2021年1月2日土曜日

1月1日(金)神の母聖マリア



明けましておめでとうございます。新しい年が神の恵みに満ちあふれた一年となりますように。元旦ミサを司式されました勝谷司教様のお説教をご紹介します。


『今日の福音書を読みますと、キリストの誕生のお告げを受けた羊飼いたちは、すぐさまこの救い主をさがしに出かけていきました。この救い主の誕生のお告げを受けた人々の反応は、聖書によるとふたつに分かれています。3人の博士と羊飼いたち、そしてヘロデ王です。羊飼いたちはこのお告げに従って 救い主を飼い葉桶の中に見いだします。およそ救い主が生まれる場所としては考えられない家畜といっしょに、もっとも不衛生な、もっとも汚い、当時であったとして考えうるもっとも悲惨な場所にお生まれになり、救い主をそこに発見するわけです。3人の博士たちは救い主であるから当然、王宮で生まれたと思い、まずまっさきに王宮へ行くのです。しかし、そこでは会えない。そして星の導きに従い、馬小屋で生まれた救い主を発見します。しかし同様に、救い主の誕生を告げられたヘロデ王はそれを聞いて不安に思うのです。そして何とか救い主を抹殺しようとするのです。

 今、現在、救い主はどこにお生まれになっているのか。このことを考えるならば、このもっとも象徴的な場所にお生まれになった。現代社会の中でいえば、もっとも傷つき、 苦しみ阻害され、人々の中から排除されている人。そういう人のなかに救い主がお生まれになり、そこに聖家族、その中心としてマリア様が、そういう人たちへの配慮するものとして、その希望の印として存在しています。そういうふうに言えると思います。

 このコロナ感染症によって、世界の自由な人々の心の中があぶりださせるような感じがしています。自分の身を守るとする者。自分さえ良ければとそのような行動に走る人。あるいは多くの苦しむの人の存在を知りながら無関心を貫いている人。自分のことだけ考える。そういう人たちに対して教皇フランシスコは、コロナウイルスよりももっと恐いウイルス…それは「無関心」。自分さえ良ければ良いという考え。これが今、全世界に急速に広まっていることを懸念されています。。

 しかし、私たちは多くの人たちが連帯し、この問題に立ち向かっていくために、そして多くの困難に追い込まれている人たちに対して、何とか支え合って生きていこうとする、そういう人間の美しい力強い側面も何度か見せられています。

 今日、教皇様は平和の日メッセージとして新型コロナウイルスについて発信しています。

その中にあって教皇様が提案しているのは、「ケアの文化」。これは仮の中央協議会の訳したものですが、「ケア」を使います。注意とか関心とかそういう意味です。しかし、この文章全体をみると、これはわたしの異訳ですが、ケアを日本語で「いたわり」と訳すのが一番適切だと感じています。

 この美しい日本語の中に、教皇様が言われているのはすべて集約されているような気がします。互いにいたわり合うという文化は、キリスト教の最も本質的な部分にあたるもので、教皇様はこのメッセージの中で、旧約聖書に始まりずっと聖書を紐解き、現在社会における状況、特にコロナウイルスに関連する部分もそうですが、さらに今日は平和の日ですから、世界平和をいかに憐れみあうではなく、むしろ分裂し殺し合うような武器の製造、そのしくみのための膨大なお金が使われている。特に核兵器の開発に関して、教皇様は 強い懸念のメッセージを発しておられます。武器より地球上にあって 助けを必要としている人たちにお金を回すならば、どれだけ支えが実現していくか。

  今日の教皇様のメッセージの導入の部分があります。

『愛と連帯の数多くのあかしの傍らで、悲しいことに、さまざまなかたちのナショナリズム、人種差別、外国人嫌悪、さらには死と破壊をもたらす戦争や紛争が、新たに勢いを増していることを、残念ながら認めざるをえません。

 この一年の間に人類の歩みに刻まれたこうした出来事は、兄弟愛に満ちた関係に基づいた社会を築くには、互いをケアし、被造物を大切にすることが、いかに重要であるかを教えてくれます。ですから、このメッセージのテーマを「平和への道のりとしてのケアの文化」としました。今日、はびこっている無関心の文化、使い捨ての文化、対立の文化に打ち勝つための、ケアの文化です。』

 当然、先ほども言ったように、地球環境もに強い関心を持っておられます。そしてこの新型コロナに関しては、

『このパンデミックに直面して、「わたしたちは自分たちが同じ舟に乗っていることに気づきました。皆弱く、先が見えずにいても、だれもが大切で必要な存在なのだと。皆でともに舟を漕ぐよう求められてい」るのだと。なぜなら、「自分の力だけで自分を救うことはでき」ず、孤立している国は自国民の共通善を確保できないからです。』

 今回の世界のパンデミックは、すべての準備、すべてが同じ運命共同体であることが意識させられました。わたしも年頭書簡の中にに書きましたが、どんな立場の人に区別することなく襲いかかってくるこのウイルスは、私たちが個人で立ち向かうことは不可能。私たちが社会として、国としてあるいは人類として共通の目的と連帯で取り組んでいかなければ、絶対に克服出来ないものである。そういう現実を私たちに突きつけています。

 そんななかにあっても、この世が優先され、貧しい人たちが後回しにされる、それが現実です。これは私たちキリスト者たちにとっても看過できない現実として、声を上げなければならない、神様から与えられているのではないかと思います。

 しかし日本の国内でいうならば 、このクリスマスや年末年始の日本人が最も幸せと感じる季節。その季節だからこそ孤独を感じている人たちがたくさんいる現実も報告されています。民間調査機関によると、日本人の3人に1人はこの季節を特別に楽しみだとは思っていない。みんなが浮かれているような季節ですが、3人に1人は期待していない。

 これは例年行われている調査ですが、1万4千人を対象にした調査ですが、36.3%が関心がない。この背景の分析は説明されていませんが、この数字から見えてくるものとして私が感じるのは、男女とも年齢を重ねるごとに楽しみの割合が減っている。多分、このアンケートに答えてくれた人たちは、クリスマスや年末年始が自分を幸せにさせてくれるかどうかという観点で考えているのだと思います。しかし、自分の現状をみるならば、そういった楽しみや喜びを分かち合う人が回りにいない、と感じている人たちが多くいるのではとわたしは感じています。

 今回のコロナ感染症によって多くの人たちが人間的なふれあいから遠ざけられている。わたしも年末にコロナに汚染されているわけでないが、訪問しようと思ったが一切の面会はできません。親友でも家族であってもだめ。病院もそうですが、老人福祉施設もそうです。一部には時間的制限を設けたり、今この時期は何とか会ってもらおうと工夫している施設もあるようですが、ほとんどの人たちが家族と会えるのを許されず、ベットで一人孤独でいるのが現実です。

 イエスはそういう人たちと共に、馬小屋でお生まれになられました。世界中の人からみるならば、日本は経済的な豊かな国であると羨ましがられながら、私たちは生きているはずですが、しかし実は日本の家庭ではこの関わりやぬくもりが欠如して、いっしょにいてももがき苦しんでいる人もたくさんいます。なかには頼る人は誰もいない。コロナ禍で同じように苦しんでいる人もたくさんいます。

 聖家族の中心である母マリアの愛、こういう人たちも含めて全人類に受けいれられている慈しみのまなざしです。そしてそのまなざしを受けて、その愛を地上で体現していくように、招かれているのは私たちしかいません。教皇様は平和メッセージの最後にこのように述べられています。

「わたしたちキリスト者はつねに、海の星、希望の母であるおとめマリアを見つめなければなりません。愛と平和、兄弟愛と連帯、助け合いと相互受容の新たな地平にむけて進むために、皆で協力しましょう。他の人々、とりわけもっとも弱い立場にある人に対して無関心でいようとする誘惑に負けないようにしましょう。目を背けるのに慣れないようにしましょう。そうではなく、「互いを受け入れ、互いをケアする兄弟姉妹から成る共同体を築く」ために、具体的な努力を日々、重ねていきましょう。」

 先ほどのアンケート調査に加えていうならば、今私たちが問われているのは、この時季にわたしを幸福な気持ちにさせてくれるかどうか、この時季がわたしたちを幸福な気持ちにさせてくれるかどうかではなくて、わたしがだれを幸福な気持ちにさせることが出来るか、問われている。このことを深く心に留めていきたいと思います。』

2020年12月26日土曜日

クリスマス

 主のご降誕おめでとうございます。

コロナ禍により、降誕祭ミサは非公開で行われました。

例年では、クリスマスのお祝いに多くの方々が詰めかけるのですが、

感染防止のため限られた人数によるミサ司式となりました。


松村神父様からいただきましたクリスマスのメッセージをご紹介します。


『12月24日 クリスマスのメッセージ

松村 繁彦

主の御降誕おめでとうございます。

今年はコロナ一色の約1年で、その対策と制限と忍耐の中で私たちは生活してきました。それはある意味伝染病の下で恐怖の奴隷と余儀なくされた私たちでした。そして今なお、最前線で戦っておられる方がたくさんいます。特に医療従事者の方々に感謝と尊敬をもって、多くの方々のいのちが守られ、全ての人に希望が与えられるよう祈りをささげてまいりましょう。

さて、イザヤの言葉では、古代オリエントの時代にエルサレムに近隣の王たちは自分たちにとって都合の良い王を立てようと働きかけた。しかしイザヤは神からのお告げにより、王は必ず神から与えられると信じ、その王たちの行いに断固として神を信じ待つよう促した。たとえ闇であっても光を見る時が必ず来る。それがダビデ王の座が引き継がれる希望と期待であった。これが“闇に住む民は光を見た・・・。”そして“ひとりのみどり子が私たちのために生まれた。”と伝えられた。この者は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と称えられると語る。そのことを信じるかどうかをイザヤは現代の私たちにも預言として託されている。大事なことは、たとえ私たちが信仰深くても浅いと思っていても、周りに希望の光を届けたいと思うか、闇のままでいいと思うかにかかっている。神の絶対的な御ちからは、闇に住む民であっても光を示し、照らし続ける驚く業である。懐中電灯のように電池が切れたら終わり、蝋燭のように火が消えたら終わりではない。そこに導き永遠に輝き続ける力を持っている方である。その力を伝えなければならない人々が私たちの周りにいる事を理解し、一人でも多くの人を救いに導きたいと願うことが求められている。私自身の信仰の評価次第ではなく、幼子に秘められた救いの力に委ねる心があればいい。限りある力ではなく、限りない輝き、希望と愛に照らされる事を切に願っていきたい。

今日の主の御降誕は特に具体的に愛と希望を示すために、今日イエス・キリストは私たちの世界に降り立った出来事を祝う日。見えない恵みが見えるしるしとなった。これは全ての秘跡に先立った根本的な秘跡そのものである。

私たちも神の具体的かつ実践的な示しそのものであるイエス・キリストの誕生から、コロナ禍であっても、私たちに愛と希望、光と平和をもたらすよう言動ができるよう恵みを求め、一人でも多くの命がこれからも救われるよう、最前線で働いておられる方のためにも配慮と祈りをしてまいりましょう。』


2020年12月20日日曜日

待降節第4主日

 ウルバン神父様からいただきました12月20日 待降節第4主日の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


 【福音メッセージ ウルバン神父様】


皆さん                     12月20日、待降節の第4日曜日


先週の日曜日、またその前の週に、私たちは洗礼者ヨハネの足跡を歩きました。ヨハネは夜の時、自分の洞窟の前に立って偉大なる星空に向かって手を上げ叫んだ姿を見たような気がします。“わが主よ、あなたはどこにいるのか、わが主よ、いつ来るのでしょうか。私は待っています”。その叫び声が心の中で響いていました。

またヨルダン川の畔で群衆を見回しながら叫んだこと:“あなたたちのうちに誰も知らない方が立っている”と。ヨハネの心に来るべき方のこと以外何もありませんでした。ある日、その方に出会って、自分の手で触れた時、ヨルダンの水の中に入れ伏すのを見た時、その時ヨハネは感動と喜びにあふれた。

今日は天使ガブリエルの後に付いて行きます。どこへ遣わせるでしょうかとガブリエルが考えたのではないでしょうか。都の立派な家のあ
るお嬢様へ?いえ、北のガリラヤへ、またその中の寂しい田舎、とても悪い評判のある村、“泥棒の巣”と呼ばれたナザレへ。ナザレ村になんの美しいものがあるだろうか、と天使が不思議に思ったかも知りません。こんな貧しい住まい、これは洞窟ではないでしょうか?

薄暗い中に入ると天使は14歳ぐらい若い女の子がみえた。いつも神の偉大さの前に立っているのに、神様の想像のなかに、こんな美しいことを見たことがありませんでした。この子はマリア、ミリヤムと、呼ばれました。広い野原の中、また何もない道端で咲いている花を見たことがありますか。この小さい花は自分の可愛いさ、自分の美しさを知りません。ただ静かに人の喜び、神の喜びのために咲いています。この質素な、素直な子は村の中で大きくなって、村の人々に毎日出会ったが、だれもこの子の美しさを知りませんでした。若いミリヤムでも自分は神様の喜びであったこと、この世のなかで光り輝く花であることも知りませんでした。天使ガブリエルは驚きながらマリアを見て、住まいの中の神の臨在を深く感じながら、この娘の前にひれ伏しました。

マリアは挨拶の言葉を聞いています。“おめでとう、マリア、主はあなたとともにおられます”。なんと美しい挨拶でしょう。私たちにもあんな言葉があったら、どんなに幸せでしょう。ルカの福音によると、マリアはこの言葉に胸騒ぎがし、いったい、何のことだろうかと思いまどった。本当に素直な方、自分が小さな者だと思って。天の使えが来て、いと高き方の母になってくれるかとの頼みを受けた時、何と答えたでしょうか。飛び上がって、“ああ、光栄でございます”と叫んだでしょうか。かえって神の使いの前にかがんでひれ伏した。“私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように“。

マリアのこの素直な言葉で新しい時代が始まって、私たちに天の門が開きました。このナザレの娘に感謝。その後の出来事は神秘に包まれて、若い女の子、マリア、と神の霊との出会いに言葉はもうありません。ただエリザベトとの出会いの時、心を少し見ることができます:”私の魂は神をあがめ、私の心は喜びに踊っています“。今日は少しでもマリア様と親しむことができるのは感謝します。 




【聖書朗読箇所】


永遠の神である父よ、

  あなたはひとり子イエスを世に遣わすにあたり、

  ガリラヤのおとめを選び、救い主の母となる使命をお与えになりました。

  わたしたちがマリアにならい、愛と喜びをもって主を迎え入れ、

  主とともに生きる者となりますように。

                    集会祈願より


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第1朗読 サムエル記下 7章1~5、8b~12、14a、16節


〔ダビデ〕王は王宮に住むようになり、

主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎをお与えになった。

王は預言者ナタンに言った。

「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、

神の箱は天幕を張った中に置いたままだ。」

ナタンは王に言った。

「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。

主はあなたと共におられます。」


しかし、その夜、ナタンに臨んだ主の言葉は次のとおりであった。

「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。

主はこう言われる。あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。

わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、

わたしの民イスラエルの指導者にした。


あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、

あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。

わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。

民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、

昔のように不正を行う者に圧迫されることもない。


わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、

あなたに安らぎを与える。

主はあなたに告げる。

主があなたのために家を興す。


あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、

その王国を揺るぎないものとする。


わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。

あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、

あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」



第2朗読 ローマの信徒への手紙 16章25~27節


神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、

あなたがたを強めることがおできになります。

この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。

その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、

信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。


この知恵ある唯一の神に、

イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、

アーメン。



福音朗読 ルカによる福音書 1章26~38節


〔そのとき、〕天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。

ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。

そのおとめの名はマリアといった。

天使は、彼女のところに来て言った。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」


マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。

あなたは神から恵みをいただいた。

あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。


その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。

神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、

その支配は終わることがない。」


マリアは天使に言った。

「どうして、そのようなことがありえましょうか。

わたしは男の人を知りませんのに。」


天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。

だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。

あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。

不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。

神にできないことは何一つない。」


マリアは言った。「わたしは主のはしためです。

お言葉どおり、この身に成りますように。」

そこで、天使は去って行った。


2020年12月13日日曜日

待降節第3主日

 レイ神父様からいただきました待降節3主日の福音メッセージをご紹介します。

(英語版も掲載します)


自己の真実を求めて

 こどもたちは質問が上手です。いとも簡単にとても深いことを聞くのを親たちは知っています。私たちも皆、問いかけます。なぜなら心の底に真実を求める本能があるからです。これは生涯続く探求です。この人生において「今、完全な真実を得た」というところには至りません。福音では神は真実であり、常に私たちを超越すると宣言します。私たちの思考力や心では完全に神をとらえるのは不可能です。それでも真実をまじめに求めなければなりません。たとえその途中で痛みを伴って、長い間大事にしてきた確信を手放すのだと知ったとしてもです。真実へ、私たちの世界について、お互いについて、おのれそれぞれの個人について、そして神についての真実へといっそう近づこうとするのです。質問することで真実により近づくのだと願いながら問い続けます。

 自己の探求において大きな二つの問いとは”私はだれか?そして”私がしていることを私はなぜしているのか?”です。広い意味において、私たちは自分の本質を求めます。そして自分の言動に導く究極の目的を明らかにしようとします。今日の福音書ではこれらの二つの大きな問いかけが洗礼者ヨハネに宗教権力者から発せられます。「あなたは、どなたですか」そして「なぜ、洗礼を授けるのですか」と。最初の問いかけにヨハネは、自分はそうではないと宣言することから始めます。キリストでもメシアでもないことを明らかにします。それ以上の者であるとは言いません。そののちヨハネ書の中で、結婚の祝宴のイメージを引き合いにして、自分は花婿ではなく、花婿の声を喜ぶ花婿の友だと表現します。今朝の福音書で、ヨハネは荒れ野で叫ぶ声であると宣言します。言葉ではなく、声にすぎず、光ではなく光を証するものにすぎないと。なぜそんなことをしているのか、なぜ洗礼を授けているのかと尋ねられると、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」ことを知らせるために洗礼を授けていると言います。人々が気づかずにいる、その人、メシアにヨハネは人々の目を開かせるためにしていることを、行ったのです。多くの人々が気がつかず偉大な光が輝きました。ヨハネはその光の証をしたのです。自分がそうであるので行ったことをヨハネはしたのです。「なぜ、洗礼を授けているのか」という問いの答えから、さらに根本的な問い「あなたはだれですか」「自分自身についてなんと言いますか」の答えが花開きます。

 「自分自身のことをどう言いますか」は様々に答えられる問いです。単に自分や親の名前、仕事上の資格、役割、地位を答えられるでしょう。しかし、その問いに対して最も深く根本的に答えられるのは霊的なレベルにおいてです。最も深く、最も霊的な私の存在において私はだれか?神の前の私はだれか?あるべき私と神が呼ぶのはだれか?ここにおいて洗礼者ヨハネ、偉大な到来を告げる聖人は私たちの助けとなります。洗礼の恵において各々がだれであり、あるべきと神が呼ぶのはだれかと私たちに明らかにするのです。洗礼者ヨハネ同様、私たちも勿論メシアではありません。光でもありません。自分たちの生活や心の闇を充分知っているだけです。しかし、洗礼者ヨハネのように私たちはその光の証人です。完全さからは程遠くとも、キリストの証人として呼ばれています。

 ヨハネは次のように言います。「あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる。その人は私の後から来られる。」イエス・キリストは私たちの中におられますが、多くの人たちに知られていません。私たちはもっとイエスを知らしめ、私たちを通して世界にその光を輝かせることができるでしょう。洗礼は荒れ野で叫ぶ声であり、神との結びつきへの招きの声でありました。私たちも自らの声を用いてキリストを知らせるよう問われています。恵まれた伝達手段を用いてキリストへの信仰、価値、態度を広めることができます。私たちの行動を通し主を伝えることもできます。もし、わたしたちの呼びかけが光への証となると気づけば、それはどのように生きるかを形づくり、なぜそのように生きているかを説明できるのです。「あなたは、どなたですか」という問いの答えは「あなたがしていることをなぜしているのか」という問いの答の根拠となります。待降節は私たちの根本的な本質、キリストにつながる本質を改心するよい期間です。もし、どこかで今日イエスがお生まれになるとすれば、それはイエスに従う人々の心の中に生まれるのです。


Finding our personal truth

   Children are great with questions. As any parent knows they can ask the most profound questions in the simplest of ways. We all ask questions because, at heart, we have an instinct for seeking and searching after truth. This is a life-long search. We can never get to the point in this life where we can say, ‘I now have the total truth.’ The gospel declares that God is truth — and God is always beyond us. We can never fully grasp God with our minds or our hearts. Yet we have to be faithful to the search for truth, even if along the way we find ourselves making painful discoveries that involve letting go of long-held and cherished convictions. We keep trying to come closer to the truth, the truth about our world, about each other, about ourselves as individuals, and about God. We keep questioning in the hope that our questioning will bring us closer to the truth.

   In our search for our own personal truth, two of the big questions that drives us are, ‘Who am I?’ and ‘Why am I doing what I am doing?’ We seek after our identity, in the broadest sense of that term, and we try to clarify for ourselves the ultimate purpose that drives all we do and say. In today’s gospel, those two big questions are put to John the Baptist by the religious authorities, ‘Who are you?’ and ‘Why are you baptizing?’ In answer to the first question, John began by declaring who he was not. He was clear that he was not the Christ, the Messiah. John did not try to be more than he was. Later on in the gospel of John, using an image drawn from a wedding celebration, he would say of himself that he was not the bridegroom, only the friend of the bridegroom who rejoices at the bridegroom’s voice. In this morning’s gospel John declares himself to be the voice crying in the wilderness; he is not the Word, only the voice; he is not the light, only the witness to the light. When John was asked why he was doing what he was doing, why he was baptizing, he declared that he baptized to make known the ‘one who stands among you, unknown to you.’ He did what he was doing to open people’s eyes to the person standing among them, to the Messiah who was in their midst without their realizing it. There was a great light shining among them that many were unaware of, and John had come to bear witness to that light. John did what he did because of who he was. The answer to the question, ‘Why are you baptizing?’ flowed from the answer to the more fundamental question, ‘Who are you?’ “What do you say about yourself?”

   “What do you say about yourself?”, is a question we can answer at different levels. We can simply give our name, or give or parents’ names; we can answer it by giving our professional qualifications, or by naming the role or the position we have in life. Yet, the deepest level, the most fundamental level, at which we can answer that question is the spiritual level. Who am I at that deepest, most spiritual, level of my being? Who am I before God? Who is God calling me to be? Here, John the Baptist, the great Advent saint, can be of help to us. He articulates for us who each one of us is in virtue of our baptism, who God is calling us to be. No more than John the Baptist, we are certainly not the Messiah. We are not the light. We know only too well the areas of darkness in our lives and in our hearts. However, like John the Baptist, we are a witness to the Light. Even though we are all far from perfect, we are, nonetheless, called to be a witness to Christ.


John the Baptist says:'”there stands among you, unknown to you, the one who is coming after me.” Jesus Christ stands among us, but he remains unknown to many. Perhaps we could do more to make him known, to let his light shine in our world through our example. The Baptist was a voice crying in the wilderness, a voice to invite people into relationship with God. We too are asked to use our voice to make Christ known. We can use our gift of communication to spread faith in Christ and illustrate his values and his attitudes. In our behaviour too, we can let the Lord communicate through us. If we realise our calling to be witnesses to the light, it can shape how we live and explains why we live the way we do. The answer to the question, ‘Who are you?’ grounds the answer to the question, ‘Why do you do what you are doing?’ Advent is a good time to reclaim our fundamental identity, our Christ-linked identity. If Jesus is to be born anywhere today, it will be in the hearts of his followers.



2020年12月6日日曜日

待降節第2主日

 湯澤神父様からいただきました主日メッセージ「福音への一言」をご紹介します。


2020年12月6日 待降節第2主日(マルコ、1章1~8節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

例年であれば、待降節のロウソクに火を灯して、毎週毎にクリスマスの近いことを確かめることができましたが、今年は、待降節中の主日に一回しかミサに参加できない、一回くらいしか待降節を祝えないということが起こり得ています。しかし、待降節の毎日曜日の福音を読み、できれば毎日の福音を読む時、日々クリスマスが近づいてくる足音を感じ取れるのではないかと思います。特に17日からの降誕祭前の九日間(ノヴェナ)の福音は、誕生物語の誕生前の部分が読まれますから、近づく足音をより切実に感じ取れます。

さて、今日の福音は、キリスト到来の先駆者として理解された洗礼者ヨハネの登場の場面です。『マルコ福音書』は、福音書のタイトルを表すような始まりを持つ唯一の福音書で、イエス様が神であり、キリストであることを理解してもらうために書かれました。もちろん福音書を聞く人たちは、それを信じる信徒ですが。とにかくマルコは、洗礼者ヨハネの宣教から福音書を書き始めています。この最初を聞くと、なんとなく「いよいよ、始まる」という、映画や演劇や演奏会の幕あけ直前の緊張感に似た気持ちになります。旧約聖書の預言書の引用をもつ書き出しは、この緊張感に荘厳さをも加えています。

洗礼者ヨハネは、先駆者ですから、幕開けを告げるものです。そこにはこれから登場して来るキリストと洗礼者との違う面があります。その大きな違いの一つが、「わたしは水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」ということです。「聖霊で」とは、単に洗礼の方法や道具を意味しているわけではありません。また、後の時代のように、「聖霊」というと三位一体の一つの位格だけを指しているわけでもありません。旧約時代の神の霊の働きのように、もっと広い意味合いを持っています。旧約聖書には、神の霊がある人に下ると、その人が預言し始める、と言った例があります。

つまり、「その方の洗礼は、神様の霊の働き、神様の力によるものです」といった意味にもとれるでしょう。もちろん神様はいつでも働いておられますが、キリストの登場は、まさにそれ自体が、神様が私たちを新たにする、救うために直接働いてくださる、そうした時の始まりなのだという意味合いです。それは、私たち自身が変えられ、変わっていく時でもあるのです。私たちが待降節に待つ、その期待感、緊張感は、ここから来るのです。「いよいよ始まる」が「身に起こる」という感覚です。

クリスマスは、アドヴェント・カレンダーをめくるような待ち方もあるでしょうが、日々訪れてくれる神の訪れと結びつけていくとき、今年はただ一度の待降節のミサにしかあずかれないかもしれませんが、待降節、そして御降誕がより期待感と緊張感に満ちた「いよいよ始まるが身に起こる」という緊張した感覚で過ごすことができるのではないかと思います。

2020年11月28日土曜日

待降節第1主日

今日から待降節、新しい典礼暦年が始まります。

待降節を迎えるにあたって、11月28日にクリスマスの飾りつけを行いました。



松村神父様からいただきました主日の福音メッセージをご紹介します。


『「目を覚ましていなさい」と言われ、いつまで目を覚ましていればいいのだろうか。果たしてその時とはどんな時なのだろうか。体力が限られている私たちに「起き続けろ」ということなのだろうか?聖書によく出てくる「目を覚ましていなさい」という言葉は時にはプレッシャーに聞こえる言葉であるが、福音書は喜びの知らせ。きっとそこに喜びがあるはずと捉えてみよう。そこでこの疑問を解くヒントとして、“時”の捉え方を整理してみてはどうだろう。

私たちは何かがやってくる瞬間を量的な時で考えます。例えばおなかが減った時、誰かと待ち合わせている時などは時間に伴う動きが解決します。しかし空が雲で覆われている時に突然一筋の光の筋が見える時があります。雲に覆われていた空が晴れなければ光が差し込まないと、ただ時間が経つのを待っている時がありますが、その時は突然しかも一瞬だけやってくることがあります。予測もつかないし対応はできない瞬間があります。逆にスコールなど、晴れている時に突然雨が降ることもあります。その地域の特性で雨が降ることがわかっていれば傘などを用意はできるでしょうが、旅先で突然見舞われると対応に困ります。このように予測できる時と、突然やってくる時があり、私たちは量的時間で測れない時がある事を知ります。さらに濃い時間、無駄な時間、貴重な時間など、他と比較ができないといった時間自体を質で測ることもあります。

今日の福音は、この時を瞬間の時と質の時と捉えるとどうだろう。「突然やってくる時」そして「目を覚ますべき質としての時」。3週間ほど前にミサで読まれた福音「賢い乙女と愚かな乙女」の箇所では花婿を迎えるために準備する油をめぐってやり取りされたが、油は分けられるものであったのに対し、内面にある花婿を迎える「愛」や「希望」というものは分けることは出来ない。つまり準備するのは灯の油とは物量ではなく質そのものであることが示されていた。今日の時も質を向上させ、いつでも対応できる準備をすることを大切にすると解釈すれば、私たちは今からそれに対応できる体と心づくりを始めることが問われているのだろう。急に腹筋が割れるわけもなく、長い距離を走れるわけでもない。つまり日ごろの体調管理が大事な様に心づくりも必要なのだ。御降誕にむけて、また新たな共同体づくりにむけて、そして今訪れているコロナ対策に向けて「明日からします!」とダイエットのように振舞うのではなく、今この瞬間からできる実践を始めることに意味があるのです。

先々週の福音「タラントの話」にあるようにタレントをいただいた私たちは、一人一人に与えられている個性を輝かせ、自分なりの歩みに任され一歩踏み出す勇気が与えられていることに喜びを感じたい。聖書の言葉で語るならば、一日でも早い預金は利息が多く付くからである。心豊かになることを望む主人の姿は、この1カ月のミサの朗読の中にふんだんに隠されていた。そして今日の福音にある主人である神様は、私たちを信じて仕事を託して旅に出られている。これは門番を信頼している主人の愛。私たちも応えられるように、神様の信頼と愛を感じながら今からできることを行う者になっていきましょう。「待降節に入りました」という準備の挨拶は、怠け心の多い私たちに「実践を再開する時です」という合図なのです。』


2020年11月22日日曜日

王であるキリスト

 今年4月から、当教会を含む3教会(北11条、北26条)の協力司祭を務めておられますウルバン・サワビエ神父様(フランシスコ会)から、11月22日「王であるキリスト」の福音メッセージをいただきましたのでご紹介します。

 ウルバン神父様の前任地のカトリック戸塚教会ホームページに掲載されている転任にあたってのご挨拶と写真を転載させていただきます。

戸塚教会だより 2020年4月号 No.188 


【福音メッセージ ウルバン神父様】

2020.11.22 王であるキリスト

ウルバン・サワビエ神父 

今日は王であるキリストの祝日です。

この日はあんがい新しい祝日です。私は子供の時通った教会には大きな十字架がありました。そのイエス様の姿の十字架か私は好きでした。十字架の釘は大きかったけれども子供にとって恐ろしくなかった。体に傷と血があったがそれも痛そうに見えなかった。頭に冠があったが、冠にとげはなかった。王の輝く冠でした。イエスは手を広げて偉大なる力のある姿を現した。本当に王の姿でした。王らしい顔、優しい目のまなざしでずっと遠くまで見ているようがしました。誰を見て、だれを探しているでしょうか。イエス様、ぼくをも見ているかと聞いたこともありますが、私のほうへ見てくれませんでした。やっぱりイエス様は王様だ。この優しい、強いイエス様についていきたいと思いました。それで9歳に侍者になった時、いつも丁寧に、また丁寧に十字架の前に深いおじぎをしました。この故郷の十字架のイエス様はつねに心の中に残りました。

終戦後になって王であるキリストの祝日の時でした。私たち若者はみながある大好きな歌を生き生きした声で歌いました。 ‘わが王キリストよ、あなたのみ愛することを誓います、美しい白い百合のような愛、また忠実を、死に至るまで’。それを何回も張り切って歌いながら、体も心も熱くなって、心は革新と喜びにあふれた。やはりキリストは私たちの王です と私たちが深く感じました。

何年か後のことでした。渋谷か新宿駅のラッシュアワーに大勢の人々の間を歩いた時、人の大群衆でびっくりして、人に酔っていました。こんなに大勢の人を見たことはありませんでした。海の波のように見えました。その時思ったのは:イエス、あなたはどこにいるのか。あなたはここでも王なのか?あなたをどこもみえません。皆はあなたを知りません。あなたはいったいどこにいるでしょうか。何回も寂しそうに、悲しそうに心の中で言った。ある時声が聞こえるようにした。心配するな。私は皆の主、皆はわたしの子供ではないか。誰も私を知らなくても、私が一人、一人をしている。私はみなに命を与えたのではないか。私の手から出た心は愛に飢えている。またその心に私の声が聞こえる、私の慰め、励ます声。そしていつか私に会う。

40年前に数人の若者とともに韓国へ行きました。韓国戦そのあとで、生活はまだ厳しかった。ある日私たちはライ病者の村にも行きました。貧しいわら小屋の村でした。ある小屋の前に一人の男の人が座って誰かに自分の足を出した。その足の下はもうきえて、その足の残りの中から血とうみが流れ出た。その人の前に一人が土の上で座って病人の足を手にもって、それを治療して、血とうみを丁寧に洗っていた。私は王であるが、私が来たのは使えられるためではなく、使えるために来たと知った。その時私は心の底まで感動した。イエス様の姿が見えた。今日イエス様私とあなたを見ています。静かな声が聞こえるでしょうか。私について来ますか。あなたは最も小さな者にしたのは私にしたのである。


2020年11月15日日曜日

年間第33主日

 レイ神父様からいただきました年間第33主日の福音メッセージをご紹介します。



第一朗読は箴言(31・10-13, 19-29, 30-31)からです。本日選ばれた箇所はこの本の最終章の最後の半分で、理想的な妻への賛歌です。作者は、賢く、慎重で、働き者の妻は夫の人生に、そしてその民族に果たす役割が大いに賞賛されるに値すると見ています。

第二朗読は聖パウロのテサロニケの教会への手紙(5・1-6)からで、ここでパウロはキリストの再臨について議論を続けています。彼同様に、テサロニケの改宗者たちはその再臨の時期についてよくわかっていると言いました。説教の中で、それは突然であろうと主は言われたとパウロはすでに語ってましたが、このことは彼らを心配させるのではなく、毎日信仰の内に生きているため、彼らの準備は出来ているということです。

福音書はマタイ(25・14-30または25・14-15、19-21)からです。このたとえの教えは福音書の全てがそうであるように、初代の信者と同様に今日の私たちにも当てはまります。キリストや聖なる父との関係において、今日の私たちの世界は一世紀のパレスチナとよく似ています。キリストと神には反対する者と従う者がおります。今日の反対者はキリストの時代にファリサイ派の人々やそのリーダーたちの行動と同じ理由をもっています。彼らは約束の地、快楽と贅沢の王国を地上で求め、世俗的なものへの限りない自由が欲しいのです。うぬぼれたプライドは彼らの基準に合わない神格や神聖な権威には頭を下げようとはしません。ファリサイ派の人々のようにキリスト教は真実ではなく、キリストは君臨せず、最後の審判の日は来ないと思いこみ続けようとしています。

しかし、キリストや神を排除しようという努力にもかかわらず、小さな良心の声は完全にだまらせておくことはできません。かれらの愚かさをしつこく気付かせます。「飲み、食べ、寝て、楽しく」という快楽主義の言葉が響かない時もあります。努力に忠実なキリストに従う人々にはこのたとえばなしは励みであり慰めとなります。時には私たちの進み道を阻むものがあり、闘いは果てるともなく思えます。しかし神は私たち一人一人に最終の勝利を確実にする必要な助けを与えます。これらの助けは各自の必要に応じて与えられます。たとえ話にある5と2タラントンを預けられた僕たちはそれらを忠実にうまく使いました。1タラントン預かった者は1タラントンしか必要なく、忠実な僕であったなら、それをうまく活かすことができたはずでした。

永遠の幸せとは、この世で忠実に行ったことへの神聖な報酬です。3人目の僕の間違った言い訳は今も私たちの間で様々な形で繰り返されています。「神は厳格すぎる。そんな犠牲を払うことを私に期待できない。自分の為に備えなければならない。約束と脅しは単に口先だけかもしれない。清算しに、数えるために戻って来ないかもしれない。」これらの言い訳はこのたとえばなしでは間違っているとされています。

神は私たちのことをいつも心にとめてくださる優しい父です。私たちが必要な犠牲を払うことを大いに期待されてます。その方法はゴルゴタの地で示されました。神のために働くことで私たちは自分たちの未来に備えているのです。神からの栄光と私たちの永遠の救いは労働への等価です。神はもちろん清算するために戻ってこられますが、そのとき何か変えようとしても遅すぎます。賢くありましょう。まだ時間があるうちに訂正すれば、私たちの帳簿は計算の日には整っていることでしょう。

元の説教はフランシスコ会、ケビン・オサリバン神父により書かれたものです。


November15、2020

33rd Sunday in ordinary Time Year A

Sunday Readings

The first reading is taken from the Book of Proverbs 31:10-13, 19-20, 30-31. The verses chosen for today are taken from the last half of the last chapter of the book and are a hymn in praise of the ideal wife. The author saw to it that the part that a wise, prudent and industrious wife plays in a man's life, and hence in the life of the nation, deserved to be stressed and admired.

The second reading is from the first Letter of St. Paul to the Thessalonians 5:1-6. In this reading St. Paul continues his discussion of the parousia. He tells his Thessalonian converts that they know as much as he does about the time of that second coming. He had already told them in his preaching that our Lord had said that it would be unexpected. However, this need not frighten them, they would be prepared because they were living their Christian faith every day.

The Gospel is from St. Matthew 25:14-30 or 25:14-15, 19-21. The lesson of this parable, like all the teaching of the gospel, is as applicable to us today as it was to the first generation of Christians. In its relation to Christ and to his divine Father our world today is very similar to first century Palestine. Christ and God have opponents and followers. Their opponents today have the very same reasons that moved the Pharisees and leaders of the people in Christ's day. They want their messianic kingdom here on earth, a kingdom of pleasure and plenty; they want no limits set to their freedom to

follow their own earthly inclinations. Their pride in their own self-exalted dignity will not let them bow the head to any deity or divine authority which does not conform to their standards. Like the Pharisees they keep on trying to convince themselves that Christianity is not true, that Christ will not reign, that there will be no day of reckoning.

Yet with all their efforts to get rid of Christ and God, the small inner voice of conscience is not completely silenced. It has the nasty habit of reminding them of their folly. They have their troubled moments when the epicurean motto "eat, drink, sleep and be merry" does not somehow ring true.

For the followers of Christ who are sincere in their efforts, the parable has a message of encouragement and consolation. At times the road we have to travel seems strewn with obstacles, our battles seem never-ending, yet God has provided each one of us with the necessary helps to ensure the final victory. These helps are given according to each one's need. Those servants in the parable who received five and two talents used them faithfully and successfully. He who received one talent needed only one, and could have succeeded with it had he been a faithful servant

Eternal happiness is the divine reward for an earthly service faithfully rendered. The false excuse of the third servant is repeated in many forms among us still "God is too austere, he could not expect me to make such sacrifices. I have to provide for myself; his promises and threats may be only empty words. He may never return to demand a reckoning, to settle accounts with us. These and all other such excuses are proved false in this parable.

God is a kind Father who has our eternal interests at heart. He does expect us to make the necessary sacrifices. He showed us the way on Calvary. When working for God we are really providing for our own future; his external glory and our eternal salvation are the fruits of the same labor. He will certainly return to settle accounts—it will then be too late to make any changes. Let us be wise and make the changes now while we have time and then our books will be in order on the day of reckoning.

This homily was originally written by Fr. Kevin O'Sullivan, O.F.M.

2020年11月8日日曜日

年間第32主日 福音への一言

 湯澤神父様からいただきました主日メッセージ「福音への一言」をご紹介します。



2020年11月8日 年間第32主日(マタイ、25章1~13節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

今日の福音は、『マタイ福音書』の第五の説教集の後半に出てくる一つのたとえ話です。この部分は弟子たちに向けられた話で、一般の人たちに向けられたものではありません。つまり、キリスト者である私たちに向けられた言葉です。この前にあるノアの箱舟のたとえ話に出てくる、「目を覚まして」いなさいという言葉がここにも出てきます。どうやらこの言葉がこれらのたとえ話にとって重要な言葉のようです。この「目を覚まして」は、第一朗読にも登場してきます。ところが、この十人の乙女のたとえ話では、全員が眠りこけてしまいますから、「目を覚まして」とは、単純に「眠らない」ことを意味しているのではなさそうです。

ところで、「終活」という言葉を皆さんはご存知でしょう。今から十年ほど前から知られるようになった言葉で、自分の人生の終わりに向けた活動を意味しています。具体的には、遺言書を書いたり、お葬式や墓の準備をしたりなど、自分の身の回りの生前整理を意味していました。しかし、次第に「人生の終わりを考えることで、今をよりよく生きるための活動」を意味するようになりました。私たちは、「人はいつかは死ぬものだが、差し当たって今ではない、自分ではない」と自分とは無関係のものとして片づけています。しかし、終活は、その死を個人化します。即ち、自分の死を、自分の今の問題として取り上げ、今の自分を振り返り、意識して今を生きることを意味しています。

マタイのこの説教集は、神の国、特に終わりについてのイエス様の言葉で、旧約時代からある「黙示的説話」の形をとっています。この特徴の一つは、世の終わりについて語りながら、具体的個人的な今に目を向けさせることです。「死の個人化」に似ています。つまり、世の終わりを考えることで、今をよりよく生きることを勧告しています。『コへレトの言葉』の中に有名な「時の詩」があります。「すべてに時がある。……生まれる時、死ぬ時……泣く時、笑う時……抱擁する時、抱擁を遠ざける時……愛する時、憎む時」。コへレトは、まさに日常のあらゆる瞬間、それらの時が、神様の時、神様と触れる時になると述べています。

乙女たちにとって、居眠りしているその時が、「その時」になりました。「その時」、神様の声が聞こえます。「その時」は、灯を灯して、照らさなければならない「時」です。その「時」、油がない。油が必要な時に用意がなくて相応しく応えられない。その「時」肝心の物が用意できていない彼女らを「愚か」と呼んでいます。もしかしたら、そういう神様の時がある事にも気づいていないからかもしれませんね。神様の時、神様と出会う時、それは、日常茶飯事の出来事や人々の中にあるのです。「知恵の書」の言葉は、「(日常の彼方に)知恵(神様)に思いをはせることは、最も賢いこと、知恵(神様)を思って目を覚ましていれば、心配も消える」と読むこともできます。          湯澤民夫




2020年11月1日日曜日

11月1日「諸聖人」

 松村神父様からいただきました主日の福音メッセージをご紹介します。


幼稚園児のハナコちゃんは、両手いっぱいにお菓子を握りしめながら私のところにやってきた。ちょうどシュークリームをもらったのであげようとしたが、突然泣き出した。「どうしたの?」と声をかけると、両手のお菓子は大好きなお友達からもらった大切なお菓子でした。でも好物のシュークリームも欲しい。手のお菓子を置く場所もない。選びたいのに選べない心の葛藤。子どもらしい姿でありながら、そこから私たちの至らなさも気づかされたことがあった。

さて、山上の説教と呼ばれる冒頭の言葉「心の貧しい人々は、幸いである」という呼びかけは、本来「なんと幸いなることだろうか!」という驚きの呼びかけの知らせであった。マタイ福音書ではその前に病人を癒す場面が描かれていることから、イエス様ご自身がおびただしい病人を癒しながら、ご自身につき従ってきた人々をご覧になり感激したのではないだろうか。今日の喜びのメッセージはこのようにイエス様も貧しい人々から元気をもらったと理解したい。私もハナコちゃんから学ばせてもらったからである。

本来の貧しい人々は、権力者から虐げられた人々を指す。お金・権力・経験・伝統・制度などなど、人間の活動や社会の活動によって積み重ねてきた物における圧力に押しつぶされている人々を指すのではないか。しかし、いつもイエスはその正反対の場に出向き、癒し慰め勇気を与えてきた。しかし与える以上にイエス様ご自身がいつも感情豊かに、時には憤慨し、時には逆上し、時には感動していた。イエス様の心を動かしたものは人々の目が届かないところにある信仰の強さなのでしょう。それがイエスを知らない人であっても、神と唱えなくとも、救い主を求める姿の中に見出したのかもしれない。異邦人に対して、また異邦人の土地における癒しはまさにそのことを物語る。

この地上において能力を持つということはそれぞれの分野で選ばれた人だけに与えられるかもしれないが、弱くなることは誰にでもできる。子どもが大人に突然なることは出来ないが、子どもを体験している大人が子どものようになることが出来ることと同じである。貧しくなる事とは、回心して自分が持つ何かを捨てる事であろう。断捨離すれば身軽になる。物を持てば引っ越しは大変である。私たち司祭が転勤するたびにそのことを強く感じる。身軽になればどこにでも行くことが出来る。心身ともに所有することに固執しない生活を送りたいものだ。ハナコちゃんはそれを私に教えてくれたのだった。

聖人とは必ずしも私たちが理解するような立派な人ではありません。失敗も犯すような私たちと変わらない人です。罪もあります。しかしそれ以上にその人が活動や救い主である神へと、多くの人を導く活動を行えた人びとなのでしょう。皆さんも是非周りの人たちを眺めて聖人がいないか探してみてはいかがだろうか。かつてヨハネパウロ二世は青年たちに強く呼びかけました。「あなた方も聖人になりなさい!」と。実は私たちも聖人の延長線上におり、その可能性が開かれているからです。