2022年6月18日土曜日

6月19日 キリストの聖体

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。

 


【福音メッセージ】

キリストの聖体 2022年6月19日  

“あなた方が彼らに食べさせなさい” ウルバン神父


もう47年前の昔の事でした。その時20人位の12才から15才までの女の子達、ガールスカウトと共に韓国へ行きました。朝鮮戦争はもはや数年前に終わったのですが、森の中で隠れながら死を待っているライ病人は、まだあちこち見つけられた。フランシスカンの兄弟は、その病人の為に深い田舎で住まいを作って、一人の天使のシスターと共に世話をした。川の向こうから私達は暫くの間祈りながら、その村を眺めた。川を渡って、不安な気持ちで皆に捨てられた病人の村に近づいた時、ある藁小屋から人が出てきた。ある女の子がその姿を見て、ショックで倒れてしまった。

午後になって、別れの時が来ました。村の人は集まっていた。村の人たちを見た時、女の子達は自分の貧しさを感じた。何も助ける事も、上げる事も出来ない事を非常に悲しんでいた。突然、自分の前にいる人が病人だと忘れて、一人の子、また一人、後に皆は走り寄って来て、病人の両手を取って、泣きながらお別れをした。本当に何も出来なかったでしょうか。女の子達は気付かなかったが、最高の事をした。心から溢れる暖かさと愛を、村の人に与えたのです。餓えている心に食べ物を与えた。周りの人に無視され、捨てられたこの人達の心の乾きを、自分の涙で満たしたのです。感動的でした。その日その出来事を、今日まで忘れる事が出来ませんでした。

これからイエス様の所へ行きましょう。イエスは、ご自分の周りのおびただしい群衆を見ていた。もう三日間、付いてきました。食べ物はもうないし、疲れ果て、倒れるような羊のように見えた。イエスは彼らの餓えを深く感じた。体の餓えだけでしょうか。いえ。イエスは群衆を見回しながら、人の顔、人の目の中にもっと深い餓えを見ました。生活の厳しさと重荷に力が消え、心が餓えていた。その時、弟子たちに「あなた方が彼らに食べさせなさい」と言われた。それで、弟子たちは男の子を引っ張って来た。かわいそうな子。自分のパンを隠したのに、見つけられた。

ところが、イエスに優しく見つめられた時、一つ、また一つのパンを渡した。最後のパンを手に持っていた時、戸惑って、困った顔をした。「これは最後のパンだ。僕も食べたい」と。そのパンを手に持って、自分を囲んでジッと眺めた子供達の大きな目を見た時、心が打たれた。その時さっと手を伸ばして、最後のパンをイエスの手に入れた。イエスは微笑みながらその最後のパンを受け取って、この小さなパンで何千人を食べさせる事が出来た。男の子がそれを見て、最も喜んでいた。私達にも声が聞こえるでしょうか、「ご覧なさい、餓えている人が多い。あなたも食べさせなさい」と。

ある日、若い母親が薄暗い聖堂に入って来た、手にバスケットを持って。その中に泣いている子供がいた。母親はバスケットを聖櫃の前に置いて、暫く静かに祈っていた。そのうちに、泣き声が消えてしまった。祈った後、母親はまたバスケットを取って帰ったが、子供はもう静かに寝ていた。今日も御聖体ランプの光が輝いて、私達を呼んでいます。「私はいつもあなた達と共にいる。子よ、あなたの為に私の心の門は開いている。来て、昼でも、夜でも、私はあなたを待っている」と。


【聖書朗読箇所】

恵み豊かな父よ、

御子キリストは、その死を記念するとうとい秘跡を教会に残してくださいました。

主のからだを受け、救いの力にあずかるわたしたちが、主の死を告げ知らせることができますように。

集会祈願より


第1朗読 創世記 14章18-20節

いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。

彼はアブラムを祝福して言った。

「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。

敵をあなたの手に渡されたいと高き神がたたえられますように。」

アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。


第2朗読 コリントの信徒への手紙一 11章23-26節

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。

すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、

「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。


また、食事の後で、杯も同じようにして、

「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。


だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。


福音朗読 ルカによる福音書 9章11b-17節

イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。


日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。

「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。

わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」


しかし、イエスは言われた。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。

「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、

わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」


というのは、男が五千人ほどいたからである。

イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。


弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。


すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、

裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。


すべての人が食べて満腹した。

そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

2022年6月11日土曜日

6月12日 三位一体の主日

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ 湯澤神父】


2021年6月12日 三位一体の主日

兄弟姉妹の皆様

  「三つにて一つくしき神、教えのままに我は信ず」。覚えているでしょうか。『カトリック聖歌集』の232番の出だしです。まさに私たちは、三位一体の神は神秘ですからとにかく教えられたままに信じなさい、と教わりました。

  神秘、その通りでしょう。どう考えても三つは一つになりませんし、一つは三つになりません。しかし、この教えの背景となっているものを考えてみましょう。背景には、神父たちが学ぶスコラ哲学、スコラ神学にあります。そして、この基本は存在論という難しい議論です。古代のギリシア人たちが探究したのは、「あるとは何だろうか」ということでした。そして、あるということはどうしても「あるもの」の「ある」の研究になります。とすると、存在の根源である神様も、あるものということになります。つまり、父と子と聖というと、三つのあるものということになるのです。しかし、三つはどうしても一つになりません。とはいえ、三位一体の神様ですから、三つが一つ、一つが三つという話になり、それは神秘で、教えられたままに信じなさいということになります。

  では教会はこのようにだけ神様について考えているのでしょうか。実は、そうでもないのです。例えば、聖家族の原型は三位一体の交わりにあります。つまり、神様を交わりとして見る見方です。福音書を書いたヨハネは交わりとして神様を見ています。ヨハネが意識していた否かは明白ではありませんが、互いに愛し合う愛の原型が三位一体の神様にあるなら、その愛は一つになる愛です。イエス様は、「父が私を愛したように、私もあなた方を愛してきた。私の愛に留まりなさい」、また「互いにありし合うこと、これが私のおきてである」。「友のために命を捨てる、これに勝る大きな愛はない」とおっしゃっていいます。御子の御父への愛は、御父の御子への愛ですが、イエス様は、同時に弟子たちとの間に成り立つように願っています。この「愛・愛する」という言葉は、愛する者のために愛する者にとっての最も善いものを選び、与えようとする愛を意味しています。つまり、御父は御子に対して最高のものを願い、最高のものを与えようとします。同じようにそれに私たちをそれに加えようともしています。それは、御父と御子が一つになるような愛です。ですから、私たちも御子と御父と一つの成る愛の内に入れてもらえるのです。

  ヨハネは、その第一の手紙の中でこう述べています。御子を伝えるのは、あなた方も「私たちと交わりを持つようになるためです」。「私たちの交わりとは、私たちが父とその子イエス・キリストとに交わることです」。まさに私たちが生きている神様の交わり、御父と御子の交わりに私たちも加えていくことなのです。だから私たちは、神様を伝えるのです。神様まで含めた大きな愛の交わりこそ、三位一体の交わりの広がりです。神様を交わりとして見直すとき、三位の交わりに留まらない大きな交わりを想像することができます。こうして、神様のことを交わりとして見ることは大切なことではないでしょうか、そして、その神様を伝え、その交わりを広げることも。 湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


聖なる父よ、

  あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、

  神のいのちの神秘を示してくださいました。

  唯一の神を礼拝する私たちが、

  三位の栄光をたたえることができますように。

   集会祈願より




第1朗読 箴言 8章22~31節


 (神の知恵は語る。)

「主は、その道の初めにわたしを造られた。

いにしえの御業になお、先立って。

永遠の昔、わたしは祝別されていた。

太初、大地に先立って。

わたしは生み出されていた

深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。

山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが

わたしは生み出されていた。

大地も野も、地上の最初の塵も

まだ造られていなかった。

わたしはそこにいた

主が天をその位置に備え

深淵の面に輪を描いて境界とされたとき

主が上から雲に力をもたせ

深淵の源に勢いを与えられたとき

この原始の海に境界を定め水が岸を越えないようにし

大地の基を定められたとき。

御もとにあって、わたしは巧みな者となり

日々、主を楽しませる者となって

絶えず主の御前で楽を奏し

主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し

人の子らと共に楽しむ。




第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~5節


 (皆さん、)わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、 神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。 わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。 わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。




福音朗読 ヨハネによる福音書 16章12~15節


 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)言っておきたいことは、まだたくさんあるが、 今、あなたがたには理解できない。 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。 その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 その方はわたしに栄光を与える。 わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。 だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」


2022年6月4日土曜日

6月5日 聖霊降臨の主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ レイ神父】

2022年、6月5日、ペンテコステ祭

 聖霊降臨で聖霊を受けた使徒たちがまず最初に行ったことは、イエスに続いて神の国を告げ知らせることでした。漁師や徴税人たちが演説や説教をする者たちとなり、聖霊の力で、使徒たちの言葉はただ一回の福音宣言で三千人の人々の信仰に火をつけたのです。聖霊の圧倒的な力は使徒たちにイエスからの約束を果たさせました。そして使徒言行録は、使徒たちが奇跡やさらにもっと力強い無欲の生活の新しい道を含めて、偉大な行いを使徒たちがやり続けたことを私たちに語り続けるのです。自分本位の罪の束縛はとかれ、聖霊は私たちが再び罪に縛られることはないと約束します。

 聖霊降臨がやがてやってくることを知っていたイエスは弟子たち(私たちにも)に聖霊は父と私たちを結びつけるために働きつづけるのだと教えます。イエスは人類を十字架上のご自身の中に受け入れ、完全に聖なる、完全な人間として天に昇り、神の存在、そのものに私たちが入ることを許されました。イエスは、聖霊は私たちの内におり、そしていつも共にいる-聖霊の存在は、私たちに心を騒がせる必要はないことを確信させる-と約束されます。

 神学的な言葉では私たちは制限されているものの、神の三位一体に与りイエスと聖霊を通し、父である神を知り愛するようになります。ペンタコステという言葉は、父と子と聖霊がどのようにして完全に調和して互いに在るかを表すのに用います。そして今はもう、聖霊が私たちの内に宿るのですから、私たちもまた神の内に住むようになって行くのです。イエスがトマスに語ったように、父の家に場所を用意しにイエスは行かれたのです。それは用意され待っており、聖霊の導きにより私たちはそこへ向かうのです。

 これが私たちへの遺産です。イエスがなされている仕事にイエスと共に参加するためです。聖霊は、私たちを教え、慰め、そして私たちが父と子と聖霊に招かれているという事を常に指し示しています。私たちはクリスチャンとして、私たちの遺産は富や物の蓄積ではない事を知っています。一番大切な遺産はイエスとの関係です。弟子たちに約束なされた聖霊を通してくる関係です。この約束は聖霊降臨で実現され、そして今日も続いているのです。



【聖書朗読箇所】


すべての人の父である神よ、

  きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、

  あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。

  聖霊を世界にあまねく注いでください。

  教会の誕生にあたって行われた宣教の働きが、

  今も信じる民を通して続けられ、

  豊かな実りをもたらしますように。

   集会祈願より




第1朗読 使徒言行録 2章1~11節


 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、 信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。 そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 人々は驚き怪しんで言った。 「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。 また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」




第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章8~17節


 (皆さん、)肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。 キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。 しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。 この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 もし子供であれば、相続人でもあります。 神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。 キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。




福音朗読 ヨハネによる福音書 14章15~16、23b~26節


 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。) 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。 父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。 わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。 あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、 わたしをお遣わしになった父のものである。

 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、 あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。



2022年5月27日金曜日

5月29日 主の昇天

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】


2021年5月29日 主の昇天の主日

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様


  今日の第一朗読は、ルカが描いた『使徒言行録』の箇所で、イエス様が天に昇った後の出来が事が描かれています。ところが、『福音』朗読では、イエス様の宣教活動の終わりが描かれています。つまり、第一朗読では、後で起こった出来事が、福音朗読では先に起こっている出来事が朗読されます。先のものが後になり、後のものが先になる、いわば逆転現象が起きています。ですから、かえってその違いを意識することができます。

  福音書では、イエス様は、ご自分の宣教活動について説明した後、エルサレムを離れないように命じています。それは、聖霊を受けるためでした。他方、第一朗読では、出かけていくように勧めています。それは、聖霊を受けるからです。福音書では、「あらゆる国の人へ」と福音宣教を命じていますが、その地域は抽象的に語られています。しかし、第一朗読では、「エルサレム、ユダヤ、サマリア、地の果てまで」とより具体的な地名を挙げています。更に、『使徒言行録』の内容を見ると、エルサレムから始まる福音宣教は、ステファノの出来事を介してサマリアでの宣教に移り、最終的にフィリポが当時の地の果てと思われていたエチオピアの高級官僚に福音を伝えることで、より具体的になっています。そして更に、スペインを目指したパウロを考えるにいれると、その広がりが、より現実味を帯びてきています。

  二つの朗読を結びつけているのは、聖霊の授与による福音宣教です。聖霊降臨の出来事を介して二つの朗読は、エルサレムに留まるか、出発するかが異なりますが、結局は宣教に出かけるよう呼びかけているのです。ここで面白いのは、二人の人、天使の存在です。おそらく空の墓にいた天使たちでしょう。二人は弟子たちに「なぜ天を見上げて立っているのか」と注意しています。今日的な言い方で表すと、「なぜボケーっと立っているのか」と注意していると理解していいでしょう。弟子たちは、強く福音宣教へと促されています。

  福音書では、福音宣教への促しは、イエス様自身がしていますが、その促しは「食事を共にしていた時に」です。これはミサを暗示していると言えるでしょう。そして、ミサと福音宣教が密接に結びついていることを示しています。『使徒言行録』では、来週記念する聖霊降臨、つまり聖霊の働きと福音宣教が、『福音書』より密接に結び付けられていると言えるかもしれません。それに引き換え、『福音書』ではミサにより密接に結びつけられていると捉えることができます。

  さて、私たちは、ミサに出た時に福音宣教を意識するでしょうか。自分が派遣されていると意識するでしょうか。聖霊の働きだけではなく、ミサにおいてもイエス様は、その都度、私たちを福音宣教に派遣しているのです。このことを私たちは強く意識したいものですね。

湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


全能の神よ、

  あなたは御ひとり子イエスを、

  苦しみと死を通して栄光に高め、

  新しい天と地を開いてくださいました。

  主の昇天に、わたしたちの本来の姿が示されています。

  キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、

  ともに永遠のいのちに入らせてください。

   集会祈願より




第1朗読 使徒言行録 1章1~11節


 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、 イエスが行い、また教え始めてから、 お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、 天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

 イエスは苦難を受けた後、 御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、 四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、 父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、 あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 さて、使徒たちは集まって、 「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、 この時ですか」と尋ねた。 イエスは言われた。 「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、 あなたがたの知るところではない。 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、 また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、 雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 イエスが離れ去って行かれるとき、 彼らは天を見つめていた。 すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。 あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、 天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」




第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章24~28節、10章19~23節


 キリストは、まことのものの写しにすぎない、 人間の手で造られた聖所にではなく、 天そのものに入り、 今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。 また、キリストがそうなさったのは、 大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、 度々御自身をお献げになるためではありません。 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。 ところが実際は、世の終わりにただ一度、 御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、 現れてくださいました。 また、人間にはただ一度死ぬことと、 その後に裁きを受けることが定まっているように、 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、 二度目には、罪を負うためではなく、 御自分を待望している人たちに、 救いをもたらすために現れてくださるのです。

 それで、兄弟たち、 わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。 イエスは、垂れ幕、 つまり、御自分の肉を通って、 新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。 更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、 心は清められて、良心のとがめはなくなり、 体は清い水で洗われています。 信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 約束してくださったのは真実な方なのですから、 公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。




福音朗読 ルカによる福音書 24章46~53節


 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「聖書には)次のように書いてある。 『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、 その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。 エルサレムから始めて、 あなたがたはこれらのことの証人となる。 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。 高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、 手を上げて祝福された。 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

2022年5月21日土曜日

5月22日 復活節第6主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


【福音メッセージ】

(5月22日)復活節第6主日 福音のメッセージ  「一致」  

松村繁彦 神父

今日の第一朗読では、ペトロを中心とした弟子たちの最初の会議、使徒会議(第一エルサレム公会議とでもいうのだろうか)が開かれたが、そこで議論となったのは、律法を厳格に守るべきかそうではないかという議論が中心であった。人間が集まるとどうしてもルールというものや基準になるものが必要となるし、人が増えれば統治するためには厳密にしていかなければ、後々面倒になるから決め事は、ある程度致し方ないことでしょう。

ただその場合、人間同士の議論だとどうしても「守る」か「守らないか」の間の二択で論争が起きてしまうが、今日の福音は第3の道を私たちに教えてくれているのではないだろうか。

「わたしを愛する人は、私の言葉を守る・・・父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」「・・・聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え。」「わたしは・・・わたしの平和を与える」

教会で「聖霊による識別」という言葉を聞いたことがあるかもしれない。イエスは自らの平和を「世が与えるように与えるのではない。」ということから、違う導き方があることを教え、それが聖霊によることであることを知らせる。聖霊は一致へ導くものであって、分裂していたら「神不在」を示す。「神不在」ならば「愛不在」、誰かと一緒に居るのも嫌になる。

昔、高校生の時に練成会があり、同じ世代が大勢集まった。3泊かけていろいろと分かち合い、作業をしながら神様のことを話した。多感な時期ではあったが、「こんなに充実した時」「密度の濃い時間」を過ごしたのも初めてだった。わずかな時間なのに同じグループのメンバーの気持ちが手に取るようにわかり、互いの心が通じ、この時間「凝縮された時」と感じた。もっと長く続いたらと思った経験があった。まるで兄弟姉妹を通り越して一体となる経験。きっとその時聖霊の風が吹き、我々を一致に向かわせたのだろうと今も信じている。その時のグループのメンバーの心の向きようを考えながら今、現代社会ではどれだけ人々の心がバラバラだろうか。その人たちが一致の体験もしないで議論するのだから当然分裂するし、一般的な判断しかできないのだろう。

大事なことは、我々の心が共同体のために「神とともに住み」「言葉を超えて理解し」、そして「キリストの平和」にあずかり「聖霊に聞き従い判断する」こと。つまり「一致の体験」。神の愛に包まれたとき、その答えは「律法を守るか守らないか」ではなく、知らないうちに答えが導かれる。これは一人ではできない。

今回のペトロの回答は、「必要なこと以外に重荷を負わせない」こと「派遣されたものの言葉を聞くこと」。それは一人一人弟子となった私たちに、より愛を聞き・語り・派遣される力が与えられていることを、もっと信じるようにと言う私たちへのエールなのだろうと感じた。


【聖書朗読箇所】


主イエスの父である神よ、
  あなたはみことばと聖霊によってわたしたちの内に来られ、
  いつもともにいてくださいます。
  ここに集うわたしたちの心をキリストの平和と喜びで満たしてください
   集会祈願より



第1朗読 使徒言行録 15章1~2、22~29節

ある人々がユダヤから下って来て、
「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、
あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。

それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、
激しい意見の対立と論争が生じた。
この件について使徒や長老たちと協議するために、
パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。

そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、
パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。
選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、
兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。

使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。
「使徒と長老たちが兄弟として、
アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、
異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。

聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、
わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、
あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。

それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、
そちらに派遣することを、
わたしたちは満場一致で決定しました。

このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために
身を献げている人たちです。

それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、
彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。

聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、
一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。

すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、
みだらな行いとを避けることです。
以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」



第2朗読 ヨハネの黙示録 21章10~14、22~23節

この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、
聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、
天から下って来るのを見せた。

都は神の栄光に輝いていた。
その輝きは、最高の宝石のようであり、
透き通った碧玉のようであった。

都には、高い大きな城壁と十二の門があり、
それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。
イスラエルの子らの十二部族の名であった。

東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。

都の城壁には十二の土台があって、
それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。

わたしは、都の中に神殿を見なかった。
全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。

この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。
神の栄光が都を照らしており、 小羊が都の明かりだからである。



福音朗読 ヨハネによる福音書 14章23~29節

イエスはこう答えて言われた。
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。
わたしの父はその人を愛され、
父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。

わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。
あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、
わたしをお遣わしになった父のものである。

わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。

しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、
あなたがたにすべてのことを教え、
わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
心を騒がせるな。おびえるな。

『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』
と言ったのをあなたがたは聞いた。
わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。
父はわたしよりも偉大な方だからである。

事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、
今、その事の起こる前に話しておく。

2022年5月14日土曜日

復活節第5主日 福音メッセージ

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ ウルバン神父】

復活節    5月15日   “今や、神は栄光をお受けになった”  ウルバン神父

  さて、ユダが晩さんの広間から出てきた。そこに何があったでしょうか。私達も静かに階段を上って、幾つかの油の火に照らされた広間の中を覗きましょう。弟子たちは薄暗い部屋の中でテーブルを囲んで、ジッとイエスの悲しそうな姿を見ていた。「あなた達の内の一人が私を裏切る」とイエスが言ったのである。その時、パンを取って、汁に浸して、言葉で言い表せない表情で一人、また一人を見つめた。最後に、しばらくの間ユダを見つめて、彼にそのパンを渡した。弟子達はその親しみ深いわざを見て、「ユダ、お前が羨ましい、なあ。僕達よりもお前をそんなに愛しているのか」と心の中で考えていた。イエスとユダは互いを静かに見つめあった。ユダはイエスの目を見た時、何と感じたでしょう。主の心を見る事ができた。「我が子よ、我が友よ、何をしようとするのか。本当に裏切るのか。愛しているのに、友よ、愛しているのに」と。

  ユダのそばに、見えない敵がすでに待ち伏せている。彼の中にまだ不安、まだ戦いがあったでしょうか。分かりません。主の顔を見ながらパン切れに手を出したその瞬間に、決定した。「俺は決めた。やろう、裏切ろう」と。親しみのパン切れを食べながら、敵に心の門を開けた。その時、サタンがユダの中に入った。もう皆と一緒に、イエスと一緒に居られなかった。晩さんの広間から出た。外は夜でした。主はユダをもう止めようとしなかった、止める事もできなかったが、最後まで彼を守ろうとして、集まっている弟子に何も言わなかった。打たれても、捨てられても、和解の手を差し出しながら、いつか帰って来るのを待っていた。ペトロはその夜、鶏が鳴いた時、泣きながら帰って来たが、ユダは帰って来ませんでした。

  私達も暗闇の道を歩こうとする時、イエスは今でも手に親しみのパン切れを持って私とあなたの前に立って、慈しんで言うのである。「我が子よ、あなたを愛しています。それでも離れようとするのか。いつか帰ってくるのを待っている。いつまでも待っている」。もしも自分が主から離れたら、孤独になり、光から離れたら、暗闇にさまよう。主との暖かさを失うと、心は凍って、死んでいきますが、イエスはあなたが生きて欲しい。

  ユダが外へ消えた時、イエスは友を見回しながら言われた「今や、人の子が栄光を受けた、神も栄光をお受けになった」。深みのあり、理解しがたい、神秘に包まれている言葉。弟子達もその時、何も分からなかったでしょう。自分を無視して、人に潰されて、それでも愛し続ける事を。その夜、イエスは友に最後の願いを表した。「互いに愛し合いなさい、私があなたがたを愛したように」と。ところが、弟子はイエスの十字架につけられた見苦しい姿を見て、その言葉「父よ、彼らを許してください。何をしているか分からないからである」を聞いた時、少し分かるようになった。潰されても、愛する事は負けではなく、かえって、これこそは勝利、神の栄光の現れである。今でも、イエスの願いに生きようとしたら、必ず約束の霊に助けてくれる。

私の母は74才の時、肝臓がんで亡くなりました。司祭である兄は毎晩側にいて祈ったり、歌ったりした。苦しみの中の母の最後の言葉は「もう一回あの楽しいアレルヤを歌って」。兄は泣きながら歌った。「アレルヤ、アレルヤ、主に感謝。アレルヤ、主に賛美。アレルヤ、主に栄光」。母の唇がちょっと動いて、痛みのうちに心の中で神を賛美した。その後、目を閉じたが、兄は母の手を取って「母ちゃん、勝ったぞ、勝ったぞ」と叫んだ。その時、神が母によって栄光をお受けになった。



【聖書朗読箇所】


ともにいてくださる神よ、

  あなたはキリストを死者の中からよみがえらせ、

  限りないいつくしみを示してくださいました。

  わたしたちが互いに愛し合うことによって、

  愛そのものである神をあかしする者となりますように。

   集会祈願より




第1朗読 使徒言行録 14章21b~27節


二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、

リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、


弟子たちを力づけ、

「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」

と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。


また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、

彼らをその信ずる主に任せた。


それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、

ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、


そこからアンティオキアへ向かって船出した。

そこは、二人が今成し遂げた働きのために

神の恵みにゆだねられて送り出された所である。


到着するとすぐ教会の人々を集めて、

神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、

異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。




第2朗読 ヨハネの黙示録 21章1~5a節


わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。

最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。


更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、

夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、

神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。


そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。

神は自ら人と共にいて、その神となり、


彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。

もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。

最初のものは過ぎ去ったからである。」


すると、玉座に座っておられる方が、

「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、

また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、

また真実である」と言われた。




福音朗読 ヨハネによる福音書 13章31~33a、34~35節


さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。

「今や、人の子は栄光を受けた。

神も人の子によって栄光をお受けになった。


神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、

神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。

しかも、すぐにお与えになる。


子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。

あなたがたはわたしを捜すだろう。

『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』

とユダヤ人たちに言ったように、

今、あなたがたにも同じことを言っておく。


あなたがたに新しい掟を与える。

互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、

あなたがたも互いに愛し合いなさい。


互いに愛し合うならば、

それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、

皆が知るようになる。」

2022年5月5日木曜日

5月8日 復活節第4主日 福音メッセージ

 湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ 湯澤神父】

2022年5月8日 復活節第4主日

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

  今日の福音の箇所は、短いですが、善い牧者であるキリストについて語っています。この章(10章)では、初めからイエス様の教え、羊飼い、羊の門、良い羊飼いなどのたとえが語られています。羊飼いのイメージは、旧約聖書の中でも用いられており、もともと遊牧民族であったイスラエル人たちにとってイメージしやすいものだったのでしょう。イエス様も、見失った羊など、いくつかたとえ話を残しています。続いて神殿奉献記念祭の頃の出来事として、今日の福音の箇所が登場します。これは、これらのたとえ話の前の盲人を癒す出来事(9章)と関連しています。見ても見分けられない、聞いても聞き分けられないユダヤ人に対する言葉です。

  話は飛びますが、私がまだ大学生だった頃、ある日、主任司祭が「怒られちゃったよ」と話しかけてきました。「どうしたんですか」「『〇〇に、お宅は男の子が多いのだから一人くらい神様に捧げてはどうか』と言ったら、『どうでもいい子なんて一人もいません。一人ひとり私の大切な子です』と叱られた」。その頃は、子供が多い家庭がいくつかあって四五人の男の子がいる家庭もありました。主任司祭としては、一人くらい神様にお捧げしていいのではないかと考えたのでしょうが、「一人くらい」という言葉にお母さんとしては引っかかったようです。

  イエス様と羊の関係も同じなのでしょうね。たとえ百頭いても、「百頭いるから一頭くらいはいなくなってもいいや」という関係ではないようです。共観福音書の見失った羊を探す例えはこの関係を示しています。ヨハネの福音書では、この関係が直接語られています。「誰も奪い去ることはできない」。なぜなら、何よりも価値があるから、大切だからです。イエス様は、ご自身そして御父と私たちとの関係をこう表現しています。旧約聖書では、民と契約を結んだ神様を、「慈しみと誠実さに満ちている」と表現しています。イスラエルの民を植民の中から選だ慈しみ深い神様は、その民との関係に「忠実であること(誠実さに満ちている)こと」を意味しています。父である神様と民との関係は、イエス様と私たちの関係と同じです。

  ここで、少し考えてみましょう。絆は、誰かとの絆、双方向的な関係です。一方通行的な関係ではありません。イエス様や神様がこうした絆を私たちと結んでくださったとしたら、その相手である私たちはどうでしょう。私たちは、選んで、新しい命を与えてくださった父である神様とイエス様に対して、「誠実」でしょうか。イエス様は、私たちに別のたとえ話でこれを表しています。ブドウの幹と枝の関係です。ヨハネは、共観福音書と違って特にイエス様との人格的な、個人的なつながり、絆を強調しています。イエス様は、羊飼いのたとえで神様の側からの関係を語っていますが、私たちの側からの関係を考えてみることも重要なことではないでしょうか。絆は相互の関係ですから。   湯澤民夫



【聖書朗読箇所】


救いの源である神よ、

  まことの過越(すぎこし)の小羊であるイエスは、

  すべての羊にいのちを与えるために自ら苦しみをお受けになりました。

  主の過越をともに祝うわたしたちを、

  キリストの愛といのちで満たしてください。

   集会祈願より




第1朗読 使徒言行録 13章14、43~52節


パウロとバルナバはペルゲから進んで、

ピシディア州のアンティオキアに到着した。

そして、安息日に会堂に入って席に着いた。


集会が終わってからも、

多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、

二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。


次の安息日になると、

ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。


しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、

口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。


そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。

「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。

だがあなたがたはそれを拒み、

自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。

見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。


主はわたしたちにこう命じておられるからです。

『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、

あなたが、地の果てにまでも

救いをもたらすために。』」


異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。

そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。


こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。


ところが、ユダヤ人は、

神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、

パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。


それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。

他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。




第2朗読 ヨハネの黙示録 7章9、14b~17節


この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って[いた。]


長老はまた、わたしに言った。

「彼らは大きな苦難を通って来た者で、

その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。


それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、

昼も夜もその神殿で神に仕える。

玉座に座っておられる方が、

この者たちの上に幕屋を張る。


彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、

太陽も、どのような暑さも、

彼らを襲うことはない。


玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、

命の水の泉へ導き、

神が彼らの目から涙をことごとく

ぬぐわれるからである。」




福音朗読 ヨハネによる福音書 10章27~30節


わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。

わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。


わたしは彼らに永遠の命を与える。

彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。


わたしの父がわたしにくださったものは、

すべてのものより偉大であり、

だれも父の手から奪うことはできない。


わたしと父とは一つである。」

2022年4月27日水曜日

5月1日 復活節第3主日

 レイ神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてお送りします。




【福音メッセージ】

5月1日、2022年

復活節第3主日 ヨハネによる福音書21章1-19

最初に知っておいて欲しいのは、弟子たちが一晩中漁をしても何もとれなかったということが重要だということです。彼らは不漁でがっかりしていたでしょうし、もう漁をする気もなかったことでしょう。ですがイエスはシモンに漁をするよう言われ、シモンはそのようにしました。その結果は、もう引き上げられないくらい沢山の魚が網にかかっていたのです。

ここで見逃してはならない象徴的な意味のひとつは、イエスがシモンに水の中に深く網を打つよう言われたことです。これは何を意味するのでしょうか。

この部分では魚を捕るという具体的な奇跡のことだけではなく、それ以上に福音を説き神からの使命を果たす派遣について述べられています。水中深くという象徴的意味は、そうせよと招かれ、神の言葉を福音宣教する為に、私たち全てが参加し完全にそのことに係わるべきだということです。

神の意志に徹底的に深く関わりながら、神の言葉を聞き行動するとき、神は魂へのゆたかな捕獲をお与えになります。この「捕獲」は思いもよらない時、方法でもたらされ、それは明らかに神の御わざなのです。

しかしもし、シモンがイエスに「申し訳ありません、今日はもう漁は終わりで、多分明日にします」と笑いながら言ったとしたらどうなったか考えてみて下さい。もしシモンがこのようにしたなら、豊かな漁で祝福されることは決してなかったことでしょう。同じことが私たちにも言えます。人生において神の声に耳を傾けないなら、神の根本的な命令に心を留めないならば、神が望まれる方法で私たちをお使いにならないでしょう。

救世主の声にこたえ、喜んで行動することについて、今日は黙想しましょう。全てにおいて「はい」と主に喜んで言えますか?主の指し示すことに喜んでしっかりと従えますか?もしそうなら、主があなたの人生になされることにきっと感嘆することでしょう。



【聖書朗読箇所】


恵み深い神よ、

  あなたは愛するひとり子を世の救いのために与えてくださいました。

  あなたの愛に生きる喜びでわたしたちを満たし、

  ともにいてくださるキリストに従う者としてください。

   集会祈願より




第1朗読 使徒言行録 5章27b~32、40b~41節


彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。


「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。

それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、

あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」


ペトロとほかの使徒たちは答えた。

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。


わたしたちの先祖の神は、

あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。

神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、

この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。


わたしたちはこの事実の証人であり、また、

神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、

このことを証ししておられます。」


使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、

イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。


それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、

最高法院から出て行[った。]




第2朗読 ヨハネの黙示録 5章11~14節


また、わたしは見た。

そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。

その数は万の数万倍、千の数千倍であった。


天使たちは大声でこう言った。

「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、

そして賛美を受けるにふさわしい方です。」


また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、

そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。

「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、

そして権力が、世々限りなくありますように。」


四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。




福音朗読 ヨハネによる福音書 21章1~19節


その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。

その次第はこうである。


シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、

ガリラヤのカナ出身のナタナエル、

ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。


シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、

彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。

彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。

しかし、その夜は何もとれなかった。


既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。

だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。


イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、

彼らは、「ありません」と答えた。


イエスは言われた。

「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」

そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、

もはや網を引き上げることができなかった。


イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。

シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、

裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。


ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。

陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。


さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。

その上に魚がのせてあり、パンもあった。


イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。


シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、

百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。

それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。


イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。

弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。

主であることを知っていたからである。


イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。

魚も同じようにされた。


イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。


食事が終わると、 イエスはシモン・ペトロに、

「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。

ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、

あなたがご存じです」と言うと、

イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。


二度目にイエスは言われた。

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、

あなたがご存じです」と言うと、

イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。


三度目にイエスは言われた。

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、

悲しくなった。そして言った。

「主よ、あなたは何もかもご存じです。

わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」

イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。


はっきり言っておく。

あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。

しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、

行きたくないところへ連れて行かれる。」


ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、

イエスはこう言われたのである。

このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。


ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。

この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、

「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。


2022年4月23日土曜日

4月24日 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ 松村神父】


「今日、大阪駅前の阪神百貨店で、北海道フェアーしてるらしく、松村神父さんを思い出したから、買いに行ってくるわ。」という一本の電話が来た。「神父さんの分まで買ってきたるわ」「は?おれいらんし、こっちで食べるわ」っていう意味ない会話も楽しめる、こんな気さくな大阪のおばちゃんと、今でもつながっている。この話には落ちがありまして、伝言ミス、カレンダーの見間違えで一日早く終わっていたとのこと。残念な話である。そのあと愚痴を言われたのは言うまでもない事である。

ところでふと思ったことだが、ここに今日の聖書を考えるうえで参考になるのではないかと感じた。

先の話には目の前にない物を、ある情報を基に信じるという行為が発生している。北海道フェアーと聞くだけで、いくつかのメニューを思い出し、喜び、イメージが膨らみ、「買い物に行こう!」と体に沸き起こる衝動。見ずとも語られる言葉を信じ、そのために動こうとする心の動きは、ある意味今日の、「見ないのに信じる人は幸い」かもしれない。聖書の言葉を実行しようとすると、難しいのだが、日常生活では簡単にやりのける私たちがいる。そして、それだけ北海道フェアーに魅力を感じ、日常生活で少しでもホッコリとしてくれるのなら、道民にとって喜ばしい限りであるし、誇りにもなるのでしょう。

ところが復活の出来事を考えると、途端にそこには高い敷居が存在してくる。それは復活という出来事が単純な人体の蘇生ではなく、高い次元での“いのち”、「体の復活と永遠のいのち」であるということ。そしてこれらは、見る事、見ない事のどちらからも信じることができるという不思議な体験を弟子たちが味わったということである。大切な師匠イエスが取り去られ、宣教活動に大きな穴が開いた弟子たちは、迫害を受けることを恐れ、大黒柱が倒され、悲嘆にくれていた。まだまだ先導を切って、“この世改革”を期待していた弟子たちにとっては、迷子となってしまったのである。一方女性たちは、癒され慰められた経験を持つマグダラのマリアを筆頭に、心の支柱であったイエスの言葉に強いつながりを持っていた。イエスが取り去られた具体的な事実の寂しさはあるが、心に刺さった言葉はなくならない。イエスと再会する両者は、それぞれ亡くなったイエスに対する心情は微妙に違ったのではないだろうか。そこで、言葉で気づいたマリアと対象的に確証を得ようとするトマスの存在が浮き彫りとなる。

今日の聖書ではこれらを理解するためには事前の予兆、すなわち“しるし”を通して、現場や現状から信じるのではなく、思い起こして信じるという出来事であるという事が強調されているのではないだろうか。イエスの出来事のほとんどは、この“しるし”が重要と言われている。私たちに与えられているしるしは、既に弟子たちにイエスが示している。その言葉を思い起こすことこそ、見ないで信じる大切なヒントとなるのだろう。

そして今日の聖書では「布が置かれた空の墓」がしるしとなる。そこに「三日で神殿を建て直す」「三日目に復活する」という言葉が重なる。

このしるしと言葉が重なったときに、自分の中に確信が芽生えてくる。救いのために信じる行為は信仰となり、しるしの無い北海道フェアーは自分を満たすための単なる信じた行為となる。同じ信じる行為でもこのように違いがあるという事でしょう。

しるしを“見る”とは、既に示されたものから救いを見出すこと。目の前の物を“見る”こととは違うことが今日示されているので、既にイエスから与えられた“種”を見出していきましょう。



【聖書朗読箇所】

あわれみ深い神よ、

  あなたは、キリストのとうとい血によってわたしたちをあがない、

  水と聖霊によって新しいいのちを与えてくださいます。

  年ごとに主の復活を祝うわたしたちが洗礼の恵みを深く悟り、

  信仰に生きることができますように。

   集会祈願より




第1朗読 使徒言行録 5章12~16節


使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。

一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、


ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。

しかし、民衆は彼らを称賛していた。


そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。


人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。

ペトロが通りかかるとき、

せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。


また、エルサレム付近の町からも、

群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、

一人残らずいやしてもらった。




第2朗読 ヨハネの黙示録 1章9~11a、12~13、17~19節


わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、

その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。

わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。


ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、

後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。


その声はこう言った。

「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、

ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」


わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。

振り向くと、七つの金の燭台が見え、


燭台の中央には、人の子のような方がおり、

足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。


わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。

すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。

「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、


また生きている者である。

一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。


さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。




福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~31節


その日、すなわち週の初めの日の夕方、

弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。

そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、

「あなたがたに平和があるように」と言われた。


そう言って、手とわき腹とをお見せになった。

弟子たちは、主を見て喜んだ。


イエスは重ねて言われた。

「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、

わたしもあなたがたを遣わす。」


そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。

「聖霊を受けなさい。

だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。

だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」


十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、

彼らと一緒にいなかった。


そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、

トマスは言った。

「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、

また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、

わたしは決して信じない。」


さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。

戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、

「あなたがたに平和があるように」と言われた。


それから、トマスに言われた。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。

また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。

信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」


トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。


イエスはトマスに言われた。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」


このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、

それはこの書物に書かれていない。


これらのことが書かれたのは、

あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、

また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

2022年4月20日水曜日

4月17日 復活の主日 松村神父様のお説教をご紹介します

 2022年 復活の主日 松村神父説教



 復活の出来事はキリスト教の信仰の原点です。私たちの教会の教えは覚えきれないくらいたくさんあります。でもこの「復活」の出来事に結びつけて考えていかなければ、私たちの信仰を語ることは出来ないのです。すべての教えは「復活」に繋がっています。もし、復活の出来事を信じない信仰があるならば、それはある意味ユダヤ教の信仰になってしまいます。復活を信じない信仰、それでいてキリスト教になるならば、私たちのしていることは無駄になることを心に留めなければなりません。復活を信じない信仰は教会の信仰ではなく、個人的な信仰になってしまいます。そのあたりを気にしながら、教会の教えを紐解いていかなければならないことを心に留めておかなければなりません。ただ、そう言いながらも「復活」は非常に難しいというのが現実です。簡単に語ることができない、伝えることが出来ない、理解することも出来ない。そういったなかでも、私たちはもがいているのが事実かなと思います。

  少しこの復活の出来事について紐解いていきたいと思いますが、ユダヤ教の時代、つまりイエス様が生きていた時代はどうだったかというと、イエス様の到来によって、ユダヤ教の教えの中に、復活信仰はイエス様の時代からありました。「私は3日で神殿を建て直してみせる。」と、復活することをイエス様は語られていました。その信仰は少しずつ理解されながらも、弟子たちはまだまだ無理解のままでした。その後、イエス様が亡くなった後、一気に復活信仰が花開いていきます。ユダヤ教にとってユダヤ教キリスト派という新興宗教ができあがった。あくまでもユダヤ教の一派なのでした。でもなんかおかしなことを言っているぞと、キリスト派は少し眉唾物として捉えられていきました。

 しかし、残された弟子たちの活動をみていくと、例えば使徒言行録以降のいろいろな書物を見ていくと、どうだったかと言うと、紀元70年には大迫害が起こります。迫害されるほどの勢力だったということです。非常に力強い団体であった。その勢いを止めることはなかなか出来なかった。 非常に驚異として捉えられていきました。

  彼らは迫害があっても信仰を守り続けました。強い信念がありました。どうしてかといわれると、それまで律法主義で多くの人たちが律法の傘の中に入らなければ救われない。そういう考え方のもとイエスが立ちあがって、いやそうではない。中心に置くべき者は  何かと言うと、病気を患った人、かつては病気は罪の結果だと言って、法に従い裁かれていました。でもイエス様は病気の人を中心に置きましょう。そして、職業差別を受けている人たち、つまり罪人と言われていた人たち、羊飼いであったり、皮なめし人であったり、医者であったり、徴税人であったり、神殿にお参り出来ない人、そういう排除されていた世界からイエス様は取り戻そうとした。つまり、神のもとに引っ張ってこようとした。そのほかに、当時は男尊女卑という厳しい時代でしたから、無能力というきつい言葉で言われていたのが女性と子供たちでした。

  イエス様の聖書の物語を見ていくと女性が中心でした。子供たちを私のところに来させなさいと言われました。イエス様の目指す社会とは、律法の外にいる人たちを中心に置く。

そこから眺めていく、そういう社会を築きあげていきたかったのです。弱い者が集まると互いに慰め合い、そこに喜びが生まれる。今まで苦しい思いをしていたのに私たちはここに存在して良いのだ。社会の中心にいて良いのだ。当たり前のように生きて良いのだ。このような喜びを味わう、神の国の実現に近づくひとつの在り方でしょう。

 イエスが亡くなった後、イエスはある歴史上のひとりの改革者として存在していたわけではなかった。もし、単なる社会的制度を変えた者、その時の政治経済を動かした者、そういった偉人であれば、亡くなればその制度は次の権力者にによって変えられていく。でも、イエス様が亡くなった後も国が行政が律法学者たちが、誰もイエス様の歩みを止めることが出来なかった。先ほど話したように、迫害はしたがそれはまったく無駄に終わってしまった。

 そこには何があったかというと、イエス様は単なる社会制度を変えたのではなくて、今まで行われていたあり方を根本的に変えることを行いました。それは何かというと継続性であったり、連続性であったり、普遍性であったり、永遠性であったり、つまり何かに縛られるものでないものが人間の生きている根幹にある。それを示すために表されたというのが「復活」という出来事です。 

 この復活という出来事は  私たちに死を超えた先にある出来事、それから聖木曜日に言われたように「これを行いなさい。」と言ってサ聖祭が制定された。2000年経ってもその力は弱まっていない 根本的な解決をしたのではなく私たちにその連続性の中に永遠性を持てること、それがイエス様の大きな力、与えられた力です。

 そこには迫害されていた、または律法から外されていた人たちが中心に置かれることで、神の国の喜びを、そして隣人愛をそこで行う。それは制度を超えたもの、制度で縛られるものでないもの、新しい発想が実はそこに与えられた。それを示すのが復活の出来事だったということです。

 何よりも隣人愛を行う権利と義務、それまでは律法がすべてを支配してきた。それを隣人愛の支配を委ねた。これがもっとも新しい契約、イエス様の契約、自ら自己犠牲によって生まれた契約。そしてその後イエス様は、肉体を離れ永遠のいのちとなって、主はいつも私たちと共におられる、今もなおいる。この出来事。これはどう考えても人間の能力で把握することは限界があること。不思議な出来事です。でも現実にあるということ。神は愛を、イエス様が永遠のいのちを示してくださった。そのことがこの復活の出来事のひとつかと思います。

 さて、今日、読まれた聖書の中に少しだけ、その部分を紐解いていきたいと思います。主が墓から取り去られました。墓から取り去られるのは現実的、事実なことです。墓から取り去られたことは復活を示すものではありません。ところがもうひとつ後半のほうにいくと、彼は亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは離れたところに置いてあった。つまり、遺体を包んでいたものがはずされてあった。

 このことを読むとある聖書の言葉を思い出します。それは何かというと、今日登場したマグダラのマリアの兄弟のことです。マグダラのマリアはマルタと姉妹で、お兄さんがいてラザロといいます。イエス様はラザロを復活されました。復活の時にどのような形で出てきたか。身体に亜麻布をまいた状態で出てきたのです。ラザロは人間ですからイエス様によって復活されたけれども、また寿命によって死に入っていきます。つまり布を包まれたままにまた死に戻っていく。亜麻布の存在は死と繋げる存在である。ところが今日の聖書では、イエス様は亜麻布から解放されていることが見えてきます。イエス様は、身体に巻き付いたままどこかにいなくなったわけではない。単純に死体を包む、死体という概念を超えて解き放たれた。人間の死から外された存在である。この表現ひとつとっても、

死から解放される、この世から解放される。復活の出来事はこのように縛り付けるものではなく、もっと自由にもっと解放されて、豊かに生きることだったのです。 

 私たち限られた時間の中で、私たちは必ず死が訪れる。人間の死亡率は100%です。生き続ける人は誰もいません。イエス様は自ら死から解放されて永遠のいのちを得る。今まで人が出来なかったことを、イエス様は自己犠牲によってそれを実現された。そして復活、永遠のいのち、死に縛られていた私たちがイエス様の復活を信じることによって、永遠性を取り戻す。復活の出来事として私たちに語られました。死は終わりではなく門である。その先に「神のみ国」の中に組み込まれていく。私たちは神の国の喜びをそこで味わうことが出来る。それを復活を通して示されました。

 神の国と言うと天国をイメージされる方も多いかもしれませんが、神の国というのはある場所を指す言葉ではない。いろいろなたとえ話を見ていくと、神の国は喜びの瞬間なんだ、喜びで包まれる状態。簡単にいうと友だちでも家族でもいいのですが、いっしょに過ごしていると、みんなが幸せな喜びの瞬間があるのです    

  喜びの瞬間。もっとここにいたい。あなたとここにもっと居続けていたい。実はそれが神の国の一番小さな種かなと思うのです。イエス様はそういう状態を全世界に、全人類に広めたかった。神の国はすでにある。でもまだ来てはいないという聖書の箇所もあります。つまり私たちには隣人愛によって、または愛するものとともに生きることによって、神の国を体験している。しかし、それが全人類に広まったかどうかというと、私たちは喜んでいるけれども、ある国ではつらく、悲しい現状がある。うちの家族は良いけれど、隣の家族は悲惨な状態になっている。まだまだ神の国の到来は遠い。イエス様は自分の喜びをどう広めていくのか、これを社会の中でみんなと共にどう歩んでいくのか。これが広がってこそ神の国が実現する。

  みんなが同時に喜んでいる瞬間、もしそれが味わえるならどんなにうれしいことか。

「天の国でも行われるように。地にも行われますように。」主の祈りでも唱えられます。私たちの目指すものは、イエス様のたとえ話に出てくるような天の国の状況を、どんなふううにこの地上の中に実現していくのか。そのためには、一人ひとりが隣人愛という愛を、喜びという瞬間を作り上げていかなければならない。

 誰かがくれるのではなく、自分から与えていかなければならない。人が喜ぶことを私も喜んでいけるようにする。こういう世界が私たちにとって非常に重要。でもなかなか社会はそうさせてくれない。そんな中で私たちキリスト者はどのように歩んでいったら良いのか、イエス様に学んでいきながら歩むことが求められていると思います。

 でも、「すでにあるという希望」は決して忘れてはいけない。イエス様が与えてくれたのは、信仰、希望、愛。三っの徳目のうちに希望という言葉が隠されています。私たちが希望を諦めてしまった時に、もう神の国の実現は来ない。キリストの信仰はのめなくなる。愛することが不可能になる。でも私たちがどんな困難にあっても、苦しみがあっても希望を忘れず、イエス様が目指したこの世の喜びの世界を、私たちも実現するように希望を捨てずに生きること。時には暗闇の中を歩むかもしれない。けれども必ず光が訪れる。私たちの信仰は前向きで、少し楽観的なのかもしれない。でも必ずイエス様が私たちを導いてくださることが可能であることを信じて歩む。その力こそ私たちは迫害を受けても、生き残った弟子のように、私たちも今の時代を歩むことが出来るのだろうと思います。

 この復活の喜びをちょっと簡単に一言では言えないけれども、私たち一人ひとりが、この後キリスト教が続くその種を、私たちが受け継いでいく。次に繋げていけば幸いだと思います。今日の復活の主日、復活の喜びを私たちの希望に変えて、多くの人たちに少しでも分かち合うことが出来るように、その力をこの御ミサの中でいただいていきましょう。