2022年7月31日日曜日

7月31日 年間第18主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 年間第18主日 C年 2022年7月31日

“神の前に豊かにならない者は”  ウルバン神父

“有り余るほど物を持っても、人の命は財産によってどうする事もできない”と主の言葉は本当です。自分の人生を振り向いてみると、小さい時から豊かな生活を知りませんでした。それでも私たち子供達は、毎日明るく生きていました。自分の貧しさをあまり感じませんでした。親を囲んで愛されて生きることで十分でした。

10才の時のある夜でした。戦争の時でした。母親は、激しいサイレンで目が覚めて飛び上がった。飛行機が来るんだ、「起きて、早く起きて」と叫びながら、私達を起こそうとしたが、私たちは動かなかった。叩きながら、蹴とばしながら、やっと私達3人を4階から地下へ動かした。そこに着いた途端に空爆が始まった。突然、ものすごい爆発があって、家の土台まで響いて、私たちの上に色々と崩れ落ちたが、誰がどこにいるか、知らなかった。暗闇の中で叫び声があった。朝になって、ガレキの中から出ると、私たちは互いを見つめあった。ボロボロの姿でしたが、生きていた。隣の家では、そうではなかった。みな死んでいた。私達はすべてを失って、もう何もなかったが、それでも嬉しかった。傷なしで生きていた。ガレキの中に立った時、泥どろの中、私の小さい金魚を見つけた。必死にごみの中で生きようとしたが、助ける事ができなかった。その日、一番悲しんだのは、この金魚の事でした。その日、私たちは家のない貧しい旅人となった。何百km離れた田舎にある本家の人に受け入れてもらった。私はまだ子供でしたが、「物はどうでもいい、生きるだけでもありがたい」と体験した。 

二年後の復活祭ごろ、戦争が終わりました。夏になると、刈入れが終わった後、私たち子供は毎日畑へ行って、聖書に書いてあるモアブ人のルツのように、落ちた麦の穂を拾って、種を集めていた。秋ごろ、町へ帰る事が出来た。父はもう戦争から無事に帰って来て、小さいちょっとボロ住まいを準備した。その時のクリスマスの夜を忘れる事が出来ません。プレセントはありませんでしたが、ローソク一本を囲んで、歌ったり、祈ったり、沈黙のうちに見つめあったりして、手を繋いで共にいるのは幸せでした。私達が畑で集めた種で母親が作ったクッキーをかじりながら。

家族の中の親しみは、神様からの最高の恵みです。どうしてこの宝を、遺産と色々な貪欲によって壊せるでしょうか。それは残念ながら、よくあるのです。けれども、私達はまず神の国と家の平和を探しましょう、後の物は与えられる。どうにかなる。

ある日、車で達布村の山から留萌へ帰った時、共にいた方は私に、雑草の中の古いわら小屋を見せた。「見なさい。子供の時あのわら小屋に住んだ時に、私はすごく幸せでした」。神様の言葉です。「いつも喜んでいなさい、たえず祈りなさい、すべての事について感謝しなさい」。富があっても、貧しさがあっても、感謝しよう。あなたの心に喜びが湧き出る。



【聖書朗読箇所】


喜びの源である神よ、

  わたしたちが日々の労苦に疲れ果てるときも、

  さわやかな憩いを与えてくださるのはあなたです。

  真実の生き方を求めてここに集うわたしたちが、

  キリストのうちに生きる喜びを見いだすことができますように。

集会祈願より



第1朗読 コヘレトの言葉 1章2節,2章21-23節


 コヘレトは言う。

 なんという空しさなんという空しさ、すべては空しい。

 知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、 まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。 これまた空しく大いに不幸なことだ。 まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、 労苦してみても何になろう。 一生、人の務めは痛みと悩み。 夜も心は休まらない。 これまた、実に空しいことだ。



第2朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 3章1-5,9-11節


(皆さん、)あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、 上にあるものを求めなさい。 そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、 キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、 あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、 および貪欲を捨て去りなさい。 貪欲は偶像礼拝にほかならない。 互いにうそをついてはなりません。 古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、 日々新たにされて、真の知識に達するのです。 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、 未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。 キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。 神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。



福音朗読 ルカによる福音 12章13-21節


(そのとき、)群衆の一人が言った。 「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 イエスはその人に言われた。 「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 そして、一同に言われた。 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。 有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることも できないからである。」 それから、イエスはたとえを話された。 「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、 『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』 と思い巡らしたが、やがて言った。 『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、 そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。 「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。 ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 しかし神は、 『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。 お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

2022年7月23日土曜日

7月24日 年間第17主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第17主日 C年 2022年7月24日  松村神父

今回は「祖父母と高齢者のための世界祈願日」である本日の教皇のメッセージから考えてみたいと思います。

 教皇は詩編を用いて「白髪になってもなお実を結び」(詩編92:15)と、語りだし、これこそ福音、これこそ喜びの知らせであると私たちにメッセージを与えてくださいました。そこで個人的に思い出したことを分かち合いたいと思います。

 2016年4月に熊本県を襲った熊本地震。多くの被害を出して東日本大震災に引き続いて日本に不安を与えました。当時東日本大震災の復興支援担当をしていた私は、急遽熊本に対しても復興支援を始め、教区内で集めた募金をどこに振り分けるかを吟味し、決定したところに視察を兼ねて直接手渡しに行くことにしました。11月に現地視察に仲間の司祭を派遣し、その土産話を聞いたところ、阿蘇の麓の過疎地域“西原村”というところで面白い活動を行っていると、情報をいただきました。そこでは高齢者が率先して復興に立ち上がっていました。というよりも、もともと若い人がいないので、若い人がいなくてもできることをしなければと、みずから”爺(じじぃ)“”婆(ばばぁ)“の農業復興、頭文字を取って”じ・ば“産業(地場産業)を始めました。西原村の町長が、町長を辞職し復興に全精力をかけ呼びかけたところ、多くのじじ・ばばが立ち上がったのです。その勢いと努力、ネーミングのセンスから、復興支援担当として飛びついたわけです。翌年に早速募金をもって訪れ、現地の復興状況などを拝見したところ、さすが年の功。米と栗を中心に、素晴らしいものを作り上げ、また多くのネットワークまでつながりを持たれていました。九州全域から収穫時には若い人たちが手伝いに訪れ、じじ・ばばさん達はよりパワーアップし、若返り、逆に訪れた私たちのほうが元気をいただいたのでした。

 門をたたくものには、神様は開いてくださることを示されたことを実感した出来事でした。彼らは信者ではない人たちのほうが多いのですが、カトリックのネットワークも上手に生かし、西原村の人が一人も零れ落ちないよう元町長が配慮し、また自分たちの家の立て直しを最後に回し、村の復興に皆を巻き込んで再構築に臨んだ姿は、言葉にならない願いと祈りと力を感じました。その行動からまさに「白髪になっても実を結び」続けようとする高齢者の底力を目の当たりにしたときに、まだまだ高齢者であっても前線で生きる人々であることを意識づけられたのでした。私はこの一連の中にすべてが凝縮されていると感じます。

 力は衰えるものと決め、その身を引いていく人たちは多くいます。確かにできることは限られてきているのは事実ですが、逆により研ぎ澄まされ神の知恵が輝き出る姿があります。それは人の力ではなく、神様がこの身を通して示しています。隠し持つのではなく、証していくことが求められます。教皇は「高齢者は孫をひざの上で抱きしめるとき」でもあると訴えています。「ひざの上に座らせること」「だきしめること」「語ること」を成り立たせるのは高齢者でなければできません。そこに多くの実が結ばれ、その実を食する多くの子供たちがいることを忘れないようにしましょう。皆さんは神様に選ばれていること、若い人にはできないことを担っています。年齢を超えて尊敬しあい、神の弟子として選ばれた喜びの知らせを味わい、もうひと踏ん張りいたしましょう。


【聖書朗読箇所】

いのちの源である神よ、

 主イエスはわたしたちに、

 あなたを父と呼ぶことを教えてくださいました。


 主のことばに従い、

 ともに祈るために集まったわたしたちを祝福し、

 聖霊の光りで満たしてください。

集会祈願より


第1朗読 創世記 18章20-32節

 (その日、)主は言われた。

 「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、 と訴える叫びが実に大きい。 わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」

 その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。 アブラハムは進み出て言った。

 「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。 あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。 正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、 あなたがなさるはずはございません。 全くありえないことです。 全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」

 主は言われた。

 「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」

 アブラハムは答えた。

 「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。 もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。 それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」

 主は言われた。

 「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」

 アブラハムは重ねて言った。

 「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」

 主は言われた。

 「その四十人のためにわたしはそれをしない。」

 アブラハムは言った。

 「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。 もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」

 主は言われた。

 「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」

 アブラハムは言った。

 「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」

 主は言われた。

 「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」

 アブラハムは言った。

 「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。 もしかすると、十人しかいないかもしれません。」

主は言われた。

「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」


第2朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 2章12-14節

 (皆さん、あなた方は、)洗礼によって、キリストと共に葬られ、 また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、 キリストと共に復活させられたのです。 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、 神はキリストと共に生かしてくださったのです。 神は、わたしたちの一切の罪を赦し、 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、 これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。


福音朗読 ルカによる福音 11章1-13節

 イエスはある所で祈っておられた。 祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、 わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 そこで、イエスは言われた。 「祈るときには、こう言いなさい。

 『父よ、

 御名が崇められますように。

 御国が来ますように。

 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

 わたしたちの罪を赦してください、

 わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。

 わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

 また、弟子たちに言われた。 「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、 真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。 『友よ、パンを三つ貸してください。 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、 何も出すものがないのです。』 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。 『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、 子供たちはわたしのそばで寝ています。 起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 しかし、言っておく。 その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、 しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 そこで、わたしは言っておく。 求めなさい。そうすれば、与えられる。 探しなさい。そうすれば、見つかる 。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、 門をたたく者には開かれる。 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、 魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、 自分の子供には良い物を与えることを知っている。 まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」


2022年7月15日金曜日

7月17日 年間第16主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 


年間第16主日 C年 2022年7月17日 湯澤神父

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音は、イエス様の一行がマリアとマルタの家を訪問した時の話です。おそらく二人は、イエス様に好意を持っており、喜んで迎えたのでしょう。しかし、実際に受け入れた時に問題が起こります。マルタは、行動的な女性だったのでしょう。一行をもてなそうと考えたようです。部屋を準備したり、お茶などを準備したり、歓迎するには、色々と大変なことがあります。他方、姉妹のマリアは、イエス様の言葉にひかれて、離れられなくなっていたのかもしれません。

  そこで、猫の手も借りたいマルタは、イエス様に言います。「マリアは、わたしだけに働かせて、一向に手伝おうとしていません。手伝うように注意してください」と。どこまで本気だったのか、軽く不満を述べたのか、その辺はわかりませんが、親しさを考えると、軽い感じだったのではないでしょうか。

  ところで、イエス様の時代、律法(神のことば)に関して何が大切かが問題になっていました。つまり、律法を聞き、学ぶことが重要で先か、それとも実践することが重要で先か、という問題です。イエス様の時代は、まず神のことばを聞き、それから実践するというように、聞くことが優先するという考えが主流だったようです。おそらくイエス様もそれに従ったのではないでしょう。ですから、まず大切なことは、マリアのように神のことばに耳を傾けることだということでしょう。これを実践するとなると、様々な条件が係って来て、それこそ心が乱れてしまいます。そんなときも、やはり神のことばに立ち返り、神のことばに戻る他ないのです。

  11月末に、ミサの中のことばが新しく変えられるところがあります。その中に、今現在は、神のことばの朗読の後に、侍者や朗読者が言っている曖昧なことばがありますが、11月以降は、はっきり宣言しなければならなくなるところがあります。第一と第二朗読の後、朗読者は「神のことば」と宣言し、一同は「神に感謝」と応え、福音朗読の後には朗読者が「主のみ言葉」と宣言し、一同が「キリストに賛美」と応えます。

  マリアとマルタの出来事を、こうした具体的な事例に当てはめてみましょう。ミサにおいて私たちは、朗読を聞くのではありません。そこで語られる神様の言葉、キリストの言葉を聞くのです。神御自身が、そしてキリスト御自身が語り掛けられるのです。朗読なら聞き流すことはできるでしょうが、じかに語り掛けられたら黙っているわけにはいません。何らかの反応をします。説教も同じです。それこそ朗読における神とキリストの現存です。まず聞かなければ、相応しい応えは出てきません。そうでないと、応えにはならず、勝手な行動をする人の勝手な思い込みが入り込む余地が生まれるからです。ミサの中で神とキリストの言葉に耳を傾ける大切さを、思い起こしてみましょう。


【聖書朗読箇所】

救いの源である神よ、

  あなたはいつもわたしたちのもとを訪れ、

  語りかけてくださいます。

  神の子として集められたわたしたちが、

  きょう語られるいのちのことばに

  耳を澄ますことができますように。

集会祈願より



第1朗読 創世記 18章1-10a節

 (その日、)主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。 暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。 アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。

 「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。 水を少々持って来させますから、 足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。 せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」 その人たちは言った。

「では、お言葉どおりにしましょう。」

 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。

「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」

 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、 召し使いに渡し、急いで料理させた。  アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。 そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。

 彼らはアブラハムに尋ねた。

 「あなたの妻のサラはどこにいますか。」

「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。

 「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、 そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」


第2朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 1章24-28節

 (皆さん、)今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの 苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。 神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。 世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。 この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。 その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。 このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。


福音朗読 ルカによる福音 10章38-42節

 (そのとき、)イエスはある村にお入りになった。 すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 彼女にはマリアという姉妹がいた。 マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。 「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。 手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。 マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

2022年7月9日土曜日

7月10日 年間第15主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】


年間第15主日     2022年 7月10日    

 “ 私の隣人とはだれですか”             ウルバン神父

ある人はエルサレムからエリコへ下って行った。私は小さい時からこの話を知って、これをちょっと震えながらも、喜んで聞いていた。私達も今覗きながら、 旅する人について行きましょう。

何時間も寂しい砂漠を通る遠い道だった。暫くの間まだあちこち羊の群れに出会ったが、だんだん緑が消えて怖い砂漠に入った。時間が進んでエリコに向かって下り道を進むと、暑さに覆われた。草が一本も見えなくなって、渇きを癒す水もなかった。鳥の鳴き声もなかった。石だらけの狭い道の左右に、高い岩の山ばかりがあった。旅人はもう疲れて、命のない恐ろしい自然を見回しながら、心が震えてきた。突然ひどい叫び声があって、岩の陰から追いはぎが走ってきた。追いはぎはその人を殴りつけ、裸にして、半殺しにしたまま消えてしまった。

意識が戻ったら、体から血と共に命が流れ出るのを知った。ホラ、音が聞こえた、足音だ。司祭が歩いて来た。アア、良かった。ところが、行ってしまった。「せっかく神殿で清められたから、神様に呪われたあの血だらけな者に触れたら、汚されるんだ」と。「ああ、また誰が来る。聖なるレビ人だ」。最後の力で手を上げて「助けて」と言い出したが、その人も血が付かないように白い衣をも持ち上げて、祈りながら行ってしまった。旅人は絶望と暗闇に沈んだ。もう夕方になった。太陽が次第に沈みそうになった。沈けさの中に獣の声が聞こえた。体の上にいっぱい虫がいて血を吸っていた。また音が聞こえた。『タプ、タプ』ああ、ロバだ。良かった。ちょっと覗くと「大変だ。サマリア人だ。今度は殺される」と隠れようとした。足音が近づいて、頭のそばに止まった。体と心が震えた時に優しい声か聞こえた「友よ、もう震えるな。安心して、あなたを助けるよ」と、柔らかい手に抱かれた。水を飲ませて、ひどい傷を油とぶどう酒で癒した後、ロバに乗せて、抱きながらエリコの手前の宿屋に連れて行った。そこで夜中、彼の側にいて居眠りを見守っていた。

その夜は二人にとって恵みの夜となった。二人は一生失わない友を得たのだ。隣人となるのは実に美しい事です。傷を包帯するだけではなく、相手に希望を与える人になる。不信頼は深い信用に、暗闇は光に、孤独は暖かさに変わる。隣人に手を伸ばすのは、美しい心と心の出会いです。二人の心の中の喜びはもう奪われることはない。私の隣人、あなたの隣人はどこにいるのでしょう。

何十年前の事でした。二人の若者が朝早く道端に座っていた。16才の私と私の兄でした。夏休みの時、何百㎞離れた古里へ帰ろうとしたが、お金はなかった。一日歩いた後どこかの草の中で寝ていた。夜に雨が降ったが、いま道端で、腹の餓を我慢しながら、止まってくれる車を待っていた。「おお、車が止まっている」と叫んで二人は走っていた。すごいアメリカンの車でした。中には若い黒人の軍人いた。「Oh boys, come in please」と呼ばれた時、私たちは急いで車に乗った。とっても嬉しかったが、そのうちに腹が「ググ」となった。若い軍人は袋に手を入れて、でっかいサンドを出した。ワァァ、ステーキサンドウイッチでした。彼を見つめながら美味しく食べていた。ただの一回の出会いでした。若い黒人の軍人は私達を忘れたと思うが、私の心の中に彼はまだ生きています。


【聖書朗読箇所】


いつくしみ深い父よ、、

  人とのかかわりを見失い、

  愛に飢え渇く世界に、

  主イエスは、

  ことばと行いをとおして愛をもたらしてくださいました。

  わたしたちが、きょう語られるキリストのことばを、

  誠実に受け止めることができますように。

   集会祈願より



第1朗読 申命記 30章10~14節


 (モーセは民に言った。あなたは、)あなたの神、主の御声に従って、 この律法の書に記されている戒めと掟を守り、 心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰(りなさい)。

 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。 それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。 海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。




第2朗読 コロサイの信徒への手紙 1章15~20節


 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、 王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。 つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 御子はすべてのものよりも先におられ、 すべてのものは御子によって支えられています。 また、御子はその体である教会の頭です。 御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。 こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、 その十字架の血によって平和を打ち立て、 地にあるものであれ、天にあるものであれ、 万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。




福音朗読 ルカによる福音書 10章25~37節


 (そのとき、)ある律法の専門家が立ち上がり、 イエスを試そうとして言った。 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスが、「律法には何と書いてあるか。 あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 彼は答えた。 「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、 あなたの神である主を愛しなさい、 また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。 「正しい答えだ。それを実行しなさい。 そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、 「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 イエスはお答えになった。 「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、 追いはぎに襲われた。 追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、 半殺しにしたまま立ち去った。 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、 その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、 その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、 その人を見て憐れに思い、 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、 宿屋に連れて行って介抱した。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、 宿屋の主人に渡して言った。 『この人を介抱してください。 費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、 だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。 「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。 「行って、あなたも同じようにしなさい。」


2022年7月2日土曜日

7月3日 年間第14主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 年間第14主日 2022年7月3日  レイ神父


この週の福音書でイエスは一つの光景をご覧になります。サタンが稲妻のように天から落ち、敵はイエスの教会から遣わされた布教者たちの教えに屈服しました。

神聖な裁きによる収穫で民族を集め始めるようにとイエスから派遣された(イザヤ27:12-13,ヨエル書4:13)その72名は教会を受け継ぐ使命の象徴となりました。その72名の使命を継承し、教会は神の国の到来を宣言して、イエスの平和と憐れみの祝福を地上全ての家々、イエスが訪れようとする全ての町や場所に提供します。

今日の主の語調は厳粛です。それは教会の教えの中で「神の国が近づいた」、誰にとっても決断の時はやってきたからです。イエスが遣わされた使者たちを受け入れない人々はソドムのような運命となるのです。

しかし信じる者は、パウロが今週の書簡で祝福する「神のイスラエル」、それは美しい第一朗読で祝う母なるシオンの教会のその乳房からの滋養と、平和、憐れみ、保護を見出すのです。

教会は新しい信仰の家族であり(ガラテヤ書6:10)そこで私たちは永遠に持続する新たな名を受けますが(イザヤ66:22)、それは天に書き記されています。

今週の詩編では、私たちは救いの歴史を通して神の「人々におこなわれたおそるべきわざ」を歌います。しかし全てのみ業のうち、海を乾燥した大地に変えた事とはパウロが「新たな創造」と呼んだ私たちの期待と過ぎ越しへの準備そのものに違いありません。

そして出エジプト記の時代の人々が荒野の蛇やサソリから守られたように(申命記8-15)神はその教会に「敵の全ての力」を上回る力をお与えになりました。この世の荒野を進んでいくとき、なにものも私たちを傷つけません。収穫の主を待ち、そして地上の全てのものが神に向かって喜びの声をあげる時を待ちながら、神の栄光を褒め歌って参りましょう。


【聖書朗読箇所】

救いの源である神よ、

  あなたは分裂に悩む世界にひとり子を遣わし、平和と一致の道を示してくださいました。

  この集いに招かれた一人ひとりが、新しい心で救いのことばを聞くことができますように。

集会祈願より


第1朗読 イザヤの預言 66章10-14c節

エルサレムと共に喜び祝い 彼女のゆえに喜び躍れ 彼女を愛するすべての人よ。

彼女と共に喜び楽しめ 彼女のために喪に服していたすべての人よ。

彼女の慰めの乳房から飲んで、飽き足り 豊かな乳房に養われ、喜びを得よ。

主はこう言われる。

見よ、わたしは彼女に向けよう

平和を大河のように 国々の栄えを洪水の流れのように。

あなたたちは乳房に養われ 抱いて運ばれ、膝の上であやされる。

母がその子を慰めるように わたしはあなたたちを慰める。

エルサレムであなたたちは慰めを受ける。

これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ あなたたちの骨は青草のように育つ。

主の御手は僕たちと共にあ(る)ことがこうして示される。


第2朗読 使徒パウロのガラテヤの教会への手紙 6章14-18節

 (皆さん、)このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、 誇るものが決してあってはなりません。 この十字架によって、世はわたしに対し、 わたしは世に対してはりつけにされているのです。 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。 このような原理に従って生きていく人の上に、 つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。 わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。

兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、 あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。


福音朗読 ルカによる福音 10章1-12,17-20節

 (そのとき、)主はほかに七十二人を任命し、 御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。 そして、彼らに言われた。 「収穫は多いが、働き手が少ない。 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。 行きなさい。 わたしはあなたがたを遣わす。 それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。 財布も袋も履物も持って行くな。 途中でだれにも挨拶をするな。 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。 もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。 働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。

 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、 広場に出てこう言いなさい。 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。 しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。 「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、 わたしはあなたがたに授けた。 だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。 むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

2022年6月22日水曜日

6月26日 年間第13主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてお送りします。



【福音メッセージ】 


年間第13主日 2022年6月26日  

「固定された顔」 松村神父

 時々事故か何かで鞭打ちにあって首を固定されている人を見かけます。今だから告白すると、小さい頃はよくそのような人を見ると、後ろに回り込みいたずらをしたものです。本人にとっては、一方向にしか顔を向けられない辛さと、他の人と同じ方向を向けない悔しさなどあったことでしょう。そのリアクションは、子供からしたらまた楽しいいたずらでした。

 悪いことをしたなぁと、一瞬は思った記憶があります。さすがに今はしていませんが。今日の聖書冒頭のイエスの態度「決意を固められた」とは原文ギリシャ語を直訳すると「顔を固定させた」と訳するらしい。もともと顔は人の命!人格の表れと言われていました。しかし、その顔を自由がありながらも、あえて一方向に固定させなければならないのはどれだけの覚悟が必要だったのでしょうか。イエスの受難と死に向けさせたものの力は、何にも勝るものでしょう。それは多くの障害があっても揺らぐものではないことが、サマリアでの迫害から察しがつきます。人である弟子たちは、私たちと同様な態度を取ります。“腹を立てる”という行為です。しかし、覚悟をもって進むイエスにはサマリア人への裁きもできたはずですが、迫害するものへの仕打ちではなく、身内である弟子たちの戒めによって、愛を通してサマリア人を受け止めていったのではないかと感じます。そこでその身内の弟子に対して覚悟したイエスの教訓が今日語られます。3つの覚悟はとても厳しいものです。

 第一は、安住するところがないということです。神の国を目指すには休みなどありません。「それは愛することは休めますか?」という問いと同じかもしれません。安息日に命を救うことができないならばそれは神の望みではないからです。体は休ませなければならないということとの間で、私たちは悩むべき課題が与えられますが、それでも動く先に「顔を固定」させなければ、油断すれば休む私たちであることは、イエスはよくわかっているのです。

 第二は、肉親より福音宣教を重んじること。私たちは自分の社会的生活を中心において生活を組み立てています。教会で生活している人は修道者・聖職者だけで、多くの信徒は地域社会の中で生きているので、どうしても社会制度的な中で生きざるを得ません。家族や家庭はもっとも小さな社会制度です。そこに目が行くのは当然ですが、それをも巻き込み福音に「顔を固定」させなければならないというのが弟子に与えられた使命なのです。

 第三は、振り向く暇も作ってはいけないということ。これは究極的な使命かもしれませんが、徒競走の時、スタート合図が出てから「一旦タイム」と言えない事と同じです。走り始めたら完成するまでひたすら歩み続けることが必要なのです。これこそイエスとくびきをともにするということでもあります。イエスのくびきは軽く担いやすいと言われていますから、それを担うのですが、ゴールの見えない状態の中で、このくびきを背負い「顔を固定」されることへの困難さは、余程の愛の中にいることを実感できるか、福音の喜びに胸が躍らなければ実行へとつながっていきません。となると、改めて「愛」と「福音」をかみしめて喜びにしていく努力が求められているということです。まず、身近な喜びをしっかり噛みしめていこうではありませんか。そうすれば「顔が固定」されても平気になるのでしょう。



【聖書朗読箇所】


いつくしみ深い神よ、

あなたはキリストをとおして、

すべての人を救いへと招いておられます。

ここに集められたわたしたちを力強く導いてください。

いつもキリストに従って歩むことができますように

集会祈願より



第1朗読 列王記上 19章16b,19-21節


 (その日、主はエリヤに言われた。) 「ベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。  エリヤはそこをたち、十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているシャファトの子エリシャに出会った。エリシャは、その十二番目の牛と共にいた。エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套を彼に投げかけた。エリシャは牛を捨てて、エリヤの後を追い、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言った。 エリヤは答えた。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と。

 エリシャはエリヤを残して帰ると、 一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やして その肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。 それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。


第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 5章1,13-18節


 (皆さん、)自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。



福音朗読 ルカによる福音書 9章11b-17節


 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。

 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、 彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

2022年6月18日土曜日

6月19日 キリストの聖体

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。

 


【福音メッセージ】

キリストの聖体 2022年6月19日  

“あなた方が彼らに食べさせなさい” ウルバン神父


もう47年前の昔の事でした。その時20人位の12才から15才までの女の子達、ガールスカウトと共に韓国へ行きました。朝鮮戦争はもはや数年前に終わったのですが、森の中で隠れながら死を待っているライ病人は、まだあちこち見つけられた。フランシスカンの兄弟は、その病人の為に深い田舎で住まいを作って、一人の天使のシスターと共に世話をした。川の向こうから私達は暫くの間祈りながら、その村を眺めた。川を渡って、不安な気持ちで皆に捨てられた病人の村に近づいた時、ある藁小屋から人が出てきた。ある女の子がその姿を見て、ショックで倒れてしまった。

午後になって、別れの時が来ました。村の人は集まっていた。村の人たちを見た時、女の子達は自分の貧しさを感じた。何も助ける事も、上げる事も出来ない事を非常に悲しんでいた。突然、自分の前にいる人が病人だと忘れて、一人の子、また一人、後に皆は走り寄って来て、病人の両手を取って、泣きながらお別れをした。本当に何も出来なかったでしょうか。女の子達は気付かなかったが、最高の事をした。心から溢れる暖かさと愛を、村の人に与えたのです。餓えている心に食べ物を与えた。周りの人に無視され、捨てられたこの人達の心の乾きを、自分の涙で満たしたのです。感動的でした。その日その出来事を、今日まで忘れる事が出来ませんでした。

これからイエス様の所へ行きましょう。イエスは、ご自分の周りのおびただしい群衆を見ていた。もう三日間、付いてきました。食べ物はもうないし、疲れ果て、倒れるような羊のように見えた。イエスは彼らの餓えを深く感じた。体の餓えだけでしょうか。いえ。イエスは群衆を見回しながら、人の顔、人の目の中にもっと深い餓えを見ました。生活の厳しさと重荷に力が消え、心が餓えていた。その時、弟子たちに「あなた方が彼らに食べさせなさい」と言われた。それで、弟子たちは男の子を引っ張って来た。かわいそうな子。自分のパンを隠したのに、見つけられた。

ところが、イエスに優しく見つめられた時、一つ、また一つのパンを渡した。最後のパンを手に持っていた時、戸惑って、困った顔をした。「これは最後のパンだ。僕も食べたい」と。そのパンを手に持って、自分を囲んでジッと眺めた子供達の大きな目を見た時、心が打たれた。その時さっと手を伸ばして、最後のパンをイエスの手に入れた。イエスは微笑みながらその最後のパンを受け取って、この小さなパンで何千人を食べさせる事が出来た。男の子がそれを見て、最も喜んでいた。私達にも声が聞こえるでしょうか、「ご覧なさい、餓えている人が多い。あなたも食べさせなさい」と。

ある日、若い母親が薄暗い聖堂に入って来た、手にバスケットを持って。その中に泣いている子供がいた。母親はバスケットを聖櫃の前に置いて、暫く静かに祈っていた。そのうちに、泣き声が消えてしまった。祈った後、母親はまたバスケットを取って帰ったが、子供はもう静かに寝ていた。今日も御聖体ランプの光が輝いて、私達を呼んでいます。「私はいつもあなた達と共にいる。子よ、あなたの為に私の心の門は開いている。来て、昼でも、夜でも、私はあなたを待っている」と。


【聖書朗読箇所】

恵み豊かな父よ、

御子キリストは、その死を記念するとうとい秘跡を教会に残してくださいました。

主のからだを受け、救いの力にあずかるわたしたちが、主の死を告げ知らせることができますように。

集会祈願より


第1朗読 創世記 14章18-20節

いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。

彼はアブラムを祝福して言った。

「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。

敵をあなたの手に渡されたいと高き神がたたえられますように。」

アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。


第2朗読 コリントの信徒への手紙一 11章23-26節

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。

すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、

「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。


また、食事の後で、杯も同じようにして、

「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。


だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。


福音朗読 ルカによる福音書 9章11b-17節

イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。


日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。

「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。

わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」


しかし、イエスは言われた。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。

「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、

わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」


というのは、男が五千人ほどいたからである。

イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。


弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。


すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、

裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。


すべての人が食べて満腹した。

そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

2022年6月11日土曜日

6月12日 三位一体の主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ 湯澤神父】


2021年6月12日 三位一体の主日

兄弟姉妹の皆様

  「三つにて一つくしき神、教えのままに我は信ず」。覚えているでしょうか。『カトリック聖歌集』の232番の出だしです。まさに私たちは、三位一体の神は神秘ですからとにかく教えられたままに信じなさい、と教わりました。

  神秘、その通りでしょう。どう考えても三つは一つになりませんし、一つは三つになりません。しかし、この教えの背景となっているものを考えてみましょう。背景には、神父たちが学ぶスコラ哲学、スコラ神学にあります。そして、この基本は存在論という難しい議論です。古代のギリシア人たちが探究したのは、「あるとは何だろうか」ということでした。そして、あるということはどうしても「あるもの」の「ある」の研究になります。とすると、存在の根源である神様も、あるものということになります。つまり、父と子と聖というと、三つのあるものということになるのです。しかし、三つはどうしても一つになりません。とはいえ、三位一体の神様ですから、三つが一つ、一つが三つという話になり、それは神秘で、教えられたままに信じなさいということになります。

  では教会はこのようにだけ神様について考えているのでしょうか。実は、そうでもないのです。例えば、聖家族の原型は三位一体の交わりにあります。つまり、神様を交わりとして見る見方です。福音書を書いたヨハネは交わりとして神様を見ています。ヨハネが意識していた否かは明白ではありませんが、互いに愛し合う愛の原型が三位一体の神様にあるなら、その愛は一つになる愛です。イエス様は、「父が私を愛したように、私もあなた方を愛してきた。私の愛に留まりなさい」、また「互いにありし合うこと、これが私のおきてである」。「友のために命を捨てる、これに勝る大きな愛はない」とおっしゃっていいます。御子の御父への愛は、御父の御子への愛ですが、イエス様は、同時に弟子たちとの間に成り立つように願っています。この「愛・愛する」という言葉は、愛する者のために愛する者にとっての最も善いものを選び、与えようとする愛を意味しています。つまり、御父は御子に対して最高のものを願い、最高のものを与えようとします。同じようにそれに私たちをそれに加えようともしています。それは、御父と御子が一つになるような愛です。ですから、私たちも御子と御父と一つの成る愛の内に入れてもらえるのです。

  ヨハネは、その第一の手紙の中でこう述べています。御子を伝えるのは、あなた方も「私たちと交わりを持つようになるためです」。「私たちの交わりとは、私たちが父とその子イエス・キリストとに交わることです」。まさに私たちが生きている神様の交わり、御父と御子の交わりに私たちも加えていくことなのです。だから私たちは、神様を伝えるのです。神様まで含めた大きな愛の交わりこそ、三位一体の交わりの広がりです。神様を交わりとして見直すとき、三位の交わりに留まらない大きな交わりを想像することができます。こうして、神様のことを交わりとして見ることは大切なことではないでしょうか、そして、その神様を伝え、その交わりを広げることも。 湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


聖なる父よ、

  あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、

  神のいのちの神秘を示してくださいました。

  唯一の神を礼拝する私たちが、

  三位の栄光をたたえることができますように。

   集会祈願より




第1朗読 箴言 8章22~31節


 (神の知恵は語る。)

「主は、その道の初めにわたしを造られた。

いにしえの御業になお、先立って。

永遠の昔、わたしは祝別されていた。

太初、大地に先立って。

わたしは生み出されていた

深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。

山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが

わたしは生み出されていた。

大地も野も、地上の最初の塵も

まだ造られていなかった。

わたしはそこにいた

主が天をその位置に備え

深淵の面に輪を描いて境界とされたとき

主が上から雲に力をもたせ

深淵の源に勢いを与えられたとき

この原始の海に境界を定め水が岸を越えないようにし

大地の基を定められたとき。

御もとにあって、わたしは巧みな者となり

日々、主を楽しませる者となって

絶えず主の御前で楽を奏し

主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し

人の子らと共に楽しむ。




第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~5節


 (皆さん、)わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、 神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。 わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。 わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。




福音朗読 ヨハネによる福音書 16章12~15節


 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)言っておきたいことは、まだたくさんあるが、 今、あなたがたには理解できない。 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。 その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 その方はわたしに栄光を与える。 わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。 だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」


2022年6月4日土曜日

6月5日 聖霊降臨の主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】

2022年、6月5日、ペンテコステ祭

 聖霊降臨で聖霊を受けた使徒たちがまず最初に行ったことは、イエスに続いて神の国を告げ知らせることでした。漁師や徴税人たちが演説や説教をする者たちとなり、聖霊の力で、使徒たちの言葉はただ一回の福音宣言で三千人の人々の信仰に火をつけたのです。聖霊の圧倒的な力は使徒たちにイエスからの約束を果たさせました。そして使徒言行録は、使徒たちが奇跡やさらにもっと力強い無欲の生活の新しい道を含めて、偉大な行いを使徒たちがやり続けたことを私たちに語り続けるのです。自分本位の罪の束縛はとかれ、聖霊は私たちが再び罪に縛られることはないと約束します。

 聖霊降臨がやがてやってくることを知っていたイエスは弟子たち(私たちにも)に聖霊は父と私たちを結びつけるために働きつづけるのだと教えます。イエスは人類を十字架上のご自身の中に受け入れ、完全に聖なる、完全な人間として天に昇り、神の存在、そのものに私たちが入ることを許されました。イエスは、聖霊は私たちの内におり、そしていつも共にいる-聖霊の存在は、私たちに心を騒がせる必要はないことを確信させる-と約束されます。

 神学的な言葉では私たちは制限されているものの、神の三位一体に与りイエスと聖霊を通し、父である神を知り愛するようになります。ペンタコステという言葉は、父と子と聖霊がどのようにして完全に調和して互いに在るかを表すのに用います。そして今はもう、聖霊が私たちの内に宿るのですから、私たちもまた神の内に住むようになって行くのです。イエスがトマスに語ったように、父の家に場所を用意しにイエスは行かれたのです。それは用意され待っており、聖霊の導きにより私たちはそこへ向かうのです。

 これが私たちへの遺産です。イエスがなされている仕事にイエスと共に参加するためです。聖霊は、私たちを教え、慰め、そして私たちが父と子と聖霊に招かれているという事を常に指し示しています。私たちはクリスチャンとして、私たちの遺産は富や物の蓄積ではない事を知っています。一番大切な遺産はイエスとの関係です。弟子たちに約束なされた聖霊を通してくる関係です。この約束は聖霊降臨で実現され、そして今日も続いているのです。



【聖書朗読箇所】


すべての人の父である神よ、

  きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、

  あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。

  聖霊を世界にあまねく注いでください。

  教会の誕生にあたって行われた宣教の働きが、

  今も信じる民を通して続けられ、

  豊かな実りをもたらしますように。

   集会祈願より




第1朗読 使徒言行録 2章1~11節


 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、 信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。 そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 人々は驚き怪しんで言った。 「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。 また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」




第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章8~17節


 (皆さん、)肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。 キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。 しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。 この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 もし子供であれば、相続人でもあります。 神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。 キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。




福音朗読 ヨハネによる福音書 14章15~16、23b~26節


 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。) 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。 父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。 わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。 あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、 わたしをお遣わしになった父のものである。

 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、 あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。



2022年5月27日金曜日

5月29日 主の昇天

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】


2021年5月29日 主の昇天の主日

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様


  今日の第一朗読は、ルカが描いた『使徒言行録』の箇所で、イエス様が天に昇った後の出来が事が描かれています。ところが、『福音』朗読では、イエス様の宣教活動の終わりが描かれています。つまり、第一朗読では、後で起こった出来事が、福音朗読では先に起こっている出来事が朗読されます。先のものが後になり、後のものが先になる、いわば逆転現象が起きています。ですから、かえってその違いを意識することができます。

  福音書では、イエス様は、ご自分の宣教活動について説明した後、エルサレムを離れないように命じています。それは、聖霊を受けるためでした。他方、第一朗読では、出かけていくように勧めています。それは、聖霊を受けるからです。福音書では、「あらゆる国の人へ」と福音宣教を命じていますが、その地域は抽象的に語られています。しかし、第一朗読では、「エルサレム、ユダヤ、サマリア、地の果てまで」とより具体的な地名を挙げています。更に、『使徒言行録』の内容を見ると、エルサレムから始まる福音宣教は、ステファノの出来事を介してサマリアでの宣教に移り、最終的にフィリポが当時の地の果てと思われていたエチオピアの高級官僚に福音を伝えることで、より具体的になっています。そして更に、スペインを目指したパウロを考えるにいれると、その広がりが、より現実味を帯びてきています。

  二つの朗読を結びつけているのは、聖霊の授与による福音宣教です。聖霊降臨の出来事を介して二つの朗読は、エルサレムに留まるか、出発するかが異なりますが、結局は宣教に出かけるよう呼びかけているのです。ここで面白いのは、二人の人、天使の存在です。おそらく空の墓にいた天使たちでしょう。二人は弟子たちに「なぜ天を見上げて立っているのか」と注意しています。今日的な言い方で表すと、「なぜボケーっと立っているのか」と注意していると理解していいでしょう。弟子たちは、強く福音宣教へと促されています。

  福音書では、福音宣教への促しは、イエス様自身がしていますが、その促しは「食事を共にしていた時に」です。これはミサを暗示していると言えるでしょう。そして、ミサと福音宣教が密接に結びついていることを示しています。『使徒言行録』では、来週記念する聖霊降臨、つまり聖霊の働きと福音宣教が、『福音書』より密接に結び付けられていると言えるかもしれません。それに引き換え、『福音書』ではミサにより密接に結びつけられていると捉えることができます。

  さて、私たちは、ミサに出た時に福音宣教を意識するでしょうか。自分が派遣されていると意識するでしょうか。聖霊の働きだけではなく、ミサにおいてもイエス様は、その都度、私たちを福音宣教に派遣しているのです。このことを私たちは強く意識したいものですね。

湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


全能の神よ、

  あなたは御ひとり子イエスを、

  苦しみと死を通して栄光に高め、

  新しい天と地を開いてくださいました。

  主の昇天に、わたしたちの本来の姿が示されています。

  キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、

  ともに永遠のいのちに入らせてください。

   集会祈願より




第1朗読 使徒言行録 1章1~11節


 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、 イエスが行い、また教え始めてから、 お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、 天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

 イエスは苦難を受けた後、 御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、 四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、 父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、 あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 さて、使徒たちは集まって、 「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、 この時ですか」と尋ねた。 イエスは言われた。 「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、 あなたがたの知るところではない。 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、 また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、 雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 イエスが離れ去って行かれるとき、 彼らは天を見つめていた。 すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。 あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、 天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」




第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章24~28節、10章19~23節


 キリストは、まことのものの写しにすぎない、 人間の手で造られた聖所にではなく、 天そのものに入り、 今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。 また、キリストがそうなさったのは、 大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、 度々御自身をお献げになるためではありません。 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。 ところが実際は、世の終わりにただ一度、 御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、 現れてくださいました。 また、人間にはただ一度死ぬことと、 その後に裁きを受けることが定まっているように、 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、 二度目には、罪を負うためではなく、 御自分を待望している人たちに、 救いをもたらすために現れてくださるのです。

 それで、兄弟たち、 わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。 イエスは、垂れ幕、 つまり、御自分の肉を通って、 新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。 更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、 心は清められて、良心のとがめはなくなり、 体は清い水で洗われています。 信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 約束してくださったのは真実な方なのですから、 公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。




福音朗読 ルカによる福音書 24章46~53節


 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「聖書には)次のように書いてある。 『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、 その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。 エルサレムから始めて、 あなたがたはこれらのことの証人となる。 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。 高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、 手を上げて祝福された。 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。