2021年5月22日土曜日

聖霊降臨の主日

 湯澤神父様の「福音への一言」を聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音への一言 湯澤神父】


2021年5月23日 聖霊降臨の主日


✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  『聖書と典礼』の裏表紙の「叙唱の味わい」の中で、聖霊降臨は過越の神秘の完成、復活節の五十日の締めくくりであると書かれています。洗礼を受けたキリストに注がれた聖霊が、キリストの業を受け継ぐ弟子たちにも注がれたことを記念し、そしてまた一つの信仰のうちに一つの共同体を作るとも書かれています。

  狭い意味での受洗者の初聖体の準備の期間であったものが、復活祭の洗礼の約束の更新の準備という理解にまで引き延ばされた四旬節までを視野に入れて全体を見通してみると、より深い世界が広がってきます。つまり、新な洗礼と洗礼の約束の更新を頂点にした前後の約五十日間ずつは、灰の水曜日から聖土曜日までの洗礼の準備の期間と復活祭から聖霊降臨までの新たな出発への準備の期間という二段階の準備の期間と理解できます。こうした意味合いでこの期間を意識して過ごそうとしましたが、今年もコロナのために中断せざるを得なくなってしまいました。

  しかし、こうした意味を踏まえて聖霊降臨の意味を見直すと、堅信の秘跡の意味の再確認につながるのではないでしょうか。聖霊を受けてキリストの復活の証人として派遣されていく、自分たちのキリスト者としての使命の再確認です。つまり、毎年灰の水曜日から始まるこの期間の終わりに、私たち自身も、使徒たちがこの世に派遣されたように、今日のこの世にキリストの復活の証人として派遣されているということを新たにするのです。その使命は、三つの朗読と叙唱にも表れています。私たちの共同体は、その始まりから御父である神を知らせ、キリストの復活を告げ知らせ(宣教する使命:ケリュグマ)、一つの信仰のうちに集まり、同じ信仰者を集め(共同体を作る使命;コイノニア)、キリストを通して具体的に示された在り方を生きる(仕える使命;ディアコニア)のです。

  この使命に生きるとき、忘れてはいけないことがあります。福音の中でキリストが述べているように、私たちには常に派遣された方が身近におられるということです。彼は、弁護者と言われていますが、私のそばに御父と御子によって派遣された方なのです。この方は、キリストが御父から受けたそのすべてを譲られている方です。真理の霊とも呼ばれる聖霊は、共にいてすべてを教えてくださいます。こうして私たちはいつどこにいてもどんな状況にあっても孤立していません。それは、この方が私たちにキリストの真の姿を見させてくださると同時にキリストを共にいさせてくださるからです。更に、そのキリストを通して御父である神とも共にいさせてくださいます。私たちはこれほど支えられているのですから、恐れることなくキリストから委ねられた使命に勇気をもって生きていきましょう。コロナの猛威に晒されている今、自分が生活しているこの困難な時代に。

湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


すべての人の父である神よ、

きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、

あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。

聖霊を世界にあまねく注いでください。

教会の誕生に当たって行われた宣教の働きが、

今も信じる民を通して続けられ、

豊かな実りをもたらしますように

   集会祈願より


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第1朗読 使徒言行録 2章1~11節


五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、

彼らが座っていた家中に響いた。


そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、

ほかの国々の言葉で話しだした。


さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、

信心深いユダヤ人が住んでいたが、


この物音に大勢の人が集まって来た。

そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、

あっけにとられてしまった。

人々は驚き怪しんで言った。


「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、

また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、

フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。

また、ローマから来て滞在中の者、

ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、

クレタ、アラビアから来た者もいるのに、

彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」



第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 5章16~25節


わたしが言いたいのは、こういうことです。

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、

決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。

肉と霊とが対立し合っているので、

あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。


しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。

肉の業(わざ)は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、

偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、

ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、

このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。


これに対して、霊の結ぶ実は

愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

これらを禁じる掟(おきて)はありません。

キリスト・イエスのものとなった人たちは、

肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、

霊の導きに従ってまた前進しましょう。



福音朗読 ヨハネによる福音書 15章26~27、16章12~15節


<そのとき、イエスは弟子たちに言われた。>

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている

弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、

その方がわたしについて証(あかし)しをなさるはずである。

あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。


言っておきたいことは、まだたくさんあるが、

今、あなたがたには理解できない。

しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、

あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。

その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、

また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。


その方はわたしに栄光を与える。

わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。

父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。

だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、

あなたがたに告げる』と言ったのである。」 

2021年5月15日土曜日

5月16日 「主の昇天」

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 松村神父】

主の昇天 福音のメッセージ

今日の福音の箇所(マルコ16:9~)は、マルコ福音書の福音記者が書いたものではないとされているが、それでも聖書に記載されることが許されているということは、また違う重要性も持つということなのだろう。そこで少し紐解いてみたい。

イエス・キリストの生涯を記す共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ福音書)はイエスの公生活を中心に置いた史実的視点から、その事実をもとにそれぞれの福音記者がイエスのメッセージを紐解いている。しかし、今日の箇所はイエスが確かに語っているものの、その力点は特に弟子が主人公となっているところ。つまり弟子を通して行われる教会の動きとその使命が、福音書に追記されたほど重要なものと理解されている。この箇所はたしかに古代の写本からは欠落されて記載が見つけられない。それでも歴代の教父たちは聖書として認めてきたことからも、追記者からの残された私たちへのイエスの強い意志の伝達が感じられる。それは共同体による福音宣教。今日の福音をのぞいてみると「全世界に行って」「新しい言葉を語る」「言葉は真実である」と語られる。その中でも「新しい言葉」とは何か?私たちは目から鱗が落ちる教えを何度もイエスのメッセージから聞いてきたのではないか。“人類への神の介入”、“イエスの社会の眺め方”、“イエスの思う関わりの優先順位”、“信仰による救い”、などなど人間では到達できない救いと主の平和を勝ち取る出来事を挙げればきりがないが、その中でも大切なことは私たちの日常生活で体験した神様との救われた関わりこそが、“真実味”となって、自信を込めて語れる言葉だろう。教えられた教科書を更に教えるのではなく、体験したことを自分の物にした生の声として届けること。それは他の人にとってそれが新しい言葉なのだろう。でも自分勝手に語るのではなく、まず咀嚼し、目の前の子どもでもわかるように提供することが大切なのだ。「至る所で宣教」するとは、「誰にでも」も含まれているからである。だからそれなりの私たち自身の積み荷の準備が必要。私たちはまず自分の心に一つ一つのイエスのメッセージを落とし込むことが必要となる。課題は大きい。まずはマルコ福音書16章8節まで書かれていることを土台にイエスの姿から救いを思い起こすこと。葬儀に参列した時には私たちは故人の功績を思い起こすでしょう。イエスについても同じ。

主の昇天は私たちへの遺産贈与の時。キリストが私たちに託し、私たちはキリストから託されたことを緊張感をもって受け止めていければと思う。背伸びするのではなく、私たちの中に既にあるイエスとの関わり事を語ることを多くの人が待っているはず。さぁ、イエスからいただいた恵の遺産で、人の目の鱗を取ってみようではないか。


【聖書朗読箇所】


全能の神よ、

あなたは御ひとり子イエスを、

苦しみと死を通して栄光に高め、

新しい天と地を開いてくださいました。

主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています。

キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、

ともに永遠のいのちに入らせてください。

   集会祈願より


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第1朗読 使徒言行録 1章1~11節


テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著(あらわ)して、

イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに

聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までの

すべてのことについて書き記しました。


イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、

数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって

彼らに現れ、神の国について話された。

そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。

「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、

父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、

あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」


さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために

国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。

イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった

時や時期は、あなたがたの知るところではない。

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。

そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、

また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」


こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、

雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。

イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。

すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。

あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、

天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」



第2朗読 エフェソの信徒への手紙 4章1~13節


そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。

神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、

一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。

愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、

霊による一致を保つように努めなさい。


体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、

一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。

主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、

すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、

すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。


しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、

恵みが与えられています。

そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、

人々に賜物を分け与えられた」と言われています。

「昇った」というのですから、低い所、

地上に降りておられたのではないでしょうか。

この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、

もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。


そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、

ある人を牧者、教師とされたのです。

こうして、聖なる者たちは奉仕の業(わざ)に適した者とされ、

キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、

神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、

キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。



福音朗読 マルコによる福音書 16章15~20節


それから、イエスは<11人の弟子に現れて>言われた。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。

信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

信じる者には次のようなしるしが伴う。

彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。

手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、

病人に手を置けば治る。」

主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。


一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。

主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、

それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

2021年5月8日土曜日

復活節第6主日

 ウルバン神父様の復活節第6主日 福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ from 】

復活節 第6主日 2021. 5. 9 ウルバン神父

“あなたがたは喜びに溢れるように”

私が30才の時でした。日本語学校が終わった頃、日本海の海岸にある羽幌町に新しい教会ができました。“安心しなさい。信徒はほとんどいないから、説教も要らないし、ゆっくりあたらしい生活と日本語の言葉に慣れればよい”と励まされて、そこへ送られました。それでも不安のうちにそこに着きました。

ところが3日後の朝、小さい聖堂は信者ではない若者に溢れていました。2、3人の信者の内に22か23歳ぐらいの女性、中学校の先生、がいました。遠い田舎から来たそうですが、まじめな顔でごミサに参加したが、そのあと、皆と交わらないで、間もなく消えてしまった。何週間が経った後、彼女は見当たりませんでした。あの先生はどうなっているのでしょうかと思って人に聞いたのですが、彼女はこう言ったそうです。“教会をやめた。もう行きません。あまり掟と決まりに縛られて、何もできないことになった。だから教会をやめた。それでやっと自由になった”。かわいそうな娘だなあ。むなしい生活があなたを待っている。

もう58年前も昔のことになったが、今まで彼女を忘れませんでした。自由と求めた幸せを見つけたのでしょうか? ある時洗礼を受けたが、厳しい神様だけで、自分を愛するイエス様に会えませんでした。主のほほえみを見たことがないでしょう。

古い公教要理に育てられたと思います。その十の掟を厳しい重荷と心の責めのように感じたのではないでしょうか。”父母を敬うべし、殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、偽証するなかれ、など“。それは本当に厳しい神様の厳しい定めでしょうか。かえって神様はこう言うのではないでしょうか。”わが子、見よ、私の美しい宝をあなたの弱い手に入れる。家族、命、生、財産、真実か名誉を。それを受け取って喜んでほしい。大切にしなさい。多いに喜んでください。私の愛のプレセントなのです“。

実に、私たちが掟を守ることより、掟が私たちを守ってくれる。暖かい巣が小さい鳥の命を守っているように、雌鶏の翼が可愛いひよこを守って温めるように。巣は狭いものですが、命に溢れている。雌鶏の羽も責めるのではなく、かえってそこには安心感と自由がある、母のあたたかい腕の中のように。

 “掟”はいのちへの道しるべ、神様の愛の畑の花で、傷をつける茨ではない。“私の愛に留まりなさい、喜びに溢れるように”。それは主の最後の望み、最後の願いでした。わああ、夢のようなすごい話ではないでしょうか。確かに、どれほどの力を持っても、このような愛を自分の内から絞り出すことはできません。これは上からいただくものです。”間もなく、あなたがたは上からの力を得る“。

ペンテコステの日は近い。心を開き、多いに望みましょう。聖霊は愛するたまものを与える。

”私の喜びがあなたがたの内にあり、またあなたがたが喜びに溢れるように。“


【聖書朗読箇所】

いのちの源である神よ、

  わたしたちが愛に生きようとするとき、

  あなたはわたしたちとともにいてくださいます。

  週の初めの日に主キリストの復活を祝うわたしたちが、

  愛のおきてのうちにまことの喜びを見いだすことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 使徒言行録 10章25~26、34~35、44~48節


ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、

足もとにひれ伏して拝んだ。ペトロは彼を起こして言った。

「お立ちください。わたしもただの人間です。」


そこで、ペトロは口を開きこう言った。

「神は人を分け隔(へだ)てなさらないことが、よく分かりました。

どんな国の人でも、神を畏(おそ)れて

正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」


ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、

御言葉(みことば)を聞いている一同の上に聖霊が降(くだ)った。

割礼(かつれい)を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、

聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。

異邦人が異言(いげん)を話し、また神を賛美しているのを、

聞いたからである。そこでペトロは、

「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、

水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」

と言った。そして、イエス・キリストの名によって

洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。

それから、コルネリウスたちは、ペトロに

なお数日滞在するようにと願った。



第2朗読 ヨハネの手紙一 4章7~10節


愛する者たち、互いに愛し合いましょう。

愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

神は、独り子を世にお遣わしになりました。

その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。

ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、

わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。

ここに愛があります。



福音朗読 ヨハネによる福音書 15章9~17節


<そのとき、イエスは弟子たちに言われた。>

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。

わたしの愛にとどまりなさい。

わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、

あなたがたも、わたしの掟を守るなら、

わたしの愛にとどまっていることになる。


これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、

あなたがたの喜びが満たされるためである。


わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。

これがわたしの掟である。

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

もはや、わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。

僕は主人が何をしているか知らないからである。

わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。


あなたがたがわたしを選んだのではない。

わたしがあなたがたを選んだ。

あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、

また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、

わたしがあなたがたを任命したのである。

互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


2021年5月1日土曜日

復活節第5主日

 レイ神父様の復活節第5主日 福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】

復活節第五主日(B年)

「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がそれにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」ヨハネ15章5節

「わたしを離れてはあなたがたは何もできない」。これはなんと素晴らしい心に留めるべきことなのでしょう。こういわれると、はじめは自尊心が傷つけられ否定的に受け取るかもしれません。本当にそうなのでしょうか、神がいなければ何もできないのでしょうか?これに対する答えは明らかに、「その通り」です。イエスは嘘は言われません。神がおられなければこの世で何事も行えません。実際、もし神が私たちをいっときでも忘れたら、わたしたちは終わってしまいます。私たちの存在さえも神のご意志が続くことにかかっています。善き行いをする、影響を与える、創造的に生きる、などは神の恵なしにはできません。

最初このように聞くと難しく思うかもしれませんが、いつもこのことをよく考えましょう。思いをめぐらし、この真実を受け止めると心の中に2つのことが起こってきます。まず謙虚になるでしょう。謙虚さは私たちの成長に最も大切な美徳であり「すべての徳の母」と言われています。そこから全ての徳が生じるからです。謙虚さは私たちに、神は全てであり100%必要であることを気づかせてくれるのです。この謙虚な真実は、私たちがすべてにおいて神を求めるようにし、また人生の様々な場面に深く神を招き入れるのです。

神がいなければ何もできないと気づいたとき、次に起きることとは感謝の気持ちが生まれることです。神はすべてであり、そして常に私たちの人生に恵みを与えているとわかりはじめると、わたしたちの唯一ふさわしい返事とは「ありがとうございます」でしょう。すべての善きことは神からの贈りものだと感謝しましょう。

今日は、これらの真実である謙虚さと感謝の念を黙想し思いを巡らせましょう。そうしながら、これらの美徳があなたの命の内にもっと大きく実るようにしましょう。

主よ、あなたがおられなければ私は何もできないと信じます。さらに深い確信をとおして、謙虚さと感謝の気持ちが高まるよう、イエス、あなたに依り頼みます。


Fifth Sunday of Easter (Year B)
 

“I am the vine, you are the branches. Whoever remains in me and I in him will bear much fruit, because without me you can do nothing.”  John 15:5

What a great little reminder…“Without me you can do nothing.”

At first, hearing this may hurt.  It may hurt our pride, and we may react to this idea negatively.  Is it really true?  Can we really do nothing without God?  Obviously the answer to that is “Yes.”  Jesus does not lie.  We can do nothing without God in our lives.

In fact, if God were to forget us for one moment, we would cease to exist.  Even our very existence depends upon God continuing to will that we exist.  And as for doing good, making a difference, having a productive life, etc., we can do nothing good without God’s grace. 

Though this may be hard to hear at first, we should ponder it regularly.  And if we do ponder it and embrace this truth, two things will happen in our souls.  First, we will grow in humility.  Humility is the most important virtue in which we can grow.  It’s been referred to as “the mother of all virtues.”  This is because from this virtue, all other virtues flow.  Humility means we realize that God is everything and that we need Him with a 100% need.  This humble truth will enable us to seek God in all things and to invite Him deeply into every part of our lives. 

A second thing that will happen in our souls when we realize that we can do nothing without God is that we will grow in gratitude.  As we see that God is everything AND we begin to see that He provides us with constant grace in our lives, our only appropriate response will be “Thank you!”  We will be grateful to God for everything because we will realize that everything that is good is a gift from Him. 

Reflect, today, upon these truths of humility and gratitude and allow them to sink in.  As you do, allow these virtues to grow to greater fruition in your life.

Lord, I do believe that I can do nothing without You.  Help me to believe this with an even greater conviction and, as I do, help me to grow in humility and gratitude.  Jesus, I trust in You.


【聖書朗読箇所】

いのちの源である神よ、
  あなたは信じる者を見捨てることなく、養い育ててくださいます。
  キリストのからだとして一つに集められたわたしたちが、
  愛と一致のきずなを深めることができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 使徒言行録 9章26~31節

サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、
皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。
しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、
サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、
ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。
それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、
主の名によって恐れずに教えるようになった。

また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、
彼らはサウロを殺そうとねらっていた。
それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、
そこからタルソスへ出発させた。

こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で
平和を保ち、主を畏(おそ)れ、聖霊の慰めを受け、
基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。


第2朗読 ヨハネの手紙一 3章18~24節

子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、
神の御前(みまえ)で安心できます、心に責められることがあろうとも。
神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。

愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、
神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。
わたしたちが神の掟(おきて)を守り、
御心に適(かな)うことを行っているからです。
その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、
この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。

神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、
神もその人の内にとどまってくださいます。
神がわたしたちの内にとどまってくださることは、
神が与えてくださった“霊”によって分かります。


福音朗読 ヨハネによる福音書 15章1~8節

<そのとき、イエスは弟子たちに言われた。>
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、
父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、
いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。
ぶどうの枝が、木につながっていなければ、
自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、
わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
人がわたしにつながっており、わたしもその人に
つながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
わたしにつながっていない人がいれば、
枝のように外に投げ捨てられて枯れる。
そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

あなたがたがわたしにつながっており、
わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、
望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、
それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」


2021年4月24日土曜日

復活節第4主日 

 復活節第4主日 湯澤神父様の「福音への一言」を聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音への一言】

2021年4月25日 復活節第4主日(ヨハネ、10章11~18節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  「主は、善い牧者、私は乏しいことがない」という言葉はよく聞き慣れ、よく口ずさんだ典礼聖歌集の歌詞で、『詩編』の23編の第1節からのものです。残念ながら、コロナが流行ってから、聖堂で他の聖歌と共に歌われることがなくなってしまいました。この歌詞は、神様を牧者に例えています。しかし、旧約聖書の中で神様を牧者に例えることは、あまりありません。

  もともと神様を牧者に例えることは、『創世記』や『詩編』などで用いられていますが、それほど頻繁に用いられてはいません。それは、おそらく遊牧をしていたころから生まれた神様のイメージだったのでしょう。そして、草を探して旅をしているアブラハムなどの時代は、このようにイメージしやすかったのでしょう。神様は、草を探して旅をしている自分たちと常に共にいて導き、守る方でした。

  しかし、イスラエル人は、囲いの中の素直な羊というよりも、強情で言うことをきかない人々でしたし、その指導者としての王様たちも、神様に従って正しく守って導く羊飼いのイメージに似つかわしいものではありませんでした。こうした変化の中で、相応しいイメージとして用いられなくなってしまったのかもしれません。

  しかしだからと言って、このイメージが聖書の中で用いられなくなってしまったわけはありません。「主は羊飼いのように羊の群れを飼い、その腕に小羊を集めて、懐に抱き、乳を飲ませる羊を導く」とイザヤが書いているように、むしろ理想的な羊飼いを神様は与えてくださるという希望が生まれてきます。それは、理想的な王としてメシアの思想です。彼(理想的メシア)は、散らされている羊を、口笛を吹いて集め、その一人ひとりを心にとめてくださる方です。

  こうした理想的な羊飼いのイメージは、マタイやマルコやルカなどでも描かれていますが、特にヨハネの福音書では、今日の福音のように「善き牧者」として描かれることになります。先にも書いたように旧約聖書ではあまり頻繁に出てくるイメージではありませんが、羊飼いとしての神様のイメージは、今日の福音のように、それはヨハネにおいて集約され、完成されていきます。

  ちなみに、この『ヨハネの福音書』の終わりで、キリストはペトロに羊の世話をゆだねていきます。しかし、その羊は「あなたの羊」「ペトロの羊」と呼ばれることはありません。常に「私の羊」と言われます。旧約時代、神だけが唯一の羊飼いでしたが、この世にあって常に導くのはキリストです。真の「善き羊飼い」であるキリストに結ばれてこそ真の神の羊なのです。「善き牧者」としてのキリストとの結びつきを見直すとともに、その指導に従っていきましょう。  湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


いのちの源である神よ、

  良い羊飼いであるイエスは、限りない愛をもって

  わたしたちのためにいのちを投げ出してくださいました。

  主イエスのもとに一つに集められたわたしたちが、

  主の愛に近づくことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 使徒言行録 4章8~12節


そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。

「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが

取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、

その人が何によっていやされたかということについてであるならば、

あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。


この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、

あなたがたが十字架につけて殺し、

神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、

イエス・キリストの名によるものです。


この方こそ、

『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、

隅の親石となった石』

です。

ほかのだれによっても、救いは得られません。

わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、

人間には与えられていないのです。」



第2朗読 ヨハネの手紙一 3章1~2節


御父(おんちち)がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。

それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、

事実また、そのとおりです。

世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。


愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、

自分がどのようになるかは、まだ示されていません。

しかし、御子(みこ)が現れるとき、

御子に似た者となるということを知っています。

なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。



福音朗読 ヨハネによる福音書 10章11~18節


狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。

――狼は羊を奪い、また追い散らす。――

彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。


わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、

羊もわたしを知っている。

それは、父がわたしを知っておられ、

わたしが父を知っているのと同じである。

わたしは羊のために命を捨てる。

わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。

その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。

こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。


わたしは命を、再び受けるために、捨てる。

それゆえ、父はわたしを愛してくださる。

だれもわたしから命を奪い取ることはできない。

わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、

それを再び受けることもできる。

これは、わたしが父から受けた掟である。」


2021年4月17日土曜日

復活節第3主日 福音メッセージ

  復活節第3主日 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




 【福音メッセージ 松村神父様】

弟子たちの前に復活された主が現われ、まざまざとそのあり様を見せつける今日の福音書は、宣教のときに伝えるべき確信が語られている。不思議な出来事で私たちにはどう頑張っても口では証明できない出来事。だから宣教のときに人に伝えるのはとても難しいと感じる。イエスは復活の出来事の根拠をモーセの律法と預言の書と詩編、すなわち私たちで言う所の旧約聖書の言葉を神が実現するというところに根拠を置く。すなわち神は言葉を実現する方であるという信仰である。復活の出来事は神の直接介入であり、マリアの受胎とイエスの誕生と受難と死を通して行われるが、私たちが直接イエスの死と復活に直接介入することがらは、良くも悪くもわたしたちの罪という行為であった。だから第一朗読の使徒言行録でも第二朗読のヨハネの手紙でも、悔い改めが描かれている。洗礼者ヨハネが語るように悔い改めの呼びかけこそが宣教の具体的な第一声なのだろう。

さて、悔い改めとは何かといわれると戦々恐々としてしまうのが人間の悲しい性である。しかし、私がいつもゆるしの秘跡で強調するのは、罪を犯したならば神の手の届くところまで戻っておいで!ということに尽きると感じる。一度闇を味わってしまうとそれは甘―い蜜で、周りが見えなくなり抜け出せなくなってしまう。まるで麻薬を連想させられる。身近なところで皆さんがよく知るトンチの一休さんにも『水あめの毒』という話があるが一度眺めてみるといいかもしれない。人間の悲しい性とずるがしこさが代表されていると思う。さて、光の届くところ、いつでも引き返せる範囲でなければ、私たちは独りで抜け出せない。悔い改めとは自分の立ち位置を自覚し、一人で振り返り神の光のもとに戻る行為。だからこそいつも光を見て、光が薄まったと感じると戻ることをしなければならない。私たちの目を開かせる回心の呼びかけ。『耳のあるものは聞きなさい』というイエスの言葉はまさに光そのものなのである。それと同時に一人で立ち戻れなくなる怖さをも想定しておかなければならないだろう。

さて、人類が回心すると何が起こるのだろう。それは誰かがではなく自分自身が低くされ、他者に奉仕し、嫉妬や妬みが取り去られ、人を尊重し、自分は謙虚になり、人を喜んで愛せるようになる。善の循環。この歯車がかみ合ったとき、私たちは常にキリストの平和と真の幸せが訪れる。神の国とはそのような状態なのだろう。これを目指す福音宣教への働きこそ、私たちの使命であり、言動指針になるのだろう。私たちはキリストに選ばれた弟子。自信と誇りをもっているからこそ自ら悔い改めることが恥ずかしいことではなくて、喜びの出来事なのだろう。難しい言葉ではなく、やさしい態度と言葉で人に接していくことから始めましょう。


【聖書朗読箇所】

救いの源である神よ、
  あなたは御子キリストの復活によって、
  全世界を罪と死の支配から解放してくださいました。
  あなたに呼ばれ、一つの民とされたわたしたちをみことばによって強め、
  主の復活をあかしする者としてください。
   集会祈願より

第1朗読 使徒言行録 3章13~15、17~19節

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、
わたしたちの先祖の神は、その僕(しもべ)イエスに
栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたは
このイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、
その面前でこの方を拒みました。
聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。
あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、
神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。
わたしたちは、このことの証人です。

ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、
指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。
しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられた
メシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。
だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。


第2朗読 ヨハネの手紙一 2章1~5a節

わたしの子たちよ、
これらのことを書くのは、あなたがたが
罪を犯さないようになるためです。
たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、
イエス・キリストがおられます。
この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、
全世界の罪を償ういけにえです。

わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、
神を知っていることが分かります。
「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、
偽り者で、その人の内には真理はありません。
しかし、神の言葉を守るなら、
まことにその人の内には神の愛が実現しています。


福音朗読 ルカによる福音書 24章35~48節

二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときに
イエスだと分かった次第を話した。

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
そこで、イエスは言われた。
「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。
亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、
わたしにはそれがある。」
こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、
イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、
彼らの前で食べられた。

イエスは言われた。
「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、
必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、
言っておいたことである。」
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。
「次のように書いてある。
『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
また、罪の赦しを得させる悔い改めが、
その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。
エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。


2021年4月11日日曜日

復活節第2主日 神のいつくしみの主日

ミサの中で洗礼志願式が行われました。

洗礼志願者は、松村神父様からの「洗礼を望みますか?」との問いかけに「はい、望みます」と答え、手渡された使徒信条を唱えた後、最後に神父様から塗油を受けました。

これから、5月23日(日)に予定されている洗礼式に向けて仕上げの勉強に入ります。頑張ってください。


ウルバン神父様の福音メッセージと、聖書朗読箇所をご紹介します。



【福音メッセージ ウルバン神父】

“ことはない、わたしです”!

もう夜になりました。いくつかの油ランプに照らされた薄暗い部屋に、弟子たちが集まっていました。暗い沈んだ顔をもって、互いを慰めることもできなかった。もうすぐ自分も捕まえられると心配して、門を固く閉じたのです。朝早く夫人たちに“イエスが生きている”とい言われたのに信じませんでした。マグダラのマリアにも、エマウスから帰ってきた弟子にも知らされたのに、信じませんでした。主はペトロに現れたと聞いた時、小さい希望が沸いてきたが、やはりもペトロ言葉をさえも疑いました。狼を恐れている羊の群れのように震えていました。

その時、部屋は優しく輝かされて、声が聞こえた:シャローム、恐れることはない。懐かしい声でした。見ると、イエスはそこに立っていました。嬉しく飛び上がるはずでしたが、恐れながら隠れようとした。イエスを見ても怯えて信じませんでした。“来て、私の傷を見て触れてみなさい”と聞いた時、一人また一人がイエスにゆっくり近づいて傷を触れました。とうとう心の中に暗闇が消えて希望が沸いて来ました。それで皆は主を囲んで、イエスの姿をあちこち触れて喜びにあふれた。それでもまだ疑いが残りました。“食べるものがあるか”と聞かれたとき、イエスには焼いた魚が渡たされました。その食べた残りが手から手へ渡された時、最後の疑いが消えました。その時の騒ぎ、その時の喜びを、私たちはなかなか想像できないでしょう。イエスが生きていることの大喜び。

ところが一人の弟子はその夜、皆と一緒にはいなかった。トマでした。生き生きして、喜びに溢れた弟子達に“イエスは生きている、本当に生きているよ”と言われた時のトマの答えを、私たちはみなよく知っています。“私は自分の指を手の傷に入れなければ、信じることはできません”と。今の時代の私たちはどんな目でトマを見ているでしょうか、この”疑うトマ“を?

どうして”疑った“でしょうか?どうして深い穴の悲しみや絶望に落ち込んだでしょうか。皆よりもイエスを愛したからです。弟子の中で一番偉くなりたいと思ったこともないし、イエスの胸に横たわろうともしないし、ただ皆の後ろに立って、イエスを見ることだけでも幸せで、イエスを失うことを一番恐れていました。

“私が行く所へあなた方は付いて行くことはできない” と言われた時、“あなたがどこへ行くか私たちには分かりません”と心配しながら聞いたのは誰だったでしょうか。主は“エルサレムへ行こう”と言って、弟子たちはイエスを止めようとした時、トマは一人で付いて行った、皆に呼び掛けて“行きましょう、死ぬことになったら、一緒に死にましょう”と。

復活の夜、イエスを愛する弟子トマは主の傷を調べたでしょうか。いえ。トマは喜びの涙のうちにイエスの服を触れて、”私の主よ、私の神よ“と呼びながら、自分のすべてをイエスの手に渡した。これはイエスを愛する弟子トマでした。

私たちも同じ心を持ってイエスに言いましょう:“私の主よ、私の神よ”。



【聖書朗読箇所】

あわれみ深い神よ、
  あなたは、キリストのとうとい血によってわたしたちをあがない、
  水と聖霊によって新しいいのちを与えてくださいます。
  年ごとに主の復活を祝うわたしたちが洗礼の恵みを深く悟り、
  信仰に生きることができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 使徒言行録 4章32~35節
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、
一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、
すべてを共有していた。
使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、
皆、人々から非常に好意を持たれていた。

信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。
土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、
使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、
おのおのに分配されたからである。


第2朗読 ヨハネの手紙一 5章1~6節

イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。
そして、生んでくださった方を愛する人は皆、
その方から生まれた者をも愛します。
このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、
その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
神を愛するとは、神の掟を守ることです。
神の掟は難しいものではありません。
神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。

世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
だれが世に打ち勝つか。
イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。
水だけではなく、水と血とによって来られたのです。
そして、“霊”はこのことを証しする方です。
“霊”は真理だからです。


福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~31節

その日、すなわち週の初めの日の夕方、
弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。

そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
弟子たちは、主を見て喜んだ。

イエスは重ねて言われた。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、
わたしもあなたがたを遣わす。」

そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。
だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、
彼らと一緒にいなかった。

そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、
トマスは言った。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、
また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、
わたしは決して信じない。」

さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。

それから、トマスに言われた。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。
また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

イエスはトマスに言われた。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、
それはこの書物に書かれていない。

これらのことが書かれたのは、
あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、
また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

2021年4月4日日曜日

「復活徹夜祭」~「復活の主日」

主の御復活おめでとうございます!



4月3日(土曜)18:30からの復活徹夜祭と、4月4日(日)9:00からの復活の主日ミサの様子をご紹介します。

復活の主日ミサでは、先日助祭に叙階されたジョルジュ桶田達也新助祭が、初めてお説教をされました。


 【復活徹夜祭】

光の祭儀

洗礼の約束の更新


勝谷司教 お説教

勝谷司教 お説教

『私たちが厳しい現実に直面したとき、それぞれがとる態度は様々です。理解しがたい現実に遭遇して、そこから逃げることなく現実を受け入れることにより、その苦しみにどういう意味を与えるのか。そこに信仰者とそうでない人との違いが表れてきます。

 多くの場合、厳しい現実が私たちにとって選択の余地なく襲いかかってきます。その現実を前にして、私たちはただ受け入れしかいられない存在なのでしょうか。言い換えるならば、私たちの人生はそのような偶然に左右されるようなものなのでしょうか。確かに自分では選びようのない現実があります。何故と問うことの出来ない不問に襲われることもあります。

 与えられた状況に私たちに何の落ち度も責任のないことも多いでしょう。そして、苦しい現実を誰かのせいにしたくなることもあるでしょう。しかし、与えられた環境に責任がなくても、そこでどう生きるかは私たちの自由に委ねられており、その選び取った生き方には、私たちに責任があるのです。私たちはそのことを「召命」と呼びます。広い意味での「召命」です。すなわち神は私にそこで生きるように召しておられる。

そこで生きるようにと神が望んでおられるなら、必要な助けも神は必ず与えてくださると違いない。たとえ今の苦しみに私が意味を見いだすことが出来なくても、選びようのない現実であるならば、神が私をそこに召しておられる。だから必ず知らぜらる意味があるのです。

 そして、そのことを保証するのが、主の復活です。限られた今と言う時間の中では見えないものも、永遠の時間の中にある復活の主が私の人生を知り、愛し招いてるのです。その主が言われます。「恐れるな、私はすでに世に打ち勝つ。」。私たちは復活の信仰によって、初めて苦しみを積極的に選び取り、捧げることが出来るようになるのです。この確信に基づいて私たちはたとえ厳しい現実であっても、そこで生きることを選びとるのです。偶然でもなく、仕方なくでもなく、そこに神の招きを見ており、その生き方を選び取るとき、人生の意味が変わってきます。

 人生が偶然によって左右されているのではなく、はっきりとした愛の招きがある。その愛に守られ、与えられた今の自分があるのだ。そう悟ったとき、厳しい現実を前にして どれほど自分の無力を感じても、それに直面し乗り越えていく力を私たちは得ることが出来るのです。

 空の墓での天使のメッセージは次のようなものでした。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。」。ガリラヤとは弟子たちの生活の場です。復活の主は遠くにいて私たちを招いているのではなく、まさに多くの困難や苦しみの現実生活において、私たちと共にあり、そこに生きる力と希望と与えてくださるのです。』


【復活の主日】


桶田助祭のお説教


桶田助祭のお説教

『先ずもって、御復活おめでとうございます。
そして、今日この時皆様の前にこうして立たせて頂いておりますことに感謝を申し上げます。お蔭をもちまして去る3月24日、終身助祭の叙階をさずけていただくことが出来ました。あと20日しますと69歳をむかえる私のようなものの召命をお許し下さいました勝谷司教様、召命を希望した後に図らずも再婚することになった私達夫婦を注意深く見守りお導き下さいました養成担当司祭の皆様、仕事を持ちながら最初の一年は週末の2日間、二年目の昨年はビデオによる聴講と変則ずくめの私を戸惑いつつも受け入れて下さいました東京カトリック神学院の指導司祭と千葉さんをはじめとした神学生の皆様、そして、常日ごろ何くれとなくお気遣いいただき、お声掛け下さり、お祈り下さいました北一条教会の皆様に心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

札幌教区の終身助祭の初穂として、お仕えすると共に、後に続く方々のために一年でも長く勤めてまいりたいと思っております。今後ともお声かけとお祈りを賜りますようお願い申し上げます。

さて、本日の福音についてであります。私は先ほど、御復活おめでとうございますと言い、皆さんはそれにお応えになりました。何故でしょうか。何故私たちはめでたいといえるのでしょうか。そうです、私たちは知っているからです。2000年前の中東イスラエルにイエス様がお生まれになり、私達のために十字架でお亡くなりになり、死者の中から復活され、そのことによって私達の罪が洗い清められ、私達が解放され、私達がこの人生を生きながら、過行くいのちの中で永遠のいのちを生き始めることが出来ることを知っているからです。何故でしょうか。何故私たちは知っているのでしょうか。そうです、2000年の長きにわたり、この福音を喜びをもって述べ伝え証しし続ける数限りない方々がいるからです。その一人ひとりの生きざまは絶え間なく繋がり集り、あたかも歴史の中のキリスト教という名の大河のごとく滔々(とうとう)と今の私達の目の前に横たわっています。

この大河の源流の2000年前の今朝の様子を福音書は伝えています。わずか1週間前の日曜日に多くの支持者の歓呼の声に迎えられながらエルサレム入場を果たされたイエス様が、突然逮捕され、裁判にかけられ、死刑判決を受け即日処刑されてしまいました。幸い弟子たちは逮捕を免れましたが、エルサレムには不安と不穏な空気が漂っており、弟子たちは散り散りに隠れ家に身を潜めています。そんな中、人目を忍んで女性たちが動き出します。そしてつい先程、暴かれた墓を発見します。イエス様のご遺体がありません。誰に持ち去られたのでしょうか。すぐに思いつくのは狂信的な信奉者の仕業か、イエス様の崇敬化を恐れる体制側の仕業と言うところでしょうか。

まるでサスペンス劇場のような出だしです。今朝の時点で、ほとんどの使徒たちはまだ復活の可能性すら思い至っておらず、復活のイエス様との出会いにはしばらくの時が必要でした。

ひるがえって、2000年後の今朝、ここにお集りの皆さんにお聞きします。皆さんはイエス様が復活されたことをご存知です。では、あなたの復活のイエス様はどこにいらっしゃいますか。お会いできていますか。イエス様と共に在ってこその復活祭の喜びです。

お会いできている方は幸いです。これからも共に歩みながら共にあるイエス様を証して下さい。
はぐれている方は、見えるイエス様のしるしを探しましょう。見えるものを通して、見えないものを見いだすのです。ヒントは「人」です。

これからの復活節に洗礼志願者の方々と共に主を探し求め五旬祭までには再びお会いさせて頂きましょう。志願者の方々と共に聖霊を受けさせて頂けることを目指しましょう。

かつて、聖ヨハネ・パウロ2世教皇は、次のように述べられました
「喜びなさい、イエスがこの世に来たから。
喜びなさい、イエスが私たちのために十字架で死んだから。
喜びなさい、イエスが死者の中から復活したから。
喜びなさい、イエスが洗礼によってわたしたちの罪を洗い清めたから。
喜びなさい、イエスが私たちを解放したから。
喜びなさい、イエスが私たちの主であるから。」
そして、最後にお命じになりました
「この喜びの伝令者になりなさい。」

今日一日、イエス様の御復活をおおいに祝いましょう。
そして明日から、一人ひとりが各々の生活の中で喜びの伝道者となる新たな一歩を踏み出せますよう、主のお恵みを願いながらミサを進めてまいりましょう。』


レイ神父 福音メッセージ

『マグダラのマリアについて聖書で読むときには、常にイエスとの関わりで語られると知っておくことが大切です。最初の登場では、イエスは7つの悪霊からマリアを癒されました。その後、マリアはイエスに従う女性たちのグループに加わりました。

マグダラのマリアの話は私たちへのひとつの模範となります。彼女が罪人であったか、そうではなかったかはわかりませんが、はっきりしているのは、マリアがイエスに出会った人生のある時、彼の神聖さ、力強さ、愛情深さに心を奪われたということです。それは彼女の側からすると絶対的な忠誠を伴う関係性でした。彼女は最後までイエスの受難を分かち合い、そしてその死に際して、あきらめることさえ拒みました。

イエスが復活した時、最初にマグダラのマリアに現れたというのも、ですから驚くことではありません。それはあたかも彼女の忠誠と愛に対する褒美のようです。しかしそれよりもイエスはマリアに一つの使命をお与えになります。他の弟子たちに、まことにイエスは蘇りあとでガリラヤで皆に会うと知らせなさい、と告げられます。

イエスからの私たちへメッセージは「心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(ルカによる福音書10:27)です。マグダラのマリアは心からイエスを愛したことで、完全に具体的に実行した美しい手本です。ゆえにマリアはイエスが同様の人々を皆、報いて祝福される模範となるのです。』




2021年4月3日土曜日

復活の主日

 主の御復活、おめでとうございます!



4月4日 復活の主日 福音メッセージをレイ神父様からいただきましたので、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


【福音メッセージ from レイ神父様】

ヨハネによる福音 20章1-9  4月4日

マグダラのマリアについて聖書で読むときには、常にイエスとの関わりで語られると知っておくことが大切です。最初の登場では、イエスは7つの悪霊からマリアを癒されました。その後、マリアはイエスに従う女性たちのグループに加わりました。

マグダラのマリアの話は私たちへのひとつの模範となります。彼女が罪人であったか、そうではなかったかはわかりませんが、はっきりしているのは、マリアがイエスに出会った人生のある時、彼の神聖さ、力強さ、愛情深さに心を奪われたということです。それは彼女の側からすると絶対的な忠誠を伴う関係性でした。彼女は最後までイエスの受難を分かち合い、そしてその死に際して、あきらめることさえ拒みました。

イエスが復活した時、最初にマグダラのマリアに現れたというのも、ですから驚くことではありません。それはあたかも彼女の忠誠と愛に対する褒美のようです。しかしそれよりもイエスはマリアに一つの使命をお与えになります。他の弟子たちに、まことにイエスは蘇りあとでガリラヤで皆に会うと知らせなさい、と告げられます。

イエスからの私たちへメッセージは「心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(ルカによる福音書10:27)です。マグダラのマリアは心からイエスを愛したことで、完全に具体的に実行した美しい手本です。ゆえにマリアはイエスが同様の人々を皆、報いて祝福される模範となるのです。


【聖書朗読箇所】

全能の神よ、

  あなたは、きょう御ひとり子によって死を打ち砕き、

  永遠のいのちの門を開いてくださいました。

  主イエスの復活を記念し、

  この神秘にあずかるわたしたちを、

  あなたの霊によって新たにし、

  永遠のいのちに復活させてください。

   集会祈願より

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第1朗読 使徒言行録 10章34a、37~43節


そこで、ペトロは口を開きこう言った。

「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。


あなたがたはご存じでしょう。

ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、

ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。


つまり、ナザレのイエスのことです。

神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。

イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、

悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、

それは、神が御一緒だったからです。


わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、

特にエルサレムでなさったことすべての証人です。

人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、


神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。


しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、

つまり、イエスが死者の中から復活した後、

御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。


そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として

神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、

力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。


また預言者も皆、イエスについて、

この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、

と証ししています。」



第2朗読 コロサイの信徒への手紙 3章1~4節


さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、

上にあるものを求めなさい。

そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。


上にあるものに心を留め、

地上のものに心を引かれないようにしなさい。


あなたがたは死んだのであって、

あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。


あなたがたの命であるキリストが現れるとき、

あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。



福音朗読 ヨハネによる福音書 20章1節~9節


週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、

マグダラのマリアは墓に行った。

そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。


そこで、シモン・ペトロのところへ、

また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。 「主が墓から取り去られました。

どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」


そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。


二人は一緒に走ったが、

もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。


身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。

しかし、彼は中には入らなかった。

続いて、シモン・ペトロも着いた。

彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。


イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、

離れた所に丸めてあった。


それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。


イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、

二人はまだ理解していなかったのである。



聖木曜日~聖金曜日

4月1日(木)と2日(金)の18:30から、聖木曜日(主の晩餐の夕べのミサ)と、聖金曜日(主の受難の典礼)の祭儀が、勝谷司教様、松村神父様、レイ神父様、桶田助祭の共同司式により執り行われました。

【聖木曜日】

レイ神父様のお説教をご紹介します。

『私たちは、聖ヨハネがイエスの「時間」と呼んでいるもの、彼の救いの業の最高点、新しい脱出、この世界から父への彼の通過、それをとおして、彼が神と私たち人間との間の新しい関係になることをもたらしました。

 この新しい「脱出」を分かち合うことは、私たちの究極の解放であり、物質的なものへの奴隷化や些細な自己利益から私たちを解放し、寛大に愛する自由を私たちに与えます。

 限りない愛をとおして、イエスは彼自身の全く利己的でない心の中で、すべての人間の利己心とそれによって人間の罪を克服しました。まさに、父が私たち全員に持って共有してほしいと願っているこの愛は、イエスの脱出のまさに中心です。イエスが私たちの間で生かされ続けたいのは、まさにこの自己を与える種類の愛です。

 最後の晩餐で弟子たちといっしょに、彼は十字架で私たちのために死ぬことを予期し、パンと葡萄酒の秘跡のシンボルに身をまかせました。 それ以来、私たちの聖体の祭典(祭儀)は、私たちが主の救いの愛の行為に参加するための生きた記念碑です。

 それは新しい「脱出」を分かち合い、自己懸念の孤立から解放され、神が私たちに望んでおられるように、完全な人間になるようにするための私たちの方法です。』


主の晩餐の夕べのミサが終わった後、ご聖体は仮祭壇に移され、十字架と御像は紫布で覆われました。



【聖金曜日】




十字架の顕示


十字架の礼拝



松村神父様のお説教をご紹介します。

『今日は十字架に架かったイエス様の目線から少し思い起こしてみましょう。

  イエス様の目の前の人々は、自分を十字架につけろと叫んだ一人です。エリサレム入城の時に、喜びの叫びをあげていたにもかかわらず、自分を十字架に導いたのです。多くの人の心の中は罪に汚れていました。神のみ旨よりも律法学者や祭司たちの政治的動きに惑わされて、回りの雰囲気に流されてしまった人々。多くの弟子たちも逃げてしまい、限りなく孤独な状態で十字架に上げられました。
  唯一、一緒に十字架に架かった犯罪者の2名、十字架の傍らにいる最愛の弟子と婦人たちが、イエス様からすると僅かな慰めだったかもしれません。

 しかし、イエスは目の前のすべての人々に目差しをおくります。天の父にご自身の息を返されて祈ります。自分の役割が終えることへの絶望ではなく、すべては神の今後の導きに多くの期待をよせて、目の前のその人々の罪の赦しと、これからへの救いの希望を残すことを祈りました。
 十字架上でのイエスの目差しは、痛みと苦しみの中で、私たち一人ひとりに神の霊が与えられる希望を、そして別れを惜しみながらも、なんとやさしい目差しであったのだろう。
 この世をけっして恨んではいませんでした。神の力とこの愛が、聖霊の導きに希望しかなく、私たちはその目差しに包まれています。  
 今日、この後、「十字架の礼拝」をしますが、逆に十字架のイエスに私たちは見守られています。イエスは私たちに将来を委ねたのではないでしょうか。信仰、希望、愛、この三つに基づいて私たちの歩みに必要なキリスト教の倫理が与えられます。
 今日はイエスの目差しから、この希望ということを心にしっかり留めながら、イエスの受難を思い起こしてみたいと思います。』