2021年10月7日木曜日

10月10日 年間第28主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 松村神父】

いくつかの学校に宗教講師として回ったときに、複数の先生からこんな質問を受けた。「私たちは生徒にエリートになるよう教育してはいけませんか?」「生徒に幸せになるために、お金持ちになるよう努力してもらうことはダメなのでしょうか?」と。カトリックミッションを持つ学校の先生にとって、特に未洗者の先生にとっては、進学校となるよう努力をするよう指示されながらも、キリスト教の精神との間で板挟みになって、悩んでいるようだった。一方では「背に腹替えられないのでは?」と。あきらめる声も聞こえてきた。その時点でカトリックミッションはなくなるのであろう。でもきっとその意見は生徒の保護者も同じなのだろうと推測する。今日の福音書には「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」と描かれていることに、躓く人が多くいることに気づかされる。そこで私は次のように応えている。「どんどんエリートを作ってください。どんどんお金持ちになるように教育してください。」と。これを聞くと「なんという神父だ!」とおしかりを受けるかもしれない。しかし、更に私は次のように付け加えることにしている。「世の中で勝利者とされるひとは、弱い人、貧しい人を助ける義務がついて来ます。自ら得た知恵と知識、財産や富は愛する者のために使うのであって、自分のために蓄えることを拒否し、手放し与えるということを必ず付け加えてください。」と。結局、棺桶にお金も知恵も入れることはできないのだから。この世のものはこの世にあるうちに使うためのものであり、愛する者のために惜しみなく与え尽くすことにカトリックミッションは意義をもち向かっているのである。しかし多くの人は持っている量を他人と比べ、勝った負けたで権力にしがみつこうとしている。そこで他者と争い、嫉妬と妬みに陥り、苦しみに巻き込まれ、いつも奪われることへの緊張と恐れにその身を渡しているが、実は手放したときに私たちはその呪縛から解き放たれ自由になるのであるが、人類にとってこのことは高い壁であろう。富そのものが悪なのではなく、富を持ってしまった人の心から悪が生じることが今日の大切なポイントなのではないか。かつて偶像崇拝していたものに対してモーセの十戒が与えられたように、富の偶像化は気をつけなければならない。大きな誘惑、甘い蜜だからである。

しかし解き放たれるためには愛する相手が必要であること、このことをイエスは金持ちの青年に伝えたかったのではないか。何よりもイエスがすべてから自ら解き放たれており、十字架に向けてご自身がもっているすべてを差し出したからにほかならない。イエスは愚かな金持ちの青年の前に立った時ですら、慈しみの眼差しで見て、愛そうとして神の知恵を惜しみなく示した。青年もこの優しいイエスに出会い、我に返り、受け止めることにつらさを感じ、イエスの前に立っていることができなくなった。

私の神学生時代の恩師は、「山で流れる小川のせせらぎを見なさい。わずかな水であるが清く美しく、そして素晴らしい美味さを感じる。しかし一度石などで川をせき止めてみなさい。途端に水はよどみ、溜まった水は飲めなくなり、生態系までも変わる。お金の流れと一緒なのだ!」と。清く正しく美しくという言葉が昭和時代に流行ったが、そのためには保つのではなく流し続けることに本来の意味を見出したい。

存分に冨を蓄えても構わない。でもそれを“無償で使う”ことが大前提になければ、金持ちの青年と同じように、落胆させられるのだろう。神の計画では、富も財産も、すべてのものは、それ自体が称えられるべきものではなく偶像であり、愛に仕えなければならないと教えるからである。針の穴とラクダの大小は、神の創造のわざが始まったときから、すでに決まっている法則。富と愛の関係も神の法則で決められている。常に神の愛、神の教えに優位性があることを忘れないようにしたい。


【聖書朗読箇所】


すべてにまさる知恵を与えてくださる神よ、

あなたのことばはいつの時代にも力強く働いています。

わたしたちの心を福音の光で照らし、

目先のものへの執着から解き放ってください。

   集会祈願より


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第1朗読 知恵の書 7章7~11節


 わたしは祈った。すると悟りが与えられ、

 願うと、知恵の霊が訪れた。


 わたしは知恵を王笏(おうしゃく)や王座よりも尊び、

 知恵に比べれば、富も無に等しいと思った。


 どんな宝石も知恵にまさるとは思わなかった。

 知恵の前では金も砂粒にすぎず、

 知恵と比べれば銀も泥に等しい。


 わたしは健康や容姿の美しさ以上に知恵を愛し、

 光よりも知恵を選んだ。


 知恵の輝きは消えることがないからだ。

 知恵と共にすべての善が、わたしを訪れた。

 知恵の手の中には量り難い富がある。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章12~13節


 神の言葉は生きており、力を発揮し、

 どんな両刃の剣よりも鋭く、

 精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、

 心の思いや考えを見分けることができるからです。


 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、

 すべてのものが神の目には裸であり、

 さらけ出されているのです。


 この神に対して、

 わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。



福音朗読 マルコによる福音書 10章17~30節


 イエスが旅に出ようとされると、

 ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。

 「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」


 イエスは言われた。

 「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。

 神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。


 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』

 という掟をあなたは知っているはずだ。」


 すると彼は、

 「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。


 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。

 「あなたに欠けているものが一つある。

 行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。

 そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」


 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。

 たくさんの財産を持っていたからである。


 イエスは弟子たちを見回して言われた。

 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」


 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。

 イエスは更に言葉を続けられた。

 「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。

 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」


 弟子たちはますます驚いて、

 「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。


 イエスは彼らを見つめて言われた。

 「人間にできることではないが、神にはできる。

 神は何でもできるからだ。」


2021年10月2日土曜日

10月3日 年間第27主日

 レイ神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】

年間第27主日 10月3日

神が男を造られたとき、男には男の強さをお与えになり、女を造られたときには別の強さをお与えになりました。ですから神は,それぞれの力を用い男と女は一緒になり互いに補い合う強い結びつきの家族を望まれました。

この家族において、神は可能な限り最高の創造をされようとしました。両親がいる家庭では子供たちは恵まれた支援をうけ健全に成長します。しかし片親、または両親ともいない場合、子どもたちはある一種の道徳的、心理的な不足をもって成長し、それが神の最高の仕事をする遅れになるかもしれません。

イエスは言われます。人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。つまり結婚の結びつきとは二人が常に一体であり、一人の人間の別の部分のように働くと考えます。夫婦は異なる能力や育ちに関わらず調和して暮らすのです。頭は首なくして、首は頭なくしては機能しないように、結婚生活において男女もそのようであります。

イエスははっきりと結婚は人によってではなく、神によって造りだされたものであると宣言されました。ですから男女が結ばれようと決心するときには神からの祝福をまず求め、教会において主がおられる中、最終的に厳粛のうちに婚姻の式を執り行われねばなりません。イエスは又、神が結び合わせてくださったものを人は離してはならないと戒められます。どの男にも女にも壊すことをさせないようにしましょう。ですから故意に悪意をもって正当な婚姻を潰そうとする、その男、もしくは女は神の怒りに直面するでしょう。

それが神からの制度でありますので、私たちは力を尽くして聖なる結婚制度を守りましょう。神はあなたの妻、夫と結婚生活の中で主が命じられた仕事をしながら伴に生涯暮らすことを求められます。

結婚生活において多くの難題に直面している夫婦に主の祝福がある事を祈りましょう。結婚制度は今、多方面から悪の力による攻撃を受けています。彼らがこれらの難題に打ち勝つための強さと、そして結婚がゆるぎないものになるよう、主よあなたの慈しみをお与えください。

Homily for October 3, 2021

27th Sunday in Ordinary Time Year B

When God created Man, He gave him the strengths of man and when He created the woman, she was given her different strengths too. So, with each one’s strength, God intended a man and a woman to come together and complement and supplement each other and make one very strong institution of a family.

It is in this family, that God intends to bring up His creation in the best way possible. When the father and mother are present in the family the children tend to grow wholesomely with the best support. But when one parent is absent or even all, the children grow up with some sort of moral and psychological deficiency which may hinder them from doing God’s work in the best way possible.

Jesus says that the man shall leave his father and mother and be joined to his wife and become one flesh, He means that the institution of marriage is supposed to be in congruency all the time, it is supposed to work like the different body organs in a human being. The husband and the wife are supposed to live in harmony despite their different strengths and upbringing. Just the same way the head cannot function without the neck and the neck without the head, so is man and woman in the institution of marriage.

Jesus rubber-stamps the fact that marriage is not an institution invented by man, but an institution invented by God. So when man and woman decide to get married, they have to first seek blessings from God and finally solemnize the marriage in the presence of the Lord, in the Church.

Jesus also warns us that whatever God has put together in marriage, let no man or woman ruin it. So, anybody who intends to deliberately and maliciously put asunder any lawful marriage union, then he/she will face the full wrath of God.

Let us safeguard the institution of holy marriage with all our might and strength as it is a God sent institution. God intends that you may live together with your wife and husband all the days of your lives doing God’s work that He has assigned to you inside the marriage.

Let us pray that the Lord God will bless the couples who are facing so much challenges in their marriage. The institution of marriage is being attacked from all corners by the forces of the evil one. Give them Your Graces and strength to overcome all these challenges and may their marriages stand. Amen.



【聖書朗読箇所】


いのちの与え主である神よ、

あなたは人が孤独のうちに生きるのではなく、

互いに支え合い、助け合って生きることをお望みになりました。

きょう、キリストのもとに集められたわたしたちに、

あなたの満ちあふれる愛を注いでください。

   集会祈願より


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第1朗読 創世記 2章18~24節


 主なる神は言われた。

 「人が独りでいるのは良くない。

 彼に合う助ける者を造ろう。」


 主なる神は、野のあらゆる獣、

 空のあらゆる鳥を土で形づくり、

 人のところへ持って来て、

 人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。


 人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。

 人はあらゆる家畜、空の鳥、

 野のあらゆる獣に名を付けたが、

 自分に合う助ける者は見つけることができなかった。


 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。

 人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、

 その跡を肉でふさがれた。

 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。

 主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、

 人は言った。

 「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。

 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう

 まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、

 二人は一体となる。



第2朗読 ヘブライ人への手紙 2章9~11節


 「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、

 死の苦しみのゆえに、

 「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。


 神の恵みによって、

 すべての人のために死んでくださったのです。

 というのは、多くの子らを栄光へと導くために、

 彼らの救いの創始者を

 数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、

 万物の目標であり源である方に、

 ふさわしいことであったからです。


 事実、人を聖なる者となさる方も、

 聖なる者とされる人たちも、

 すべて一つの源から出ているのです。

 それで、イエスは彼らを

 兄弟と呼ぶことを恥とされないのです。



福音朗読 マルコによる福音書 10章2~16節


 ファリサイ派の人々が近寄って、

 「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」

 と尋ねた。

 イエスを試そうとしたのである。


 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」

 と問い返された。

 彼らは、

 「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」

 と言った。


 イエスは言われた。

 「あなたたちの心が頑固なので、

 このような掟をモーセは書いたのだ。

 しかし、天地創造の初めから、

 神は人を男と女とにお造りになった。

 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、

 二人は一体となる。

 だから二人はもはや別々ではなく、一体である。

 従って、神が結び合わせてくださったものを、

 人は離してはならない。」


 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。


 イエスは言われた。

 「妻を離縁して他の女を妻にする者は、

 妻に対して姦通の罪を犯すことになる。

 夫を離縁して他の男を夫にする者も、

 姦通の罪を犯すことになる。」


 イエスに触れていただくために、

 人々が子供たちを連れて来た。

 弟子たちはこの人々を叱った。


 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。

 「子供たちをわたしのところに来させなさい。

 妨げてはならない。

 神の国はこのような者たちのものである。


 はっきり言っておく。

 子供のように神の国を受け入れる人でなければ、

 決してそこに入ることはできない。」

 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。


2021年9月25日土曜日

9月26日 年間第26主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ ウルバン神父】

第26主日、 9月26日   “私に逆らわない者は私の味方である”    ウルバン神父

ある時ヨハネが興奮しながらイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私達に従わないので、やめさせようとした。」イエスは何と答えたでしょう。「ヨハネ、良くやった。あんな人を許してはいかん。」そのように言いませんでした。ヨハネに優しそうに答えた。「ヨハネ、止めさせてはならない。私に逆らわないで、私の名を使う人は私達の味方なのだ。」本当にありがたく、安心させる言葉でした。

私に懐かしい思い出があります。子供の時の日曜日です。朝早く私達4人は次々にただ一つの水流しで顔を洗った後、父親が寝室から出て来て、長いナイフで髭をそって、日曜の服を着て教会に出かけた。ひよこが雌鶏にチョコチョコ付いて行くように、私たち子供3人は親の後に付いて行った。ごミサは子供である私に何となく退屈だったが、家族で教会へ行く事、親の祈る姿を見る事はうれしくて、心に深く残っていた。また晩ご飯を終わった後、私達がひざまづきながら食卓を囲んだ時、母親は家族を捧げる祈りを唱えた。やはり、私たちは一つの心を持って、家族だと深く感じた。夢のような話でしょう。

旭川のある教会の婦人の集まりの事でした。「主人が信者ではない方、手を上げて見て」と言った時、一人の方に聞きました。「主人がいつか信者になるように祈ったことがありますか」。その夫人は興奮しながら答えた。「神父様、もちろん、もう28年間ずっと祈っているよ。お父さんによく信者になりなさいと言うが、全然なりません。」「いつか信者になると信じますか」と聞くと、「とんでもない。あんな人はなるわけがない」と大声で答えた。

私は何と答えたかはっきり覚えていません。「奥さん、もう28年間主人はあなたが教会へ行くことを許しているよ。せめて日曜日ゆっくり家族と一緒に朝ご飯を食べたいのに、もう28年間一人で残され、寂しい気持ちで食べているよ。感謝した事がありますか。主人は神様の敵ではなく、無関心の顔をしても、もうイエスに愛される味方だよ。」

あなた方の内の多くの方は、家族のなかで信者として一人ぼっちです。誰にも心の中の事を話せない、だれとも祈れない。確かに悲しいことですが、それでも喜びなさい。「あなたによって妻も、主人も、子供も祝福されて、聖化されています」と使徒パウロが言っています。相手を責めないで、そのまま受け入れて、心の中の良さを信じなさい。もうすでに味方ではないか。信じて待つ事ができれば、愛する方が必ずいつかイエスに会います。もう前をもって喜んで感謝しなさい。

使徒パウロはある日に、沈んだ心で乱れた町コリントの道を歩いた。その夜の事、主は幻のうちに、パウロに言った。「恐れるな。この町には、私の民となる者が大勢いるからである。」恐れるな、目を上げて、喜びなさい。私たちの周りにも味方が大勢いる。

羽幌教会に住んでいた時に大きな火事があって、聖堂の前で火が止まった。顔を見た事のない多くの人が助けに来た。その時、一人の女の方が来て私に封筒を渡そうとした。「いいえ、私はこんなものを。」と言った時、もう忘れない顔の眼差しで答えた。「お願いします。私達は何年の間この教会の神様に守っていただいたから、どうしても差し上げたいのです。」やはり多くの味方がある事を、イエス様に感謝しよう。



【聖書朗読箇所】


信じる者の希望である神よ、

あなたはわたしたちに聖霊を注ぎ、

一つの民としてくださいました。

ここに集まるわたしたちが、

互いを受け入れ合い、

心を一つにして賛美をささげることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 民数記 11章25~29節


 主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、

 モーセに授けられている霊の一部を取って、

 七十人の長老にも授けられた。


 霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、

 続くことはなかった。


 宿営に残っていた人が二人あった。

 一人はエルダド、もう一人はメダドといい、

 長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。

 霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。


 一人の若者がモーセのもとに走って行き、

 エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。


 若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、

 「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。


 モーセは彼に言った。

 「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。

 わたしは、主が霊を授けて、

 主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」



第2朗読 ヤコブの手紙 5章1~6節


 富んでいる人たち、よく聞きなさい。

 自分にふりかかってくる不幸を思って、

 泣きわめきなさい。


 あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、

 金銀もさびてしまいます。


 このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、

 あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。

 あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。


 御覧なさい。

 畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、

 叫び声をあげています。

 刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。


 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、

 屠られる日に備え、自分の心を太らせ、

 正しい人を罪に定めて、殺した。

 その人は、あなたがたに抵抗していません。



福音朗読 マルコによる福音書 9章38~43、45、47~48節


 ヨハネがイエスに言った。

 「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、

 わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」


 イエスは言われた。

 「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、

 そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。

 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。


 はっきり言っておく。

 キリストの弟子だという理由で、

 あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、

 必ずその報いを受ける。」


 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、

 大きな石臼を首に懸けられて、

 海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。


 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、

 切り捨ててしまいなさい。

 両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、

 片手になっても命にあずかる方がよい。


 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、

 切り捨ててしまいなさい。

 両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、

 片足になっても命にあずかる方がよい。


 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、

 えぐり出しなさい。

 両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、

 一つの目になっても神の国に入る方がよい。


 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

2021年9月18日土曜日

9月19日 年間第25主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】


2021年9月19日 年間第25主日(マルコ、9章30-37節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音の箇所は、『マルコ福音書』における三回の「受難の予告と弟子の在り方についての教え」の第二回目に当たります。第一回目では、イエス様は、自分の考えや思いではなく、神様の思いを受け入れ、神様が与える自分自身の十字架をになう、キリストの在り様に倣うよう求めています。第二回目のケースは、第一回目の場合と異なり、弟子たちの口論から始まります。イエス様は受難の予告をしたために人目を避けて旅をしなければなりませんでした。他方、わけのわからない弟子たちは、質問するのも恐れ多くて尋ねる勇気もありませんでした。それでも、もし文字通り自分たちの先生が殺されるとしたら、だれが後継者になるのかと、言い争いを始めました。ですからイエス様に、何を言い争っていたのかと問われ、答えることができませんでした。

  イエス様は、第一回目の話を、第二回目の話で更に説明しようとします。自分を捨て自分の十字架をになってイエス様に従う場合、自分で十字架を決めて自分勝手に従うわけではないということです。イエス様が父である神様の意志に沿って十字架を引き受けたように、弟子たちはそれを模範としなければならないと教えたのです。

  イエス様は、具体的な例として幼子を示して、この幼子を受け入れるようにしなければならないと教えたのです。幼子というと可愛らしい、小さく、弱く、素直な存在と思いがちですが、そうでもありません。「泣く子と地頭とには勝てぬ」という諺があるように、逆に無視できない強力な力を持っています。説得したり、道理を尽くして話しても通用しない、頑強さです。幼子ですから、もちろん無視したり、力でねじ伏せたり、抹殺したり、極端な話、殺すことで黙らせることはできます。

  イエス様は、この弱い小さい者が持っているような力とは何かについては、ここでははっきり話していません。しかし、それは第三番目の「受難の予告と弟子の在り方についての話」から、イエス様に十字架を背負わせた御父の願いではないかと推察することができます。イエス様はそれを自分の十字架として引き受けました。その父である神様の求めていることは、幼子の要求のように、交渉の余地がありません。私たちにあるのは、受け入れるのか、拒むのかの自由だけです。この自由は全き自由で、何ものにも犯すことのできないものです。自分で決めて答えるほかありません。だからこそ、イエス様は、父である神様の意向を受け入れることを求めているのです。つまり、御父の意志を受け止め、イエス様が十字架に生きたように、与えられた父である神様の意向を受け止め、その人に呼びかけられた使命を生きることです。あなたは、父である神様の意志をイエス様のように受け止め、生きられますか。この問いは、今のこの現実の状況の中にいる私たち一人ひとりに向けられています。自分に問いかけてみましょう。           湯澤民夫




【聖書朗読箇所】


豊かな恵みを注いでくださる神よ、

あなたは御ひとり子を、

世に救い主としてお与えになりました。

自分を低くして仕える者となられたキリストに、

わたしたちが、この集いをとおして

近づくことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 知恵の書 2章12、17~20節


 「神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。

 我々のすることに反対し、

 律法に背くといって我々をとがめ、

 教訓に反するといって非難するのだから。


 それなら彼の言葉が真実かどうか見てやろう。

 生涯の終わりに何が起こるかを確かめよう。


 本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。

 敵の手から救い出されるはずだ。


 暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。

 その寛容ぶりを知るために。

 悪への忍耐ぶりを試みるために。


 彼を不名誉な死に追いやろう。

 彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。」



第2朗読 ヤコブの手紙 3章16~4章3節


 ねたみや利己心のあるところには、

 混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。


 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、

 更に、温和で、優しく、従順なものです。

 憐れみと良い実に満ちています。

 偏見はなく、偽善的でもありません。

 義の実は、平和を実現する人たちによって、

 平和のうちに蒔かれるのです。


 何が原因で、

 あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。

 あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、

 その原因ではありませんか。


 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。

 また、熱望しても手に入れることができず、

 争ったり戦ったりします。


 得られないのは、願い求めないからで、

 願い求めても、与えられないのは、

 自分の楽しみのために使おうと、

 間違った動機で願い求めるからです。



福音朗読 マルコによる福音書 9章30~37節


 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。

 

 しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。

 それは弟子たちに、

 「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。

 殺されて三日の後に復活する」

 と言っておられたからである。

 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、

 怖くて尋ねられなかった。

 

 一行はカファルナウムに来た。

 家に着いてから、イエスは弟子たちに、

 「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。

 彼らは黙っていた。

 途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。

 

 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。

 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、

 すべての人に仕える者になりなさい。」

 

 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、

 抱き上げて言われた。

 

 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、

 わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、

 わたしではなくて、

 わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

2021年9月11日土曜日

9月12日 年間第24主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 松村神父】

年間24主日 9月12日

インドのヴァルダマーナが始めたジャイナ教の寓話の中に「群盲象を評す」というお話があります。

その話は次のようなものです。

ある王の前に6人の盲人がいました。そこに一匹の象を連れてきて一人ひとりに触らせ感想を聞きました。足を触った盲人は「柱のようです」と答えた。尾を触った盲人は「綱のようです」と答えた。鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答えた。耳を触った盲人は「扇のようです」と答えた。腹を触った盲人は「壁のようです」と答えた。牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。それを聞いた王は答えた。「あなた方は皆、正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです」この話の教訓の結論は、今日の福音が語りたいものとは少し違うのですが、ただ「メシア」と答えたペトロの信仰告白は、あくまでも自分の過去の知識や感覚だけに偏った「メシア」理解であって、例えば「木の枝のよう」と答えたペトロは、その木の枝の役割しか答えられず、また木の枝の可能性しか信じていませんでした。しかしそれはイエスの「メシア」を示す回答とは全く違います。

今日の福音のこのイエスとペトロとの問答までには、本当に「メシア」と知っていたのは敵対する悪霊のみでした。宣教活動のなかで出会った人々の理解を見てきた答えがペトロに凝縮され誤った信仰告白であったことが今日の私たちへの信仰の捉えなおさなければならない分岐点かも知れません。

このことはイエスが受難を受けることに対してペトロが諫めたことでその本性が現われます。私たちの神は人類の勝利者になる、いや、そうならなければ救いはないと信じていたからです。でもイエスは人の目には負けと見える受難と死を提示し、それでも信じるかと問い詰められます。人の目には不思議な光景です。なぜなら私たちも歴史上で活躍してきた人々を思うと、戦に負けた時点で英雄にはなれども勝利者にはならないと理解してきたからです。しかしイエスはそこに天の父が働き、救いの道を示すことをお示しになります。

私たちの発想では敗者が神になるという意識は、どう頑張っても生まれてこないでしょう。改めて、私たちが今まで見てきたことは何なのでしょうか。受難と死を超える希望を私たちの信仰の確信にできるのだろうか、それともこの世にとどまり誰の目から見ても勝利者となる方を望むのか。今日のヒントとして信仰の視点は、“私たちの感性の外”にある。神様は“私たちの視界の外から”やって来るということに目を向けたいと思います。現代の生活では私に不幸が押し寄せるこの状況を救いと呼べるのか?といつも悩むことが多いでしょう。しかし目の前の出来事に捕われるのは、ペトロの域を脱せない私たちの限界かも知れません。

私たちは象の一部を触って満足し、それを信じています。場合によっては確信まで高めてしまっています。確信を得た人はそこである意味盲目になってしまい「柱のようです」と考える人にとって、象という発想は意識の外で固定されてしまいます。ある意味私たちの信仰もそうなのかもしれないと自分を戒め、改めてイエスを追い求めていきたいと思います。不幸と感じられるその外に視点を移せるのか?神を求める心は何よりも固定概念を壊し、イエスを自由に受け入れることでしか「メシア」と答えられないからではないでしょうか。でもそういわれても難しいことには違いありませんが。


【聖書朗読箇所】


救いの源である神よ、

  ひとり子イエスは、十字架の苦しみをとおして、

  あなたに従う道を示してくださいました。

  イエスを救い主と信じるわたしたちを、

  みことばによって照らしてください。

  やみに迷うことなく、あなたへの道を歩むことができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 イザヤ書 50章5~9a節


 主なる神はわたしの耳を開かれた。

 わたしは逆らわず、退かなかった。

 

 打とうとする者には背中をまかせ

 ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。

 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。

 

 主なる神が助けてくださるから

 わたしはそれを嘲りとは思わない。

 わたしは顔を硬い石のようにする。

 

 わたしは知っている

 わたしが辱められることはない、と。

 

 わたしの正しさを認める方は近くいます。

 誰がわたしと共に争ってくれるのか

 われわれは共に立とう。

 

 誰がわたしを訴えるのか

 わたしに向かって来るがよい。

 見よ、主なる神が助けてくださる。

 誰がわたしを罪に定めえよう。



第2朗読 ヤコブの手紙 2章14~18節


 わたしの兄弟たち、

 

 自分は信仰を持っていると言う者がいても、

 行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。

 そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。

 

 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、

 その日の食べ物にも事欠いているとき、

 あなたがたのだれかが、彼らに、

 「安心して行きなさい。温まりなさい。

 満腹するまで食べなさい」と言うだけで、

 体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。

 

 信仰もこれと同じです。

 行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 

 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」

 と言う人がいるかもしれません。

 行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。

 

 そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。



福音朗読 マルコによる福音書 8章27~35節


 イエスは、弟子たちと

 フィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。

 

 その途中、弟子たちに、

 「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。

 

 弟子たちは言った。

 「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。

 ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『

 預言者の一人だ』と言う人もいます。」

 

 そこでイエスがお尋ねになった。

 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

 

 ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」

 

 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと

 弟子たちを戒められた。

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、

 長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、

 三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。

 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。

 

 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。

 「サタン、引き下がれ。

 あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」


 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、

 わたしに従いなさい。

 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、

 わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

2021年9月1日水曜日

9月5日 年間第23主日

 レイ神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】

年間第23主日 2021年9月5日

「エッファタ 開け」イエスのこの言葉を何度耳にしますか?又、イエスが権威をもって語られるのをあなた方はどれくらい聞かれますか?イエスはこの耳の聞こえない男をただ癒したいのでこのように言われたのでしょうか?それとも、もっと大切なことがあるのでしょうか。音が聞こえないこの男を癒すことによって、イエスは私たちのために何かしたいと望まれたことについて示されたのです。イエスはこの癒しによって明らかに深いメッセージを私たちに与えて下さいます。この一節から得ることはたくさんありますがその一つを見てみましょう。

その教えはイエスの命令「開け」にあります。これは行動を命ずる力強い言葉です。選択できる言葉ではありません。それは明快であり決定的なのです。「開け」は質問でも誘いでもなく、それは命令です。これは重大なことです。

この短い言葉でイエスは実行すると決めたことがわかります。これには少しの躊躇もなかったのがわかります。心を決め、ご自分の意思を話されます。イエスご自身からのこの行動が重要なのです。神が語るときにあいまいさはありません。ためらいも疑いもありません。彼は完全で明らかなのです。

これがわかると私たちにとっては大きな安らぎです。それはイエスが力強い権威を実行する用意と意思があるという意味だからです。全ての力を持たれ、そうされたいときには権威を恐れず使われます。一番大切なことは、私たちの生活に最善をもたらすそのときにお使いになるのです。

この全能の神は万能であり、支配者であるということを信じることができるなら、私たちはおおきな安らぎを得られるらでしょう。もしイエスが現実の世界(体の聴覚)をも支配しておられるのならば、精神世界もそうであることは確かです。すべての良きことがお出来になるのです。

全能であるだけでなく、全てを愛し全てを慈しむ方の存在の内に私たちがいるとわかったとき、私たちは大きく安堵の息をし、その方に絶対的な信頼を寄せるでしょう。そして人はよろこんで委ねるることができるでしょう。

この短い言葉を黙想しましょう。イエスのこの聖なる神々しい権威にあなた方の命をゆだねましょう。イエスに任せましょう。イエスの言葉は完璧な愛であり憐れみです。それはあなた方を最善に導く言葉です。そしてこの全能の神はあなた方の全ての信頼にふさわしい方です。


23rd Sunday in Ordianry Time B September 5, 2021

How often do you hear Jesus say this to you? “Ephphatha! Be opened!” Or how often do you hear Him speak to you with such authority?

Did Jesus say this only because this man was physically deaf and He wanted to physically cure him? Or is there a deeper significance? By healing this man unable to hear physical sounds, Jesus was revealing something to us about what He wants to do for us. Jesus is giving us a clear and deeper message in this healing. Certainly there are many messages we can take from this passage. Let’s look at one.

The message is in Jesus’ command: “Be opened!” These are powerful words commanding action. They are not optional words. They are clear and definitive. “Be opened” is not a question, not an invitation, it is a command. This is significant!

These two little words reveal the fact that Jesus has made up His mind to act. They reveal that He is not hesitant in the least in this choice. He has made up His mind and has spoken His will. And this action, on His part, is what makes a difference. These two little words reveal that God is not indecisive when He speaks. He is not shy or uncertain. He is absolute and clear.

This understanding should give us great comfort. Comfort in the sense that Jesus is ready and willing to exercise His all-powerful authority. He does have all-power and He is not afraid to exercise this authority when He wants to. Most importantly, He wants to exercise His authority when it will bring about the greatest good in our lives.

It should give us great comfort in the sense that we can trust that this all-powerful God is all-powerful and is in control. If He is even in control of the natural world (physical hearing), then He is most certainly in control of the spiritual world, too. He is able to do all things good.

When we find that we are in the presence of one who is not only all-powerful, but also all-loving and all-merciful, we should be able to breathe a huge sigh of relief and turn our absolute trust over to Him. He is able and fully willing to be in control.

Reflect, today, upon these two little words. Let this holy and divine authority of Jesus take control over your life. Let Him command you. His commands are perfect love and mercy. They are words that will direct you to your ultimate good. And this all-powerful God is worthy of all your trust.


【聖書朗読箇所】


すべての人の希望である神よ、

あなたはひとり子イエスを遣わし、

人々を悩みや苦しみから解放してくださいました。

きょう、わたしたちの耳を開き、

救いのことばを聞かせてください。

また、わたしたちの口を開き、

あなたへの賛美を歌わせてください。

   集会祈願より


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第1朗読 イザヤ書 35章4~7a節


 心おののく人々に言え。

 

 「雄々しくあれ、恐れるな。

 見よ、あなたたちの神を。

 敵を打ち、悪に報いる神が来られる。

 神は来て、あなたたちを救われる。」

 

 そのとき、見えない人の目が開き

 聞こえない人の耳が開く。

 

 そのとき

 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。

 

 口の利けなかった人が喜び歌う。

 荒れ野に水が湧きいで

 荒れ地に川が流れる。

 

 熱した砂地は湖となり

 乾いた地は水の湧くところとなる



第2朗読 ヤコブの手紙 2章1~5節


 わたしの兄弟たち、

 栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、

 人を分け隔てしてはなりません。

 

 あなたがたの集まりに、

 金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、

 また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。

 

 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、

 「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、

 

 貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、

 わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、

 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、

 誤った考えに基づいて

 判断を下したことになるのではありませんか。

 

 わたしの愛する兄弟たち、

 よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、

 信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、

 受け継ぐ者となさったではありませんか。



福音朗読 マルコによる福音書 7章31~37節


 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、

 シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、

 ガリラヤ湖へやって来られた。

 

 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、

 その上に手を置いてくださるようにと願った。

 

 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、

 指をその両耳に差し入れ、

 それから唾をつけてその舌に触れられた。

 

 そして、天を仰いで深く息をつき、

 その人に向かって、「エッファタ」と言われた。

 これは、「開け」という意味である。

 

 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、

 はっきり話すことができるようになった。

 

 イエスは人々に、

 だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。

 しかし、イエスが口止めをされればされるほど、

 人々はかえってますます言い広めた。

 

 そして、すっかり驚いて言った。

 「この方のなさったことはすべて、すばらしい。

 耳の聞こえない人を聞こえるようにし、

 口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

2021年8月28日土曜日

8月29日 年間第22主日

  ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ ウルバン神父】


第22 日曜日      “その心は私から遠く離れている”    ウルバン神父  

私も遠く離れているでしょうか。この言葉を言いながら、イエスは周りにいる人、今の私たちをも見ていた。どんな顔で見ていたでしょう。主の言葉は福音で、喜びの便りで、戒めの言葉ではありません。イエスの姿を見て、イエスの顔を見つめると、この言葉の中で悲しみ、心の温かさ、心の深い憧れを感じるでしょう。今静かになって神の霊に導かれて心を開きながら、想像の中で今日の福音の出来事を見ましょう。

子供の時、本家の叔父さんといとこ達とともに、よく畑へ行って芋を掘っていた。腹が減った時、皆は仕事を休んで土の上に座りながら食べた。一つの手に一切れのパン、もう一つの手でソーセージを持って、左また右の手にあるものをかじりながら、手を洗わないで食べた。本当に良い雰囲気でした。畑の土で手は汚れていたが、心は素直できれいでした。食べた後、土で汚れた手で神様に感謝した。

イエス様は弟子達に囲まれて木の陰に座って休んでいた。すぐに好奇心の人がのぞきに来て、「ナザレの預言者だ」と叫んで人を連れて来た。弟子達は長い旅と暑さで疲れて座っていた。ところが、じっと見ている人々の中にファリサイ派の人もいた。人をぐるぐる囲んで刺そうとするスズメ蜂のように、彼らの目は動いていた。弟子は袋からパンを出し食べ始めた。確かに手は汚れていたが、素直な清い心で食べていた。「なぜ、あなたの弟子たちは汚れた手で食べるのか」とスズメ蜂のようにイエスを刺した。哀れなファリサイ派の人。あなたの手は清いが、心は最も汚い。すべてを汚れた心で見ている。

イエスは立ち上がって、人々を見つめながら言った。「この民は口先で私を敬うが、その心は私から遠く離れている」。この言葉は自分の心の中に響いています。口先だけで敬うことがよくあるでしょう。祈りながら体は神の前にいるが、心はどこかで散歩している。私たちはみな物足りない僕です。祈りとミサが終わって、“努め”を果たした後、イエスは私とともにいるでしょう。主の霊、聖霊が私の生活の中に住まいはなければ、心の住まいは空であれば、暗闇の霊が来て汚れの種をまくのです。それで私は次第に暗闇に沈む。ペトロの目がイエスから離れて周りの大波を見た時に沈んだが、またイエスに手を伸ばして叫んだ。「助けて、私は沈む」。彼は波から助けられた。

子供の時、ごミサがラテン語であった時、多くの人はロザリオを祈りながらミサに参加しました。言葉も典礼も知らず静かに心の中で祈った時、手の中で常にロザリオを握っていた。今考えれば、その子供らしい人はいろんなことが通じなかったが、心はきっと神様から遠く離れてはいなかった。イエスは望む人の頭ではなく心の中に住んで、生活のすべての暗闇を希望と光に変えて生きる力となった。

主は今、私達にも手を開いて言います、「自分の弱さ、自分の小ささを見ないで、目を上げて私を見なさい。弱さがあっても、私の所へ来なさい。私は生きる水の泉で、来て、この泉から飲みなさい。飲めば、あなたは本当に生きる。私はいつもあなたと共にいて、あなたの中に住む」。私の答えは「主よ、私を待って、今来ています」と。



【聖書朗読箇所】


全能永遠の神よ、

あなたはひとり子イエスをとおして

み旨を明らかに示してくださいました。

わたしたちがきょうもあなたに立ち帰り、

みことばをいのちの糧とすることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 申命記 4章1~2、6~8節


 イスラエルよ。

 今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。

 

 そうすればあなたたちは命を得、

 あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、

 それを得ることができるであろう。

 

 あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、

 減らすこともしてはならない。

 

 わたしが命じるとおりにあなたたちの神、

 主の戒めを守りなさい。


 あなたたちはそれを忠実に守りなさい。

 

 そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、

 彼らがこれらすべての掟を聞くとき、

 「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」

 と言うであろう。

 

 いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、

 主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。

 

 またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、

 正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。



第2朗読 ヤコブの手紙 1章17~18、21b~22、27節


 良い贈り物、完全な賜物はみな、

 上から、光の源である御父から来るのです。

 

 御父には、移り変わりも、

 天体の動きにつれて生ずる陰もありません。

 

 御父は、御心のままに、

 真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。

 

 それは、わたしたちを、

 いわば造られたものの初穂となさるためです。


 心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。

 この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

 

 御言葉を行う人になりなさい。

 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。


 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、

 世の汚れに染まらないように自分を守ること、

 これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。



福音朗読 マルコによる福音書 7章1~8、14~15、21~23節


 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、

 エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。


 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、

 つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。


 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、

 昔の人の言い伝えを固く守って、

 念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、

 また、市場から帰ったときには、

 身を清めてからでないと食事をしない。


 そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、

 昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――


 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。


 「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、

 汚れた手で食事をするのですか。」


 イエスは言われた。


 「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを

 見事に預言したものだ。

 彼はこう書いている。

 『この民は口先ではわたしを敬うが、

 その心はわたしから遠く離れている。

 人間の戒めを教えとしておしえ、

 むなしくわたしをあがめている。』

 あなたたちは神の掟を捨てて、

 人間の言い伝えを固く守っている。」


 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。


 「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。

 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、

 人の中から出て来るものが、人を汚すのである。


 中から、つまり人間の心から、

 悪い思いが出て来るからである。

 みだらな行い、盗み、殺意、

 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、

 悪口、傲慢、無分別など、

 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」


2021年8月21日土曜日

8月22日 年間第21主日 福音への一言

 湯澤神父様の「福音への一言」を、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音への一言 湯澤神父】


2021年8月22日 年間第21主日(ヨハネ、6.60-69)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音を以て、天から下って、人を生かすパンについての一連の話が終わります。先週は被昇天の祭日で、一回分抜けてしまいましたから、もう一度『ヨハネ福音書』の六章を最初からゆっくり見直したらよいでしょう。これまでイエス様が話してきたことを、人々は信じられず、拒否しました。そこで、イエス様は、ついてきた弟子たちに尋ねます。「あなたたちも離れて行きたいか」。ペトロが代表して答えます。「あなたこそ永遠の命を持つ者、神の聖者」と。しかし、そう答える彼らの中にも信じられない人たちが出ることを、イエス様はご存じです。

  まず、イエス様の話は、一般に受け入れられません。イエス様について来た人たちは、物珍しさで付いて来たわけではありません。少なくとも神様が天からのパンで養ったモーセの出来事を知っている人たちです。

こうしてイエス様は弟子たちの信仰について尋ねます。それは、単に命のパンに限りません。イエス様全体のことを受け入れられるか否かでもあります。イエス様は、神であり、御言葉でした。御言葉は人となり、私たちの間に住まわれた。この事実は、人々にとって、特に正しい熱心なユダヤ教の信仰を持っている人達にとって受け入れることが難しい問題でした。完全なもの、神が不完全なもの、人間になり、私たちと同じ人間として、私たちの間で共に生きることは、考えられないことでした。これは、ヨハネの福音書を読む人たちにとって大きな障害でした。

  実際は、人間になったのではなく、人間のように見えただけではないか、そう思う人人もいました。なっただけで、人間に見えたに過ぎないのだ。こうしたことは、弟子たちの間でも問題になりました。ここでイエス様は、受け入れた弟子たちの間にも受け入れられない人たちがいる、と述べています。「あなた方の内には信じない者たちもいる」と。この言葉は、単にイスカリオテのユダにだけ向けられた言葉ではないでしょう。もしかしたら私たちに向けられた言葉かもしれません。私たちは、神様が人となる、神様がいつも食べるあのパンになる、その本当の意味、神様の行うことの真の意味を受け入れることが出来ないかもしれません。それは、十字架を前にして明らかになってくることです。人が元居たところに戻る時、人となった御言葉、パンとなったイエス様のことを真に知るでしょう。イエス様の十字架の言葉は、それを物語っています。「成し遂げられた」。ご自身の使命を完成させ、すべてを知らせたからでした。もし、毎朝パンを食べる人がいたら、そのパンを見てください。イエス様は、そのパンになられたのです。私たちを生かす命を与えるために。そして、御言葉が人となられたことを黙想してみましょう。 湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


喜びの源である神よ、
  あなたのことばは信じる者を照らす光です。
  きょうも、わたしたちに力強く語りかけてください。
  信じる心をたえず新たにし、
  主キリストに従うことができますように。
   B年用・試用 集会祈願より


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第1朗読 ヨシュア記 24章1~2a、15~17、18b節

 ヨシュアは、
 イスラエルの全部族をシケムに集め、
 イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。

 彼らが神の御前に進み出ると、ヨシュアは民全員に告げた。

 もし主に仕えたくないというならば、
 川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、
 あるいは今、
 あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、
 仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。

 ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」

 民は答えた。
 「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、
 するはずがありません。

 わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、
 奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、
 わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、
 わたしたちの行く先々で、
 またわたしたちが通って来たすべての民の中で、
 わたしたちを守ってくださった方です。

 わたしたちも主に仕えます。
 この方こそ、わたしたちの神です。」


第2朗読 エフェソの信徒への手紙 5章21~32節

 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。
 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
 
 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、
 夫は妻の頭だからです。
 
 また、教会がキリストに仕えるように、
 妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
 
 夫たちよ、キリストが教会を愛し、
 教会のために御自分をお与えになったように、
 妻を愛しなさい。
 
 キリストがそうなさったのは、
 言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、
 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、
 聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を
 御自分の前に立たせるためでした。
 
 そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。
 妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
 
 わが身を憎んだ者は一人もおらず、
 かえって、キリストが教会になさったように、
 わが身を養い、いたわるものです。
 
 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、
 二人は一体となる。」
 
 この神秘は偉大です。
 わたしは、キリストと教会について述べているのです。


福音朗読 ヨハネによる福音書 6章60~69節

 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。
 「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」

 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに
 気づいて言われた。

「 あなたがたはこのことにつまずくのか。
 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。

 命を与えるのは“霊”である。
 肉は何の役にも立たない。

 わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」

 イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、
 御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。

 そして、言われた。
 「こういうわけで、わたしはあなたがたに、
 『父からお許しがなければ、
 だれもわたしのもとに来ることはできない』
 と言ったのだ。」

 このために、弟子たちの多くが離れ去り、
 もはやイエスと共に歩まなくなった。

 そこで、イエスは十二人に、
 「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。

 シモン・ペトロが答えた。

 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。
 あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
 あなたこそ神の聖者であると、
 わたしたちは信じ、また知っています。」

2021年8月14日土曜日

8月15日 聖母の被昇天 福音メッセージ

この日のミサを司式された勝谷司教様のお説教と、松村神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。 


【勝谷司教 お説教】


何度か説教や文書でふれたことですが、コロナが流行し始めた頃、テレビ等の情報に影響され、常に怒りの感情に支配され、心が健康でなくなっていることを感じたことがありました。今も政府や行政の無策ぶりに怒りの感情が起こってはいます。しかしその怒りは、自分にとって正しいもの、正義の怒りであると全く疑いを持っていないところに問題があることもお話ししました。この怒りについて少し考えてみたいと思います。


 地方の教会を回っていると、私が「正義と平和協議会」を担当しているせいでしょうか、政治的な問題について質問されることがよくあります。その場合多くは、教会と政治の関わりについて批判的な意見を持っている人たちからのものでした。数年前、日本の安全保障に関わる法律が立て続けに成立していった頃は、日本社会だけではなく、地方の教会の中でも激しい意見が交わされました。地方の教会にはそのような問題に敏感な自衛隊の基地があるところが多いのもその理由の一つです。教会を訪問して気づいたのは、政治問題に関わることに批判的な人だけではなく、当然教会の社会教説や司教の声明等を錦の御旗にして正義を訴え、教会を仕切っている活動家肌の人たちがいることでした。それがまた、教会に分裂を招いていました。そこで、気づいたことがあります。このことについて論争するとき、双方がベースにある怒りに任せて議論していることです。つまり、感情的になって議論しているのです。

 怒りには2種類あります。福音の価値が損なわれているとき、すなわち人間が苦しめられているときに感じる怒り、神からくる聖なる怒りと、自分の欲求を満たすときにそれを邪魔するものに対して向けられる自己中心的な感りです。私たちはこれを混同してはなりません。

 政府の政策に反対の立場の人たちは、当然その怒りを聖なる怒りと感じ正義は我らにあると思っています。しかし、賛成の立場の人も、同様なのです。そこで、双方の意見がたたかわれるとき、あらわれてくるのは、ベースにある怒りの感情です。怒りそれ自体は、善悪はありません。しかし、怒りに対してどういう態度をとるかによって、正誤、善悪が生じて きます。
 たとえそれが聖なる怒りと思えるものであっても、怒りに任せて感情的になるとき、それは別物になります。怒りを伝えることと、怒りに任せて感情的になることは違います。感情的になるとき、議論は相手を屈服させること、自分に従わせることが中心となり、時には相手の人格さえ傷つける心無い中傷が表れてきます。これは、顔を合わせた議論をする時ではなく、ネットの世界で匿名でなされるとき特に顕著に表れてきます。私は、ネットの世界でこのような非建設的な中傷が繰り広げられることに心を痛めています。しかし、顔が見える議論でも、それは起こります。教会においては、特に田舎の小さな教会においては、どのような意見を持っていても、匿名ではいられません。政治問題について、賛成反対の意見を持つ場合、まるで宗教対立ででもあるかのような、感情的な対立にしばしばなってしまいます。そして、教会では少数派の立場の人は、教会に居づらくなるのです。ある教会では、政府の出す法案に反対の意見が多数を占める中で、ある信徒が私の耳元で、「実は私は賛成なんですが、そんなこと言えません。」と呟きました。このように阻害されている人がいる懸念を他の信者に伝えたところ、「そのような考えの人は教会に来なくてもよい」と、私と多くの信者の前で断言する人さえいました。正義を主張していながら、これは正義ではありません。聖なる怒りを表明していながら、従っているのは自己中心的な怒りです。しかし、私にとって救いだったのは、小教区訪問時では激しく意見が対立し、ちょっと感情的にもなり後味が悪い議論をした人が、その数週間後の地区大会で、積極的にスタッフとして働き、私を歓迎してくれたことでした。教会でタブーであった話題に正面から立ち向かって、乗り越えられない立場の違いを意識しながらも、主において一つである信仰の本質を保ち続けているこ とを感じうれしく思いました。

 今日の福音のマグニフィカト、これは、「人々を苦しめている現実、抑圧し、差別し、疎外して人権を侵害している社会を変革せよ」と言うメッセージと解釈することもできます。
 私たちが求める、救いは、個人的な救いではなく、このような抑圧や不正がなくなりすべての人が共に救われる世界の実現を意味します。そして、それは座して待って与えられるのではありません。キリストが始められ、命を捧げてくださった救いの技を、教会、すなわち私たちが引き継いで担っていくものです。このマグニフィカトのベースには当然、不正義に対する聖なる怒りがあります。しかし、その怒りは、イデオロギーに基づくものではなく、 抑圧され苦しめられている人々に対する深い共感と哀れみに基づくものです。

 わたしたちの活動を通して「正義と平和」を実現するベースにある感情は、そのような人々への強い共感に基づく「怒り」です。私たちは、イデオロギーに従って行動するのではなく、苦しむ人々への深い共感に基づいて連帯し、そこにある怒りを表明するのです。怒りにとらわれるのではなく、怒りをコントロールして、誰をも傷つけることなく正しく「怒り」 を表明し続けるのが私たちの使命です。


【福音メッセージ 松村神父】



8月15日のメッセージ

昔、TVの中の正義の使者であるヒーローやヒロインになりたいと、憧れを抱き真似をした人も少なくないのではないか。または、伝記小説などに登場する優秀な能力を持った人に憧れて、将来の夢にした人もいるかもしれない。私たちはこのように具体的な人物像を心に置き、日々の学びや生き方にスパイスを与えて、自分を奮い立たせてきたのではないか。私自身も小学生の頃には江戸川乱歩にはまって、明智小五郎のような推理探偵を目指し、とにかく頭の回転を速くしようとクイズやなぞなぞにはまった時もあり、または一方で祖父の死を目の前にして、人を助けてきた祖父に報いるために、人助けの仕事がしたいと誓った時もあった。しばらくすると祖父母の働きを眺めながら高齢者が快適に、幸せに暮らせるためにと当時の有名な建築家を真似ようと学んだ時期もあった。それぞれ時代時代に具体的な人を思い浮かべては、その人になろうとしていた。しかし、ある時それらの人に限界があったことを気づかされた。常にその先には、より有能な人、新しい仕組み、新しいユニバーサルデザインが現れ、夢を描いた人たちは廃れていったのであった。

 今日、聖母被昇天の祝いの日に、何を思うか。聖母マリアの天への昇天は聖書の中に書かれていない。初代教会後の信仰によって祝われるようになり、8世紀末に聖母被昇天として定められ、8月15日に祝われるようになった。しかし教義になったのはわずか70年ほど前である。そもそも東方教会ではマリアの亡くなった日として祝われたが、その後7世紀になってから西方教会にも受け継がれ被昇天の日となった。ただし、正直何が真実かは私たちにはわからない。それよりも日本にとってザビエルが上陸した日が8月15日。そのため日本の守護聖人が聖母マリアとされたことや、終戦記念日が8月15日で戦争の終わりにマリア様の祝日だったこと。これは偶然というよりも、日本に神様が働かれた(啓示)と考える方が私はしっくりくる。聖母マリアへの崇敬は、その先を見る神様の存在を表す象徴と捉えなければならないのだろう。だから決してマリア様を崇拝の対象としてはならないし、神様もそのために昇天したわけではないのだろう。

 教義では「聖母はキリストの救いを完全な仕方で受け、キリストによって成就した救いの範型(TYPE)となった。キリストのもたらした救いは人間の全身心の救済であるから、聖母マリアがキリストの救いの力を完全に受けて、神の栄光に輝いたと信ずるのは当然である。」とされる。だからと言って聖母マリアが特別な存在として信仰するのではなく、今日の祈願文や朗読箇所にもあるように、聖母の被昇天は、キリストによる救いにあずかる人たちの象徴として、信じるすべての私たちの救いへの希望を表現している唯一の人類と捉える必要があるのだろう。先の夢見るヒーローヒロインに憧れ崇拝するのではなく、その先にある正義や平和という願い、神のみ旨をしっかり見なければ、目の前の聖母マリアの存在がぐらついてしまう。被昇天という教えを通して、聖母マリアが昇天され完全に救われたこと、その聖母マリアが願ったことにしっかりと心を向けて、私たちも歩みたいと思う。

8月15日は日本にとって特別な日。神の啓示は、この日において命を優先とし、キリストのいのちにあずかるということを大切にして、具体的な平和を求める日として祈り働いていければと思う。

聖母マリア、そして聖フランシスコザビエルの願った私たちのこの国での幸せを祈りあっていきましょう。



【聖書朗読箇所】


全能永遠の神よ、

あなたは、御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、

からだも魂も、ともに天の栄光に上げられました。

信じる民がいつも天の国を求め、

聖母とともに永遠の喜びに入ることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 ヨハネの黙示録 11章19a、12章1~6、10ab節

 天にある神の神殿が開かれて、 その神殿の中にある契約の箱が見え〔た〕。

 また、天に大きなしるしが現れた。 一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、 頭には十二の星の冠をかぶっていた。 女は身ごもっていたが、 子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。 また、もう一つのしるしが天に現れた。 見よ、火のように赤い大きな竜である。 これには七つの頭と十本の角があって、 その頭に七つの冠をかぶっていた。 竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。 そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、 産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。 女は男の子を産んだ。 この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。 子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。 女は荒れ野へ逃げ込んだ。 そこには、神の用意された場所があった。

わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。 「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。 神のメシアの権威が現れた。」


第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章20~27a節

(皆さん、)キリストは死者の中から復活し、 眠りについた人たちの初穂となられました。 死が一人の人によって来たのだから、 死者の復活も一人の人によって来るのです。 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、 キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。 最初にキリスト、 次いで、キリストが来られるときに、 キリストに属している人たち、 次いで、世の終わりが来ます。 そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、 父である神に国を引き渡されます。 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、 国を支配されることになっているからです。 最後の敵として、死が滅ぼされます。 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。


福音朗読 ルカによる福音書 1章39~56節

 そのころ、マリアは出かけて、 急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、 その胎内の子がおどった。 エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。 「あなたは女の中で祝福された方です。 胎内のお子さまも祝福されています。 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、 どういうわけでしょう。 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、 胎内の子は喜んでおどりました。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、 なんと幸いでしょう。」

 そこで、マリアは言った。

「わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。

今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、 力ある方が、

わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、

その憐れみは代々に限りなく、

主を畏れる者に及びます。

主はその腕で力を振るい、

思い上がる者を打ち散らし、

権力ある者をその座から引き降ろし、

身分の低い者を高く上げ、

飢えた人を良い物で満たし、

富める者を空腹のまま追い返されます。

その僕イスラエルを受け入れて、

憐れみをお忘れになりません、

わたしたちの先祖におっしゃったとおり、

アブラハムとその子孫に対してとこしえに。

 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、 自分の家に帰った。 

2021年8月8日日曜日

8月8日 年間第19主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ ウルバン神父】

第19日曜日  “私は天から来たまことのパンである”。 ウルバン神父

ある日の朝のことでした。イエス様は、前の晩に五つのパンを食べて満腹した大群衆が近づいて来るのを見た。長い道で体は疲れたが、顔が暑さのため真っ赤になって心はすごい期待に燃えた。これから何が行われるでしょうか、今度は何をもらえるでしょうか。その時イエス様は囲まれて何とおっしゃったでしょう。「あなたたちはパンを食べて満腹したから来たのですか。私は新しいパンをあなたたちに与える。それを食べれば、いつまでも飢えることはない」。「そのパンを与えてください、そのパンを欲しい」と皆は叫んで、大きな目で次の出来事を待っていた。

イエス様は不思議そうな、寂しそうな顔で群衆を見まわしていた。人の人気と誉れを、人の飢えるお腹を望んでいたのではなく、素直な心、子供らしい信仰と信頼を心から待っていました。その時のイエス様の答えは、皆にショックとなった。冬の雪と霜が落ちて、すべての命を押さえるような答え。「私は天から降って来たパンである」。皆はびっくりして信じられないような顔をした。「このナザレの人は天から来たのか。とんでもないことだ。親でさえも知っているでしょう」。それで群衆から不平の声が出て、大きな騒ぎが始まりました。イエスはもう一度大声で叫んだ。「私は天から来たまことのパンである。私が与えるパンは私の肉です。これを食べれば、永遠に生きる」。その時、群衆と多くの親しい弟子もイエスを捨て、消えてしまった。イエスの周りには静かになった。

「天からのパンを食べれば、あなた達は生きる」とは本当です。私の一つの体験を聞いてください。留萌という町での出来事でした。そこには元気な、とってもめんこい女の子がいました。瀬ちゃんは、皆が可愛がってくれました。10才ぐらいになった時の出来事でした。子供は雪道で転んだ。ちょうどその時、馬そりを引っ張る馬がその道を通って、転んだ子供の背中を蹴っ飛ばした。その時から明るい生活がとっても暗くなりました。体はもう伸びなくて、背中は丸くなってしまった。大人に変に見られて、子供達に常に虐められて、身を隠すようになった。ところが、何年か後のある日に、おばさんが彼女を教会へ連れた時、初めてイエス様に出会った。イエスにそのままに愛されたことを知って恥ずかしさが消え、喜びが沸いてきた。私は留萌教会の神父になって、古い写真を見た時、すでに大人になって相変わらず小さい瀬ちゃんが、皆に可愛がれて心の故郷を見つけたことを感じた。

その時は大分前から札幌で入院していると言われた。病院で初めて会った時、私はとっても感動した。小さい痩せた体で彼女は床に座っていた。弱い風に飛ばされる羽のような姿が、顔が光に輝いていた。「神父様、お医者さん達は何回も私は死ぬと言いましたが、まだ生きているよ。イエス様は私が何かのために生きてほしいのかなぁ。私は幸せです、毎日イエス様をいただけるから」。私の肉を食べ、私の血を飲む人は生きる、永遠に生きることは彼女の心に刻まれていた。人々がイエスを触れようとしたように、病院の多くの患者さんが毎日彼女の病室に近づいて彼女を見ようとした。あの方の輝く姿に慰められ、強められて自分の病室に帰った。今天におられる聖なる姉妹、瀬ちゃん、私達のために祈ってください、私たちも天から降って来たパンに生きるように。



【聖書朗読箇所】


すべての人を養ってくださる神よ、

  わたしたちはきょうもキリストのもとに一つに集められました。

  いのちの恵みにともにあずかるわたしたちが、

  神の国をめざして歩む力で満たされますように。

   B年用・試用 集会祈願より


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第1朗読 列王記上 19章4~8節


 彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。


 彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、

 自分の命が絶えるのを願って言った。

 「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。

 わたしは先祖にまさる者ではありません。」

 彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。


 御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」

 見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と

 水の入った瓶があったので、

 エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、

 また横になった。


 主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、

 「起きて食べよ。

 この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。

 エリヤは起きて食べ、飲んだ。


 その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、

 ついに神の山ホレブに着いた。



第2朗読 エフェソの信徒への手紙 4章30~5章2節


 神の聖霊を悲しませてはいけません。

 

 あなたがたは、聖霊により、

 贖いの日に対して保 証されているのです。

 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、

 一切の悪意と一緒に捨てなさい。

 

 互いに親切にし、憐れみの心で接し、

 神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、

 赦し合いなさい。

 

 あなたがたは神に愛されている子供ですから、

 神に倣う者となりなさい。

 

 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、

 つまり、いけにえとして 

 わたしたちのために神に献げてくださったように、

 あなたがたも愛によって歩みなさい。



福音朗読 ヨハネによる福音書 6章41~51節


 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」

 と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。

 「これはヨセフの息子のイエスではないか。

 我々はその父も母も知っている。

 どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」


 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。

 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、

 だれもわたしのもとへ来ることはできない。

 わたしはその人を終わりの日に復活させる。


 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。

 父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。

 父を見た者は一人もいない。

 神のもとから来た者だけが父を見たのである。

 

 はっきり言っておく。

 信じる者は永遠の命を得ている。

 わたしは命のパンである。


 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。

 しかし、これは、天から降って来たパンであり、

 これを食べる者は死なない。

 

 わたしは、天から降って来た生きたパンである。

 このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。

 わたしが与えるパンとは、

 世を生かすためのわたしの肉のことである。」