この前のパパ様の東京のミサには、飛行機ではなく新幹線で行った。ずっと楽。本を読んだり、祈りをしたり。隣に座っている人にはいつも声をかける。日本人は控えめ。(日本に来て)52年間、いつも声をかけられるのを待っている。今回は青年でした。
ミサは素晴らしかった。5万人。残念なことはドーム以上に広い場所がなく、倍以上の人が入れなかったこと。(抽選もれ)教皇の来日は日本にとっては良かったこと。特に命と平和がテーマ。日本ばかりでなく、すべての国へのメッセージでもあった。
今回はある意味で準備は、教皇様が来られるということで待降節。これからの準備は神のひとり子キリストが人間となられたことを記念するばかりでなく、2000年前の出来事を記念するのではなくて、私たちはいつも典礼を通して、今、今日、今年、キリストが私のために人間となって生まれてくることを記念。
昨年のある新聞の投書欄。北海道の人。「クリスマス 病院で 教会で」
「クリスマスが近づき、街のイルミネーションがいっそう輝きを増してきました。そんな中、病院でクリスマスを過ごす人もいます。親しいご夫婦の奥様が癌を宣告され、これまで6回の抗がん剤治療を行い、もうすぐ手術を受けられます。ご主人は献身的に寄り添っておられます。看護師さんからは仲が良くて羨ましいと言われるそうです。そんな奥様が一番残念なのは、今年のクリスマスは教会ではなく、病院で過ごすことになりますと言われました。でも、その後に教会の皆さんがお祈りしています、とても心強いですと、笑顔で話されます。クリスマスはすべての人の平和を祈るときでもあるようです。私は、クリスマスイヴの夜は近くの教会に行き、「きよしこの夜」を歌いたいと思います。」
どうぞ皆さん、病んでいる人、貧しい人のため、1年の最後の1ヶ月ですが、みんながイエス様から元気、希望をいただけるよう、心の準備をしていきましょう。』
2019年11月24日日曜日
王であるキリスト
典礼暦では年間最後の主日を迎えています。
今日は「王であるキリスト」の祭日です。
「王であるキリスト」とは、この世の王とは違い、自分を犠牲にして人々を救い、憐れみをもって赦しを与えてくださる方です。
この日の午後、教皇フランシスコの長崎でのミサを、70名の方がカテドラルホールで視聴しました。
佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『 年間の最後の主日にあたる今日、わたしたちは「王であるキリスト」を祝います。
「王」と言われてもピンと来ないかもしれません。 覇権争いの中で「王」という者が現れては消えていきました。 権力をもってその地を統治する者が地上の王であるとすると、イエスはどういう意味で王なのかということが疑問となります。
ルカ福音書では一緒に十字架につけられた犯罪人たちのうちの一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言っています。 マルコやマタイ福音書でも二人の強盗たちが一緒に十字架につけられますが、どちらもイエスをののしったとあります。 回心する犯罪人を登場させるところに、苦しむ救い主とすべての人々に対する神のあわれみを記しているルカの特徴が表れています。
この犯罪人は自分もイエスもこの十字架上で死ぬことはわかってます。 この世での命が終わることが分かっています。 そして、「あなたの御国においでになるときには」と言っていることからイエスの王国が死を越えて実現するということを信じていると考えられます。 そこで「わたしを思い出してください」と願っています。 これはわたしたちの信仰の中心ではないでしょうか。 この犯罪人の姿こそがわたしたちキリストを信じる者の姿なのだということです。
わたしたちはみな各自それぞれ自分の十字架を背負って生きています。 その中でもがき苦しんで生きています。 人生の最後に至るまで「イエスよ、共にいてください」と願うことが大切なことだと今日の福音は教えているのです。
イエスの返事ははっきりしています。 「はっきり言っておく」という言葉をよく目にしますが、これは「この世の人々はこうであると言っているが、わたしは違うとはっきり言っておく」ということです。 みんなはそうは思わないだろうがわたしは次のようにはっきり言うということです。
「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエスは断言されました。 楽園とは、神と人とが共に暮らすところであり、人と人とが調和に満ちた世界だと言ってもいいでしょう。 創世記2章に描かれるエデンの園がまさしく楽園です。 エデンの園に神がアダムを連れてきてそこに住まわせ、そこを耕し守るようにされました。 そして女であるエバを一緒に住まわせました。 神と人々が一緒に暮らすところが楽園というわけです。 しかもそこにいるのが「今日」なのです。
「今日あなたはこの世の生を終えるが、すぐにわたしとともに楽園にいる」ということをイエスは言っているのです。 素晴らしい励ましの言葉です。 わたしたちの祈りがどうあればいいのかがここに示されていると思います。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
イエスに願い求めると同時にわたしたちがしなければならないことがあります。 それはその前の言葉です。もう一人の犯罪人が議員たちや兵士たちと同じ言葉を放った後です。
「メシアなら自分自身と我々を救ってみろ。」 この言葉に対して、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」ともう一人の犯罪人は弁護しました。
わたしたちキリスト者が神にゆるしを願うと同時に、神への信仰を証しすることが求められるということを表しています。
王であるキリストとは、自分を犠牲にして人々を救い、あわれみをもってゆるしを与えてくださる方を表しています。 自分を守るために君臨している地上の王とは違うお方です。 この回心した犯罪人のようにイエスを証しし、イエスが共にいてくださるように願いながら、王であるキリストをたたえてこの祭儀を続けてまいりましょう。』
今日は「王であるキリスト」の祭日です。
「王であるキリスト」とは、この世の王とは違い、自分を犠牲にして人々を救い、憐れみをもって赦しを与えてくださる方です。
この日の午後、教皇フランシスコの長崎でのミサを、70名の方がカテドラルホールで視聴しました。
佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『 年間の最後の主日にあたる今日、わたしたちは「王であるキリスト」を祝います。
「王」と言われてもピンと来ないかもしれません。 覇権争いの中で「王」という者が現れては消えていきました。 権力をもってその地を統治する者が地上の王であるとすると、イエスはどういう意味で王なのかということが疑問となります。
ルカ福音書では一緒に十字架につけられた犯罪人たちのうちの一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言っています。 マルコやマタイ福音書でも二人の強盗たちが一緒に十字架につけられますが、どちらもイエスをののしったとあります。 回心する犯罪人を登場させるところに、苦しむ救い主とすべての人々に対する神のあわれみを記しているルカの特徴が表れています。
この犯罪人は自分もイエスもこの十字架上で死ぬことはわかってます。 この世での命が終わることが分かっています。 そして、「あなたの御国においでになるときには」と言っていることからイエスの王国が死を越えて実現するということを信じていると考えられます。 そこで「わたしを思い出してください」と願っています。 これはわたしたちの信仰の中心ではないでしょうか。 この犯罪人の姿こそがわたしたちキリストを信じる者の姿なのだということです。
わたしたちはみな各自それぞれ自分の十字架を背負って生きています。 その中でもがき苦しんで生きています。 人生の最後に至るまで「イエスよ、共にいてください」と願うことが大切なことだと今日の福音は教えているのです。
イエスの返事ははっきりしています。 「はっきり言っておく」という言葉をよく目にしますが、これは「この世の人々はこうであると言っているが、わたしは違うとはっきり言っておく」ということです。 みんなはそうは思わないだろうがわたしは次のようにはっきり言うということです。
「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエスは断言されました。 楽園とは、神と人とが共に暮らすところであり、人と人とが調和に満ちた世界だと言ってもいいでしょう。 創世記2章に描かれるエデンの園がまさしく楽園です。 エデンの園に神がアダムを連れてきてそこに住まわせ、そこを耕し守るようにされました。 そして女であるエバを一緒に住まわせました。 神と人々が一緒に暮らすところが楽園というわけです。 しかもそこにいるのが「今日」なのです。
「今日あなたはこの世の生を終えるが、すぐにわたしとともに楽園にいる」ということをイエスは言っているのです。 素晴らしい励ましの言葉です。 わたしたちの祈りがどうあればいいのかがここに示されていると思います。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
イエスに願い求めると同時にわたしたちがしなければならないことがあります。 それはその前の言葉です。もう一人の犯罪人が議員たちや兵士たちと同じ言葉を放った後です。
「メシアなら自分自身と我々を救ってみろ。」 この言葉に対して、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」ともう一人の犯罪人は弁護しました。
わたしたちキリスト者が神にゆるしを願うと同時に、神への信仰を証しすることが求められるということを表しています。
王であるキリストとは、自分を犠牲にして人々を救い、あわれみをもってゆるしを与えてくださる方を表しています。 自分を守るために君臨している地上の王とは違うお方です。 この回心した犯罪人のようにイエスを証しし、イエスが共にいてくださるように願いながら、王であるキリストをたたえてこの祭儀を続けてまいりましょう。』
2019年11月17日日曜日
年間第33主日
典礼は先週から「終末主日」と呼ばれる期間に入っています。
終末という言葉には文字通り「終わり」という意味と、「目的地」つまり、神の創造の完成という意味があります。
昨年の待降節から始まった教会暦年がもうすぐ終わります。この一年の神様の恵みを振り返ってみましょう。
この日の佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『今日の聖書と典礼の下の注釈に「イエスの宣教活動の結びにあたる終末についての説教」とあります。 終末というと、いま映画で上映している「ターミネーター:ニュー・フェイト」のような世界を思い浮かべるかもしれません。 また、世界の全面戦争ののちの絶望的な破壊というようなイメージがあります。 確かに今日の福音書に描かれる世界はそのようにも思えます。
「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」 戦争や民族紛争、大地震、飢饉、疫病などは今の時代でも同じく続いています。 だからといってまだ世の終わりが来たということではありません。 キリスト教で言う世の終わりはすべての者が滅びる時ではなく、イエスの再臨の時を言います。
天地の創造があって人間の旅路が始まりました。 神は人間を導いていきました。
ある程度その導きに応えていましたが、姿の見えない神に対して自分たちのやりたいことをするようになり神から離れていきました。 選ばれた民であるイスラエル民族は、そのたびにひどい仕打ちを周りの民族から受けてきました。 神は、イエスを人間の姿で人々の間に住まわせて人々を救おうとしました。 イエスは人々の間で神の国の教えを弟子たちに伝えていきました。 イエスはファリサイ派や律法学者の陰謀によって十字架につけられました。 死んで3日目に復活し弟子たちの間に現れ、死んでも新しい命に生まれ変わることを示されました。 40日目に聖霊の派遣を約束して天に昇っていきました。 50日目に祈っている弟子たちに聖霊が派遣されました。 聖霊の派遣ののち、弟子たちは聖霊に促され大胆にイエス・キリストを証しするようになりました。 わたしたちもこの弟子たちのようにイエス・キリストを証ししています。 聖霊を受けてイエスと共に歩むことになったわたしたちはこの世の中で神の国の実現のために働きます。 そしてイエス・キリストの再臨の時に世が終わり、神の創造が完成するのです。 この創造の完成に向かってわたしたちは生きているのです。
終末という言葉は「終わり」という意味ですが「目的地」という意味もあります。 この世がいつまでもだらだら続くということではなく、必ず目的地である神の創造の完成があるということ、キリストの再臨があるということをわたしたちは信じて生きていくのです。 その目的地に向かってどのように生きていくのかということが問題となるのです。 それは世の終わりだけでなく、個人個人の人生の終わりにも同じように言えるものです。
死が必ず訪れるものだということを意識していると生き方も根本的に変わるのです。
もし死ななかったとしたら、どうでしょう。 死なないなら働かなくてもいいし、朝起きなくてもいいし、食べなくてもいい。 何もしなくても死なないわけですから。 しかしそれは死んだのと同じです。 死が必ず訪れるからこそしっかりと生きるという意識が芽生えます。 今日のパウロの手紙に示されたようにしっかり生きなさいということです。
キリスト教における終末、目的地は「最後の審判」とも呼ばれます。 そのとき神の国が完成します。 最後の審判の前に個人個人の死においても同じように審判が下ります。 聖書にはいわゆる天国と地獄の記述があります。 煉獄の記述は聖書にはありませんが、カトリック教会はそこで神に向かう人は清めを受けると考えています。 天国にすぐ行けるほどの善い人生は送らなかった人、しかし善意はまだ持っている人が行く場所です。 そこで償いをしながら天国に入る準備をすることになります。 その償いはどういうものかというと、自分が地上で他人に与えた苦しみが痛切にわかるということです。 どんなに善良な人でも自分が他人にしてきた仕打ちのひどさが本当にはわかっていないでしょう。 わたしもまったくわかっていないと思います。 煉獄ではそれが身を切るようにわかるのです。 それがはっきりと自分の前に示されることによって心から悔い改めることができるのです。 それと同時にその人は神を求めているわけですから、天国の景色もはっきりと見えていることでしょう。 しかし、悔い改めが終わらないとどうしてもそこに行けないわけです。 どうしてもそこに行きたいというその痛切な思いも煉獄の痛みとなるわけです。 今この世で生きているわたしたちは、煉獄の霊魂のためにも祈っています。 少しでも早く天国に行けるようにと祈ります。 この煉獄の死者への思いはわたしたちの地上の生活を潤いのあるものにします。 わたしたちが祈り、犠牲を払い、よい振る舞いをすることは、わたしたちの愛する死者を早く天国に移す助けになるからです。 亡くなった方々もわたしたちのそのような祈りを聞いて感謝するでしょうし、自分の子や孫が善い人生を送ろうとしているのを見てうれしく思うのではないでしょうか。』
終末という言葉には文字通り「終わり」という意味と、「目的地」つまり、神の創造の完成という意味があります。
昨年の待降節から始まった教会暦年がもうすぐ終わります。この一年の神様の恵みを振り返ってみましょう。
この日の佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『今日の聖書と典礼の下の注釈に「イエスの宣教活動の結びにあたる終末についての説教」とあります。 終末というと、いま映画で上映している「ターミネーター:ニュー・フェイト」のような世界を思い浮かべるかもしれません。 また、世界の全面戦争ののちの絶望的な破壊というようなイメージがあります。 確かに今日の福音書に描かれる世界はそのようにも思えます。
「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」 戦争や民族紛争、大地震、飢饉、疫病などは今の時代でも同じく続いています。 だからといってまだ世の終わりが来たということではありません。 キリスト教で言う世の終わりはすべての者が滅びる時ではなく、イエスの再臨の時を言います。
天地の創造があって人間の旅路が始まりました。 神は人間を導いていきました。
ある程度その導きに応えていましたが、姿の見えない神に対して自分たちのやりたいことをするようになり神から離れていきました。 選ばれた民であるイスラエル民族は、そのたびにひどい仕打ちを周りの民族から受けてきました。 神は、イエスを人間の姿で人々の間に住まわせて人々を救おうとしました。 イエスは人々の間で神の国の教えを弟子たちに伝えていきました。 イエスはファリサイ派や律法学者の陰謀によって十字架につけられました。 死んで3日目に復活し弟子たちの間に現れ、死んでも新しい命に生まれ変わることを示されました。 40日目に聖霊の派遣を約束して天に昇っていきました。 50日目に祈っている弟子たちに聖霊が派遣されました。 聖霊の派遣ののち、弟子たちは聖霊に促され大胆にイエス・キリストを証しするようになりました。 わたしたちもこの弟子たちのようにイエス・キリストを証ししています。 聖霊を受けてイエスと共に歩むことになったわたしたちはこの世の中で神の国の実現のために働きます。 そしてイエス・キリストの再臨の時に世が終わり、神の創造が完成するのです。 この創造の完成に向かってわたしたちは生きているのです。
終末という言葉は「終わり」という意味ですが「目的地」という意味もあります。 この世がいつまでもだらだら続くということではなく、必ず目的地である神の創造の完成があるということ、キリストの再臨があるということをわたしたちは信じて生きていくのです。 その目的地に向かってどのように生きていくのかということが問題となるのです。 それは世の終わりだけでなく、個人個人の人生の終わりにも同じように言えるものです。
死が必ず訪れるものだということを意識していると生き方も根本的に変わるのです。
もし死ななかったとしたら、どうでしょう。 死なないなら働かなくてもいいし、朝起きなくてもいいし、食べなくてもいい。 何もしなくても死なないわけですから。 しかしそれは死んだのと同じです。 死が必ず訪れるからこそしっかりと生きるという意識が芽生えます。 今日のパウロの手紙に示されたようにしっかり生きなさいということです。
キリスト教における終末、目的地は「最後の審判」とも呼ばれます。 そのとき神の国が完成します。 最後の審判の前に個人個人の死においても同じように審判が下ります。 聖書にはいわゆる天国と地獄の記述があります。 煉獄の記述は聖書にはありませんが、カトリック教会はそこで神に向かう人は清めを受けると考えています。 天国にすぐ行けるほどの善い人生は送らなかった人、しかし善意はまだ持っている人が行く場所です。 そこで償いをしながら天国に入る準備をすることになります。 その償いはどういうものかというと、自分が地上で他人に与えた苦しみが痛切にわかるということです。 どんなに善良な人でも自分が他人にしてきた仕打ちのひどさが本当にはわかっていないでしょう。 わたしもまったくわかっていないと思います。 煉獄ではそれが身を切るようにわかるのです。 それがはっきりと自分の前に示されることによって心から悔い改めることができるのです。 それと同時にその人は神を求めているわけですから、天国の景色もはっきりと見えていることでしょう。 しかし、悔い改めが終わらないとどうしてもそこに行けないわけです。 どうしてもそこに行きたいというその痛切な思いも煉獄の痛みとなるわけです。 今この世で生きているわたしたちは、煉獄の霊魂のためにも祈っています。 少しでも早く天国に行けるようにと祈ります。 この煉獄の死者への思いはわたしたちの地上の生活を潤いのあるものにします。 わたしたちが祈り、犠牲を払い、よい振る舞いをすることは、わたしたちの愛する死者を早く天国に移す助けになるからです。 亡くなった方々もわたしたちのそのような祈りを聞いて感謝するでしょうし、自分の子や孫が善い人生を送ろうとしているのを見てうれしく思うのではないでしょうか。』
2019年11月10日日曜日
年間第32主日
ルカ 20・27-38
復活を否定しようとモーセ五書を引き合いに出し、言葉尻を捉えようと質問をしたサドカイ派に対して、イエスははっきりと復活を肯定しました。
森田神父様のお説教の一部をご紹介します。
『この日の福音朗読は復活についての問答です。
今回の質問者はサドカイ派の人たちでした。復活を否定するためにモーセ五書を引き合いに出し、イエス様の言葉尻を捉えようと質問をしたのです。
しかし、イエス様は「そんなことではない」と一蹴されます。
サドカイ派の人は、一生懸命知恵を巡らせて律法の知識を動員して、理論を詰めていくわけですが、イエス様の理論とは「格」が違うのでした。イエス様は、彼らと同じ次元で答えるのではなく、ご自分が知っている天の国では人は復活するのだと、復活をはっきりと肯定なさったわけです。
旧約聖書には、復活の箇所ははっきりとは書かれていません。イエス様になって初めて「復活」をはっきりと示されました。
旧約聖書のユダヤ人であれば誰もが知っている「柴」の箇所を挙げて、「神は生きている者の神である。だから、我々は死んでも生きる」と、イエス様はここではっきりと仰っているわけです。
この世で夫であり妻であった契というのは非常に大事なもので、永遠のいのちにあっては、特別な形できっと続くのだと思います。そして同時に、私たちは天の住人の他の全ての人と、大変親しい関わりがあり、お互いにお互いの幸せを望み、相手の幸せがそのまま自分の幸せになると、ある神学者は言っています。ですから、100人の住人がいれば、一人一人の喜びは100人分の喜びである。100万人の天の住人がいれば、一人一人の幸いは100万人幸いになるわけです。神様は、私たちのために考えられないような準備をなさっておられます。
天国から見たこの世については、いろいろな教会の歴史の中で様々な聖人が語っています。
ある人は、「煉獄の霊魂たちは、もし30分だけ地上に戻れるとしたら、多分煉獄は空っぽになるであろう」と言っています。それほど、煉獄から見たこの世というのは、もっと素晴らしい生き方をしていれば良かった、と思うようなところだと思います。
天国は、幸いに包まれ、何の悲しみも不幸もないところだけれど、主イエスが天から世に降りて来られた30年間の功徳ほど素晴らしいものはない。天国にいると、イエス様の地上での功徳や、十字架での業に与ることができない。この世にいる人だけが与ることができる。だから、苦しみに満ちたこの世での短い期間の功徳というものは、天国で得られるものとは比べものにならないほど大きいといわれます。』
ミサの後、秋の大掃除を行いました。
聖堂の床磨きをメインに作業しました。
復活を否定しようとモーセ五書を引き合いに出し、言葉尻を捉えようと質問をしたサドカイ派に対して、イエスははっきりと復活を肯定しました。
森田神父様のお説教の一部をご紹介します。
『この日の福音朗読は復活についての問答です。
今回の質問者はサドカイ派の人たちでした。復活を否定するためにモーセ五書を引き合いに出し、イエス様の言葉尻を捉えようと質問をしたのです。
しかし、イエス様は「そんなことではない」と一蹴されます。
サドカイ派の人は、一生懸命知恵を巡らせて律法の知識を動員して、理論を詰めていくわけですが、イエス様の理論とは「格」が違うのでした。イエス様は、彼らと同じ次元で答えるのではなく、ご自分が知っている天の国では人は復活するのだと、復活をはっきりと肯定なさったわけです。
旧約聖書には、復活の箇所ははっきりとは書かれていません。イエス様になって初めて「復活」をはっきりと示されました。
旧約聖書のユダヤ人であれば誰もが知っている「柴」の箇所を挙げて、「神は生きている者の神である。だから、我々は死んでも生きる」と、イエス様はここではっきりと仰っているわけです。
この世で夫であり妻であった契というのは非常に大事なもので、永遠のいのちにあっては、特別な形できっと続くのだと思います。そして同時に、私たちは天の住人の他の全ての人と、大変親しい関わりがあり、お互いにお互いの幸せを望み、相手の幸せがそのまま自分の幸せになると、ある神学者は言っています。ですから、100人の住人がいれば、一人一人の喜びは100人分の喜びである。100万人の天の住人がいれば、一人一人の幸いは100万人幸いになるわけです。神様は、私たちのために考えられないような準備をなさっておられます。
天国から見たこの世については、いろいろな教会の歴史の中で様々な聖人が語っています。
ある人は、「煉獄の霊魂たちは、もし30分だけ地上に戻れるとしたら、多分煉獄は空っぽになるであろう」と言っています。それほど、煉獄から見たこの世というのは、もっと素晴らしい生き方をしていれば良かった、と思うようなところだと思います。
天国は、幸いに包まれ、何の悲しみも不幸もないところだけれど、主イエスが天から世に降りて来られた30年間の功徳ほど素晴らしいものはない。天国にいると、イエス様の地上での功徳や、十字架での業に与ることができない。この世にいる人だけが与ることができる。だから、苦しみに満ちたこの世での短い期間の功徳というものは、天国で得られるものとは比べものにならないほど大きいといわれます。』
ミサの後、秋の大掃除を行いました。
聖堂の床磨きをメインに作業しました。
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