2015年12月27日日曜日

12月27日 聖家族

一年の最後の日曜日、教会の典礼は聖家族の日を迎えることになりました。
まもなく今年一年の歩みが終わろうとしています。この一年の日々を感謝しながら、いつくしみの特別聖年という新しい一年に希望を持って、私たちは進んで行きたいと思います。

年明けの1月1日(神の母聖マリアの祭日)には、「元旦ミサ」が午前10:00から行われます。
この日のミサは、日本では、守るべき祝日の一つになっています。
お正月には、元気な姿でお会いしましょう。


後藤神父様のお説教をご紹介します。

『一年の最後の日曜日、教会の典礼は聖家族の日を迎えることになりました。
教会は、聖マリア、そして聖ヨセフ、幼子イエスの3人で構成される共同体を聖家族としてお祝いし、家庭生活の模範、そして社会生活のモデルとして私たちに示しています。
信者の私たちにとって、聖家族の姿は、神に祝福された家族、幸せに満ちた家族として、憧れになります。でも誰もが皆、いつもそのように聖家族をみているわけではないと思います。時には、私たちの悩みや苦しみが多く、あまりにも私たちの現実とかけ離れた聖家族になってしまい、時にはうらやましく思ったり、妬ましく思ったり、そんな思いを私たちは心の中に感じることがあるのではないでしょうか。
自分たちが辛いときは、あまりにも幸せな聖家族が、ただただ羨ましい家族になってしまう。でも聖家族はいつも幸せに満ちていたでしょうか。必ずしもそうではないということが、聖書で描かれています。聖書をよくみると、マリアとヨセフの二人にとって、互いを受け入れるときから、いろんな戸惑いがあったということが聖書で書かれています。まず結婚する時から、互いが戸惑いの中にあっても二人は結ばれていく、そういう過程を聖書は描きます。受け入れるときから、迷い苦しみがあった二人でもあります。また、聖書では、幼子の出産にあたっても旅の途中で安全な場所を確保することができない中で、その環境は暗く冷たい馬小屋であったと記しています。現代の私たちでは考えられない、そのような場所で幼子が誕生する。お父さん、お母さんであるマリアとヨセフにとって、どんなに大変な思いをして誕生の日を迎えたことでしょうか。
誕生後もまた、大きな出来事が聖書で描かれます。両親は我が子を守るために、エジプトへ旅をしなければなりませんでした。誕生したばかりの幼子を抱えての今の時代からは全く想像もつかない厳しい旅だったと思います。
その後、ナザレの小さな田舎町に行きつき、神の子を育てるという戸惑いの中で、神への信頼を持っていたとしても、親として子供の不思議な宣教に出会うとき、やはりそこには戸惑いもたくさんあった日々であったと思います。マリアもヨセフも母親として父親として、その苦労を私たちと同じように担って成長していったんだと私は考えます。そのような苦しみを乗り越えた家族であるからこそ、聖家族の姿は素晴らしくもみえます。そして私たちの模範の家族としても讃えられることになったのだと思います。
ついこの二日前、その幼子は私たちの心の中にも新たに誕生しました。その幼子をイエスを私たちが離すことのないように、また私たちが正しい道を歩んで行くことができるように、教会は私たちの模範となる聖家族を私たちの前に示しているのではないかと思います。
改めて聖家族を考えています。ご存知のように聖マリアの夫ヨセフがいて、そのヨセフは神から選ばれた方、イエスの養父となる方でした。聖マリアは恵みに満ちた方として、無原罪の母マリアであり、ヨセフと結ばれますが、聖霊によって神の子の母となられる方。この二人はともに、天使を介して神からのお告げを受けて結ばれることになりました。お告げによって神の子を慈しむ理想的な家族をつくるこの二人。平和的な家庭の中で幼子を育てていく二人。その家族は互いに愛と奉仕の結びつきによって、私たちの模範となる家庭の姿を示しています。愛と敬いの心を持つ夫婦としても、マリアとヨセフは夫婦の模範でもあると思います。
イエスは福音宣教に出て弟子たちと共に生活をしていた時、心を尽くし魂を尽くし精神を尽くして、主なる神を愛せよ、これが第一の掟だと答えています。きっとこのイエスの言葉どおりにマリアとヨセフは神への信仰を生き、互いを尊重し、互いを愛し合って、その家庭をつくりイエスを育てあげたのだと思います。そのヨセフとマリアにみられるように、愛と共に尊敬しあう夫婦として、私たちも見習うべきことはたくさんそこに見出すことと思います。夫婦としての務めとともに、また子供に対する親としての務めも大切なことはもちろんです。か弱い嬰児の中に神の御子の姿が隠されていた、秘められていた。神を信じる二人でしたが、子供の成長にあたって、たくさんの不思議を体験したのではないでしょうか。自分たちには訳が分からない不思議を、その子供の成長に見ていたのではないでしょうか。そのような中にあってもひたすら子供のために働き、霊魂と体を守られたに違いありません。子供に対し、イエス・キリストに対してその務めを完全に尽くされたからこそ、聖家族としての模範を私たちに示しているのだと思います。マリアとヨセフのその模範的な姿、そしてイエス・キリストもまた子供の義務を果たしていたということが考えられます。ナザレの田舎町で、救い主であったにも関わらず両親の元で30年余り、お父さんの大工の仕事を手伝ってイエスは成人していきます。今の時代で考えれば、独立もせずお父さんとお母さんの元で大工の仕事をし続けました。イエスはそういう意味でも子として親に対する孝行の模範を示されたようです。
今日の私たちに語られた聖書のお話は、エルサレムの出来事についてのお話しでした。12歳の少年イエスが、預言者としての使命を匂わせるような不思議な出来事が私たちに語られています。私はこのお話の中にいくつかの言葉を注目する中で、イエスの復活の時の様子と関連して黙想することができます。今日の聖書の言葉、そこにみられる共通する言葉が復活の出来事の中にも描かれています。それは、「過越祭」、「三日目」、そして「誰を捜しているのか」。この三つの言葉は、イエスの復活の出来事の中でも共通してみられる言葉です。
聖家族、私たちにとっていろいろな黙想が出来ると思います。家族としての互いの繋がりを大切にし、聖家族を私たちは見つめていくことが大事だと思います。もちろん、現代に生きる私たち家族にとって、それは夫婦間の問題もあり、子育ての悩みもあり、二千年前の聖家族とは違った問題をたくさん抱え込んでの私たちの毎日かもしれません。でもどの時代でも家族の中には忍耐が必要だということではないでしょうか。神に向かう人生の旅である現実を見つめながら、子供たちはキリストの従順を学びながら、神にも人にも愛される人として成長できるように、今日私たちは聖家族に取り次ぎを祈りたいと思います。
そして、それぞれの役割・使命を神の民として教会共同体の中でも果たしていくことができるよう祈りたいと思います。
まもなく今年一年の歩みが終わろうとしています。この一年の日々を感謝しながら、いつくしみの特別聖年という新しい一年に希望を持って、私たちは進んで行きたいと思います。』

夕べの会

毎年、夏と冬に行っている信徒の親睦会「夕べの会」を26日(土)に、カテドラルホールで行いました。
30名程の信徒が集い、手作りの食事を囲んで親睦を深めました。
後藤神父様をはじめ、札幌教区の4名の神学生のうち、佐藤さんと佐久間さんも参加されました。







2015年12月26日土曜日

12月24日(木) 主の降誕(夜半のミサ)

主のご降誕おめでとうございます!

今年は暖冬のため、雪も少なく穏やかなクリスマスを迎えることができました。


クリスマスは、イエス様によってゆるしに満ちた無条件の神の愛、いつくしみがまさに今この地上にもたらされたことを祝う日です。

今日のクリスマスミサは、勝谷司教様と後藤神父様の司式により行われました。


祭壇の前には幼子イエス様が飾られました。


入堂の後、キャンドルの灯りで聖堂はやさしい光に包まれました



勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『クリスマスおめでとうございます。
つい先日、ネット中でこのようなやり取りがありました。
ある神父様が、とても有名な神父様ですけれど、自分のフェイスブックに「キリストのいないメリークリスマスは無意味」だと、一言だけ載せたのです。それに対していろいろな意見が投稿されていました。
「キリスト教徒になって初めてその意味が分かった」という書き込みと、その意見に同意するというのも多数ありました。
それに対して、「それぞれの大切な人にその想いを伝えるために贈り物をするイベントにはそれだけでも意味があるのではないか?」という意見。その他には、「貧しくてクリスマスを祝えない人もいるし、宗教が違うだけで悲しい思いをする人もいます。世間が浮かれていると余計に孤独を感じる人もいます。」といった、キリスト教徒であっても自分たちだけが幸福感に浸っていてよいのか、そのような意見もありました。
たった一言の書き込みに、多くの多様な意見が書き込まれていました。実際にはもっと多くの考えや意見があるに違いありません。この書き込みは本人のフェイスブック内のやり取りでしたから、常識的な人たちが意見を述べ合い、他者の意見を尊重して、多様な意見を受け入れあうような雰囲気がそこにあります。
私自身、先ほどの神父の書き込み同様、キリスト抜きの商業ベースに乗ったイベントとしてのクリスマスに冷ややかな目を向ける一人でした。でも多様な考えに接して、クリスチャンではない日本人のイベントとしてのクリスマスについても考えさせられました。全く無意味だ、と少し思い上がったような視点から眺めるのではなくて、むしろ別な観点からみると違う意味があるということに気付かされたわけです。
一方よく見受けられるネット上での議論は、自分の意見を絶対視し、相手を論破するために、時には相手を傷つけるようなひどい言葉をもって相手を攻撃するやり取りです。自分を正義とし、他を認めない不寛容の極端なやり取りです。私はこの一年間、このようなやり取りにいや応なしに巻き込まれてきました。このようなやり取りには心が病みます。しかし、それほど極端ではなくても同様な傾向は私たちの誰にでもあります。自分の正しさを確信し、人の過ちを正したいという正義感です。
先日ここでミサをやった時の説教で、東京の電車内で起こった出来事について話をしました。取るに足らないちっぽけな出来事なのですが、私にとっては非常に印象に残っています。もう一度その話を紹介したいと思います。
先日、出張で東京へ行き会議が終わり夕方の飛行機で帰る際、ちょうどラッシュの時間と重なり、満員電車の中、重たいスーツケースを抱え疲れた体で立っていましが、ある駅で乗客の大部分が降りて席が空き、ようやく座ることができました。ほっと一息付いたのも束の間、次の駅で小さな子供を抱えたお母さんが乗ってきました。私の隣には元気のよい女子高生が座っていたので、当然彼女たちが席を譲るものと思っていたのですが、一向にその気配がないので、彼女たちに一言言ってやろうかなとも思いましたが、私が譲ることにしました。しかし、お母さんがその席に座ると間もなく赤ちゃんが大声で泣き出し始めたのでした。お母さんは周囲に申し訳なさそうに困った顔をしていました。すると突然、隣に座っていた先ほど席を譲らなかった女子高生が赤ちゃんをあやし始めたのです。それに対して、お母さんもお礼を言ったりとやり取りが交わされることで、車内が不思議な優しさに包まれていくのを感じました。
今から思えば、はじめに席を譲らなかった女子高生は、そのことで後ろめたい気持ちもあったのだろうかと思います。それで赤ちゃんが泣き出したとき、あやし始めたのだろうかとも思います。でもその時は、彼女がどような気持で座っていたのかということに思い至らず、非難がましい思いを向けていました。考えてみると私の行動は正義感とかではなく、自分の利己心からでした。
大切なことは人を裁くことではなく、自分が為すべきことを神の求めとして素直に実行することです。自分ができない、したくないことの言い訳に自分の正義を盾にしてはいけないのです。結果的に社内の誰もが僅かな時間でしたが、幸福感を味わうことができました。
新約聖書のイエス様の態度をみると、それは裁きの心ではなく、限りないいつくしみを示す態度です。そうしているときも回心へと導いていたのです。当時、倫理的に正しい生き方とは思えない生活をしていた人々に対して、イエス様はまず回心を求めたのではなく、むしろ罪の中にあるあなたこそ神のいつくしみの対象であることを示すために、無条件に彼らの中に入って関わりを持っていかれました。例えば、放蕩息子のたとえ、徴税人ザアカイ、その後イエスの弟子になったといわれる石を投げつけられそうになった姦淫の女も、罪の告発ではなく彼らの回心を前提とせず、イエス様によって彼らに向けられた神である父のいつくしみに接して、はじめて回心し人生を変えていく力を得たのです。
先日、無原罪のマリアの祭日から特別聖年が始まりました。教会に呼びかけられているのは、このいつくしみの心です。教皇フランシスコの大勅書には以下のような記述があります。
第10項、第20項、第21項

私たちは、このいつくしみの眼差しを社会に対してだけではなく、教会共同体すなわち私たの兄弟姉妹にも向けるよう招かれています。自分の信仰生活を基準として人々を判断し裁くのではなく、ともに神のいつくしみによって養われゆるされたものである喜びを分かち合って生きるよう招かれているのです。
キリストの誕生が意味することは、正しさを求めるだけの神のイメージを超えて、イエス様によってゆるしに満ちた無条件の神の愛、いつくしみがまさに今この地上にもたらされたことを祝う日です。』

御ミサの後、カテドラルホールで茶話会が行われました。



2015年12月20日日曜日

待降節第4主日

待降節第4主日を迎えアドベントクランツの4本のローソク全てに火が灯りました。
いよいよ5日後にクリスマスを迎えます。

神学校も冬休みに入り、神学生の皆さんも帰省されています。今日は佐久間さんが侍者をされ、近況について報告されました。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『教皇フランシスコにより「いつくしみの特別聖年」が宣言され、カテドラルでもある私たちの北一条教会でも、先週の日曜日の主日ミサに、いつくしみの扉が開かれる儀式が司教様をお迎えし行われました。このカテドラルで儀式を行えたといことにその恵みを感じます。カテドラルは教区に一つしかありませんので、私たちはその恩恵に与っているともいえます。この聖なる開かれた扉を大切にして、いつくしみの特別聖年の歩みを私たちも大切にしていきたいと思います。特に教皇様の意向を持って祈るために初めて訪れる人々の上にも、私たちは祝福を祈っていく一年でありたいと思います。
今日は待降節の第4主日。アドベントクランツのローソク4本には全て火が灯されました。主の降誕が間近であることを表します。喜びのお告げは、すでに旧約の時代から伝えられていました。そしてそのお告げが現実になろうとしています。数日の後私たちは主の降誕、クリスマスをお祝いします。でも残された待降節の数日間がありますので、最後の準備を滞りなく済ませたいと思います。
待降節の精神をみな思い起こすことはできるでしょうか?
喜びのお告げをマリアとエリザベトをとおして強調される今日のルカの福音、そのみ言葉に改めて今日耳を傾けながら、黙想する一日でもありたいと思います。
ルカは、洗礼者ヨハネの誕生も人々に喜びをもたらしたと告げていますが、それは救い主イエス・キリストの誕生の関連において、もたらせる喜びでもありました。そして旧約の時代から待ち焦がれていた喜びの中で最高のもの、それが救い主イエス・キリストの誕生、私たちが今待ち望んでそこに向かう主の降誕でもあります。
お告げの天使は、「恵まれたもの喜びなさい。主はあなたと共におられる」とその喜びを告げ、主のご降誕の時には天使は羊飼いたちに「恐れることはない、わたしは全ての民におよぶ大きな喜びの訪れをあなた方に告げる」と聖書は伝えています。その喜びは、私たち全て信じる者の上にも及ぶ知らせでもあります。
今日のルカのみ言葉の中で、聖母マリアがエリザベトを訪問するその内容が語られました。私たち人類の上に与えられる救い主の喜びを分かち合うこと、エリザベトの訪問はその前兆としての喜びを私たちに告げています。最初にマリアは天使からの挨拶をエリザベトに告げ知らせています。そこで喜びを抑えることのできないエリザベトがいました。エリザベトもおなかに子供を身籠っています。そのおなかの子は後々イエスに洗礼を授ける洗礼者ヨハネとなる人でした。マリアの挨拶を受けて、エリザベトの体内で喜び踊る洗礼者ヨハネの姿も私たちは黙想することができると思います。神の子救い主は、ご自分を体内に宿している聖母マリアを介して、信仰をもって彼女を受け入れるエリザベトに喜びをもたらしました。
今日の短い福音の中で、挨拶という言葉が3回出てきます。そのことを少し考えると、私たちが何気なくしている挨拶は、どんな挨拶なのかなあとそんなことを考えます。当たり前のように儀礼的に挨拶をしてしまう私たちだと思います。でもこのエリザベトとマリアの出会いにあった挨拶は、相手であるエリザベトに大変大きな喜びをもたらした挨拶であったことが語られています。普通の喜びではなかった、お腹の子供さえ喜び踊るような、そんな喜びの挨拶を受けたというのが、今日の挨拶という言葉に強調されているのかなと思います。そもそも挨拶という言葉を辞典で引いても、儀礼という言葉で表現されますが、このマリアとエリザベトの出会いにあった挨拶は、単なる儀礼ではなくて本当に喜びをもたらす挨拶であった。私たちも挨拶をそういう喜びをもたらす挨拶に変えられたらいいなと願います。時には笑顔をもたらす挨拶もたくさんあろうかと思います。でも笑顔も全く生じないような挨拶を交わしているのも私たちであるような気がします。儀礼的になってしまうと、ただ言葉で挨拶をしているだけ、相手の人にどんな反応があったのかさえも考えることなく通り過ぎていく挨拶もあると思います。私たちの人と人との出会いを大切にする挨拶になっていけばと、今日のマリアとエリザベトの出会いにあった大きな喜びをもたらす挨拶のことを考えると、そう願います。
さて、マリアとエリザベトの感動的な出会いがあり、エリザベトはすぐにマリアの偉大さを讃え、メシアの到来を宣言してもいます。このエリザベトの賛美の言葉は、私たちがよく唱えているアベマリアの祈りの中に組み込まれている言葉でもあります。
「あなたは女の中で祝福された方、あなたの胎内の子も祝福されています」そして続けて「わが主の御母が、わたしのところに来てくださるとは、いったいどういうわけでしょう」エリザベトは、マリアの信仰をよくご存じであったという表現がここでみられます。「主がおっしゃたことは必ず実現すると信じた方。」私たちも信仰を生きるものとして、互いがそう信じあえるそういう兄弟でありたい、家族でありたいと思います。
ルカが告げる救いの喜びは、神のみ言葉を聞いて、これを行うものこそ私の母であり、私の兄弟である、そしてむしろ幸いなものは神のみ言葉を聞き、それを守る人である、このようにキリストの言葉に結び付けて福音は書かれています。
待降節の四度目の日曜日を迎えて、私たちは残された数日を主の降誕までの準備とします。マリアの信仰に習いながら、どんな時にも私たち一人一人が希望を見失うことなく歩んでいくことを祈りましょう。そして私たちの教会もまた、全ての人と共に祈り、主に向かい歩み続けていくことができますように。』

2015年12月13日日曜日

「聖なる扉」を開く式  - いつくしみの特別聖年 -

いつくしみの特別聖年が始まりました。

教皇フランシスコは、今年 2015 年 12 月 8 日から 2016 年 11 月 20 日まで、「いつくしみの特別聖年」を行うことを発表されました。

12月8日、教皇フランシスコは「聖なる扉」を開く式を行い、翌年11月20日までの「いつくしみの特別聖年」が始まりました。13日には世界中の司教座聖堂などで「聖なる扉」を開く式が行われます。

札幌教区の司教座聖堂(カテドラル)である北一条教会でも、12月13日(日)の主日ミサの前にカテドラルホールで、勝谷司教様の司式により「聖なる扉」を式が行われ、祈りを捧げた後、聖堂の扉が開かれました。

カテドラルホールに会衆が集まり、勝谷司教様の司式によりお祈りが捧げられました。


聖堂の「聖なる扉」の前に移動して、司教様がお祈りし、そして扉が開かれました。







勝谷司教様のお説教をご紹介します。

『いつくしみの特別聖年が開幕しました。そこに掲げられているのは、「御父のようにいつくしみ深くあれ」その言葉です。そして、その具体的な事例を私たちは、福音書のイエスをみてとるわけですが、この「いつくしみの特別聖年」を発布した教皇フランシスコは自身が、その神のいつくしみを全世界に示すために、私たち全世界のある教会、信者一人ひとりがそのいつくしみの先駆者としてふるまうよう求めておられます。 
 教皇様自身がこれまで何度も紹介してきていますが、その姿勢は今まで世界に向かって、こうあるべきとか、そういうような話しをすることは、歴代の教皇の常だったのですが、この教皇フランシスコの違いはそのようなことを言いながら、自らが実践する、模範として示す。貧しい人たちに手を差し伸べよと全世界に言うばかりではなく、実際にバチカンのシスティーナ礼拝堂を開放したり、バチカン広場の一部を散髪やシャワーの場に開放したり、そして各地の難民のいるところや刑務所に率先して出かけておられます。この教皇フランシスコの姿勢が就任したときからいっかんしているのです。
 私はこの北一条教会に主任司祭として赴任してきたときに、在任期間は3ヶ月に満たなかったのですが、教皇のお告げの祈りのときの説教を紹介したのでした。そのときに、教会はいろいろな壁を作って多くの人たちを阻害してしまっている。特に倫理的なものは教会法で阻害しているばかりでなくて、信者の集まりで批判な目、それによって阻害していることがある。具体的な例としてあげたのは、教皇様も自分の教区で体験していたことと思いますが、 父親のないシングルマザーが教会にやってきたときに、ふしだらな女だという眼差しを多くの人が向け、傷つき教会に来ない。せっかく教会に戻ってきたのに、そこで戻ってしまう。
通常はその子を堕ろしてしまうことが考えられるのに、その子を一人で育てる決心をしましたねと言って、その姿勢を応援してあげる、教会はそうすべきであった。裁くのではなく、むしろ教会に戻ってきたそういう人たちを暖かく迎え入れる、そして支えるべきでないか、こういった教皇の説教を紹介した覚えがあるのです。そのとき、不思議だと思ったのは、その説教をしたときに、今日初めて教会に来た女性が赤ちゃんを抱えて「私がそうです。」と。神様が導いてくださったようなことを覚えています。
 そのことに限らず結婚に失敗してしまったことや、教皇様が心を痛めてシノドスのテーマにしていたマイノリテイの人たち、そういう人たちに対して私たちはどのような態度をしめしていたか。ましてや熱心に教会に来てその努めを守っている私たちは、ほとんど教会に来ていない信者の人たちにどのような眼差しをおくっているのか。そのようなことを考える時に、私たちはまず、私たち自身が反省する必要がある。そのことも教皇様は呼びかけておられます。
 ただ、私たちは回心し、そして人々に神のいつくしみを示すように、教皇様の言葉で言うならば、「出向いて行きなさい。」という言葉で使われます。英語で言うとgo forthと言うのですが,forthというのは「前に押し出す」という意味。名詞では「力、正義」という意味。
ミサの終わりのgo forth(ミサを終わります。行きましょう、)は、ただ教会から出て行くのではなく、福音をのべ伝えるために、そういうニュアンスがあります。私たちが出向いて行けと言われているときに、わたしたちが今、何か躊躇しているものをこえて、前に立って心を開いて、出かけて行きなさいと言われています。でもそう考えると凄い重荷を負わされたような、今までやっていなかったことをがんばって始めなければならないと、そういう負担を案じる方がおられるかもしれません。でもそういうことではないんですね。私たちが出来る当たり前のことを、今まで躊躇していたその壁を乗り越え、当たり前のことをしないさいと。

 今日の福音書でヨハネが呼びかけているこの回心。まるで回心しなければ裁かれるようなことですが、民衆が「ではどうしたら良いのですか。」と言うと、読んだ通りです「出来ることをしなさい。」特別なことをしなさいと言うわけでない。徴税人に対しても仕事をやめろとは言わない。むしろ、自分が今与えられている場において、そこで人々に分かち合える、あるいは手をさし伸べることをしなさいと、述べられています。
 教会の中でなくても、本当に自分が受け入れられている、自分の居場所があると実感している人はどれだけいるかと思います。寂しい思いをして自分の居場所を求めて教会を訪れる人が、何か一人で祈っているかのようだが、そっとしておいてあげようという善意といいわけ。何もしない、おせっかいであっても、本当に迷惑であればそのような顔をするでしょう。そっとしてあげれば良い。そうかもしれないというのが一番悪いこと。小さなおせっかい、「出向いていけ。」というのは何かぎょうぎょうしいが、私は敢えて小さなおせっかいをと思っています。
  つい先週、東京で会議があって久しぶりに満員電車に乗りました。大変亜ぎゅうぎゅう詰めでした。でも、だんだん人が少なくなって、自分が座れる席が出来ました。やっと座れると思って腰をおろしたら、目の前に赤ちゃんを抱いた母親が乗ってきたんですね。私の隣に座っていたのは高校生のカップル。あなたたちが譲れよと思ったのですが、気づかないふりをしている。私もふたむかし前だったら、席を譲ってやれよと言いたい年齢でしたが、誰も何ともしないので、「どうぞ。」と言って自分が譲りました。その後、赤ちゃんが泣き出したのです。そうすると、隣に座っていた高校生の女の子が、その赤ちゃんあをあやし始めたのですね。それがおかしくて、その両親のやりとりが、あの緊張していた車内、何となくギスギスしていた車内がなごんできたんですね。みんなニコニコしだしたのです。それは、私が何かするということではなく、私が出来たのは人を非難する心を持ちながら、席を譲っただけだったのです。でも。そこからあの幸せな空間を、わずかな時間ですが、車内の中で醸し出すことが出来たのです。
 私は、これが神の業と感じるのです。私たちに求められているのは世界を幸福にすることではなくて、今、目の前にいて手をさしのべ、声をかける人に対して出来る何かをしなさい、それを通して、後は神様がしてくださる。その神様に信頼して今、与えられた現場で何かしなさい。そのために躊躇、いいわけの壁を越えて私たちは何かするよう、求められていると思います。』


2015年12月7日月曜日

待降節第2主日 -その2 後藤神父様のお説教-

12月になり教会前庭の欅の葉はすっかり無くなってしまいましたが、静かに眺めていると、枝の先から天に向かって発散する生気が伝わって来る様です。


45年前、農林試験場に調査を依頼した際に、樹齢120年~130年との説明を受けていますので、樹齢170年前後になる欅ですが、今も四季折々の自然の優しさを私たちに伝えてくれます。
欅は北海道には自然分布していないので、最初の屯田兵入植が140年前ということから、この欅は誰かが植樹したものと考えるのが妥当です。130年前に教会関係の何方かが、故郷を慕い、主の教えを振り返り、宣教への決意を新たにする為に植樹した「望郷樹」なのかもしれません。北一条教会は献堂100周年を来年に控えていますが、欅の幹に耳を澄ますと、横溢する先人たちの宣教への思いが伝わってくるようです。

神の子の第一の来臨を追憶し、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける待降節は、第2週目を迎えアドべベントクランツに2本目のろうそくに灯がともりました。

<後藤神父様のお説教概要です>
待降節に入って1週間、いつもと違う慌ただしい一日が過ぎていました。金曜日は小学校の5年生のグループが総合学習で教会を訪問して下さり、子供達から沢山の質問を受け、子供たちに教会の本当の姿を知ってもらいました。また、別の日には7~8人の外国人グループの巡礼訪問もありましたし、昨日はカリタスのクリスマスコンサートでした。教会の幾つかの飾りを見た友人からが声が掛かって来たという信者さんの話も聞きました。待降節は、色々な人との出会いを通して、私たちの宣教がより大きく歩み出す季節の様に考えます。
さて今日の福音では、救いの歴史における洗礼者ヨハネの立場からみことばが語られます。
洗礼者ヨハネは、主の道を整える為に遣わされるイザヤの預言を成就するものとして登場します。洗礼者ヨハネは当時の民に対しても、私たちに対しても、歩むべき道を見つめさせて下さいます。道を相応しく整えなさい、と呼びかけています。人々は神との出会いの場に導かれます。ヨハネの教えを受け入れようとする人々は、回心によって来たるべき救い主に目を向け、心を開き、神の民となって救いの道を歩み始めようとしています。旧約の預言者は、罪の生活を離れて神のみもとに立ち返る様に呼びかけて来ました。ヨハネは罪の赦しのために回心を説き、人々に悔い改めの洗礼を施しています。救いへの道の準備としての悔い改め、それは私たちにとっても大切なことを示しています。受け入れられた神のみことばは、私たちに悔い改めによる罪からの回心を迫ってきます。神が全ての人に与えたいと望まれる救いの道は、その回心から始まっていると呼び掛けているからです。
旧約聖書では実に706回も道と言う言葉が出て来ます。歩く道の他に、旅を意味したり、宗教的な意味では神のなされ方を意味し、神によって人間に求められている問いも、道と言う言葉が使われています。人間が生涯を掛けて歩むべき道程、行くべき方向、歩く態度もまた大きな意味があります。現実的に考えますと様々な道、誤った道も正しい道もあり、私たちは選択しながらその道を選びとって行かなければなりません。旧約聖書では、神は道の導き手であると言う表現が多く使われています、神は牧者の様に道の先頭に立たれる方、そしてイスラエルに命の道を示される方です。神は私たちの道を護り、目的地まで導いて下さる方です。若し悪の道を歩んでいたならば、すぐに神に立ち返って戒めの道を歩まなければ幸いを得ることは出来ません。神に至る道こそ正しい人の道です、その道は夜明けの光のようにますます輝いて真昼に至ります。
イスラエルの民が恵み溢れる土地に招かれた様に、過ちを犯しながらも、悔い改めを続けながら歩いて行った先に豊かな地に導かれた、と言う聖書の話に心を止めなければなりません。「私はあなた方を鷲の翼に乗せて私の方に連れてきました」。神はエジプトの地から脱出した人々を、苦しみから開放し、勇気付け、旅へと誘いました。
今日のルカの福音は、洗礼者ヨハネの宣教によって整えられ、イエスによって完成される事を伝えています。道は平らにされ、全ての人が神の救いを見る。待降節第2主日を迎える教会の中で、洗礼者ヨハネは今日もまた私たちに語りかけて来ます。荒れ野に誘うヨハネの言葉、私たちはヨハネの声を聞くべく荒れ野に向かわなければならないのです、荒れ野は主がそこで人々に向かい、私たちに語りかける場所として描かれました。私たち自ら、神が語り掛けるその場所に赴かなければ、神の声が私たちの心に響いてこないと思います。忙しい中、私たち一人一人が、神が語りかける時間を作ってその場所に赴かなければ、神の声を私たちは受け止められないのです。忙しい中にあっても神と語り合うひと時を大切にして、待降節を歩んで行きたいと思います。神に向かって一人ひとりが心の準備をし、心から喜び、心から賛美出来る主の降誕に向かって歩んで行きましょう。

2015年12月6日日曜日

待降節第2主日

教会には、クリスマスツリー、リース、馬小屋が飾り付けられクリスマスを迎える準備を整えています。

 


待降節第2主日を迎えました。
今日の福音では洗礼者ヨハネが「主の道を整えよ」と回心を呼びかけます。
主の降誕を待ち望む待降節からクリスマスまでのこの時期は、
私たちに回心を思い起こさせてくれるとともに、宣教の機会の季節とも言えます。

後藤神父様のお説教は後日ご紹介します。






2015年12月3日木曜日

一六会のクリスマスパーティ

高齢者「一六会」が主催するクリスマスパーティが10時ミサ後、約30名が参加し行われました。


前半は聖堂でキャンドルサービス
いつくしみの特別聖年に向けての祈り、教皇様の意向に合わせた祈り、各自の祈りなど6つの祈りを捧げました。
「しずげき」などの賛美歌を歌い、ローソクに点火しながら救い主イエス様の御降誕に思いを馳せました。


後半は、カテドラルホールで茶話会。神父様のお話や懐かしの唄のうたごえ、詩吟、寸劇の披露など楽しいひとときを過ごしました。


2015年11月30日月曜日

待降節第1主日

教会暦では新しい年、そして待降節を迎えました。
教会ではこの日、降誕祭を迎えるための準備としてクリスマスツリー、馬小屋、アドベントクランツなどを設置しました。
今日のミサは元主任司祭の久保寺神父様が司式されました。神父様がこの教会で司式されるのは、北広島教会に移動されてから約2年半ぶりになります。
また、今日からミサの所作などの一部が変更になりました。





久保寺神父様のお説教をご紹介します。

『  待降節が始まり、今日がその第一主日です。待降節という神の到来、神が来られる。そのことを旧約聖書から神が来られる、ということは聖書の教えの大きな目的。聖書に書き記されている、伝えられているのは神の到来、そのことを知らせるものでした。
 神の到来、そのことには第一の到来と第二の到来、すなわち神が近づいてこられることには「ふたつ」があると言われています。
 第一の到来というのは、ご承知のようにすでに起こりました、救い主が世に来られる、神が人となって世に来られた、これが第一の到来です。この第一の到来を人々は降誕祭として、キリスト降誕の出来事として、聖書は喜びをもって書き表しました。救い主が来られ、ご誕生になってから人々に教えられたこと、そのことを新約聖書に書き記しました。
 そして新約聖書の終わりのところ、それは今、お聴きいただいたところ(ルカ福音書21章)ですが、そこに第二の到来についてのお話があります。その第二の到来を恐るべきものとして書き記され、その終わりのところには「人の子の前にしっかりと立って迎えることが出来るように、目を覚まし、祈りなさい。」と、そういう言葉で結ばれています。今日のこの福音は、第二の到来、それは今、私たちはいろいろな弱さや困難がありますが、それを乗り越え克服し、それらから解放されて、救い主をまことに迎えることになる。その第一の到来から第二の到来へ向かう間を、私たちは時を過ごしていますが、今日の第二の朗読(使徒パウロのテサロニケの教会への手紙)でお聴きのように、神がともに来てくださる、神とともに私たちは第二の到来に向かう日々を過ごしています。

 私たちは12月8日から「いつくしみの特別聖年」が始まります。神がともに歩んでくださる、その神が私たちとその時を過ごし、私たちを支えてくださることをこの一年をとおしてしっかりと思いおこそう、しっかりと神のいつくしみを心に留めましょう。そして、神が私たちとともに歩みますから、いつくしみを人々に伝えなさい、その喜びを人々と分かち合うことが出来るように、「いつくしみの特別聖年の大勅書」で語られました。
 私たちはともに歩み、分かち合い、喜び合いますが、時には戒め、自分のわがままを押し通して人を困らせたり、迷惑をかけたりすること、そういうことが無いわけでもありませんが、それらを私たちは悔い改めによって、回心によって、より良いものを見いだしていくすすめがキリストの教えのうちにはあるわけです。
 私たちは、日々キリストの教えを学びながら、聖書を紐解いて神の声に耳を傾け、待降節、救い主が降誕されたことの次第を、聖書を開いたり、その物語を思い起こしましょう。そして、神が私たちに近づいてくださること、ともに歩んでくださること、そのことを思いながら、私たち一人ひとりが互いにキリストの友とし、生きる友として、お互い手を取り合い、支え合い、戒め合い、またへりくだり、忍耐をしめすことが出来るよう歩み続けることが出来るよう、待降節の初めにあたり、神の恵みをお祈りしてまいりましょう。』

2015年11月29日日曜日

11月28日(土) 故 荒木関孝神父 1年命日祭ミサ

11:00から、 故 荒木関孝神父様の 1年命日祭ミサが勝谷司教の司式で行われました。
100名を超える方々がミサに与り、荒木関神父様を偲びました。



2015年11月22日日曜日

王であるキリスト

道北地方はかなりの積雪があったようですが、札幌はまだご覧のとおりです。
聖堂前の欅の葉は落ちきっていません。厳しい冬はこれからです。


典礼暦の1年は今日の「王であるキリスト」の週で終わり、来週の待降節から新しい1年が始まります。
ミサの後、いつくしみの特別聖年を控え、Sr.渡辺和子さんの「置かれた場所で咲きなさい」を視聴しました。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『「王であるキリスト」の祭日を迎えました。
この日曜日は、教会の典礼暦では最後の日曜日にあたります。来週の日曜日からは待降節という新しい一年に入ろうとしています。一年を振り返る時期が来たと言えるかもしれませんが、私自身も教会の典礼暦の一年を考えながら、この教会に赴任して1年半が過ぎたことを思い起こしたりもしています。この間に教会の周りの様相も大きく変わりました。幼稚園が新しくなり、古い園舎が昨年の秋に取り壊されました。さらに教会の敷地の隣には大きなマンションが建設されたりもしました。また、来年以降は司教館敷地の再開発が具体化されそうで、聖堂の前にある大きな欅の木はこれからどうなってしまうのかと、そんなことも考えてしまいます。
先日、教会の近くにお住いという未信者の方から電話があり、週一回、教会のお母さん方がお掃除の奉仕をしているのを見ていて、自分も奉仕させていただきたいという申し出をいただき大変うれしい思いをしました。この思いをぜひ皆さんと分かち合いたいと思いました。
さて、「王であるキリスト」の祭日を迎えて、イエスがローマ総督の前でご自分が王であることを宣言する箇所が読まれました。この聖書の箇所は受難の朗読の時も読まれていたことを皆さんは思い出すかと思います。
イエス・キリストという名前の意味について皆さんと一緒に学びたいと思います。イエス・キリストを姓名のように考えている方もおられるかもしれませんがそうではありません。イエスの時代には姓というものは無かったようです。聖書にも書かれているように「ナザレのイエス」とか「ヨゼフの子、イエス」という呼び方が当時の社会では一般的でした。
では、「キリスト」とは一体どのような意味を持っていたのでしょうか。キリストという言葉はギリシャ語で、ヘブライ語ではメシアと言います。どちらも教会の用語として現在は、救い主、救世主という訳され方をしています。しかし、元々は救世主という意味ではなかったと言われています。その語源を辿っていくと、”油を塗られたもの”という意味を持っています。聖書の中ではよく、王様になる人を「油を塗られて王になった」という表現が出てきます。「キリスト」は”油を塗られたもの”という意味を持ち、旧約の中では王様に与えられる称号として特別な呼び方として使われました。
今日祝う「王であるキリスト」の名称も、そうした由来から典礼上表現されていると考えられます。受難の朗読で読まれる十字架に磔にされたイエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王イエスである」という意味の言葉が十字架の上に書かれました。今でも十字架には、「I.N.R.I」という四つの頭文字が見ることができます。
教会では、キリストの三つの職務として、預言者、祭司、王職があると教えられています。ヨハネの福音の中では特に王としてのイエスがよく描かれているといわれます。
私たちは今日、「王であるキリスト」の祭日を迎えて、この一年の主日を終わろうとしていますが、私たちにとって王であるキリストは、どのような意味を持っているでしょうか?私たち一人一人が考えていってもいいと思います。王とキリストは、皆さんのイメージの中で重なるでしょうか?聖書の世界では「王であるキリスト」というのは、とても大きな意味合いを持っています。
私は一週間前にパリで起こったテロ事件を思い起こしながら、いろいろなことを黙想する時間を持っています。ヨーロッパの人々は、国というよりも民族という意識の方が強い人が多いように思います。よく政治の世界では、国益のために外交交渉を進めるという表現が使われます。今回のテロ事件の背景にある民族の考え方というものも、人間としては皆同じなのかなと考えます。自分たちの民族の利益のために、自分たちの国家や民族の勢力や権威、平和のために、という主張がどこの国にでもあるということがはっきりと見えてきます。そのような背景から民族の争いという観点で今回の事件を考えていくと、いつどこで何があってもおかしくはないという世界が今うごめいているということを感じます。この日本という国についても同じことが言えるのではないかと感じます。
難民に示された愛の手は偽りだったのでしょうか?そのようなことも昨日のニュースをみながら考えてしまいます。先進国であり経済的にも豊かなヨーロッパの国々は、難民に同情して受け入れなければならないという姿勢の国は少なくありません。しかし、いったん今回のようなテロ事件に遭遇した際に、自分たちの国に混乱を引き起こさないために、難民の受け入れを止めようとする動きが報道されています。
突然、悲惨な状況に巻き込まれてしまうと、そこにあった愛も変化してしまう、それが私たちの現実かもしれません。愛が突然、拒絶の行為に変わってしまうというのであれば、愛は一体何だったのだろうか、示された愛の手は一体どこから来ていたものだったのか、そんなことも考えてしまいます。
「王であるキリスト」、この世界を超えて、人間の救いのために、ただその真実のために、働かれる王でなければ、私たちの愛の世界、平和な世界はすぐにでも混乱に陥ってしまう気がします。誰もが死後の世界は苦しみのない平和な世界である神の国に入っていくことを願っています。神の国こそ差別のない平和な世界であってほしいという願いから、天国も神の国も私たちが想像している世界なんだと思います。変わることのない愛でなければ、その愛に包まれていなければ神の国ではないと思います。地上の上に神の国を作っていかなければならないという使命を生きている私たちにとって、変わらない愛は一体どこから来るのでしょうか。
11月も間もなく終わりますが、私たちは今改めて神の国を思い、そこにある世界を大切にしなければならないですし、またこの地上の世界にも神の国を作っていかなければならない使命をもっているのだと思います。
「いつくしみの特別聖年」がまもなく始まろうとしています。私たちの信仰を見つめ、この地上の王ではなく、全ての人の救いを願う「王であるキリスト」を見つめて、新しい一年に向かなければならないと思います。今日「王であるキリスト」の祭日を迎えて皆さんにも問いかけたいと思います。
私たちの愛は、神の愛に近づく、そのような愛を生きているのかどうか、このミサの中で祈り、新しい一年を迎えたいと思います。』

2015年11月8日日曜日

年間第32主日

今日のみ言葉(マルコ12・38-44)では、律法学者の偽善的で利己的な態度を厳しく戒め、神殿に来ていたさまざまな人々の中にある欺瞞と真実を指摘するイエスの姿が語れました。

今日は秋の大掃除の日でした。御ミサの後、聖堂の床磨きとカテドラルホールの煤払いを行いました。皆さんお疲れ様でした。

今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


 ユダヤ教の指導者の教えとしてこんな話しがあります。
「ある貧しい女性が一握りの小麦粉を捧げにやって来ました。ユダヤ教の祭司はそれ
を見て『こんな少ない捧げ物とは何ということだ。こんな少ない量で何が出来るとい
うのだ。』と、この女性をさげすんだといいます。しかし、その時、神の言葉が響い
てきて『この女性をさげすんではならない。彼女は自分の命を捧げたのだ。』そし
て、その言葉でユダヤ教の指導者は夢から目が覚めたという。」そういうお話が伝え
られているといいます。この話しは一人の女性をさげすんだユダヤ教の指導者として
どんな心でいなければならないかという、そういうことを伝えるお話だそうです。
 今日は、第一朗読の旧約聖書(列王記上)の中で、またイエスの話しの中でも、神
に絶大的な信頼をもって生きる信仰熱心な話しが告げられています。

 前半と後半で福音は大きな違いがあります。ひとつは律法学者の偽善的な話し、後
半はやもめの献金の話しになっています。当時の社会、そこには律法学者がいまし
た。社会的に宗教界の中で指導者として権威をもっている律法学者。律法学者の中に
は地位ばかりではなく、富にも恵まれた人がいたかもしれません。彼らもまた金持ち
と同じように神殿にやって来ます。その姿をイエスは遠くからじっと見ていたようで
す。当時の神殿には、女性たち、やもめたちが集まる庭、そして男たちの庭という、
イスラエル人の庭があり、さらに祭司たちの庭が神殿の中にあったようです。男と女
の違いで、女の人は特定の場所まで入っていけず、その庭は女性の入れる場所で、そ
こに献金箱が用意されていたようで、貧しい人々、そしてやもめもまた神殿の庭に
入って、祈り、献金を捧げていたようです。今日のお話はその生き方、行動を比較す
ることにより、どのような生き方が神に用意されるのか、教えられているようです。

 これまでも見てきたように、聖書では律法学者やファリサイ派の人に対するイエス
の態度には厳しい態度がいくつも描かれていました。「モーセの座に対する律法学者
やファリサイ派の人の言うことにはすべて守りなさい。しかし、彼らの行いは見習っ
てはいけない。彼らは言うだけで実行しないからである。」こういう聖書の話しもあ
ります。さらに「律法学者とファリサイ派の人たち、あなたたち偽善者は不幸だ。」
こういう表現もイエスの言葉として描かれます。非常に厳しい言葉がイエスから話さ
れていた。

 そして、今日の福音もまた同じようです。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長
い衣をまとって歩きまわること、広場で挨拶されること、会堂の上席、宴会の上座に
つくことを好んでいる。そして、やもめの家を食いものにし、みせかせの長い祈りを
見せものにする。このような者たちは人一倍、それだけ厳しい裁きを受けることにな
る。」実にイエスの厳しい言葉が、こうして表現されているわけです。イエスの時
代、神殿に仕える宗教者、指導的立場にある人々に見られる権威についての非難がイ
エスから語られます。そこに生きている宗教者、律法学者たち、その心はどんなもの
であったのか、みせかけは素晴らしいけれど、外見は素晴らしいけれど、その心の内
はどうなっていたか。虚栄心や貪欲な姿をイエスは指摘しています。だれからも挨拶
される、先生と呼ばれる宗教者、律法学者。権威を見せびらかす律法学者。
 それに対して今日、私たちが注目しているのはやもめの姿です。神殿の賽銭箱にわ
ずか2レプトンを入れる貧しいやもめがいた。当時の最も小さい単位であったレプト
ン。今の私たちの時代では百円足らずのお金だそうです。でも、百円、二百円は財布
の中にあるすべてでもあった。財布の中にあった百、二百円は一日の生活を支えるお
金でもあった。でも、そのすべてを賽銭箱に投げ入れた。そのやもめの姿をイエスは
じっと見ておられました。どちらが、律法学者や金持ちたち、金持ちたちは本来、貪
欲な人が多いと言われますが、それでも金持ちも献金をしていたという話しが今日の
聖書にもありますが、それなりに金持ちは大金を賽銭箱に投げ入れたかもしれませ
ん。でも、このやもめのわずか2レプトンは目に留まるものはなかったはず。それで
も神は、イエスは私たちに神に対する真実の命がどちらが燃えていて、その献金を捧
げているだろうか、私たちに問いかけていると思います。

 金持ちの捧げる献金は大きかったかもしれません。誰もが目に留まるようなお金
だったかもしれません。でも、誰の目にも触れないような、僅かなお金を捧げたやも
めの姿の方が、神の前に真実であったと語られているのが今日のみ言葉です。イエス
はこのかくれた小さなできごとに対して、弟子達に注目をさせます。律法学者に気を
つけなさいと言いながら、同じように貧しいやもめを見ていた弟子達に「あの貧しい
やもめは、賽銭箱に入れた人たちの中で、誰よりもたくさん入れた。」こういう表現
をイエスはしています。
  私たちはイエスが話される真意が理解出来ると思います。富や地位に執着する律法
学者の生き方、さらには見せかけの長く祈る。よりいっそう自分を外見的に立派に見
せるため、衣を長くしたり、そういう律法学者は時にはやもめの家からも、援助を要
求したという話しが随分残っているとのことです。自分の立場、地位を利用して利得
をむさぶる律法学者。昔も今も、世の中は変わらないのかなと感じます。今の時代も
あるときにはそうした事件が明らかにされます。十分に生活を潤う、経済的に物を
持っていたとしてもさらに不正を働いて、自分の富を大きくしようとする。貧しい
人、苦しい人々には眼中にないというように事件はさらされていきます。やもめの献
金はすべてを見ておられたイエスにとって最も目立つ献金であったはず。それは生活
費にあたるすべてを、わずかであっても心からの献金として捧げたその姿を、イエス
は褒めています。福音のように私たちもまた、弱く貧しいものの一人であるかもしれ
ません。特別自慢出来るような力や富も能力も持っているわけではありません。で
も、心からの奉献をすることによって、神に良しとされる生き方を出来るという生き
方を、やもめの姿をとおして私たちにも教えられます。

  私たちもそういう生き方が出来るように、努力しなければならないでしょう。イエ
スが厳しく言わざるをえなかった律法学者たちは、神よりも自分の地位や名誉に心ひ
かれる部分があって虚栄心、貪欲な心に執着する偽りの権威をひけらかしている。外
見から見れば完全であると見えたとしてもその心は真実ではなかった、ということに
なります。神の前に私たちはどうなっていくでしょうか。富や名誉から離れられない
彼らを批判しているとすれば、私たち自身はその批判を受けることがないといえるで
しょうか。どれだけ捧げるのだろうか、どのようなことをするのだろうか、人に対し
ても私たちはそういう目で見ているような気がします。外側の出来事に心惹かれてい
るけれども、心の内側を見るということは、私たちには難しいことかもしれません。
でも、そのことに私たちは心を向けていかなければならないことを、私たちは教えら
れています。

  やもめが示された心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神を愛されるその行為
を、生き方の中にこそ、私たちは現していかなければならない。その時に輝く素晴ら
しい宝がそこに備えられていくことになるのではないでしょうか。やもめの行為から
私たちもまた、学びとらなければならない多くのものを見つめることができます。神
に信頼するその心を祈り、そして捧げること。教会から家路につくとき、ミサが終
わって教会から出て行くとき、教会で祈ったその祈りを生きることこそ大事である。
祈りと一歩外に出た自分の生き方が遊離しない、祈ったことがその生き方、行動に繋
がっていけるように。今日、私たちはみ言葉をとおして教えられています。私たちの
心は今、どこにあるでしょうか。私たちの願いや祈りは今、神の目から見て
どうだと思いますか。このミサで願いや祈りを誰もが捧げます。その思いは神様にど
のように受け留められるでしょうか。
  聖テレジアが祈り、話しています。「恐れることはありません。貧しければ貧しい
ほどイエスはあなたを愛されるでしょう。」今日も私たちに対してイエスの問いかけ
が聞こえてきます。私たちの思いは今どんな思い、どんな心で神様に向かおうとして
いるでしょうか。

2015年11月3日火曜日

11月2日(月) 死者の日


諸聖人の祭日の翌日、11月2日 18時30分から「死者の日」のミサが行われ、平日の月曜日にもかかわらず多くの方々が共に祈りを捧げました。
亡くなられた共同体の兄弟姉妹、恩人、友人、知人・・・・、それぞれの信徒の思いが込められた650名の故人の名前が記載された名簿が奉納され、諸聖人や殉教者のとりなしによって、罪が清められ天上の教会に招かれることを祈りました。



後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。


今聞いたみ言葉(ヨハネ6・37-40)、そこにはイエスの御心がありました。
「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
皆が、永遠の命を得ることがイエスの御心です。小さな人に対してもイエスに対すると同じように接した、そのような人が神の右に招かれたという聖書のみ言葉があります。
天上の教会に入れるかどうかは、今の世での人の生き方。そのようなことを私たちは考えざるをえません。神の目には全て見えているということを心に留めておかなければなりません。
教会は、この世の教会、煉獄、天上の教会、この三つが一つであり、諸聖人や死者も私たちと共にあります。
昨年から教会では、亡くなられた身近な人たちの名前を書いた名簿を奉納することにしており、今回も650名もの名前が書かれていました。死者に思いを馳せ、眠りについた愛する人々が、諸聖人や殉教者のとりなしによって、罪が清められ天上の教会に招かれることを祈りましょう。
死は誰にでも訪れるものです。その時が来れば死を受け入れるしかありません。今は送る側の人でも、やがて送られる人となります。永遠の命ということからすると故人たちは私たちよりもほんの少しその時期が早かっただけ。しかし、死というものは悲しみで心が揺れるものです。
私たちは信仰を見つめ、死の向こうに永遠の命があること信じ、祈り続けなければなりません。

2015年11月1日日曜日

11月1日 諸聖人

ロザリオの月も終わり、11月を迎えました。
今日の「諸聖人の祭日」は、8世紀にケルト人の国で始まったとされ、全ての聖人と殉教者を記念する日です。諸聖人の取りなしを信じ、神の子と呼ばれるものにふさわしくなれるよう祈りましょう。

明日、2日は「死者の日」で18時30分からミサが行われます。
亡くなられた先祖、友人、知人のためにお祈りしましょう。

さて、典礼の最後の月の始まり、諸聖人の祭日に200人を超える兄弟姉妹と共に食卓を囲み、冬が近づく晩秋の一日に、諸聖人のとりなしを願い、贖いの実り、霊的収穫への感謝を祝う事が出来ました。
また、ミサの福音朗読では、10月18日の勉強会で後藤神父様からご指導頂いた、額、口、胸に十字架のしるし、を半数位の方が早速に実行されていました。「信徒が宣教司牧の中心となる事を考えるように」との勝谷司教様のメッセージを受け、櫻谷委員長は教会内での具体的な取組み、伝え方について大変悩んで居られますが、多くの方が典礼の変更を積極的に受け入れる姿勢をご覧になり、少し安堵されているのではないかと拝察しました

後藤神父様のお説教をご紹介します。


ロザリオの月が終わり諸聖人の祭日を迎えています。今日は日曜日で年間の主日ですが、祭日を優先する決まりがありますので諸聖人の祭日を祝います。
カトリックの辞典では、諸聖人の祭日は8世紀にケルト人の国で始まったと説明があります。天候に恵まれない土地で生きる人々は、冬の初めに教会が天の栄光を指し、死の彼方の命への希望に生きるようにとの励ましを求めていました。寒く、日が短くなる中で希望が薄れて行く地方では人々に明るい希望が必要で、死の彼方の命への繋がりが明るく希望に満ちたものになる様にと諸聖人への崇敬が色濃くなっていったという、歴史背景を垣間見る事が出来ます。
生きているものはこの地上で生活をし、眠りについたものは神のもとに召されます。神の国はどんな国かよく解りませんが、私たちこの世に生きるものは、眠りについたものとキリストの体に一つに繋がっています。キリスト者は死んだものにも、生きているものにもキリストを通して命を与えられていますが、永遠の命を得るために、家族や友人、知人の救済のためには、聖人たちの天の教会のとりなしが必要でした。聖人たちはまっすぐに神のもとに行ったに違い無いのですが、私たちは償いを果たさなければ聖人たちの所へも行けません、かつては煉獄と言う言葉でそういう世界を表されていました。
諸聖人との連帯は、死者にとっても、生きている私たちにとっても希望をもたらすものです。一つの考え方として、諸聖人は聖徳に溢れ、あり余る恵みを頂き、私たち罪びとはその溢れる恵みを諸聖人から頂きながら償いにより神の国に入れてもらう、との思いがあり、その思いで諸聖人にとりつぎの祈りをするようになりました。
教会の使徒信条の中では、聖なる普遍の教会についての宣言の後に聖徒の交わりと言う言葉が出て来ます。教会とは全ての聖徒たちの集まりであって、すべての信者はただ一つの体を形づくります。そして最も重要なのが、その体の中心にキリストがいると言うことです。
カトリック教会のカテキズムでは
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのである
一人ひとりはキリストの体の一部分でもあるからである
と説明されています。
私たちは生きている自分を中心に頑張っていますが、私たち一人ひとり、教会共同体、既に召された人々もキリストの一つの教会です。そして、その教会に所属する神の民は、死んだものも生きているものも神につながっています。
愛は自分の利益を求めない、私たちは生きているものと死者とを問わず、全ての人と連帯関係にあり、聖人との交わりを土台としています。それが天上の教会と地上の教会との交わりを意味しているからです。教会には、地上の教会、天上の教会、神のもとに旅だったものの教会、があります。3つの教会が其々交わりを持って一つの教会になります。聖人たちは、旅する教会、償いを果たせないでいる者の教会が一日も早く天上の教会に入る様にとりつぎをして下さっています。私たち地上に生きる教会も聖人たちに向かってとりなしを祈ります。
今日のみ言葉では、神の国に入る人について告げています。諸聖人祭日を迎え、神の子と呼ばれるに相応しい道に近づいていくことができる様に諸聖人にとりつぎを願いたいと思います。そして、もう一つの教会にいる死者の一人ひとりが、一日も早く聖人のいるところに迎え入れられるように祈りを奉げて行かなければならないと思います。

2015年10月25日日曜日

年間第30主日

今日の典礼のテーマは”いつくしみ”です。
イエスのよって癒された盲人の信仰について黙想しましょう。

先週、御ミサの後に、典礼総則改定の説明会が行われましたが、聞き逃された方々のために、今日のミサ説教の中で、後藤神父様から再度お話がありました。

典礼総則の変更箇所については、下記もご参照ください。




今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。



『今日、ミサのテーマは、いつくしみです。
神が民にそそがれている”いつくしみ”。旧約の時代においても、また新約においても、貧しい人にも、目の不自由な人にも、神のいつくしみが注がれたというのが、今日のテーマです。それは神が全ての人の救いを望まれ、ひとり子イエスによって、イエスをいけにえとして十字架にかかげることによって、人間の救いの道を開かれた、ということだと思います。
神は私たち一人一人を救いに招かれている。その救いの実現のために、私たちは何をすべきなのでしょうか?神は救われ、その救いに私たちが与っている、その救いの道を歩むために、私たちには何が求められているのでしょうか?
そのことを今日のみ言葉を聞きながら黙想していくときに、福音に登場した盲人の信仰に行きつくような気がします。
今日語られた聖書に出てくる盲人は、単に肉体的な盲人ということではなく、信仰的な盲人を象徴しています。彼はイエスを見ることができない状態にありました。でも盲人である彼は、イエスの噂を耳にしたとき、イエスの内に神を感じることになりました。人々の話や噂を聞き、そこにイエスを感じ、イエスの中に神を感じた。イエスの中に真理や神聖を見抜いたのが、この盲人であったということになると思います。
人々の噂を聞いたとき、そしてイエスが近づいて来たとき、ナザレのイエスだという声を彼は聞きました。人々の声に混じって聞こえた「ナザレのイエスだ」。その声に彼は、声が聞こえる方に向かって、「イエスよ、わたしを憐れんでください」と何度も何度も彼は叫びます。自分の目では見えないイエスに向かって、自分が感じたイエスの内にある神に向かって、「わたしを憐れんでください」と。その叫びは、その声は、普通の人では黙らせることができないほどだったと聖書は記しています。きっと命を懸けて、全身全霊で、イエスに向かって、「憐れんでください」と叫んだに違いありません。イエスはその彼の姿を見て、その声を聞いて、その熱心さを見て、自分のところに連れてくるように言われました。そばにいた人たちは、イエスが呼んでいると彼に告げます。
イエスが呼んでいる、今自分が信じたイエスが自分を招いている、それだけでじっとしていることが出来なくなるほど心は躍り上がります。上着を脱ぎ棄てるほど彼は歓喜に満ちて、イエスのもとに招かれ連れて行かれようとしています。
これほどの信仰の故に、この盲人は癒されることになりました。でもイエスの癒しは、ただ癒すだけの信仰ではありませんでした。イエスの癒しは、ただ癒すだけではなく、癒されたのち、なお怏々しく生きる信仰を求めているものでした。その場だけの救いではなかった。彼はイエスによって癒され、その信仰によって救われました。見えるようになりました。見えるようになって、彼の信仰はさらに変わります。深くなります。大きくなります。イエスを証する人と彼は変わります。さらにイエスに従っていく人に彼はなりました。聖書のお話はそのように結んで、私たちに告げています。
救いの道は、イエス・キリストによって準備されますが、私たちはそのような救いに向かって、その信仰に生きなければならないと思います。今日の福音の中に登場した盲人は、私たちの姿でもあるように見えてきます。神によって清められ、曇りのない心で仕えることができるように、私たちもまたより深く黙想し、祈りながら新しい出発ができればと思います。』

2015年10月18日日曜日

年間第29主日 世界宣教の日

今日は「世界宣教の日」です。
今日の後藤神父様のお説教では、カトリック新聞に掲載された教皇様からのメッセージが紹介され、私たち自身の宣教について考えるよい機会となりました。


また御ミサの後、引き続き聖堂で、新しい「ローマ・ミサ典礼書の総則」日本語改定訳に基づく変更箇所について、後藤神父様の講師により勉強会が行われました。ミサは、司祭、信徒が共に主の食卓を囲み一致のうちに行われることが大切だということを改めて学びました。


午後からは、札幌地区の合同墓参が行われましたが、バスが出発するまでの間にカテドラルホールでDVD鑑賞が行われました。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日はミサが終わると、典礼総則の改定の勉強会を行います。そして午後からは札幌地区の合同墓参になっています。また、今日は「世界宣教の日」にあたり、ミサ中の献金は全てローマの教皇庁に送られることになっています。応分の寄付を皆さんにお願いしたいと思います。
日本は今なお世界の教会からみると布教国という位置づけになっています。そのため、世界中から集められた今日の献金の一部は、日本の教会の宣教の資金にも使われているという現実があります。私たちもそのことを意識しながら、全世界の宣教のために役立てられるよう献金に心を込めて託したいと思います。

「世界宣教の日」にあたっては毎年、教皇様からのメッセージが出されています。
カトリック新聞には全文が掲載されていましたが、その一部をご紹介したいと思います。
今年、教皇様が強調されていたことは、「宣教はイエスへの情熱であると同時に、人々への情熱でもあります。」
私たちの熱い信仰がイエスに向けられているならば、イエスが大切にされる神の民、すべての人の救いに対しても、私たちの心は向かわなければならない、というメッセージが込められています。
洗礼の恵みをいただいた私たちです。皆さんはキリストに深く結ばれ、主の受難と復活の証人となって生きる人となる使命を受けて洗礼をいただき、堅信の恵みをいただいている人たちです。洗礼と堅信の際の祈りの中には、今述べたことが含まれています。私たちは忘れているかもしれませんが、洗礼の時にはこのようなメッセージを受けて、キリスト者として歩み始めたわけです。この時の使命は洗礼の時だけに終わるのではなく、生涯信仰を生きる日々の中に、この使命が託されているということだと思います。生涯の使命は宣教の使命でもあるということを私たちは心に留めたいと思います。
私たちに出来る宣教とは何であるのか、そのようなことも考えながら信仰を歩まなければと思います。
教皇様のメッセージには次のようなことも触れられています。
「み言葉に仕えるものである司教、司祭、修道者、そして信徒に託された使命は、一人残らず全ての人がキリストと人格的に結ばれるようにすることである。」
私たちが神を信じ、キリストを信じ、神の教えが私たち人間にとって大切なものであるとするならば、そのことを周りの人に伝えたいと願うのは、誰もが考えることだと思います。教皇様はそのような意味で、一人残らず全ての人がキリストに人格的に繋がるようにというメッセージを出されているわけです。
メッセージの一部分を心に留めながら、私は次のようなことも考えていました。
ミサに与り、私たちは御聖体をいただき、信仰の成長も体の成長もそこからいただこうと祈っています。そして、ミサが終わる派遣の祝福の祈りの言葉は、「行きましょう、主の平和のうちに。」と、そう祈ってミサは散開となります。
この祈りの言葉もキリストからの呼びかけとして考えなければならないと思っています。心から自分を探し求める全ての人に一層近づくために、イエスは私たちを用いたいと望んでおられるのではないでしょうか。私たち一人一人が神、キリストに仕えて、宣教の力を発揮することができるようにというメッセージも込められていると思います。
昨年は「信仰年」という一年の歩みの中で宣教の日を迎えました。今年は奉献生活の年を歩んでおり、その歩みの中でこの「世界宣教の日」を迎えています。教皇様が呼びかける意向をいつも心に留めながら、福音のために一人一人が奉仕するように、今日もまた私たちはミサの中で共に祈っていきたいと思います。

さて、今日の福音を皆さんはどのように受け取ったでしょうか?
今日の福音もまた、これまで主日で読まれてきた内容の流れを汲むものです。先週の福音のみ言葉の中では、財産を持つ真面目な人が「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいのですか」とイエスに質問するお話しでした。
イエスはその人に対して、財産に執着し過ぎているということを指摘されました。自分の救い、そのことに心が執着して、他の人に心が向けられない、そうした偏った考え方を改めて、自分に従いなさいと話されました。しかし「小さい時から、守るべきことは全て守って自分は頑張ってきました」そう答えた財産を持つ真面目な人は、イエスの指摘に対して淋しく去っていきました。そのやり取りを見ていた弟子たちは、自分たちも家族を捨て、財産を捨て、全てを捨ててイエスに従ったのだが、永遠の命を受け継ぐことができるのだろうかという思いがよぎりましたが、永遠の命に入るのは簡単なことではないと諭されて、弟子たちは驚いてしまいました。
私たちの考え方、生き方、私たちの心の底にある欲望はどんなにしても、自分中心ということがあまりにも多いような気がします。
誰が一番偉いのかと議論した弟子たち、栄光を受けるときにイエスの右と左に座りたいと願う弟子たち。それは誰もが心の奥底に持っている執着心であり、人から評価されたい、できれば自分が特別な地位をいただきたい、という心と同じような気がします。弟子たちの心も、私たちの心も、イエスの本当の心を理解できずに、ただイエスに従っている、そいうことでは同じような面があるような気がします。
そうありながらも、私たちの信仰においては、もっと深く神を信じたいと願います。そして、もっと神の愛の教えを生きるため、社会においても隣人にも奉仕できるようになりたいと、私たちは願います。しかし、自分の願いと現実とが一つになっているかを考えた時に、仕えることの難しさを改めて実感しているのではないでしょうか。
今日のみ言葉のこのようなやり取りの中で、イエスは弟子たちに次のように尋ねます。「あなた方は、わたしが受ける洗礼を受けることができるか。」一人の弟子はすぐさま「できます」と答えています。私たちはどう答えるでしょうか。
イエスが言った「わたしが受ける洗礼」というは深い意味があったようです。イエス・キリストにとっての洗礼は、十字架の受難の死であり、復活でもあります。それを弟子たちに問われたのです。
私たちがいただいた恵みの洗礼は、そのことに深くつながっているのでしょうか。ただ一度の私たちの洗礼は、十字架の死と復活につながる洗礼でしたでしょうか。新しく生まれ変わって生きるための洗礼であるはずなのに、もしかすると私たちの生活の中で直面する困難から逃げ出そうとばかり考えている自分がいるのではないでしょうか。神の子として生きる大切な戦いはどこにあるでしょうか。
イエスは弟子に言いました。「あなた方はわかっていない」、私たちももしかするとわかっていないのかもしれません。私も何を求めているのか、何をしようとしているのか、わかっていないような気がします。わかっているのは自分の身の行く末を案じていることだけかもしれません。信じなければ、仕えなければ、しきりにそう考えている自分であるならば、人のことを考える余裕は生まれてこないのかもしれません。自分の救いが、もう既にイエスによって完成されていると信じることができるならば、私は自分の命も自分の全ても神様に捧げます、と言い切ることができるならば、その時、周りの人、他人の身を案じることもできるような気がします。
神の子として、キリストの弟子として、自分の十字架を投げ出すことがないよう、勇気と希望を持つことができるように、私たちはもっと祈っていかなければならないようです。私たちの歩みはそこから宣教の歩みにつながっていくと思っています。
私たちの弱さをさらけ出し、そのままの自分で神様に仕えることができるよう恵みをお祈りし、宣教を心に留めたいと思います。』


2015年10月11日日曜日

年間第28主日

陽が短くなり朝晩の気温も下がり、すっかり秋の訪れを感じるようになりました。

聖堂の香部屋から見える「聖園こどもの家」の樹木の葉も色づいてきました。


今日の福音では、イエスの招き、神からの呼びかけの言葉を前にして、私たちはどれだけのものを手放せるのだろうか?
神の国に入る、永遠の命を受けるために、私たちに欠けているものを考えさせてくれます。

後藤神父様のお説教をご紹介します。


今日の福音の中に登場する一人の男の人が「永遠の命」を受けるにはどうしたら良いでしょうか、そういう質問をイエスにされています。みなさんは「永遠の命」をいただくことを神様に祈っていますか。「永遠の命」のために祈っているでしょうか。
意外と「永遠の命」まではお願いしていないと言う人がいるかもしれませんが、そうでしょうか。今日、皆さんは「永遠の命」をいただくために、祈りをしてこのミサを始めているのですね。どこで、そんな祈りをしていましたか。みなさんがミサの始めに回心の祈りをしました。「全能の神と兄弟の皆さんに告白します。…」という祈りをして始めました。そして最後に、その祈りの結びに「…全能の神がわたしたちをあわれみ、罪をゆるし、永遠のいのちに導いてくださいますように。」と祈っています。
(第三形式の祈り)これはミサの度ごとに欠かせない祈りとして捧げられています。ですから、みなさんもまた、ミサを通して「永遠のいのちに導いてくださいますように」という意向を持って、回心の祈りをしているのです。わたしたちもまた、今日、登場する金持ちの男の人と同じようにして「永遠の命」を祈っています。でも、わたしたちは時々、心の中からそのことを考え、意識して祈っていないということがたくさんあることが、ひとつ分かると思います。毎回、毎回その祈りがあって、ミサを捧げているわたしたちであるのに、そのことに気づかないままにミサに入っている。いつでもそうですけれど、何でもかんでも分かってやっているかというと、わりとそうではなくて、ほんのちょっとしたことしか分からないままに、祈りもそうですし、生活の中もそうですし、人との交わりの中でも、そんなことがわたしたちの現実ということかもしれません。
 神様の目から見て、人生を真面目に生きている人がたくさんいると思います。しかし、その真面目な人の根本的な精神にかえ難い「かたくなさ」があるということも、今日のみ言葉は語っているのです。この財産を持っている人はそうでした。また、先週も心のかたくなさから 問答があったことをわたしたちは思い出すでしょう。先週は離婚の問題について、ファリサイ派の人が意地悪な質問をイエスに投げかけたのです。根本問題をはき違えて、人間が自分たちの都合をよく考えることで、正当化しようとする働きがわたしたちにはあるようです。それはファリサイ的考えといっていいかもしれませんが。ファリサイ派の人々は イエス様に意地悪な質問をして、問い詰めようとして離婚問題を質問しました。イエス様はそのときはっきりと答えていたのです。そういう問題は、神とわたしたちの関係をおろそかに考え、おろそかにするときから始まるのだと話されました。そして強調しました。神があわされたものは離してはならないということが結婚の精神だ。だから旧約聖書で掟の中でいわれていることは、みんな人間の都合から、そうせざるを得ないことが記されているだけで、神様の目からみると、結婚は神の前で誓ったことであり、神聖であり、別れさせてはならないものだ。これが基本だとあらためて話されました。
 今日の福音の中でも人間の行為自体の根本について触れているような気がします。
人の目からみるといっけん恵まれた生活、財産を持つ金持ちの青年の話です。この青年はイエスが歩いていると走り出て来て、イエスの前に膝まづいたといいます。今日のこの聖書の話は、共観福音書、3つの聖書のなかで共通して取り上げられています。今日はマルコの福音ですが、マタイの福音ではその男の人は青年であったと記されており、ルカの福音では役人(議員)であったと記述になっています。この3つの福音書で共通していえることは、資産を持っている金持ちであったということです。
すなわち、「永遠の命」について質問をしたこの男の人は地位も名誉も財産もあるということが3つの福音書で共通することでした。さらに信仰においても、倫理的にも非常に熱心で真面目な人であったということも共通する話でした。律法を守る以外にわたしたちは「永遠の命」が与えられる道はないと信じ、モーセの十戒さえも小さい時から守ってきたという主張をしています。それだけ聞いたらまさに、100点満点の人ではないでしょうか。非の打ち所のないような生き方をしていた青年、この男の人は。「永遠の命」を確信したいがためにこの人は「善い先生」とイエスに呼びかけて、最大の敬意をはらって膝まづきます。イエスは小、さい時から真面目に生きてきたというこの青年に目を留め、じっと見つめます。イエスはこの男の人を慈しんで話されたのです。
 イエスの慈しみの目の中において、この青年に話しかけたことが、欠けているものがひとつあるという言葉でした。イエスはけっして突き放してではなく、いつくしみの愛をもってこの青年に声をかけているのです。真面目に生きてきた、掟は守っている、申し分のない生き方をしたかのようでしたが、ひとつ欠けているものがあなたにはあるのだと話されます。わたしたちの考えている世界には、能力にしても財産にしても持たないよりは持っているほうが大事ではないだろうか。そんな考えがあるようです。でも、イエスが示される生活、神様の世界では持つこともまた欠けるということになるのでしょうか。そのように聞こえてきます。誰もが羨むような能力や力や地位や名誉や財産も兼ね備えている人に対して「あなたにひとつ欠けているものがある。」それはわたしたちの世界とは違う神の世界での話でした。恵みの世界と神様の世界ではよく言われます。恵みは何の条件もなしにわたしたちに与えられるもの。条件がない、何かを交換して与えるというものが恵みではない、一方的に神様から与えられるのが恵みであるということ。でも今日登場してきたこの男の人は、財産から手を離すことができない人であったということがわたしたちには考えることができるのではないでしょうか。
 イエスはかつて、人が富と神に兼ね仕えることはできないと話されていますが、富の恐ろしさもイエスは知って、この男の人に財産について話されたのだと思います。財産を持っているこの人は、もしかしたらかわいそうな人や苦しんでいる人には助けの手を差し伸べていたかもしれません。それであればわたしたちもやっていることだと思います。でもどうだったでしょうか。詳細は分かりませんが、もしかするとこの人の思うところで、憎い人や厚かましい人や自分にとって受け入れにくい人に対して、愛の業はどのように行われていたというのでしょうか。わたしたちもそうだと思います。苦しんでいる人、悲しんでいる人を目の前にすれば誰でも助けの手を差し伸べます。それはできます。でも自分にとって受け入れがたい、何となく性に合わない人、そういう人にだれもと同じように愛をあらわすこと、愛を生きることは誰にとっても簡単なことではないと思います。愛は素晴らしい、愛は大切ですと言いながらも、本当にすべての人に対して同じように、愛を生きているかどうか問われる。わたしたちもこの男の人と同じように、律法は守っていると言いながら、神の目から見て本当に必要なところに手を差し伸べているかどうかは、反省すべき点が出てくるのではないでしょうか。
 もしそういう一部の愛に欠けたところがあるとするならば、本当に律法を守っているということにはならないでしょう。きっとこの青年もそうした面でイエス様の目に感じられたかもしれません。「あなたに欠けているものがある。持っているものを売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。」難しいことではないはずです。この青年はイエス様が言われたことは良く分かっていたはずです。でも、その財産を手放す自由は持ち合わせていなかった。自由は持っていたけれども自分の都合の良い自由だけを大事にしていたのかもしれません。財産や富からも自由になりなさい、それがきっと神様の心なのかもしれません。
 弟子たちは、この青年がイエス様の最後の言葉を聞きながら、自分はこの財産をどうすべきかは分かったでしょう。でもそれを決断し手放すといことにはまだ至らなかった。帰っていく姿はしょんぼりしていたはずです。立派な青年に思ったけれど、最後の最後、この青年の後ろ姿は悲しみでした。誰がそれでは神様の国に入ることができるのだろうか、弟子たちは自分のことについて考え始めました。ですから、驚きました。そうした一部始終を見つめながら、イエスの眼差しは今度は弟子たちに注がれました。
 そして弟子たちに話します。「人にはできないが、神にはできる。」イエスに招かれ、何もかも捨てて弟子となった12人の弟子たちは今、イエスを見つめています。今では宣教にも派遣される弟子たちになっています。イエスは弟子たちに「人にはできないが、神にはできる。」と言いながら、弟子たちのこれからの先もきっと示されていたと思います。それは十字架を指している言葉にも聞こえてきます。イエスは何度もこれまで自分の受難について話されています。でも弟子たちはそれを理解できなかったと、繰り返し繰り返し聖書は語ります。でも今イエスは、「人にはできないが神にはできる」という言葉の背景に、自分がこれから歩むべき道のなかで十字架に向かって、自分を捨てて自分の命をその十字架にかけて、すべての人の救いを神様に委ねる。わたしたちはひとつだけではない、ふたつ、みっつと数えきれない、欠けているものがあるような気がします。
 ですから、わたしたちも今日の福音をよく聞き、よく黙想しながら、富にばかり価値をおく生き方ではなく、富にばかり目を向ける心ではなく、新たな決断が求められるということではないでしょうか。イエスの見つめる眼差しにはいつも赦しがあり、招きがあります。ミサの最初の回心の祈りもそうであるように、この金持ちの青年がそれに気づいたとき、「永遠の命」に向き始めるのだと思います。聖書ではこの青年の行動、これからの生き方には語られてはいません。その時、しょんぼりしてイエスに背を向けて帰って行ったかもしれません。でも、この青年もきっとその日から様々に考える時間が与えられたと思います。そしてイエスが自分を見つめた眼差しの奥に自分を赦す、そして、自分を永遠のいのちに招くということに気づかれるはずです。わたしたちも神の眼差しのなかでいつも赦しが与えられ、そして招かれているんだということを心に留めて今日のミサにあずかっていきたいと思います。

2015年10月4日日曜日

年間第27主日

先日の台風並みの低気圧が過ぎ去り、すっかり秋の訪れを感じる主日となりました。

今日の典礼のテーマは、「婚姻」と「家庭」。
御ミサのあと、地区集会が行われ、今日のテーマを中心に分かち合いをしました。


「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」
今日のミサの後の月例会で、来年の献堂100周年記念事業について、そして、今年の教区100周年の教会対応についての話がありました。教会聖堂は100年前から同じ場所に同じ姿で建っています。2度の大戦の間も、多くの札幌市民にその姿を見せ、様々な感慨を与えて来ました。櫻谷委員長は献堂100周年に当たり私たちに、信仰を更に強めると同時に共同体の新しい在り方を問いかけられました。教区100年の取組みと併せて、私たち一人ひとりが出来る事、変えなくてはならない事を考え実行する事の大切さが伝わってきました。

<後藤神父様のミサ説教概要です>
ロザリオの月を迎え今年もあと3ヶ月になり月日の流れを感じます。
今日の福音は、エルサレムを目指すイエスと弟子たちの前で起きた出来事です。イエスに対立する人たちの力が強くなり、ファリサイ派の祭司たちはイエスが律法に反する話をされる事を期待し論争に持ち込むつもりでいました。しかしイエスは、モーセの律法、申命記では、離縁も認めていた訳ではないことを話し、「神が結びつけたものを人が離してはならない」という結婚の基本的な姿に立ち返って考える事でその神秘を伝えました。
聖書の中でも、愛を誓って結婚しても生涯を共にする事の難しさが語られます。聖書の時代は、夫に有利な社会ですが、神の定めによる結婚では、たとえ離縁状があっても夫婦の絆を解消する事は出来ず結婚関係は続く、と話されます。
天地創造以来、神によって創られた人間は男女の親密な関係において結婚し夫婦となり、互いに協力して家庭を築きます。男女が愛し合って結婚に至ることはごく普通の事と思われますが、時にその愛が上手くいかない時があります、しかし、私たちは、愛に生きる事の素晴らしさを実感しているはずです、その様な時、信仰者である私たちは、今一度、愛の理想を示された十字架のイエスを見つめます。
身勝手な欲望の為に罪に汚れた私達でさえも赦し、ご自分の命を奉げ、愛を持って死を受け入れ、神に背く人間の為にご自分を与えられたのが、愛を証ししたイエスです。イエスこそ、愛の理想を私たちに示された方です。
男女の愛、夫婦の愛もまた、そのイエスの愛に触れなければその交わりを保つことは難しいのです。愛する人の為に十字架に命を奉げたイエスの愛を見つめる事によって私たちは励まされます。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし教会の結婚講座では「夫婦は人格として別個な存在ではなく、相互に協力し合って一つに結合される」と言う事を私は強調してお話しします。
現代の世界では多様化した社会の中で個人を大事にする時代になり、愛の誓いは、その時だけのものになっている事がありますが、夫婦が夫婦として生きて行くために大切なことは、もっと素直に純粋に自分の心を見つめることです。
私たち人間は弱さを持ち、欲望のままに流され易いですが、人間の様々な欲望が困難にめげず、その交わりを神の恵みのうちし、世界中にある夫婦が心を一つにし、神に祝福された人生、愛の道を歩むことが出来る様に、皆さんと一緒に祈りたいと思います。

2015年9月27日日曜日

年間第26主日 世界難民移住移動者の日

今年の国際デーは教区主催の国際ミサを取りやめ、各小教区単位でのミサとなりました。北一条教会では勝谷司教様の司式により英語ミサとの合同ミサを行いました。


写真左から、後藤神父様、勝谷司教様、ハン神父様

準備に時間がなかったため、外国人信徒の参加者は少ないものとなってしまいました。
また例年、北一条教会で行われていた催しも今年は見送られることになり、とても寂しい国際デーとなりました。

札幌市内で唯一、英語ミサが行われている北一条教会はここ数年、教会行事等をとおして同じ共同体に所属する信徒同士として繋がりを深め合っていこうという姿勢で取り組みを行ってきています。
今年は仕切り直しの年となりましたが、ぜひ来年につなげていけるような一年となりますようお祈りしたいと思います。

今日のミサでの勝谷司教様のお説教の概要をご紹介します。

『昨日、韓国からの修道者とともに原発被災地を訪れてきました。
そこで感じたことは、津波被害と原発被害では被災者に対する保障内容が異なることによって、被災者同士、被災者を受けている地域の中で、不満の種が生まれているということでした。このような住民同士の分断を生むような政策に対しては非常に疑問を感じました。
なぜ最初にこの話題を出したのかというのは、私たちが気の毒な人たちを受け入れる、助けるという時に気を付けなければならない心の姿勢についてお話ししようと思ったからです。
私たちは”神の憐み”というものを受け入れるということに対しては、すんなりと腑に落ちるのですが、それが”神の愛”を受け入れるということになると相当な困難を感じます。
それは、自分たちは”かわいそうな”立場の人に対しては、助けてあげたいという思いで手を差し伸べますが、いったんこれが自分たちと同じ”立場”に立つと、とたんに排斥しようとする。これは自分たちよりも下にいる立場は憐れむという姿勢ですが、神の愛はそうではありません。神の憐みというのは、泥に埋まっている人に対して、自分が汚れないところから救いの”ロープ”を投げかけるのではなく、自分も泥に埋まりながら救いの手を差し伸べる、というのがイエス様をとおして示された神の愛です。
これは、憐みと愛の違いについて、一般的に私たちが受け入れている感覚とは異なるということを示しているのだと思います。憐れむべき人たちがいったん自分たちと同じところに上がってきて自己主張するとき、それでも一緒に受け入れて共に生きていく、その人たちの痛みを自分の痛みとして抱え、その人たちの過去に思いを馳せ、そして未来を共に築いていく、これが愛の姿勢であるわけです。
以前、日本にもベトナム難民がボートピープルとして大勢押し寄せてきたときに、同じようなことがありました。彼らに対し仮の定住施設を作るというときの住民説明会では、難民を受け入れるということに対して誰も文句は言わなかったのですが、自分たちの地域の共同体の中に彼らが住むということに関しては拒否反応を示したのです。
今世界中で注目されているシリア難民に対しても、ヨーロッパ諸国ではかなりの人数の受け入れが決まりましたが、日本ではごく僅かな対応しか示されませんでした。
今後の流動的な国際情勢の中で、私たち日本人は国や国境の在り方について根本的に見直さなければならない時代に入ってきているのではないかと思います。
私たちが国際的な意味で苦しんでいる人たち、迫害されている人たちに対し、どのように支援し受け入れることができるのか、これは私たちにとっての切実な問題として考えていかなければならない問題だと思います。』