まもなく2018年が終わろうとしています。
皆様にとってこの一年はどんな年でしたでしょうか?
この一年の神の恵みに感謝しましょう。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『主の降誕を迎えると次の日曜日には「聖家族」の祝日を祝います。 教会では、祝日の「聖家族」ですが、普通一般には、家族に聖という言葉は、あまりにも畏れ多いことで付けられることはありません。しかし、信仰世界ゆえにこのような表現が用いられるのかも知れません。旧約時代には、神の威厳とそのあまりにも気高い至高性から、神殿などの建物や祭儀に用いる器具や用具などに「聖」という文字を付けることがあったとしても、神との距離を置くために罪深い人間、人には付けることはなかったようです。しかし次第に、祭儀をとおして神への奉仕に特別に召された人には、その人格に反映し「聖」という言葉も使われるようになったようです。新約では、12人の弟子たちにも神への聖への同化の要求として「聖なる使徒」という表現も生まれていくようです。人にも物にも「聖」がつくと言うことは特別な意味があるということで、それには二つの意味があると言われています。一つは、神の栄光を現す輝かしさ・明るさを意味すると言われ、もう一つは、分離を意味して聖と俗すなわち創造者と被創造物、神と人とを区別すると言われます。現代は、耳慣れたことばとしては神からの特別な祝福の意味を持つ「聖別」があり、聖人にゆかりのあるものに対し「聖遺物」ということばももよく聞かれます。大切な事は、偶像崇拝になるのではなく、聖なる人や物をとおして、神の聖性に触れることが大事なのです。
さて、今日は、父と子と聖霊の三位一体という「天上の聖家族」に対して「地上の三位一体である聖家族」を現している「聖家族の祝日」を迎えていますが、みなさんの描いている「聖家族」はどんなものでしょうか?そして、聖ヨセフと聖マリアの清らかな愛の関係。両親の愛情を一身に受け、言うこ とをよく聞いて、すくすくと育つ幼子イエスがいる。多くの人が思い浮かべる「聖家族」は、まさに一点の曇りもない理想的家族の姿なのではないでしょうか? 一般に聖家族とは、聖母子である聖母マリアと幼な子イエスと聖ヨゼフ (イエスの養父)の3人のことを言います。しかし、中世のレオナルドダヴィンチやラファエロの絵には、マリアの母聖アンナが入ったり、また、幼な子のイエスとヨハネとを中心にマリアとヨゼフそしてエリザベトがいる有名な芸術作も多く家族構成が様々名ものがあるようです。建築家アントニオ・ガウディの設計による有名な教会ではサグラダ・ ファミリアがあり、日本語に訳すると聖家族教会と呼ばれています。
今日のみことばでは、12歳を迎えたイエスと両親であるマリアとヨゼフが描かれていますが、聖書では聖家族の様子は余り語られてはいません。「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」(ルカ2:40)。「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2:51~52) とありますが、実際の生活がどのようであったかは、聖書では語られていないのです。今日のみことばで語られている出来事では、両親が心配して三日間も探し回るという情景で、両親の言うことをよく聞いてすくすくと育つイエスの姿がある聖家族のイメージからはほど遠いものではないでしょうか?
今日の福音で皆さんは、神殿でシメオンが話した言葉を思い浮かべる方もおられると思います。イエスもマリアも苦しまなければならないということ、しかも「剣で心を刺し貫かれる」ほどの耐え難い苦しみが将来あるとシメオンは話されていました。まさに今日の親の心配を考えると、そういう現実が起こってきたということを表している物語だと思います。考えてみると幼な子が生まれた直後に両親は大変苦しい状況に置かれました。幼な子を抱いてヘロデ王が死ぬまでの長い間、遠くエジプトに避難しなければならない、そんな物語が聖書では語られていました。すべてが保証されているような聖家族ではありませんでした。でも私たちが描く「聖家族」の姿は、神に祝福され、幸せに満ちた家族としての憧れがそこにあります。でも今日のみことばのように、その現実は私たちと変わらない苦しみもあった。子育ての悩み、心配もあったと言うことなのではないでしょうか。
でも私たちが聖家族から学ぶべきことは、マリアの信仰の姿があります。「主を信頼し、信じること」。マリアが私たちに示した模範そのものであります。私たちが聖家族を黙想するとき、祈るとき、沈黙のうちに神の遣わされた御子イエスの現れを見ること。それが聖家族を黙想すること。その黙想の中で奥深い神秘を見つめること。これも大切なことと思います。
師走を迎え一年も最後となり、この一年を振り返りながらミサに与る方も多いと思います。そして、新しい一年をまもなく迎えますが、聖家族に倣い、家族のつながり、共同体のつながりを、主の計らいの中に見つめ、黙想しながら、どんな時にも互いの成長のために祈りたいと思います。わたしたち一人ひとりも、神の子どもとして愛される人となり、成長することができますように。
元旦をまもなく迎えますが、日本の元旦は、私たちにとっても大切な一日となります。その日は「神の母聖マリア」の祝日になります。世界の平和のために祈る日にもなります。日曜日以外には1年に二度しかない私たち信徒が「守るべき祝日」であることも忘れないようにいたしましょう。そして、私たちの共同体、私たちの社会、この地上の世界に平和がおとずれることを共に祈る元旦でもありたいと思います。』
2018年12月31日月曜日
2018年12月24日月曜日
主の降誕
主のご降誕おめでとうございます。
この神聖な夜、まことの光であるキリストがわたしたちの心を照らしてくださっています。
私たちはこの日、聖なる、そして平穏で静かな夜を迎えることができました。
後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『キリスト教の世界では、今宵のイブからクリスマスが始まります。 それは元々、わたしたちの現代と違って太陽の陽が沈み暗くなる夕方から 一日が始まるというユダヤの伝統・習慣が背景にあるからです。ですから、 「タ方が午後4時から11時頃まで」を指してイヴニングと言うそうですが、 いま、この瞬間の時間帯が Evening であり、教会に集うわたしたちはクリ スマスイヴを迎えているのです。すなわち、Christmas Evening から イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの一日が、明日につながって主 の降誕を祝う事になります。
あらためて、今年も、わたしたちが待ち続けてきた・救い主イエスのご 降誕をみなさんとともに心よりお祝い申し上げます。 初めて教会に来られた方もおられることでしょう。 「ようこそ、お出でくださいました。」お祝いのご挨拶を申し上げます。
今年も、あとわずかとなる年末を迎えていますが、この一年を振り返り 感謝の祈りを心に携えて教会に来られた方もいるのではないでしょうか。
わたしたちの周りで起こった思いがけない事故や災害をとおして思い起 こされる苦しみ・悲しみを乗り越えた日々があったこと・・・。また、 多くの人に支えられての希望や喜びに包まれた笑顔もあったことなど・・・。
わたしは2千年前に、苦しみや困難を乗り越え救い主を待ち続けた人々と同じように、今日わたしたちもクリスマスを祝っているような気がします。
この神聖な夜、まことの光であるキリストがわたしたちの心を照らしてくださるという祈りがそのことを現しています。イザヤの預言の最初のことばは「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」と告げています。 2千年前とこんにちではその情景はあまりにも異なるかも知れません。 たとえ暗やみの中でも、どこへ出かける時には自分の足で歩くことが普通 であった時代は、いま、あっという間に自家用車で教会の門の前に着いてしまいます。闇の世界を導く光は今や車のヘッドライトかも知れません。 でも、わたしたち人間の歩みは、いつも暗闇から抜け出る切なる希望を求め続けていると言えるでしょう。
みなさんの心の中に救い主イエス・キリストの光がなければ平和も希望 も闇に覆われ、緊張や孤独の世界があり、自分さえ見えないままなのです。
しかし、神の遣わされた御子イエス・キリストは、わたしたちの救い主 であり、光へと導いてくださる唯一の方なのです。
誰にとっても人生は順調とは言えません。
聖書に描かれている「イエスの誕生物語」でさえもわたしたちにそのこと を教えています。旅の途中で、身重ものマリアとヨセフの夫婦でさえ, しかも、宿も与えられずに馬小屋での出産という状況でした。 また、「幼な子」と言うだけで命を狙われエジプトへの逃避の旅がありました。
平和を願うわたしたちにも、平和の保証がないのです。 神の救い、キリストの救いこそ、わたしたちの保証となるのです。 わたしたちの心の中に光をもたらすイエスを迎え、祝福を願いましょう。
ヨハネの福音は述べています。
神とともにあったことばは、命となり、光となってわたしたちを照らし 続けると・・・。
救い主の誕生を祝うきょう、幼な子のうちに、キリストの中に神のわたしたちに対する光があります。 わたしたちに与えようとする神のいのちそのものが、生きているのです。 「降誕されたイエスをしっかりと見つめ、そこからわたしたちのいのち、 希望、愛をくみとっていきたいものです。
今日のクリスマスイブと、明日に続くクリスマスの一日を、すべての国 とすべての人に平和が訪れることを願い祈りましょう。』
「主の降誕」ミサの後、カテドラルホールで祝賀会が行われました。
この神聖な夜、まことの光であるキリストがわたしたちの心を照らしてくださっています。
私たちはこの日、聖なる、そして平穏で静かな夜を迎えることができました。
後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『キリスト教の世界では、今宵のイブからクリスマスが始まります。 それは元々、わたしたちの現代と違って太陽の陽が沈み暗くなる夕方から 一日が始まるというユダヤの伝統・習慣が背景にあるからです。ですから、 「タ方が午後4時から11時頃まで」を指してイヴニングと言うそうですが、 いま、この瞬間の時間帯が Evening であり、教会に集うわたしたちはクリ スマスイヴを迎えているのです。すなわち、Christmas Evening から イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの一日が、明日につながって主 の降誕を祝う事になります。
あらためて、今年も、わたしたちが待ち続けてきた・救い主イエスのご 降誕をみなさんとともに心よりお祝い申し上げます。 初めて教会に来られた方もおられることでしょう。 「ようこそ、お出でくださいました。」お祝いのご挨拶を申し上げます。
今年も、あとわずかとなる年末を迎えていますが、この一年を振り返り 感謝の祈りを心に携えて教会に来られた方もいるのではないでしょうか。
わたしたちの周りで起こった思いがけない事故や災害をとおして思い起 こされる苦しみ・悲しみを乗り越えた日々があったこと・・・。また、 多くの人に支えられての希望や喜びに包まれた笑顔もあったことなど・・・。
わたしは2千年前に、苦しみや困難を乗り越え救い主を待ち続けた人々と同じように、今日わたしたちもクリスマスを祝っているような気がします。
この神聖な夜、まことの光であるキリストがわたしたちの心を照らしてくださるという祈りがそのことを現しています。イザヤの預言の最初のことばは「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」と告げています。 2千年前とこんにちではその情景はあまりにも異なるかも知れません。 たとえ暗やみの中でも、どこへ出かける時には自分の足で歩くことが普通 であった時代は、いま、あっという間に自家用車で教会の門の前に着いてしまいます。闇の世界を導く光は今や車のヘッドライトかも知れません。 でも、わたしたち人間の歩みは、いつも暗闇から抜け出る切なる希望を求め続けていると言えるでしょう。
みなさんの心の中に救い主イエス・キリストの光がなければ平和も希望 も闇に覆われ、緊張や孤独の世界があり、自分さえ見えないままなのです。
しかし、神の遣わされた御子イエス・キリストは、わたしたちの救い主 であり、光へと導いてくださる唯一の方なのです。
誰にとっても人生は順調とは言えません。
聖書に描かれている「イエスの誕生物語」でさえもわたしたちにそのこと を教えています。旅の途中で、身重ものマリアとヨセフの夫婦でさえ, しかも、宿も与えられずに馬小屋での出産という状況でした。 また、「幼な子」と言うだけで命を狙われエジプトへの逃避の旅がありました。
平和を願うわたしたちにも、平和の保証がないのです。 神の救い、キリストの救いこそ、わたしたちの保証となるのです。 わたしたちの心の中に光をもたらすイエスを迎え、祝福を願いましょう。
ヨハネの福音は述べています。
神とともにあったことばは、命となり、光となってわたしたちを照らし 続けると・・・。
救い主の誕生を祝うきょう、幼な子のうちに、キリストの中に神のわたしたちに対する光があります。 わたしたちに与えようとする神のいのちそのものが、生きているのです。 「降誕されたイエスをしっかりと見つめ、そこからわたしたちのいのち、 希望、愛をくみとっていきたいものです。
今日のクリスマスイブと、明日に続くクリスマスの一日を、すべての国 とすべての人に平和が訪れることを願い祈りましょう。』
「主の降誕」ミサの後、カテドラルホールで祝賀会が行われました。
待降節第4主日
クリスマスまで、あと2日となりました。今日のルカ福音書では、イエスを宿したマリアがエリザベトを訪れると胎内のヨハネが喜んでおどる様子が語られます。
この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『先週は、司教様を迎えての「堅信式」が行われました。そして、19名の方々が受堅されました。わたしたちの心にイエスの心を宿させてくださる聖霊の賜物を受けた受堅者のみなさん、改めてお祝い申し上げます。受堅後の初めての日曜日、どんな気持ちで迎えられたでしょうか?受堅のために2回の学習会をしています。学習の中で繰り返し聞いた「聖霊の七つの賜物」を日本語に訳して言うと、上智、聡明、賢慮、勇気、知識、孝愛、畏敬と言われます。そして、「聖霊の実り」もパウロが聖書(ガラテヤ5:22)で語られ、それは、愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。謙遜、貞潔などの訳になっている聖書もあるようです。三位一体の神にまします聖霊でもあり、イエスと切り離すことの出来ない聖霊でもあります。わたしたち一人ひとりも、主の降誕祭を前にして、その賜物によって活かされたいものです。そんなことを考えながら、先週の堅信式を思い起こしています。
12月を迎え、今年も最後の一週間となり、クリスマスまであと2日となりました。貧しき馬小屋で生まれた幼な子が救い主となるという不思議な思いになってしまいます。 二千年の月日が過ぎた今日、キリストを信ずる人だけでなく、世界中で多くの人がクリスマスを祝う時代に入っているということ、これもまた不思議に思います。偉大なる父である神さま、あなたの限りない愛を感謝します。心からそう言わずにはいられません。
待降節第四主日からは待ちに待った「イエズスの誕生」の告知が入れられてきます。教会は待降節の最後の主日として、喜びのお告げをマリアとエリザベトを通して強調します。今日はルカの福音に耳を傾け黙想することができます。今日の福音の主役は、聖霊を通して働かれる神なる父の選びを体験し、御子の母となられるマリアであり、マリアのエリザベト訪問の記事が私たちをクリスマスへの思いに向けていきます。今日の喜びのお告げは、すでに旧約からの待望であり、限りない時間の経過の中で困難を乗り越えて待ち続けてきた、果てしない希望でもありました。いま、そのお告げが現実になろうとしています。 わたしたちも先週の日曜日、み言葉を通してヨハネのことばを噛みしめ、道を平らに するように心の準備をしてきましたが、数日の後に、主の降誕・クリスマスを祝います。
みなさんは、待降節の精神を思い起こしながらの準備をしてきました。
ルカ福音書の中でそれまで別々にのべられてきた、洗礼者ヨハネとイエスでしたが、それぞれの母の出会いによって、互いに生まれる前の母の胎内にいるときに出会うという劇的な場面を描き出しています。それも聖霊に満たされて胎内の子が踊るという表現でエリザベトが声高らかに宣言したときの語りになっています。そして、この出会いは、天使の告げを受け、「主のはしため」から「主の母」 となったマりアが「急いで」ユダの山路を通ってエリザベトのもとに赴く。わたしはマリアの姿に静かにじっと待つのではなく、出かけて行くという行動を通して、その恵みが訪れていることに神の偉大なるメッセージを感じます。それは福音そのもの「喜び」のメッセージでもあります。わたしたちも宣教という言葉にどうしたら良いのだろうと思います。行動するよりじっとしている自分に心を向けてしまいます。でも、福音の喜びは行動することにより、人々と出会うことにより
伝わっていくことを、マリアはわたしたちに示しているのではないのでしょうか。
マリアの挨拶の声を聞くと、洗礼者ヨハネは、母のエリザベトの胎内で喜びに子踊りしますが、これは、創世記に物語られている「ヤコブとエサウの誕生物語」(創世記25:21-26)の中で、リベカが宿した二人の子供のことを思い起こさせます。神は、この二人の胎児についてこう説明されます。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」(同25:23)新約聖書とは少し趣が違うと思います。旧約聖書の場合、胎児はそれぞれの国民の祖であり、それらを代表しています。エリザベトとマリアの場合もそれと同じで、洗礼者ヨハネは、キリストを信じる民の祖として将来果たすべき役割をすでにここで果たし、その「子踊り」によって自分の母に「主の母」の到来を告げているのです。旧約の時代から待ちこがれてきた喜びの中で最高のもの、それが救い主イエス ・キリストの誕生とも言えるでしょう。主が告げられたことを信じたマリアの訪問が、エリザベトやその胎内のヨハネに主の到来の喜びをもたらしたのです。
今日、私たちに告げているルカの福音。ルカは、後に「神のみことばを聞いて、これを行う者こそ、わたしの母であり、わたしの兄弟である。」(ルカ8:22)といい、「幸いな者は、神のみことばを聞いて、それを守る人である、」(ルカ11:28)。まさに、マリアに繋がるみ言葉でもあります。マリアはこのみ言葉を自分の信仰によって生きた人です。このみ言葉はわたしたちにもいえるみ言葉だと思います。
神のみことばを信じ待ち続けた人の喜びが、わたしたちの心もひとつになって、主のご降誕の喜びの日に訪れることを祈りましょう。』
この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『先週は、司教様を迎えての「堅信式」が行われました。そして、19名の方々が受堅されました。わたしたちの心にイエスの心を宿させてくださる聖霊の賜物を受けた受堅者のみなさん、改めてお祝い申し上げます。受堅後の初めての日曜日、どんな気持ちで迎えられたでしょうか?受堅のために2回の学習会をしています。学習の中で繰り返し聞いた「聖霊の七つの賜物」を日本語に訳して言うと、上智、聡明、賢慮、勇気、知識、孝愛、畏敬と言われます。そして、「聖霊の実り」もパウロが聖書(ガラテヤ5:22)で語られ、それは、愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。謙遜、貞潔などの訳になっている聖書もあるようです。三位一体の神にまします聖霊でもあり、イエスと切り離すことの出来ない聖霊でもあります。わたしたち一人ひとりも、主の降誕祭を前にして、その賜物によって活かされたいものです。そんなことを考えながら、先週の堅信式を思い起こしています。
12月を迎え、今年も最後の一週間となり、クリスマスまであと2日となりました。貧しき馬小屋で生まれた幼な子が救い主となるという不思議な思いになってしまいます。 二千年の月日が過ぎた今日、キリストを信ずる人だけでなく、世界中で多くの人がクリスマスを祝う時代に入っているということ、これもまた不思議に思います。偉大なる父である神さま、あなたの限りない愛を感謝します。心からそう言わずにはいられません。
待降節第四主日からは待ちに待った「イエズスの誕生」の告知が入れられてきます。教会は待降節の最後の主日として、喜びのお告げをマリアとエリザベトを通して強調します。今日はルカの福音に耳を傾け黙想することができます。今日の福音の主役は、聖霊を通して働かれる神なる父の選びを体験し、御子の母となられるマリアであり、マリアのエリザベト訪問の記事が私たちをクリスマスへの思いに向けていきます。今日の喜びのお告げは、すでに旧約からの待望であり、限りない時間の経過の中で困難を乗り越えて待ち続けてきた、果てしない希望でもありました。いま、そのお告げが現実になろうとしています。 わたしたちも先週の日曜日、み言葉を通してヨハネのことばを噛みしめ、道を平らに するように心の準備をしてきましたが、数日の後に、主の降誕・クリスマスを祝います。
みなさんは、待降節の精神を思い起こしながらの準備をしてきました。
ルカ福音書の中でそれまで別々にのべられてきた、洗礼者ヨハネとイエスでしたが、それぞれの母の出会いによって、互いに生まれる前の母の胎内にいるときに出会うという劇的な場面を描き出しています。それも聖霊に満たされて胎内の子が踊るという表現でエリザベトが声高らかに宣言したときの語りになっています。そして、この出会いは、天使の告げを受け、「主のはしため」から「主の母」 となったマりアが「急いで」ユダの山路を通ってエリザベトのもとに赴く。わたしはマリアの姿に静かにじっと待つのではなく、出かけて行くという行動を通して、その恵みが訪れていることに神の偉大なるメッセージを感じます。それは福音そのもの「喜び」のメッセージでもあります。わたしたちも宣教という言葉にどうしたら良いのだろうと思います。行動するよりじっとしている自分に心を向けてしまいます。でも、福音の喜びは行動することにより、人々と出会うことにより
伝わっていくことを、マリアはわたしたちに示しているのではないのでしょうか。
マリアの挨拶の声を聞くと、洗礼者ヨハネは、母のエリザベトの胎内で喜びに子踊りしますが、これは、創世記に物語られている「ヤコブとエサウの誕生物語」(創世記25:21-26)の中で、リベカが宿した二人の子供のことを思い起こさせます。神は、この二人の胎児についてこう説明されます。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」(同25:23)新約聖書とは少し趣が違うと思います。旧約聖書の場合、胎児はそれぞれの国民の祖であり、それらを代表しています。エリザベトとマリアの場合もそれと同じで、洗礼者ヨハネは、キリストを信じる民の祖として将来果たすべき役割をすでにここで果たし、その「子踊り」によって自分の母に「主の母」の到来を告げているのです。旧約の時代から待ちこがれてきた喜びの中で最高のもの、それが救い主イエス ・キリストの誕生とも言えるでしょう。主が告げられたことを信じたマリアの訪問が、エリザベトやその胎内のヨハネに主の到来の喜びをもたらしたのです。
今日、私たちに告げているルカの福音。ルカは、後に「神のみことばを聞いて、これを行う者こそ、わたしの母であり、わたしの兄弟である。」(ルカ8:22)といい、「幸いな者は、神のみことばを聞いて、それを守る人である、」(ルカ11:28)。まさに、マリアに繋がるみ言葉でもあります。マリアはこのみ言葉を自分の信仰によって生きた人です。このみ言葉はわたしたちにもいえるみ言葉だと思います。
神のみことばを信じ待ち続けた人の喜びが、わたしたちの心もひとつになって、主のご降誕の喜びの日に訪れることを祈りましょう。』
2018年12月16日日曜日
待降節第3主日
この日のミサは勝谷司教が司式され、ミサの中で行われた堅信式では20名の方が堅信の秘跡に与りました。
勝谷司教のお説教をご紹介します。
10月に参加されたシノドスのお話でした。
『「私たちはどうすればよいのですか?」という群衆のヨハネに対する問いかけ。
毎日の生活の中で、「どう生きたらよいのか?」という指針を示してもらいたいという願いは、決して当時の人たちだけではありません。
現代社会にあって「私たちはどうすればよいのか?」という問いかけは、声なき人たちの声となって、常に教会に問い掛けられているものです。そしてそれらは、答えを出すのが難しい。また、いろいろな立場の人がいて、いろいろな意見があって、そこで統一する意見を出すことが難しい問題も多々あります。
現代社会にあっては、複雑で多岐にわたる問題が山積しているなかで、常に教会がそこで、教会の在り方が問われているわけです。
10月に、26日という長い会期で世界代表司教会議「シノドス」という会議が開催されました。日本の司教協議会を代表して私が行くことになったのですが、それは何故かというと、私が司教会議のなかで「青少年部門」を担当しているという理由からです。そして今回のシノドスのテーマが「青年」だったのです。ただ、ご存知のように、昔私も現場で青少年活動に長いこと携わっていました。しかし、司教になる前となってからでは、ほとんど札幌教区に関わりを持つ青年はいなくなってしまいましたし、立場上、関わりが少なくなっていましたので、どういう役割が果たせるのか不安でした。
しかし、今回のシノドスに行ってみて、いろいろな発見がありました。前回のシノドスは、そのテーマが重要ということで、通常総会の他に臨時総会が開かれ、2回に渡って同じテーマ「家庭」というテーマで、このシノドスが開催されました。そしてそこで扱われたのは、いわゆる教会で問題とされている「家庭」、つまり離婚して再婚した人や、あるいは正式に結婚しないでシングルマザーの状態になっている人とか、について話し合われ、それに対する意見が闘われて「教会はもっとはっきりと何か言うべきだ」という人たちもいて、そのような議論は皆さんもどこかで聞いたことがあるかと思います。
もう一つは、性的マイノリティ「LGBT」と言われる人たちについて、シノドスではそのような言い方も避けて、セクシャル・オリエンテーション(性的指向性を持った人たち)という言い方をしています。彼らもかつての教会の教えでは、その存在自体が悪であるかのように、そのような指向性を持つことは悪魔の業と、絶対に認められないものとして考えられていました。最近の心理学や人間学の発達によって、その人の責任によらず生まれながらにそのような指向性を持った人たちがいる、そのような人たちが悪であるとか、そうであるはずがないわけです。では、そのような人たちをどう扱うのか?明確な答えを示せないまま終わったのです。
今回のシノドスはどのような形で行われていったのか、このシノドスの形態が非常にユニークなものであったので、それについて私たちはじっくり受け止めることが大事なので、そちらの話をします。
今回のシノドスは「若者と共に、若者が持つ喜び、希望、夢、望み、そして召命の選択」について、自由に分かち合う場となることが強調されました。今回の会議の特徴は、青年に寄り添い、その声に耳を傾けることである、ということが何度も何度も強調され、実際に通常は司教や枢機卿だけが集まって話し合いをするのですが、今回はこの話し合いの本会議と分科会の全てに世界から集められた青年たちが参加し、最後の投票権はないのですが、自由に発言することが許されていました。ですから今回は「青年について語るシノドス」ではなくて、「青年が司教に対して語るシノドス」と言った方が正確かもしれません。そしてこの本会議の土台となる討議要綱(討議のたたき台)は2年を掛けて準備され、各国の司教団をとおしてなされたアンケートについても実際に青年に答えてもらうようにというただし書きが付いて徴集されました。しかし、それについては以前にも話したように、日本全国に配られたアンケートに答えたのは皆、大人でした(笑)。青年たちではなかったのです。
しかし、この世界中に向けて青年から徴集するようにと言われたアンケートのみならず、インターネットを通じて全世界から10万の回答が寄せられました。さらに3月に開催されたプレシノドスにおいては世界中から集められた300人の青年たちが討議し、そして発題されたその意見書をベースにして作られました。
このような形でまず徹底的に若者から聞き取るという形で行われたのですが、オープンしてまず私たちが直面した問題は、ご存知のように児童に対する性的虐待の問題です。多くの青年たちがこの問題で、教会から離れていってしまいました。それに対する厳しい意見もたくさん寄せられていました。まず、この問題に対して教会が真摯に謝罪するというところから始まりました。そして参加した青年たちに向かって、これまで教会がふさわしい対応をして来なかった、今後透明な形での対応をしていく、という姿勢が何度も強調されました。
全体会の後で、毎週後半は分科会に分かれて討論しましたが、私が参加した分科会では、今言った問題、結婚の問題と性的マイノリティについての問題について、保守的な司教から教皇様に対する批判がどんどん出てきました。この問題についてフランシスコ教皇が明確な指針を表明していないというものでした。だから今回のシノドスではそれをはっきりと打ち出すべきだ、と追及していました。
しかし、会議が進んで今回のシノドスの方法論が違うと、何か結論を出すことよりも、そこに至る過程を重視している、ということを徐々に皆が理解するようになっていきました。そしてその過程は何かというと、自分たちの主張を示すことではなくて、むしろ自分たちではなく、今教会の外にいる青年たちや、問題を抱え苦しんでいる人たちの声に寄り添い、耳を傾け同伴する、このことが重要であるということが何度も指摘され、これはシノドスの方法論だけではなく、今後の教会の在り方を示すものとして強調されていきました。
そしてこの会議が進んで最後に私たちが出した結論は、
「教会は全てのことに回答を持っているわけではない。今解決できない問題は数多くある。しかし、神は全ての人を愛しておられるのだから、教会もそうである。解決できない問題を抱えながらも彼らに同伴し、耳を傾け続けることが大切だ。」
このことをはっきりと、私たちは分科会の最後にまとめの文書として全体会に提出しました。
この視点は、教会の教えに従って生活していない若者についても同様で、「裁いてはならない」ということが何度も強調されました。そして彼らを裁くのではなく、彼らに同伴し耳を傾け続けることによって、彼らを導く姿勢が大切であることが強調されました。
倫理的な指針を打ち出すことは簡単です。しかしそれは世界の信者に向かって、それに従うようにという呼びかけになり、往々にしてそれに従えない人は教会から排除されてしまう。そういうことが今まであったわけです。「あるべき指針」を打ち出してそれに従うようにという従来の教会から、謙虚に耳を傾け同伴し続けるという教会の姿勢、私たちはそのように教会の在り方自体を変えていくのだ、というようなことが表明されていきました。
その他、インターネットに関するものもたくさん出ました。もう青年たちは地理的な教区とか小教区ではなくて、むしろデジタルタイプといわれる新世界において生き生きと生活している。教会は新たにそこに出向いて行かなければならない。どうしたら教会に戻すことができるのかという発想ではなく、むしろ彼らが住んでいる世界に、新たな宣教として私たちが出向いて行く必要があるということ。と同時に様々なネットの世界の危険性も指摘されていました。
大切なことは、一貫してあった「同伴すること」「聞くという態度」。今回のシノドスの隠れたテーマであったと言えます。そしてこの言葉を「シノダリティ」という言葉で表現していました。「シノドス」という意味は「共に歩む」という意味ですから、「シノダリティ」というのは、「共に歩み続ける教会」という意味になるのでしょうか? これが今後大切であるという、そして教皇様もそれを体現するかのように常に会議の期間中、私たちと共にいるようにしていました。
この「シノダリティ」は、シノドスの場面だけではなく是非、世界中に帰っていった司教たちが、自分たちの国でもこの姿勢を取っていっていただきたい、なかなか理解してもらうのは難しいのですが。私は札幌教区の中でも、確かに青年たちはいるのですけれど、教会の中には見受けられないのです。しかしネットワークミーティングなどが行われた時、支笏湖で行われた時には札幌教区の30人近い青年たちが実行委員会を組んでいました。来年1月のワールドユースデー パナマ大会では、東京教区に次ぐ人数で札幌教区の青年たちが参加します。青年たちは教会には来ないけれど、いるのです。教会には来ないけれどカトリックというアイデンティティを持って活動している青年たちはいます。
私たちは”いない”かのように無視しているのは、青年が教会を離れているのではなく、私たちが見ようとしていないだけではないかと考えています。
今回のシノドスのテーマを札幌教区の中でも体現していくために、「出向いて行って耳を傾け同伴する」という在り方を皆さんと一緒に考えていきたいと思います。』
堅信式
後藤神父様から記念品のお渡し
堅信のお祝い茶話会
勝谷司教のお説教をご紹介します。
10月に参加されたシノドスのお話でした。
『「私たちはどうすればよいのですか?」という群衆のヨハネに対する問いかけ。
毎日の生活の中で、「どう生きたらよいのか?」という指針を示してもらいたいという願いは、決して当時の人たちだけではありません。
現代社会にあって「私たちはどうすればよいのか?」という問いかけは、声なき人たちの声となって、常に教会に問い掛けられているものです。そしてそれらは、答えを出すのが難しい。また、いろいろな立場の人がいて、いろいろな意見があって、そこで統一する意見を出すことが難しい問題も多々あります。
現代社会にあっては、複雑で多岐にわたる問題が山積しているなかで、常に教会がそこで、教会の在り方が問われているわけです。
10月に、26日という長い会期で世界代表司教会議「シノドス」という会議が開催されました。日本の司教協議会を代表して私が行くことになったのですが、それは何故かというと、私が司教会議のなかで「青少年部門」を担当しているという理由からです。そして今回のシノドスのテーマが「青年」だったのです。ただ、ご存知のように、昔私も現場で青少年活動に長いこと携わっていました。しかし、司教になる前となってからでは、ほとんど札幌教区に関わりを持つ青年はいなくなってしまいましたし、立場上、関わりが少なくなっていましたので、どういう役割が果たせるのか不安でした。
しかし、今回のシノドスに行ってみて、いろいろな発見がありました。前回のシノドスは、そのテーマが重要ということで、通常総会の他に臨時総会が開かれ、2回に渡って同じテーマ「家庭」というテーマで、このシノドスが開催されました。そしてそこで扱われたのは、いわゆる教会で問題とされている「家庭」、つまり離婚して再婚した人や、あるいは正式に結婚しないでシングルマザーの状態になっている人とか、について話し合われ、それに対する意見が闘われて「教会はもっとはっきりと何か言うべきだ」という人たちもいて、そのような議論は皆さんもどこかで聞いたことがあるかと思います。
もう一つは、性的マイノリティ「LGBT」と言われる人たちについて、シノドスではそのような言い方も避けて、セクシャル・オリエンテーション(性的指向性を持った人たち)という言い方をしています。彼らもかつての教会の教えでは、その存在自体が悪であるかのように、そのような指向性を持つことは悪魔の業と、絶対に認められないものとして考えられていました。最近の心理学や人間学の発達によって、その人の責任によらず生まれながらにそのような指向性を持った人たちがいる、そのような人たちが悪であるとか、そうであるはずがないわけです。では、そのような人たちをどう扱うのか?明確な答えを示せないまま終わったのです。
今回のシノドスはどのような形で行われていったのか、このシノドスの形態が非常にユニークなものであったので、それについて私たちはじっくり受け止めることが大事なので、そちらの話をします。
今回のシノドスは「若者と共に、若者が持つ喜び、希望、夢、望み、そして召命の選択」について、自由に分かち合う場となることが強調されました。今回の会議の特徴は、青年に寄り添い、その声に耳を傾けることである、ということが何度も何度も強調され、実際に通常は司教や枢機卿だけが集まって話し合いをするのですが、今回はこの話し合いの本会議と分科会の全てに世界から集められた青年たちが参加し、最後の投票権はないのですが、自由に発言することが許されていました。ですから今回は「青年について語るシノドス」ではなくて、「青年が司教に対して語るシノドス」と言った方が正確かもしれません。そしてこの本会議の土台となる討議要綱(討議のたたき台)は2年を掛けて準備され、各国の司教団をとおしてなされたアンケートについても実際に青年に答えてもらうようにというただし書きが付いて徴集されました。しかし、それについては以前にも話したように、日本全国に配られたアンケートに答えたのは皆、大人でした(笑)。青年たちではなかったのです。
しかし、この世界中に向けて青年から徴集するようにと言われたアンケートのみならず、インターネットを通じて全世界から10万の回答が寄せられました。さらに3月に開催されたプレシノドスにおいては世界中から集められた300人の青年たちが討議し、そして発題されたその意見書をベースにして作られました。
このような形でまず徹底的に若者から聞き取るという形で行われたのですが、オープンしてまず私たちが直面した問題は、ご存知のように児童に対する性的虐待の問題です。多くの青年たちがこの問題で、教会から離れていってしまいました。それに対する厳しい意見もたくさん寄せられていました。まず、この問題に対して教会が真摯に謝罪するというところから始まりました。そして参加した青年たちに向かって、これまで教会がふさわしい対応をして来なかった、今後透明な形での対応をしていく、という姿勢が何度も強調されました。
全体会の後で、毎週後半は分科会に分かれて討論しましたが、私が参加した分科会では、今言った問題、結婚の問題と性的マイノリティについての問題について、保守的な司教から教皇様に対する批判がどんどん出てきました。この問題についてフランシスコ教皇が明確な指針を表明していないというものでした。だから今回のシノドスではそれをはっきりと打ち出すべきだ、と追及していました。
しかし、会議が進んで今回のシノドスの方法論が違うと、何か結論を出すことよりも、そこに至る過程を重視している、ということを徐々に皆が理解するようになっていきました。そしてその過程は何かというと、自分たちの主張を示すことではなくて、むしろ自分たちではなく、今教会の外にいる青年たちや、問題を抱え苦しんでいる人たちの声に寄り添い、耳を傾け同伴する、このことが重要であるということが何度も指摘され、これはシノドスの方法論だけではなく、今後の教会の在り方を示すものとして強調されていきました。
そしてこの会議が進んで最後に私たちが出した結論は、
「教会は全てのことに回答を持っているわけではない。今解決できない問題は数多くある。しかし、神は全ての人を愛しておられるのだから、教会もそうである。解決できない問題を抱えながらも彼らに同伴し、耳を傾け続けることが大切だ。」
このことをはっきりと、私たちは分科会の最後にまとめの文書として全体会に提出しました。
この視点は、教会の教えに従って生活していない若者についても同様で、「裁いてはならない」ということが何度も強調されました。そして彼らを裁くのではなく、彼らに同伴し耳を傾け続けることによって、彼らを導く姿勢が大切であることが強調されました。
倫理的な指針を打ち出すことは簡単です。しかしそれは世界の信者に向かって、それに従うようにという呼びかけになり、往々にしてそれに従えない人は教会から排除されてしまう。そういうことが今まであったわけです。「あるべき指針」を打ち出してそれに従うようにという従来の教会から、謙虚に耳を傾け同伴し続けるという教会の姿勢、私たちはそのように教会の在り方自体を変えていくのだ、というようなことが表明されていきました。
その他、インターネットに関するものもたくさん出ました。もう青年たちは地理的な教区とか小教区ではなくて、むしろデジタルタイプといわれる新世界において生き生きと生活している。教会は新たにそこに出向いて行かなければならない。どうしたら教会に戻すことができるのかという発想ではなく、むしろ彼らが住んでいる世界に、新たな宣教として私たちが出向いて行く必要があるということ。と同時に様々なネットの世界の危険性も指摘されていました。
大切なことは、一貫してあった「同伴すること」「聞くという態度」。今回のシノドスの隠れたテーマであったと言えます。そしてこの言葉を「シノダリティ」という言葉で表現していました。「シノドス」という意味は「共に歩む」という意味ですから、「シノダリティ」というのは、「共に歩み続ける教会」という意味になるのでしょうか? これが今後大切であるという、そして教皇様もそれを体現するかのように常に会議の期間中、私たちと共にいるようにしていました。
この「シノダリティ」は、シノドスの場面だけではなく是非、世界中に帰っていった司教たちが、自分たちの国でもこの姿勢を取っていっていただきたい、なかなか理解してもらうのは難しいのですが。私は札幌教区の中でも、確かに青年たちはいるのですけれど、教会の中には見受けられないのです。しかしネットワークミーティングなどが行われた時、支笏湖で行われた時には札幌教区の30人近い青年たちが実行委員会を組んでいました。来年1月のワールドユースデー パナマ大会では、東京教区に次ぐ人数で札幌教区の青年たちが参加します。青年たちは教会には来ないけれど、いるのです。教会には来ないけれどカトリックというアイデンティティを持って活動している青年たちはいます。
私たちは”いない”かのように無視しているのは、青年が教会を離れているのではなく、私たちが見ようとしていないだけではないかと考えています。
今回のシノドスのテーマを札幌教区の中でも体現していくために、「出向いて行って耳を傾け同伴する」という在り方を皆さんと一緒に考えていきたいと思います。』
2018年12月10日月曜日
待降節第2主日
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』
洗礼者ヨハネは、荒野のかなたから「主の道を整えよ」と回心を呼びかけます。
この日は、ミサの後「堅信の学び」が行われ、約50名の方が参加しました。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『イスラエルを導く救い主が、悲しみと不幸から解放し喜びをあらわすと今日の第一朗読(「バルクの預言)で読み上げられました。そして、何世紀もの沈黙の時が流れますが、待ち続けるその待望の時は重要な役割を持つ洗礼者ヨハ ネによって現実になろうとしています。ヨハネの叫びは、イスラエルの民にとって、他国民に圧迫されることが多く、あるときは神殿を崩壊された時もありました。国を追われ捕囚の身にさらされた時代もありました。そのような状況の中でヨハネは、預言者イザヤの言葉を借りて、救いの時が近づいた。救いの喜びが近いから「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ばれた。ヨハネの使命は、聖書に現され ているように、イスラエルの民を主のもとに立ち帰らせ ることであり、霊と力を持って準備の出来た民を主に向かわせること。失望や悲しみを捨てて平和のうちに生きるようにと励まし諭しています。「道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」というイスラエルの民に対し、 また、今日の福音の3節にあるように「罪のゆるしを得させるため」と、呼びかけていました。待降節にいつも読まれるこの内容は、 わたしたちに対しても、良心の道をまっすぐにし、救いの神を受け入れるためにも大切な悔い改めも含まれているような気がします。心の準備とともに私たちは自分たちの信仰を見つめて、凸凹の道や曲がりくねった道があるならば少しでもまっすぐにして、主の心に繋がるように、待降節の大切な準備になるのではないでしょうか。
パウロも今日の第2朗読の中で「あなた方の愛が豊かになるために、知る力と見抜く力をさらに身につけ豊かになるように。」と祈っていることを話しています。こうしてみていると今日のみ言葉の中にも聖霊の働きが見えてきます。堅信の秘跡を受ける人の学びが先週から始りましたが、その際に聖霊には「7つの賜物」があることを話したのですが、それは、「知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し、敬う心」だといわれています。(神父様は、お話の中で、4日の毎日のミサのイザヤの預言も引用しました。)ヨハネは、霊と力を持って準備の出来た民を主に向かわせており、聖霊の力を持って民を指導しています。パウロは愛が豊かになるために、知る力と見抜く力をさらに身につけ豊かになるように、と祈っています。聖霊はわたしたちの気づかないうちに至る所で働いているのです。
待降節を迎えて、わたしたちはキリスト者として、イエスに向かって歩もうとするとき、悪い行いを単に悔やむだけでなく、「方向転換」が必要ではないかと良く言われることです。「方向転換」と言えば、今週のカトリック新聞で教皇様の記事がありました。教皇様は講話の中で「新しい心の移植」が必要であると一般謁で見車に述べられました。古い心から新しい心への入れ替えは、新しい望みの賜物であると言い、それは聖霊によって植えられる種であり、新しいいのちへの渇きに成長するのだとお話されたようです。
まさに、ヨハネが言われた道を整えるということは、救いの実現の道に導くためのふさわしい条件とともに、イエスの福音宣教の始まりにも繋げていかなければなりません。それは、教会がずっと主張してきた旧約から新約へと続く、旧約における「終わりの日」も意味し、新しい時代への入り口にもなるのです。
待降節を過ごす私たちは、父なる神から幼子イエスを迎える準備の日々を過ごす週目を迎えますが、私たちの心にキリストを迎えるためだけではなく、神不在ともいわれる現代社会、人間関係も冷え切ったといわれる中で、現代社会に愛と希望をもたらすキリストを迎えることは教会にも社会にも大切なことだと思います。私たちや社会の中にある荒れ野の道をならし、険しいところを平らにする努力が求められると思います。
今日改めて待降節第2主日を迎え、救いの道に招かれていることを噛みしめながら、真心を持って神に応えていけるよう祈っていきたいと思います。』
洗礼者ヨハネは、荒野のかなたから「主の道を整えよ」と回心を呼びかけます。
この日は、ミサの後「堅信の学び」が行われ、約50名の方が参加しました。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『イスラエルを導く救い主が、悲しみと不幸から解放し喜びをあらわすと今日の第一朗読(「バルクの預言)で読み上げられました。そして、何世紀もの沈黙の時が流れますが、待ち続けるその待望の時は重要な役割を持つ洗礼者ヨハ ネによって現実になろうとしています。ヨハネの叫びは、イスラエルの民にとって、他国民に圧迫されることが多く、あるときは神殿を崩壊された時もありました。国を追われ捕囚の身にさらされた時代もありました。そのような状況の中でヨハネは、預言者イザヤの言葉を借りて、救いの時が近づいた。救いの喜びが近いから「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ばれた。ヨハネの使命は、聖書に現され ているように、イスラエルの民を主のもとに立ち帰らせ ることであり、霊と力を持って準備の出来た民を主に向かわせること。失望や悲しみを捨てて平和のうちに生きるようにと励まし諭しています。「道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」というイスラエルの民に対し、 また、今日の福音の3節にあるように「罪のゆるしを得させるため」と、呼びかけていました。待降節にいつも読まれるこの内容は、 わたしたちに対しても、良心の道をまっすぐにし、救いの神を受け入れるためにも大切な悔い改めも含まれているような気がします。心の準備とともに私たちは自分たちの信仰を見つめて、凸凹の道や曲がりくねった道があるならば少しでもまっすぐにして、主の心に繋がるように、待降節の大切な準備になるのではないでしょうか。
パウロも今日の第2朗読の中で「あなた方の愛が豊かになるために、知る力と見抜く力をさらに身につけ豊かになるように。」と祈っていることを話しています。こうしてみていると今日のみ言葉の中にも聖霊の働きが見えてきます。堅信の秘跡を受ける人の学びが先週から始りましたが、その際に聖霊には「7つの賜物」があることを話したのですが、それは、「知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し、敬う心」だといわれています。(神父様は、お話の中で、4日の毎日のミサのイザヤの預言も引用しました。)ヨハネは、霊と力を持って準備の出来た民を主に向かわせており、聖霊の力を持って民を指導しています。パウロは愛が豊かになるために、知る力と見抜く力をさらに身につけ豊かになるように、と祈っています。聖霊はわたしたちの気づかないうちに至る所で働いているのです。
待降節を迎えて、わたしたちはキリスト者として、イエスに向かって歩もうとするとき、悪い行いを単に悔やむだけでなく、「方向転換」が必要ではないかと良く言われることです。「方向転換」と言えば、今週のカトリック新聞で教皇様の記事がありました。教皇様は講話の中で「新しい心の移植」が必要であると一般謁で見車に述べられました。古い心から新しい心への入れ替えは、新しい望みの賜物であると言い、それは聖霊によって植えられる種であり、新しいいのちへの渇きに成長するのだとお話されたようです。
まさに、ヨハネが言われた道を整えるということは、救いの実現の道に導くためのふさわしい条件とともに、イエスの福音宣教の始まりにも繋げていかなければなりません。それは、教会がずっと主張してきた旧約から新約へと続く、旧約における「終わりの日」も意味し、新しい時代への入り口にもなるのです。
待降節を過ごす私たちは、父なる神から幼子イエスを迎える準備の日々を過ごす週目を迎えますが、私たちの心にキリストを迎えるためだけではなく、神不在ともいわれる現代社会、人間関係も冷え切ったといわれる中で、現代社会に愛と希望をもたらすキリストを迎えることは教会にも社会にも大切なことだと思います。私たちや社会の中にある荒れ野の道をならし、険しいところを平らにする努力が求められると思います。
今日改めて待降節第2主日を迎え、救いの道に招かれていることを噛みしめながら、真心を持って神に応えていけるよう祈っていきたいと思います。』
2018年12月2日日曜日
待降節第1主日
教会の新しい1年が始まりました。
待降節は救い主イエスの誕生を迎えるための準備期間になります。
この日、祭壇上のアドベントクランツのローソクの1本に火が灯されました。
今日のミサ後、馬小屋とクリスマスツリーの飾りつけも終わり、
リースとツリーのイルミネーションは今夜から点灯します。
クリスマスを迎える準備が進んでいます。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日から「待降節」という新しい典礼の一年が始ります。皆さんは何回、待降節、クリスマスを経験しているでしょうか。待降節は4週にわたるご降誕を待つ期間ですが、今年のクリスマス・イヴは4週目の待降節第4主日の翌日月曜日が24日ですから、実質は3週間ほどとなります。あっという間に「主の降誕」の祝日を迎えることになりそうです。
待降節第1主日にあたって、みことばは「目を覚まして祈りなさい」と呼びかけていますが、キリストの来臨の希望をもっていつも目ざめ、救い主を待ち望むための心の準備が大切な時と言えるでしょう。今日のミサ後に堅信を受けられる方の勉強会が行われます。受けられる方々は、違った意味での降誕祭を迎えられると思います。わたしたちは毎日の生活、日々の生活のさまざまな出来事の中に働く神を感じて、誰もが主のことばに従うことができるようにと願っています。でも、主の言葉に従うことがどんなに難しいことかはいうまでもありません。今日もまた、神父さんは厳しいことを指摘して、わたしたちはいつも反省ばかりと思う人がいるかも知れません。それは出来なかったことばかりに目がいって反省を迫られているように感じるのかも知れません。
この一年は本当に天候の不順や自然災害の多い年であったように感じます。台風や地震の体験を北海道の人間や誰もがその体験で気づきを新たにしました。困難に目をそらすことも出来ず、助けを必要としている人々にさえ十分にこたえることのできなかった私たち。自分の無力さを感じてしまうのです。「出来たことよりも出来なかったほうが目に付くというのは普通なのかも知れませんが、出来たことの一つに目をとめて、もっと深めてみようとか、もっと心から愛をもって進めてみようとか、反省も前向きに生きることも大切だとおもうのです。
「目を覚まして祈りなさい」という今日の呼びかけは、「出来たか・出来なかったか」ではなく、そこに何があり、何が大切なのかということに気がつくことでもあると思います。そして、何よりもキリスト者となって、キリストの福音を身をもって生きるかが問われることであるかも知れません。終末の時を語っているみことばを前にして、人間の不安や恐怖は絶望と隣りあわせで、「救い」を求める希望や期待は2千年前のイエスの時代を生きる人々と、今を生きるわたしたちも同じではないでしょうか。9月6日に起きた「北海道胆振東部地震」の犠牲者を考えると今日の幸せさえ、明日に保証されているものではないことを痛感するのです。幸せは 一瞬のうちに消し去られてしまう可能性が誰にも、どこにもあるということです……。
今日のみことばの中にもうひとつ「身を起こして頭を上げなさい」ともイエスは言われています。救いを待ちのぞみながら、わたしたちの弱さを知り、救いのおとずれを待ち、何が大切なのか!気づきの恵みを祈りたいものです。そして、出来なかったことや、出来ないことばかりに目を向けるのではなく、出来ることの一つをいっそう大事にして前向きに歩む、新しい一年となりますように今日もまた心をひとつにして祈りたいと思います。』
待降節は救い主イエスの誕生を迎えるための準備期間になります。
この日、祭壇上のアドベントクランツのローソクの1本に火が灯されました。
今日のミサ後、馬小屋とクリスマスツリーの飾りつけも終わり、
リースとツリーのイルミネーションは今夜から点灯します。
クリスマスを迎える準備が進んでいます。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日から「待降節」という新しい典礼の一年が始ります。皆さんは何回、待降節、クリスマスを経験しているでしょうか。待降節は4週にわたるご降誕を待つ期間ですが、今年のクリスマス・イヴは4週目の待降節第4主日の翌日月曜日が24日ですから、実質は3週間ほどとなります。あっという間に「主の降誕」の祝日を迎えることになりそうです。
待降節第1主日にあたって、みことばは「目を覚まして祈りなさい」と呼びかけていますが、キリストの来臨の希望をもっていつも目ざめ、救い主を待ち望むための心の準備が大切な時と言えるでしょう。今日のミサ後に堅信を受けられる方の勉強会が行われます。受けられる方々は、違った意味での降誕祭を迎えられると思います。わたしたちは毎日の生活、日々の生活のさまざまな出来事の中に働く神を感じて、誰もが主のことばに従うことができるようにと願っています。でも、主の言葉に従うことがどんなに難しいことかはいうまでもありません。今日もまた、神父さんは厳しいことを指摘して、わたしたちはいつも反省ばかりと思う人がいるかも知れません。それは出来なかったことばかりに目がいって反省を迫られているように感じるのかも知れません。
この一年は本当に天候の不順や自然災害の多い年であったように感じます。台風や地震の体験を北海道の人間や誰もがその体験で気づきを新たにしました。困難に目をそらすことも出来ず、助けを必要としている人々にさえ十分にこたえることのできなかった私たち。自分の無力さを感じてしまうのです。「出来たことよりも出来なかったほうが目に付くというのは普通なのかも知れませんが、出来たことの一つに目をとめて、もっと深めてみようとか、もっと心から愛をもって進めてみようとか、反省も前向きに生きることも大切だとおもうのです。
「目を覚まして祈りなさい」という今日の呼びかけは、「出来たか・出来なかったか」ではなく、そこに何があり、何が大切なのかということに気がつくことでもあると思います。そして、何よりもキリスト者となって、キリストの福音を身をもって生きるかが問われることであるかも知れません。終末の時を語っているみことばを前にして、人間の不安や恐怖は絶望と隣りあわせで、「救い」を求める希望や期待は2千年前のイエスの時代を生きる人々と、今を生きるわたしたちも同じではないでしょうか。9月6日に起きた「北海道胆振東部地震」の犠牲者を考えると今日の幸せさえ、明日に保証されているものではないことを痛感するのです。幸せは 一瞬のうちに消し去られてしまう可能性が誰にも、どこにもあるということです……。
今日のみことばの中にもうひとつ「身を起こして頭を上げなさい」ともイエスは言われています。救いを待ちのぞみながら、わたしたちの弱さを知り、救いのおとずれを待ち、何が大切なのか!気づきの恵みを祈りたいものです。そして、出来なかったことや、出来ないことばかりに目を向けるのではなく、出来ることの一つをいっそう大事にして前向きに歩む、新しい一年となりますように今日もまた心をひとつにして祈りたいと思います。』
2018年11月25日日曜日
王であるキリスト
B年の典礼の一年がまもなく終わろうとしています。
毎年この一年の最後の日曜日に「王であるキリスト」を私たちは祝います。
来週の日曜日からは、いよいよ待降節にはいります。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『イスラエルにとって「王」とは、どんな人物がふさわしいと考えていたのでしょうか。今日の福音では、イエスは本当に「王」なのかどうか問われる内容となっています。
その疑問は、誰が考えてもおかしくはないことで私も感じています。当時、イエスの時代にもし生きていたとしたら、私もきっとイエスの話を聞きながら、特別な人だとは思うでしょうが、イエスが王なのかどうかということを考えたに違いありません。
ピラトは私たちに代わって、直接イエスに尋ねています。「あなたは、本当にユダヤ人の王なのか?」と。それに対してイエスは傍にいる人たちがまったく想像もつかない答えを言われました。「わたしの国は、この世に属していない。」
イエスのこのような答えを誰が想像したでしょうか。そして、そのイエスの答えはどのような意味を持っているのだろうか?と誰もが戸惑ったのではないでしょうか。
王の概念、国の概念、それぞれ人によって考えがあると思いますが、国や王という存在を超えて、「この世に属していない」という答えは、きっと当時の人々にとっても戸惑うばかりの答えではなかったかと想像します。
旧約のイスラエルの歴史をみると、ダビデによって国家が統一され、王が誕生することになりました。「王」とは、神に任ぜられたものであり、主との契約によって、油を注がれたもの、そしてその権能を受けるという、この世の支配を表すものでした。このような考えを持つ人たちに対して、イエスの答えは「わたしの国は、この世に属していない」、当時の人々にとっては理解できないイエスの言葉であったと思います。
今日の福音のピラトとの問答の最後に、「わたしは真理についてあかしをするために生まれ、またそのためにこの世にきたのである」と、イエスは堂々とピラトの前で宣言しています。真理のために命をかけたイエス。真理にそって常に生きたのがイエス。私たちは聖書をとおして、イエスの生き様を見ています。確かにイエスは妥協することなく真理のために常に歩んでいました。そして真理のために命を捧げました。
真理のために私たちも生きようとしています。でも真理のために命をかけるとは実に難しいことであります。私たちの心を動かしているのは、多くの場合、真理を求めていながらも、現実は真理から離れてしまうことも多いということ。
考えてもみてください。皆さんは真実を生きていますか?今何を一番大切にしておられますか?大抵の場合、真理ではなく別なものになっているような気がします。その別なものとは何でしょうか?
ある人は自分の欲望であり、自分の野心である。ある人はお金であり、また快楽であるかもしれません。いずれにせよ、自分を満足させてくれるものに心が向かうことがあまりに多いのが私たちの現実ではないでしょうか?
真理を生きる。口で言うほど簡単ではないのが誰もがわかっています。そのようにして考えてみると、ローマ皇帝の命令に従って、ユダヤに赴任し、その地方を統治するピラトという人もまた、私たち同じように真理とはほど遠い世界に生きているといえるかもしれません。ですからピラトだけが責められるものではなくて、ピラトももしかすると、私たちと変わらない、一人の人間であったかもしれません。
イエスをピラトの前に引き渡したユダヤの祭司長や長老、律法学者たち。彼らもまた真理から離れてイエスを突き出しました。彼らが命をかけて守ろうとするのは、自分たちの権威を揺るがない確かなものとすることであって、それはまた自分の出世や繁栄であったかもしれません。
自分の権威を守るためであれば、偽りも平気なのかもしれません。自分の望む目的を実現するために手段を選ばなかった彼ら。彼らの心の中にはイエスを亡き者にしてもかまわないと、そういう気持ちさえ現れ出でています。恥ずべき行為も厭わず実行してしまう、考えてみれば恐ろしい状況にまで追いやっていたのが彼らの欲望でもあった。それはまさに真理からは程遠い自分がそこにあったということ。私たちの社会で起こっている犯罪はそういう人間の心から起こっていることが多いのではないでしょうか。
聖書をよく読んで黙想していくなかで、ローマ総督のピラトは、ユダヤ人の宗教や信仰上のもめ事には関心がありませんでした。政治には関心があっても、宗教上の問題には関心がありません。国を持つということは「王である」とピラトは考えます。それは体制に反対する政治的な活動家に繋がっていく。そしてピラトにとっても政治的な野心を持つ人であれば、自分の利益に敵対する存在にもなってくるイエスでもあったということ。
自分が不利になれば黙ってしまう。妥協するピラトも真理から目を逸らしていました。真理に従えばユダヤ人の暴動が起こり、自分の地位や権力も危うくなると、自分の良心の声に耳を塞いでしまったピラトの姿が想像されます。
ピラトにしても律法学者たちにしても真理とは程遠い生き方をしてしまったということです。
イエスはそのようななかで、今までの状況を全く変えようとする「真理の王」であったということが見えてきます。真理をあかしするために来たイエス。イエスが見つめているのは神の世界です。そしてそこに命の全てを賭けています。
「王であるイエス」は、この世の王でないことは確かであり、イエスの使命はただ「真理」をこの世にあかしすることでした。
イエスは私たちをこのように招きました。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と。イエスに従おうとする私たち信仰者。私たちはまた、一人一人は「神の民」であるということも自覚しています。そういうなかで真理の神に遣わされたイエスに私たちは本当に従おうとしているのかどうか。私たちは真理から遠いものに心を向けて生きているといえるのかもしれません。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」という言葉を、私たちの心の中にいつも持ち合わせているでしょうか。
イスラエルの人々にとって、ダビデの王から始まるこの世の王には失望しながらも、主こそ「真の王である」という信念は根強く生き続けていたようです。理想のメシアの到来を待ち望む人は多かった。そういうイスラエルの歴史を見つめながら、私たちは今、待降節に向かっています。新しい典礼の一年を迎えて、幼子の到来である待降節をまもなく迎えます。
今日「王であるキリスト」の祝日を迎えて、改めて、王であるキリストを讃えて、神の計画の実現のために祈り、そして歩む決心をしていきたいと思います。』
毎年この一年の最後の日曜日に「王であるキリスト」を私たちは祝います。
来週の日曜日からは、いよいよ待降節にはいります。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『イスラエルにとって「王」とは、どんな人物がふさわしいと考えていたのでしょうか。今日の福音では、イエスは本当に「王」なのかどうか問われる内容となっています。
その疑問は、誰が考えてもおかしくはないことで私も感じています。当時、イエスの時代にもし生きていたとしたら、私もきっとイエスの話を聞きながら、特別な人だとは思うでしょうが、イエスが王なのかどうかということを考えたに違いありません。
ピラトは私たちに代わって、直接イエスに尋ねています。「あなたは、本当にユダヤ人の王なのか?」と。それに対してイエスは傍にいる人たちがまったく想像もつかない答えを言われました。「わたしの国は、この世に属していない。」
イエスのこのような答えを誰が想像したでしょうか。そして、そのイエスの答えはどのような意味を持っているのだろうか?と誰もが戸惑ったのではないでしょうか。
王の概念、国の概念、それぞれ人によって考えがあると思いますが、国や王という存在を超えて、「この世に属していない」という答えは、きっと当時の人々にとっても戸惑うばかりの答えではなかったかと想像します。
旧約のイスラエルの歴史をみると、ダビデによって国家が統一され、王が誕生することになりました。「王」とは、神に任ぜられたものであり、主との契約によって、油を注がれたもの、そしてその権能を受けるという、この世の支配を表すものでした。このような考えを持つ人たちに対して、イエスの答えは「わたしの国は、この世に属していない」、当時の人々にとっては理解できないイエスの言葉であったと思います。
今日の福音のピラトとの問答の最後に、「わたしは真理についてあかしをするために生まれ、またそのためにこの世にきたのである」と、イエスは堂々とピラトの前で宣言しています。真理のために命をかけたイエス。真理にそって常に生きたのがイエス。私たちは聖書をとおして、イエスの生き様を見ています。確かにイエスは妥協することなく真理のために常に歩んでいました。そして真理のために命を捧げました。
真理のために私たちも生きようとしています。でも真理のために命をかけるとは実に難しいことであります。私たちの心を動かしているのは、多くの場合、真理を求めていながらも、現実は真理から離れてしまうことも多いということ。
考えてもみてください。皆さんは真実を生きていますか?今何を一番大切にしておられますか?大抵の場合、真理ではなく別なものになっているような気がします。その別なものとは何でしょうか?
ある人は自分の欲望であり、自分の野心である。ある人はお金であり、また快楽であるかもしれません。いずれにせよ、自分を満足させてくれるものに心が向かうことがあまりに多いのが私たちの現実ではないでしょうか?
真理を生きる。口で言うほど簡単ではないのが誰もがわかっています。そのようにして考えてみると、ローマ皇帝の命令に従って、ユダヤに赴任し、その地方を統治するピラトという人もまた、私たち同じように真理とはほど遠い世界に生きているといえるかもしれません。ですからピラトだけが責められるものではなくて、ピラトももしかすると、私たちと変わらない、一人の人間であったかもしれません。
イエスをピラトの前に引き渡したユダヤの祭司長や長老、律法学者たち。彼らもまた真理から離れてイエスを突き出しました。彼らが命をかけて守ろうとするのは、自分たちの権威を揺るがない確かなものとすることであって、それはまた自分の出世や繁栄であったかもしれません。
自分の権威を守るためであれば、偽りも平気なのかもしれません。自分の望む目的を実現するために手段を選ばなかった彼ら。彼らの心の中にはイエスを亡き者にしてもかまわないと、そういう気持ちさえ現れ出でています。恥ずべき行為も厭わず実行してしまう、考えてみれば恐ろしい状況にまで追いやっていたのが彼らの欲望でもあった。それはまさに真理からは程遠い自分がそこにあったということ。私たちの社会で起こっている犯罪はそういう人間の心から起こっていることが多いのではないでしょうか。
聖書をよく読んで黙想していくなかで、ローマ総督のピラトは、ユダヤ人の宗教や信仰上のもめ事には関心がありませんでした。政治には関心があっても、宗教上の問題には関心がありません。国を持つということは「王である」とピラトは考えます。それは体制に反対する政治的な活動家に繋がっていく。そしてピラトにとっても政治的な野心を持つ人であれば、自分の利益に敵対する存在にもなってくるイエスでもあったということ。
自分が不利になれば黙ってしまう。妥協するピラトも真理から目を逸らしていました。真理に従えばユダヤ人の暴動が起こり、自分の地位や権力も危うくなると、自分の良心の声に耳を塞いでしまったピラトの姿が想像されます。
ピラトにしても律法学者たちにしても真理とは程遠い生き方をしてしまったということです。
イエスはそのようななかで、今までの状況を全く変えようとする「真理の王」であったということが見えてきます。真理をあかしするために来たイエス。イエスが見つめているのは神の世界です。そしてそこに命の全てを賭けています。
「王であるイエス」は、この世の王でないことは確かであり、イエスの使命はただ「真理」をこの世にあかしすることでした。
イエスは私たちをこのように招きました。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と。イエスに従おうとする私たち信仰者。私たちはまた、一人一人は「神の民」であるということも自覚しています。そういうなかで真理の神に遣わされたイエスに私たちは本当に従おうとしているのかどうか。私たちは真理から遠いものに心を向けて生きているといえるのかもしれません。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」という言葉を、私たちの心の中にいつも持ち合わせているでしょうか。
イスラエルの人々にとって、ダビデの王から始まるこの世の王には失望しながらも、主こそ「真の王である」という信念は根強く生き続けていたようです。理想のメシアの到来を待ち望む人は多かった。そういうイスラエルの歴史を見つめながら、私たちは今、待降節に向かっています。新しい典礼の一年を迎えて、幼子の到来である待降節をまもなく迎えます。
今日「王であるキリスト」の祝日を迎えて、改めて、王であるキリストを讃えて、神の計画の実現のために祈り、そして歩む決心をしていきたいと思います。』
2018年11月20日火曜日
年間第33主日 ー 貧しい人のための世界祈願日 ー
春が来て夏が近づくように、その時こそ"人の子"が近づいてくるということを聖書の言葉は私たちにも告げています。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日の福音は、これまでの福音の内容と違って、随分驚くような話に皆さんは今、耳を傾けていたと思います。マルコによる福音第13章が読まれましたが、この第13章はイエスが終末について語られている場所で「小黙示録」とも呼ばれます。黙示録と言うと聖書の一番最後にあるものです。イエスは弟子たちに人の子による大いなる栄光である「再来臨」を告げます。来臨と言うと皆さんはどんなことをイメージするでしょうか。主の来臨。私は主の降誕、クリスマスを迎える時に二つの来臨があることを話したことがあります。ひとつは幼子の誕生、主がこの世に生まれる来臨がひとつ。もうひとつの来臨は、その時のことではないのですが、次に来る来臨、再来臨。終末にむけての主の来臨と言えるかもしれません。どうしてイエス様はこのような話をされたのでしょうか。未来について、そして私たちが計り知ることが出来ない遠い未来についてお話をされました。
太陽が暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。この言葉を聞くとちょっと不安のような気持ちになるのではないでしょうか。どういうことなんだろうか。不思議でしようがなくなります。今の私たちにしてみても、こういう表現があるとちょっと、それはどういう意味ですかとなると思います。当時の人々はこの言葉をどんな風に感じたでしょうか。そのことを想像してみてください。当時の人々はその話を直接イエス様から聞かされた。
実際は聖書を書いたマルコが記述しているとのことですが。マルコがこの福音を書いていた時代、相当深く関係しています。今は上映が終わりましたが「パウロ」という映画がありました。この「パウロ」の映画の内容もまさに迫害の時代。悲惨な時代でした。ですからパウロが生きていた時代、ルカが福音を書く時代、映画を見られた方は実感が出来たと思います。迫害時代の中においてパウロの信仰をルカは伝えようとして、牢獄につながれているパウロを訪ねました。そういうシーンが何度も繰り返される映画でしたが、どんな時代であったか。歴史上の重大な事件が次々と起きていた時代であることに間違いはないようです。聖書が書かれていた時代はそういう時代。イエス様が亡くなってしばらく経過していましたが、そういう時代に聖書が書かれていた。
ひとつはエルサレムが滅亡する紀元の70年代の時代。ユダヤの人々、信仰の民はちりぢりばらばらになってしまい、迫害も起こっている時代になっている。そしてこの時代、この地を治めているローマの皇帝はネオ皇帝。迫害が起こりペテロもパウロも殉教する時代でした。まさにキリスト者にとっては苦悩と困難の時代を迎えている。イエス様とともにその教えを聞いて感動した民は信仰に目覚めるようになったようですが、そういう苦しみに生きている中で、どんなふうに今後なっていくのか。これからの時代はどうなるのか。そんな心境の中で このマルコは聖書を書いています。ですからイエスのこの言葉は そういう時代の信者の心の内も表しているような内容です。
ですからある特定の人たちは終末が早く来れば良い。そして新しい時代が始まった時にイエス様が言われる「神の国」が早く来ると良い。そんな思いをきっと強く持っていた人たちが大勢いたような気がします。逆に失望した人たちがいたかもしれません。聖書を書くマルコはそういう社会、時代を背景に、信徒の信仰の状態も考えながら終末の問題として、「その日その時は誰も知らない。」そういう終末の内容を聖書に盛り込みました。
現代に生きる私たち信仰者にとっても、信仰の目標の中に復活の時が来るという思いが
誰にもあると思います。私たちは復活の信仰を生きています。主の再来臨はまさにそういう終末、復活の時がくる。12月、主の降誕が近づいてきますが、幼子の誕生のお祝いの中にもうひとつの再来臨があることもこれまでお話していることでした。
聖書の中で、そういう時代を生きている人々に対してイエス様は励ましています。希望の火を消すことのないように、いつも暖かく見守り、導きます。こういう言葉を残します。惑わされないように注意しなさい。気をつけて目覚めていなさい。神の前に正しく歩みなさい。どんな困難な状況に遭っても、迫害の中にあって信仰の火が消えそうになっても神の前に正しく歩みなさい。これが目覚めていなさいという言葉でも表されました。マルコが、そのイエスの再来臨の時を旧約の預言者の言葉を借りて語ります。
今日の聖書の最初の言葉はまさにイザヤの預言の言葉を使ってのお話になります。太陽は暗くなる、月は光を放たず、イザヤの預言の言葉はこのようなかたちで旧約について語っています。こうした預言者の言葉、そしてイエスと出会って新しい目覚めを感じた人々は、ひとつの古い時代は終わってキリストによる新しい時代が到来する。その新しい訪れがまもなくやって来るに違いない。そういう思いでイエスに心を向けていました。
今日の聖書の中で、特別な記述があります。ヨハネの福音ではキリストの死の目的は国民のためばかりではなく、散らばっている神の子たちをひとつに集めるという表現が、ヨハネの福音の中にあります。マルコも同じような表現をとって、今日の聖書の言葉の中で選ばれた人たちを四方から呼び集める表現で終末を表しています。選ばれた人たちを四方から呼び集める。幸いにもイエス様は再び来られる。選ばれた人たちが四方から呼び集められる。そういう再来臨の時が来るのだ。そのためにも目覚めていなさい。どんな苦しい状況にあっても神の前に正しく生きなさい。正しく生きる人たちが散らばっていたとしても呼び集められる。そういう範疇に入る人たちがあることが、マルコの福音書の中に表されています。
そして、いちじくの木の話が後半に入ってきます。どんな教訓が見られるでしょうか。いちじくの木の話を通してどんなふうに私たちは考えていますか。今朝も早くから教会に来られて枯れ葉を集めてくださっている人々の姿がありました。教会の庭のケヤキの葉は
毎日ものすごい量で落ち続けています。クリスマスの頃まで毎日落ち続けると思います。地面に舞い降りて広がっている色づいた枯れ葉を見て、美しい秋の自然を感じる人もいるかと思います。そして枯れ葉が落ち、枝だけになった木は枯れた木に見えるかもしれません。作業する人の姿を先に考えてしまいますと、雨で濡れた枯れ葉が地面にへばり付いて、何度も何度もほうきで枯れ葉を集める人の苦労の方が私は見えてきます。枯れ葉が落ちて木が枯れたように見えたとしても、春を迎え夏が近づく頃にはまた新しい葉が至るところで見られるようになります。聖書の教訓は、そのようなことを私たちに伝えているのだと思います。枯れ葉が落ちて枯れ木のようになるいちじくの木を見て学びなさい。枯れ木のように見えていたいちじくの木は やがて枝が伸び始めるとやわらくなって芽が出、葉が出るようになる。春が来て夏が近づくように、その時こそ人の子が近づいてくるということを聖書の言葉は私たちにも告げています。死んだ者でもない、枯れた者でもない。また新しい命の息吹があるのだと。そのことを信仰者として私たちは受けとめなければなららないと思います。
エルサレムの滅亡を体験し、ユダヤの民がちりぢりばらばらになってしまったその時代を生きている当時の人々にとって、この預言の言葉もまた新しい神の国の到来を告げるそういうみ言葉です。神の国の到来は大きな希望をもたらすものでした。イエスははっきりと話されます。この時代はけっして滅びることはない。私の言葉はけっして滅びない。力強く宣言しています。まさに、キリストの言葉は過ぎ去ることなく、必ず実現するものであることを私たちに伝えます。
皆さんは、来週「王であるキリスト」の祝日をもって一年の典礼の終わりを迎えます。年間の季節の終わりは来週になります。そして翌週から「待降節」という新しい一年のスタートを迎えることになります。イエスの言葉はけっして消えることも過ぎ去ることもない。その力強い言葉に励まされて、私たちの信仰をもう一度歩み直す決心をしたいものです。
さて、今日はまた教皇様が呼びかけて始まった二回目の「貧しい人のための世界祈願日」となっています。聖書と典礼にも載っています。聖書週間の言葉も入っています。私たちは今日もまたそのことを意識いたしましょう。教皇様は貧しい人たちのために呼びかける。私たちの祈りもまたミサの中で捧げられます。共同祈願の中にも入っていますが、私たち一人一人「貧しい人」の意味を深く探りながら祈りを捧げらればと思います。
貧しさと言えば、先週、貧しさの中で献金を捧げるやもめの話がありました。その貧しきやもめの姿を通して、私たちは感動さえ覚えたと思います。何故でしょうか。貧しさの中で感動を呼ぶものがあるとすれば、それはどこから来るのか。見えるものでない心の中にある輝きが、やもめの姿をとおして私たちは感じられたと思います。神への信頼と謙虚なやもめの姿をとおして私たちの心の中に響いていたと思います。救いの道は謙虚な心で神に信頼して生きる中に現れてくる。そんなことを感じます。自分の弱さも醜い欠点もありのままに神の前にさらけ出して、神に信頼して生きるということが、貧しい人の中に入り輝きでもあったとも思われます。そして、いと小さき者が滅びることも天の父は望まれない。そのみ言葉に信頼するあのやもめの信仰も、そこに見えてきたのだと思います。イエスの心は神の心に導かれることでもあります。ですから、私たち一人一人が更に神の心に導かれるためにはどうしたら良いのでしょうか。
そのことのためにもう一つ伝えておきたいと思います。聖書の言葉は神の心に私たちを導いてくれるものだと思います。聖書の言葉は私たち一人一人の心に訴えかけてくるものがあります。そのためにも聖書、み言葉に親しみ出会うことが大事になります。今日から聖書週間が始まります。皆さんの心に刻んでほしいと思います。25日まで続きます。良く言われることですが、信仰生活において食べることと、寝ることと同じように、み言葉に養われることが大切であることも私たちは忘れてはならないと思います。現実の生活の中では食べること、寝ることに煩わされてなかなか聖書の方に心が向かないというのが現実かもしれません。み言葉に養われることも大切にしたいものだと思います。聖書の親しむ、み言葉に親しむ。そういうことでは残念なことをまた繰り返しますが「聖書と典礼」がいつもミサが終わったら置かれて帰ってしまわれています。今週、私たちに伝えたみ言葉は聖書と典礼をとおして、日々繰り返し見つめ学び直すことができます。聖書週間をとおして、さらにみ言葉に親しんで参りましょう。』
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日の福音は、これまでの福音の内容と違って、随分驚くような話に皆さんは今、耳を傾けていたと思います。マルコによる福音第13章が読まれましたが、この第13章はイエスが終末について語られている場所で「小黙示録」とも呼ばれます。黙示録と言うと聖書の一番最後にあるものです。イエスは弟子たちに人の子による大いなる栄光である「再来臨」を告げます。来臨と言うと皆さんはどんなことをイメージするでしょうか。主の来臨。私は主の降誕、クリスマスを迎える時に二つの来臨があることを話したことがあります。ひとつは幼子の誕生、主がこの世に生まれる来臨がひとつ。もうひとつの来臨は、その時のことではないのですが、次に来る来臨、再来臨。終末にむけての主の来臨と言えるかもしれません。どうしてイエス様はこのような話をされたのでしょうか。未来について、そして私たちが計り知ることが出来ない遠い未来についてお話をされました。
太陽が暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。この言葉を聞くとちょっと不安のような気持ちになるのではないでしょうか。どういうことなんだろうか。不思議でしようがなくなります。今の私たちにしてみても、こういう表現があるとちょっと、それはどういう意味ですかとなると思います。当時の人々はこの言葉をどんな風に感じたでしょうか。そのことを想像してみてください。当時の人々はその話を直接イエス様から聞かされた。
実際は聖書を書いたマルコが記述しているとのことですが。マルコがこの福音を書いていた時代、相当深く関係しています。今は上映が終わりましたが「パウロ」という映画がありました。この「パウロ」の映画の内容もまさに迫害の時代。悲惨な時代でした。ですからパウロが生きていた時代、ルカが福音を書く時代、映画を見られた方は実感が出来たと思います。迫害時代の中においてパウロの信仰をルカは伝えようとして、牢獄につながれているパウロを訪ねました。そういうシーンが何度も繰り返される映画でしたが、どんな時代であったか。歴史上の重大な事件が次々と起きていた時代であることに間違いはないようです。聖書が書かれていた時代はそういう時代。イエス様が亡くなってしばらく経過していましたが、そういう時代に聖書が書かれていた。
ひとつはエルサレムが滅亡する紀元の70年代の時代。ユダヤの人々、信仰の民はちりぢりばらばらになってしまい、迫害も起こっている時代になっている。そしてこの時代、この地を治めているローマの皇帝はネオ皇帝。迫害が起こりペテロもパウロも殉教する時代でした。まさにキリスト者にとっては苦悩と困難の時代を迎えている。イエス様とともにその教えを聞いて感動した民は信仰に目覚めるようになったようですが、そういう苦しみに生きている中で、どんなふうに今後なっていくのか。これからの時代はどうなるのか。そんな心境の中で このマルコは聖書を書いています。ですからイエスのこの言葉は そういう時代の信者の心の内も表しているような内容です。
ですからある特定の人たちは終末が早く来れば良い。そして新しい時代が始まった時にイエス様が言われる「神の国」が早く来ると良い。そんな思いをきっと強く持っていた人たちが大勢いたような気がします。逆に失望した人たちがいたかもしれません。聖書を書くマルコはそういう社会、時代を背景に、信徒の信仰の状態も考えながら終末の問題として、「その日その時は誰も知らない。」そういう終末の内容を聖書に盛り込みました。
現代に生きる私たち信仰者にとっても、信仰の目標の中に復活の時が来るという思いが
誰にもあると思います。私たちは復活の信仰を生きています。主の再来臨はまさにそういう終末、復活の時がくる。12月、主の降誕が近づいてきますが、幼子の誕生のお祝いの中にもうひとつの再来臨があることもこれまでお話していることでした。
聖書の中で、そういう時代を生きている人々に対してイエス様は励ましています。希望の火を消すことのないように、いつも暖かく見守り、導きます。こういう言葉を残します。惑わされないように注意しなさい。気をつけて目覚めていなさい。神の前に正しく歩みなさい。どんな困難な状況に遭っても、迫害の中にあって信仰の火が消えそうになっても神の前に正しく歩みなさい。これが目覚めていなさいという言葉でも表されました。マルコが、そのイエスの再来臨の時を旧約の預言者の言葉を借りて語ります。
今日の聖書の最初の言葉はまさにイザヤの預言の言葉を使ってのお話になります。太陽は暗くなる、月は光を放たず、イザヤの預言の言葉はこのようなかたちで旧約について語っています。こうした預言者の言葉、そしてイエスと出会って新しい目覚めを感じた人々は、ひとつの古い時代は終わってキリストによる新しい時代が到来する。その新しい訪れがまもなくやって来るに違いない。そういう思いでイエスに心を向けていました。
今日の聖書の中で、特別な記述があります。ヨハネの福音ではキリストの死の目的は国民のためばかりではなく、散らばっている神の子たちをひとつに集めるという表現が、ヨハネの福音の中にあります。マルコも同じような表現をとって、今日の聖書の言葉の中で選ばれた人たちを四方から呼び集める表現で終末を表しています。選ばれた人たちを四方から呼び集める。幸いにもイエス様は再び来られる。選ばれた人たちが四方から呼び集められる。そういう再来臨の時が来るのだ。そのためにも目覚めていなさい。どんな苦しい状況にあっても神の前に正しく生きなさい。正しく生きる人たちが散らばっていたとしても呼び集められる。そういう範疇に入る人たちがあることが、マルコの福音書の中に表されています。
そして、いちじくの木の話が後半に入ってきます。どんな教訓が見られるでしょうか。いちじくの木の話を通してどんなふうに私たちは考えていますか。今朝も早くから教会に来られて枯れ葉を集めてくださっている人々の姿がありました。教会の庭のケヤキの葉は
毎日ものすごい量で落ち続けています。クリスマスの頃まで毎日落ち続けると思います。地面に舞い降りて広がっている色づいた枯れ葉を見て、美しい秋の自然を感じる人もいるかと思います。そして枯れ葉が落ち、枝だけになった木は枯れた木に見えるかもしれません。作業する人の姿を先に考えてしまいますと、雨で濡れた枯れ葉が地面にへばり付いて、何度も何度もほうきで枯れ葉を集める人の苦労の方が私は見えてきます。枯れ葉が落ちて木が枯れたように見えたとしても、春を迎え夏が近づく頃にはまた新しい葉が至るところで見られるようになります。聖書の教訓は、そのようなことを私たちに伝えているのだと思います。枯れ葉が落ちて枯れ木のようになるいちじくの木を見て学びなさい。枯れ木のように見えていたいちじくの木は やがて枝が伸び始めるとやわらくなって芽が出、葉が出るようになる。春が来て夏が近づくように、その時こそ人の子が近づいてくるということを聖書の言葉は私たちにも告げています。死んだ者でもない、枯れた者でもない。また新しい命の息吹があるのだと。そのことを信仰者として私たちは受けとめなければなららないと思います。
エルサレムの滅亡を体験し、ユダヤの民がちりぢりばらばらになってしまったその時代を生きている当時の人々にとって、この預言の言葉もまた新しい神の国の到来を告げるそういうみ言葉です。神の国の到来は大きな希望をもたらすものでした。イエスははっきりと話されます。この時代はけっして滅びることはない。私の言葉はけっして滅びない。力強く宣言しています。まさに、キリストの言葉は過ぎ去ることなく、必ず実現するものであることを私たちに伝えます。
皆さんは、来週「王であるキリスト」の祝日をもって一年の典礼の終わりを迎えます。年間の季節の終わりは来週になります。そして翌週から「待降節」という新しい一年のスタートを迎えることになります。イエスの言葉はけっして消えることも過ぎ去ることもない。その力強い言葉に励まされて、私たちの信仰をもう一度歩み直す決心をしたいものです。
さて、今日はまた教皇様が呼びかけて始まった二回目の「貧しい人のための世界祈願日」となっています。聖書と典礼にも載っています。聖書週間の言葉も入っています。私たちは今日もまたそのことを意識いたしましょう。教皇様は貧しい人たちのために呼びかける。私たちの祈りもまたミサの中で捧げられます。共同祈願の中にも入っていますが、私たち一人一人「貧しい人」の意味を深く探りながら祈りを捧げらればと思います。
貧しさと言えば、先週、貧しさの中で献金を捧げるやもめの話がありました。その貧しきやもめの姿を通して、私たちは感動さえ覚えたと思います。何故でしょうか。貧しさの中で感動を呼ぶものがあるとすれば、それはどこから来るのか。見えるものでない心の中にある輝きが、やもめの姿をとおして私たちは感じられたと思います。神への信頼と謙虚なやもめの姿をとおして私たちの心の中に響いていたと思います。救いの道は謙虚な心で神に信頼して生きる中に現れてくる。そんなことを感じます。自分の弱さも醜い欠点もありのままに神の前にさらけ出して、神に信頼して生きるということが、貧しい人の中に入り輝きでもあったとも思われます。そして、いと小さき者が滅びることも天の父は望まれない。そのみ言葉に信頼するあのやもめの信仰も、そこに見えてきたのだと思います。イエスの心は神の心に導かれることでもあります。ですから、私たち一人一人が更に神の心に導かれるためにはどうしたら良いのでしょうか。
そのことのためにもう一つ伝えておきたいと思います。聖書の言葉は神の心に私たちを導いてくれるものだと思います。聖書の言葉は私たち一人一人の心に訴えかけてくるものがあります。そのためにも聖書、み言葉に親しみ出会うことが大事になります。今日から聖書週間が始まります。皆さんの心に刻んでほしいと思います。25日まで続きます。良く言われることですが、信仰生活において食べることと、寝ることと同じように、み言葉に養われることが大切であることも私たちは忘れてはならないと思います。現実の生活の中では食べること、寝ることに煩わされてなかなか聖書の方に心が向かないというのが現実かもしれません。み言葉に養われることも大切にしたいものだと思います。聖書の親しむ、み言葉に親しむ。そういうことでは残念なことをまた繰り返しますが「聖書と典礼」がいつもミサが終わったら置かれて帰ってしまわれています。今週、私たちに伝えたみ言葉は聖書と典礼をとおして、日々繰り返し見つめ学び直すことができます。聖書週間をとおして、さらにみ言葉に親しんで参りましょう。』
2018年11月11日日曜日
年間第32主日
今日の福音をとおして、私たち一人一人が大切な隣人として神に愛されているということを心に留めましょう。
今日は「秋の大掃除」の日でした。
聖堂床のワックスがけとカテドラルホールの大掃除を行いました。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日の第一朗読、福音と共通して出てくるのは「やもめ」。それも日々の生活に困窮し、明日の保障もない苦しい生活をしている「やもめ」のお話になります。
どんなに苦しくても辛くても命あるものは神を誉め讃えなさいと、今日の答唱詩編で私たちは歌っていますが、私たちにどこまでそれができているでしょうか?
「立法学者の偽善」と「やもめの献金」という二つの異なるエピソードが告げられる今日の福音ですが、私たちは心の底から純粋に神に信頼して祈る時、そのひたむきな心を捧げるときには、今日のやもめのような純粋な姿を見せるのではないか、そんなふうにも考えます。
切羽詰まっても、どんなに苦しい状況にあっても心から神に信頼するその瞬間は、「全てを捧げます」と言える、そういう信仰で神に向かえるような気がします。
ただ、常にそのような心を持ち合わせることが出来ないというのが現実の自分でもあるようです。自分の持っている財布の中身を見て、計算をして思い巡らして、どのくらいの金額までなら捧げられるだろうかと考えてしまいます。その時の心の状態は神様のことよりも困っている人のことよりも、自分のことが先になっているということだと思います。きっと誰もが同じような経験をしているのではないかと思います。
イエスに対する律法学者やファリサイ派の人々の態度は、非常に厳しいものがありました。イエスはそのような彼らの偽善的な態度や行動と、それに比べて貧しい”やもめ”の献金の姿を今日示します。どちらの生き方が神に好されるでしょうか?もちろん答えは分かっていることです。
結論は言うまでもないことですが、もう少し当時の社会や生活がどんなものであったかを考えてみると、”やもめ”の信仰もはっきりと私たちの心に見えてくるような気がします。”やもめ”の姿が、いかに神への信頼に満ちたものであったのか、神の愛に応える生き方であったのかどうか、そんなことが黙想すればするほど、よく見えてくるような気がします。
自分が持っている全てがレプトン銅貨2枚であったという”やもめ”。当時のレプトン銅貨というのは、ユダヤの国が発行したお金の中でも最も小さな銅貨でした。
聖書では時々「デナリ」というコインの名前も出てきますが、それはローマが発行したローマ皇帝の肖像がデザインされている硬貨でした。どちらも当時の社会で使われているもので、労働者の一日の賃金の目安となっているものでした。その100分の1にも満たないお金が1レプトンでした。当時のお金にしてわずか2レプトンしか持っていなかったそういう貧しい”やもめ”であったということです。それを神殿に全て捧げる”やもめ”の姿が浮き彫りにされているわけです。
権威をひけらかす律法学者やファリサイ派の人々に対し、神殿の賽銭箱に持ち合わせた全てを入れたこの”やもめ”。どちらが神に対する真実な生き方をしているのかどうか、そのようなことを今日聖書は私たちに語りかけます。律法学者やファリサイ派の人々がどのうような暮らしぶりであったかは想像するしかありませんが、イエスは常々弟子たちに、彼らには気を付けるように語っています。律法学者たちは、話すことは立派であるけれど、その行動を真似してはいけないというのがイエスから弟子達への忠告でした。
当時、”やもめ”と言われる人たちは、財産を共有して助け合い、協力しながら貧しく生きていたといわれています。そして神殿のために一生懸命奉仕したのが”やもめ”でした。それにも関わらず、律法学者やファリサイ派の人々は、そのような貧しい彼女たちの善意を悪用して私腹を肥やしていたと言われています。このような対比をイエスは弟子たちに話したのです。
大金持ちのたくさんの献金に対し、”やもめ”の献金は人々の目を引くようなことはない、いわば隠れた小さな出来事に過ぎません。しかし、たとえ僅かな額であったとしても生活費の全てに当たる金額を献金した”やもめ”の姿は、イエスにとって最も目立つ献金であり、心からの献金であることにイエスはほめられたのです。
そこに私たちは、”やもめ”が示す神への信頼とゆるがない信仰の姿に驚きさえ感じてしまいます。
私たちは誰もが元気で長く健康に生きたいと願っても、それを決める知恵を持っていません。神は、将来がどんなに暗くても、希望を見失いそうになったとしても、変わらない温かなまなざしを持って、私たちを見つめ励ましてくださる存在です。
神こそ私たちが願う「永遠のいのち」をもたらす方であるという信仰をこの貧しい”やもめ”は持ち合わせていたのです。
貧しさの中で冷たい視線を浴びたことのある貧しい”やもめ”は、金持ちの知らない神を知っていたということではないでしょうか。
先週のみ言葉に大切な掟が二つ示されました。神を愛することと、隣人を愛することでした。この貧しい”やもめ”の隣人になってくださったのは神であったということも言えるかと思います。
今日のみ言葉は、この貧しき”やもめ”をとおして、「変わらない愛をもって、いつもあなたを愛している」と私たち一人一人の隣人になっている神が私たちの傍におられ、私たちの信じる神は、そのような方であるということを示すものだと思います。
神を愛し、隣人を愛する。それよりも先に、神から私たち一人一人が大切な隣人として愛されているということも、私たちはもう一度心に留めたいと思います。』
今日は「秋の大掃除」の日でした。
聖堂床のワックスがけとカテドラルホールの大掃除を行いました。
外国人信徒の方も参加しました。終わった後の昼食です。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日の第一朗読、福音と共通して出てくるのは「やもめ」。それも日々の生活に困窮し、明日の保障もない苦しい生活をしている「やもめ」のお話になります。
どんなに苦しくても辛くても命あるものは神を誉め讃えなさいと、今日の答唱詩編で私たちは歌っていますが、私たちにどこまでそれができているでしょうか?
「立法学者の偽善」と「やもめの献金」という二つの異なるエピソードが告げられる今日の福音ですが、私たちは心の底から純粋に神に信頼して祈る時、そのひたむきな心を捧げるときには、今日のやもめのような純粋な姿を見せるのではないか、そんなふうにも考えます。
切羽詰まっても、どんなに苦しい状況にあっても心から神に信頼するその瞬間は、「全てを捧げます」と言える、そういう信仰で神に向かえるような気がします。
ただ、常にそのような心を持ち合わせることが出来ないというのが現実の自分でもあるようです。自分の持っている財布の中身を見て、計算をして思い巡らして、どのくらいの金額までなら捧げられるだろうかと考えてしまいます。その時の心の状態は神様のことよりも困っている人のことよりも、自分のことが先になっているということだと思います。きっと誰もが同じような経験をしているのではないかと思います。
イエスに対する律法学者やファリサイ派の人々の態度は、非常に厳しいものがありました。イエスはそのような彼らの偽善的な態度や行動と、それに比べて貧しい”やもめ”の献金の姿を今日示します。どちらの生き方が神に好されるでしょうか?もちろん答えは分かっていることです。
結論は言うまでもないことですが、もう少し当時の社会や生活がどんなものであったかを考えてみると、”やもめ”の信仰もはっきりと私たちの心に見えてくるような気がします。”やもめ”の姿が、いかに神への信頼に満ちたものであったのか、神の愛に応える生き方であったのかどうか、そんなことが黙想すればするほど、よく見えてくるような気がします。
自分が持っている全てがレプトン銅貨2枚であったという”やもめ”。当時のレプトン銅貨というのは、ユダヤの国が発行したお金の中でも最も小さな銅貨でした。
聖書では時々「デナリ」というコインの名前も出てきますが、それはローマが発行したローマ皇帝の肖像がデザインされている硬貨でした。どちらも当時の社会で使われているもので、労働者の一日の賃金の目安となっているものでした。その100分の1にも満たないお金が1レプトンでした。当時のお金にしてわずか2レプトンしか持っていなかったそういう貧しい”やもめ”であったということです。それを神殿に全て捧げる”やもめ”の姿が浮き彫りにされているわけです。
権威をひけらかす律法学者やファリサイ派の人々に対し、神殿の賽銭箱に持ち合わせた全てを入れたこの”やもめ”。どちらが神に対する真実な生き方をしているのかどうか、そのようなことを今日聖書は私たちに語りかけます。律法学者やファリサイ派の人々がどのうような暮らしぶりであったかは想像するしかありませんが、イエスは常々弟子たちに、彼らには気を付けるように語っています。律法学者たちは、話すことは立派であるけれど、その行動を真似してはいけないというのがイエスから弟子達への忠告でした。
当時、”やもめ”と言われる人たちは、財産を共有して助け合い、協力しながら貧しく生きていたといわれています。そして神殿のために一生懸命奉仕したのが”やもめ”でした。それにも関わらず、律法学者やファリサイ派の人々は、そのような貧しい彼女たちの善意を悪用して私腹を肥やしていたと言われています。このような対比をイエスは弟子たちに話したのです。
大金持ちのたくさんの献金に対し、”やもめ”の献金は人々の目を引くようなことはない、いわば隠れた小さな出来事に過ぎません。しかし、たとえ僅かな額であったとしても生活費の全てに当たる金額を献金した”やもめ”の姿は、イエスにとって最も目立つ献金であり、心からの献金であることにイエスはほめられたのです。
そこに私たちは、”やもめ”が示す神への信頼とゆるがない信仰の姿に驚きさえ感じてしまいます。
私たちは誰もが元気で長く健康に生きたいと願っても、それを決める知恵を持っていません。神は、将来がどんなに暗くても、希望を見失いそうになったとしても、変わらない温かなまなざしを持って、私たちを見つめ励ましてくださる存在です。
神こそ私たちが願う「永遠のいのち」をもたらす方であるという信仰をこの貧しい”やもめ”は持ち合わせていたのです。
貧しさの中で冷たい視線を浴びたことのある貧しい”やもめ”は、金持ちの知らない神を知っていたということではないでしょうか。
先週のみ言葉に大切な掟が二つ示されました。神を愛することと、隣人を愛することでした。この貧しい”やもめ”の隣人になってくださったのは神であったということも言えるかと思います。
今日のみ言葉は、この貧しき”やもめ”をとおして、「変わらない愛をもって、いつもあなたを愛している」と私たち一人一人の隣人になっている神が私たちの傍におられ、私たちの信じる神は、そのような方であるということを示すものだと思います。
神を愛し、隣人を愛する。それよりも先に、神から私たち一人一人が大切な隣人として愛されているということも、私たちはもう一度心に留めたいと思います。』
2018年11月7日水曜日
年間第31主日
イエスは律法学者の問いに対し、申命記(6・5)とレビ記(19・18)を引用して最も重要な掟について話されました。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『モーセはトーラー(モーセ五書)をヤコブ共同体の相続財産として我々に命令した。申命記の中で聖書は述べています。ユダヤの民は律法学者によってその信仰を厳しく指導されています。その信仰を守っています。でも、そのユダヤ伝来の信仰は掟が少しずつイエスの時代に変化していきます。熱心なユダヤ教のグループのある人々は、古代からの伝統が少しずつイエスによって崩されていく、壊れていくようなそんな思いがあったようです。特に律法学者たちの間で。それはどういうことなのか。ひとつ例をあげると、イエスはたくさんの人々を癒やし、慰め、励ましています。時に神の業をしるしとして人々の前で現します。奇跡がそこで行われました。でも、安息日に行われるそういう行為は、イザヤの掟に背くものであると考える人々がいます。安息日は聖なるものである。そして、安息日は仕事は出来ないということが、当時の人々の考えでもありました。安息日、主の日に3百数十種類の仕事の内容が記されていて、それ以外は許されないとか、そういう細かい規定があったそうです。今で言うと、1日800メートル以上歩いてしまうと仕事にもってなると、そういう掟があるという中味が伝えられています。ですから本当に安息日に縛られてしまう、そのような人々の生活もあったということです。
そういう背景の中で考えると、イエス様が神殿で人々を見て憐れみ、奇跡を行ったとき律法学者たちはまさに、仕事をしている 掟を破ったという見方になりました。考えのようです。でもイエスはその時に安息日は国民のためにつくられた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主である。安息日が私たちの上にあるのではなく、人が安息日のためにあるのだ。厳格に守ってきた掟が覆されたように考える人々はイエスに対する反発をだんだんと増幅させてしまいます。病人を癒やす行為にさえ、そこにあまりにも恵みや権威に満ちていることを知って、妬む心が大きくなってしまいます。
聖書の中で何度も律法学者ファリサイ派、サドカイ派の人々が現れてはイエスに意地悪な質問をする。そういう物語がたくさん現れます。そのくらい、イエスの行いがだんだんと特定なグループの人たちから反感を買うようになった、そういう時代のお話が今日もまた出てきます。
タルムード(口伝律法)の戒律は613の掟があるそうです。インターネットで調べるとそれが全部出てくるのですが、小さなことから様々な掟が見ることが出来ます。その掟の中に消極的な掟と積極的な掟があるといわれています。インターネットで見たところ、消極的な掟は365、積極的な掟、命令が 248、合わせて 613あるようです。もちろん、ユダヤ教の信仰の中にに入ってくる様々な掟や規律ですが、その十戒の内容もその掟の中に入っています。
今日のお話は律法学者から出される質問です。律法学者たちは掟を研究している人たちですから、モーセの掟もその中に入っていることも知っているし、特にその掟は大事にさればならないことを当然知っている質問です。一番の掟は何ですか。一番良く知っている学者さんがそういう質問をするとはどういうことでしょうか。いろいろ想像してしまいますが、イエスに質問します。もちろんイエスは彼らの質問の意図をよく知って答えます。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。これが一番の掟です。日本語で話されていますから説明は必要ないと思いますが、次から次へと神に向かう心が出てきます。すべてをあげて全身全霊を込めて神を愛しなさいということに尽きると思います。
イエスはさらに加えました。隣人を自分のように愛しなさい。切り離すことではなくて、最初に唯一の主である神を愛することと隣人を愛すること、セットになるように答えていました。律法を研究している律法学者にとって、イエスのこの答えは否定する余地はまったくありません。イエスのこの最初答えは、申命記6章にある聖書の言葉そのものです。二つ目の隣人を自分のように愛しなさいというのも、レビ記にある聖書そのものです。ですから律法学者は否定することはもちろん出来ません。そのとおりと認めざるを得ません。何よりも大切なすぐれた教えそのものであると認めます。掟の数が数多くあると人々は迷ったり、どちらの教えが正しいのか、そういう迷いも当時あったそうです。あまりにも細かく規定がありすぎて、この掟を守れば、こちらの掟は守れそうもない。それくらい規定がいっぱいあったそうです。ひとつ例をあげると、供え物を捧げよという掟もあったそうです。当然、父母を敬えという掟もありました。当時の社会では供え物を理由に両親の扶養の義務を怠ったり、放棄する風潮があったともいわれます。現代でもそのことがあるような気がします。お金をどのように使うか。財産をどのように使うか。両親のために使うか、自分たち若い家族のために使うか。そんなことで両親を投げやりにしたり、粗末にあつかったり、扶養を怠ったり。そういうことは、今の私たちにも考えられることです。当時の社会も同じような風潮があったそうです。神殿に犠牲を捧げるために物を使った。それを用意したから、両親の世話を十分することが出来ませんでしたという理由もたくさんあったのではないでしょうか。
でも、よくよく考えなければならない。イエスの教え、神の教えはそういうことだったでしょうか。掟はそういうことではなかったはずということが指摘されることです。犠牲や燔祭は罪ある人間が自分を全部神に捧げるしるしに犠牲を捧げる。時に小鳥や鳩であったり、少し余裕のある人は仔牛を捧げたり、そういう風にして犠牲にはお金がかかることであったのかもしれません。生活の一部を捧げざるを得ない。罪の償いがあったかのように当時の社会を想像することが出来ます。でも、その犠牲を捧げるために生活の一部をそれに当てたとすれば、両親をどこかで十分に養うことができないという人がどんどん出ていったとすれば、掟を守る中で間違ったことをしているというふうに考えられます。
神を愛することと人を愛することは切り離すことではない。愛するときに神はその人とともにいる。愛に欠ける行為がだんだん当時の社会の中に現れてしまう。イエスはそういうことを含めてきっと律法学者に神を愛することと人を愛することがなにより大切である
と答えたのではないでしょうか。神を愛する。実際に具体的にどのようなものでしょうかと考えてしまうかもしれません。
神を愛するということは具体的にはイエスのみ言葉を聴くほかはないと言えるかもしれません。イエスのみ言葉に心から従い神を思うとき、私たちの心は自分の周りの人々に向かっていくのではないでしょうか。時々とても熱心な人が一生懸命教会で祈りを捧げます。祈りに多くの時間をかけて本当に熱心な姿をそこに見てしまいます。時々、そういう人の中に教会、共同体の皆さんとの関わりよりも、神に祈るその時間の方が大切であるという人がなんとなく見えてくる場合があります。神を愛する。祈りを大切にする。もちろんそれも大切なこと。でも、人との関わりを避けて、その時間を割いてただ祈りだけをするのであれば、神を愛する人を愛することに少し問題が出てくるのかもしれません。バランスは難しいと思いますが、ただ熱心に神に祈るだけではなく、神と人とを介することの大切さを私たちはもっともっと考えなければならないような気がします。
神の言葉に、そしてその教えに耳を傾け黙想するとき、当然私たちは自分の周りにいる人々、助けを必要とする人々、苦しんでいる人、悩んでいる人、そういう人にも心が向かうはずです。そういう思いこそ必要としている人の隣人になることが出来るのではないでしょか。それはマリア様がイエスのみ言葉に耳を傾けていたその態度にも表れているような気がします。
イエスは後に弟子たちに話します。私があなたがたを愛したように、あなた方も愛し合いなさい。自分のようにだけでは足りないのかもしれません。イエスが愛したように、私たちはそれを一番の模範としなければならないようです。ですから、イエスの言葉を心に留めて思い巡らし黙想していかなければ、イエスがどのように私たちを愛してくださったかを知ることは出来ないはずです。
自分ほど神の国から遠い人間であると誰もが思えてしまいます。自分に欠けているものがあるから、そのようにどうしても考えます。洗礼の恵みをいただいた私たち。キリストの教えをただ学ぶだけでなくて、本当に全身全霊をもって神の国に相応しい人にならなければなりません。愛を生きる人こそ神の国から遠くないと呼ばれるはずです。今日、私たちは共同祈願でもたくさんの祈りを捧げます。私たちの祈りで、私の祈りとしてその一つ一つの祈りを捧げるようにしたいものです。』
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『モーセはトーラー(モーセ五書)をヤコブ共同体の相続財産として我々に命令した。申命記の中で聖書は述べています。ユダヤの民は律法学者によってその信仰を厳しく指導されています。その信仰を守っています。でも、そのユダヤ伝来の信仰は掟が少しずつイエスの時代に変化していきます。熱心なユダヤ教のグループのある人々は、古代からの伝統が少しずつイエスによって崩されていく、壊れていくようなそんな思いがあったようです。特に律法学者たちの間で。それはどういうことなのか。ひとつ例をあげると、イエスはたくさんの人々を癒やし、慰め、励ましています。時に神の業をしるしとして人々の前で現します。奇跡がそこで行われました。でも、安息日に行われるそういう行為は、イザヤの掟に背くものであると考える人々がいます。安息日は聖なるものである。そして、安息日は仕事は出来ないということが、当時の人々の考えでもありました。安息日、主の日に3百数十種類の仕事の内容が記されていて、それ以外は許されないとか、そういう細かい規定があったそうです。今で言うと、1日800メートル以上歩いてしまうと仕事にもってなると、そういう掟があるという中味が伝えられています。ですから本当に安息日に縛られてしまう、そのような人々の生活もあったということです。
そういう背景の中で考えると、イエス様が神殿で人々を見て憐れみ、奇跡を行ったとき律法学者たちはまさに、仕事をしている 掟を破ったという見方になりました。考えのようです。でもイエスはその時に安息日は国民のためにつくられた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主である。安息日が私たちの上にあるのではなく、人が安息日のためにあるのだ。厳格に守ってきた掟が覆されたように考える人々はイエスに対する反発をだんだんと増幅させてしまいます。病人を癒やす行為にさえ、そこにあまりにも恵みや権威に満ちていることを知って、妬む心が大きくなってしまいます。
聖書の中で何度も律法学者ファリサイ派、サドカイ派の人々が現れてはイエスに意地悪な質問をする。そういう物語がたくさん現れます。そのくらい、イエスの行いがだんだんと特定なグループの人たちから反感を買うようになった、そういう時代のお話が今日もまた出てきます。
タルムード(口伝律法)の戒律は613の掟があるそうです。インターネットで調べるとそれが全部出てくるのですが、小さなことから様々な掟が見ることが出来ます。その掟の中に消極的な掟と積極的な掟があるといわれています。インターネットで見たところ、消極的な掟は365、積極的な掟、命令が 248、合わせて 613あるようです。もちろん、ユダヤ教の信仰の中にに入ってくる様々な掟や規律ですが、その十戒の内容もその掟の中に入っています。
今日のお話は律法学者から出される質問です。律法学者たちは掟を研究している人たちですから、モーセの掟もその中に入っていることも知っているし、特にその掟は大事にさればならないことを当然知っている質問です。一番の掟は何ですか。一番良く知っている学者さんがそういう質問をするとはどういうことでしょうか。いろいろ想像してしまいますが、イエスに質問します。もちろんイエスは彼らの質問の意図をよく知って答えます。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。これが一番の掟です。日本語で話されていますから説明は必要ないと思いますが、次から次へと神に向かう心が出てきます。すべてをあげて全身全霊を込めて神を愛しなさいということに尽きると思います。
イエスはさらに加えました。隣人を自分のように愛しなさい。切り離すことではなくて、最初に唯一の主である神を愛することと隣人を愛すること、セットになるように答えていました。律法を研究している律法学者にとって、イエスのこの答えは否定する余地はまったくありません。イエスのこの最初答えは、申命記6章にある聖書の言葉そのものです。二つ目の隣人を自分のように愛しなさいというのも、レビ記にある聖書そのものです。ですから律法学者は否定することはもちろん出来ません。そのとおりと認めざるを得ません。何よりも大切なすぐれた教えそのものであると認めます。掟の数が数多くあると人々は迷ったり、どちらの教えが正しいのか、そういう迷いも当時あったそうです。あまりにも細かく規定がありすぎて、この掟を守れば、こちらの掟は守れそうもない。それくらい規定がいっぱいあったそうです。ひとつ例をあげると、供え物を捧げよという掟もあったそうです。当然、父母を敬えという掟もありました。当時の社会では供え物を理由に両親の扶養の義務を怠ったり、放棄する風潮があったともいわれます。現代でもそのことがあるような気がします。お金をどのように使うか。財産をどのように使うか。両親のために使うか、自分たち若い家族のために使うか。そんなことで両親を投げやりにしたり、粗末にあつかったり、扶養を怠ったり。そういうことは、今の私たちにも考えられることです。当時の社会も同じような風潮があったそうです。神殿に犠牲を捧げるために物を使った。それを用意したから、両親の世話を十分することが出来ませんでしたという理由もたくさんあったのではないでしょうか。
でも、よくよく考えなければならない。イエスの教え、神の教えはそういうことだったでしょうか。掟はそういうことではなかったはずということが指摘されることです。犠牲や燔祭は罪ある人間が自分を全部神に捧げるしるしに犠牲を捧げる。時に小鳥や鳩であったり、少し余裕のある人は仔牛を捧げたり、そういう風にして犠牲にはお金がかかることであったのかもしれません。生活の一部を捧げざるを得ない。罪の償いがあったかのように当時の社会を想像することが出来ます。でも、その犠牲を捧げるために生活の一部をそれに当てたとすれば、両親をどこかで十分に養うことができないという人がどんどん出ていったとすれば、掟を守る中で間違ったことをしているというふうに考えられます。
神を愛することと人を愛することは切り離すことではない。愛するときに神はその人とともにいる。愛に欠ける行為がだんだん当時の社会の中に現れてしまう。イエスはそういうことを含めてきっと律法学者に神を愛することと人を愛することがなにより大切である
と答えたのではないでしょうか。神を愛する。実際に具体的にどのようなものでしょうかと考えてしまうかもしれません。
神を愛するということは具体的にはイエスのみ言葉を聴くほかはないと言えるかもしれません。イエスのみ言葉に心から従い神を思うとき、私たちの心は自分の周りの人々に向かっていくのではないでしょうか。時々とても熱心な人が一生懸命教会で祈りを捧げます。祈りに多くの時間をかけて本当に熱心な姿をそこに見てしまいます。時々、そういう人の中に教会、共同体の皆さんとの関わりよりも、神に祈るその時間の方が大切であるという人がなんとなく見えてくる場合があります。神を愛する。祈りを大切にする。もちろんそれも大切なこと。でも、人との関わりを避けて、その時間を割いてただ祈りだけをするのであれば、神を愛する人を愛することに少し問題が出てくるのかもしれません。バランスは難しいと思いますが、ただ熱心に神に祈るだけではなく、神と人とを介することの大切さを私たちはもっともっと考えなければならないような気がします。
神の言葉に、そしてその教えに耳を傾け黙想するとき、当然私たちは自分の周りにいる人々、助けを必要とする人々、苦しんでいる人、悩んでいる人、そういう人にも心が向かうはずです。そういう思いこそ必要としている人の隣人になることが出来るのではないでしょか。それはマリア様がイエスのみ言葉に耳を傾けていたその態度にも表れているような気がします。
イエスは後に弟子たちに話します。私があなたがたを愛したように、あなた方も愛し合いなさい。自分のようにだけでは足りないのかもしれません。イエスが愛したように、私たちはそれを一番の模範としなければならないようです。ですから、イエスの言葉を心に留めて思い巡らし黙想していかなければ、イエスがどのように私たちを愛してくださったかを知ることは出来ないはずです。
自分ほど神の国から遠い人間であると誰もが思えてしまいます。自分に欠けているものがあるから、そのようにどうしても考えます。洗礼の恵みをいただいた私たち。キリストの教えをただ学ぶだけでなくて、本当に全身全霊をもって神の国に相応しい人にならなければなりません。愛を生きる人こそ神の国から遠くないと呼ばれるはずです。今日、私たちは共同祈願でもたくさんの祈りを捧げます。私たちの祈りで、私の祈りとしてその一つ一つの祈りを捧げるようにしたいものです。』
2018年10月29日月曜日
年間第30主日
今日の福音は、イエスが目の見えない人「バルティマイ」を癒すお話でした。
何気ない日常の中に起こる奇跡を物語っています。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『皆さんは今日の福音をどのように聞いていたでしょうか。どのような場面が心に浮かんだでしょうか?
先週、先々週とみ言葉を聞きながら、私はその時の内容も思い起こしながら今日の「盲人の奇跡」の話を黙想しています。
イエスに仕えてきた2人の弟子が「栄光の日が来たら良い席に着きたい」と願って、他の弟子達から怒りをかった場面が先週語られていました。イエスはその時、良い牧者としての模範を示して「仕える者になりなさい」と弟子たちを諭しています。
今日のみ言葉は、何気ない日常の中で起こる奇跡の物語のようにも感じます。
イエスはエリコを通過する長い道を通ってエルサレムへ向かっていくような状況にありました。旧約時代のエリコという街はオリエント世界の最古の街と言われ、肥沃な土地でヘロデ王が宮殿を建て、娯楽施設が整った貴族的な街とも言われてます。場所的には、塩の海と呼ばれる死海の北、9kmのところにあります。また、この街は「ザアカイの回心」の舞台となった街の近くにあります。
その街を出て、エルサレムに向かうために狭い谷間を通る時の出来事が、今日の物語になっています。今日のマルコの福音は、他の二人の福音史家も共通してこのお話を書いています。ですからこのお話は、当時の人々にとっては大切な話として伝承されていたということも考えられます。しかし、同じ物語を扱いながら二つの福音では盲人の名前はなく、二人の盲人という表現がとられています。マルコの福音だけが盲人の名前も書かれているのは、このバルティマイの信仰がとても素晴らしかったので、バルティマイ一人を中心に取り上げて書かれたのではないかとも考えられます。
ルカの福音によるとザアカイの家に泊まられた翌日のことであると言われています。マルコの福音では、まず先に盲人で道端で乞食をしていたバルティマイに、群衆の会話そして足音がだんだんと自分の方に近いづいてくる、そんな様子が描かれています。バルティマイは以前から、おそらくイエスの話を噂として聞いていたのでしょう。だんだんと近づいて来るのは、もしかしたらイエスではないだろうか、そんなことを思い巡らせながら、近くにいる人に誰なのか?と質問したようです。すると誰かが「ナザレのイエスが通る」と教えました。
バルティマイは、イエスの奇跡の噂を思い出したことでしょう。近づいて来るその足音を聞きながら大きな声で叫びます。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」執拗に何度も繰り返し、自分の声がイエスに届いているのかも分からずに叫び続けました。
イエスが足を止めて「彼を連れてきなさい」と言われました。うるさいと思っていた人々は、イエスがそのように言うのであればということで、バルティマイに近づき安心させ、立ち上がらせてイエスの前に連れていきます。
盲人の願いはただ一つでした。イエスが「あなたは何を願うのか?」と質問すると、「見えるようになりたい」と答えます。イエスは既にこの叫び続けていたバルティマイの声を聞きながら、この人の熱心な信仰も見つめていたようです。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と彼に答えたイエスがそこに立っています。どこにそんな立派な信仰が表されていたでしょうか?
バルティマイは、近づく足音を聞き「ナザレのイエス」が来たことを知ったのですが、叫んだ言葉は違っていました。ここにこの盲人の信仰が見えてきます。どういうことでしょうか?「ナザレのイエスが来た」と教えられながら、盲人が叫んだ言葉は「ダビデの子イエス」という言葉です。「ナザレの子」と「ダビデの子」にはどのような違いがあるでしょうか?彼は「ダビデの子」というメシアを表す言葉を使ってイエスの向かって叫び続けたのです。そこに、人々の理解とは違ったバルティマイの信仰を見ることができるのです。
「黙れ」と叱りつけられ、人々が黙らせようとしたにも関わらず、彼の求めの熱心さ、そしてその信仰も、恥じらうことなくイエスに向かってはっきりと表されていきました。彼のその熱心な信仰がメシアの憐れみを求めていたことに大きくこの物語の特徴が見えてきます。
バルティマイの求めは「お金」ではなく「目が見えるようになること」でした。一般的に道端で盲人が物乞いをしていると聞くと、お金の無心と考えてしまうのではないでしょうか。しかしバルティマイは違っていました。そこにまた彼の信仰の素晴らしさも見えてくるような気がします。弟子たちが、イエスが栄光の座に着かれたら右と左に座る地位と名誉を求めたことを考えると、同じ求めでも大きな違いがあります。信仰のあるところにメシアの憐れみが現実になるということを、今日のお話は語っているように思います。
あわれみの手を差し伸べる救い主イエスに、私たちの信仰、そして信頼は本物なのでしょうか?
心の底から「主よ、憐れんでください」と叫び続ける信仰を私たちも持ちたいと思います。
人々の中にあわれみを受けたバルティマイも加わって、イエスのエルサレムへの道、決定的な受難の時が迫る旅が続いていきます。
「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」
今日もイエスとの出会いから、心から求める憐れみをとおして、見えない「しるし」と「力」が働いているはずです。
聖体をとおして私たちはイエスと出会い、その力をいただきます。
イエスのことばが今日も私たち一人一人の心に留まるように、このミサをとおして祈り続けましょう。』
何気ない日常の中に起こる奇跡を物語っています。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『皆さんは今日の福音をどのように聞いていたでしょうか。どのような場面が心に浮かんだでしょうか?
先週、先々週とみ言葉を聞きながら、私はその時の内容も思い起こしながら今日の「盲人の奇跡」の話を黙想しています。
イエスに仕えてきた2人の弟子が「栄光の日が来たら良い席に着きたい」と願って、他の弟子達から怒りをかった場面が先週語られていました。イエスはその時、良い牧者としての模範を示して「仕える者になりなさい」と弟子たちを諭しています。
今日のみ言葉は、何気ない日常の中で起こる奇跡の物語のようにも感じます。
イエスはエリコを通過する長い道を通ってエルサレムへ向かっていくような状況にありました。旧約時代のエリコという街はオリエント世界の最古の街と言われ、肥沃な土地でヘロデ王が宮殿を建て、娯楽施設が整った貴族的な街とも言われてます。場所的には、塩の海と呼ばれる死海の北、9kmのところにあります。また、この街は「ザアカイの回心」の舞台となった街の近くにあります。
その街を出て、エルサレムに向かうために狭い谷間を通る時の出来事が、今日の物語になっています。今日のマルコの福音は、他の二人の福音史家も共通してこのお話を書いています。ですからこのお話は、当時の人々にとっては大切な話として伝承されていたということも考えられます。しかし、同じ物語を扱いながら二つの福音では盲人の名前はなく、二人の盲人という表現がとられています。マルコの福音だけが盲人の名前も書かれているのは、このバルティマイの信仰がとても素晴らしかったので、バルティマイ一人を中心に取り上げて書かれたのではないかとも考えられます。
ルカの福音によるとザアカイの家に泊まられた翌日のことであると言われています。マルコの福音では、まず先に盲人で道端で乞食をしていたバルティマイに、群衆の会話そして足音がだんだんと自分の方に近いづいてくる、そんな様子が描かれています。バルティマイは以前から、おそらくイエスの話を噂として聞いていたのでしょう。だんだんと近づいて来るのは、もしかしたらイエスではないだろうか、そんなことを思い巡らせながら、近くにいる人に誰なのか?と質問したようです。すると誰かが「ナザレのイエスが通る」と教えました。
バルティマイは、イエスの奇跡の噂を思い出したことでしょう。近づいて来るその足音を聞きながら大きな声で叫びます。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」執拗に何度も繰り返し、自分の声がイエスに届いているのかも分からずに叫び続けました。
イエスが足を止めて「彼を連れてきなさい」と言われました。うるさいと思っていた人々は、イエスがそのように言うのであればということで、バルティマイに近づき安心させ、立ち上がらせてイエスの前に連れていきます。
盲人の願いはただ一つでした。イエスが「あなたは何を願うのか?」と質問すると、「見えるようになりたい」と答えます。イエスは既にこの叫び続けていたバルティマイの声を聞きながら、この人の熱心な信仰も見つめていたようです。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と彼に答えたイエスがそこに立っています。どこにそんな立派な信仰が表されていたでしょうか?
バルティマイは、近づく足音を聞き「ナザレのイエス」が来たことを知ったのですが、叫んだ言葉は違っていました。ここにこの盲人の信仰が見えてきます。どういうことでしょうか?「ナザレのイエスが来た」と教えられながら、盲人が叫んだ言葉は「ダビデの子イエス」という言葉です。「ナザレの子」と「ダビデの子」にはどのような違いがあるでしょうか?彼は「ダビデの子」というメシアを表す言葉を使ってイエスの向かって叫び続けたのです。そこに、人々の理解とは違ったバルティマイの信仰を見ることができるのです。
「黙れ」と叱りつけられ、人々が黙らせようとしたにも関わらず、彼の求めの熱心さ、そしてその信仰も、恥じらうことなくイエスに向かってはっきりと表されていきました。彼のその熱心な信仰がメシアの憐れみを求めていたことに大きくこの物語の特徴が見えてきます。
バルティマイの求めは「お金」ではなく「目が見えるようになること」でした。一般的に道端で盲人が物乞いをしていると聞くと、お金の無心と考えてしまうのではないでしょうか。しかしバルティマイは違っていました。そこにまた彼の信仰の素晴らしさも見えてくるような気がします。弟子たちが、イエスが栄光の座に着かれたら右と左に座る地位と名誉を求めたことを考えると、同じ求めでも大きな違いがあります。信仰のあるところにメシアの憐れみが現実になるということを、今日のお話は語っているように思います。
あわれみの手を差し伸べる救い主イエスに、私たちの信仰、そして信頼は本物なのでしょうか?
心の底から「主よ、憐れんでください」と叫び続ける信仰を私たちも持ちたいと思います。
人々の中にあわれみを受けたバルティマイも加わって、イエスのエルサレムへの道、決定的な受難の時が迫る旅が続いていきます。
「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」
今日もイエスとの出会いから、心から求める憐れみをとおして、見えない「しるし」と「力」が働いているはずです。
聖体をとおして私たちはイエスと出会い、その力をいただきます。
イエスのことばが今日も私たち一人一人の心に留まるように、このミサをとおして祈り続けましょう。』
2018年10月21日日曜日
年間第29主日 「世界宣教の日」
今日は「世界宣教の日」です。
「全世界に行って福音を宣べ伝えなさい」というイエスのことばを改めて心に留めましょう。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日はインドネシアの兄弟姉妹の皆さんと感謝の祭儀にあずかります。
今日はご存じのように「世界宣教の日」です。この世界宣教の日にあたって教皇様は、
メッセージを出しておられます。メッセージのタイトルは「若者とともに、すべての人に福音を届けましょう」。全世界の若者、信徒に出されています。
今、ローマでは世界代表司教会議、シノドスが行われています。日本からは勝谷司教様が参加されています。10月いっぱいということですので、まとめの段階に入っているのかなと思います。今日は、教皇様が出されたメッセージを説教に代えて、要約して皆さんに教皇様の思いをお伝えしたいと考えています。メッセージそのものは若者へ向けてのメッセージなのですが、私たちは若者でないと言ってしまえば、教皇様のメッセージは教会に届きませんので、私たち一人一人が若者であると自覚しながら、教皇様の思いを受け止めたいと思います。私たちは日頃、若者がいないという言い方をしていますが、それを言い続けているならば、私たちの教会の中で大きな変化、新しい旅立ちは出来なくなってしまいます。私たち一人一人も若者であるという意識の中で教会共同体の活動、そして発展を新しく作っていくことが大事だと思います。
さて、教皇様はどんなことを私たちに、教会に向けてメッセージを出されのでしょうか。
教皇様は「わたしは、イエスからわたしたちに託された宣教について、皆さんと一緒に考えたいと思います。そして、皆さんに語りかけると同時に、神の子としての冒険を教会の中で生き抜いているすべてのキリスト者にも呼びかけます。……
宣教の月であるこの10月にローマで開催される世界代表司教会議(シノドス)は、主イエスが若者の皆さんに、さらには皆さんを通してキリスト教共同体に伝えようとしていることに対する理解を、信仰の光のもとに深める機会となるでしょう。」と述べておられます。
そして、教皇様のメッセージは4つの項目があげられます。
最初は、「生きることは遣わされること」というタイトルになっています。
「人は皆、遣わされており、そのために地上に生きています。「引き寄せられ」、「遣わされる」という二つの動きは、わたしたちがとくに若いころ、愛の内的な力として心に感じるものです。この力は未来を約束し、わたしたち自身を前へとつき動かします。いのちがいかに驚きをもたらし、人を引き寄せるかを、若者の皆さんはだれよりも切実に感じています。」
二つ目のタイトルは「わたしたちは皆さんにイエス・キリストを告げ知らせる」になります。教皇様は
「無償で受けたもの(マタイ10・8、使徒言行3・6参照)を告げ知らせる教会は、この地上で生きることの意味へと通じる道と真理を、若者の皆さんに伝えることができます。わたしたちのために死んで復活したイエス・キリストは、わたしたちを解放するためにご自身をささげ、そのことの真正で完全な意味を追求し、見いだし、伝えるよう教会を駆り立てています。若者の皆さん、キリストとキリストの教会を恐れてはなりません。」と、おっしゃっています。
3つ目は「地の果てまで信仰を伝える」となっています。
「若者の皆さんも、洗礼を受けることにより教会の生きた一員となり、福音をすべての人に伝えるという使命をともに担っています。」
教皇様はこう言います。
「教会の宣教の核心である信仰の伝達は、愛を「感染させる」ことを通して行われます。」
私はこのメッセージの表現、訳が「愛を感染させることをとおして信仰の伝達が行われる。」
に驚きを感じます。違和感も感じましたが、興味深い表現だなと思いました。信仰の伝達は愛を感染させる。皆さんは、どう感じるでしょうか。
「物事の意味が新たに見いだされ、人生が満たされたことを、喜びと情熱をもって示すのです。人々の心を引きつけながら信仰を伝えるためには、心が愛により開かれ、広げられなければなりません。」このようにも話しておられます。私たちはどうでしょうか。愛によって、私たち一人一人の心が開かれるよう努力しているでしょうか。
(4つ目「愛をあかしする」)
「教会の中に生きておられるキリストと皆さんが個人的に出会えるよう尽くしているすべての教会共同体に、わたしは感謝の意を表します。その中には小教区、教会の諸団体や運動、修道会、さまざまなかたちで行われる宣教活動が含まれます。人間の尊厳を尊重し、愛する喜びとキリスト者であることの喜びをあかししながら、「もっとも小さくされた人々」(マタイ25・40参照)に仕えることを、多くの若者が自発的に宣教する中で感じ取っています。」。教会も小さくされた人々とともにあって欲しいと、教皇様ははっきりと宣言します。今日も、仕えるものになりなさいと福音をとおして与えられましたが、もっとも小さくされた人々に仕える大切さは、私たち一人一人が常に心がけなければならないことでしょう。
終わりに教皇様は、教皇庁宣教援助事業についても話されています。
「教皇庁宣教援助事業は、福音をすべての国の人々に告げ知らせるよう促し、真理を求める大勢の人々の人間的、文化的な成長を支えるために、若々しい心から誕生しました。教皇庁宣教援助事業を通して惜しみなくささげられ、届けられる祈りと物的支援は、聖座の取り組み、すなわち自分の必要としているものを受け取った人々が、今度はそれぞれの場であかしできるようにする活動のために役立っています。」と、述べられています。
(今日のミサ献金について説明。)
教皇様は言われます。
「自分が持っているもの、そして何よりも自分のありのままの姿を差し出せないほど貧しい人などいません」。貧しい人、小さな人々というテーマが聖書に良く出てきますが、私たち一人一人が心を開き、愛をもって貧しさに向かっていくことが出来る勇気をいただきたいと思います。教皇様のメッセージの中で、持っているものを差し出しなさいというメッセージになっていますが、先週の説教の中で触れたように、あの金持ちの男の人は「永遠の命を持つために何をなすべきでしょうか。」思い出して欲しいと思います。先週の福音を思い出すと、その男の人は何か足りないところがあると思ってイエスに質問しました。
真面目に信仰に生きている人でした。永遠の命を求める人が財産を持って、それを分かつことの難しさ、隣人への愛を開くことがいかに難しいかを、私たちは福音をとおして黙想することが出来ました。
今日、教皇様の最後のメッセージの中で、そのことにも触れられたと考えます。最後には若者に呼びかけて話します。
「自分には差し出すものがないとか、自分はだれも必要としないとか、考えないでください。大勢の人があなたを必要としています。このことについて考えてください。多くの人が自分を必要としていると、それぞれが心から考えてください」。結びのメッセージの内容です。
そして、最後の結びは、
「わたしは使徒の元后聖マリアと聖フランシスコ・ザビエル、幼きイエスの聖テレジア、福者パオロ・マンナに、わたしたちすべてのためにとりなし、つねに寄り添ってくださるよう願い求めます。」10月の宣教のこの月。10月にはたくさんの聖人が記念されますが、そうした聖人に向けて取り次ぎを願い、寄り添っていただけるようにと教皇様は結んでいます。
教皇様のメッセージ。若者に向けられたメッセージですが、私たち一人一人にも向けられているということを重く受け止めなければならないと思います。私自身、2年前、私たちの教会が献堂100周年を迎えた時に、ひとつの標語を皆さんで考えて作りあげました。「次の世代につなぐ」という言葉が、標語で今も玄関前に掲げられていますが、若者がいない、子供がいないというだけでは何の解決にもならないと思います。若者がいないというだけでなくて、私たち一人一人がしっかりとした考えを持って、私たちの教会をこれからどう作っていくか、考え続けなければならないと思います。
そのためにも私たちは、イエスとともに歩み続けなければなりません。今日の福音の中で、弟子たちの心を動かしている俗っぽい野心とか競争心とか見え隠れするメッセージが私たちに語られています。2000年前の弟子たちのことですが、まだまだ弟子たちには学ぶべきことがたくさんあったようです。一生懸命イエスのみ言葉を聴き、その教えを守ろうとしたけれど、すぐに現実の生活に心を奪われてしまうことのほうが多かったかもしれません。イエスの心も神秘、十分理解出来ないままに今日のような質問が出たのかもしれません。もしかするとまだまだ、イエスの心に近づくことが出来ないで、自分の欲望を満たすことのだけに心を奪われた弟子もいたかのように思います。十字架の歩みはイエス一人だけの歩みなのでしょうか。そのことも考えなければならないことだと思います。
イエスの心を理解し、支え、ともに歩むことを弟子たちに期待することと同じように、私たち一人一人もその期待を背負って信仰を歩むことが大事だと思います。私たちも洗礼によって神の子の恵みをいただきました。その時からイエスとともに歩み、信仰を生きています。でも、その信仰の中でどこまでイエスの心、その教えを歩んでいるか。そのことももう一度考えて新しい出発にしたいと思います。
世界宣教の日にあたり、教皇様のメッセージの思いに触れながら、私たちに託された宣教を考え、祈り続けたいと思います。』
「全世界に行って福音を宣べ伝えなさい」というイエスのことばを改めて心に留めましょう。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日はインドネシアの兄弟姉妹の皆さんと感謝の祭儀にあずかります。
今日はご存じのように「世界宣教の日」です。この世界宣教の日にあたって教皇様は、
メッセージを出しておられます。メッセージのタイトルは「若者とともに、すべての人に福音を届けましょう」。全世界の若者、信徒に出されています。
今、ローマでは世界代表司教会議、シノドスが行われています。日本からは勝谷司教様が参加されています。10月いっぱいということですので、まとめの段階に入っているのかなと思います。今日は、教皇様が出されたメッセージを説教に代えて、要約して皆さんに教皇様の思いをお伝えしたいと考えています。メッセージそのものは若者へ向けてのメッセージなのですが、私たちは若者でないと言ってしまえば、教皇様のメッセージは教会に届きませんので、私たち一人一人が若者であると自覚しながら、教皇様の思いを受け止めたいと思います。私たちは日頃、若者がいないという言い方をしていますが、それを言い続けているならば、私たちの教会の中で大きな変化、新しい旅立ちは出来なくなってしまいます。私たち一人一人も若者であるという意識の中で教会共同体の活動、そして発展を新しく作っていくことが大事だと思います。
さて、教皇様はどんなことを私たちに、教会に向けてメッセージを出されのでしょうか。
教皇様は「わたしは、イエスからわたしたちに託された宣教について、皆さんと一緒に考えたいと思います。そして、皆さんに語りかけると同時に、神の子としての冒険を教会の中で生き抜いているすべてのキリスト者にも呼びかけます。……
宣教の月であるこの10月にローマで開催される世界代表司教会議(シノドス)は、主イエスが若者の皆さんに、さらには皆さんを通してキリスト教共同体に伝えようとしていることに対する理解を、信仰の光のもとに深める機会となるでしょう。」と述べておられます。
そして、教皇様のメッセージは4つの項目があげられます。
最初は、「生きることは遣わされること」というタイトルになっています。
「人は皆、遣わされており、そのために地上に生きています。「引き寄せられ」、「遣わされる」という二つの動きは、わたしたちがとくに若いころ、愛の内的な力として心に感じるものです。この力は未来を約束し、わたしたち自身を前へとつき動かします。いのちがいかに驚きをもたらし、人を引き寄せるかを、若者の皆さんはだれよりも切実に感じています。」
二つ目のタイトルは「わたしたちは皆さんにイエス・キリストを告げ知らせる」になります。教皇様は
「無償で受けたもの(マタイ10・8、使徒言行3・6参照)を告げ知らせる教会は、この地上で生きることの意味へと通じる道と真理を、若者の皆さんに伝えることができます。わたしたちのために死んで復活したイエス・キリストは、わたしたちを解放するためにご自身をささげ、そのことの真正で完全な意味を追求し、見いだし、伝えるよう教会を駆り立てています。若者の皆さん、キリストとキリストの教会を恐れてはなりません。」と、おっしゃっています。
3つ目は「地の果てまで信仰を伝える」となっています。
「若者の皆さんも、洗礼を受けることにより教会の生きた一員となり、福音をすべての人に伝えるという使命をともに担っています。」
教皇様はこう言います。
「教会の宣教の核心である信仰の伝達は、愛を「感染させる」ことを通して行われます。」
私はこのメッセージの表現、訳が「愛を感染させることをとおして信仰の伝達が行われる。」
に驚きを感じます。違和感も感じましたが、興味深い表現だなと思いました。信仰の伝達は愛を感染させる。皆さんは、どう感じるでしょうか。
「物事の意味が新たに見いだされ、人生が満たされたことを、喜びと情熱をもって示すのです。人々の心を引きつけながら信仰を伝えるためには、心が愛により開かれ、広げられなければなりません。」このようにも話しておられます。私たちはどうでしょうか。愛によって、私たち一人一人の心が開かれるよう努力しているでしょうか。
(4つ目「愛をあかしする」)
「教会の中に生きておられるキリストと皆さんが個人的に出会えるよう尽くしているすべての教会共同体に、わたしは感謝の意を表します。その中には小教区、教会の諸団体や運動、修道会、さまざまなかたちで行われる宣教活動が含まれます。人間の尊厳を尊重し、愛する喜びとキリスト者であることの喜びをあかししながら、「もっとも小さくされた人々」(マタイ25・40参照)に仕えることを、多くの若者が自発的に宣教する中で感じ取っています。」。教会も小さくされた人々とともにあって欲しいと、教皇様ははっきりと宣言します。今日も、仕えるものになりなさいと福音をとおして与えられましたが、もっとも小さくされた人々に仕える大切さは、私たち一人一人が常に心がけなければならないことでしょう。
終わりに教皇様は、教皇庁宣教援助事業についても話されています。
「教皇庁宣教援助事業は、福音をすべての国の人々に告げ知らせるよう促し、真理を求める大勢の人々の人間的、文化的な成長を支えるために、若々しい心から誕生しました。教皇庁宣教援助事業を通して惜しみなくささげられ、届けられる祈りと物的支援は、聖座の取り組み、すなわち自分の必要としているものを受け取った人々が、今度はそれぞれの場であかしできるようにする活動のために役立っています。」と、述べられています。
(今日のミサ献金について説明。)
教皇様は言われます。
「自分が持っているもの、そして何よりも自分のありのままの姿を差し出せないほど貧しい人などいません」。貧しい人、小さな人々というテーマが聖書に良く出てきますが、私たち一人一人が心を開き、愛をもって貧しさに向かっていくことが出来る勇気をいただきたいと思います。教皇様のメッセージの中で、持っているものを差し出しなさいというメッセージになっていますが、先週の説教の中で触れたように、あの金持ちの男の人は「永遠の命を持つために何をなすべきでしょうか。」思い出して欲しいと思います。先週の福音を思い出すと、その男の人は何か足りないところがあると思ってイエスに質問しました。
真面目に信仰に生きている人でした。永遠の命を求める人が財産を持って、それを分かつことの難しさ、隣人への愛を開くことがいかに難しいかを、私たちは福音をとおして黙想することが出来ました。
今日、教皇様の最後のメッセージの中で、そのことにも触れられたと考えます。最後には若者に呼びかけて話します。
「自分には差し出すものがないとか、自分はだれも必要としないとか、考えないでください。大勢の人があなたを必要としています。このことについて考えてください。多くの人が自分を必要としていると、それぞれが心から考えてください」。結びのメッセージの内容です。
そして、最後の結びは、
「わたしは使徒の元后聖マリアと聖フランシスコ・ザビエル、幼きイエスの聖テレジア、福者パオロ・マンナに、わたしたちすべてのためにとりなし、つねに寄り添ってくださるよう願い求めます。」10月の宣教のこの月。10月にはたくさんの聖人が記念されますが、そうした聖人に向けて取り次ぎを願い、寄り添っていただけるようにと教皇様は結んでいます。
教皇様のメッセージ。若者に向けられたメッセージですが、私たち一人一人にも向けられているということを重く受け止めなければならないと思います。私自身、2年前、私たちの教会が献堂100周年を迎えた時に、ひとつの標語を皆さんで考えて作りあげました。「次の世代につなぐ」という言葉が、標語で今も玄関前に掲げられていますが、若者がいない、子供がいないというだけでは何の解決にもならないと思います。若者がいないというだけでなくて、私たち一人一人がしっかりとした考えを持って、私たちの教会をこれからどう作っていくか、考え続けなければならないと思います。
そのためにも私たちは、イエスとともに歩み続けなければなりません。今日の福音の中で、弟子たちの心を動かしている俗っぽい野心とか競争心とか見え隠れするメッセージが私たちに語られています。2000年前の弟子たちのことですが、まだまだ弟子たちには学ぶべきことがたくさんあったようです。一生懸命イエスのみ言葉を聴き、その教えを守ろうとしたけれど、すぐに現実の生活に心を奪われてしまうことのほうが多かったかもしれません。イエスの心も神秘、十分理解出来ないままに今日のような質問が出たのかもしれません。もしかするとまだまだ、イエスの心に近づくことが出来ないで、自分の欲望を満たすことのだけに心を奪われた弟子もいたかのように思います。十字架の歩みはイエス一人だけの歩みなのでしょうか。そのことも考えなければならないことだと思います。
イエスの心を理解し、支え、ともに歩むことを弟子たちに期待することと同じように、私たち一人一人もその期待を背負って信仰を歩むことが大事だと思います。私たちも洗礼によって神の子の恵みをいただきました。その時からイエスとともに歩み、信仰を生きています。でも、その信仰の中でどこまでイエスの心、その教えを歩んでいるか。そのことももう一度考えて新しい出発にしたいと思います。
世界宣教の日にあたり、教皇様のメッセージの思いに触れながら、私たちに託された宣教を考え、祈り続けたいと思います。』
2018年10月14日日曜日
年間第28主日
神の”掟”を守ることと同じように、隣人も大切にしなさいとイエス様は教えられます。
今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『本日、10月14日(日)ローマ時間の10:15(日本時間 17:15)から、バチカンでパウロ六世、ロメロ大司教の列聖式が行われます。
カトリック中央協議会のホームページで列聖式の生中継が視聴できるLIVE動画が公開されています。ご興味のある方はご覧になってください。
https://www.cbcj.catholic.jp/2018/10/12/17747/
教皇パウロ6世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD6%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
オスカル・ロメロ大司教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%A1%E3%83%AD
列聖について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%97%E8%81%96
今日こうして、二人の聖人が誕生します。私たちも聖人の精神を習いながら信仰を歩むことができるように、またミサの中で祈りたいと思います。
特にロメロ大司教の生き方は、今日の福音にも繋がってくるのではないかと思います。
今日私たちはミサの最初の集会祈願の祈りで、
「わたしたちの心を福音の光で照らし、目先のものへの執着から解き放ってください。」このような祈りを捧げてミサが始まっています。
小さなことであっても私たちの日常生活の中では、随分目先のことに囚われています。そしてそこに、時間を掛けてしまうし、心にも煩わしさをたくさん作ってしまう”目先の事”がたくさんあるような気がします。小さな事から離れられずに、大きなストレスを抱え込んでしまうということもたくさん私たちの現実にあるでしょう。
目先のものへの執着。それは私たち一人ひとりにとって、どのような事でしょうか?いろいろ考えることが出来ると思います。人によって様々だと思います。
一つ挙げると、人間の強欲・欲望に繋がっている執着もあるかもしれません。また、健康や財産や名誉など、目先のことで煩わしさを抱え込んでしまう人もいるかもしれません。私たちの日常はそういう小さなものへの執着との闘いと言えるのかもしれません。
執着心、欲望と対照的な心の貧しさ・清さを表す清貧は、よく教会ではテーマとして取り上げられます。私たちにとってそれは理想と現実でもあるような気がします。
第一朗読では、知恵と比較して富や財産に対して話されています。神の知恵は私たちに生きる道を示すことが語られます。しかし、神の知恵は人間からみれば厳しい要求を突きつける場合もあるようです。
今日の福音の中では、”掟”をとおして一人の人がイエスと問答を交わしています。その人は「掟を守っています」と言いながら、神の教えをよく考えてみたら、どうだったのか?ということも問われる今日の福音です。
「永遠のいのちを相続し、神の国に入るためには何を行う必要があるでしょうか?」今日登場した一人の人は、イエスをつかまえてそう質問します。
いかに永遠のいのちが大切であるかということは私は最近よく口にしています。私たちは信仰を持っていると言いながら、どこまで永遠のいのちを目指しているでしょうか?永遠のいのちよりも、私たちの生活の楽しい面とか豊かになることや快楽を考えてしまうのが私たちかもしれません。
”イエスが道に出ていくと、この尋ねてきた男の人は走り寄ってひざまずいて”と、このような表現でイエスに質問をしようとしています。この表現には、この男の人の生真面目さや熱心さを感じます。でもイエスとの会話が始まると、最後は気を落とし、悲しみながら立ち去ったという結末に向かっていきます。なぜなのでしょうか?
イエスとの対話の最後に触れられいた言葉は、たくさんの財産をこの人が持っていたという表現になっています。資産家であった。富や財産を持って豊かな生活をしている人であったということがわかります。でも富や財産が永遠のいのちを妨げてしまうということもあるでしょうか。いろいろなことを私たちに黙想させてくるような今日のお話です。
私は今日の福音を聞きながら、そして黙想しながら、「戒めを全て守っています」と答えたけれども、神の教えを守っているか、ということを考えたときに、この男の人は自分の財産にしがみついて、隣人に対する思いやりや愛には、何も生かされていなかった、ということを感じます。そのことをイエス様は指摘されたのだと思います。
熱心に立派な信仰を持っていて、それを全て「果たしています」と言いながら、隣人に向ける心は欠いていた。私たちもそんな思いにかられていまうような気がするのです。
昨日のミサの中で読まれたルカの福音では、イエスが話をしていた時に一人の人が大声でイエス様を賛美する話なのですが、その人は「あなたのお母さまであるマリア様は、素晴らしい方です。何故ならあなたを生んだお母さまは神の母であるし、神の幼子がマリア様のお乳を吸っていたから」だと言いました。確かに私たちもそう思います。しかしイエス様がその人に答えたのは、まったく違ったことでした。「大切なのは神のことばを聴き、それを守る人である」と言われたのです。
今日の金持ちの男の人のように、ただ熱心な祈りを捧げるだけでは駄目だ、本当に教えを守っているのか?本当に神様が大切にする愛を見せているのか?隣人に対して愛はどうなのか?ということを問われるようです。
昨日の福音も今日の福音も私たちが大切にしなければならないのは、もちろん祈りも大切です。神に感謝し賛美し信頼することは大切なことです。でも隣人も同じように大切にしなければ神の道に入っていくことは出来ない、ましてや永遠のいのちを得ることは難しいということを話されているようです。
今日の福音の時代背景には、ローマの支配下にあって迫害が迫っているという状況があります。イエスは弟子達にも厳しく諭されています。神に仕え、福音のために生きるには、自ら進んで全てを捨てる覚悟が必要であると。まさにそのくらいの覚悟が必要だという時代の中にあってイエスはこの福音を話されています。
永遠のいのちの道はイエスに忠実に従う道ということであるような気がします。私たちはどこまで忠実にイエスの教えを生きているでしょうか?
今日改めて集会祈願の祈りをもう一度思い起こします。
「わたしたちの心を福音の光で照らし、目先のものへの執着から解き放ってください。」イエスの教えを守り、そして生きることができるように、このミサの中でともに祈っていきたいと思います。』
今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『本日、10月14日(日)ローマ時間の10:15(日本時間 17:15)から、バチカンでパウロ六世、ロメロ大司教の列聖式が行われます。
カトリック中央協議会のホームページで列聖式の生中継が視聴できるLIVE動画が公開されています。ご興味のある方はご覧になってください。
https://www.cbcj.catholic.jp/2018/10/12/17747/
教皇パウロ6世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD6%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
オスカル・ロメロ大司教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%A1%E3%83%AD
列聖について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%97%E8%81%96
今日こうして、二人の聖人が誕生します。私たちも聖人の精神を習いながら信仰を歩むことができるように、またミサの中で祈りたいと思います。
特にロメロ大司教の生き方は、今日の福音にも繋がってくるのではないかと思います。
今日私たちはミサの最初の集会祈願の祈りで、
「わたしたちの心を福音の光で照らし、目先のものへの執着から解き放ってください。」このような祈りを捧げてミサが始まっています。
小さなことであっても私たちの日常生活の中では、随分目先のことに囚われています。そしてそこに、時間を掛けてしまうし、心にも煩わしさをたくさん作ってしまう”目先の事”がたくさんあるような気がします。小さな事から離れられずに、大きなストレスを抱え込んでしまうということもたくさん私たちの現実にあるでしょう。
目先のものへの執着。それは私たち一人ひとりにとって、どのような事でしょうか?いろいろ考えることが出来ると思います。人によって様々だと思います。
一つ挙げると、人間の強欲・欲望に繋がっている執着もあるかもしれません。また、健康や財産や名誉など、目先のことで煩わしさを抱え込んでしまう人もいるかもしれません。私たちの日常はそういう小さなものへの執着との闘いと言えるのかもしれません。
執着心、欲望と対照的な心の貧しさ・清さを表す清貧は、よく教会ではテーマとして取り上げられます。私たちにとってそれは理想と現実でもあるような気がします。
第一朗読では、知恵と比較して富や財産に対して話されています。神の知恵は私たちに生きる道を示すことが語られます。しかし、神の知恵は人間からみれば厳しい要求を突きつける場合もあるようです。
今日の福音の中では、”掟”をとおして一人の人がイエスと問答を交わしています。その人は「掟を守っています」と言いながら、神の教えをよく考えてみたら、どうだったのか?ということも問われる今日の福音です。
「永遠のいのちを相続し、神の国に入るためには何を行う必要があるでしょうか?」今日登場した一人の人は、イエスをつかまえてそう質問します。
いかに永遠のいのちが大切であるかということは私は最近よく口にしています。私たちは信仰を持っていると言いながら、どこまで永遠のいのちを目指しているでしょうか?永遠のいのちよりも、私たちの生活の楽しい面とか豊かになることや快楽を考えてしまうのが私たちかもしれません。
”イエスが道に出ていくと、この尋ねてきた男の人は走り寄ってひざまずいて”と、このような表現でイエスに質問をしようとしています。この表現には、この男の人の生真面目さや熱心さを感じます。でもイエスとの会話が始まると、最後は気を落とし、悲しみながら立ち去ったという結末に向かっていきます。なぜなのでしょうか?
イエスとの対話の最後に触れられいた言葉は、たくさんの財産をこの人が持っていたという表現になっています。資産家であった。富や財産を持って豊かな生活をしている人であったということがわかります。でも富や財産が永遠のいのちを妨げてしまうということもあるでしょうか。いろいろなことを私たちに黙想させてくるような今日のお話です。
私は今日の福音を聞きながら、そして黙想しながら、「戒めを全て守っています」と答えたけれども、神の教えを守っているか、ということを考えたときに、この男の人は自分の財産にしがみついて、隣人に対する思いやりや愛には、何も生かされていなかった、ということを感じます。そのことをイエス様は指摘されたのだと思います。
熱心に立派な信仰を持っていて、それを全て「果たしています」と言いながら、隣人に向ける心は欠いていた。私たちもそんな思いにかられていまうような気がするのです。
昨日のミサの中で読まれたルカの福音では、イエスが話をしていた時に一人の人が大声でイエス様を賛美する話なのですが、その人は「あなたのお母さまであるマリア様は、素晴らしい方です。何故ならあなたを生んだお母さまは神の母であるし、神の幼子がマリア様のお乳を吸っていたから」だと言いました。確かに私たちもそう思います。しかしイエス様がその人に答えたのは、まったく違ったことでした。「大切なのは神のことばを聴き、それを守る人である」と言われたのです。
今日の金持ちの男の人のように、ただ熱心な祈りを捧げるだけでは駄目だ、本当に教えを守っているのか?本当に神様が大切にする愛を見せているのか?隣人に対して愛はどうなのか?ということを問われるようです。
昨日の福音も今日の福音も私たちが大切にしなければならないのは、もちろん祈りも大切です。神に感謝し賛美し信頼することは大切なことです。でも隣人も同じように大切にしなければ神の道に入っていくことは出来ない、ましてや永遠のいのちを得ることは難しいということを話されているようです。
今日の福音の時代背景には、ローマの支配下にあって迫害が迫っているという状況があります。イエスは弟子達にも厳しく諭されています。神に仕え、福音のために生きるには、自ら進んで全てを捨てる覚悟が必要であると。まさにそのくらいの覚悟が必要だという時代の中にあってイエスはこの福音を話されています。
永遠のいのちの道はイエスに忠実に従う道ということであるような気がします。私たちはどこまで忠実にイエスの教えを生きているでしょうか?
今日改めて集会祈願の祈りをもう一度思い起こします。
「わたしたちの心を福音の光で照らし、目先のものへの執着から解き放ってください。」イエスの教えを守り、そして生きることができるように、このミサの中でともに祈っていきたいと思います。』
2018年10月7日日曜日
年間第27主日
今日の典礼のテーマは「結婚と夫婦」について。
決して楽ではない日々の生活の積み重ねの中で、大切なことを見失うことがあります。
そんな時こそ神のことばに心を傾けましょう。
この日のミサは、佐藤神父様の主司式で行われました。
佐藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日の福音、そして来週の福音、これは続いているテーマがあります。私たちの日々の生活における福音と言えると思えます。今日は、結婚と離婚について、そして、子供のように神の国を受け入れることについて述べられています。ちなみに来週は自分の努力によって永遠の命を得ようとする青年と富の危険性が語られ、神の国に入るのは何と難しいということが語られます。
今日、登場するファリサ派の人々は、いつものようにイエスを陥れようとして質問をします。「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか。」という問いです。モーセ五書と呼ばれる律法の書がありますが、その中には離縁することについての命令というものは一切ありません。何もないと言うことは離縁してはならないということが基本、根底にあるわけです。「神が結び合わせたものを離してはならない。」ということです。そして唯一、申命記第24章1~4節に、離縁状を渡して離縁することが出来るとあります。今日の「聖書と典礼」の下にも、離縁につい書かれています。ただ、離縁状を渡せば離縁出来るというのは、離縁するためのひとつの条件にすぎません。離縁状を渡すだけでは離縁は成立しないということです。しかし、離縁状を渡すことについて、このファリサイ派の人々もちゃんと頭の中に入っていて、イエスの問いかけに答えています。
当時のユダヤ社会においてはほぼこの条件だけで離縁出来る、離縁状を渡せば離縁出来るというのが当たり前でした。しかし、実はもう一つの条件が必要だったのです。それが、「聖書と典礼」の下に書かれています。「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは」という条件があります。妻に何か恥ずべきことを見いださない限りは、離縁してはならないということです。ここを素直に解釈すると、妻に恥ずべきこと、例えば夫以外の男性と関係を持つとか、あるいは夫婦の関係が続けられないでいること、そういことも条件と捉えることが出来るかもしれません。もちろんこの場合は、離縁の条件となるものと思います。ところがファリサイ派の人々はもっと凄いことを考えました。「何か恥ずべきこと」これを「何か」と「恥ずべきこと」と二つに分けたのです。つまり恥ずべきことだけでなく、「何か」があれば離縁出来ると考えました。何かといえば、例えば料理がまずいとか、自分が呼んだときすぐそばに来なかったとか、そういうことだけでも離縁出来るとファリサイ派の人々は考えたのです。当時のユダヤ社会は、妻は夫の所有物であると考えられていましたから 、離縁するのは男性からしか出来ないと考えられていました。そのような中で、何かすれば離縁出来るという無理矢理な解釈がまかりとおっていたのです。ですからほぼ離縁状を渡すだけで離縁出来たということなります。女性に対してあまりにもひどいことをしていたのです。イエスはあなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだと言います。ファリサイ派の人々は自分たちの都合の良いように解釈し、 人々に押しつけていたことが分かります。
ここで、ちょっと考えてみたいと思いますが、モーセがなぜ離縁状を妻に渡して離縁することを許したのかということです。彼女が再婚する際に、姦通の罪を犯さないようにするために、離縁状を妻に渡すようにと夫に命じているわけです。再婚するときにその離縁状があれば、正式に離縁したもので誰の妻ではないことを証明することになったということです。モーセ五書の中でそのような記述が元々そういう配慮があったということです。そういう配慮をまったく取り除いてしまって、ファリサイ派の人々はただ単に離縁状に署名すれば離縁出来ると解釈していたのです。当時のユダヤ社会では、女性、子供は男の所有物という考えがありましたが、 新約聖書の中にもそのような記述があります。イエスが弟子たちに五千人にパンを分け与えたエピソードがありますが、そこには男の数しか入っておらず、女性と子供は入っていない。
ところが創世記の作者は、今日の創世記を読まれた箇所がありますが、女を単に男の所有物だとは考えていなかったことが分かります。彼にあう助けるものとして造られたということです。女性を造ったことによって男は本人として存在すると同時に、女という他者とともに一体として存在するものになりました。他者とともに存在するためには、お互いが人格的に自由で平等な人間であることを認めなければなりません。創世記の読まれた箇所はそういうことを根本的なこととして言おうとしているわけです。イエスもまったく同じです。「神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない。」と言っています。神が最初から意図していたことを生きること、男と女が一体となって子供を産み育てていくことを目指していくことが大切なこととして、創世記でもイエスの言葉でも私たちは理解出来るわけです。
福音の後半ですが、イエスは子供のように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることは出来ないと言われます。子供たちは神が良いという相応しい成果を何も上げることが出来ない存在です。また、人々に尊敬されるに値する身分があるわけではありません。子供たちは神の国に入ることを可能にする唯一の特質と他者に依存するという関係のうちに持っているだけです。つまり子供たちは、神の国に入ることを自分たちには身に余るほどの恵みとして受け、素直に受け入れているということです。私たちにも、子供たちのような謙虚で素直な信頼をイエスに置くことが出来ますか、ということが問われているように思えます。
最後にイエスは子供たちを私のところに来させなさい、妨げてはならないというイエスの命令があります。これは初代教会が、幼児洗礼を実践していた根拠になると教父たちは考えています。アウグスチヌス、ヨハネクリゾストモ、ヒエロニムスなどの教父たちは幼児洗礼を積極的に遅らせることに対して反対していました。それは両親の怠慢だと考えていました。救いのために洗礼が不可欠であると両親が信じていながら、自分の子供に洗礼を授けないというのは、両親の怠慢であると言うのです。自分の子供が大人になってから、自分で洗礼を受けるか受けないかを考えさせようというのは、洗礼による救いを信じて自らが洗礼を受けたことと矛盾しているというわけです。洗礼による救いを信じているなら自分の子供たちにも同じように洗礼による救いを与える機会を持つべきだと教父たちは言っています。
私たちも是非、子供たちの洗礼の秘跡を遅らせることのないように、その機会を奪うことのないようにしていきたいものだと思います。今日の聖書の言葉の中から、私たちが日々の生活の中で、どういう態度をとって歩いていけば良いのかということが、分かるようになるのではないかと思います。』
決して楽ではない日々の生活の積み重ねの中で、大切なことを見失うことがあります。
そんな時こそ神のことばに心を傾けましょう。
この日のミサは、佐藤神父様の主司式で行われました。
佐藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日の福音、そして来週の福音、これは続いているテーマがあります。私たちの日々の生活における福音と言えると思えます。今日は、結婚と離婚について、そして、子供のように神の国を受け入れることについて述べられています。ちなみに来週は自分の努力によって永遠の命を得ようとする青年と富の危険性が語られ、神の国に入るのは何と難しいということが語られます。
今日、登場するファリサ派の人々は、いつものようにイエスを陥れようとして質問をします。「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか。」という問いです。モーセ五書と呼ばれる律法の書がありますが、その中には離縁することについての命令というものは一切ありません。何もないと言うことは離縁してはならないということが基本、根底にあるわけです。「神が結び合わせたものを離してはならない。」ということです。そして唯一、申命記第24章1~4節に、離縁状を渡して離縁することが出来るとあります。今日の「聖書と典礼」の下にも、離縁につい書かれています。ただ、離縁状を渡せば離縁出来るというのは、離縁するためのひとつの条件にすぎません。離縁状を渡すだけでは離縁は成立しないということです。しかし、離縁状を渡すことについて、このファリサイ派の人々もちゃんと頭の中に入っていて、イエスの問いかけに答えています。
当時のユダヤ社会においてはほぼこの条件だけで離縁出来る、離縁状を渡せば離縁出来るというのが当たり前でした。しかし、実はもう一つの条件が必要だったのです。それが、「聖書と典礼」の下に書かれています。「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは」という条件があります。妻に何か恥ずべきことを見いださない限りは、離縁してはならないということです。ここを素直に解釈すると、妻に恥ずべきこと、例えば夫以外の男性と関係を持つとか、あるいは夫婦の関係が続けられないでいること、そういことも条件と捉えることが出来るかもしれません。もちろんこの場合は、離縁の条件となるものと思います。ところがファリサイ派の人々はもっと凄いことを考えました。「何か恥ずべきこと」これを「何か」と「恥ずべきこと」と二つに分けたのです。つまり恥ずべきことだけでなく、「何か」があれば離縁出来ると考えました。何かといえば、例えば料理がまずいとか、自分が呼んだときすぐそばに来なかったとか、そういうことだけでも離縁出来るとファリサイ派の人々は考えたのです。当時のユダヤ社会は、妻は夫の所有物であると考えられていましたから 、離縁するのは男性からしか出来ないと考えられていました。そのような中で、何かすれば離縁出来るという無理矢理な解釈がまかりとおっていたのです。ですからほぼ離縁状を渡すだけで離縁出来たということなります。女性に対してあまりにもひどいことをしていたのです。イエスはあなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだと言います。ファリサイ派の人々は自分たちの都合の良いように解釈し、 人々に押しつけていたことが分かります。
ここで、ちょっと考えてみたいと思いますが、モーセがなぜ離縁状を妻に渡して離縁することを許したのかということです。彼女が再婚する際に、姦通の罪を犯さないようにするために、離縁状を妻に渡すようにと夫に命じているわけです。再婚するときにその離縁状があれば、正式に離縁したもので誰の妻ではないことを証明することになったということです。モーセ五書の中でそのような記述が元々そういう配慮があったということです。そういう配慮をまったく取り除いてしまって、ファリサイ派の人々はただ単に離縁状に署名すれば離縁出来ると解釈していたのです。当時のユダヤ社会では、女性、子供は男の所有物という考えがありましたが、 新約聖書の中にもそのような記述があります。イエスが弟子たちに五千人にパンを分け与えたエピソードがありますが、そこには男の数しか入っておらず、女性と子供は入っていない。
ところが創世記の作者は、今日の創世記を読まれた箇所がありますが、女を単に男の所有物だとは考えていなかったことが分かります。彼にあう助けるものとして造られたということです。女性を造ったことによって男は本人として存在すると同時に、女という他者とともに一体として存在するものになりました。他者とともに存在するためには、お互いが人格的に自由で平等な人間であることを認めなければなりません。創世記の読まれた箇所はそういうことを根本的なこととして言おうとしているわけです。イエスもまったく同じです。「神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない。」と言っています。神が最初から意図していたことを生きること、男と女が一体となって子供を産み育てていくことを目指していくことが大切なこととして、創世記でもイエスの言葉でも私たちは理解出来るわけです。
福音の後半ですが、イエスは子供のように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることは出来ないと言われます。子供たちは神が良いという相応しい成果を何も上げることが出来ない存在です。また、人々に尊敬されるに値する身分があるわけではありません。子供たちは神の国に入ることを可能にする唯一の特質と他者に依存するという関係のうちに持っているだけです。つまり子供たちは、神の国に入ることを自分たちには身に余るほどの恵みとして受け、素直に受け入れているということです。私たちにも、子供たちのような謙虚で素直な信頼をイエスに置くことが出来ますか、ということが問われているように思えます。
最後にイエスは子供たちを私のところに来させなさい、妨げてはならないというイエスの命令があります。これは初代教会が、幼児洗礼を実践していた根拠になると教父たちは考えています。アウグスチヌス、ヨハネクリゾストモ、ヒエロニムスなどの教父たちは幼児洗礼を積極的に遅らせることに対して反対していました。それは両親の怠慢だと考えていました。救いのために洗礼が不可欠であると両親が信じていながら、自分の子供に洗礼を授けないというのは、両親の怠慢であると言うのです。自分の子供が大人になってから、自分で洗礼を受けるか受けないかを考えさせようというのは、洗礼による救いを信じて自らが洗礼を受けたことと矛盾しているというわけです。洗礼による救いを信じているなら自分の子供たちにも同じように洗礼による救いを与える機会を持つべきだと教父たちは言っています。
私たちも是非、子供たちの洗礼の秘跡を遅らせることのないように、その機会を奪うことのないようにしていきたいものだと思います。今日の聖書の言葉の中から、私たちが日々の生活の中で、どういう態度をとって歩いていけば良いのかということが、分かるようになるのではないかと思います。』
2018年9月30日日曜日
年間第26主日
”祈り”とは「神の語りかけに耳を傾けること」
今日の福音でのイエスの厳しいことばは、
「何よりも大切なことは神の国に入ること」と私たちに語りかけます。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『皆さんもニュースを聞いて驚いているかもしれません。まだ、北海道では余震が続いていますが、一昨日インドネシアでも大きな地震があって、多くの犠牲者が出たというニュースが流れていました。私たちもつい先日、大きな地震の体験をしたばかりですが、インドネシアの人々へ向けても祈りを捧げましょう。
さて、先週は司教様のミサになりましたので、先延ばしになってしまいましたが、トラピストでの黙想会のことを少しお話したいと思います。
私たち教区の司祭は毎年、教会法に定められているとおり、最低1週間は黙想会に参加します。今年も月曜日から土曜日までの1週間の黙想を終えました。
「キリストへの愛は祈りのうちにある」という修道生活の毎日の日課は、祈りを中心に展開しています。聖ベネディクトの精神に従う修道会の中心的な標語、皆さんもこの言葉を聞くと思い出すかもしれません。「祈り、かつ働け」(Ora et Labora)、こういう標語がトラピストの毎日の生活の中で大切にされています。
北海道にはトラピストとトラピスチヌがありますけれど、男子のトラピスト修道院の方が先に創設されており、1896年(明治29年)10月に修道士9名が日本に来て始まっています。それ以来、一日7回の祈りと労働を中心にしたシンプルな生活が今も続いているのが、トラピストとトラピスチヌの修道生活のようです。
この度の教区司祭の黙想会の中で、修道士のお話を聞く機会がありました。私はその修道士が話したひと言が心に残っています。修道士のひと言は「(祈りの基礎は)一人一人に語りかけられておられる神のことばを聴くことです」というものでした。
”祈り”については、いろいろな説明ができると思います。祈りとは、神への賛美や感謝であると同時に、私たちの願い事や希望をより頼むこと。皆さんもそのように考えておられるのではないかと思います。
しかし、修道士から聞いたひと言である「神の語りかけに耳を傾ける」ことも祈りであるということは、とても私にとって心に残る言葉でした。何故ならば、私自身そのことを少し忘れていたような気がします。神様にお願いすることの方がほとんどになっていたかなという思いがあります。神の語りかけに耳を傾けることに時間を割いていたかどうかを考えると、そのことを意識することを忘れていたような気がします。これからは少し神の語りかけにじっと沈黙し、黙想することも大切だということを心に留めておきたいと思っています。
今、自分が置かれている状況は一人一人様々だと思いますけれど、その一人一人に語りかける神の御旨に心を向け、「神は私に何を語りかけて下さっているだろうか?」そのことも大切にしたいと思います。もちろん神のことばに心を向け耳を傾けるということの中では、聖書をとおしての語りかけもあるということを忘れてはなりません。また自分の仕事や奉仕をとおして、出会いをとおして、神が私たちに語りかけておられるということも心に留めておくべきではないでしょうか。
そのためにも、信仰による従順や謙遜が大切であるということは、いうまでもありません。このことを忘れたならば、先週の聖書のお話のように、神が大切なことを話したとしても、無関心な状況の中で耳を傾けることもできなくなります。
イエスは、受難について弟子たちに話されましたが、弟子たちはそのことに無関心であった。弟子たちの関心ごとは、自分たちの中で「誰がいちばん番偉いか」ということに心を向けていたので、イエスが受難について話してもそのことを受け入れることが出来ませんでした。まさに信仰心の従順や謙遜を忘れた弟子たちには、イエスのことばが届かなかったのだと思います。私たちの信仰生活、私たちの祈りを振り返って考えてみることが必要だと思います。
さて、先週の聖書の語りかけに続いて、今日私たちに語りかけられたみ言葉を皆さんはどのように受け取ったでしょうか。
弟子のヨハネがイエスにした報告から今日の福音は始まっています。ヨハネはイエスにこのように言いました。
「わたしたちの仲間でもないのに、先生の名前を使って悪霊を追い出している者がいたのでやめさせました」
ヨハネのこの報告の内容、言い方は、ちょっと気になるような内容ではないでしょうか。それは、イエスの心の内を理解することなく、弟子たちの競争心で”どちらが偉いか”と話していたにも関わらず、自分たちの味方なのか?自分たちに反対する敵なのか?と狭い心で自分の周りの人たちを見ているヨハネではないかと私は感じました。
イエスはそのことに対して話をしています。そこにイエスが真に弟子たちに、きっと私たちにも理解して欲しいことが語られているような気がします。
イエスは「小さな者をつまづかせることのないように」と言って、地獄について語ります。「神の国に入れるのか、それを失うか」ということを話されます。
自分をつまづかせるものが私たちの”手”や”足”や”目”であるならば、「それを切り捨てなさい、えぐり出しなさい」と言います。とても厳しい言葉になります。どうしてこれほど厳しい話をされたのか?そのことを私たちは考えなければなりません。そこにイエスの伝えたい真の意味があるかのように私は感じます。きっと、”何より大切なことをする”ということからこんな言葉が出てくるのだと思います。
「人間の最大の価値が神の国に入ることであり、それを失うことは最大の損失になる」
そういう意味で、あのような厳しい言葉が出てきていると感じます。
厳しい勧めであるかもしれません。私たちが大切だと思うもの、それがつまづきとなるなら思い切って切り捨てなければならない。自分に当てはめても「厳しいな」と考えてしまいますけれども、私たちの現実、そして自分の思いは、どこにあるのか?ということを指摘されているような気がします。
誰でもがこの世で生きてきて、大切なものへの執着というものを持っていると思います。それが現実だと思います。家族であったり、友達であったり、愛する人であったり、一人一人様々なことが大切だと思います。物に対する執着もたくさんあろうかと思います。お金に対しても切り捨てることができないのが現実でしょう。
でも私たち信仰を生きる者にとって、「神の国」や「永遠のいのち」がどこまで大切かということと比較しなければ、イエスの真意もまた、うわの空になってしまいそうな気がします。
今日、私たち一人一人に語りかける神のことばを受け入れ、理解し、「神の国」と「永遠のいのち」を心から願いながら、それ以外の大切なものに執着する私たちの心を解放してくださるように祈りたいと思います。』
今日の福音でのイエスの厳しいことばは、
「何よりも大切なことは神の国に入ること」と私たちに語りかけます。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『皆さんもニュースを聞いて驚いているかもしれません。まだ、北海道では余震が続いていますが、一昨日インドネシアでも大きな地震があって、多くの犠牲者が出たというニュースが流れていました。私たちもつい先日、大きな地震の体験をしたばかりですが、インドネシアの人々へ向けても祈りを捧げましょう。
さて、先週は司教様のミサになりましたので、先延ばしになってしまいましたが、トラピストでの黙想会のことを少しお話したいと思います。
私たち教区の司祭は毎年、教会法に定められているとおり、最低1週間は黙想会に参加します。今年も月曜日から土曜日までの1週間の黙想を終えました。
「キリストへの愛は祈りのうちにある」という修道生活の毎日の日課は、祈りを中心に展開しています。聖ベネディクトの精神に従う修道会の中心的な標語、皆さんもこの言葉を聞くと思い出すかもしれません。「祈り、かつ働け」(Ora et Labora)、こういう標語がトラピストの毎日の生活の中で大切にされています。
北海道にはトラピストとトラピスチヌがありますけれど、男子のトラピスト修道院の方が先に創設されており、1896年(明治29年)10月に修道士9名が日本に来て始まっています。それ以来、一日7回の祈りと労働を中心にしたシンプルな生活が今も続いているのが、トラピストとトラピスチヌの修道生活のようです。
この度の教区司祭の黙想会の中で、修道士のお話を聞く機会がありました。私はその修道士が話したひと言が心に残っています。修道士のひと言は「(祈りの基礎は)一人一人に語りかけられておられる神のことばを聴くことです」というものでした。
”祈り”については、いろいろな説明ができると思います。祈りとは、神への賛美や感謝であると同時に、私たちの願い事や希望をより頼むこと。皆さんもそのように考えておられるのではないかと思います。
しかし、修道士から聞いたひと言である「神の語りかけに耳を傾ける」ことも祈りであるということは、とても私にとって心に残る言葉でした。何故ならば、私自身そのことを少し忘れていたような気がします。神様にお願いすることの方がほとんどになっていたかなという思いがあります。神の語りかけに耳を傾けることに時間を割いていたかどうかを考えると、そのことを意識することを忘れていたような気がします。これからは少し神の語りかけにじっと沈黙し、黙想することも大切だということを心に留めておきたいと思っています。
今、自分が置かれている状況は一人一人様々だと思いますけれど、その一人一人に語りかける神の御旨に心を向け、「神は私に何を語りかけて下さっているだろうか?」そのことも大切にしたいと思います。もちろん神のことばに心を向け耳を傾けるということの中では、聖書をとおしての語りかけもあるということを忘れてはなりません。また自分の仕事や奉仕をとおして、出会いをとおして、神が私たちに語りかけておられるということも心に留めておくべきではないでしょうか。
そのためにも、信仰による従順や謙遜が大切であるということは、いうまでもありません。このことを忘れたならば、先週の聖書のお話のように、神が大切なことを話したとしても、無関心な状況の中で耳を傾けることもできなくなります。
イエスは、受難について弟子たちに話されましたが、弟子たちはそのことに無関心であった。弟子たちの関心ごとは、自分たちの中で「誰がいちばん番偉いか」ということに心を向けていたので、イエスが受難について話してもそのことを受け入れることが出来ませんでした。まさに信仰心の従順や謙遜を忘れた弟子たちには、イエスのことばが届かなかったのだと思います。私たちの信仰生活、私たちの祈りを振り返って考えてみることが必要だと思います。
さて、先週の聖書の語りかけに続いて、今日私たちに語りかけられたみ言葉を皆さんはどのように受け取ったでしょうか。
弟子のヨハネがイエスにした報告から今日の福音は始まっています。ヨハネはイエスにこのように言いました。
「わたしたちの仲間でもないのに、先生の名前を使って悪霊を追い出している者がいたのでやめさせました」
ヨハネのこの報告の内容、言い方は、ちょっと気になるような内容ではないでしょうか。それは、イエスの心の内を理解することなく、弟子たちの競争心で”どちらが偉いか”と話していたにも関わらず、自分たちの味方なのか?自分たちに反対する敵なのか?と狭い心で自分の周りの人たちを見ているヨハネではないかと私は感じました。
イエスはそのことに対して話をしています。そこにイエスが真に弟子たちに、きっと私たちにも理解して欲しいことが語られているような気がします。
イエスは「小さな者をつまづかせることのないように」と言って、地獄について語ります。「神の国に入れるのか、それを失うか」ということを話されます。
自分をつまづかせるものが私たちの”手”や”足”や”目”であるならば、「それを切り捨てなさい、えぐり出しなさい」と言います。とても厳しい言葉になります。どうしてこれほど厳しい話をされたのか?そのことを私たちは考えなければなりません。そこにイエスの伝えたい真の意味があるかのように私は感じます。きっと、”何より大切なことをする”ということからこんな言葉が出てくるのだと思います。
「人間の最大の価値が神の国に入ることであり、それを失うことは最大の損失になる」
そういう意味で、あのような厳しい言葉が出てきていると感じます。
厳しい勧めであるかもしれません。私たちが大切だと思うもの、それがつまづきとなるなら思い切って切り捨てなければならない。自分に当てはめても「厳しいな」と考えてしまいますけれども、私たちの現実、そして自分の思いは、どこにあるのか?ということを指摘されているような気がします。
誰でもがこの世で生きてきて、大切なものへの執着というものを持っていると思います。それが現実だと思います。家族であったり、友達であったり、愛する人であったり、一人一人様々なことが大切だと思います。物に対する執着もたくさんあろうかと思います。お金に対しても切り捨てることができないのが現実でしょう。
でも私たち信仰を生きる者にとって、「神の国」や「永遠のいのち」がどこまで大切かということと比較しなければ、イエスの真意もまた、うわの空になってしまいそうな気がします。
今日、私たち一人一人に語りかける神のことばを受け入れ、理解し、「神の国」と「永遠のいのち」を心から願いながら、それ以外の大切なものに執着する私たちの心を解放してくださるように祈りたいと思います。』
2018年9月24日月曜日
年間第25主日
この日は、勝谷司教の主司式による主日ミサでした。
この日は、勝谷司教の主司式による主日ミサでした。
勝谷司教は10月にローマで開催されるシノドスに日本の代表司教として参加予定です。
この日のお説教では日本の公式回答書の内容についてお話されました。
この日の勝谷司教のお説教をご紹介します。
『来週半ばから、世界代表司教会議(シノドス)が開かれます。今回のシノドスのテーマは、「青年、信仰と召命の識別」です。このシノドスは10月3日から28日までおよそ1ヶ月かけて、世界中から集められた青年の現状についてのレポートを基づいて制作された討議要項、これが215の項目に分かれています。それを1ヶ月かけて最初から討議していくのです。それぞれの項目について各国の司教団は4分間、意見を述べる時間が与えられています。たった4分です。4分というとだらだらと話すのが私たちの傾向なのですが、今まで参加した司教様の話を聞くと、30秒前からカウントダウンが始まって、4分になると完全にマイクが切られるとのこと。
4分間話すとなると、ひとつのことについて中心的に話すことになります。10分の説教をまとめるのに難しいのに、4分で現状や一番言いたいことを話すことは困難です。私はこのシノドスに代表として派遣されることになっていたので、4分間の原稿を作るように司教団から仰せつかっていました。215項目はA4にして約60ページ以上のもので、まずは読めません。十分に読みこなしているわけではないのですが、すでに日本の青年の現状はナショナルレポートで報告してありますので、私が一番関心のあるキーポイントでまず原稿を準備したのです。
それは、この討議命題に掲げられていた、今後の青少年の司牧はもはや小教区で行うことは難しくなっている。すでに小教区では青少年を指導する現場ではなくなっている。しかし、ミッションスクールにおいては多くの青少年が話を聞く場を持っている。そこが新たな宣教や青少年を司牧する現場となりうるのではないかと書いてありました。しかし、そこに抱えている前提は、欧米諸国のキリスト教圏のミッションスクール、あるいは発展途上、今発展している東アジア、東南アジア、南米、アフリカ。こうしたミッション校の生徒、先生はほとんどが信者です。その現実のもとで書かれている。
日本では違うぞと言える点はこの辺だなと思い、日本のミッションスクールはその経営母体である修道会の高齢化によって、修道会が経営を維持すること自体が困難である。司祭、宗教家である先生はおろかチャプレンも派遣できない学校が非常に多くある。そんな中で生徒に信者はほとんどいない。教職員も信者がいない。最近は校長も含めた管理職にも信者でない人が出てきている。その中でどうしてミッション性を保つことが出来るのか。かたや、日本の小教区ではご存じのように深刻な少子高齢化の流れの中で、青少年は教会の中で見られなくなっています。しかし、豊かな人生経験、教職についていた人や知識をたくさん持った人がいる小教区。しかし青年がいない。かたやカトリックの関係者はまったくいないけれども、青年のたくさんいる高校。そういうところとコラボして何か出来るのではないか。その例として年頭書簡にも書きました函館の例。複数のミッションスクール、複数の学校。チャプレンはいませんが、函館の場合は白百合とラサール。そのふたつの学校のカトリック研究会の活動の場を湯の川教会に置き、2ヶ月に一回は彼らが企画したミサを行い、バザーやそのほかの教会の企画にも参加してもらう。フィリピンエキスポージャにも企画して参加してもらう。フィリピンエキスポージャの小教区からの応募はゼロです。ミッションスクールから信者でない生徒の参加で延々と行われています。 まとめながら、現状から新しい可能性として、小教区、教区そしてミッションスクールがコラボすることにより、小教区が活性化し、ミッションスクールもそのミッションの使命を果たすことになるのではないかと4分間にまとめ……。これだけの話で4分間が超えるのですが……。日本の現状は討議命題に書いてあることと違うだろうと説明するのが長くなり、否定的な現実をまず理解してもらわなくては……。最後の数行に今のようなことを書いていますから……。司教団からこれはだめだ。悲惨な日本の現実ばかり書かれていて、希望が見えない。もっと、違うことを書いてくれと言われて、別な命題で書くことにしました。
それが今日から京都で行われている「ネットワークミーティング」……青年の集まりです。これが日本の教会の特徴です。これについて発表することでまとめました。司教団から2回の校正がありましたが、シノドス原稿としてほぼ決定しました。どういうことを言うのか、皆さんに先にお聞かせしようと思います。
2001年からこのネットワークミーティングは始まりました。これは日本の青少年委員会が閉鎖されて、各教区に青少年の役割が任されることになったときに、小さな教区では独自に青少年活動を行うことができないので、複数の教区が連帯して青年連絡協議会というものが担当者によって結成されました。最初は6つの教区から始まったのですが、その担当者の会議の時に併せて青少年も呼んでミーティングを開こうではないか。そういうことから全国各地から青年が集まるようになりました。今は年2回、全国各地で行われていて、100名以上の青年が集まっています。年頭書簡にも書きましたが、昨年は支笏湖で150名の青年が全国から集まりました。札幌の青年はどこにいたのか分からなかったのですが、25名が実行委員として活躍し、その姿に私も驚いたのです。そのことからも言えるように、青年はたくさんいて活動もしています。自分たちがそれぞれ勝手なことしているかと言うと、実はそうではないのです。小教区にはいられないけれども彼らは、自分たちのミサを真剣に準備している。毎日、夜も準備して、赦しの秘跡の時間もつくる。非常に信仰や秘跡について真剣に求める姿を見ていると、彼らの中にあるカトリック信者であるという強いアイデンティティ。しかし彼らの中には、教会や教会の組織に帰属している意識は非常に薄いのです。年頭書簡にも書いたと思いますが、150人の中で小教区に所属して何らかの奉仕活動をしている人は一人もいませんでした。小教区に貴族しているという意識が非常に乏しい。でもそれが現実であってそれを認めなければ、小教区に戻れという指導をしたら、彼らは行き場を失ってしまう。私は書かなかったのですが、ほかの司教様からも手直しがあって、結論というのは、もはや小教区で青年を司牧するとは現実でない。もちろん小教区で青年が活動することは当然の願いですが。現実は日本、世界の先進諸国ではそうなっていない、この現実から出発しなければならない。しかし、強いカトリックの意識を持っていながら、真剣に自分の人生をどう歩むかと選択しようとしている彼らはいろいろな場をとおして、その導き手を求めているのです。しかし、残念ながら日本を含めた多くの国の教会は、青年たちのその選択をするにあたって、助けてもらいたいと相談を持ちかける対象となっていない。そういう現実が討議要項の命題に書かれています。そしてその原因は、青年が教会から離れていったのではなくて、今、青年が何を求め、どのような問題に直面しているのか、それに対して教会があまりにも無関心で、その中に関わろうとしない。つまり、これは教会の青年離れ。
現実を言うならば、このネットワークミーティングの青年たちはSNSと言われる、今のネットの社会での関係の中で強く結びついています。私たちは地域に基づいた小教会として物事を見て、その中でいろいろなことを考えようとしていますが、青年は地域を越えている。小教区や教区も越えて、全国的に青年同士と結びあっている。そして、集まりがあればそのときに旧交を暖め、そして刺激を受ける。何人かはそこにおいてワールドユースディ(来年パナマであります。)などに出かけて行く。自分たちの人生の指針を得ようとしています。今、教会が非常に討議要項で繰り返し繰り返しオウム返しになって述べるのは、この青年に同伴することが大切だ。教会が青年が来るのを待っていて、来ない来ないと嘆くのではなくて、自分から出かけて行って、彼らは教会とは違う言語の中で生きている。ネットの世界で生きている。そこには多くの危険性があります。消費主義や世俗主義の中で看過されていく青年たちもいます。その中にあって、むしろそこに出向いて彼らに同伴し、彼らとともに悩み、話しに耳を傾ける。そして、いっしょに人生を歩もうとする同伴者となる、しきりに言われています。
今日の福音書では仕える者になるということは、かつての教会が聖職者というものは教えに関しても絶対権威を持っており、いわば救いに関わる問題について、悪い意味では社会に対して命令し支配する関係にある。救いに関わる権限をすべて持っている。神の恵みは秘跡を通して、司祭を通して分配されると教えられていた時代、確かに権威は尊敬すべきものであり、絶対服従しなければならない権威があったわけです。第二バチカン公会議はそうではない。命令し支配するのではなくて仕える者として、先ほどの言い方をするならば同伴する者として……。司祭と信徒の召命の違いは質の違いではなくてその役務、役割の違いである。特別な役割の最たるものは共同体のために奉仕する者。そういったことで召されているのを忘れてはならない。それが強調されているのは青年との関わりであり、青年は権威主義は嫌いますから、彼らに同伴することが必要であるのと同じように、青年というものは今の教会を敏感に反映しているものである。炭鉱においてカナリアが死ぬと、有毒ガスが発生して真っ先に弱いカナリアが死んでいく。それを見てみんなが避難する。教会において青年はカナリアみたいものだと随分前から言われてきました。つまり、教会に青年がいないのはどこか病んでいる。そういったことを表している。私たちはそれに気づかずにずっといると、(一酸化炭素中毒で)気を失って命を失いかねない。
青年たちが私たちに対して訴えていることが何であるのか。今、教会は真剣にこのシノドスの機会をとおして耳を傾けようとしています。私たちの教会もこの現実を受け止めながら、それをとおして神が何を私たちに教えようとしているのか。しっかりと識別する耳に願いを込めていきたいと思います。
同時に、来月1ヶ月間のシノドス。私、たった一人で行きます。日本は信者が少ないので、信者の数で各国に割り振られますので。心ぼそい私のためにもお祈りをお願いしたいと思います。』
この日は、勝谷司教の主司式による主日ミサでした。
勝谷司教は10月にローマで開催されるシノドスに日本の代表司教として参加予定です。
この日のお説教では日本の公式回答書の内容についてお話されました。
この日の勝谷司教のお説教をご紹介します。
『来週半ばから、世界代表司教会議(シノドス)が開かれます。今回のシノドスのテーマは、「青年、信仰と召命の識別」です。このシノドスは10月3日から28日までおよそ1ヶ月かけて、世界中から集められた青年の現状についてのレポートを基づいて制作された討議要項、これが215の項目に分かれています。それを1ヶ月かけて最初から討議していくのです。それぞれの項目について各国の司教団は4分間、意見を述べる時間が与えられています。たった4分です。4分というとだらだらと話すのが私たちの傾向なのですが、今まで参加した司教様の話を聞くと、30秒前からカウントダウンが始まって、4分になると完全にマイクが切られるとのこと。
4分間話すとなると、ひとつのことについて中心的に話すことになります。10分の説教をまとめるのに難しいのに、4分で現状や一番言いたいことを話すことは困難です。私はこのシノドスに代表として派遣されることになっていたので、4分間の原稿を作るように司教団から仰せつかっていました。215項目はA4にして約60ページ以上のもので、まずは読めません。十分に読みこなしているわけではないのですが、すでに日本の青年の現状はナショナルレポートで報告してありますので、私が一番関心のあるキーポイントでまず原稿を準備したのです。
それは、この討議命題に掲げられていた、今後の青少年の司牧はもはや小教区で行うことは難しくなっている。すでに小教区では青少年を指導する現場ではなくなっている。しかし、ミッションスクールにおいては多くの青少年が話を聞く場を持っている。そこが新たな宣教や青少年を司牧する現場となりうるのではないかと書いてありました。しかし、そこに抱えている前提は、欧米諸国のキリスト教圏のミッションスクール、あるいは発展途上、今発展している東アジア、東南アジア、南米、アフリカ。こうしたミッション校の生徒、先生はほとんどが信者です。その現実のもとで書かれている。
日本では違うぞと言える点はこの辺だなと思い、日本のミッションスクールはその経営母体である修道会の高齢化によって、修道会が経営を維持すること自体が困難である。司祭、宗教家である先生はおろかチャプレンも派遣できない学校が非常に多くある。そんな中で生徒に信者はほとんどいない。教職員も信者がいない。最近は校長も含めた管理職にも信者でない人が出てきている。その中でどうしてミッション性を保つことが出来るのか。かたや、日本の小教区ではご存じのように深刻な少子高齢化の流れの中で、青少年は教会の中で見られなくなっています。しかし、豊かな人生経験、教職についていた人や知識をたくさん持った人がいる小教区。しかし青年がいない。かたやカトリックの関係者はまったくいないけれども、青年のたくさんいる高校。そういうところとコラボして何か出来るのではないか。その例として年頭書簡にも書きました函館の例。複数のミッションスクール、複数の学校。チャプレンはいませんが、函館の場合は白百合とラサール。そのふたつの学校のカトリック研究会の活動の場を湯の川教会に置き、2ヶ月に一回は彼らが企画したミサを行い、バザーやそのほかの教会の企画にも参加してもらう。フィリピンエキスポージャにも企画して参加してもらう。フィリピンエキスポージャの小教区からの応募はゼロです。ミッションスクールから信者でない生徒の参加で延々と行われています。 まとめながら、現状から新しい可能性として、小教区、教区そしてミッションスクールがコラボすることにより、小教区が活性化し、ミッションスクールもそのミッションの使命を果たすことになるのではないかと4分間にまとめ……。これだけの話で4分間が超えるのですが……。日本の現状は討議命題に書いてあることと違うだろうと説明するのが長くなり、否定的な現実をまず理解してもらわなくては……。最後の数行に今のようなことを書いていますから……。司教団からこれはだめだ。悲惨な日本の現実ばかり書かれていて、希望が見えない。もっと、違うことを書いてくれと言われて、別な命題で書くことにしました。
それが今日から京都で行われている「ネットワークミーティング」……青年の集まりです。これが日本の教会の特徴です。これについて発表することでまとめました。司教団から2回の校正がありましたが、シノドス原稿としてほぼ決定しました。どういうことを言うのか、皆さんに先にお聞かせしようと思います。
2001年からこのネットワークミーティングは始まりました。これは日本の青少年委員会が閉鎖されて、各教区に青少年の役割が任されることになったときに、小さな教区では独自に青少年活動を行うことができないので、複数の教区が連帯して青年連絡協議会というものが担当者によって結成されました。最初は6つの教区から始まったのですが、その担当者の会議の時に併せて青少年も呼んでミーティングを開こうではないか。そういうことから全国各地から青年が集まるようになりました。今は年2回、全国各地で行われていて、100名以上の青年が集まっています。年頭書簡にも書きましたが、昨年は支笏湖で150名の青年が全国から集まりました。札幌の青年はどこにいたのか分からなかったのですが、25名が実行委員として活躍し、その姿に私も驚いたのです。そのことからも言えるように、青年はたくさんいて活動もしています。自分たちがそれぞれ勝手なことしているかと言うと、実はそうではないのです。小教区にはいられないけれども彼らは、自分たちのミサを真剣に準備している。毎日、夜も準備して、赦しの秘跡の時間もつくる。非常に信仰や秘跡について真剣に求める姿を見ていると、彼らの中にあるカトリック信者であるという強いアイデンティティ。しかし彼らの中には、教会や教会の組織に帰属している意識は非常に薄いのです。年頭書簡にも書いたと思いますが、150人の中で小教区に所属して何らかの奉仕活動をしている人は一人もいませんでした。小教区に貴族しているという意識が非常に乏しい。でもそれが現実であってそれを認めなければ、小教区に戻れという指導をしたら、彼らは行き場を失ってしまう。私は書かなかったのですが、ほかの司教様からも手直しがあって、結論というのは、もはや小教区で青年を司牧するとは現実でない。もちろん小教区で青年が活動することは当然の願いですが。現実は日本、世界の先進諸国ではそうなっていない、この現実から出発しなければならない。しかし、強いカトリックの意識を持っていながら、真剣に自分の人生をどう歩むかと選択しようとしている彼らはいろいろな場をとおして、その導き手を求めているのです。しかし、残念ながら日本を含めた多くの国の教会は、青年たちのその選択をするにあたって、助けてもらいたいと相談を持ちかける対象となっていない。そういう現実が討議要項の命題に書かれています。そしてその原因は、青年が教会から離れていったのではなくて、今、青年が何を求め、どのような問題に直面しているのか、それに対して教会があまりにも無関心で、その中に関わろうとしない。つまり、これは教会の青年離れ。
現実を言うならば、このネットワークミーティングの青年たちはSNSと言われる、今のネットの社会での関係の中で強く結びついています。私たちは地域に基づいた小教会として物事を見て、その中でいろいろなことを考えようとしていますが、青年は地域を越えている。小教区や教区も越えて、全国的に青年同士と結びあっている。そして、集まりがあればそのときに旧交を暖め、そして刺激を受ける。何人かはそこにおいてワールドユースディ(来年パナマであります。)などに出かけて行く。自分たちの人生の指針を得ようとしています。今、教会が非常に討議要項で繰り返し繰り返しオウム返しになって述べるのは、この青年に同伴することが大切だ。教会が青年が来るのを待っていて、来ない来ないと嘆くのではなくて、自分から出かけて行って、彼らは教会とは違う言語の中で生きている。ネットの世界で生きている。そこには多くの危険性があります。消費主義や世俗主義の中で看過されていく青年たちもいます。その中にあって、むしろそこに出向いて彼らに同伴し、彼らとともに悩み、話しに耳を傾ける。そして、いっしょに人生を歩もうとする同伴者となる、しきりに言われています。
今日の福音書では仕える者になるということは、かつての教会が聖職者というものは教えに関しても絶対権威を持っており、いわば救いに関わる問題について、悪い意味では社会に対して命令し支配する関係にある。救いに関わる権限をすべて持っている。神の恵みは秘跡を通して、司祭を通して分配されると教えられていた時代、確かに権威は尊敬すべきものであり、絶対服従しなければならない権威があったわけです。第二バチカン公会議はそうではない。命令し支配するのではなくて仕える者として、先ほどの言い方をするならば同伴する者として……。司祭と信徒の召命の違いは質の違いではなくてその役務、役割の違いである。特別な役割の最たるものは共同体のために奉仕する者。そういったことで召されているのを忘れてはならない。それが強調されているのは青年との関わりであり、青年は権威主義は嫌いますから、彼らに同伴することが必要であるのと同じように、青年というものは今の教会を敏感に反映しているものである。炭鉱においてカナリアが死ぬと、有毒ガスが発生して真っ先に弱いカナリアが死んでいく。それを見てみんなが避難する。教会において青年はカナリアみたいものだと随分前から言われてきました。つまり、教会に青年がいないのはどこか病んでいる。そういったことを表している。私たちはそれに気づかずにずっといると、(一酸化炭素中毒で)気を失って命を失いかねない。
青年たちが私たちに対して訴えていることが何であるのか。今、教会は真剣にこのシノドスの機会をとおして耳を傾けようとしています。私たちの教会もこの現実を受け止めながら、それをとおして神が何を私たちに教えようとしているのか。しっかりと識別する耳に願いを込めていきたいと思います。
同時に、来月1ヶ月間のシノドス。私、たった一人で行きます。日本は信者が少ないので、信者の数で各国に割り振られますので。心ぼそい私のためにもお祈りをお願いしたいと思います。』
2018年9月17日月曜日
年間第24主日
「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」
この日朗読された「ヤコブの手紙」を深く心に留めておきましょう。
夏休みが終わり、簑島助祭がこの日神学校へと戻りました。
簑島助祭は、いよいよ半年後に司祭叙階式を迎えます。神の恵みが豊かに注がれ、司祭への道を歩まれますようお祈りいたします。
この日のミサの中で「敬老の日」を祈念して、教会を支えてくださっている先輩たちへ、後藤神父様から祝福がありました。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『先日は大きな地震に見舞われました。一週間が過ぎてもなお余震が続くなか、被災された方々の不安は如何ばかりかと案じます。一日も早く安心して暮らせる日が来ますようお祈りします。
今日の聖書の朗読は、第1朗読、第2朗読、そして福音、詩編では詩を唄いましたけれど、今日私たちに告げられたみ言葉を私たちはどのように受け止めているでしょうか?どんな言葉が心に響いているでしょうか?
福音書全体でもキリストのメシア性と神性を証明するために書かれたマルコの福音が、今日読まれています。福音書全体を通しても、しばしばキリストについて群衆に「この人はいったいどんな人なのか?」そのように問わせ、マルコの福音は書かれているようです。
神の教えが、その驚くべき奇跡について直接見聞きした人々は、今日のみ言葉でも「この人は誰なのか?」と考えさせます。そしてイエスは「わたしのことを何者だと言っているか?」と弟子たちにも問いかけています。そこには初代教会の信仰告白がペトロを代表するように「あなたはメシアです」と生き生きと描かれます。ペトロが告白したこの場所はフィリポ・カイサリアとみ言葉に書かれています。
このフィリポ・カイサリアという街は、ヘルモン山の麓、ヨルダン川の水源地の傍にある街であったといいます。そしてこの街は、ヘロデ王によって造られた街であるといわれます。このようにして考えると、この街はユダヤ人と異邦人のちょうど境目に当たる場所、そういう街のようです。今日の問いかけを黙想するときに、イエスを捨てるべきか、または危険を犯してまでもイエスを信じ、最後まで一緒にイエスについていくべきなのか、そういう問いかけを弟子たちにもしているような気がします。
イエスの求めているのは、一般民衆の答えとはずいぶん違った生き方、神の国がそこに描かれます。
「あなた方は、わたしのことを何者だというのか」
”あなた方”という強調した問いかけをイエスは弟子たちの前で問うています。それはきっと弟子達一人一人の心からの答えを確認しようとしているイエスではなかったのかと、そのように考えます。ペトロは弟子たちを代表して答え”メシア”という表現を使っているのですが、このメシアという言葉は、旧約聖書では度々、王や祭司や預言者に”油をそそがれる”という表現をもってメシア性をそこに表しています。ギリシャ語では”油そそがれた者”という意味を持つメシアという言葉です。ペトロは「あなたはキリストです。メシアです。」このように答えます。それは「油そそがれた者です」という意味でもあります。
イエスの時代、ユダヤの人々にはダビデの子孫から王が生まれる、メシアが生まれる、そのような期待がずっと継承されてきています。いつの日か、この苦しい困難な時代からダビデの子孫が王となって、私たちイスラエルの民を契約の民を救ってくださる、そのことを信じてイスラエルの民は自分たちの信仰を守り続けています。
しかし、そのようなイスラエルの民の期待は、イエスの期待とは少し違った形になっています。人々が期待するメシアは、ダビデの国を政治的に確立してくれるメシア、武力をもって地位を獲得し自分たちの世界を造ってくれる人、革命を起こして自分たちの世界を造ってくれる人、そういうイメージで当時の人々はメシアということを考えていたかのように描かれています。
しかし、イエスの使命は、彼らの期待とは少し違ったところにありました。イエスは神のことばを語る預言者です。そして罪を贖う祭司です。さらに新しい霊に満たされたイスラエルの神の国の王となる、そのことを使命として父なる神のもとから遣わされた方であるということ。ですから同じ”メシア”といっても、その思いや期待は随分と違っていたというように考えられます。
実際にイエスがもたらそうとする王国を本当に理解したのは、誰だったでしょうか?弟子たちはこの時、そのことを理解して”メシア”と答えたのでしょうか?
ペトロの答えを聞いたイエスは、すぐさま「誰にも言わないように」と弟子たちを戒めています。イエスのこうした戒めは、度々奇跡の後でも見られることです。この”メシア”の秘密の動機・理由は、いったい何でしょうか?
苦しみに耐え忍ぶ生活が続くイスラエルの民にとって、開放の期待はただならぬものでした。そういう中で、”メシア”の秘密について、聖書学者の一つの解釈がこのように説明しています。「ペトロのこの告白に対して、政治的な反対が起こることを避けるためではなかったか。」このような一つの解釈があります。
もちろん当時の社会、イスラエルの民の心情を考えたとき、「イエスがメシアである。自分たちの期待する王が今ようやく私たちの前に現れた」と感じる人々がイエスを前面に押し出して自分たちの国の革命を実現してくれる人だと期待するでしょう。そうするとローマに支配されているこの国は、混乱を起こしてしまうということは目に見えています。
イエスがイスラエルで捕らえられ裁判にかけられたとき、バラバという人が登場しますが、バラバはまさに革命のリーダーでもあったと言われています。ですからバラバにつながるような思いを持って、イエスを自分たちの全面に押し出して、”この国を変えてください”という騒動が起こったら大変なことになるという時代背景があった、ということを理解しておく必要があろうかと思います。
歪んだ人々の救いへの期待が、手に取るように分かるイエスでしたが、イエスもまた神の計画の時が満たされる前、弟子たちもまた誠の信仰へとひたすら歩んでいかなければならない厳しい日々が続いていきます。自分の救い、自分中心の信仰ではなく、神の愛に生かされた信仰に向かうため、私たちもまた今日のみ言葉、そしてペトロの信仰告白をよく噛みしめたいと思います。
今日の聖書の言葉をとおして、一つもう一度心に留めておきたい言葉を皆さんにお伝えしたいと思います。
今日は珍しく第2朗読は「パウロの手紙」ではなくて「ヤコブの手紙」が朗読されました。その中で、
「信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」このように語っています。行いによって信仰を見せるというこのみ言葉を心に深く留めておきたいと思います。私たちもこの言葉に、いろいろと考えさせられることではないでしょうか。私自身も言葉では沢山の祈りをするとしても、それが行いを伴っているだろうか、行動につながっているだろうかということを反省させられます。きっと、皆さんの中でそういう思いを抱いて味わうみ言葉ではないでしょうか。
今日は敬老の日を明日に控えて、祝福式を行いますが、長寿の恵みをいただいた皆さんには、今日の詩編のことばにもまた、とても味わい深いことばがありました。
「わたしは神を愛する。神はわたしの声を聞き、日々、祈り求めるわたしに心を留めてくださる。足をつまずかせないようにさせてくださる神が守ってくださっている。」
高齢になると健康に不安になってしまう私たちは、足元が及ばないことがよくありますが、今日の詩編のことば、そのこともまた私たちについて考えさせ、励ましてくださることばのようです。
神の祝福をいただき、年を重ねて、自分の足で歩ける範囲がどんどん狭くなってきたとしても、祈りの時間は多くある、そしてその祈りの世界をさらに広げることもできるようです。
私たち一人一人に手を伸べて祝福を送ってくださる神に感謝して、今日もまた心を一つにして祈りたいと思います。』
この日朗読された「ヤコブの手紙」を深く心に留めておきましょう。
夏休みが終わり、簑島助祭がこの日神学校へと戻りました。
簑島助祭は、いよいよ半年後に司祭叙階式を迎えます。神の恵みが豊かに注がれ、司祭への道を歩まれますようお祈りいたします。
この日のミサの中で「敬老の日」を祈念して、教会を支えてくださっている先輩たちへ、後藤神父様から祝福がありました。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『先日は大きな地震に見舞われました。一週間が過ぎてもなお余震が続くなか、被災された方々の不安は如何ばかりかと案じます。一日も早く安心して暮らせる日が来ますようお祈りします。
今日の聖書の朗読は、第1朗読、第2朗読、そして福音、詩編では詩を唄いましたけれど、今日私たちに告げられたみ言葉を私たちはどのように受け止めているでしょうか?どんな言葉が心に響いているでしょうか?
福音書全体でもキリストのメシア性と神性を証明するために書かれたマルコの福音が、今日読まれています。福音書全体を通しても、しばしばキリストについて群衆に「この人はいったいどんな人なのか?」そのように問わせ、マルコの福音は書かれているようです。
神の教えが、その驚くべき奇跡について直接見聞きした人々は、今日のみ言葉でも「この人は誰なのか?」と考えさせます。そしてイエスは「わたしのことを何者だと言っているか?」と弟子たちにも問いかけています。そこには初代教会の信仰告白がペトロを代表するように「あなたはメシアです」と生き生きと描かれます。ペトロが告白したこの場所はフィリポ・カイサリアとみ言葉に書かれています。
このフィリポ・カイサリアという街は、ヘルモン山の麓、ヨルダン川の水源地の傍にある街であったといいます。そしてこの街は、ヘロデ王によって造られた街であるといわれます。このようにして考えると、この街はユダヤ人と異邦人のちょうど境目に当たる場所、そういう街のようです。今日の問いかけを黙想するときに、イエスを捨てるべきか、または危険を犯してまでもイエスを信じ、最後まで一緒にイエスについていくべきなのか、そういう問いかけを弟子たちにもしているような気がします。
イエスの求めているのは、一般民衆の答えとはずいぶん違った生き方、神の国がそこに描かれます。
「あなた方は、わたしのことを何者だというのか」
”あなた方”という強調した問いかけをイエスは弟子たちの前で問うています。それはきっと弟子達一人一人の心からの答えを確認しようとしているイエスではなかったのかと、そのように考えます。ペトロは弟子たちを代表して答え”メシア”という表現を使っているのですが、このメシアという言葉は、旧約聖書では度々、王や祭司や預言者に”油をそそがれる”という表現をもってメシア性をそこに表しています。ギリシャ語では”油そそがれた者”という意味を持つメシアという言葉です。ペトロは「あなたはキリストです。メシアです。」このように答えます。それは「油そそがれた者です」という意味でもあります。
イエスの時代、ユダヤの人々にはダビデの子孫から王が生まれる、メシアが生まれる、そのような期待がずっと継承されてきています。いつの日か、この苦しい困難な時代からダビデの子孫が王となって、私たちイスラエルの民を契約の民を救ってくださる、そのことを信じてイスラエルの民は自分たちの信仰を守り続けています。
しかし、そのようなイスラエルの民の期待は、イエスの期待とは少し違った形になっています。人々が期待するメシアは、ダビデの国を政治的に確立してくれるメシア、武力をもって地位を獲得し自分たちの世界を造ってくれる人、革命を起こして自分たちの世界を造ってくれる人、そういうイメージで当時の人々はメシアということを考えていたかのように描かれています。
しかし、イエスの使命は、彼らの期待とは少し違ったところにありました。イエスは神のことばを語る預言者です。そして罪を贖う祭司です。さらに新しい霊に満たされたイスラエルの神の国の王となる、そのことを使命として父なる神のもとから遣わされた方であるということ。ですから同じ”メシア”といっても、その思いや期待は随分と違っていたというように考えられます。
実際にイエスがもたらそうとする王国を本当に理解したのは、誰だったでしょうか?弟子たちはこの時、そのことを理解して”メシア”と答えたのでしょうか?
ペトロの答えを聞いたイエスは、すぐさま「誰にも言わないように」と弟子たちを戒めています。イエスのこうした戒めは、度々奇跡の後でも見られることです。この”メシア”の秘密の動機・理由は、いったい何でしょうか?
苦しみに耐え忍ぶ生活が続くイスラエルの民にとって、開放の期待はただならぬものでした。そういう中で、”メシア”の秘密について、聖書学者の一つの解釈がこのように説明しています。「ペトロのこの告白に対して、政治的な反対が起こることを避けるためではなかったか。」このような一つの解釈があります。
もちろん当時の社会、イスラエルの民の心情を考えたとき、「イエスがメシアである。自分たちの期待する王が今ようやく私たちの前に現れた」と感じる人々がイエスを前面に押し出して自分たちの国の革命を実現してくれる人だと期待するでしょう。そうするとローマに支配されているこの国は、混乱を起こしてしまうということは目に見えています。
イエスがイスラエルで捕らえられ裁判にかけられたとき、バラバという人が登場しますが、バラバはまさに革命のリーダーでもあったと言われています。ですからバラバにつながるような思いを持って、イエスを自分たちの全面に押し出して、”この国を変えてください”という騒動が起こったら大変なことになるという時代背景があった、ということを理解しておく必要があろうかと思います。
歪んだ人々の救いへの期待が、手に取るように分かるイエスでしたが、イエスもまた神の計画の時が満たされる前、弟子たちもまた誠の信仰へとひたすら歩んでいかなければならない厳しい日々が続いていきます。自分の救い、自分中心の信仰ではなく、神の愛に生かされた信仰に向かうため、私たちもまた今日のみ言葉、そしてペトロの信仰告白をよく噛みしめたいと思います。
今日の聖書の言葉をとおして、一つもう一度心に留めておきたい言葉を皆さんにお伝えしたいと思います。
今日は珍しく第2朗読は「パウロの手紙」ではなくて「ヤコブの手紙」が朗読されました。その中で、
「信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」このように語っています。行いによって信仰を見せるというこのみ言葉を心に深く留めておきたいと思います。私たちもこの言葉に、いろいろと考えさせられることではないでしょうか。私自身も言葉では沢山の祈りをするとしても、それが行いを伴っているだろうか、行動につながっているだろうかということを反省させられます。きっと、皆さんの中でそういう思いを抱いて味わうみ言葉ではないでしょうか。
今日は敬老の日を明日に控えて、祝福式を行いますが、長寿の恵みをいただいた皆さんには、今日の詩編のことばにもまた、とても味わい深いことばがありました。
「わたしは神を愛する。神はわたしの声を聞き、日々、祈り求めるわたしに心を留めてくださる。足をつまずかせないようにさせてくださる神が守ってくださっている。」
高齢になると健康に不安になってしまう私たちは、足元が及ばないことがよくありますが、今日の詩編のことば、そのこともまた私たちについて考えさせ、励ましてくださることばのようです。
神の祝福をいただき、年を重ねて、自分の足で歩ける範囲がどんどん狭くなってきたとしても、祈りの時間は多くある、そしてその祈りの世界をさらに広げることもできるようです。
私たち一人一人に手を伸べて祝福を送ってくださる神に感謝して、今日もまた心を一つにして祈りたいと思います。』
2018年9月9日日曜日
年間第23主日
9月6日(木)未明に北海道の胆振東部を震源として発生した地震は、胆振、日高地方、札幌の一部地域に大きな被害をもたらしました。
また、地震のつい2日前には、猛烈に発達した台風21号により近畿地方を中心に強風や高潮による大きな被害がありました。
今回の災害で亡くなれた方々のご冥福をお祈りしますとともに、被災された方々が一日も早く安心して暮らせる日に戻れますようお祈り申し上げます。
幸いなことに、教会の位置する札幌市中心部は、大きな揺れによる直接の被害はありませんでしたが、北海道全域に及んだ停電は、物流の停止や交通網のマヒなど日常生活に大きな支障を及ぼしました。
このため、今日は年に一度のチャリティバザー「かてどらる祭」が行われる予定でしたが中止を余儀なくされました。
それでも、今日までに停電はほぼ回復し、この日のミサは予定されていたとおり、英語ミサグループの外国人信徒との合同ミサとして司式され、地震の発生から日が浅いにもかかわらず多くの信徒が教会に集いました。
ミサの後は、バザーのためにあらかじめ準備していた食材などを利用して、ささやかなミニバザーが行われ、お互いの無事を確認し合ったりと、束の間の談笑の輪が広がっていました。
この日のミサは、森田神父の主司式で、後藤神父、佐藤神父、簑島助祭の共同司式により行われました。
森田神父様のお説教をご紹介します。
『今日の福音は私たちにとって、風変わりに思います。何故なら、イエス様は触れるだけで癒やすことができる。あるいは、遠くから一言声をかけるだけで癒やすことができる。そのような箇所がいくつかあります。そのような中で、その人を連れ出して、その両耳に手を入れたり、唾をその舌につけたり。少し時間をかけ過ぎのような気がします。
少し観点を変えて見ると、その人は一瞬で癒やされるよりも、こんなに長い時間、イエス様と一緒にいれていいな。彼の受ける印象が少し違うかもしれません。イエス様は私たちの抱える病気とか問題を、様々な手法でされることが考えられます。百人隊長は僕を癒やしていただくときに、イエス様に、わざわざ来てもらう必要はありません。遠くから一言おっしゃってくださいと言われたのです。イエス様はそのようにされました。イエス様は百人隊長を皆の前で褒めました。(ルカ福音書7章2~10節)別な時には、会堂長のヤイロの娘の話があります。(ルカ福音書8章41~56節)自分の娘が死にそうなので、治してくださいと言われたイエス様は、行って治してあげようと、わざわざそうおっしゃいました。イエス様はヤイロを見ながら、もしかしたらこの家族は熱心な神様の弟子になると直感したのかもしれません。そして、12歳の娘を生き返らせたのです。そういう目的があったかもしれません。
そして、イエス様はこのことを、誰にも話さないようにとおっしゃいました。別な箇所では、こう言っています。ゲラサ地方の悪霊にとりつかれた男の話です。この男から悪霊は出て行きました。しかし、ゲラサ地方の住民はイエス様に、ここから出て行って欲しいと言います。その時、イエス様はその男に、ことごとく話して聞かせなさいとおっしゃいます。(ルカ福音書8章26~39節)いろいろ違いますね。黙っていなさい。話しなさい。
今日のイエス様は、私たちが不思議な業を他人に伝えるよりも、それを私たちの心に受け取って、深くこれを黙想したいのです。その意味を考える。神様はこんなに力強い方で、私たちを癒やしてくださる。こんなに近いお方でもある。それを考えて、私たちの今後の信仰やあり方をゆっくりと深めて欲しいと思われているのではないでしょうか。
肉体上の癒しは一時的なものですが、精神上、霊的な癒しは長く続いて、永遠の命に至ります。もし、これを深めなければ、イエス様を喜んで迎えた後に、十字架につけろと叫ぶ民衆に私たちはなり得るわけです。私たちはこれを深めて、私たちの中に定着させる必要があると思います。
このように今日の話は、ちょっと以外に見えますが、主はいろんな面からその人自身を良く知っておられ、何がその人にとってベストな方法であるか、何がその人にとって幸福に繋がる方法であるか、良くご存じである。そして主は、ご存じであるばかりでなく、それを望んでくださる。そういうことを思いながら、私たちも自分に対する主のなさり方を常に信頼して、祈りの中でそれを深めていきたいと思います。』
また、地震のつい2日前には、猛烈に発達した台風21号により近畿地方を中心に強風や高潮による大きな被害がありました。
今回の災害で亡くなれた方々のご冥福をお祈りしますとともに、被災された方々が一日も早く安心して暮らせる日に戻れますようお祈り申し上げます。
幸いなことに、教会の位置する札幌市中心部は、大きな揺れによる直接の被害はありませんでしたが、北海道全域に及んだ停電は、物流の停止や交通網のマヒなど日常生活に大きな支障を及ぼしました。
このため、今日は年に一度のチャリティバザー「かてどらる祭」が行われる予定でしたが中止を余儀なくされました。
それでも、今日までに停電はほぼ回復し、この日のミサは予定されていたとおり、英語ミサグループの外国人信徒との合同ミサとして司式され、地震の発生から日が浅いにもかかわらず多くの信徒が教会に集いました。
ミサの後は、バザーのためにあらかじめ準備していた食材などを利用して、ささやかなミニバザーが行われ、お互いの無事を確認し合ったりと、束の間の談笑の輪が広がっていました。
この日のミサは、森田神父の主司式で、後藤神父、佐藤神父、簑島助祭の共同司式により行われました。
森田神父様のお説教をご紹介します。
『今日の福音は私たちにとって、風変わりに思います。何故なら、イエス様は触れるだけで癒やすことができる。あるいは、遠くから一言声をかけるだけで癒やすことができる。そのような箇所がいくつかあります。そのような中で、その人を連れ出して、その両耳に手を入れたり、唾をその舌につけたり。少し時間をかけ過ぎのような気がします。
少し観点を変えて見ると、その人は一瞬で癒やされるよりも、こんなに長い時間、イエス様と一緒にいれていいな。彼の受ける印象が少し違うかもしれません。イエス様は私たちの抱える病気とか問題を、様々な手法でされることが考えられます。百人隊長は僕を癒やしていただくときに、イエス様に、わざわざ来てもらう必要はありません。遠くから一言おっしゃってくださいと言われたのです。イエス様はそのようにされました。イエス様は百人隊長を皆の前で褒めました。(ルカ福音書7章2~10節)別な時には、会堂長のヤイロの娘の話があります。(ルカ福音書8章41~56節)自分の娘が死にそうなので、治してくださいと言われたイエス様は、行って治してあげようと、わざわざそうおっしゃいました。イエス様はヤイロを見ながら、もしかしたらこの家族は熱心な神様の弟子になると直感したのかもしれません。そして、12歳の娘を生き返らせたのです。そういう目的があったかもしれません。
そして、イエス様はこのことを、誰にも話さないようにとおっしゃいました。別な箇所では、こう言っています。ゲラサ地方の悪霊にとりつかれた男の話です。この男から悪霊は出て行きました。しかし、ゲラサ地方の住民はイエス様に、ここから出て行って欲しいと言います。その時、イエス様はその男に、ことごとく話して聞かせなさいとおっしゃいます。(ルカ福音書8章26~39節)いろいろ違いますね。黙っていなさい。話しなさい。
今日のイエス様は、私たちが不思議な業を他人に伝えるよりも、それを私たちの心に受け取って、深くこれを黙想したいのです。その意味を考える。神様はこんなに力強い方で、私たちを癒やしてくださる。こんなに近いお方でもある。それを考えて、私たちの今後の信仰やあり方をゆっくりと深めて欲しいと思われているのではないでしょうか。
肉体上の癒しは一時的なものですが、精神上、霊的な癒しは長く続いて、永遠の命に至ります。もし、これを深めなければ、イエス様を喜んで迎えた後に、十字架につけろと叫ぶ民衆に私たちはなり得るわけです。私たちはこれを深めて、私たちの中に定着させる必要があると思います。
このように今日の話は、ちょっと以外に見えますが、主はいろんな面からその人自身を良く知っておられ、何がその人にとってベストな方法であるか、何がその人にとって幸福に繋がる方法であるか、良くご存じである。そして主は、ご存じであるばかりでなく、それを望んでくださる。そういうことを思いながら、私たちも自分に対する主のなさり方を常に信頼して、祈りの中でそれを深めていきたいと思います。』
2018年9月2日日曜日
年間第22主日 「札幌地区使徒職大会」
藤女子大学講堂で札幌地区使徒職大会が開催されました。
開会式の後、この1年の間に受洗された76名の方々のお名前が読み上げられご紹介されました。勝谷司教様から「新しく洗礼を受けた方々は、私たちの”宝”です。受洗者の方々がなぜキリスト者の道を選ばれたのかを知ることは、私たちの信仰も新たにしてくれます」というお言葉がありました。
続く講演会では、高円寺教会主任司祭 吉池好高神父様が「家庭:信仰伝達の場」と題して、教皇フランシスコが示された使徒的勧告「愛のよろこび」について、ご講演されました。
吉池神父様は、主日ミサでもお説教をされましたのでご紹介します。
『主イエスのみ言葉は、それが私たちの耳にはどのように厳しく聞こえようとも、そのみ言葉の前に頭を垂れて、真実それを受け入れることが出来るとき、それは私たちに福音の喜びをもたらすみ言葉となります。
今日の福音のファリサイ派の人々に向けて語られたみ言葉も、私たちにとっては、そのようなイエスの福音のみ言葉です。
これらのみ言葉を福音として受け止めるためには、ファリサイ派の人々に向けて語られたそれらのみ言葉を私たち自身の在り様を指摘し裁くみ言葉として、謙虚な心を持って受け止めなければなりません。
福音書の中のイエスのみ言葉は、どれも私たちの在り様を裁くみ言葉です。何故なら、み言葉を聞くとき、私たちはイエスが指摘しておられるとおりの自分自身の在り様を認めざるを得ないか、イエスが指し示す在り様には生きられていない自分を認めざるを得ないからです。
み言葉を聞くとは、イエスがそのみ言葉によって指摘している私たち自身の在り様を謙虚に認め、その先にイエスが示す新しい生き方に向かってイエスに導かれて歩み始めるということです。私たちがそのことを受け入れることが出来るとき、イエスのみ言葉は私たちを喜びで満ちた新たな生き方に向けて導く福音のみ言葉となるのです。
今日の福音に登場するファリサイ派の人々が、その生き方によって目指した世界は、私たちが知らず知らずのうちにその中にどっぷりと浸かって生きている、今も私たちを支配している価値基準に基づく世界です。そこでは昔の人の言い伝えに基づく社会的規範が、事の善悪、人の優劣を決定づける規範となります。
今の私たちを取り巻く状況はもっと深刻で、今の私たちの社会の問題はその様な価値基準が崩れ、それに基づく社会的規範は効力を持たなくなってしまっていることに原因があると私たちは心のどこかで思っています。
けれどもそのような私たちの内に、ファリサイ派の人々がその生き方を通して目指した昔の人の言い伝えに基づく社会規範の再構築として、掟厳守の社会の実現への郷愁が息づいていることに気付かざるを得ません。けれども、まさにそのことによって、私たちはファリサイ派の人々が理想としていた生き方に向かって再び歩み始めることになってしまいます。
昔の人の言い伝えによる価値基準と社会規範に基づく掟厳守の理想は、それが如何に妥当なものと思われようとも、イエスがもたらそうとしている福音に基づく生き方からは遠くかけ離れていることを今日の福音から私たちは学ばなければなりません。
昔の人の言い伝えを重んじて、社会規範としての掟厳守の理想を生きるファリサイ派の人々は、イエスの弟子たちの中に汚れたままの手で、手を洗うことなく食事の席についているのを見て、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのか。」と、イエスに質問します。このようなファリサイ派に対するイエスのみ言葉は、どこまでファリサイ派の人々の心に届いたのでしょうか?今日の福音を聞いている私たちの心にもどこまで届いているでしょうか?
イエスは、イザヤ預言者のことばを引いて次のように言われます。
「『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、 人間の言い伝えを固く守っている。」
ここにイエスの目に映っているファリサイ派の人々の姿があります。そして、そのファリサイ派の人々の姿は、私たちの在り様とも無縁なものではありません。
神の掟が私たちの心の深みにまで届かないとき、神の掟の深みが私たちの心を揺さぶることを止めるとき、昔の人の言い伝えは神の掟との繋がりを語る”人間”の戒めに過ぎないものになってしまいます。そしてそれは”人間”の戒めであることによって、私たちの心の深みにまで届くことなく、守るべき規律・規則となってしまいます。
守るべき規律・規則が必要ないということではありません。けれども”人間”の戒めに過ぎない規律・規則は、あまりにも表面的なものであることによって、心の深みに届くことなく、その前で心底私たちの頭を垂れさせる力を持ってはいません。それが力を持てば持つほど、表面的な規則や規律は、私たちの心に呼びかける神の声に対して、私たちの心の耳を閉ざさせてしまいます。
こうして、私たちの社会の規範となっている人間の戒めは、それを守るか守れないかの目安となって、神の掟に代わって人を裁く道具となってしまいます。
神の掟を完全に守っていこうとする人間の善意から出発したはずの言い伝えを拠り所とする”人間”の戒めは、私たちの中から神の掟がそこで働くはずの私たちの心の内面を閉ざしてしまうのです。
今日の福音のファリサイ派の人々に向けて語られたイエスのみ言葉は、そのようなことを指摘しています。そしてそのみ言葉は、今のこのような時代を生きる私たちの心にも届くはずのみ言葉です。
神の掟は、それが神の掟であることによって、この世に生きる私たち全てのものに、それに従うことを求める普遍性があります。その前に、全ての私たちの頭を垂れさせる力があります。
誰も神の掟に完全に従うことはできません。自分の内面に立ち返って真実自分を見つめるならば、誰でもそのことに気付くはずです。
今日の福音のイエスのみ言葉は、私たちにそこに立ち返るように求めています。
人間の言い伝えに過ぎない”人間”の戒めは、それを教える者と教えられる者との間に断絶を生みます。
何故なら、今日の福音に登場するファリサイ派の人々の姿勢が示しているように、それを教える者は教えた者達が、教えられたことを守っているかどうか、いつも神経を尖らせていなければならないからです。
そのようにして、人の言い伝えに過ぎない”人間”の戒めは、教える者と、教えられる者との立場を固定化し、その双方に深みのない掟に頭を垂れて、自らを省みる道を閉ざしてしまいます。
今日も私たちは、神の御前にそれぞれの在り様を振り返り、神の御前で等しく罪を告白し、赦しを求めあって、このミサを始めました。
主の祈りをともに唱え、神の赦しの恵みの中で、互いに赦し合うことが出来ることを祈り求め、神の愛と赦しの秘跡である聖体に近づくために、立場の違いを超えて、平和の挨拶を交わし合います。
ここにイエスが私たちを招いておられる世界があります。私たち全ての者が神の掟に従いきれない現実を知っておられ、そのような私たちを愛を持って裁き、その裁きを信じ受け入れる者達を愛の赦しの中に招き入れてくださるイエスの心に少しでも近づくことが出来るよう、このミサをともにお捧げして祈りましょう。』
開会式の後、この1年の間に受洗された76名の方々のお名前が読み上げられご紹介されました。勝谷司教様から「新しく洗礼を受けた方々は、私たちの”宝”です。受洗者の方々がなぜキリスト者の道を選ばれたのかを知ることは、私たちの信仰も新たにしてくれます」というお言葉がありました。
続く講演会では、高円寺教会主任司祭 吉池好高神父様が「家庭:信仰伝達の場」と題して、教皇フランシスコが示された使徒的勧告「愛のよろこび」について、ご講演されました。
吉池神父様は、主日ミサでもお説教をされましたのでご紹介します。
『主イエスのみ言葉は、それが私たちの耳にはどのように厳しく聞こえようとも、そのみ言葉の前に頭を垂れて、真実それを受け入れることが出来るとき、それは私たちに福音の喜びをもたらすみ言葉となります。
今日の福音のファリサイ派の人々に向けて語られたみ言葉も、私たちにとっては、そのようなイエスの福音のみ言葉です。
これらのみ言葉を福音として受け止めるためには、ファリサイ派の人々に向けて語られたそれらのみ言葉を私たち自身の在り様を指摘し裁くみ言葉として、謙虚な心を持って受け止めなければなりません。
福音書の中のイエスのみ言葉は、どれも私たちの在り様を裁くみ言葉です。何故なら、み言葉を聞くとき、私たちはイエスが指摘しておられるとおりの自分自身の在り様を認めざるを得ないか、イエスが指し示す在り様には生きられていない自分を認めざるを得ないからです。
み言葉を聞くとは、イエスがそのみ言葉によって指摘している私たち自身の在り様を謙虚に認め、その先にイエスが示す新しい生き方に向かってイエスに導かれて歩み始めるということです。私たちがそのことを受け入れることが出来るとき、イエスのみ言葉は私たちを喜びで満ちた新たな生き方に向けて導く福音のみ言葉となるのです。
今日の福音に登場するファリサイ派の人々が、その生き方によって目指した世界は、私たちが知らず知らずのうちにその中にどっぷりと浸かって生きている、今も私たちを支配している価値基準に基づく世界です。そこでは昔の人の言い伝えに基づく社会的規範が、事の善悪、人の優劣を決定づける規範となります。
今の私たちを取り巻く状況はもっと深刻で、今の私たちの社会の問題はその様な価値基準が崩れ、それに基づく社会的規範は効力を持たなくなってしまっていることに原因があると私たちは心のどこかで思っています。
けれどもそのような私たちの内に、ファリサイ派の人々がその生き方を通して目指した昔の人の言い伝えに基づく社会規範の再構築として、掟厳守の社会の実現への郷愁が息づいていることに気付かざるを得ません。けれども、まさにそのことによって、私たちはファリサイ派の人々が理想としていた生き方に向かって再び歩み始めることになってしまいます。
昔の人の言い伝えによる価値基準と社会規範に基づく掟厳守の理想は、それが如何に妥当なものと思われようとも、イエスがもたらそうとしている福音に基づく生き方からは遠くかけ離れていることを今日の福音から私たちは学ばなければなりません。
昔の人の言い伝えを重んじて、社会規範としての掟厳守の理想を生きるファリサイ派の人々は、イエスの弟子たちの中に汚れたままの手で、手を洗うことなく食事の席についているのを見て、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのか。」と、イエスに質問します。このようなファリサイ派に対するイエスのみ言葉は、どこまでファリサイ派の人々の心に届いたのでしょうか?今日の福音を聞いている私たちの心にもどこまで届いているでしょうか?
イエスは、イザヤ預言者のことばを引いて次のように言われます。
「『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、 人間の言い伝えを固く守っている。」
ここにイエスの目に映っているファリサイ派の人々の姿があります。そして、そのファリサイ派の人々の姿は、私たちの在り様とも無縁なものではありません。
神の掟が私たちの心の深みにまで届かないとき、神の掟の深みが私たちの心を揺さぶることを止めるとき、昔の人の言い伝えは神の掟との繋がりを語る”人間”の戒めに過ぎないものになってしまいます。そしてそれは”人間”の戒めであることによって、私たちの心の深みにまで届くことなく、守るべき規律・規則となってしまいます。
守るべき規律・規則が必要ないということではありません。けれども”人間”の戒めに過ぎない規律・規則は、あまりにも表面的なものであることによって、心の深みに届くことなく、その前で心底私たちの頭を垂れさせる力を持ってはいません。それが力を持てば持つほど、表面的な規則や規律は、私たちの心に呼びかける神の声に対して、私たちの心の耳を閉ざさせてしまいます。
こうして、私たちの社会の規範となっている人間の戒めは、それを守るか守れないかの目安となって、神の掟に代わって人を裁く道具となってしまいます。
神の掟を完全に守っていこうとする人間の善意から出発したはずの言い伝えを拠り所とする”人間”の戒めは、私たちの中から神の掟がそこで働くはずの私たちの心の内面を閉ざしてしまうのです。
今日の福音のファリサイ派の人々に向けて語られたイエスのみ言葉は、そのようなことを指摘しています。そしてそのみ言葉は、今のこのような時代を生きる私たちの心にも届くはずのみ言葉です。
神の掟は、それが神の掟であることによって、この世に生きる私たち全てのものに、それに従うことを求める普遍性があります。その前に、全ての私たちの頭を垂れさせる力があります。
誰も神の掟に完全に従うことはできません。自分の内面に立ち返って真実自分を見つめるならば、誰でもそのことに気付くはずです。
今日の福音のイエスのみ言葉は、私たちにそこに立ち返るように求めています。
人間の言い伝えに過ぎない”人間”の戒めは、それを教える者と教えられる者との間に断絶を生みます。
何故なら、今日の福音に登場するファリサイ派の人々の姿勢が示しているように、それを教える者は教えた者達が、教えられたことを守っているかどうか、いつも神経を尖らせていなければならないからです。
そのようにして、人の言い伝えに過ぎない”人間”の戒めは、教える者と、教えられる者との立場を固定化し、その双方に深みのない掟に頭を垂れて、自らを省みる道を閉ざしてしまいます。
今日も私たちは、神の御前にそれぞれの在り様を振り返り、神の御前で等しく罪を告白し、赦しを求めあって、このミサを始めました。
主の祈りをともに唱え、神の赦しの恵みの中で、互いに赦し合うことが出来ることを祈り求め、神の愛と赦しの秘跡である聖体に近づくために、立場の違いを超えて、平和の挨拶を交わし合います。
ここにイエスが私たちを招いておられる世界があります。私たち全ての者が神の掟に従いきれない現実を知っておられ、そのような私たちを愛を持って裁き、その裁きを信じ受け入れる者達を愛の赦しの中に招き入れてくださるイエスの心に少しでも近づくことが出来るよう、このミサをともにお捧げして祈りましょう。』
2018年8月26日日曜日
年間第21主日
イエスの話につまずき離れていった多くの弟子たち。
そんな中でペトロの力強い信仰告白がありました。
聖体拝領の前に、私たちはいつもペトロに倣い唱えています。
「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日、聞いた聖書の言葉は、皆さんの中でどのように響いていたでしょうか。
先週のお説教でも少し触れましたが、今年は本来B年なのでヨハネの福音ではなかったはずですけれど、8月の日曜日はずっとヨハネの福音が読まれます。パンの奇跡の話からご聖体に至るまでの話がテーマになっており、今日の福音まではヨハネの福音が読まれ私たちはみ言葉に耳を傾けています。来週からはまたマルコの福音に戻ります。
今日の福音は先週に続いて、カファルナウムの神殿でイエスから話を聞いた人々の反応が具体的に表されます。
福音の最初では、イエスの話を聞いて人々は言います。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」今日は私たちに語られた言葉を深く心に留めていきたいと思います。
今月はずっとパンの話が続いていました。そして、先週からはパンの話はイエスのからだと深く繋がっているという内容に変わってきていました。イエスが「わたしのパンとはわたしの肉のことであり」、さらに「血を飲む、肉を食べることによって永遠のいのちを得る」と話したことによって、それを聞いたユダヤ人やイエスの多くの弟子たちがつまづくことになりました。イエスの話を聞いてつぶやき、離れていった弟子たちと、イエスのことばを理解するためにあくまでイエスに従う弟子たちとの対比が描かれています。
イエスの弟子たちには、イエスのごく近くにいて従う12人の弟子のほかに、”大勢群衆がイエスの後を追った”とあるように、12人以外にもたくさんの弟子たちがいたようです。大勢の弟子たちの中には「つぶやくな!」と言われているのに、つぶやいたり、つまずいたりする弟子もいたということが今日明らかにされています。
イエスは、わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者も生きると言われ、ご自分が「天から降ってきたパンである」と応えました。しかし弟子たちの多くの人々は、そのイエスのことばがなかなか理解できないのです。イエスはさらに「人の子がもとにいた所に上るのを見るならば・・・」ということも言っていました。
天はイエスにとって”以前いたところ”と語られています。今の私たちは、イエスが御父と一体の方である、にも関わらず、御父から子としてこの世に遣わされて救い主となった方でもある、と理解しています。ですから天は、”以前いたところ”という表現も私たちは受け止めることが出来ると思います。私たちはキリスト教の歴史についても多少学んでおり、そして聖書も度々読み学び、イエスの受難と十字架の死や復活を知り理解し、それを信じる信仰を生きています。しかし今、聖書の中で語られている人々はどうでしょうか。当時の人々はまだそのこと理解できていません。なぜなら、イエスはまだ十字架に架かっていないときの話をしているからです。「これからわたしはエルサレムに行って裁かれて十字架に架かって死ぬ」と、そのような話はし始めているけれど、当時の人々はそのような話を聞いてもピンと来ないし、「死ぬなんて、そんなことは言わないでください」と、そのような形でしか受け止めることが出来ませんでした。いま私たちが聖書を聞いて、受け止めようとしていることと、当時の人々がイエスの話を聞いて理解できることには大きな隔たりがあったということです。
イエスのことばを理解するためには、今日のみ言葉では”肉は役に立たない”と述べられています。
聖書で言われる”肉”とは、神との関わりを欠き、人間に過ぎない自分の思いに固執する人を指しているようです。私たちも少し考えてみれば、自分の”肉”の欲望に支配され、左右されてしまうことは多いかもしれません。それはある意味で神との関わりを切り離す欲になってしまうような気がします。
一方、神の霊に導かれてイエスのことばを聞くならば、それを信じることができる。イエスのことばは私たちの心の中にすんなりと理解し収まってくれる。霊であり、いのちであるイエスのことばは、神からのいのちをこの地上にもたらし、肉である人間を生かすのだといわれます。
このようにして、イエスの説得にも関わらず、多くの弟子が霊に背を向けて離れていく者がいた。一方でイエスと共に歩もうとイエスにさらに向かう弟子たちがいたのです。
霊によって生かされる世界を示す、まさにその時、ある多くの弟子たちは離れ、イエスのもとより引き返してしまう弟子たちがたくさん出てしまう。キリスト者と呼ばれる人々が多くなるにつれて教会共同体にも迫害の嵐を前にする、そういう時期になっていました。困難とは外からの迫害ではなく、今日のみ言葉でいえば、イエスのことばが理解できないという内側からの迫害・困難であったようです。神に近づくための困難には、様々な困難があります。迫害もあります。霊の働きを受けることができなければ、自分の内側から神との距離をさらに持ってしまうこともあるということが語られます。
彼らは”肉”に留まり、自分の知識に閉じこもることでイエスのことばが聞き取れなくなってしまう。私たちは時々、そういうことを感じます。人と話をしている時にもそんなことを考えてしまうことがあります。いくら教会に来て、聖書や神様の話を聞かせてくださいと言われる方でも、心を閉じたままで、ただ頭にだけ話を聞かせてくださいと、心を開かない人が時々おられるような気がします。心を素直に開かなければ、知りたいこともなかなか受け入れることが出来ないのではないでしょうか。
イエスはそのような人々を見ながら言います。「あなた方も離れていきたいか」そして 12人の弟子たちに同じ質問をします。でも弟子たちは他の弟子たちと違っていました。ペトロが代表して答えます。それはイエスの信仰へと招く問いかけに対する答えです。私はこの問いに答えたペトロの言葉が感動的に感じています。
ペトロは、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」このようにペトロは信仰を告白しました。
私は弟子たちを代表してペトロが答えたと言いましたが、ペトロの答えの中に「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と、このように”わたしたち”という表現を取ったことが、弟子たちを代表したのだろうと推察しました。
このペトロの告白・決意の表明は、イエスが神に由来する特別な存在であることを表明しています。信じることによって、霊に生かされた世界へとイエスと共に歩き続けるペトロの新しい出発がありました。
このペトロの信仰告白は、毎週日曜日に皆さんも同じように宣言・信仰告白しています。気付かれているでしょうか。聖体拝領の前に司祭がイエスの御からだとなったご聖体を高く上げて「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」と司祭が唱えた後、皆さんが答えます「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」と。
まさに今日の福音でペトロが信仰告白したその言葉を、私たちもミサの中で毎回聖体拝領の前に信仰告白として使っています。
イエスを離れた弟子と、イエスを信じ従った弟子たちの違いを、どうように私たちは見つめることができるでしょうか。”肉”の目でイエスを見るとイエスは単にガリラヤで育ち、大工ヨセフの息子であり、十字架で死んだ一人の人物としか見えてきません。しかし、”霊”の目でイエスを見る者には、イエスが真に神の子であり、どこで生まれたのか、そして十字架の死に対しても「以前いたところに上る」とイエスを見ることができるのではないでしょうか。受難のイエス、私たちは磔刑のイエスをいつも主の祭壇で仰ぎ見る、そういう信仰生活をおくっています。
霊に生かされた世界へとイエスとともに歩き続けようと決心したペトロに私たちも倣い信仰告白をして、今日もご聖体をいただこうとしています。聖体をとおして、キリストに結ばれる私たちが、互いに支え合い、ともに信仰の道を歩み続けることができるよう祈りましょう。』
そんな中でペトロの力強い信仰告白がありました。
聖体拝領の前に、私たちはいつもペトロに倣い唱えています。
「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日、聞いた聖書の言葉は、皆さんの中でどのように響いていたでしょうか。
先週のお説教でも少し触れましたが、今年は本来B年なのでヨハネの福音ではなかったはずですけれど、8月の日曜日はずっとヨハネの福音が読まれます。パンの奇跡の話からご聖体に至るまでの話がテーマになっており、今日の福音まではヨハネの福音が読まれ私たちはみ言葉に耳を傾けています。来週からはまたマルコの福音に戻ります。
今日の福音は先週に続いて、カファルナウムの神殿でイエスから話を聞いた人々の反応が具体的に表されます。
福音の最初では、イエスの話を聞いて人々は言います。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」今日は私たちに語られた言葉を深く心に留めていきたいと思います。
今月はずっとパンの話が続いていました。そして、先週からはパンの話はイエスのからだと深く繋がっているという内容に変わってきていました。イエスが「わたしのパンとはわたしの肉のことであり」、さらに「血を飲む、肉を食べることによって永遠のいのちを得る」と話したことによって、それを聞いたユダヤ人やイエスの多くの弟子たちがつまづくことになりました。イエスの話を聞いてつぶやき、離れていった弟子たちと、イエスのことばを理解するためにあくまでイエスに従う弟子たちとの対比が描かれています。
イエスの弟子たちには、イエスのごく近くにいて従う12人の弟子のほかに、”大勢群衆がイエスの後を追った”とあるように、12人以外にもたくさんの弟子たちがいたようです。大勢の弟子たちの中には「つぶやくな!」と言われているのに、つぶやいたり、つまずいたりする弟子もいたということが今日明らかにされています。
イエスは、わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者も生きると言われ、ご自分が「天から降ってきたパンである」と応えました。しかし弟子たちの多くの人々は、そのイエスのことばがなかなか理解できないのです。イエスはさらに「人の子がもとにいた所に上るのを見るならば・・・」ということも言っていました。
天はイエスにとって”以前いたところ”と語られています。今の私たちは、イエスが御父と一体の方である、にも関わらず、御父から子としてこの世に遣わされて救い主となった方でもある、と理解しています。ですから天は、”以前いたところ”という表現も私たちは受け止めることが出来ると思います。私たちはキリスト教の歴史についても多少学んでおり、そして聖書も度々読み学び、イエスの受難と十字架の死や復活を知り理解し、それを信じる信仰を生きています。しかし今、聖書の中で語られている人々はどうでしょうか。当時の人々はまだそのこと理解できていません。なぜなら、イエスはまだ十字架に架かっていないときの話をしているからです。「これからわたしはエルサレムに行って裁かれて十字架に架かって死ぬ」と、そのような話はし始めているけれど、当時の人々はそのような話を聞いてもピンと来ないし、「死ぬなんて、そんなことは言わないでください」と、そのような形でしか受け止めることが出来ませんでした。いま私たちが聖書を聞いて、受け止めようとしていることと、当時の人々がイエスの話を聞いて理解できることには大きな隔たりがあったということです。
イエスのことばを理解するためには、今日のみ言葉では”肉は役に立たない”と述べられています。
聖書で言われる”肉”とは、神との関わりを欠き、人間に過ぎない自分の思いに固執する人を指しているようです。私たちも少し考えてみれば、自分の”肉”の欲望に支配され、左右されてしまうことは多いかもしれません。それはある意味で神との関わりを切り離す欲になってしまうような気がします。
一方、神の霊に導かれてイエスのことばを聞くならば、それを信じることができる。イエスのことばは私たちの心の中にすんなりと理解し収まってくれる。霊であり、いのちであるイエスのことばは、神からのいのちをこの地上にもたらし、肉である人間を生かすのだといわれます。
このようにして、イエスの説得にも関わらず、多くの弟子が霊に背を向けて離れていく者がいた。一方でイエスと共に歩もうとイエスにさらに向かう弟子たちがいたのです。
霊によって生かされる世界を示す、まさにその時、ある多くの弟子たちは離れ、イエスのもとより引き返してしまう弟子たちがたくさん出てしまう。キリスト者と呼ばれる人々が多くなるにつれて教会共同体にも迫害の嵐を前にする、そういう時期になっていました。困難とは外からの迫害ではなく、今日のみ言葉でいえば、イエスのことばが理解できないという内側からの迫害・困難であったようです。神に近づくための困難には、様々な困難があります。迫害もあります。霊の働きを受けることができなければ、自分の内側から神との距離をさらに持ってしまうこともあるということが語られます。
彼らは”肉”に留まり、自分の知識に閉じこもることでイエスのことばが聞き取れなくなってしまう。私たちは時々、そういうことを感じます。人と話をしている時にもそんなことを考えてしまうことがあります。いくら教会に来て、聖書や神様の話を聞かせてくださいと言われる方でも、心を閉じたままで、ただ頭にだけ話を聞かせてくださいと、心を開かない人が時々おられるような気がします。心を素直に開かなければ、知りたいこともなかなか受け入れることが出来ないのではないでしょうか。
イエスはそのような人々を見ながら言います。「あなた方も離れていきたいか」そして 12人の弟子たちに同じ質問をします。でも弟子たちは他の弟子たちと違っていました。ペトロが代表して答えます。それはイエスの信仰へと招く問いかけに対する答えです。私はこの問いに答えたペトロの言葉が感動的に感じています。
ペトロは、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」このようにペトロは信仰を告白しました。
私は弟子たちを代表してペトロが答えたと言いましたが、ペトロの答えの中に「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と、このように”わたしたち”という表現を取ったことが、弟子たちを代表したのだろうと推察しました。
このペトロの告白・決意の表明は、イエスが神に由来する特別な存在であることを表明しています。信じることによって、霊に生かされた世界へとイエスと共に歩き続けるペトロの新しい出発がありました。
このペトロの信仰告白は、毎週日曜日に皆さんも同じように宣言・信仰告白しています。気付かれているでしょうか。聖体拝領の前に司祭がイエスの御からだとなったご聖体を高く上げて「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」と司祭が唱えた後、皆さんが答えます「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう」と。
まさに今日の福音でペトロが信仰告白したその言葉を、私たちもミサの中で毎回聖体拝領の前に信仰告白として使っています。
イエスを離れた弟子と、イエスを信じ従った弟子たちの違いを、どうように私たちは見つめることができるでしょうか。”肉”の目でイエスを見るとイエスは単にガリラヤで育ち、大工ヨセフの息子であり、十字架で死んだ一人の人物としか見えてきません。しかし、”霊”の目でイエスを見る者には、イエスが真に神の子であり、どこで生まれたのか、そして十字架の死に対しても「以前いたところに上る」とイエスを見ることができるのではないでしょうか。受難のイエス、私たちは磔刑のイエスをいつも主の祭壇で仰ぎ見る、そういう信仰生活をおくっています。
霊に生かされた世界へとイエスとともに歩き続けようと決心したペトロに私たちも倣い信仰告白をして、今日もご聖体をいただこうとしています。聖体をとおして、キリストに結ばれる私たちが、互いに支え合い、ともに信仰の道を歩み続けることができるよう祈りましょう。』
2018年8月19日日曜日
年間第20主日「いのちのパン」
今日もまた”キリストのからだ”をいただく私たち。
イエスの教えと死の意味を深く心に留めましょう。
この日のミサは、後藤神父様と簑島助祭の共同司式でした。
神学生の千葉さんも侍者として奉仕されました。
ミサの後、カテドラルホールで「聖母被昇天」の祝賀会が行われました。皆で聖歌を唄ってマリア様をお祝いしました。
私はきっと2歳の子の心の中には私たちが気付けない心の傷があるのではないかなと考えてしまいます。一日も早く、そうした心が癒されるように祈りたいと思います。
県警や消防の人が約400名程動員され捜索していたにも関わらず、発見したのはボランティアで前日に県外の大分県から訪れた78歳の尾畠春夫さんという方でした。皆さんもテレビでその方の姿を見たことと思いますが、一刻も早く見つけてあげたいという思いで、一人で朝6時に山に向かったそうです。そして30分ほど経ってその子供発見した。400名近くの方々が、行方不明なった近くを丹念に捜索していたようですが、地元の人たちが発見できなかったにも関わらず、他の県からボランティアで来た”おじいちゃん”が山に入って30分ほどで発見したということに驚きを感じました。この方は、65歳で仕事を辞められてその後は世の中のために働きたいとボランティアに勤しむ生き方をされている人でした。昨日の道新の朝刊では、この人のことをもう一度取り上げて、こんな表現をしています。「おとこ気にあふれ、曲がったことは大嫌い、困った人を見れば助けないではいられない。映画やドラマに登場する一心太助のような人」とその心意気を称賛する記事が出ていました。皆同じ気持ちではないでしょうか。本当に感心するボランティア精神をテレビでも語られていました。
この一週間の中で、私はそのニュースを今も心に留めています。奇跡の生存と言えるのでしょうか。私たちは福音をとおしてパンの奇跡に驚いていますが、現代もきっと奇跡は起きているような気がします。
福音に入っていきます。パンを増やすイエスの奇跡から始まったみ言葉は、今日も続いています。「わたしは天から降って来た生きたパンである」という聖体についての話に変わっていきます。今日読まれた福音の初めは、先週読まれた6章51節の結論が再び繰り返されています。珍しいことかもしれません。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」というイエスのみ言葉。今日の福音ではそのイエスのお話がユダヤ人の人々を驚かせたとあります。「パンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」ということに疑問を投げかけたイエスのことばです。
もし、イエス・キリストが神から遣わされた方であること、そしてイエスのその生涯を知らない人が今日の聖書の箇所を読んだらどのように受け止めるでしょうか。やはりびっくりするような内容になっている気がします。信仰を持たない人にとって、イエス・キリストを知らない人にとって、人の子の肉を食べるとか、わたしの血を飲むものとか、こうゆう表現はきっと顔をしかめるのではないでしょうか。あまりにもグロテスクな内容に聞こえてきます。でも信仰を持つもの、イエス・キリストがどんな人であり、どんな生涯をおくったかということを知っている人にとっては、そこまでの大きな疑問を持たずにそのことを受け止められるのだと思います。初めてこういう言葉を聞くとどうしても驚かれる方が多いような気がします。数えきれないくらいの宗教が現代の私たちの世界でもありますけれど、自分の肉を食べさせるという宗教はキリスト教以外にあるのでしょうか。そんなことも考えさせられます。でも考えてみると、これこそ私たちの信仰するキリスト教の特徴ではないでしょうか。でも私たちもキリストの肉を食べるということを正しく正確に理解していかなければ、キリスト教の理解を十分にしているとは言えないような気がします。私たちももっと深くこの”キリストの肉を食べる””キリストのからだであるパンを食べる”ということを深めていかなければならないような気がします。
今日読まれた聖書のことば、福音の中には、”食べる”という言葉が何度も繰り返し出てきています。皆さんは気付かれたでしょうか。”食べる”という言葉が8回繰り返し出てきています。日本語では”食べる”ですけれど、聖書の原文では少し別な描写の言葉も使われているそうです。日本語では全て”食べる”という訳になって8回になっていますが、原文では違った言葉も”食べる”と訳されています。三度目に”食べる”という言葉が使われている箇所のニュアンスは、このような意味があるそうです。イエスが十字架上で殺されますけれど、私たちがそうしたイエスと一つになるのでなければ、命はない、という意味を持った”食べる”という言葉が使われているのだそうです。イエスはどんな人か、どんな使命を持ってどんな死に方をしたか、そういうことを含めた言葉になっているそうです。
このように見ていくと、この後に出てくる”血を飲む”という表現も深い意味を持って、私たちに語られているようです。”血を飲む”という表現はいけにえと関連します。血は命であり、命は神のもの、という考えから、血を流すこと、血を飲むことは厳しく禁じられてきました。しかし私たちは旧約聖書を読むと、血の話がたくさん出てくることに気付いています。「祭壇の上で、いけにえの血を流し神に捧げ・・・」このような表現は何度も旧約聖書の中に出てきます。特にレビ記の中では「人の命をつぐなうのは血である」という表現もとられているほどです。ですから罪のつぐないとして、動物を捧げ祭壇上で焼き尽くす”いけにえ”として血を流し、罪を清めていただく。そんな表現が旧約聖書の中で語られています。
「人の子の血を飲む」とは、私たちの罪の償いとして、十字架上で殺されるイエスの命と一つになるということを意味していると言えるようです。「血を飲む」そして「肉を食べる」という二つのこれらの言葉は、イエスの十字架上で私たちのために殺されるという神秘が前提として含まれるということでもあります。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、わたしの内にいつもおり、わたしもまたその人の内にいる」ここで使われる”食べる”という意味は、よく噛んで食べる、しっかりと受け止める、このような意味合いを持っているようです。それはイエスの十字架、贖いをよく理解し、受け止めなければならないということにもなってきます。
私たちは今日もまたイエスのパンをいただくわけですけれど、祭壇上で聖変化してパンとなられるイエス自身が私たちのミサと深く関係してきます。聖体の神秘と一つになっています。私たちがミサに与るという時に、この十字架で贖われたイエスと深くつながっていくということも、私たちはもっと理解していかなければならないような気がします。
イエスの教えと死の意味を深く心に留めましょう。
この日のミサは、後藤神父様と簑島助祭の共同司式でした。
神学生の千葉さんも侍者として奉仕されました。
ミサの後、カテドラルホールで「聖母被昇天」の祝賀会が行われました。皆で聖歌を唄ってマリア様をお祝いしました。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『聖母被昇天やお盆を迎えた一週間でした。
この一週間の間に悲惨な事件もありましたが、うれしいニュースもあり、喜びが心の中で続いています。誰もが心配していた山口県の行方不明になった2歳の男の子のことです。藤本理稀(よしき)ちゃんという男の子が無事に生きて帰って来られた。2歳になったばかりの子供が行方不明になって三日過ぎた。きっと誰もが最悪の状況を考えてしまった、そんな気がします。でもそれを口にするのははばかられました。奇跡の生存で発見されたとき、この子供のお母さんが私たちが想像していたその思いを言葉にしていました。「もしかすると亡くなっているのかもしれない」お母さんも追い詰められていたそんな状況の中で、奇跡の生還を果たしました。何よりも本当に2歳の子が三日間、山の中で真っ暗な世界で過ごしていたということを考えると、本当に私たちはどのようにして頑張って生きておられたのかなと、そんなことを考えてしまいました。私はきっと2歳の子の心の中には私たちが気付けない心の傷があるのではないかなと考えてしまいます。一日も早く、そうした心が癒されるように祈りたいと思います。
県警や消防の人が約400名程動員され捜索していたにも関わらず、発見したのはボランティアで前日に県外の大分県から訪れた78歳の尾畠春夫さんという方でした。皆さんもテレビでその方の姿を見たことと思いますが、一刻も早く見つけてあげたいという思いで、一人で朝6時に山に向かったそうです。そして30分ほど経ってその子供発見した。400名近くの方々が、行方不明なった近くを丹念に捜索していたようですが、地元の人たちが発見できなかったにも関わらず、他の県からボランティアで来た”おじいちゃん”が山に入って30分ほどで発見したということに驚きを感じました。この方は、65歳で仕事を辞められてその後は世の中のために働きたいとボランティアに勤しむ生き方をされている人でした。昨日の道新の朝刊では、この人のことをもう一度取り上げて、こんな表現をしています。「おとこ気にあふれ、曲がったことは大嫌い、困った人を見れば助けないではいられない。映画やドラマに登場する一心太助のような人」とその心意気を称賛する記事が出ていました。皆同じ気持ちではないでしょうか。本当に感心するボランティア精神をテレビでも語られていました。
この一週間の中で、私はそのニュースを今も心に留めています。奇跡の生存と言えるのでしょうか。私たちは福音をとおしてパンの奇跡に驚いていますが、現代もきっと奇跡は起きているような気がします。
福音に入っていきます。パンを増やすイエスの奇跡から始まったみ言葉は、今日も続いています。「わたしは天から降って来た生きたパンである」という聖体についての話に変わっていきます。今日読まれた福音の初めは、先週読まれた6章51節の結論が再び繰り返されています。珍しいことかもしれません。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」というイエスのみ言葉。今日の福音ではそのイエスのお話がユダヤ人の人々を驚かせたとあります。「パンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」ということに疑問を投げかけたイエスのことばです。
もし、イエス・キリストが神から遣わされた方であること、そしてイエスのその生涯を知らない人が今日の聖書の箇所を読んだらどのように受け止めるでしょうか。やはりびっくりするような内容になっている気がします。信仰を持たない人にとって、イエス・キリストを知らない人にとって、人の子の肉を食べるとか、わたしの血を飲むものとか、こうゆう表現はきっと顔をしかめるのではないでしょうか。あまりにもグロテスクな内容に聞こえてきます。でも信仰を持つもの、イエス・キリストがどんな人であり、どんな生涯をおくったかということを知っている人にとっては、そこまでの大きな疑問を持たずにそのことを受け止められるのだと思います。初めてこういう言葉を聞くとどうしても驚かれる方が多いような気がします。数えきれないくらいの宗教が現代の私たちの世界でもありますけれど、自分の肉を食べさせるという宗教はキリスト教以外にあるのでしょうか。そんなことも考えさせられます。でも考えてみると、これこそ私たちの信仰するキリスト教の特徴ではないでしょうか。でも私たちもキリストの肉を食べるということを正しく正確に理解していかなければ、キリスト教の理解を十分にしているとは言えないような気がします。私たちももっと深くこの”キリストの肉を食べる””キリストのからだであるパンを食べる”ということを深めていかなければならないような気がします。
今日読まれた聖書のことば、福音の中には、”食べる”という言葉が何度も繰り返し出てきています。皆さんは気付かれたでしょうか。”食べる”という言葉が8回繰り返し出てきています。日本語では”食べる”ですけれど、聖書の原文では少し別な描写の言葉も使われているそうです。日本語では全て”食べる”という訳になって8回になっていますが、原文では違った言葉も”食べる”と訳されています。三度目に”食べる”という言葉が使われている箇所のニュアンスは、このような意味があるそうです。イエスが十字架上で殺されますけれど、私たちがそうしたイエスと一つになるのでなければ、命はない、という意味を持った”食べる”という言葉が使われているのだそうです。イエスはどんな人か、どんな使命を持ってどんな死に方をしたか、そういうことを含めた言葉になっているそうです。
このように見ていくと、この後に出てくる”血を飲む”という表現も深い意味を持って、私たちに語られているようです。”血を飲む”という表現はいけにえと関連します。血は命であり、命は神のもの、という考えから、血を流すこと、血を飲むことは厳しく禁じられてきました。しかし私たちは旧約聖書を読むと、血の話がたくさん出てくることに気付いています。「祭壇の上で、いけにえの血を流し神に捧げ・・・」このような表現は何度も旧約聖書の中に出てきます。特にレビ記の中では「人の命をつぐなうのは血である」という表現もとられているほどです。ですから罪のつぐないとして、動物を捧げ祭壇上で焼き尽くす”いけにえ”として血を流し、罪を清めていただく。そんな表現が旧約聖書の中で語られています。
「人の子の血を飲む」とは、私たちの罪の償いとして、十字架上で殺されるイエスの命と一つになるということを意味していると言えるようです。「血を飲む」そして「肉を食べる」という二つのこれらの言葉は、イエスの十字架上で私たちのために殺されるという神秘が前提として含まれるということでもあります。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、わたしの内にいつもおり、わたしもまたその人の内にいる」ここで使われる”食べる”という意味は、よく噛んで食べる、しっかりと受け止める、このような意味合いを持っているようです。それはイエスの十字架、贖いをよく理解し、受け止めなければならないということにもなってきます。
私たちは今日もまたイエスのパンをいただくわけですけれど、祭壇上で聖変化してパンとなられるイエス自身が私たちのミサと深く関係してきます。聖体の神秘と一つになっています。私たちがミサに与るという時に、この十字架で贖われたイエスと深くつながっていくということも、私たちはもっと理解していかなければならないような気がします。
今日も聖体によって、信じる人々の上にいやしを与えてくださる聖体が私たちのもとに届けられます。この今を感謝して聖体につながれ一つとなることができるように今日もまた心を一つにして祭壇の前に一致したいと思います。』
2018年8月16日木曜日
8月12日(日)年間第19主日
1981年に訪日された教皇ヨハネ・パウロ二世は
「平和は単なる願望ではなくて具体的な行動でなければならない」
というメッセージを残されています。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『8月も中旬に入ります。先週、8月の6日と9日は広島と長崎の原爆投下、被爆の記念日でした。終戦から73年という月日が流れています。そして近づく15日は聖母被昇天、教会の祝日になります。この8月15日は日本では終戦記念日にもあたります。その終戦記念日を間近にして今年もテレビでは戦争の悲惨さを伝えるドキュメント番組が放映されていました。少し戦争をテーマにし今日はお話をしたいと思います。
73年という歳月が流れていますが、73年という月日が流れても戦争にかり出された友を失う。そして終戦を迎え日本に還ってきて、今は高齢者として元気に過ごしている方がたくさんおられます。長生きできた幸せよりも、自分だけが助かったという心の葛藤を抱えるその声に、今なお戦争の悲しみ苦しみに心を痛めておられる方がたくさんおられます。友や仲間の死を想い出すとともに、生きて還ってきた人たちは申し訳ない気持ちで苛ませられて、そんなお話を語る人がいます。命令が絶対であった。従うしかなかった。あの戦争は何だったのだろうか。今、元気に幸せに生きている高齢者の中で戦争を体験した人は、友の死を胸に手を合わせているんだと語っています。
8月15日、日本ではお盆という習慣でもありますが、皆さんはどんな想いが巡ってくるでしょうか。お盆というと私も小さい時分に、母の弟が戦争で亡くなっています。ですからお盆になるといつも古ぼけた白い小さな写真が飾られて、供え物がそこにありました。私は小さい時分からその人がどんな人なのかあまり理解できないで見ていましたが、大きくなって母の弟であるということを聞かされています。もちろん私は会ったことのない叔父さんにあたりますが、二十歳を少し過ぎただけで戦争で亡くなったということで、母は毎年お盆になるとその写真を飾って供え物をあげていました。皆さんの身内の中で、親類の中で戦争で亡くなった方がおられると思います。
NHKのBSのスペシャル番組として、「父を捜して~日系オランダ人 終わらない戦争~」というタイトルで放映がありました。夜中の放送でした。私は番組の最初から気づきませんで、途中からでしたがその番組に食い入るように観ていました。インドネシアのお話でした。インドネシアでポルトガルの支配下にあったインドネシアの人たちのお話し。そして支配を続けていたポルトガル人のお話し。そこに日本の兵隊はインドネシアに入って戦争をし、インドネシアをポルトガルの支配から解放したというお話しでした。インドネシアの現地の人たちは、長いことポルトガルの支配下で苦しみを受けていましたので、日本兵が加わってポルトガルと戦って日本が勝つて自分たちが解放されたと、いっとき日本に対する感謝の念がインドネシアにはあったそうです。でも、勝ってそれほど長い時間かからないうちに日本は戦争で負け敗戦国になります。 また、インドネシアの人たちはポルトガルの支配になり恐れました。
そういうテレビのドキュメンタリーから入って放送されていましたが、その戦地で日本兵との間に生まれ、(今は戦後73年経っていますが)70歳を過ぎた人のお話がずっとドキュメントで放送されていました。現地で日本兵との間に生まれた子供のお話です。敗戦になり日本が負け兵隊が日本に送還されていく。そんな引き揚げた父親を捜す人々が今もいるという、そんな話で番組は進んでいきました。現地で日本人のお父さんの子供として生まれた二人の娘さんがそこにおられます。どちらも70歳を超える年代に入っています。上のお姉さんは敵国日本に良くない感情を抱いています。日本兵はその女性と結ばれて子供を二人産んでいるわけですが、その女性のお母さんは日本兵の手榴弾が家の中に投げ込まれてご主人を失っています。ですから産まれた二人の娘さんにとってはお婆ちゃんにあたるのですが、お婆ちゃんのご主人は日本兵の手榴弾によって殺されている。その後、二人の娘さんのお母さんは再婚して、また子供をもうけることになります。ですからひとつの家族の中で日本人の子供ともう一組の違った血をいただいた子供が生活することになります。お婆ちゃんにとっては、自分の主人を殺した敵国日本の血をひくお孫さんの面倒をみることになりました。その二人の娘さんのうち特にお姉さんの方はお婆ちゃんから常にいじめられた。小さい時からお婆ちゃんに抱かれたことは一度もありません。そういう状況でした。ですから上の娘さんはお父さんの顔はもちろん知りませんが、日本に還ったと聞かされ、お父さんを敵としてサタンにような形として育ってきています。下の娘さんは日本が敗戦となってお父さんが日本に還ってから誕生していますので、そういう事情も見えてきません。お婆ちゃんは上の子よりも下の子の方を可愛がったと思います。ですから姉妹同士でなかなか心をうちとけて話し合える状況ではなかったと言います。でも、60、70歳を超えるようになると二人のうちの一人は、自分がどのように生まれたのか知りたくてしようがない。自分の父はどういう人だったのか。お母さんとどのよういな関係をもって自分たちが産まれたのか。そういうことがとても気になって日本の名前を調べ、日本と連絡のとれる仲介者をとおして家族と出会ったということです。
そういうお話しが続いて、日本の家族と出会っています。それも番組で放送されていましたが、日本にはお父さんを知る親類はただ一人、90歳を超えるお父さんとは叔母にあたる人が一人だけ残っています。その二人の娘さんは、その人にお父さんのことを話します。お父さんは日本に還ってから新しい家族を持ちましたので、日本の弟も妹もいるとのことでそうした家族とも出会っています。日本にいる叔母さんという90代の人から、お父さんの性格、生き方を伺ったり、また、日本にいる弟にあたる人からお父さんについての話を聞いたりします。特に憎しみだけを持って育ったお姉さんの方は、弟にあたる人から、実はお父さんは日本に還ってから家庭を持っていますが、何度かインドネシアを訪ねています。自分たちには一度も詳しいことを話さない父でしたが、何度か訪ねているのはあなたがたを捜すために訪ねていたのだろうと、そんな話を聞かせています。憎しみだけをお父さんにイメージしていたそのお姉さんは、叔母さんなどの話を聞きながら、お父さんはサタンのような人ではなかったことを少しずつ感じます。そして、お父さんの心のうちを感じながら、少しずつ心のうちを溶かされていきます。憎しみが少しずつ癒されていきます。自分はまったく知らないでいた。お婆ちゃんからの憎しみの言葉だけを聞いて、お父さんを憎み続けた。サタンのように思い続けていた。でも、そうでもなかった。すっかり癒されたわけではありませんが、お父さんが何度も自分たちを捜してインドネシアを訪れていたことを知って、少しずつ心が解きほぐされていくようなお話しになっています。そして二人の姉妹は少しずつ自分たちの絆も打ち解けあって、しっかりと話し合う様子がテレビで放映されています。
こんな話が今もあるということ。今も父親を捜して日本を訪れる人々がいるということ。わたしたちはどんどん戦争のそうした悲惨さを忘れてしまっていますが、こうした終戦記念日が近づく放送番組を観ながら、今なお戦争は続いている、平和は遠いものであることを実感させられています。日本に平和が戻った。日本の国は戦後、平和になったと良く言われますが、パンだけでは満たされない心の平和を求める人がまだまだたくさんいるということを思いしらされています。
平和は単なる願望ではなくて具体的な行動でなければならないと、日本を訪れた教皇ヨハネ・パウロ二世はメッセージを出しています。平和は単なる願いであってはならない。具体的な行動にならなければならない。平和は実現しない。そんなお話しをされました。その教皇様のメッセージが今私たちが取り組んでいる「平和旬間」というものになっています。私たちは平和旬間を過ごしている中で、切実な平和の思い、祈りがどれだけできているかというと、私たちはまだまだ甘い生き方をしているのではないかと考えてしまいます。
今日のみ言葉の中では、イエスとユダヤ人の論争が続いています。でも、旧約のマンナよりもはるかに勝るパンが示されています。イエス自らがパンとなり、裂かれて命のパンとなってくださる。私たちキリスト教の信仰の中心は、十字架につけられたそのキリストを信じることだと言われます。そして、今日のみ言葉の中で「つぶやき合うのはやめなさい。…信じる者は永遠の命を得ている。」と話しています。今日もまた、私たちはミサの中でその永遠の命のパンをいただこうとしています。キリストが、彼を信じその御教えを実践する人に永遠の命を与えるためにこの世に来られたと話しておられます。パンをいただくだけではなく、教えを実践する行動に移すということが付け加えられていることを忘れてはならないと思います。
ミサをとおして生けるパンをいただけることに感謝しながら、今日もまた永遠の命のパンを私たちはいただきます。今日、ミサの中で、ミサをとおして私たちの平和とはどんな平和なのか、私たちはどんな平和を願っているのか、どんな平和を実現させようとしているのか、そのことも心にとめながら考えましょう。そして、具体的に祈りを捧げたいと思います。平和のために祈るとともに、今日もまた感謝のうちにご聖体に近づきたいと思います。』
「平和は単なる願望ではなくて具体的な行動でなければならない」
というメッセージを残されています。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『8月も中旬に入ります。先週、8月の6日と9日は広島と長崎の原爆投下、被爆の記念日でした。終戦から73年という月日が流れています。そして近づく15日は聖母被昇天、教会の祝日になります。この8月15日は日本では終戦記念日にもあたります。その終戦記念日を間近にして今年もテレビでは戦争の悲惨さを伝えるドキュメント番組が放映されていました。少し戦争をテーマにし今日はお話をしたいと思います。
73年という歳月が流れていますが、73年という月日が流れても戦争にかり出された友を失う。そして終戦を迎え日本に還ってきて、今は高齢者として元気に過ごしている方がたくさんおられます。長生きできた幸せよりも、自分だけが助かったという心の葛藤を抱えるその声に、今なお戦争の悲しみ苦しみに心を痛めておられる方がたくさんおられます。友や仲間の死を想い出すとともに、生きて還ってきた人たちは申し訳ない気持ちで苛ませられて、そんなお話を語る人がいます。命令が絶対であった。従うしかなかった。あの戦争は何だったのだろうか。今、元気に幸せに生きている高齢者の中で戦争を体験した人は、友の死を胸に手を合わせているんだと語っています。
8月15日、日本ではお盆という習慣でもありますが、皆さんはどんな想いが巡ってくるでしょうか。お盆というと私も小さい時分に、母の弟が戦争で亡くなっています。ですからお盆になるといつも古ぼけた白い小さな写真が飾られて、供え物がそこにありました。私は小さい時分からその人がどんな人なのかあまり理解できないで見ていましたが、大きくなって母の弟であるということを聞かされています。もちろん私は会ったことのない叔父さんにあたりますが、二十歳を少し過ぎただけで戦争で亡くなったということで、母は毎年お盆になるとその写真を飾って供え物をあげていました。皆さんの身内の中で、親類の中で戦争で亡くなった方がおられると思います。
NHKのBSのスペシャル番組として、「父を捜して~日系オランダ人 終わらない戦争~」というタイトルで放映がありました。夜中の放送でした。私は番組の最初から気づきませんで、途中からでしたがその番組に食い入るように観ていました。インドネシアのお話でした。インドネシアでポルトガルの支配下にあったインドネシアの人たちのお話し。そして支配を続けていたポルトガル人のお話し。そこに日本の兵隊はインドネシアに入って戦争をし、インドネシアをポルトガルの支配から解放したというお話しでした。インドネシアの現地の人たちは、長いことポルトガルの支配下で苦しみを受けていましたので、日本兵が加わってポルトガルと戦って日本が勝つて自分たちが解放されたと、いっとき日本に対する感謝の念がインドネシアにはあったそうです。でも、勝ってそれほど長い時間かからないうちに日本は戦争で負け敗戦国になります。 また、インドネシアの人たちはポルトガルの支配になり恐れました。
そういうテレビのドキュメンタリーから入って放送されていましたが、その戦地で日本兵との間に生まれ、(今は戦後73年経っていますが)70歳を過ぎた人のお話がずっとドキュメントで放送されていました。現地で日本兵との間に生まれた子供のお話です。敗戦になり日本が負け兵隊が日本に送還されていく。そんな引き揚げた父親を捜す人々が今もいるという、そんな話で番組は進んでいきました。現地で日本人のお父さんの子供として生まれた二人の娘さんがそこにおられます。どちらも70歳を超える年代に入っています。上のお姉さんは敵国日本に良くない感情を抱いています。日本兵はその女性と結ばれて子供を二人産んでいるわけですが、その女性のお母さんは日本兵の手榴弾が家の中に投げ込まれてご主人を失っています。ですから産まれた二人の娘さんにとってはお婆ちゃんにあたるのですが、お婆ちゃんのご主人は日本兵の手榴弾によって殺されている。その後、二人の娘さんのお母さんは再婚して、また子供をもうけることになります。ですからひとつの家族の中で日本人の子供ともう一組の違った血をいただいた子供が生活することになります。お婆ちゃんにとっては、自分の主人を殺した敵国日本の血をひくお孫さんの面倒をみることになりました。その二人の娘さんのうち特にお姉さんの方はお婆ちゃんから常にいじめられた。小さい時からお婆ちゃんに抱かれたことは一度もありません。そういう状況でした。ですから上の娘さんはお父さんの顔はもちろん知りませんが、日本に還ったと聞かされ、お父さんを敵としてサタンにような形として育ってきています。下の娘さんは日本が敗戦となってお父さんが日本に還ってから誕生していますので、そういう事情も見えてきません。お婆ちゃんは上の子よりも下の子の方を可愛がったと思います。ですから姉妹同士でなかなか心をうちとけて話し合える状況ではなかったと言います。でも、60、70歳を超えるようになると二人のうちの一人は、自分がどのように生まれたのか知りたくてしようがない。自分の父はどういう人だったのか。お母さんとどのよういな関係をもって自分たちが産まれたのか。そういうことがとても気になって日本の名前を調べ、日本と連絡のとれる仲介者をとおして家族と出会ったということです。
そういうお話しが続いて、日本の家族と出会っています。それも番組で放送されていましたが、日本にはお父さんを知る親類はただ一人、90歳を超えるお父さんとは叔母にあたる人が一人だけ残っています。その二人の娘さんは、その人にお父さんのことを話します。お父さんは日本に還ってから新しい家族を持ちましたので、日本の弟も妹もいるとのことでそうした家族とも出会っています。日本にいる叔母さんという90代の人から、お父さんの性格、生き方を伺ったり、また、日本にいる弟にあたる人からお父さんについての話を聞いたりします。特に憎しみだけを持って育ったお姉さんの方は、弟にあたる人から、実はお父さんは日本に還ってから家庭を持っていますが、何度かインドネシアを訪ねています。自分たちには一度も詳しいことを話さない父でしたが、何度か訪ねているのはあなたがたを捜すために訪ねていたのだろうと、そんな話を聞かせています。憎しみだけをお父さんにイメージしていたそのお姉さんは、叔母さんなどの話を聞きながら、お父さんはサタンのような人ではなかったことを少しずつ感じます。そして、お父さんの心のうちを感じながら、少しずつ心のうちを溶かされていきます。憎しみが少しずつ癒されていきます。自分はまったく知らないでいた。お婆ちゃんからの憎しみの言葉だけを聞いて、お父さんを憎み続けた。サタンのように思い続けていた。でも、そうでもなかった。すっかり癒されたわけではありませんが、お父さんが何度も自分たちを捜してインドネシアを訪れていたことを知って、少しずつ心が解きほぐされていくようなお話しになっています。そして二人の姉妹は少しずつ自分たちの絆も打ち解けあって、しっかりと話し合う様子がテレビで放映されています。
こんな話が今もあるということ。今も父親を捜して日本を訪れる人々がいるということ。わたしたちはどんどん戦争のそうした悲惨さを忘れてしまっていますが、こうした終戦記念日が近づく放送番組を観ながら、今なお戦争は続いている、平和は遠いものであることを実感させられています。日本に平和が戻った。日本の国は戦後、平和になったと良く言われますが、パンだけでは満たされない心の平和を求める人がまだまだたくさんいるということを思いしらされています。
平和は単なる願望ではなくて具体的な行動でなければならないと、日本を訪れた教皇ヨハネ・パウロ二世はメッセージを出しています。平和は単なる願いであってはならない。具体的な行動にならなければならない。平和は実現しない。そんなお話しをされました。その教皇様のメッセージが今私たちが取り組んでいる「平和旬間」というものになっています。私たちは平和旬間を過ごしている中で、切実な平和の思い、祈りがどれだけできているかというと、私たちはまだまだ甘い生き方をしているのではないかと考えてしまいます。
今日のみ言葉の中では、イエスとユダヤ人の論争が続いています。でも、旧約のマンナよりもはるかに勝るパンが示されています。イエス自らがパンとなり、裂かれて命のパンとなってくださる。私たちキリスト教の信仰の中心は、十字架につけられたそのキリストを信じることだと言われます。そして、今日のみ言葉の中で「つぶやき合うのはやめなさい。…信じる者は永遠の命を得ている。」と話しています。今日もまた、私たちはミサの中でその永遠の命のパンをいただこうとしています。キリストが、彼を信じその御教えを実践する人に永遠の命を与えるためにこの世に来られたと話しておられます。パンをいただくだけではなく、教えを実践する行動に移すということが付け加えられていることを忘れてはならないと思います。
ミサをとおして生けるパンをいただけることに感謝しながら、今日もまた永遠の命のパンを私たちはいただきます。今日、ミサの中で、ミサをとおして私たちの平和とはどんな平和なのか、私たちはどんな平和を願っているのか、どんな平和を実現させようとしているのか、そのことも心にとめながら考えましょう。そして、具体的に祈りを捧げたいと思います。平和のために祈るとともに、今日もまた感謝のうちにご聖体に近づきたいと思います。』
2018年8月15日水曜日
聖母の被昇天(祭日)
平和の元后 聖マリアを祝うこの日、日本では73回目の終戦記念日を迎えました。
戦争で犠牲になられた人々のためにも、心を合わせて祈りましょう。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『聖母被昇天の祭日を迎えています。子供たちの夏休みの最中、お盆を迎えて、両親や祖父母の実家に戻られて過ごされている方も多いかと思います。久しぶりに家族と一緒に過ごし、邂逅に浸りながら今日、教会に来られた方もおられるのではないでしょうか。お盆には墓参りの習慣もあるので、先祖の墓参りに帰省された方もおられるかもしれません。今日はいつになくお顔をよく存じない人も来られているように思います。家族と共にこの被昇天の教会に来られていると思います。
教会の歴史を見ると、5世紀から8月15日は聖母を祝ってきたと記録があります。実に1500年以上にも渡って祝ってきたということです。今日、全世界の教会は聖母の被昇天を祝っています。私たち信者にとっては、何よりも親しい存在である神の母聖マリアです。その聖マリアは私たちにとっても教会にとっても特別な存在であります。なぜ特別な存在なのか?聖母被昇天の説明が教会でなされます。
聖母マリアは世の終わりを待つことなく、この世の命が終わってからすぐに御子キリストと同じ復活され、霊魂と身体も共に神の国で御子キリストの傍にキリストの勝利に与っておられる。教会はこのように聖母被昇天を説明します。それ故にマリアは特別な存在であり、私たちはその聖母マリアを祝います。ミサの今日の集会祈願の祈りに「全能永遠の神よ、あなたは御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、からだも魂も、ともに天の栄光に上げられました。」とあります。この祈りの中で、私たちに聖母マリアの神秘を表し、聖母マリアは真に神の母であり、贖い主の母として認められ讃えられます。そして私たちにマリアの被昇天の姿を思い起こさせています。
聖母マリアは、平和の栄光とも讃えられる存在です。8月15日は私たちの国では特別な日であります。一般的なカレンダーには「終戦記念日」「全国戦没者記念日」と記載されています。テレビやラジオではその言葉が繰り返されています。そしてその言葉を耳にするたびに私は平和と戦争犠牲者のことを思い、そして考えさせられています。8月15日の今日、私たちは戦争でどのくらいの人たちが亡くなれたかを知っているでしょうか。改めて私自身考えさせられています。多くの人たちは今は、終戦記念日をあまり深く考えないで迎えてしまっているのかとそんな気もします。
昨日の夕刊の記事を読み、改めて平和への思い、平和と命の尊さについて考えなければならないと思いました。国のために戦うのが立派な日本人であると教育されて辛い体験を振り返る人がいます。戦後73年が過ぎ、そのようなことを思い起こす人がどんどん少なくなってきています。間違った教育を受けた私たちは、愚かだったという人もおります。
昨日の夕刊の記事に胸が熱くなる記事がありました。ご覧になった方もおられと思いますが、少しそのことに触れたいと思います。その記事のタイトルは、「ビルマの手紙」というものでした。結婚して半年が過ぎた若い二人は、子供の誕生を待つ日々をおくっていたといいます。教師であった夫は、その半年後に旧陸軍に徴収されビルマ、現在のミャンマーに向かったそうです。結婚後半年しか一緒に過ごすことができず、戦地に送られてしまった夫。夫は戦地から妻へ手紙を送り続けたそうです。実にその数300通を超えていた、という記事でした。子供が生まれ、そして妻から生まれたばかりの赤ちゃんの足形が夫のもとに届きます。その子は女の子であったそうですが、まだ見ぬ娘の朱色の足形に触れながら涙し、夫は唄を詠まれています。
「あざやけき 朱の足型は小さけれど 目にしみ吾を 泣かしまんとす」
この父親は、わが子の顔を見ることなくして現地で亡くなられたそうです。妻のもとに届いた絶筆の最後の言葉は、「元気であれ」という一言で結ばれていたそうです。
日本だけで戦争の犠牲者は、310万人を超えるといいます。この数字の中には、記録されない犠牲者もおられたのではないかと考えてしまいます。今日、その310万人の戦没者追悼式が行われようとしています。新聞の記事の中にこのような言葉もありました。当時軍の参謀部では、兵士を虫けらのように「何千人殺せば何処どこが取れる」、つまり日本の領地が獲得できると、囁かれていたことが記されていました。なんと残忍な言葉でしょうか。人の命の尊さ、平和とは無縁の現実がそこにあります。それが戦争という現実だと思います。
平和の元后、聖マリアも最愛のわが子の死を前に悲しみ苦しみがありました。
誰もが願う平和ですが、私たちの今の現実の中でも戦争や紛争が繰り返され、弱い人々がその命を失っています。
御子であるキリストが受難の道を歩み、十字架につけられて死を前にしたとき、十字架の前に立った母マリアは、母として我が子であるキリストの苦しみと心を一つにして自らを結び付けていたといわれます。十字架の上で死なんとしているキリストは、自らの言葉で「婦人よこれがあなたの子です」と、マリアは、母として弟子たちに与えられ、私たちの母ともなられたのです。
先ほど紹介した我が子を見ずして亡くなった父親、その悲しみ苦しみ、妻を思いながら、そして生まれてくる我が子の姿を想像しながら、どんなに苦しみの中で命を捧げたか。
私たちが願う平和への祈りはどんな祈りになっているでしょうか。
今日は本当に心から平和を考え、そして平和のために私たちが何をなすべきかを考える日にしたいと思います。
聖母被昇天の祭日を迎え、旅路の終わりにすべての聖人たちの交わりのうちに待っているのは、神の母であり私たちの母でもあるマリアではないでしょうか。
「幸いなものは神の言葉を聞き、それを守る人々である」という聖書の言葉があります。この世においても後の世においても、悲しいとき苦しいときにも、聖母マリアの御許に走り寄ってその取次ぎを祈りたいと思います。
聖母はいつもイエスの御前において、私たちの祈りを取成し恵みと慰めを与えてくださる方です。
聖母被昇天の祭日は、日本において73回目の終戦記念日となりました。平和旬間も今日で終わろうとしていますが、今日は改めて戦争で犠牲になった人々のためにも、心を合わせて祈りを捧げていきたいと思います。』
戦争で犠牲になられた人々のためにも、心を合わせて祈りましょう。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『聖母被昇天の祭日を迎えています。子供たちの夏休みの最中、お盆を迎えて、両親や祖父母の実家に戻られて過ごされている方も多いかと思います。久しぶりに家族と一緒に過ごし、邂逅に浸りながら今日、教会に来られた方もおられるのではないでしょうか。お盆には墓参りの習慣もあるので、先祖の墓参りに帰省された方もおられるかもしれません。今日はいつになくお顔をよく存じない人も来られているように思います。家族と共にこの被昇天の教会に来られていると思います。
教会の歴史を見ると、5世紀から8月15日は聖母を祝ってきたと記録があります。実に1500年以上にも渡って祝ってきたということです。今日、全世界の教会は聖母の被昇天を祝っています。私たち信者にとっては、何よりも親しい存在である神の母聖マリアです。その聖マリアは私たちにとっても教会にとっても特別な存在であります。なぜ特別な存在なのか?聖母被昇天の説明が教会でなされます。
聖母マリアは世の終わりを待つことなく、この世の命が終わってからすぐに御子キリストと同じ復活され、霊魂と身体も共に神の国で御子キリストの傍にキリストの勝利に与っておられる。教会はこのように聖母被昇天を説明します。それ故にマリアは特別な存在であり、私たちはその聖母マリアを祝います。ミサの今日の集会祈願の祈りに「全能永遠の神よ、あなたは御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、からだも魂も、ともに天の栄光に上げられました。」とあります。この祈りの中で、私たちに聖母マリアの神秘を表し、聖母マリアは真に神の母であり、贖い主の母として認められ讃えられます。そして私たちにマリアの被昇天の姿を思い起こさせています。
聖母マリアは、平和の栄光とも讃えられる存在です。8月15日は私たちの国では特別な日であります。一般的なカレンダーには「終戦記念日」「全国戦没者記念日」と記載されています。テレビやラジオではその言葉が繰り返されています。そしてその言葉を耳にするたびに私は平和と戦争犠牲者のことを思い、そして考えさせられています。8月15日の今日、私たちは戦争でどのくらいの人たちが亡くなれたかを知っているでしょうか。改めて私自身考えさせられています。多くの人たちは今は、終戦記念日をあまり深く考えないで迎えてしまっているのかとそんな気もします。
昨日の夕刊の記事を読み、改めて平和への思い、平和と命の尊さについて考えなければならないと思いました。国のために戦うのが立派な日本人であると教育されて辛い体験を振り返る人がいます。戦後73年が過ぎ、そのようなことを思い起こす人がどんどん少なくなってきています。間違った教育を受けた私たちは、愚かだったという人もおります。
昨日の夕刊の記事に胸が熱くなる記事がありました。ご覧になった方もおられと思いますが、少しそのことに触れたいと思います。その記事のタイトルは、「ビルマの手紙」というものでした。結婚して半年が過ぎた若い二人は、子供の誕生を待つ日々をおくっていたといいます。教師であった夫は、その半年後に旧陸軍に徴収されビルマ、現在のミャンマーに向かったそうです。結婚後半年しか一緒に過ごすことができず、戦地に送られてしまった夫。夫は戦地から妻へ手紙を送り続けたそうです。実にその数300通を超えていた、という記事でした。子供が生まれ、そして妻から生まれたばかりの赤ちゃんの足形が夫のもとに届きます。その子は女の子であったそうですが、まだ見ぬ娘の朱色の足形に触れながら涙し、夫は唄を詠まれています。
「あざやけき 朱の足型は小さけれど 目にしみ吾を 泣かしまんとす」
この父親は、わが子の顔を見ることなくして現地で亡くなられたそうです。妻のもとに届いた絶筆の最後の言葉は、「元気であれ」という一言で結ばれていたそうです。
日本だけで戦争の犠牲者は、310万人を超えるといいます。この数字の中には、記録されない犠牲者もおられたのではないかと考えてしまいます。今日、その310万人の戦没者追悼式が行われようとしています。新聞の記事の中にこのような言葉もありました。当時軍の参謀部では、兵士を虫けらのように「何千人殺せば何処どこが取れる」、つまり日本の領地が獲得できると、囁かれていたことが記されていました。なんと残忍な言葉でしょうか。人の命の尊さ、平和とは無縁の現実がそこにあります。それが戦争という現実だと思います。
平和の元后、聖マリアも最愛のわが子の死を前に悲しみ苦しみがありました。
誰もが願う平和ですが、私たちの今の現実の中でも戦争や紛争が繰り返され、弱い人々がその命を失っています。
御子であるキリストが受難の道を歩み、十字架につけられて死を前にしたとき、十字架の前に立った母マリアは、母として我が子であるキリストの苦しみと心を一つにして自らを結び付けていたといわれます。十字架の上で死なんとしているキリストは、自らの言葉で「婦人よこれがあなたの子です」と、マリアは、母として弟子たちに与えられ、私たちの母ともなられたのです。
先ほど紹介した我が子を見ずして亡くなった父親、その悲しみ苦しみ、妻を思いながら、そして生まれてくる我が子の姿を想像しながら、どんなに苦しみの中で命を捧げたか。
私たちが願う平和への祈りはどんな祈りになっているでしょうか。
今日は本当に心から平和を考え、そして平和のために私たちが何をなすべきかを考える日にしたいと思います。
聖母被昇天の祭日を迎え、旅路の終わりにすべての聖人たちの交わりのうちに待っているのは、神の母であり私たちの母でもあるマリアではないでしょうか。
「幸いなものは神の言葉を聞き、それを守る人々である」という聖書の言葉があります。この世においても後の世においても、悲しいとき苦しいときにも、聖母マリアの御許に走り寄ってその取次ぎを祈りたいと思います。
聖母はいつもイエスの御前において、私たちの祈りを取成し恵みと慰めを与えてくださる方です。
聖母被昇天の祭日は、日本において73回目の終戦記念日となりました。平和旬間も今日で終わろうとしていますが、今日は改めて戦争で犠牲になった人々のためにも、心を合わせて祈りを捧げていきたいと思います。』
2018年8月7日火曜日
年間第18主日
イエスは空腹を満たされた人々に対し、「永遠の命」について父なる神に心を向けるよう諭しました。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日の福音は、先週のパンの奇跡に引き続くものです。「翌日」という表現が一番最初に読まれています。パンの奇跡の翌日のこと。先週、皆さんが手にとっていた「聖書と典礼」の表紙はどんな絵があったかご存知でしたか。今日の「聖書と典礼」では『パンと魚を弟子に与えるキリスト』という絵が表紙になっています。この表紙は、まさに先週も同じように使われてもおかしくない内容です。先週はパンと魚のモザイクの絵が表紙になっていました。今日もパンを中心にしたテーマで、み言葉が私たちに語られていますが、少し奥深い意味のあるパンのお話しになってきます。先週までのパンの奇跡の中での話しは、現実的なパンをイメージするかたちで語られていましたが、今日の聖書の中に出て来るパンは、「永遠の命のパンである。」という表現が入ってきます。ですから、より霊的な話しに入ってきているということが言えるかもしれません。
ちょっと横みちに入りますが、今日の入祭唱が「聖書と典礼」の2ページに入っていますが、私たちのミサの中ではこの入祭は歌が歌われるので、この入祭唱とは違う典礼聖歌が選ばれ歌われ始めました。聖書の言葉でいうと、この入祭唱の言葉は「神よ、急いで助けに来てください。あなたはわたしの支え、わたしの救い。」。こういう言葉でミサのスタートが切られるのです。 わたしはこの入祭唱の言葉を少し心に留めております。「神よ、急いで助けに来てください。」この言葉はわたしたち聖職者=司祭や修道者が毎日唱える教会の祈り、むかしは良く「聖務日課」と言われていました。現在の教会の祈りの一番最初に唱える祈りになっています。「神よ、急いで助けに来てください。」という祈りは、神よわたしを力づけ急いで助けにきてくださいという祈りの言葉で、聖務日課は毎日唱えられています。急いで助けに来てください。何故そんなにせくのかなと考えてしまいます。急いで助けに来てください、皆さんは祈りの中でそういう祈りをしたことがあるでしょうか。神様、どうか急いで助けにきてきださい。助けてください、そんな祈りの言葉は、あまりないような気がするんです。聖務日課では、毎日毎日、一番最初の出だしの祈りの言葉が「急いで助けに来てください。」という言葉になっている。わたしは改めて、何故こんな急いでという言葉がついて、祈り始めているのだろうか、そんな事を想いめぐらしていました。
現実に惑わされて心を騒がせているわたしたちにとって、一番大切にしなければならないこと、それは心が神から離れないようにすること、そのことではないのだろか。日常生活の中で、心が神から離れてしまって、祈りもそういうふうになってはいけないよと。何に向かうのか。神に向かう。神に深く繋がることの大切さを毎日毎日、最初のこの祈りの言葉で気付かされているのだろうか。そんなことを今回、改めて感じていました。そういう中でわたしたちの心は、どこに一番中心が置かれているのだろうか。現実の生活だろうか。目上の世界だろうか。そんなことも考えながら、今日のみ言葉を味わったり黙想したりしています。
驚くべき五千人を超える人のためにパンの奇跡を行い、群衆のひとり一人に、欲しいだけ満足するだけ、パンを与えた先週の奇跡のお話し。残ったパン屑を集めると12の篭になったというかたちで、先週わたしたちはパンの奇跡に驚いていました。12の篭に残ったパンがあるわけですが、ある人は気になってしようがないかもしれません。残ったパンはどうなったんだろう。だれが食べているのだろう。12あるのなら弟子たちが一人ひとり貰ったのだろうか。12の篭、ひとりずついただいたのだろうか。そんなことのほうがとても関心があって、気になって、それがわたしたちかもしれません。やはり現実のこと。そんなことに心が向かうのがわたしたち。もし皆さんが残ったパンを想像して黙想して、実はこういうふうに本当はなっているんだ。もし素晴らしい思いつきがあったなら、裏話があったなら是非聞かせて欲しいなと思います。聖書には何も書かれていないので。12の篭のこと、皆さん一人ひとり考えてみてください。素晴らしい黙想で、素晴らしいお話しが出来上がるかもしれません。そんなことも考えています。
さて、病気の人を癒すというイエスの力は、誰もがそれは人間の業ではない。人間の力では出来ないと驚きました。ここに神の業がある、神の力があるんだとイエスを見ていました。でもパンの奇跡はそれとは少し違って、少し当惑させる。今ちょっと話したように、12の篭まで残るほど、有り余るほど何で増えていったんだ。どのように増えたのか、そんなことがとっても気になります。でも、聖書の中で神の恵みが語られるとき、皆さんは気付いていたでしょうか。神様の愛はちっぽけなものではない。神様の恵みは限られたものではない。いつも溢れるほどの恵みが、神からわたしたちに贈られているということ。気付いたでしょうか。気付いているでしょうか。それに対して人間であるわたしたちが、もし恵みを人に分け与えるとしたら、どんなかたちで分け与えているでしょうか。わたしたちなら、その恵みを分かち合う時でさえも、どこかで計算して一人ひとりこれくらいで良いでしょうと、計算して恵みを分かち合っているのではないでしょうか。多すぎないように、余らないように、適当に適量に分配するのが、私たち人間のなせることではないでしょうか。でも神様の恵み、神様の愛と慈しみもそうですが、適量だけ人に与えるということではなくて、いつも溢れるほど、手からこぼれ落ちるほど、その恵みや愛をわたしたちに注いでくださっているのが神様の愛であり、神様の恵みです。ですから、そのことを考えながら、パンの奇跡を味わうとすれば有り余って当然。たとえみんなが満腹したとしても、もうすこしあっても良かったかなと言う人に、十分に分け与えるためには、溢れるほどの余るほどの恵みが神様からもたらされていたというお話しではなかったでしょうか。その神様の恵みを感じることが出来たならば、それこそ言葉に表さないほどの心の奥深くから喜びや感謝の気持ちが溢れてくるはず。まさに、わたしたちの感謝の気持ちも溢れるほどになっているはず。感謝しても感謝しきれない言葉に、そのようになってくるのではないでしょうか。
群衆は満腹したのち、もう満たされていましたから、奇跡の前では何も尋ねることはしません。何も言いませんでした。ただただ満足していた。そして彼らはその満足していた気持ちの中で、イエスから離れたくない。イエスの傍にずっといたい。そんな気持ちの方が強くなっていたのではないかとわたしは考えます。でも、そこにいるイエスはそうした人々を見つめながら彼らの苦しみを知ります。そして憐れみをかみしめます。一人ひとりの心が満腹したときに、どんなにこれまで大変な状態であったかをイエスは見つめています。そういう背景があった先週のパンの奇跡のお話し。
今日のみ言葉では、追いかけてくる群衆とイエスとの問答が示されています。でもここにおいても、人々の思いとイエスの目的との距離がはっきりと指摘されています。群衆は、お腹を満たされた人々は今、自分たちが信じられるようなしるしを求め続けています。お腹を満たすという現世のことばかり目を向けてしまっています。ですからイエスから離れたくない。イエスの傍にいればきっとパンは少なくても満腹出来るだけいただける。そんな思いが強かったのかもしれません。
でもイエスはそうした人々に声をかけています。「永遠の命」について父なる神に心を向けなさい。彼らはそのときは素直にそのイエスの言葉を受けとめ、神の業を行うためにわたしたちはどうしたら良いのでしょうか。自分たちからは答えは見いだせませんでした。イエスに尋ねています。そしてイエスが答えたのは、神がお遣わしになった方を信じなさい。信じること、それがまず大切である。残念ながら彼らには、イエスが先祖の偉大な指導者モーセに重なって見えるだけでした。モーセという人は今日の第一朗読でも話されていますが、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から救って旅に連れ出した指導者です。そして、旅の最中に苦しんでいたとき人々はお腹が空いた。食べるものがない。奴隷の時の方がまだましだったと不平不満を漏らしたときに、「マナ」という天からの食べ物が落ちてきた。そういう旧約聖書の中で語られた信仰の話しを伝承として、イエスの時代に生きる人々も良く心に留めていることでした。ですからイエスがなさったパンの奇跡はまさに、モーセのあのときとわたしたちが先祖から聞かされているあの奇跡と同じ事。モーセとイエスはただ重なってくるだけでした。そこでイエスは話します。それはモーセが与えたのではなく、わたしの父である神が与えたのだ。現実的にモーセにのみ心が動いている人々に対して父なる神の業が今、父なる神の心に向けさせます。それがイエスのパンであったということも話されました。命を与えるパンである。そう聞くならば、わたしたちにそれをいつでもくださいとすぐさま答えてしまいます。でもイエスは続けます。「わたしが命のパンである。私のもとに来る者はけっして飢えることがなく、わたしを信じる者はけっして渇くことがない。」現実のことに父なる神に心を向けさせ、神を信じること。神が遣わされた御子を信じること。その神の御子はひとつであるということも含めて話そうとしています。
わたしたちはこのイエスの言葉をどう受けとめるでしょうか。今日もまたわたしたちはミサをとおしてパンをいただきます。イエスをいただきます。イエスとひとつになります。わたしを信じなさいという言葉は、わたしたちの心の奥深く留まっているでしょうか。何に執着するよりもまず心を神に向けなさいというのが、今日のみ言葉の中心テーマであるかのように感じています。聖体とパンとブドウ酒の中に神が現存する。福音の中に語られる奇跡を疑うならば、聖体に対する信仰に対しても懐疑的なものになってくるかもしれません。
もう一度わたしたちは素直な心で神に向かいたいと思います。謙遜な心がわたしたちに求められているのではないのでしょうか。わたしたちの信仰の中心に聖体の信仰があることをもう一度認識したいと思います。そして今日もまた奉納をとおして、わたしたち一人ひとり小さなパンを奉納しますが、そのパンとブドウ酒が永遠の命を与えるイエス・キリストの秘跡となることを深く信じてイエスに近づきたいと思います。
聖体を大切に、聖体によってさらに深く強く主と結ばれることが出来るように、今日もまた心を一つにしてミサをとおして祈りたいと思います。』
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『今日の福音は、先週のパンの奇跡に引き続くものです。「翌日」という表現が一番最初に読まれています。パンの奇跡の翌日のこと。先週、皆さんが手にとっていた「聖書と典礼」の表紙はどんな絵があったかご存知でしたか。今日の「聖書と典礼」では『パンと魚を弟子に与えるキリスト』という絵が表紙になっています。この表紙は、まさに先週も同じように使われてもおかしくない内容です。先週はパンと魚のモザイクの絵が表紙になっていました。今日もパンを中心にしたテーマで、み言葉が私たちに語られていますが、少し奥深い意味のあるパンのお話しになってきます。先週までのパンの奇跡の中での話しは、現実的なパンをイメージするかたちで語られていましたが、今日の聖書の中に出て来るパンは、「永遠の命のパンである。」という表現が入ってきます。ですから、より霊的な話しに入ってきているということが言えるかもしれません。
ちょっと横みちに入りますが、今日の入祭唱が「聖書と典礼」の2ページに入っていますが、私たちのミサの中ではこの入祭は歌が歌われるので、この入祭唱とは違う典礼聖歌が選ばれ歌われ始めました。聖書の言葉でいうと、この入祭唱の言葉は「神よ、急いで助けに来てください。あなたはわたしの支え、わたしの救い。」。こういう言葉でミサのスタートが切られるのです。 わたしはこの入祭唱の言葉を少し心に留めております。「神よ、急いで助けに来てください。」この言葉はわたしたち聖職者=司祭や修道者が毎日唱える教会の祈り、むかしは良く「聖務日課」と言われていました。現在の教会の祈りの一番最初に唱える祈りになっています。「神よ、急いで助けに来てください。」という祈りは、神よわたしを力づけ急いで助けにきてくださいという祈りの言葉で、聖務日課は毎日唱えられています。急いで助けに来てください。何故そんなにせくのかなと考えてしまいます。急いで助けに来てください、皆さんは祈りの中でそういう祈りをしたことがあるでしょうか。神様、どうか急いで助けにきてきださい。助けてください、そんな祈りの言葉は、あまりないような気がするんです。聖務日課では、毎日毎日、一番最初の出だしの祈りの言葉が「急いで助けに来てください。」という言葉になっている。わたしは改めて、何故こんな急いでという言葉がついて、祈り始めているのだろうか、そんな事を想いめぐらしていました。
現実に惑わされて心を騒がせているわたしたちにとって、一番大切にしなければならないこと、それは心が神から離れないようにすること、そのことではないのだろか。日常生活の中で、心が神から離れてしまって、祈りもそういうふうになってはいけないよと。何に向かうのか。神に向かう。神に深く繋がることの大切さを毎日毎日、最初のこの祈りの言葉で気付かされているのだろうか。そんなことを今回、改めて感じていました。そういう中でわたしたちの心は、どこに一番中心が置かれているのだろうか。現実の生活だろうか。目上の世界だろうか。そんなことも考えながら、今日のみ言葉を味わったり黙想したりしています。
驚くべき五千人を超える人のためにパンの奇跡を行い、群衆のひとり一人に、欲しいだけ満足するだけ、パンを与えた先週の奇跡のお話し。残ったパン屑を集めると12の篭になったというかたちで、先週わたしたちはパンの奇跡に驚いていました。12の篭に残ったパンがあるわけですが、ある人は気になってしようがないかもしれません。残ったパンはどうなったんだろう。だれが食べているのだろう。12あるのなら弟子たちが一人ひとり貰ったのだろうか。12の篭、ひとりずついただいたのだろうか。そんなことのほうがとても関心があって、気になって、それがわたしたちかもしれません。やはり現実のこと。そんなことに心が向かうのがわたしたち。もし皆さんが残ったパンを想像して黙想して、実はこういうふうに本当はなっているんだ。もし素晴らしい思いつきがあったなら、裏話があったなら是非聞かせて欲しいなと思います。聖書には何も書かれていないので。12の篭のこと、皆さん一人ひとり考えてみてください。素晴らしい黙想で、素晴らしいお話しが出来上がるかもしれません。そんなことも考えています。
さて、病気の人を癒すというイエスの力は、誰もがそれは人間の業ではない。人間の力では出来ないと驚きました。ここに神の業がある、神の力があるんだとイエスを見ていました。でもパンの奇跡はそれとは少し違って、少し当惑させる。今ちょっと話したように、12の篭まで残るほど、有り余るほど何で増えていったんだ。どのように増えたのか、そんなことがとっても気になります。でも、聖書の中で神の恵みが語られるとき、皆さんは気付いていたでしょうか。神様の愛はちっぽけなものではない。神様の恵みは限られたものではない。いつも溢れるほどの恵みが、神からわたしたちに贈られているということ。気付いたでしょうか。気付いているでしょうか。それに対して人間であるわたしたちが、もし恵みを人に分け与えるとしたら、どんなかたちで分け与えているでしょうか。わたしたちなら、その恵みを分かち合う時でさえも、どこかで計算して一人ひとりこれくらいで良いでしょうと、計算して恵みを分かち合っているのではないでしょうか。多すぎないように、余らないように、適当に適量に分配するのが、私たち人間のなせることではないでしょうか。でも神様の恵み、神様の愛と慈しみもそうですが、適量だけ人に与えるということではなくて、いつも溢れるほど、手からこぼれ落ちるほど、その恵みや愛をわたしたちに注いでくださっているのが神様の愛であり、神様の恵みです。ですから、そのことを考えながら、パンの奇跡を味わうとすれば有り余って当然。たとえみんなが満腹したとしても、もうすこしあっても良かったかなと言う人に、十分に分け与えるためには、溢れるほどの余るほどの恵みが神様からもたらされていたというお話しではなかったでしょうか。その神様の恵みを感じることが出来たならば、それこそ言葉に表さないほどの心の奥深くから喜びや感謝の気持ちが溢れてくるはず。まさに、わたしたちの感謝の気持ちも溢れるほどになっているはず。感謝しても感謝しきれない言葉に、そのようになってくるのではないでしょうか。
群衆は満腹したのち、もう満たされていましたから、奇跡の前では何も尋ねることはしません。何も言いませんでした。ただただ満足していた。そして彼らはその満足していた気持ちの中で、イエスから離れたくない。イエスの傍にずっといたい。そんな気持ちの方が強くなっていたのではないかとわたしは考えます。でも、そこにいるイエスはそうした人々を見つめながら彼らの苦しみを知ります。そして憐れみをかみしめます。一人ひとりの心が満腹したときに、どんなにこれまで大変な状態であったかをイエスは見つめています。そういう背景があった先週のパンの奇跡のお話し。
今日のみ言葉では、追いかけてくる群衆とイエスとの問答が示されています。でもここにおいても、人々の思いとイエスの目的との距離がはっきりと指摘されています。群衆は、お腹を満たされた人々は今、自分たちが信じられるようなしるしを求め続けています。お腹を満たすという現世のことばかり目を向けてしまっています。ですからイエスから離れたくない。イエスの傍にいればきっとパンは少なくても満腹出来るだけいただける。そんな思いが強かったのかもしれません。
でもイエスはそうした人々に声をかけています。「永遠の命」について父なる神に心を向けなさい。彼らはそのときは素直にそのイエスの言葉を受けとめ、神の業を行うためにわたしたちはどうしたら良いのでしょうか。自分たちからは答えは見いだせませんでした。イエスに尋ねています。そしてイエスが答えたのは、神がお遣わしになった方を信じなさい。信じること、それがまず大切である。残念ながら彼らには、イエスが先祖の偉大な指導者モーセに重なって見えるだけでした。モーセという人は今日の第一朗読でも話されていますが、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から救って旅に連れ出した指導者です。そして、旅の最中に苦しんでいたとき人々はお腹が空いた。食べるものがない。奴隷の時の方がまだましだったと不平不満を漏らしたときに、「マナ」という天からの食べ物が落ちてきた。そういう旧約聖書の中で語られた信仰の話しを伝承として、イエスの時代に生きる人々も良く心に留めていることでした。ですからイエスがなさったパンの奇跡はまさに、モーセのあのときとわたしたちが先祖から聞かされているあの奇跡と同じ事。モーセとイエスはただ重なってくるだけでした。そこでイエスは話します。それはモーセが与えたのではなく、わたしの父である神が与えたのだ。現実的にモーセにのみ心が動いている人々に対して父なる神の業が今、父なる神の心に向けさせます。それがイエスのパンであったということも話されました。命を与えるパンである。そう聞くならば、わたしたちにそれをいつでもくださいとすぐさま答えてしまいます。でもイエスは続けます。「わたしが命のパンである。私のもとに来る者はけっして飢えることがなく、わたしを信じる者はけっして渇くことがない。」現実のことに父なる神に心を向けさせ、神を信じること。神が遣わされた御子を信じること。その神の御子はひとつであるということも含めて話そうとしています。
わたしたちはこのイエスの言葉をどう受けとめるでしょうか。今日もまたわたしたちはミサをとおしてパンをいただきます。イエスをいただきます。イエスとひとつになります。わたしを信じなさいという言葉は、わたしたちの心の奥深く留まっているでしょうか。何に執着するよりもまず心を神に向けなさいというのが、今日のみ言葉の中心テーマであるかのように感じています。聖体とパンとブドウ酒の中に神が現存する。福音の中に語られる奇跡を疑うならば、聖体に対する信仰に対しても懐疑的なものになってくるかもしれません。
もう一度わたしたちは素直な心で神に向かいたいと思います。謙遜な心がわたしたちに求められているのではないのでしょうか。わたしたちの信仰の中心に聖体の信仰があることをもう一度認識したいと思います。そして今日もまた奉納をとおして、わたしたち一人ひとり小さなパンを奉納しますが、そのパンとブドウ酒が永遠の命を与えるイエス・キリストの秘跡となることを深く信じてイエスに近づきたいと思います。
聖体を大切に、聖体によってさらに深く強く主と結ばれることが出来るように、今日もまた心を一つにしてミサをとおして祈りたいと思います。』
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