2020年12月26日土曜日

クリスマス

 主のご降誕おめでとうございます。

コロナ禍により、降誕祭ミサは非公開で行われました。

例年では、クリスマスのお祝いに多くの方々が詰めかけるのですが、

感染防止のため限られた人数によるミサ司式となりました。


松村神父様からいただきましたクリスマスのメッセージをご紹介します。


『12月24日 クリスマスのメッセージ

松村 繁彦

主の御降誕おめでとうございます。

今年はコロナ一色の約1年で、その対策と制限と忍耐の中で私たちは生活してきました。それはある意味伝染病の下で恐怖の奴隷と余儀なくされた私たちでした。そして今なお、最前線で戦っておられる方がたくさんいます。特に医療従事者の方々に感謝と尊敬をもって、多くの方々のいのちが守られ、全ての人に希望が与えられるよう祈りをささげてまいりましょう。

さて、イザヤの言葉では、古代オリエントの時代にエルサレムに近隣の王たちは自分たちにとって都合の良い王を立てようと働きかけた。しかしイザヤは神からのお告げにより、王は必ず神から与えられると信じ、その王たちの行いに断固として神を信じ待つよう促した。たとえ闇であっても光を見る時が必ず来る。それがダビデ王の座が引き継がれる希望と期待であった。これが“闇に住む民は光を見た・・・。”そして“ひとりのみどり子が私たちのために生まれた。”と伝えられた。この者は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と称えられると語る。そのことを信じるかどうかをイザヤは現代の私たちにも預言として託されている。大事なことは、たとえ私たちが信仰深くても浅いと思っていても、周りに希望の光を届けたいと思うか、闇のままでいいと思うかにかかっている。神の絶対的な御ちからは、闇に住む民であっても光を示し、照らし続ける驚く業である。懐中電灯のように電池が切れたら終わり、蝋燭のように火が消えたら終わりではない。そこに導き永遠に輝き続ける力を持っている方である。その力を伝えなければならない人々が私たちの周りにいる事を理解し、一人でも多くの人を救いに導きたいと願うことが求められている。私自身の信仰の評価次第ではなく、幼子に秘められた救いの力に委ねる心があればいい。限りある力ではなく、限りない輝き、希望と愛に照らされる事を切に願っていきたい。

今日の主の御降誕は特に具体的に愛と希望を示すために、今日イエス・キリストは私たちの世界に降り立った出来事を祝う日。見えない恵みが見えるしるしとなった。これは全ての秘跡に先立った根本的な秘跡そのものである。

私たちも神の具体的かつ実践的な示しそのものであるイエス・キリストの誕生から、コロナ禍であっても、私たちに愛と希望、光と平和をもたらすよう言動ができるよう恵みを求め、一人でも多くの命がこれからも救われるよう、最前線で働いておられる方のためにも配慮と祈りをしてまいりましょう。』


2020年12月20日日曜日

待降節第4主日

 ウルバン神父様からいただきました12月20日 待降節第4主日の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


 【福音メッセージ ウルバン神父様】


皆さん                     12月20日、待降節の第4日曜日


先週の日曜日、またその前の週に、私たちは洗礼者ヨハネの足跡を歩きました。ヨハネは夜の時、自分の洞窟の前に立って偉大なる星空に向かって手を上げ叫んだ姿を見たような気がします。“わが主よ、あなたはどこにいるのか、わが主よ、いつ来るのでしょうか。私は待っています”。その叫び声が心の中で響いていました。

またヨルダン川の畔で群衆を見回しながら叫んだこと:“あなたたちのうちに誰も知らない方が立っている”と。ヨハネの心に来るべき方のこと以外何もありませんでした。ある日、その方に出会って、自分の手で触れた時、ヨルダンの水の中に入れ伏すのを見た時、その時ヨハネは感動と喜びにあふれた。

今日は天使ガブリエルの後に付いて行きます。どこへ遣わせるでしょうかとガブリエルが考えたのではないでしょうか。都の立派な家のあ
るお嬢様へ?いえ、北のガリラヤへ、またその中の寂しい田舎、とても悪い評判のある村、“泥棒の巣”と呼ばれたナザレへ。ナザレ村になんの美しいものがあるだろうか、と天使が不思議に思ったかも知りません。こんな貧しい住まい、これは洞窟ではないでしょうか?

薄暗い中に入ると天使は14歳ぐらい若い女の子がみえた。いつも神の偉大さの前に立っているのに、神様の想像のなかに、こんな美しいことを見たことがありませんでした。この子はマリア、ミリヤムと、呼ばれました。広い野原の中、また何もない道端で咲いている花を見たことがありますか。この小さい花は自分の可愛いさ、自分の美しさを知りません。ただ静かに人の喜び、神の喜びのために咲いています。この質素な、素直な子は村の中で大きくなって、村の人々に毎日出会ったが、だれもこの子の美しさを知りませんでした。若いミリヤムでも自分は神様の喜びであったこと、この世のなかで光り輝く花であることも知りませんでした。天使ガブリエルは驚きながらマリアを見て、住まいの中の神の臨在を深く感じながら、この娘の前にひれ伏しました。

マリアは挨拶の言葉を聞いています。“おめでとう、マリア、主はあなたとともにおられます”。なんと美しい挨拶でしょう。私たちにもあんな言葉があったら、どんなに幸せでしょう。ルカの福音によると、マリアはこの言葉に胸騒ぎがし、いったい、何のことだろうかと思いまどった。本当に素直な方、自分が小さな者だと思って。天の使えが来て、いと高き方の母になってくれるかとの頼みを受けた時、何と答えたでしょうか。飛び上がって、“ああ、光栄でございます”と叫んだでしょうか。かえって神の使いの前にかがんでひれ伏した。“私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように“。

マリアのこの素直な言葉で新しい時代が始まって、私たちに天の門が開きました。このナザレの娘に感謝。その後の出来事は神秘に包まれて、若い女の子、マリア、と神の霊との出会いに言葉はもうありません。ただエリザベトとの出会いの時、心を少し見ることができます:”私の魂は神をあがめ、私の心は喜びに踊っています“。今日は少しでもマリア様と親しむことができるのは感謝します。 




【聖書朗読箇所】


永遠の神である父よ、

  あなたはひとり子イエスを世に遣わすにあたり、

  ガリラヤのおとめを選び、救い主の母となる使命をお与えになりました。

  わたしたちがマリアにならい、愛と喜びをもって主を迎え入れ、

  主とともに生きる者となりますように。

                    集会祈願より


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第1朗読 サムエル記下 7章1~5、8b~12、14a、16節


〔ダビデ〕王は王宮に住むようになり、

主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎをお与えになった。

王は預言者ナタンに言った。

「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、

神の箱は天幕を張った中に置いたままだ。」

ナタンは王に言った。

「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。

主はあなたと共におられます。」


しかし、その夜、ナタンに臨んだ主の言葉は次のとおりであった。

「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。

主はこう言われる。あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。

わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、

わたしの民イスラエルの指導者にした。


あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、

あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。

わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。

民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、

昔のように不正を行う者に圧迫されることもない。


わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、

あなたに安らぎを与える。

主はあなたに告げる。

主があなたのために家を興す。


あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、

その王国を揺るぎないものとする。


わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。

あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、

あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」



第2朗読 ローマの信徒への手紙 16章25~27節


神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、

あなたがたを強めることがおできになります。

この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。

その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、

信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。


この知恵ある唯一の神に、

イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、

アーメン。



福音朗読 ルカによる福音書 1章26~38節


〔そのとき、〕天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。

ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。

そのおとめの名はマリアといった。

天使は、彼女のところに来て言った。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」


マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。

あなたは神から恵みをいただいた。

あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。


その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。

神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、

その支配は終わることがない。」


マリアは天使に言った。

「どうして、そのようなことがありえましょうか。

わたしは男の人を知りませんのに。」


天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。

だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。

あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。

不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。

神にできないことは何一つない。」


マリアは言った。「わたしは主のはしためです。

お言葉どおり、この身に成りますように。」

そこで、天使は去って行った。


2020年12月13日日曜日

待降節第3主日

 レイ神父様からいただきました待降節3主日の福音メッセージをご紹介します。

(英語版も掲載します)


自己の真実を求めて

 こどもたちは質問が上手です。いとも簡単にとても深いことを聞くのを親たちは知っています。私たちも皆、問いかけます。なぜなら心の底に真実を求める本能があるからです。これは生涯続く探求です。この人生において「今、完全な真実を得た」というところには至りません。福音では神は真実であり、常に私たちを超越すると宣言します。私たちの思考力や心では完全に神をとらえるのは不可能です。それでも真実をまじめに求めなければなりません。たとえその途中で痛みを伴って、長い間大事にしてきた確信を手放すのだと知ったとしてもです。真実へ、私たちの世界について、お互いについて、おのれそれぞれの個人について、そして神についての真実へといっそう近づこうとするのです。質問することで真実により近づくのだと願いながら問い続けます。

 自己の探求において大きな二つの問いとは”私はだれか?そして”私がしていることを私はなぜしているのか?”です。広い意味において、私たちは自分の本質を求めます。そして自分の言動に導く究極の目的を明らかにしようとします。今日の福音書ではこれらの二つの大きな問いかけが洗礼者ヨハネに宗教権力者から発せられます。「あなたは、どなたですか」そして「なぜ、洗礼を授けるのですか」と。最初の問いかけにヨハネは、自分はそうではないと宣言することから始めます。キリストでもメシアでもないことを明らかにします。それ以上の者であるとは言いません。そののちヨハネ書の中で、結婚の祝宴のイメージを引き合いにして、自分は花婿ではなく、花婿の声を喜ぶ花婿の友だと表現します。今朝の福音書で、ヨハネは荒れ野で叫ぶ声であると宣言します。言葉ではなく、声にすぎず、光ではなく光を証するものにすぎないと。なぜそんなことをしているのか、なぜ洗礼を授けているのかと尋ねられると、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」ことを知らせるために洗礼を授けていると言います。人々が気づかずにいる、その人、メシアにヨハネは人々の目を開かせるためにしていることを、行ったのです。多くの人々が気がつかず偉大な光が輝きました。ヨハネはその光の証をしたのです。自分がそうであるので行ったことをヨハネはしたのです。「なぜ、洗礼を授けているのか」という問いの答えから、さらに根本的な問い「あなたはだれですか」「自分自身についてなんと言いますか」の答えが花開きます。

 「自分自身のことをどう言いますか」は様々に答えられる問いです。単に自分や親の名前、仕事上の資格、役割、地位を答えられるでしょう。しかし、その問いに対して最も深く根本的に答えられるのは霊的なレベルにおいてです。最も深く、最も霊的な私の存在において私はだれか?神の前の私はだれか?あるべき私と神が呼ぶのはだれか?ここにおいて洗礼者ヨハネ、偉大な到来を告げる聖人は私たちの助けとなります。洗礼の恵において各々がだれであり、あるべきと神が呼ぶのはだれかと私たちに明らかにするのです。洗礼者ヨハネ同様、私たちも勿論メシアではありません。光でもありません。自分たちの生活や心の闇を充分知っているだけです。しかし、洗礼者ヨハネのように私たちはその光の証人です。完全さからは程遠くとも、キリストの証人として呼ばれています。

 ヨハネは次のように言います。「あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる。その人は私の後から来られる。」イエス・キリストは私たちの中におられますが、多くの人たちに知られていません。私たちはもっとイエスを知らしめ、私たちを通して世界にその光を輝かせることができるでしょう。洗礼は荒れ野で叫ぶ声であり、神との結びつきへの招きの声でありました。私たちも自らの声を用いてキリストを知らせるよう問われています。恵まれた伝達手段を用いてキリストへの信仰、価値、態度を広めることができます。私たちの行動を通し主を伝えることもできます。もし、わたしたちの呼びかけが光への証となると気づけば、それはどのように生きるかを形づくり、なぜそのように生きているかを説明できるのです。「あなたは、どなたですか」という問いの答えは「あなたがしていることをなぜしているのか」という問いの答の根拠となります。待降節は私たちの根本的な本質、キリストにつながる本質を改心するよい期間です。もし、どこかで今日イエスがお生まれになるとすれば、それはイエスに従う人々の心の中に生まれるのです。


Finding our personal truth

   Children are great with questions. As any parent knows they can ask the most profound questions in the simplest of ways. We all ask questions because, at heart, we have an instinct for seeking and searching after truth. This is a life-long search. We can never get to the point in this life where we can say, ‘I now have the total truth.’ The gospel declares that God is truth — and God is always beyond us. We can never fully grasp God with our minds or our hearts. Yet we have to be faithful to the search for truth, even if along the way we find ourselves making painful discoveries that involve letting go of long-held and cherished convictions. We keep trying to come closer to the truth, the truth about our world, about each other, about ourselves as individuals, and about God. We keep questioning in the hope that our questioning will bring us closer to the truth.

   In our search for our own personal truth, two of the big questions that drives us are, ‘Who am I?’ and ‘Why am I doing what I am doing?’ We seek after our identity, in the broadest sense of that term, and we try to clarify for ourselves the ultimate purpose that drives all we do and say. In today’s gospel, those two big questions are put to John the Baptist by the religious authorities, ‘Who are you?’ and ‘Why are you baptizing?’ In answer to the first question, John began by declaring who he was not. He was clear that he was not the Christ, the Messiah. John did not try to be more than he was. Later on in the gospel of John, using an image drawn from a wedding celebration, he would say of himself that he was not the bridegroom, only the friend of the bridegroom who rejoices at the bridegroom’s voice. In this morning’s gospel John declares himself to be the voice crying in the wilderness; he is not the Word, only the voice; he is not the light, only the witness to the light. When John was asked why he was doing what he was doing, why he was baptizing, he declared that he baptized to make known the ‘one who stands among you, unknown to you.’ He did what he was doing to open people’s eyes to the person standing among them, to the Messiah who was in their midst without their realizing it. There was a great light shining among them that many were unaware of, and John had come to bear witness to that light. John did what he did because of who he was. The answer to the question, ‘Why are you baptizing?’ flowed from the answer to the more fundamental question, ‘Who are you?’ “What do you say about yourself?”

   “What do you say about yourself?”, is a question we can answer at different levels. We can simply give our name, or give or parents’ names; we can answer it by giving our professional qualifications, or by naming the role or the position we have in life. Yet, the deepest level, the most fundamental level, at which we can answer that question is the spiritual level. Who am I at that deepest, most spiritual, level of my being? Who am I before God? Who is God calling me to be? Here, John the Baptist, the great Advent saint, can be of help to us. He articulates for us who each one of us is in virtue of our baptism, who God is calling us to be. No more than John the Baptist, we are certainly not the Messiah. We are not the light. We know only too well the areas of darkness in our lives and in our hearts. However, like John the Baptist, we are a witness to the Light. Even though we are all far from perfect, we are, nonetheless, called to be a witness to Christ.


John the Baptist says:'”there stands among you, unknown to you, the one who is coming after me.” Jesus Christ stands among us, but he remains unknown to many. Perhaps we could do more to make him known, to let his light shine in our world through our example. The Baptist was a voice crying in the wilderness, a voice to invite people into relationship with God. We too are asked to use our voice to make Christ known. We can use our gift of communication to spread faith in Christ and illustrate his values and his attitudes. In our behaviour too, we can let the Lord communicate through us. If we realise our calling to be witnesses to the light, it can shape how we live and explains why we live the way we do. The answer to the question, ‘Who are you?’ grounds the answer to the question, ‘Why do you do what you are doing?’ Advent is a good time to reclaim our fundamental identity, our Christ-linked identity. If Jesus is to be born anywhere today, it will be in the hearts of his followers.



2020年12月6日日曜日

待降節第2主日

 湯澤神父様からいただきました主日メッセージ「福音への一言」をご紹介します。


2020年12月6日 待降節第2主日(マルコ、1章1~8節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

例年であれば、待降節のロウソクに火を灯して、毎週毎にクリスマスの近いことを確かめることができましたが、今年は、待降節中の主日に一回しかミサに参加できない、一回くらいしか待降節を祝えないということが起こり得ています。しかし、待降節の毎日曜日の福音を読み、できれば毎日の福音を読む時、日々クリスマスが近づいてくる足音を感じ取れるのではないかと思います。特に17日からの降誕祭前の九日間(ノヴェナ)の福音は、誕生物語の誕生前の部分が読まれますから、近づく足音をより切実に感じ取れます。

さて、今日の福音は、キリスト到来の先駆者として理解された洗礼者ヨハネの登場の場面です。『マルコ福音書』は、福音書のタイトルを表すような始まりを持つ唯一の福音書で、イエス様が神であり、キリストであることを理解してもらうために書かれました。もちろん福音書を聞く人たちは、それを信じる信徒ですが。とにかくマルコは、洗礼者ヨハネの宣教から福音書を書き始めています。この最初を聞くと、なんとなく「いよいよ、始まる」という、映画や演劇や演奏会の幕あけ直前の緊張感に似た気持ちになります。旧約聖書の預言書の引用をもつ書き出しは、この緊張感に荘厳さをも加えています。

洗礼者ヨハネは、先駆者ですから、幕開けを告げるものです。そこにはこれから登場して来るキリストと洗礼者との違う面があります。その大きな違いの一つが、「わたしは水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」ということです。「聖霊で」とは、単に洗礼の方法や道具を意味しているわけではありません。また、後の時代のように、「聖霊」というと三位一体の一つの位格だけを指しているわけでもありません。旧約時代の神の霊の働きのように、もっと広い意味合いを持っています。旧約聖書には、神の霊がある人に下ると、その人が預言し始める、と言った例があります。

つまり、「その方の洗礼は、神様の霊の働き、神様の力によるものです」といった意味にもとれるでしょう。もちろん神様はいつでも働いておられますが、キリストの登場は、まさにそれ自体が、神様が私たちを新たにする、救うために直接働いてくださる、そうした時の始まりなのだという意味合いです。それは、私たち自身が変えられ、変わっていく時でもあるのです。私たちが待降節に待つ、その期待感、緊張感は、ここから来るのです。「いよいよ始まる」が「身に起こる」という感覚です。

クリスマスは、アドヴェント・カレンダーをめくるような待ち方もあるでしょうが、日々訪れてくれる神の訪れと結びつけていくとき、今年はただ一度の待降節のミサにしかあずかれないかもしれませんが、待降節、そして御降誕がより期待感と緊張感に満ちた「いよいよ始まるが身に起こる」という緊張した感覚で過ごすことができるのではないかと思います。

2020年11月28日土曜日

待降節第1主日

今日から待降節、新しい典礼暦年が始まります。

待降節を迎えるにあたって、11月28日にクリスマスの飾りつけを行いました。



松村神父様からいただきました主日の福音メッセージをご紹介します。


『「目を覚ましていなさい」と言われ、いつまで目を覚ましていればいいのだろうか。果たしてその時とはどんな時なのだろうか。体力が限られている私たちに「起き続けろ」ということなのだろうか?聖書によく出てくる「目を覚ましていなさい」という言葉は時にはプレッシャーに聞こえる言葉であるが、福音書は喜びの知らせ。きっとそこに喜びがあるはずと捉えてみよう。そこでこの疑問を解くヒントとして、“時”の捉え方を整理してみてはどうだろう。

私たちは何かがやってくる瞬間を量的な時で考えます。例えばおなかが減った時、誰かと待ち合わせている時などは時間に伴う動きが解決します。しかし空が雲で覆われている時に突然一筋の光の筋が見える時があります。雲に覆われていた空が晴れなければ光が差し込まないと、ただ時間が経つのを待っている時がありますが、その時は突然しかも一瞬だけやってくることがあります。予測もつかないし対応はできない瞬間があります。逆にスコールなど、晴れている時に突然雨が降ることもあります。その地域の特性で雨が降ることがわかっていれば傘などを用意はできるでしょうが、旅先で突然見舞われると対応に困ります。このように予測できる時と、突然やってくる時があり、私たちは量的時間で測れない時がある事を知ります。さらに濃い時間、無駄な時間、貴重な時間など、他と比較ができないといった時間自体を質で測ることもあります。

今日の福音は、この時を瞬間の時と質の時と捉えるとどうだろう。「突然やってくる時」そして「目を覚ますべき質としての時」。3週間ほど前にミサで読まれた福音「賢い乙女と愚かな乙女」の箇所では花婿を迎えるために準備する油をめぐってやり取りされたが、油は分けられるものであったのに対し、内面にある花婿を迎える「愛」や「希望」というものは分けることは出来ない。つまり準備するのは灯の油とは物量ではなく質そのものであることが示されていた。今日の時も質を向上させ、いつでも対応できる準備をすることを大切にすると解釈すれば、私たちは今からそれに対応できる体と心づくりを始めることが問われているのだろう。急に腹筋が割れるわけもなく、長い距離を走れるわけでもない。つまり日ごろの体調管理が大事な様に心づくりも必要なのだ。御降誕にむけて、また新たな共同体づくりにむけて、そして今訪れているコロナ対策に向けて「明日からします!」とダイエットのように振舞うのではなく、今この瞬間からできる実践を始めることに意味があるのです。

先々週の福音「タラントの話」にあるようにタレントをいただいた私たちは、一人一人に与えられている個性を輝かせ、自分なりの歩みに任され一歩踏み出す勇気が与えられていることに喜びを感じたい。聖書の言葉で語るならば、一日でも早い預金は利息が多く付くからである。心豊かになることを望む主人の姿は、この1カ月のミサの朗読の中にふんだんに隠されていた。そして今日の福音にある主人である神様は、私たちを信じて仕事を託して旅に出られている。これは門番を信頼している主人の愛。私たちも応えられるように、神様の信頼と愛を感じながら今からできることを行う者になっていきましょう。「待降節に入りました」という準備の挨拶は、怠け心の多い私たちに「実践を再開する時です」という合図なのです。』


2020年11月22日日曜日

王であるキリスト

 今年4月から、当教会を含む3教会(北11条、北26条)の協力司祭を務めておられますウルバン・サワビエ神父様(フランシスコ会)から、11月22日「王であるキリスト」の福音メッセージをいただきましたのでご紹介します。

 ウルバン神父様の前任地のカトリック戸塚教会ホームページに掲載されている転任にあたってのご挨拶と写真を転載させていただきます。

戸塚教会だより 2020年4月号 No.188 


【福音メッセージ ウルバン神父様】

2020.11.22 王であるキリスト

ウルバン・サワビエ神父 

今日は王であるキリストの祝日です。

この日はあんがい新しい祝日です。私は子供の時通った教会には大きな十字架がありました。そのイエス様の姿の十字架か私は好きでした。十字架の釘は大きかったけれども子供にとって恐ろしくなかった。体に傷と血があったがそれも痛そうに見えなかった。頭に冠があったが、冠にとげはなかった。王の輝く冠でした。イエスは手を広げて偉大なる力のある姿を現した。本当に王の姿でした。王らしい顔、優しい目のまなざしでずっと遠くまで見ているようがしました。誰を見て、だれを探しているでしょうか。イエス様、ぼくをも見ているかと聞いたこともありますが、私のほうへ見てくれませんでした。やっぱりイエス様は王様だ。この優しい、強いイエス様についていきたいと思いました。それで9歳に侍者になった時、いつも丁寧に、また丁寧に十字架の前に深いおじぎをしました。この故郷の十字架のイエス様はつねに心の中に残りました。

終戦後になって王であるキリストの祝日の時でした。私たち若者はみながある大好きな歌を生き生きした声で歌いました。 ‘わが王キリストよ、あなたのみ愛することを誓います、美しい白い百合のような愛、また忠実を、死に至るまで’。それを何回も張り切って歌いながら、体も心も熱くなって、心は革新と喜びにあふれた。やはりキリストは私たちの王です と私たちが深く感じました。

何年か後のことでした。渋谷か新宿駅のラッシュアワーに大勢の人々の間を歩いた時、人の大群衆でびっくりして、人に酔っていました。こんなに大勢の人を見たことはありませんでした。海の波のように見えました。その時思ったのは:イエス、あなたはどこにいるのか。あなたはここでも王なのか?あなたをどこもみえません。皆はあなたを知りません。あなたはいったいどこにいるでしょうか。何回も寂しそうに、悲しそうに心の中で言った。ある時声が聞こえるようにした。心配するな。私は皆の主、皆はわたしの子供ではないか。誰も私を知らなくても、私が一人、一人をしている。私はみなに命を与えたのではないか。私の手から出た心は愛に飢えている。またその心に私の声が聞こえる、私の慰め、励ます声。そしていつか私に会う。

40年前に数人の若者とともに韓国へ行きました。韓国戦そのあとで、生活はまだ厳しかった。ある日私たちはライ病者の村にも行きました。貧しいわら小屋の村でした。ある小屋の前に一人の男の人が座って誰かに自分の足を出した。その足の下はもうきえて、その足の残りの中から血とうみが流れ出た。その人の前に一人が土の上で座って病人の足を手にもって、それを治療して、血とうみを丁寧に洗っていた。私は王であるが、私が来たのは使えられるためではなく、使えるために来たと知った。その時私は心の底まで感動した。イエス様の姿が見えた。今日イエス様私とあなたを見ています。静かな声が聞こえるでしょうか。私について来ますか。あなたは最も小さな者にしたのは私にしたのである。


2020年11月15日日曜日

年間第33主日

 レイ神父様からいただきました年間第33主日の福音メッセージをご紹介します。



第一朗読は箴言(31・10-13, 19-29, 30-31)からです。本日選ばれた箇所はこの本の最終章の最後の半分で、理想的な妻への賛歌です。作者は、賢く、慎重で、働き者の妻は夫の人生に、そしてその民族に果たす役割が大いに賞賛されるに値すると見ています。

第二朗読は聖パウロのテサロニケの教会への手紙(5・1-6)からで、ここでパウロはキリストの再臨について議論を続けています。彼同様に、テサロニケの改宗者たちはその再臨の時期についてよくわかっていると言いました。説教の中で、それは突然であろうと主は言われたとパウロはすでに語ってましたが、このことは彼らを心配させるのではなく、毎日信仰の内に生きているため、彼らの準備は出来ているということです。

福音書はマタイ(25・14-30または25・14-15、19-21)からです。このたとえの教えは福音書の全てがそうであるように、初代の信者と同様に今日の私たちにも当てはまります。キリストや聖なる父との関係において、今日の私たちの世界は一世紀のパレスチナとよく似ています。キリストと神には反対する者と従う者がおります。今日の反対者はキリストの時代にファリサイ派の人々やそのリーダーたちの行動と同じ理由をもっています。彼らは約束の地、快楽と贅沢の王国を地上で求め、世俗的なものへの限りない自由が欲しいのです。うぬぼれたプライドは彼らの基準に合わない神格や神聖な権威には頭を下げようとはしません。ファリサイ派の人々のようにキリスト教は真実ではなく、キリストは君臨せず、最後の審判の日は来ないと思いこみ続けようとしています。

しかし、キリストや神を排除しようという努力にもかかわらず、小さな良心の声は完全にだまらせておくことはできません。かれらの愚かさをしつこく気付かせます。「飲み、食べ、寝て、楽しく」という快楽主義の言葉が響かない時もあります。努力に忠実なキリストに従う人々にはこのたとえばなしは励みであり慰めとなります。時には私たちの進み道を阻むものがあり、闘いは果てるともなく思えます。しかし神は私たち一人一人に最終の勝利を確実にする必要な助けを与えます。これらの助けは各自の必要に応じて与えられます。たとえ話にある5と2タラントンを預けられた僕たちはそれらを忠実にうまく使いました。1タラントン預かった者は1タラントンしか必要なく、忠実な僕であったなら、それをうまく活かすことができたはずでした。

永遠の幸せとは、この世で忠実に行ったことへの神聖な報酬です。3人目の僕の間違った言い訳は今も私たちの間で様々な形で繰り返されています。「神は厳格すぎる。そんな犠牲を払うことを私に期待できない。自分の為に備えなければならない。約束と脅しは単に口先だけかもしれない。清算しに、数えるために戻って来ないかもしれない。」これらの言い訳はこのたとえばなしでは間違っているとされています。

神は私たちのことをいつも心にとめてくださる優しい父です。私たちが必要な犠牲を払うことを大いに期待されてます。その方法はゴルゴタの地で示されました。神のために働くことで私たちは自分たちの未来に備えているのです。神からの栄光と私たちの永遠の救いは労働への等価です。神はもちろん清算するために戻ってこられますが、そのとき何か変えようとしても遅すぎます。賢くありましょう。まだ時間があるうちに訂正すれば、私たちの帳簿は計算の日には整っていることでしょう。

元の説教はフランシスコ会、ケビン・オサリバン神父により書かれたものです。


November15、2020

33rd Sunday in ordinary Time Year A

Sunday Readings

The first reading is taken from the Book of Proverbs 31:10-13, 19-20, 30-31. The verses chosen for today are taken from the last half of the last chapter of the book and are a hymn in praise of the ideal wife. The author saw to it that the part that a wise, prudent and industrious wife plays in a man's life, and hence in the life of the nation, deserved to be stressed and admired.

The second reading is from the first Letter of St. Paul to the Thessalonians 5:1-6. In this reading St. Paul continues his discussion of the parousia. He tells his Thessalonian converts that they know as much as he does about the time of that second coming. He had already told them in his preaching that our Lord had said that it would be unexpected. However, this need not frighten them, they would be prepared because they were living their Christian faith every day.

The Gospel is from St. Matthew 25:14-30 or 25:14-15, 19-21. The lesson of this parable, like all the teaching of the gospel, is as applicable to us today as it was to the first generation of Christians. In its relation to Christ and to his divine Father our world today is very similar to first century Palestine. Christ and God have opponents and followers. Their opponents today have the very same reasons that moved the Pharisees and leaders of the people in Christ's day. They want their messianic kingdom here on earth, a kingdom of pleasure and plenty; they want no limits set to their freedom to

follow their own earthly inclinations. Their pride in their own self-exalted dignity will not let them bow the head to any deity or divine authority which does not conform to their standards. Like the Pharisees they keep on trying to convince themselves that Christianity is not true, that Christ will not reign, that there will be no day of reckoning.

Yet with all their efforts to get rid of Christ and God, the small inner voice of conscience is not completely silenced. It has the nasty habit of reminding them of their folly. They have their troubled moments when the epicurean motto "eat, drink, sleep and be merry" does not somehow ring true.

For the followers of Christ who are sincere in their efforts, the parable has a message of encouragement and consolation. At times the road we have to travel seems strewn with obstacles, our battles seem never-ending, yet God has provided each one of us with the necessary helps to ensure the final victory. These helps are given according to each one's need. Those servants in the parable who received five and two talents used them faithfully and successfully. He who received one talent needed only one, and could have succeeded with it had he been a faithful servant

Eternal happiness is the divine reward for an earthly service faithfully rendered. The false excuse of the third servant is repeated in many forms among us still "God is too austere, he could not expect me to make such sacrifices. I have to provide for myself; his promises and threats may be only empty words. He may never return to demand a reckoning, to settle accounts with us. These and all other such excuses are proved false in this parable.

God is a kind Father who has our eternal interests at heart. He does expect us to make the necessary sacrifices. He showed us the way on Calvary. When working for God we are really providing for our own future; his external glory and our eternal salvation are the fruits of the same labor. He will certainly return to settle accounts—it will then be too late to make any changes. Let us be wise and make the changes now while we have time and then our books will be in order on the day of reckoning.

This homily was originally written by Fr. Kevin O'Sullivan, O.F.M.

2020年11月8日日曜日

年間第32主日 福音への一言

 湯澤神父様からいただきました主日メッセージ「福音への一言」をご紹介します。



2020年11月8日 年間第32主日(マタイ、25章1~13節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

今日の福音は、『マタイ福音書』の第五の説教集の後半に出てくる一つのたとえ話です。この部分は弟子たちに向けられた話で、一般の人たちに向けられたものではありません。つまり、キリスト者である私たちに向けられた言葉です。この前にあるノアの箱舟のたとえ話に出てくる、「目を覚まして」いなさいという言葉がここにも出てきます。どうやらこの言葉がこれらのたとえ話にとって重要な言葉のようです。この「目を覚まして」は、第一朗読にも登場してきます。ところが、この十人の乙女のたとえ話では、全員が眠りこけてしまいますから、「目を覚まして」とは、単純に「眠らない」ことを意味しているのではなさそうです。

ところで、「終活」という言葉を皆さんはご存知でしょう。今から十年ほど前から知られるようになった言葉で、自分の人生の終わりに向けた活動を意味しています。具体的には、遺言書を書いたり、お葬式や墓の準備をしたりなど、自分の身の回りの生前整理を意味していました。しかし、次第に「人生の終わりを考えることで、今をよりよく生きるための活動」を意味するようになりました。私たちは、「人はいつかは死ぬものだが、差し当たって今ではない、自分ではない」と自分とは無関係のものとして片づけています。しかし、終活は、その死を個人化します。即ち、自分の死を、自分の今の問題として取り上げ、今の自分を振り返り、意識して今を生きることを意味しています。

マタイのこの説教集は、神の国、特に終わりについてのイエス様の言葉で、旧約時代からある「黙示的説話」の形をとっています。この特徴の一つは、世の終わりについて語りながら、具体的個人的な今に目を向けさせることです。「死の個人化」に似ています。つまり、世の終わりを考えることで、今をよりよく生きることを勧告しています。『コへレトの言葉』の中に有名な「時の詩」があります。「すべてに時がある。……生まれる時、死ぬ時……泣く時、笑う時……抱擁する時、抱擁を遠ざける時……愛する時、憎む時」。コへレトは、まさに日常のあらゆる瞬間、それらの時が、神様の時、神様と触れる時になると述べています。

乙女たちにとって、居眠りしているその時が、「その時」になりました。「その時」、神様の声が聞こえます。「その時」は、灯を灯して、照らさなければならない「時」です。その「時」、油がない。油が必要な時に用意がなくて相応しく応えられない。その「時」肝心の物が用意できていない彼女らを「愚か」と呼んでいます。もしかしたら、そういう神様の時がある事にも気づいていないからかもしれませんね。神様の時、神様と出会う時、それは、日常茶飯事の出来事や人々の中にあるのです。「知恵の書」の言葉は、「(日常の彼方に)知恵(神様)に思いをはせることは、最も賢いこと、知恵(神様)を思って目を覚ましていれば、心配も消える」と読むこともできます。          湯澤民夫




2020年11月1日日曜日

11月1日「諸聖人」

 松村神父様からいただきました主日の福音メッセージをご紹介します。


幼稚園児のハナコちゃんは、両手いっぱいにお菓子を握りしめながら私のところにやってきた。ちょうどシュークリームをもらったのであげようとしたが、突然泣き出した。「どうしたの?」と声をかけると、両手のお菓子は大好きなお友達からもらった大切なお菓子でした。でも好物のシュークリームも欲しい。手のお菓子を置く場所もない。選びたいのに選べない心の葛藤。子どもらしい姿でありながら、そこから私たちの至らなさも気づかされたことがあった。

さて、山上の説教と呼ばれる冒頭の言葉「心の貧しい人々は、幸いである」という呼びかけは、本来「なんと幸いなることだろうか!」という驚きの呼びかけの知らせであった。マタイ福音書ではその前に病人を癒す場面が描かれていることから、イエス様ご自身がおびただしい病人を癒しながら、ご自身につき従ってきた人々をご覧になり感激したのではないだろうか。今日の喜びのメッセージはこのようにイエス様も貧しい人々から元気をもらったと理解したい。私もハナコちゃんから学ばせてもらったからである。

本来の貧しい人々は、権力者から虐げられた人々を指す。お金・権力・経験・伝統・制度などなど、人間の活動や社会の活動によって積み重ねてきた物における圧力に押しつぶされている人々を指すのではないか。しかし、いつもイエスはその正反対の場に出向き、癒し慰め勇気を与えてきた。しかし与える以上にイエス様ご自身がいつも感情豊かに、時には憤慨し、時には逆上し、時には感動していた。イエス様の心を動かしたものは人々の目が届かないところにある信仰の強さなのでしょう。それがイエスを知らない人であっても、神と唱えなくとも、救い主を求める姿の中に見出したのかもしれない。異邦人に対して、また異邦人の土地における癒しはまさにそのことを物語る。

この地上において能力を持つということはそれぞれの分野で選ばれた人だけに与えられるかもしれないが、弱くなることは誰にでもできる。子どもが大人に突然なることは出来ないが、子どもを体験している大人が子どものようになることが出来ることと同じである。貧しくなる事とは、回心して自分が持つ何かを捨てる事であろう。断捨離すれば身軽になる。物を持てば引っ越しは大変である。私たち司祭が転勤するたびにそのことを強く感じる。身軽になればどこにでも行くことが出来る。心身ともに所有することに固執しない生活を送りたいものだ。ハナコちゃんはそれを私に教えてくれたのだった。

聖人とは必ずしも私たちが理解するような立派な人ではありません。失敗も犯すような私たちと変わらない人です。罪もあります。しかしそれ以上にその人が活動や救い主である神へと、多くの人を導く活動を行えた人びとなのでしょう。皆さんも是非周りの人たちを眺めて聖人がいないか探してみてはいかがだろうか。かつてヨハネパウロ二世は青年たちに強く呼びかけました。「あなた方も聖人になりなさい!」と。実は私たちも聖人の延長線上におり、その可能性が開かれているからです。


2020年10月25日日曜日

年間第30主日

 レイ神父様からいただきました年間第30主日の福音メッセージをご紹介します。



年間第30主日A年
2020年10月25日

物事の本質

世の中はますます複雑になってきています。私たちは物事の本質を精査拡大し、多次元から捉えることのできる人々を評価します。そのような人たちは私たちが‛木を見て森を見ず’ということを防いでくれるのです。何がほんとうに重要であるか、重要ではないか、を仕分けするのにすぐれています。大事でないものに気を取られず、本当に価値あるものに私たちのエネルギーを使うよう仕向けてくれます。

イエスは物事の本質のとらえ方を知っている方でした。ある時、ある人が家族内相続のいざこざの仲裁をイエスに頼みました。問題を具体的にお答えになる代わりに、その人に「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」(ルカ12章13-15節)と言われました。本当の問題はその特定の事例の詳細ではなく、いざこざの底流にある貧欲であると見抜かれたのです。

このイエスの物事の本質がわかる能力は、今日の福音朗読でファリサイ派の一人から発せられた質問の答えに明確に表れています。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスの時代にはユダヤの律法には613の掟があったと知られています。

ここで‛木を見て森を見ず’という可能性は大いにありました。細かな規則を優先させることは、何が本当に大切なのかを見落とす結果になり得ます。例えば、「ぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる(マタイ23章24節)」とあるようにです。イエスはそのファリサイ派の質問に、ユダヤの律法の核心に真直ぐに入ってお答えになりました。どの掟が最も重要であるかと尋ねられた時、イエスはまた、第二の大切な掟も挙げました。最初の掟、「心を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛せよ」は隣人を自分のように愛するという掟から離れることはできないからです。イエスにとって、神が私たちに何ものにもまして望まれるものは愛だからです。私たちの隣人への愛なくして神の真の愛はありません。隣人愛は、さらに、健全な自己愛、自分は本来的に善であると正しく認識することが前提です。なぜなら私は神の似姿として創造されているからです。


30th Sunday in Ordinary Time Year A

October 25, 2020

The heart of the matter

Life is becoming increasingly complex. We value people who have the gift of getting beyond the multiple dimensions of an issue so as to zoom in on the heart of the matter. Such people prevent us from missing the wood for the trees. They are good at separating out what really matters from the things that are less important. They encourage us to invest our energies in what is really worthwhile, rather than allowing them to be dissipated by what is not significant.

Jesus was a person who knew how to go to the heart of the matter. On one occasion someone asked him to intervene in a family dispute about inheritance. In his reply, he ignored the concrete issue and, instead, he called on the person who approached him to “Be on your guard against all kinds of greed” (Lk 12:13-15). He saw that the real issue was not the details of the particular case but the greed which underlay the dispute.

This capacity of Jesus to get to the heart of the matter is clear from his response to the question put to him by one of the Pharisees in today’s gospel reading, “Master, which is the greatest commandment of the Law?” In the time of Jesus there were known to be 613 commandments in the Jewish Law. 

The potential here to miss the wood for the trees was enormous. Preoccupation with the detail of regulations could result in people ignoring what really matters, like straining out a gnat but swallowing a camel (Mt 23:24). Jesus answered the Pharisee’s question by going straight to the heart of the Jewish law. He was asked if there is one “greatest” commandment, but in reply he named the second greatest commandment as well. For the first commandment, loving the Lord your God with all our heart and soul, is inseparable from the conjoined commandment, of loving my neighbour as myself. For Jesus, what God wants from us above all else is love. There is no genuine love of God unless it finds expression in love of our neighbour. Love of neighbour, in turn, presupposes a healthy self-love, recognizing and appreciating myself as fundamentally good, because I am created in the image and likeness of God.



2020年10月18日日曜日

年間第29主日 「世界宣教の日」

 湯澤神父様から年間第29主日の「福音への一言」をいただきましたのでご紹介します。



『2020年10月18日 年間第29主日(マタイ、22章15~21節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様

今日の聖書と典礼の脚注を見ると、「納税を認めなければ、ローマ帝国への反逆者となり、認めればユダヤ民衆の信望を失うことになる。どちらにしてもイエスを陥れることになる」とあります。こういう論法をジレンマ(両刀論法)と言います。「真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、誰をもはばからない方」とほめていますが、実は逃げ道をすべて塞いでいるのです。しかも、納税を好ましく思っているヘロデ党の人と好ましく思わないファリサイ派の人が一緒になって、目の前で質問しています。

また他の訳では、「納税は許されていますか」という質問を、ここでは「律法に適いますか」と訳し、脚注のように十戒の第一の戒めと関連付けています。確かに、「デナリ銀貨を神殿に捧げることは偶像崇拝に当たる」という伝承もありますから十戒と関連付けてもいいのでしょう。銀貨には、「ティベリウス・カエサル、神聖なアウグストゥスの子、最高の大祭司」と刻まれていたでしょうから。しかし、神の土地であるユダヤの土地を簒奪し、税を要求する律法的に許せないという解釈もあります。

しかし、イエス様は律法問題として捉えません。ユーモアでしょうか。デナリ銀貨を持ち出させます。上に記したように刻まれていたとしたら、持っていただけで皇帝を神聖な大祭司と認めていることになりかねません。その上で、所有者の名が刻まれているものはその名の人の所有物ですから、その人に返せばよいのではないかと答えたのです。

それは、政治と宗教を分離する根拠となった「皇帝のものは皇帝に」という有名な言葉でした。しかし、イエス様はそこで終わりにしていません。「神のものは神に」。ファリサイ派の人たちならすぐに分かったでしょう。すべては神に造られたものですから、すべては神のものです。そこで、皇帝か神かという二者択一は成り立ちません。イエス様は、一見皇帝と神を並べて、皇帝のものは皇帝に、神様のものは神様にと分けて考える考え方を教えているように見えますが、そうではないのです。「この世の富と神と両方に仕えることはできない」とかつて教えています。最終的には、神様だけが残るのです。

私たちはどうでしょう。「自分のものは自分に、神様のものは神様に」と分けていないでしょうか。神様と何か自分に都合の良いものを天秤にかけていないでしょうか。都合の良い場合だけではなく、正しさ、正義だとしても、正義の名のもとに何かと神様を天秤にかけるなら、それはイエス様の言う「神様のものは神様に」にはならないでしょう。こうした比較を成しかねない現実の日常生活においてこそ、「すべては神様の造られたもの、だからすべてを神様にお返ししましょう」というイエス様の言葉は、常に私たちの心に留めておく必要があるのではないでしょうか。                湯澤民夫』


今日は「世界宣教の日」です。教皇メッセージがカトリック中央協議会ホームページに掲載されています。

https://www.cbcj.catholic.jp/2020/10/01/21120/

2020年10月11日日曜日

年間第28主日

 松村神父様からいただきました年間第28主日の福音メッセージをご紹介します。



『年間第28主日 福音のメッセージ

フランシスコの平和を求める祈りの前半には次のように描かれています。

『わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びを・・・』と。

ここに私たちの世界が平和になるためのおいしい食事の材料が描かれています。それは「愛・ゆるし・一致・信仰・真理・希望・光・喜び」です。しかし何故かおいしくない料理、すなわち「憎しみ・いさかい・分裂・疑惑・誤り・絶望・闇・悲しみ」という素材を選びがちです。わかっているのに前者の美味しい方を選択できません。なぜならば後者の素材は選ぶのにとても楽だからで、前者は努力し、誰かと味わわなければならないものだからです。私たちは一人の方が楽と考える存在で、自分に必要な時だけ他者に頼るように創られたのです。

今日の福音は王によって招かれる王子のための婚宴の席です。皆で王子の婚宴を喜び、会食する喜びを王自ら共有したかったのですが、皆は自分の世界に閉じこもっていきました。ここに人と喜びを共有することの難しさが現われています。知り合いであっても、平気に友を裏切る存在。人間の持つ危うさが示されています。王はそんな関係性を超えて人々を招き始めます。それほど供することの大切さを訴えます。ですから招いた最初に潤びとの後に呼ばれたのは身内ではなく、声をかけ呼び込まなければ王や王子に近づくことが出来ない人々でした。イエスの時代の世界では罪びとや病を持った方、貧しいものや虐げられた人々を指すのでしょう。このように今日の福音の前半部では、この共に喜び合うことが強く強調されるほど神様の恵みは美味しくすばらしいものであることが示されています。

しかし、後半部では、それでも気を引き締めていなければ追い出されることをも同時に指摘しています。どんな人でも感謝をもって近づく必要性が求められています。どの立場であっても、いただいたものに対する感謝の念と、謙虚さが無ければ最後まで王や王子のそばにいる事が許されていないということです。呼ばれたことに満足するだけでは足りません。与えられすぎると忘れてしまう弱さにも指摘されているとみてもよいのでしょう。

私たちは総じて、神様に呼ばれたものとしてふさわしい存在に磨きをかけていくことが今日のテーマです。洋服だって汚い部分を擦って洗うのは当たり前。常にきれいな服、“キリストを着る”者でなければならない使命を受けていることを忘れてはならないのです。まずはフランシスコの平和の祈りを読み返し、一つ一つチェックしてみてください。汚れた部分を洗う作業。呼ばれた私たちが、さらに神の国に入る権利を得るための働きなのだからです。』

2020年10月6日火曜日

年間第27主日

 年間第27主日の福音メッセージをレイ神父様からいただきましたので聖書朗読箇所と併せてお送りします。


【レイ神父様メッセージ】

今日の朗読では、ぶどう畑の話が繰り返して語られています。これは神の民を象徴的に表すのに用いられます。教会の成員として、私たちは主のぶどう畑の一部分です。

 イザヤの第一朗読ではぶどう畑の持ち主(神)がぶどう畑(イスラエル)をどのように世話をしたのかが語られています。愛をもってあらゆることをして育て茂らせた。「わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、よいぶどうを植えた」。神のぶどう畑で象徴されている民とは神のよいぶどうの事です。しかしこの愛をこめた世話にもかかわらず、そのぶどう畑は酸っぱいぶどう(罪)を実らす。ぶどう畑を注意深く作り耕した持主のように、神は私たち一人一人が生まれるのを愛し世話を続け、神との友情がさらに深まるように招かれます。私たちは神の模範に従うときに神に近づき、神が私たちを愛されるようにお互いを愛し合います。しかし、あまりにもしばしば、私たちは神が私たちをそのように作られた価値に背きながら、お互いを扱います。神に従わず、背を向けたとき、私たちは罪の酸っぱいぶどうを作ります。しかし詩編の作者はイスラエルに救いと悔い改めを思い出させます。私たちは神に属し、めぐみと癒しはいつでも可能であると。詩編は神の優しい愛と保護を思わせます。「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、ほかの民を追い出して、これを植えられました」。詩人は神の保護を求めます。「すべてを治める神よ、あなたの目を注いで、またこのぶどうの木を顧みてください。あなたの右の御手で植えられた苗を守って下さい」。そして最後に詩人は神に還ることを約束します。「わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください。万軍の神、主よ、私たちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、私たちをお救い下さい」。同じように、主は私たちが背くとき赦しを求めるよう、優しい恵を受けるよう招かれます。主は私たちに新たな命を与えることを望まれます。

 第二朗読では次のように教えます。神の民として、真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なことを心に留めること、そうすれば私たちは選び抜かれたぶどうとなり豊かな実りとなるでしょう。このことを実行する一つの方法はキリストが私たちを愛するように互いを愛するのです。特にもっとも助けを必要としている人々を助けるのです。10月は“すべてのいのちを守るための月間”で、今日10月4日はその主日にあたります。毎年この時期、教会は私たちに立ち止まり、もっと深く人間の神聖な命の贈り物について考え、兄弟姉妹の命を迎え、大切に慈しみ守っていく役目について、黙想するように呼びかけます。今年、アシジの聖フランシスコの記念日はこの典礼主日に譲られます。今年は又、教皇ヨハネパウロⅡ世の回勅、“いのちの福音”(Evangelium vitae) の25周年を祝います。教皇さまはこの回勅で現代社会における教会の悦ばしい教えを示し、再確認をするために書かれましたが、それは今日でも重要です。今年のテーマはまさに相応しい“福音の生活を生きなさい”です。これはどういう意味でしょうか?イエスは地上での生涯で、私たちがどのように隣人を愛し福音の呼びかけを生き切るか、完全な見本を示されました。「はっきり言っておく。わたしのきょうだいであるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)。言いかえると、聖ヨハネⅡ世が私たちに思い起させるように、イエスは私たち一人一人に“神が私たちに責任を託された者として他者を助けるよう”(英語版87)と呼びかけられる。私たちの助けと配慮を最も必要としている人とは、あたかも彼らの命は取るに足らないものと扱われている人々です。悲しいことに、人間の命はその最初の時と最後の時に、たびたび特別な脅威にさらされます。ほんとうは保護がいちばん必要な時にです。例えば堕胎や自殺幇助は、人間の命は常に愛を向け慈しみ、守られるべきものであるという真実を悲劇的に拒んでいます。今日のアレルヤ唱の言葉を思い出しましょう。「あなたがたを世から選んだのは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るためである」。私たちは、自分のことを語れない者、自分の生活が価値のない者と感じている人々の命を守るため、辛抱強く働かなければなりません。何が出来るのか、どのように応えたら良いのか、自分自身に次のように問うてみましょう。

 私は共同体において、寄りかかる肩や手を差し伸べるのが必要な妊婦や育児中の母親を助けるだろうか。愛するものが死を目前にしておのれの命を敬う手助けを、どのようにすればいいかを私は知っているだろうか。私は自分自身が教会の教えを知らせ、まず、キリストに従うものとして市井で振る舞えるだろうか。私は人間の命を守り擁護する法律や政策を支持し、主張するだろうか。主に従い良い実りを結ぼうと努力するとき、困難に出会うかもしれない。それは手入れされず、踏みつけられ、打ち捨てられたぶどう畑のように感じるかもしれない。しかし、主は私たちを見捨はしないと知れば、力と慰めを見いだすことができます。ぶどう畑の持主は彼の大切にしていた木を忘れない(第一朗読)。今日の福音書は神の信義を明示します。神はご自分の御一人子をわたしたちの罪の償いの為に遣わされました。イエスは自らの命を、私たちがイエスと一緒に居ることが出来るようにと差し出されました。私たちはどうやってそれに答えられるでしょうか、そんなにも私たちを愛された方には愛をもってより他にありません。

 ぶどう畑で、主は良き実をもたらすと信頼して仕事に励みましょう。この“すべてのいのちを守るめの月間”にイエスのたどった道を従うように、どのようにしてあなたが特に呼ばれたのか、イエスにたずねてみましょう。あなたの隣人の命、特に最も弱い者のためにどのようにしてイエスはあなたに呼びかけたでしょうか。祈りと請願により私たちの願いが神の知るところとなるよう歩み続けましょう(第二朗読)。そこで私たちがうながされているように「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい」。主に頼みましょう、流れ出る恩恵、ことに英知の恵み、謙虚さ、勇気、又、開かれた寛大な心を、そして、私たちが福音に従った生活をするようにとの主の呼びかけに答えられますように。 


27th Sunday in Ordinary Time Year A, October 4, 2020

In the Lectionary readings, we are presented with the recurrent theme of the vineyard, which is used to symbolize the people of God. As members of the Church, we are part of the Lord’s vineyard.

The First Reading from Isaiah describes how the vineyard owner (God) cared for his vineyard (Israel), doing everything he could to help it grow and flourish in his love: My friend had a vineyard on a fertile hillside; / he spaded it, cleared it of stones, / and planted the choicest vines. The people symbolized by God’s vineyard are his cherished plant. But despite this loving care, the vineyard only produces wild grapes (sin).Like the owner who took such great care in the creation and cultivation of his vineyard, God loved each of us into existence and continues caring for us, inviting us ever deeper into his friendship. We draw closer to him when we follow his example and love one another as he loves us. But, all too often, we fail to treat one another according to the dignity with which he made us. When we don’t follow God, and instead turn away from him, we produce the wild grapes of sin. Yet, as the Psalmist reminds Israel of its need for salvation and repentance, we are reminded that we belong to God, and that mercy and healing is always possible. The Psalmist recalls God’s tender love and care: A vine from Egypt you transplanted; / you drove away the nations and planted it. The Psalmist seeks God’s protection: Once again, O LORD of hosts, / look down from heaven, and see; / take care of this vine, / and protect what your right hand has planted. And finally, the Psalmist promises a return to God: Then we will no more withdraw from you; / give us new life, and we will call upon your name. / O LORD, God of hosts, restore us; / if your face shine upon us, then we shall be saved. Similarly, the Lord invites us to seek forgiveness whenever we turn from him, and to receive his tender mercy. He wants to give us new life.

The Second Reading tells us that, as God’s people, we are called to seek what is true, honorable, just, pure, lovely and gracious, so that we can be the choicest vines, producing an abundant harvest. One of the ways we do this is by loving one another as Christ loves us, especially by caring for those who are most in need. October is Respect Life Month, and today (October 4) is Respect Life Sunday. Each year at this time, the Church calls us to pause and reflect more deeply on the sacred gift of human life and our role in welcoming, cherishing, and protecting the lives of our brothers and sisters.

This year, the feast of St. Francis of Assisi gives way to this Sunday’s liturgical celebration. This year we’re also celebrating the 25th anniversary of Pope Saint John Paul II’s encyclical The Gospel of Life(Evangelium vitae). Our Holy Father wrote this document to reaffirm and present the Church’s joyful teaching on human life within the context of modern times, and it remains relevant today. This year’s theme is appropriately," Live the Gospel of Life.” What does it mean to live the Gospel of life? In his earthly life, Jesus provided the perfect model for how we are to love our neighbor and live out the Gospel call: “Truly, I say to you, as you did it to one of the least of these my brethren, you did it to me” (Mt. 25:40). In other words, as Saint John Paul II reminds us, Jesus calls each of us to "care for the other as a person for whom God has made us responsible” (EV 87). Some of those who most need of our care and attention are those whose lives are treated as if they don’t matter. Sadly, human life often faces particular threats at its beginning and end—precisely when it is most in need of protection. For example, practices such as abortion and assisted suicide tragically reject the truth that human life is always to be cherished and defended with loving concern. Let us recall the words of today’s Gospel acclamation: I have chosen you from the world, says the Lord, to go and bear fruit that will remain. We must persevere and work to protect the lives of those who cannot speak for themselves or who feel as if their lives are not worth living. What can we do? How do we respond? Here are some questions we can ask ourselves…

Do I help pregnant and parenting mothers in my community who need a shoulder to lean on or a helping hand? Do I know how to support a loved one nearing death in a way that respects the gift of his or her life? Do I inform myself of the Church’s teachings and engage in the civic arena as first a follower of Christ? Do I support and advocate for laws and policies that protect and defend human life. In our efforts to follow the Lord and bear good fruit, there may be times when it is difficult. It may feel like the vineyard has been neglected, trampled, and laid to waste. But we can find strength and comfort in knowing the Lord has not abandoned us. The keeper of the vineyard has not forgotten his cherished plant (First Reading). Today’s Gospel demonstrates God’s faithfulness. God sent his own Son for the sake of our redemption. Jesus gave his own life in order for us to be able to be with him. How else can we respond, except with love for the one who has loved us so much? Let us be encouraged to labor in the vineyard, trusting that the Lord will bring forth good fruit. During this Respect Life Month, ask Jesus how he is specifically calling you to follow in his footsteps. How is he calling you to care for the lives of your neighbors, especially those who are most vulnerable? Let us continue, by prayer and petition, to make our requests known to God(Second Reading). As the Second Reading encourages us: Keep on doing what you have learned and received and heard and seen in me. Let us ask the Lord for an outpouring of grace, especially the graces of wisdom, humility, and courage, as well as open and generous hearts, that we may respond to his call to Live the Gospel of life.



2020年9月27日日曜日

年間第26主日

 湯澤神父様からいただきました主日メッセージ「福音の一言」をご紹介します。


2020年9月27日 年間第26主日(マタイ、21章28~32節)

✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様
 今週の福音の個所も、マタイだけが伝えているイエス様のたとえ話です。このたとえ話をするきっかけとなったのは、イエス様が神殿を清めるという出来事です。神殿で商人を追い出したイエス様に対して、大祭司たちが詰問します。「何をするのか。そんなことをする権限があるのか。何の権威でそんなことをするのか」と。その問いに、イエス様は、謎めいた話で問い返しています。「何の権限があって、洗礼者ヨハネは、洗礼を勧めたのだろうか」と。応えられない大祭司たちに対して、イエス様は、何も答えを出していませんが、三つのたとえ話で答えへと導いていこうとしています。その最初のたとえ話が今日の福音のたとえ話です。

 その最初のたとえ話での「キーワード」は、「考え直す」という言葉です。かつて、洗礼者ヨハネは、「神の国は近づいた。悔い改めなさい」と呼びかけました。イエス様も同じ言葉を繰り返しています。既に神様が働きかけている。神の国は到来している。だから、悔い改めなさい。心を神に向けなおしなさい。「考え直しなさい」と。

 心を神に向けなおして、その時何に気づくかというと、「神の国の到来」です。神の働きかけ、神の呼び掛けです。考え直して気づければ、受け入れ、それに応えるはずです。このたとえ話では、兄は「望み通りにしました」し、徴税人や娼婦たちは「信じ」ました。兄は、父親の語り掛けだと気づき、徴税人たちは、神の呼び掛けだと気づいたのです。呼び掛けている父親、呼び掛けている神様、そこに権威があります。イエス様の話では、洗礼者ヨハネの出来事は、イエス様の出来事の先駆的前例です。ヨハネの働きに神の働きを見抜けないなら、イエス様の働きの中に働いている神の働きに気づけません。

 イエス様は「律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えられた」(Mt.7.29)と感じた人たちに対して、表面には見えない神様が権威として背後にあることを教えています。そして、これから起こる受難の出来事を迎える人々に対しては、神の働きを見るようにという呼びかけにもなっているのです。それができれば、信仰とそれに伴う応えが生まれてきます。お兄さんが働きに行き、徴税人が信じたように。

 マタイは、この例え話を、当時のユダヤ教の指導者たちに向けられたものとして書いていますが、おそらくマタイの時代の信徒にも向けられていると理解しただろうと思います。そして、わたしたちは、現代の私たちにもむけられていると捉えることができます。私たちは今、コロナの時代にあって、分散ミサを行っています。もし、私たちがただただ制度としての教会を維持し、ミサを行い、聖体を拝領することだけに汲々としているなら、このたとえのイエス様の言葉に耳を傾けるべきではないでしょうか。「私の出来事と言葉を、もう一『見直しなさい』、もう一度『考え直しなさい』」。
                                 湯澤民夫



2020年9月19日土曜日

年間第25主日

松村神父様から「敬老の日」の祝福をいただきました。

この日の「福音のメッセージ」と併せてご紹介します。

【敬老の日の祝福メッセージ 松村神父様】

「敬老の日」を迎えるにあたり、今日ミサに来ている方々をとおして、全ての皆さんを祝福したいと思います。

 若い時代は、物事を自分に身に付けるために、勉強したり、いろいろな技術を身に付けたりと一生懸命頑張ります。そして中堅になってくると今度は、身に付けたものをどのように良い質で提供できるか、たくさん受けた愛を今度は人々にもたらす為に、家族や職場や友人たちに対して良い愛を伝えようと切磋琢磨するわけです。高齢になると、今度はどんどんいろいろなものが削ぎ落とされていき、いろいろな支障がおき、出来ることも出来なくなっていくということは当然あります。しかし、それは今まで身に付けた事が出来なくなったことであって、核になる部分が無くなったわけではありません。

 先日、病者訪問に行ったときにお話ししたことですが、このことは「竹の成長」に例えられるかもしれません。竹の子は土から芽を出すと、どんどん大きなり、外側は固くなり、やがて天高く伸びていきます。竹はそれで終わりかというとそうではなく、切られた後、中にある節や空洞があることで、人々に豊かなものを提供してくれます。私も子供の頃に水鉄砲を作ったり、流しソーメンをしたりしました。それは竹細工のように表面だけの良さではなく、中にも素晴らしい使い方が残っているということでしょうか。

 私たちは竹のように、いらなくなったものが削ぎ落とされて無くなっていくように思えるけれども、最後に残った空洞の中にある素晴らしさ、実はこれが高齢の方々の一つの使命なのかなと思います。

 日本は2030年には超高齢化社会を迎えようとしています。そして教会も同様です。そんな中、これからの社会はますます高齢の方々の働きが重要になってくるのではないかと思います。もちろんそこには、教会に来られなくなるという悲しさもあります。

 先ほどもお話したように「見える形でしか見えない教会」ではなく、教会に来られない、来ていない方々の中にある信仰というものを、私たちは大事にしていかなければなりません。


【福音のメッセージ】


マタイによる福音書 20章1~16節

松村繁彦

今日の福音はなんと理不尽な話だろうか?と誰もが叫ぶ聖書の話ではあります。しかしそんな話がなぜ堂々と聖書に、ましてや福音(喜びの知らせ)として描かれているのかを考えれば、私たちに伝えようとしていることが見えてきます。皆さんが今日の福音を自分にとっての喜びの知らせとして受け取るには、ある固定概念を捨て去らない限り理解できないことでしょう。その固定概念とは“一般(社会常識)”と“嫉妬と妬み”です。もちろん常識を否定するつもりはありませんし、人と比べることが悪いことでもありませんが、私たちはあまりにもそれに縛られすぎていることもあるでしょう。私たちは社会の中で生きる者として常識を持たなければ「皆と共に歩む」ことは出来ませんが、そこに潜む人の弱さとして、人と比べて優位に立つことで安心したいという誘惑にかられます。それは比較が正しい評価ではなく自己満足な評価に陥ってしまいます。

ぶどう園に送る雇用者は労働の量や質や成果で評価はしていないというのが今日のメッセージなのでしょう。それは雇用者と労働者の間だけで行われる信頼された契約に基づくもので、二人の間にある深い絆を示しています。一人一人意欲も違えば目的も違い、背負っている課題も違えば能力も違いますが、朝にも昼にも夕方にも人を見つけては“①近寄り”声をかけ、“②ふさわしい対価”を約束し、“③行きなさい”と派遣します。ふさわしいというのは他の者との比較に基づく“正当性”ではなく雇用者による望みの“義”であり、雇用者の権威によって労働の場へ“送り出し”をします。これは一人一人弟子が選ばれる召命の物語として捉えると、私たちが選ばれた理由が見えてきます。神に選ばれた喜び、「あなたを!」と名指しされて派遣されている喜びを、至らなく限界のある自分に目を留められたことに、感謝と自信と雇用主への誇りをもって人生を歩んでいきたいものです。

聖母マリアの賛歌にある「目を留めてくださった(ルカ1:48)」という喜びの言葉を思い起こしましょう。嫉妬や妬みに陥る時に、先週の“赦しの指導”を思い起こしましょう。

この一週間が皆さんにとって前向きなものとなりますように。場は離れていたとしても心を一つにして共に歩んでまいりましょう。


2020年9月12日土曜日

年間第24主日メッセージ

年間第24主日のテーマは「ゆるし」です。

レイ神父様から届きました主日メッセージをご紹介します。


『赦しは善きことです

憎みや憤りは、熱心に善い行いをしようとしても、それを食べてしまう心の癌です。厳しい正義を掲げても難問題の解決には充分ではありません。相手の目を取っても、己の失った目を直すことにはならず、そして復讐は憤りを本当に解決することにはならないからです。しかし、赦しはそれを得、保つのは困難な徳です。今日、ペテロがイエスにたずねた中でその問題を感じ取ることができます。「何回赦すべきでしょうか?」イエスがいわれた「七回」は「人間らしく可能な限りたくさん赦す」というおおよそ象徴的な赦しの意味に使われていますが、イエスはまださらに先まで行くようにすすめます。なぜなら神は「七十七倍」(或は七の七十倍)赦されるからです。赦しとは単に頻度とか回数ではなく、むしろそれは神の終わることのない赦しの気持ちを映すのです。神の赦しには限界はありません。

今日の第一朗読で描かれているように(シラ書27章30節ー28章7節)神の寛大さを忘れるのはたやすいことです。正に私たち自身の死の現実にさえ、行動規範としての神の慈悲深い約束について各自は用心深くしていません。自分勝手な交わりでお互いを苦しめる傷の内に神の寛大さを見ることはたやすくありません。パウロは今日私たちに言います。私たちは互いに作用し合い、影響し合う。しかしそれは善き事のためです。(ロマ書14章7-9節)

今日のたとえ話からわかることは、神から受けとった赦しを最初に正しく認識しなければ、私たちは赦すことは出来ません。次の3つの場面を思い起こしてください。

1)神の寛大さの口座において、私たちは支払い不能、負債があり、借り越しをしております。神は生命、自由、規範、希望をふんだんに私たちにお与えになりました。私たち自身の資産では何も成し遂げることはできません。私たちは何一つ持っていません。「私がいなければ、あなた方は何事もできない。」

2)私たちは己の重要性にふんぞり返っています。「私に借りを返しなさい!」不寛容、自分本位、許しがたい、そして横柄であるかもしれません。隣人を傷つけ、その人も私たちを傷つけるでしょう。人生を乱暴に押し分けて生きることもあります。いとも簡単に恨み、赦さないかもしれません。

3)「神の寛大さ」という究極の事実は決して単純なものではありません。神は盲目ではありません。不寛容は赦され得ません。赦しは私たちが赦されているということを認識したときにのみ訪れます。赦しの中で私たちは赦されます。他人に抱く浅薄な思いは、憎悪の柄を握って進むのではなく、穏やかな赦しの内に速やかに消滅させるべきです。そうすることで初めて方程式が理解できます。破産状態では請求は出来ないと。

それでは、心から赦しましょう。もし自分の訴訟が棄却されて法廷を去り、そして赦すことをしないなら、次に起こることは、直ちに私たち自身が罪を問われ法廷に戻るはめになるということです。(アイルランドカトリック中央協議会より引用) 

Pax et Bonum 平和と善き事を』


Pardoning is good for us

Hatred and resentment are moral cancers that eat away at our enthusiasm to do good. An appeal to strict justice is not enough to solve the dilemma, since taking out another’s eye does not really cure the loss of one’s own eye, and revenge cannot really settle the account of a grievance. 

But forgiveness is a hard virtue to gain and to maintain. We can feel the problem in the question Peter asks of Jesus today: “How many times must I forgive?” And although his proposal of “seven times” is used as a round symbolic willingness to forgive “as much as it is humanly possible to forgive,” Jesus suggest we must go further still, since God forgives “seventy seven times” (or seventy times seven times.) Forgiveness is not a question of just how often or how many times, rather it reflects God’s unending willingness to pardon. There are no limits to his forgiveness.


It is so easy to forget God’s goodness, as our first reading illustrates today. (Eccl 27:30-28:7) Even the stark reality of our own death does not keep each of us alert to God’s gracious promise of salvation as the guiding principal of our actions. It is not easy to see the goodness of God in the hurt we inflict on each other in our selfish interactions. Paul tells us today that we do influence each other. We affect each other. But is it for the good (Rom 14:7-9.)


Our parable today shows that we are incapable of forgiving without first appreciating the forgiveness we have received from God. Notice the three scenes:

 (1) We are insolvent, indebted, overdrawn in our account with God’s goodness. God has given us 

freely life, freedom, integrity and hope. We are incapable of achieving anything by our own resources- we have none! “Without me you can do nothing.”

(2) We are puffed-up with our own importance: “Pay me what you owe me!” We can be intolerant, demanding, inexcusable and arrogant. We can be unkind and unforgiving. We can injure our neighbour, and he can hurt us. We can elbow our way roughly through life. We can so easily hold a grudge, and refuse to forgive.

(3) The ultimate reality “God’s goodness” is never simple-minded. God is not blind. The unforgiving cannot be forgiven. Forgiveness only comes from realising that we have been forgiven. In pardoning we are pardoned. Our tenuous hold on others must quickly be consumed not by following our hatred to the hilt, but by pardoning in gentle forgiveness. Only so can we realise the equation: Insolvency cannot make demands!


And so let us forgive from our hearts, for if we leave the court with our own suit dismissed, and fail to forgive, then we find ourselves immediately rearranged and in the dock as the guilty accused![Association of catholic priests.ie] 

Pax et Bonum


2020年9月6日日曜日

年間第23主日 福音への一言

 湯澤神父様から、9月6日年間第23主日メッセージ「福音への一言」をいただきましたので、ご紹介します。



2020年9月6日 年間第23主日(マタイ、18章15~20節)
✚ Pax et Bonum
兄弟姉妹の皆様

 今日の福音は、マタイ福音書の第四の説教集、教会共同体で皆と共に生きることについてのお話の中の一つです。ここでは、イエス様と弟子たちの共同体でも、マタイが福音書を書き宛てている共同体でも起こっていた問題を取り上げています。この説教集全体を眺めてみましょう。

 最初は、教会では誰が偉いのか、だれが中心的存在なのかという問題です(18.1-4)。次は、今でも教会には誰かを仲間外れにしたり、虐めたりすることがありますが、そのように人をつまずかせる問題です(18.5-9)。それから、何かの理由で共同体から迷い出してしまった人たちの問題(18.10-14)、そして、自ら共同体を出ようとしている、或いは、出てしまった兄弟の問題(18.15-20)を取り上げています。これが今日の福音です。最後は、戻ってくる兄弟を受け入れる寛大さの問題です(18.21-35)。

 今日の福音の個所で、イエス様の最初の言葉は、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」となっていますが、古いフランシスコ会訳の聖書では、「もしあなたの兄弟が罪を犯したならば」となっています。『聖書と典礼』の訳を見ると、信徒の仲間が何か自分に悪いことをした場合、行って注意しなさいという意味になり、道徳的勧告をする意味に取れてしまいます。それでは、最初に出てくる天の国に入る幼い者(幼子)の姿とはまるで違って、教師であるかのような振る舞いになってしまいます。むしろ、何かによって共同体から出ていこうとしていたり、出てしまった兄弟の場合と考えた方がいいでしょう。

 今の私たちの周りを見回してみると、教会に来なくなってしまった子供たち、洗礼を受けたのに教会から離れてしまった人たちなど、身近にそうした兄弟姉妹がたくさんいることに気づきます。「新しい福音宣教」を唱えた教皇ヨハネ・パウロ二世や「福音の喜び」を出した教皇フランシスコは、こうした兄弟姉妹を思い出させようとしていました。 

 教会から離れてしまった兄弟姉妹や離れようとしている兄弟姉妹の問題は、現代の私たちの教会共同体の問題でもあるのではないでしょうか。そういう兄弟姉妹たちに対して、個人的に接して説得したことがあるでしょうか。知り合っている仲間で、或いは、共同体として教会は何か働きかけたことがあるでしょうか。教会全体としてこの問題を取り上げ、何かの行動に出たことがあるでしょうか。しかも、教師が注意するような形ではなく、幼子のような姿で。

 私たちは何もしてこなかったわけではありませんが、今一度、イエス様が私たち一人ひとりに呼び掛けている言葉として聞く必要があるでしょう。私たちには、教会を作っていく使命、福音宣教の使命が与えられています。その具体的な一つの側面が、離れていった兄弟姉妹、或いは、離れようとしている兄弟姉妹に語り掛けることではないでしょうか。個人として、仲間として、教会共同体として。
     湯澤民夫


2020年8月31日月曜日

8月30日 年間第22主日

 松村神父様の主日ミサの説教をご紹介します。


『今日、皆さんには、受付で「エコロジーについての新回勅ラウダート・シ概観」とその中に挟んである「すべての命を守るための月間」というパンフレットが配られたと思います。今週からこの「すべての命を守るための月間」が始まります。教皇フランシスコそして日本の司教団は、毎年9月1日から10月4日までを、すべての命を守るということを特に強く思い、感じ、祈り、生きることを私たちに示してくださいました。そのためには教皇の回勅「ラウダート・シ」の本をしっかり読み込むことが大切です。回勅ですから難しい内容です。ましてや子供たちにとっては「何のことだろう?」と思うので、今日は教会学校があるということもあるので、簡単なお話を皆さんと分かち合いたいと思います。

 この「すべての命を守るため」という教皇の思いですが、私は去年1年間教皇訪日の準備のために、毎月大阪から東京に通っていろいろな準備をしてきました。皆さんが集まるためのハード面を一生懸命準備するだけでなく、教皇はどういう思いで世界や日本を見ているのか、このことを私自身も痛感し、すべての人がやはり回心からスタートし、自分の生活をしっかりと見直しをしていくこと、神の信仰をどう実践していくのかということを、毎日毎日の生活の中で表していかなければならないと感じました。


 そこで今日は子供ばかりでなく、皆さんにも分かりやすいお話をしたいと思います。私が小さな時に読んだ一冊の本ですが、「ひとつのからだ」という絵本でした。「口(くち)君」という子と「手(て)君」という子と「胃(い)君」という子の3者がいっしょに共同生活をしていました。あるとき、手君と口君が喧嘩をしたのです。手君が口君におまえは嫌いだから大好きなカレーライスを口に運んでやるのを止めてやる。えーっと口君は怒り、俺は食べたいんだよと。胃君はおとなしい子で喧嘩はやだなと、でも食べ物が入ってきてくれないと元気になれないしなぁと、森の木陰から眺めているようにひっそりと傍観していたのです。手君は「ドラエモン」(漫画)からいうとジャイアンみたいな人です。おまえのものは俺のもの、俺のものは俺のもの。俺が嫌いだからおまえにはやらん。ざまあみろ。口君はさびしいな、今日も嚙みたいな。顎がだんだん痩せていってしまうよ。そういう日が何日も続いたらどうなるのでしょう。口君にはあまり問題はなかったのですが、胃君はだんだん小さくなっていくのです。弱まっていくのです。(手君は)ざまあみろといいながら、関係の無い胃君が弱まっているなぁ。胃君が弱まってくると今度は手に力がはいらなくなってくるのです。おかしいな、おかしいな。…という簡単なお話です。


 これはエゴの例えについてのお話ですが、すべての命を守る、世界を命として捉えたときの私たちの生き方ととても良く似ています。一部分だけが元気であったり、一部分の主張だけを下心で聞く、これは影響があります。口も顎が痩せてくる。胃が小さくなる。結果的にからだ全体が弱まってくる。そして、元気がなくなる。手君のわがままのために、手君のひとつの正義のために、自分は正しいと思うがために行うことは、必ずしもからだ全体のためにならない。教皇が言う「すべての命を守る」ということは、自分の活動と世界全体のあらゆることが、どこかで繋がっているのだということです。

 それを考えずに自分の正義、自分の信仰だけを推し進めたらどうなるのでしょう。必ず弱まっていくところがあります。弱まっているところがあると必ず自分に返ってくるのだと。このことを教皇は「ラウダート・シ」の難しい回勅の中で伝えているのです。

 例えば、私は大阪に去年までいましたので、和歌山のお話をしたいと思います。和歌山にキリバスという国の漁師たちがたくさん来て「カツオの一本釣り」の勉強をしていたのです。どうしてなのかと聞いたら、自分たちの村はとても低い海面に近いところの村だった。地球の温暖化のために南極の氷が溶けて水になり自分たちの村が水没した。自分たちの村がなくなったので住むことが出来ない。そこで生きることが出来ない、働くことが出来ない。だから自分たちがどこに行ってもしっかり漁ができるようにと仕事を習いに来たのです。キリバスというと赤道に近く、あまりカツオはとれないのです。どこに行っても魚を釣る技術を会得することで全世界で生きることが出来る。その村は大変な思いをしながら生きることを選んでいます。 

  そのきっかけは何かと言うと地球の温暖化です。南極の氷が溶ける。南極の氷を溶かしているのは誰ですか。それは世界中の人々です。そして、私たちもその一部分を担っています。ですから私たちは、エコロジー、節約、節電をしていくことが、そういう人たちの命を守ることにも繋がっているかもしれない。大事なことは私たちが一つ一つ、いろいろな行動をおこなった時、どこの人が喜んでいるか、どこの人が命を守られているか、一つ一つの行動が実はどこかで命を守っている。そういう思いを私たちは一人一人しっかりと心に秘めて毎日を生きていくことが大切です。または、そういう生き方をしていかなければこの地球は滅んでしまうでしょう。先ほどのからだ全体が弱まってしまうことと同じです。手だけのわがままだけのためにからだが滅んではいけません。


 教皇のすべての命を守るためというメッセージ。去年の東京ドームや長崎でも、そのほかのところでも強く強調されました。そのことを、私たちは9月1日から10月4日までのこの月間に、特に強く思い起こしながら考え生きていきましょう。日本の司教団も考える時だと呼びかけています。日常生活の中で、ささやかなことだけれど誰かが喜んでいる。どこかで命が守られている。そのことを思いながら生きていきましょう。自分は便利だから楽だから、好きだから、頑固に自分の生活を変えない、自分の考え方を変えない。このことが、実は人の命を殺していることにも繋がる。実際に自分の生活を少し振り返ってみましょう。

 今日の福音にあった「自分の十字架を背負って私に従いなさい」。自分の十字架とは何かと言うと神様の命、イエス様の命、その命を私たちは背負っています。その命は全世界の救い、喜び、幸せ、希望、そういう十字架を私たちは背負うのだということです。そのことを考えなければいけません。すべての人が同時に喜んでいられる世界を小さなことから始める。すべての命を守ることに繋がる神様が創造されたこの世界、宇宙も含めて被造物と言いますが、すべては私たちの命と繋がっています。

  私たちは何でも出来る人間ではありません。だから小さなことから、出来ることから、気づくことから私たちは一歩一歩進んで行きたいと思います。でも、そう言う心が無ければ、今までの生活は変わらないでしょう。


 今日の御ミサ、福音を、そして「すべての命を守るための月間」について、特に少し考えてみましょう。思い起こしてみましょう。ちょっと力を込めてそこに自分の生活を導いていきましょう。このことを私たちも日々の生活の中で振り返りながら、先ほどの手君、口君、胃君の話でもいいですし、キリバスの話でもいいですから、皆さんもピンとくることを思い起こしながら、日常生活の中でひとつでも変わる、ひとつでも歩み、語れたら。豊かになっていけるように、今日、この御ミサの中で神様のたくさんの力を頂いていこうと思います。一緒に祈って参りましょう。』

2020年8月23日日曜日

年間第21主日「福音のヒント」

 場崎神父様からいただきました主日メッセージ「福音のヒント」をご紹介します。

 「年間第21主日(2020年8月23日)福音のヒント」  場﨑 洋 神父様

 わたしたちは「ありがとう」「ごめんね」「すばらしいね」「大丈夫」だけの言葉で平和をつくることができます。心を込めて、魂を込めて、言葉にいのちを注ぎ込むことができるのであれば、それは立派な「平和の祈り」になります。わたしたちは子供が互いに「ごめんね」と言って仲直りしているところを見たことがあります。わたしたちは子供たちが、からだいっぱいに歌をうたっているところを見たことがあります。わたしたちは子供たちがお誕生日を祝っているところを見たことがあります。幼な子が母親の胸のなかで眠っているところを見たことがあります。これらの情景は美しく本物の祈りの姿、本当の平和な姿です。子供の祈りは雲を通すほどの不思議な力を秘めています。神は大人よりも子供の祈りをよく聞いてくださいます。子供のすべての行為が純粋無垢で、ありのままなのですから、神の心を映し出している鏡に似ています。このように人間は美しく成長することができる賜物を小さいときからいただいていることを忘れてはなりません。

 しかしながら人間にはもう一つの側面をもっています。1981年、教皇ヨハネ・パウロ二世が広島で平和アピールをしたときの言葉を想い起こしてください。「戦争は人間の仕業です」。この言葉を聞いたとき、それは「わたし」ではなく、戦争を興した「悪い者ども」のことだと思っていたかもしれません。しかし、わたしたち一人ひとりも人間であり、心のなかで「あの人がいなくなればいいのに」と、戦争の引き金を引いています。職場、教会、家庭など人間関係のなかで起こっていることを忘れてなりません。

 作家、開高健は凄烈な体験のもとで書いた「輝ける闇」でベトナムの公開死刑の情景を赤裸々に描いています。処刑されたのは、はだしで立つベトナムの少年でした。べトコン(反米、反サイゴン政権の略)に協力していた、という理由で銃殺刑になるのです。

 「十人の憲兵の十挺(ちょう)のカービン銃が一人の子供を射った。子供は膝を崩した。胸、腹、腿(もも)にいくつかの小さな、黒い穴があいた。それぞれの穴からゆっくりと鮮血が流れだし、細い糸のような川となって腿を浸し・・・少年はうなだれたまま声なく首を右に、左にゆっくりとふった。将校が回転式拳銃をぬき、こめかみに一発射ちこんだ。血が右のこめかみからほとばしった。少年は崩れ落ち、柱から縄で吊され、動かなくなった・・・・」(「輝ける闇」)。そこにはまた見物にきた少女たちがはしゃいだり、処刑前、ジュースを飲んだり、うどんを食べたりしている群衆の姿もとらえられています。

 開高は、処刑を見たあと、膝がふるえ、胃がよじれ、もだえ、嘔気(はきけ)がこみあげます。翌日また、少年の処刑を見た自分は「汗もかかず、ふるえもせず、嘔気も催さなかった。・・・・・」と。このような変化を、再び、処刑の場に立ち会って書けるものなのか、それが人間の常なのかどうか・・・と苦悶しました。人間の恐ろしさ、人間の残酷さ、人間の卑劣さ、人間の狂気、人間の弱さ、人間のいい加減さ、人間のどうしようもない醜さ、そういうものを開高はひたすら見すえています。自分もまた、おぞましい愚かな人間の一人であるという、いらだたしい思いを持て余しながら戦争の現場を書いています。わたしは戦争を知りませんが、わたしが育った時代にベトナム戦争(1955~1975)は激化し、沖縄基地から米軍が出動していました。わたしは同時代に、この少年の死を知らずにのほほんと生きていたのですから、やはり闇と光の間を生きていたひとりの人間です。

 教会はただ美しいものを求めているのではありません。神に呼び集められた民は重々知っているはずです。「平和を祈る子供たち」と「祈りさえできない銃殺刑の少年」の狭間でわたしたちは生きているのです。信仰の光は、苦しみを忘れさせるものではありません。苦しむ人、悲しむ人、泣く人が、どれほど多くの信仰者にとって光の仲介者となったことでしょうか。信仰はわたしたちの暗闇をすべて打ち払う光ではありません。むしろそれは、夜の闇の中でわたしたちの歩みを導く「ともしび」です。「光は闇のなかで輝いている」(ヨハネ1・5)のです。信仰における人類の共通善への務めはつねに希望への奉仕になります。この意味で教会は信仰によって真理である希望の光に導かれていきます。たとえわたしたちの地上の住みかが滅びても、神がキリストとそのからだのうちにすでに備えられた永遠の住みかがあることを保証してくださっています(Ⅱコリ4・16・5)。こうして教会は神の相談相手(第二朗読、ロマ11・34)として霊的実りを培っていくための使命を担い続けるのです。

 わたしたちは闇と光のなかで「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(同11・35)という光に絶えず導かれていくのです。

2020年8月16日日曜日

年間第20主日(8/16)

 レイ神父様からいただきました年間第20主日(8/16)の福音メッセージをご紹介します。



『神の沈黙

年間第20主日 A年 2020年8月16日

今日は日本ではお盆にあたりますが、他の国の死者の日と似ています。この日、人々は仕事を休み家族のもとに帰り、亡くなった先祖を弔いながら、彼らの人生を思い出します。それでは、日本の、特にここ札幌の世を去った兄弟姉妹のために祈りましょう。全てのみ霊に、神の恵みのご冥福をお祈りいたします。

今日の福音書の中で、私たちはイエスとカナンの女の間に起こった劇的なシーンを目のあたりにします。

 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」マタイ15章22-23。

 これは、イエスの誤解され易い、魅力的な話の一つです。話はさらに、イエスはこの女の助けの求め次のように答えます。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」なんと!これは最初は、失礼に聞こえます。しかし、勿論、そうではありません。イエスは決してそんな方ではなかったからです。

 イエスのこの女に対する最初の沈黙と一見無礼な言葉は、この女の信仰を浄化させるのみではなく、彼女の信仰を皆に証明する機会を与えるものでした。最後にイエスはお答えになります。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」

 もし、あなたが神聖な道を歩もうとするのなら、この物語はあなたの為のものです。次のように理解しましょう。大きな信仰は清めと揺るぐことのない信頼の結果として来たると。この女はイエスに言います。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」言いかえますと、自分は価値のないものと知りながら憐れみを乞うのです。

 神は時々沈黙するかに見えるということを理解するのは大変重要です。これは神からの深い愛の行為であり、すなわち、それはまさにもっと深いレベルにおいて、神に向くようにとの招きであるからです。神の沈黙は、賛美と感情に導かれた信仰から、神の憐れみのうちに清らかな信頼によって育てられた信仰へと私たちが移っていくのを許します。

 黙想しましょう。今、神が沈黙しているようにあなた方が感じているこの瞬間を。そして実はこの時とは、新たなもっと深いレベルにある信頼への招きである、ということを知りましょう。信頼し、あなたの信仰がもっと充分に清められるがままに、神があなたの中に、あなたを通じ、偉大なわざが出来ますように。

 主よ、あなたの恵みと憐れみに、私は人生のすべてにおいて相応しくないと、しかし、こうもわかっております。あなたは理解を超えて憐れみ深く、その憐れみは偉大で、この貧しく価値のない罪びとである私の上にその憐れみを注いで下さろうとしています。私はその恵みを願います。主よ、私はあなたに全面的な信頼を置きます。イエスよ、私はあなたを完全に信じます。 』

2020年8月10日月曜日

8月9日 年間第19主日

 場崎神父様から届きました主日メッセージ「福音のヒント」をご紹介します。






『今日の福音の中で出てくる御言葉は、人間の心にある「恐れ」です。弟子たちの心理状態はいつも恐れのなかに引きずり込まれていました。

「逆風のために波に悩まされていた」。「『幽霊』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた」。「強い風に気づいて怖くなり、沈みかけた」。

弟子たちは網を捨て、家族を捨ててイエスの弟子になりました。しかし、神の子・イエスについて彼らが期待していたものとは違っていました。弟子たちはイエスがなさった教えや奇跡に対して、彼らなりの評価をしていました。本心はわたしたちの心と同じ自慢と自己利益に過ぎなかったのです。主は民衆の前で素晴らしい教えを説き、絶大な人気を博したので、自分たちは鼻高々です。ある時は病人を癒し、死者を蘇らせた主は間違いなく神の子・救い主として光り輝いていました。しかし、ペトロは自分に不吉なことが起こると不安、恐れになりました。イエスがご自身の受難について予告をすると、そんなことがあってはならないと、いさめはじめました。しまいに「わたしはあの人を知らない」と言ってイエスとの関係(信仰)を絶ち切ってしまうのです。

今日の福音でもそうです。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と願うのです。彼は恐れるあまり「しるし」を求めたのです。しかし、そのしるしは、ペトロの信仰の根幹を突いて、沈みかけるという「しるし」に変わってしまいました。わたしたちも弟子たちと同じ信仰、誤信で日々生きていることが多いのです。イエスの核心、それは福音の成就であり、十字架を回避して本当の喜び(復活)を実現することはできないということなのです。

「今日はバスに乗り遅れなかったから、運がいい」。「今日はいい買い物をしなかったので、運が悪い」。「株で儲かった。運がいい」。などと、気づけば、つねに「正しいか、間違っているか」、「善か、悪か」、「成功か、失敗か」、「幸運か、悪運か」・・・・・と頭で考えてしまうものです。こうして、自分の日常に「○か、×か」をつけて一喜一憂しているのです。だから悩みや、不安や、恐れが生まれてくるのです。

イエスは「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」(マタイ6・25~34)と言われます。自然界に目を向けると偉大な方からの答えが分かってきます。四季折々に咲く花の美しさには善いも悪いもありません。ただ、人間が自分の好みで観るものですから、評価が分かれるだけなのです。同じように、私たちが生きている日常の一コマ一コマにも出来、不出来などありません。自分の欲で判断するものですから、「成功だ、失敗だ」と明暗を分けてしまっているのです。「今日はよい日だ。悪い日だ」と判断するのではなく、ただあるがままを受けとめ、瞬間、瞬間を生きることです。その清々しく生きているという瞬間の境地を求めることが大切なのです。そのなかに愉しみ、喜びもあれば、嘆きや、悲しみもあること知らねばなりません。パウロは言います。「わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(第二朗読:ロマ9・1~2)。花も鳥も動物も、自分の毎日に「○」や「×」をつけたりはしません。人間だけが、勝手に迷って、勝手に悩んで、勝手に恐れて右往左往しているのです。起こった出来事に目くじらを立てるより、ただ、ひと呼吸、ひと呼吸に「いのち」を実感する生き方のほうがはるかに霊的に豊かで自由なのです。首から上を使わないようにすることです。いつも頭を空っぽにしておけばいいのです。あくせくしてはならないのです。そうしないと恐れて裁いてしまうことになりかねません。ただ「安心しなさい。わたし(愛)だ。恐れることはない」と言われた方に身を委ねるだけなのです。イエスは手を伸ばしていつもわたしたちの腕を捕まえてくださっています。でも信仰の薄い私たちは捕まえられていることさえ忘れてしまいます。だから沈みかけるのです。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネ4・18)。             (場﨑  洋)』

2020年8月2日日曜日

年間第18主日

湯澤神父様から届きました主日メッセージ「福音の一言」をご紹介します。

2020年8月2日 年間第18主日(マタイ、14章13~21節)
✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様
今日の福音の個所に関して、フランシスコ会訳では「パンを増やす」というサブタイトルがついています。こうしたタイトルがついていると、どうも私たちは、そこで起こった奇跡、パンが増えたことに関心が向いてしまいます。共同訳では「五千人を養う」となっています。こうしたタイトルは聖書についていませんから、訳した人の理解が反映されており、良し悪しに関係なく、読む人はそれに左右されてしまいます。
さて、イエス様の目の前にいる人々は群れを成して町から出て、イエス様の後を追ってきた人たちです。その人たちは、哀れを模様させる人たちで、夕方で空腹を感じています。イエス様は彼らを草の上に座らせます。そして、満腹するまでパンと魚で養います。こうした状況から、ある連想が可能になります。それは、モーセの後を追って荒れ野を旅しているイスラエルの人々のイメージです。マタイの福音を聞く人々は、律法を大切にしたユダヤ人キリスト教徒の伝統を受け継いでいますから、こうした連想は容易ではなかったかと思います。
エジプトを出たイスラエル人は、ヒツジやヤギを連れ、そのため草地を求めながら旅していました。現地調達する食料は、常に潤っていたわけではないでしょう。むしろ手に入れることは困難を極めたでしょう。空腹を感じて、モーセに文句も言いたくなります。モーセが目の前の飢えた哀れな人たちを見て、神様に取り次ぐと、神様はマンナを、そして海から飛んでくるウズラを与え、こうして旅の終わりまで養い続けたと書かれています。イスラエルの人たちは、人生の旅の中、常に自分たちと共にいて、養い、配慮してくれるいつくしみ深い神様を感じることができました。マタイの福音を聞く人たちにとって、イエス様の出来事と旧約聖書の出来事を重ね合わるという連想は、容易だったのではないかと思います。出エジプト後の旅の間、常に民族と共にいてくれたあの神様の姿を、イエス様の中にも見た時、共にいる神様(インマヌエル)であり、世の終わりまで私たちと共にいる神様であると理解できたのではないかと思います。
私たちは、「日々の糧を今日もお与えください」と祈りながら、日々の一つ一つの出来事の中に、共におられる神様の慈しみ深い配慮を感じ取っているでしょうか。マタイがもとにしたマルコ福音書では、「心が頑なで、パンの出来事が理解できなかった」ので、湖の上を歩くイエス様の出来事にただ驚くだけだった、と書いています。しかし、マタイは、ペトロの出来事も含めて、イエス様が神様(神の子)だと認めたと書いています。私たちも信仰を見直してみる必要があるかもしれません。サブタイトルのようにパンが増えたと驚いて終わってしまうのか、更に深くまで連想を及ぼすことができるのか。それによって神様の実感そのものが変わってくるのではないでしょうか。       湯澤民夫


【日本カトリック平和旬間】

1981年 教皇ヨハネ・パウロ二世は広島で「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と言われ、日本国内外に平和メッセージを発信しました。戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく、具体的な行動でなければなりません。
日本のカトリック教会は、その翌年(1982年)、もっとも身近で忘れることのできない、広島や長崎の事実を思い起こすのに適した8月6日から15日までの10日間を「日本カトリック平和旬間」と定めました。
(カトリック中央協議会より)

北一条教会では、平和を祈り、次の時間に教会の鐘を鳴らします。
皆様は、それぞれの場所で、同じ時刻に「ロザリオの祈り」、フランシスコの「平和を求める祈り」等を祈りましょう。

8月6日(木曜日)8時15分   ヒロシマ原爆犠牲者のため。
8月9日(日曜日)11時02分  ナガサキ原爆犠牲者のため。
8月15日(土曜日)12時00分  すべての戦争犠牲者のため。


2020年7月26日日曜日

年間第17主日

今日の主日ミサでは、二人の神学生 桶田さんと帰省中の千葉さんが侍者奉仕をしました。


松村神父様のお説教をご紹介します。


『今日の私達への福音のメッセージは、神の前における賢さを持とう!ということでしょう。
大学のころ大失敗をしたことがあります。ある日建築のパース(完成予想)の宿題が出され、家に帰り絵コンテの準備をしたところ、他の学生は模型を作ってきていました。しっかり話を聞いてなかった私が悪いのです。教授の正しい説明を逃し、勝手な思い込みで「~だろう」と思った自分が恥ずかしくなりました。当然宿題は再提出。他の学生と似たようにならないように作成に苦戦したことを思い出しました。
正しく聞き、意図するところを読み解き、指示に従ったことを行う。当たり前のことですが案外私たちはそのいずれかを見誤り失敗してしまいます。
信仰も同じなのかもしれません。一見私たちの信仰は何でも仲間と分かち合い、慰めあい、協働することが大切とされているように感じますが、終末に向けての私たちは一人一人の信仰が問われ、誰も助けてくれないということです。ですから神様の前で緊張感をもって自分の信仰を問うていかなければなりません。
今日の聖書では教会で生きるためにも、また仲間と分かち合うためにも自分の中でしっかりと自己を見つめ、神様との関わりを確認することに重きが置かれているように感じます。
神様の前で賢者は何でもその場ですぐに公にはせず、約束せずに一度隠し、企てを考え準備をしてから望むという向き合い方が示されています。すなわち個人の準備の大切さです。にわかな情報に踊らされることなく、誰かから教わるのではなく、自らしっかりと準備することの大切さが問われています。そしてその為には何が大切なのか、何を隠しておくべきか、その価値を知るためには、神様の価値観を知らなければなりません。なぜならば隠して帰ってもそれは無駄な努力かもしれないからです。また一度帰り十分な準備を行うにしても、どんな準備が必要かわかりません。何を語っているのかをしっかりと読み解く力が必要です。そしてその力が神様の助けが無ければ理解することはできませんので、父と子と聖霊の交わりの中でそれらを理解していく必要があるため、神様そのものを知る必要があります。自分の読み方や理解の仕方ではなく、正しい信仰は弟子たちから与えられ私たちに引き継がれています。そして私たちはそれを次に伝える使命も与えられています。たとえ話で福音が語られているのは弟子とその後継者にその使命が与えられている証拠です。その為には私たちはしっかりと聖書を読み進めていくことが大切です。しかしその前提となっているのは、私たち一人一人はそのために神様よりまず選ばれた者とされたことです。こんな自分でも神様は使命を行う者として呼んでくださっている。これこそ召命の光です。
 神様に恥ずかしくない準備を行い、つたなくても丁寧にその使命を担っていく為に祝福を受けて今日も派遣されて行きましょう。』

2020年7月19日日曜日

年間第16主日

A年 第16主日の福音朗読は、マタイ13章24-30「毒麦のたとえ」です。
世の終わりには、毒麦(悪い者)は選別され火で焼かれしまうという一見恐ろしい内容ですが、そこには限りない神のいつくしみと寛容を読み取ることができます。

この日の主日ミサは、勝谷司教様と松村神父様の共同司式により行われました。
司教様のお説教と、湯澤神父様からいただいた主日メッセージを併せてご紹介します。


  

【勝谷司教様お説教】

 今日の福音を皆さんはどう読みますか。終わりの日に、「毒麦」は焼かれ、「麦」 は倉にいれられる。これを終わりの日の裁き、個人的な回心を求めるたとえと 読んではいないでしょうか。
 今日の福音は、むしろ逆のことを言っています。たとえ悪人であっても、神 は忍耐をもってご覧になり、第一朗読にあるように「裁き」ではなく「寛容」 と「慈悲」を持っておのぞみになるのです。
 この箇所を個人主義的に読んでは本来の意味を見落としてしまいます。今日 のメッセージは、書かれた当時も現代も「共同体」に向けられたメッセージで す。この話を私たちの社会や教会共同体に当てはめて考えてみてください。「な ぜあんな人がいるのか」、「この人さえいなければ...」。私たちは自分勝手な好み や独善的な正義感で人を裁いてしまう傾向があります。それが多数派になれば、 その人を排除しようとする動きも出てきます。「毒麦」を抜こうとする僕の姿は このように私たちの共同体にも良く見ることができます。
 しかし、福音にも書かれている通り、実際は「毒麦」と「麦」の区別はつき にくいのです。あの人は「毒麦」だと思っても、その人から見ればあなたが「毒 麦」に見えているはずです。アウグスチヌスやフランシスコなど、私たちの知 る聖人の多くははじめのうち人々から「毒麦」と思われる人たちでした。実際、 だれが「自分は神の倉に入れられる『良い麦』だ」、などといえるでしょうか。 むしろ、自分を「良い麦」と考え、人を「毒麦」だと断罪し排斥しようとする 者こそ、イエスが「神の国」から遠いと指摘されたファリサイ人と同類である ことを知るべきでしょう。私たちの内、誰一人として完全な善人や絶対的な悪 人はいません。全ての人のうちに、毒麦も良い麦も存在するのです。全てを善 か悪か、白か黒かはっきりさせて裁いてしまおうとする態度はイエスが批判し た律法学者の態度なのです。
 そう考えると、終わりのときの焼かれる毒麦のたとえは「恐ろしい裁き」で はなく、むしろ喜ばしい「救い」のメッセージであると気づきます。誰かが、 裁きを受けて焼き滅ぼされるのではなく、全ての人の中にある毒麦が取り除か れるのです。焼き尽くされるのは、私たちの中の「愛に反する心」で、この炎 を通して、私たちは純粋な愛の世界へと導きいれられるのです。自分の力では 克服できなかった悪への傾き、罪の現実が、神の愛の息吹と炎によってもみ殻 のように吹き飛ばされ、焼き尽くされるのです。残るのは、キリストを中心と して完全な愛の交わりに生きる「私たち」なのです。


【湯澤神父様メッセージ】

2020年7月19日 年間第16主日(マタイ、13章24~43節)
✚ Pax et Bonum

兄弟姉妹の皆様
 今日の福音は、『マタイ福音書』にある五つの説教集の真ん中、第三の説教集からとられています。ここでは、天の国(神の国)の秘儀について語られています。皆さんもご存知の通り、「神の国」の「国」は、場所や国境に囲まれた地域を指す言葉ではありません。支配、統治といった意味です。つまり、天の国とは、神の国と同じことで、「神の統治、支配、その力が及んでいること」を意味しています。イスラエルの人たちは、かつてダビデがイスラエル全体と統治したような国をイメージしています。その完成、世の終わりには、神自身が全イスラエルと統治する国が実現すると思っていました。

 しかし、イエス様の場合、少しニュアンスが異なります。先週の福音の「種蒔きのたとえ話し」を思い出してみましょう。一人ひとりの心に種が蒔かれ、様々な実りをもたらしました。福音の種のように、神の支配は、一人ひとりの心に及びます。神の支配を神の呼び掛けのようにイメージしてみましょう。神は、一人ひとりの心にその都度語り掛けます。その実りは、神の呼び掛けにその人が出すその人なりの応えと考えられます。従って、良い種が蒔かれたのに、毒麦が生えることもあることも分かります。神の支配は、力ずくで言うことを効かせるような意味での支配ではありません。呼びかけですから、どう応えるかは、応える人の自由に任せられることになります。

 毒麦は、最初は小麦とほとんど見分けがつかないのですが、そのうち違いが表れ、収穫時にははっきりと違いが判るようになります。おそらくキリストの周りに集まった弟子たちの中にも、最初はよい弟子たちと違わなかったのに、だんだん本物ではない弟子が現れたのでしょう。マタイの時代の教会も同じだったのではないでしょうか。そんな時に、私たちはつい毒麦を排除したくなるものです。実際に排除という行動に移さなくても、裁いてしまうことがあります。しかし、イエス様は、判断するのは、つまり、裁くのは、父である神だと教えています。

 ひとつおもしろい話があります。当時の人たちは、雨の日が続く年は、小麦が毒麦に変わると思っていたというのです。発育の差なのか原因は分かりませんが、そう思われていたのでしょう。小麦でさえ毒麦に変わるとしたら、まして人間も変わり得るでしょう。好ましい人が好ましくなく変わることもあり、その逆もあり得るわけです。だとしたらますます、早急に今判断し、裁くことは、小麦まで抜いてしまう危険性となり得ます。

 そこで、私たちが目を向けるべきことは、私たち一人ひとりが自分の心に語り掛けるという形で、神の力が、神の支配が実現していることに気づくことです。そして、その都度、相応しい実りを実らせることが求められていることに気づくことです。どんな実を実らせるかは、私たち自身に任せられています。この説教集の最初と最後で同じ言葉が用いられています。「耳のある人は聞きなさい」。気づきを求める言葉といえるでしょう。

2020年7月12日日曜日

7月12日(日)年間第15主日

この日の分散ミサはA地区対象でした。
松村神父様のお説教をご紹介します。

『今日の福音の中心的な言葉は「種」というものです。その「種」は第一朗読の中に書かれています。「私の口から出る私の言葉」、これが「種」に該当します。ですから、今日の第一朗読は本当に重要なところだと思います。神様の言葉をとおして私たちは、何を受け入れるか、受け止めることが出来るか考えてみたいと思います。
 
 ニュースを見ていると、週刊誌もあれば新聞、テレビやネットのニュースなどいろいろ問題ある記事が出てきています。いろいろな課題があって、その中で叩かれる人がいます。芸能人しかり行政の方々しかり、それを私たちは鵜呑みにしています 
  ところで、最近はネットをとおしていろいろ弁明の機会が与えられています。本当か嘘かは分かりませんが、随分報道とは違うなということがたくさんあると思います。言葉全体の一部分だけ切り取られて、面白おかしく取り上げられていることも現実あります。真意、現実は分からないが、ニュースの半分近くはそんなことが多い感じです。私たちはそういったニュースを疑いの気持ちを持ちながらも、正しく評価出来ないといけないと思います。自分に良い耳をもつことの大事さ、ニュースを聞きながら感じさせられます。 

 聖書の世界も実は同じで、私たちどのようにして聖書の言葉を聴いているでしょうか
これがまず、今日私たちに与えられた課題のひとつです。時々私たちは苦しみに向けて神様の言葉を受けて、厳しいなとか、逆にこれは今の苦しんでいる自分にぴったりとか、思うときがあります。でも、2000年前に書かれた聖書が今の私のことを指しているのかと言うと、けっしてそうではないですね。もし、私のことを今の聖書が書いているのだとするなら、それは御利益的な信仰としてとらえていないだろうか。私の苦しみを慰める、逆に私の苦しみをさらに増す言葉は聖書は言ってないはずだ。このように、都合良く聖書を読み解いてしまう、そう言う危険性があります。
 でも、私たちはこの約2000年前に書かれた聖書は、人類すべてが神様の恵みによって救われる。今日の福音の中にも、私たちは良い土が与えられている。先に土壌がしっかりと与えられている。そこに神様の種が投げかけられている。あなたたちならば、必ずこの種を、選ばれた者はこの種を成長させることが出来るのだ。絶対的な信頼が先にある。神様は先に私たちに救いを与えて、種の成長が出来る能力を与えてくださっている。私たちは無条件で喜んでいる。イエス様はそのようにして弟子たちを励まし、いろいろな艱難や苦難はあろうが、あなたたちであれば大丈夫、必ず希望がある。でも、そこにはすべて自分があたるとは限らない。波風はあるだろうし、大きな迫害はあるだろうし、苦しみもあるだろう。でも例えば、私たちが骨を折って完治したとき、折ったところの骨は丈夫になっているように、時には壁を私たちの成長のために与えてくださっている。病気も私たちがそれを乗り越えたときに、更に元気な身体になり、神にそのような免疫をつけるための、そういう(艱難や困難などの)壁を与えてくれている。あなたたちならば大丈夫と全面的な信頼と希望を神様はおいてくださっている。このことを忘れてしまうと、神様の言葉は私たちの日常生活の中で、ふらふらと都合良く神様の言葉を切り抜いて使ってしまう恐れがあります。私たちはこのような立派な土地をいただいた。問題は切り抜いていないだろうか。都合良く使っていないだろうか。または、聞きたくないと耳を塞いでいないだろうか。
 私たちに与えらた種が、私たちの感性によって都合良く置き換えられてしまっている。
この聖書に対する私たちの向き合い方が、今日改めて問われています。だからこそイエス様は当時の弟子たちに向けて、救いたいと願う多くの人たちに向けられたまなざし、それはすでに用意はされている。あとはあなたたちの受け止め方なんだ。自分のご都合主義ではなくて、神様がまず救ってくださっていることを胸に秘めておかなければ、どんな言葉を投げかけても、結局自分の都合良く、その言葉を受け止めてしまっている。このことを気を付けなさいと言われているのです。

 今日の聖書の後半は、初代教会の弟子たちが後から解釈を皆で再解釈し直して、書かれた聖書の箇所が付け加えられています。彼らもイエス様の言葉を最初から素直に理解したわけではありません。みんなで悩みながらイエス様の言葉を思い返して、やはり私たちには恵みが与えられていた。だけど私たちの姿勢が問われている。だからわざわざその解釈後世に向けて付け加えられた、そういう理解でいます。
 どんなに私たちが神様によって選ばれて、救いの対象になっていったのか。その喜びから福音全体が私たちに投げかけられているし、私たち一人一人にまず種が投げかけられ、選ばれている。神様は変な種はまかない。最初から成長しないところに播くことはない。 私たちを選んでくださった喜びがありますが、改めて神様の言葉は本質的に何を言っているのか、確かに今聞く言葉は苦しいかもしれない、今日は喜びかもしれない。日によってころころと変わる。私たちの体調や気分、置かれる状況によって神様の言葉に対する 向き合い方が変わります。だけど大前提として、苦しいけれど私を救うために、今日私に言葉を投げかけてくださっている。神様に選ばれて救いに導かれようとしている。そのことに気づいた時、至らない私だけれど本質を深めていこう、理解していこう、そういった姿勢が大事になってきます。

 今日の福音をとおして私たちは選ばれ、今日も種を植えられる。言葉を投げかけられる。
お早うと声を掛ける、お元気ですかと声を掛けられることと同じです。今日も信仰に生きてますか、と声を掛けられている。声を掛けられる喜び。私たちも今日その神様の言葉に、しっかりとその本質に気づきながら、真正面から応えていけるように、ミサの中で「神様ありがとう。」「今日、私を見てくださってありがとう。」と答えられるよう、感謝を捧げていきたいと思います。』



【レイ神父様の主日メッセージ】

栄光は私たちに現される

 雨も雪も天から降れば大地を潤し、そして、それは作物、花、木々を天に向けて生い茂らせるという、素晴らしい比喩があります。神の霊感はその雨であり、雪であり、私たちの霊を受けた命には花が咲きます。このイメージは旧約聖書の中でも最も卓越したイザヤ書にある素晴らしい箇所、40-55章に納められており、イザヤは人類の未來に最高位の希望を抱いています。

 聖パウロは憐れみによって与えられた恩恵を説明するのに、私たちは順応する精神と、神の相続人となる精神を与えられており、しかもキリストと共同の相続人であると宣言しました。さらに「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」とつづけます。今日の第二朗読の次の箇所で、パウロはそのことは十分価値のあることに成るだろう、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らないと私は思います」と言います。霊の働きとその恵みの賜物で完全に人間たちを改め、神が私たちに復活した体を与えられる時、私たちはキリストの姿に似たものを思い出します。彼は家族に最初に生まれる長子であり、その全てにはキリストのイメージがあります。

 しかしながら、それは全て神のご意思でしょうか?完成された人間を荒廃した被造物の中に置くことが?回心した人間と、そうでない者との間で絶え間ない衝突がおこることでしょう。そこで創造主は反抗的なものたちだけではなく、全ての被造物にこの素晴らしい更新をすることに心を向けたのです。そこをパウロは「私はそう思う」と冷静に思慮深く結論しました。これは感情が高まった時の束の間の衝動的な思いではありません。冷静な思慮ある判断です。「現在の苦しみ(信者たちがキリストと共に耐えなければならない)は、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足らないと私は思います」と言います。わたしたちの現在の苦しみは私たちのものとなる栄光の光の中で消え去るのです。

 それからその栄光を表現しようと、パウロの集中は高まります。被造物の全ては私たちの精神の達成に寄与します。「被造物は、神の子供たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」言い換えますと、神の大切なものたち、彼らが実際は誰であるのかと、神の子供たちが示されるのです。主の栄光の命そのものを分かち合う輝く体、完全な精神と引き上げられたキリストの姿に似たものを完全に表すことが意図されているのです。

The glory to be revealed to us

We have heard the strong metaphor about how the rain and snow, falling from the sky and soaking the earth, then rise towards heaven as plants, flowers and trees. Divine inspiration is the rain and snow, our inspired lives are the blossoming plants. This image concludes the great section of Isaiah 40-55, some of the most sublime literature of the Old Testament. He has the highest of hopes for the future of humanity
St Paul , in explaining the privileges conferred on by grace, has declared that we are given the spirit of adoption, and are given the spirit of heirs and joint heirs with Christ. He adds a qualifying phrase, “provided that we suffer with him, that we may be also glorified with him.” In the following verse, from today’s second Reading, he estimates that it will all have been well worthwhile. “I reckon that the sufferings of this present time are not worthy to be compared with the glory which shall be revealed to us.” By the gift of the Spirit and the operations of the Spirit in renewing human beings from the inside out, when God gives us our resurrected bodies, we shall reflect the likeness of Christ. He will be the Firstborn, the elder Brother in the family, all of which bear His image.
But is that all God’s willed to do: put a perfected humanity into a blighted creation? There would be a constant clash between restored humanity and unrestored creation! So, our Creator has set his heart not only on this marvelous renewal of rebellious mankind, but of the whole of creation. Where Paul says “I reckon,” this is his sober, reflective conclusion. This is not a transient, capricious thought he had in a moment of heightened, emotional fervor. This is his sober, reflective judgment: “That the sufferings of the present time [that believers have to bear in union with Christ] are not worthy to be compared with the glory which shall be revealed to us.” Our present sufferings will pale away in the light of the glory that is to be ours.
Then in trying to describe that glory, Paul’s focus shifts. The whole of creation is contributing to our spiritual fulfillment. “For the earnest expectation of the creation waits for the revealing of the children of God.” In other words, the children of God will be shown for who they really are, God’s precious ones, intended to perfectly reflect the likeness of Christ with perfected spirits and risen, glorified bodies that will share the very life of our Lord’s glory.

2020年7月5日日曜日

年間第14主日ミサ

この日の主日ミサは、松村神父様と佐藤神父様の共同司式により行われました。

この日はD地区が対象でした。今回でミサが再開されてから全4地区が一巡したことになります。待ちに待った方もいらっしゃったことでしょう。
次週からはまた、A地区から順番に廻ることになります。



松村神父様のお説教を紹介します。

『今日のお話は私たち良く知っている聖書の箇所です。その中で重箱の隅を突っつくような話しをしたいと思います。
 『ある幼稚園で男の子が園庭の隅で背中を地面につけバタバタしていました。お友達がやって来て、○○ちゃんあっち行こうよ、立ちなよと声をかけるのです。それでも機嫌が悪かったのか全然立とうとしなかった。そこで先生がやって来て、そんな横になっていたら泥だらけになってしまうよ、教室に戻りましょうねと、一生懸命声を掛けるのです。でも虫の居所が悪いのか、バタバタしているのです。そんなところに一人の女の子が駆け寄って行って、声を掛ける前に自分もゴロンと横になったのです。そして、何してるのと声を掛けたのです。男の子の口から応えはなかなか出てこなかったけれど、でもバタバタはやめて、何となく空を見ながら、いっしょに「お空青いね」「うーん」とやっと返事をしました。』
  この話しは時々、いろいろな所でするのですが、たいした話しではないですね。だけど、この一連の流れの中に、とても大事な要素が隠されているのです。最初にお話ししたお友達や先生たちはある意味「知識」の中で、「体験」の中でこうした方が良い、ああした方が良い、こうすべきだ、ああすべきだと。背中はそのままだと汚れる、体験でしょうね。
立って教室に戻りましょう、それはルールですね。知識の中にその男の子を立たせようとする。でも女の子は知識はどうでも良かった。何してるのとその人に寄り添う、ひとつの姿。寄り添った意識があるかどうかは別として。その男の子の元にまずを心を読み解こうと。自分も興味本位だったかもしれない、何か見えるのかなと。これは知識ではなく、人間が元々持つ「知恵」だと思うのです。

 今日の福音の中で、知恵ある者、賢い者とはイエスからしてみたら律法学者のことを指しています。つまり歴史的な体験、習慣、知識、そういうもので人々を迫害していた。この時代には女子、子供は悪い言い方をすると無能力者という言い方をしていました。能力の無い者だから、律法に贖うことは出来ない存在、そして非常に差別をしていました。知識がある者、伝統を重んじる者こそ素晴らしい。でもイエス様の考え方はまったく違いますね。幼子のような者にお示しになりました。それは元々神様から私たち一人一人いただいた、神の知恵なんです。神の知恵とは何かというとイエスそのものなのです。どのようなものであったのか。ともに歩む者。インマニエル。あなたとともに歩む者。けっして勉強とか、経験とかが力強い世界ではない。もっともっと「感性」の世界。「知恵」の世界。そんなところに今日の福音はポイントをおいているように感じます。

  私たちが社会の中で生きようとするときに、人間同士でうまくいくようにするために、いっしょに学んだり、考えたりするわけです。そして人の上に立とうとするために、一生懸命に知識を頭の中に詰め込んでいこうとする。けっしてそれは悪いことではないです。でも同時に、私たちはそれに支配されていないだろうか。イエス様の重荷は、そういうたくさん詰め込むいろいろな学習ではなくて、ごろんと寝転ぶ重荷なんだ。机の上で一生懸命勉強する、または一生懸命経験を積む、そういう重荷ではなくて、ごろんと寝転んで何してるのと聞く、そういう感性をイエス様の重荷である。そういう知恵を私たちは持てるのか。今日は私たち一人一人にその疑問を投げかけています。
 違うもので満たされていないだろうか、でももっと根本的に私たち誰もが持っている、人といっしょに手を取り合って歩もうとするその心。そのものがイエスの重荷であるからこそ実は非常に軽い。でもそれはけっして重荷であることは確かである。イエスの重荷はすでに私たち一人一人が持っているもの、それを敢えて心からそれを使おうとするか。でも、そういうものよりも優先されるべきものが、私たちこの社会の中で忙しい中でどんどん詰め込まれていって、いつのまにか積み重ねていくことの大事さが優先されてしまう。でもだれもが持っている神の知恵というものを私たちはもう一度しっかり見つめ直し、一人一人に与えられたともに 歩む、ともに寄り添う、そういう姿に私たちはもう一度心を向けていかなければならない。実際に心を向けてともに歩むといっても、そんなに力を私たち一人一人力を持っているわけではない。だからこそ一人で出来ないので、たくさんの仲間とともに、ともに歩みその中で新たな知恵を見いだして、僅かな力を積み上げていきながら、多くの人たちへの支えとなっていく共同体になっていければと念願するわけです。
イエスの荷は軽い。でも、イエスの荷は私たちの中にあることを気づかずに忘れてしまうことがある。一番恐るべきことかなと思います。

  このコロナの状況の中で、まだまだ苦労しているたくさんの医療従事者をはじめ、実際にこのコロナに罹った人々がおられます。原因とかいろんな問題を突き詰めていくと、それはいろんな課題があるかもしれませんが、でも実際に魘されている人たちがいる。  そこに私たちは心を裂いて祈り、何かの支えが出来ないか。また、ミサの冒頭に話したように熊本や鹿児島、または世界に目を広げていけば難民の問題であったり、日本の中においても外国籍の方々の労働の問題であったり、いろんな課題が山積みになっています。実際に何が出来るのか、それはひとつひとつ違いますが、まず私たちが心を寄せることの重要性、そこに心を委ねることの大事さ。幼子のような者に示したというのは、かわいそうだなと心が割れんばかりに思うかどうか。
 そう言う意味では日頃のニュースを見ながら、特に私たちの心がぐるっと動くのか。ギリシア語では「哀れにおもう」を「スプランクニゾマイ」と言う言葉を使いますが、はらわたが動くような悲しみがこの世界の中にたくさんある。たぶんそうだなと子供のように思える、そのことにもう一度私たちは目を向けて、そこに今神様が目を向けなさい受けと言っておられる。そこに共同体としての仲間たち、兄弟たち、姉妹たち、自分の家族のように思えるのか。教皇フランシスコが「全地球家族」という言い方をしていますが、すべての人々が私たちの家族であるともう一度思いおこしながら、幼子のような心を私たち持っていますがもう一度目覚め、そしてイエスがそこに気づこうと今日呼びかけておられることに耳を傾けていきたいと思います。
 時々、その対象は私自身になることもあります。他者になることもある。自分が渦中に巻き込まれることもあると思います。渦中に巻き込まれたときに、多くの人たちの祈りがある。そう感じたときの大きな心。強い応援を感じるならば、私たちも今元気なときには、今苦しんでいる人のために、心をしっかり傾けることが出来るか問われていると思います。幼子のような私たちになっていけることが出来るように、このミサの中で改めて、律法学者にならない、一人一人の心に寄り添うその感性を磨いて、その気づきを与えていただけるように、聖霊の促しを願って御ミサを続けていきたいと思います。』

年間第14主日

場崎神父様から、主日のメッセージが届いています。
ご紹介します。


(北26条教会HPより_2014)

見よ、あなたの王が来る。……高ぶることなく、ろばに乗ってく来る(ゼカリヤ9・9より)

年間第14主日(2020年7月5日)。福音朗読(マタイ11・25~30)説教のヒント

場﨑 洋 神父
                        
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)。今日の福音のことばです。軛とは牛車や荷物、あるいは畑を耕す農機具を牛に引かせるときに使う、首に掛ける横木です。二頭以上の場合は力が分散させないように固定させます。イエスはお育ちになった環境のなかで、牛の首に掛けてある軛を注視しながらいつも気の毒に思っていました。動くたびに重圧がかかり、擦れて痛みます。かえって牛にストレスを与えて傷つけてしまいます。イエスはその苦しみを人間の苦しみと重ね合わせながら、生きていく霊的方向と霊的力の術(すべ)を教えようとされます。わたしたちに迫りくる、困難、逆境、病気、老い、罪という軛をどのように担い、どのように歩んでいかなくてはならないでしょうか。

 社会の中でもっとも基本となる共同体は家族です。家族の中で一番弱い絆は夫婦です。もともと夫婦には血のつながりがありません。夫婦は誓約によって新しい絆が結ばれます。しかし、その絆は軛となって襲ってきます。これほどまでに荷が重く、疲れてしまうものだと溜息がつくほどです。そこには相手を支配しようという力が働き、そう思えば思うほど絆は重い軛に変わってしまいます。軛は家族単位から社会生活における関係性のなかで現れます。人間は肉と精神と魂を持っている限り、自分のエゴ、自分の病気、自分の老いと対峙しながらそれぞれの軛を担うことになります。

 イエスは私たちに新しい軛の存在をお教えになります。「わたしの軛は負いやすく、荷は軽いからである」(11:30)。ここで申し上げなくてはなりません。軛は負う必要はないということではありません。軛は自分で負わなければなりません。しかし、負うのはあなた一人ではないということです。その答えは今日の福音の冒頭のところにあります。「・・・これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(11:25)。軛でもって疲れている者、重荷となっている者は自分の高慢とおごりという知識(軛)を捨てて、幼子の心になるということです。それは赦しです。赦しによって、軛の締め付けが緩んだり、引っ張られたりする力が弱められたりして、荷は軽くなるのです。それは幼子(御子)のように母親(御父)にすべてを委ねることです。ですからイエスの言われる軛はイエスと共に担う軛なのです。軛によって苦しむのであれば赦しによって苦しみの軛から解き放たれていくのです。生きていく以上、すべての苦しみから逃れられません。しかしイエスが共に担ってくだることにより、軛は負いやすく、荷は軽くなるのです。そこでイエスは新しいいのちの息を送られて私たちの体と魂を休ませてくださるのです。主はエスコート(同伴)してくださるのです。「神の霊があなたがたの内に宿っている限り、あなたがたは肉ではなく、霊の支配下にあります」(第二朗読:ロマ8・9)。すべては「私の意志の実現ではなく、私を通しての主の実現です」。主の霊は主が示される柔和で謙遜な軛を通して各々の個性を磨き、いのちの泉を湧き上がらせてくださるのです。

2020年6月29日月曜日

カルチャーナイト2020 に参加します!

今年のカルチャーナイトは、YouTubeによるオンライン開催となりました。

カトリック北一条教会も参加します!

開催期日は、7月17日(金)17:00 ~ 19日(日)24:00 まで
ぜひご覧ください。

YouTubeを開いて、「カルチャーナイト」で検索
「カルチャーナイト公式チャンネル」を開いて、「カトリック北一条教会」をクリックします。
動画は、2本公開しています。
リンクはこちら


2020年6月28日日曜日

年間第13主日

先週に引き続き松村神父様の司式で主日ミサ(C地区対象の分散ミサ)が行われました。
また、福音朗読は先週と同じく助祭候補者の桶田さんによりました。

しばらく休刊していました「かてどらるの鐘」が、広報部の皆さまのご尽力により3ヶ月ぶりに”復活”しました。教会ホールに置いてありますのでお引き取りにいらして下さい。巻頭言は松村神父様の「赴任の挨拶として」を掲載しています。


この日の松村神父様のメッセージをご紹介します。

『今日はキリストの弟子としての派遣について考えてみましょう。

朝家を出る時、親は「行ってらっしゃい」と声をかけ、子どもは「行ってきます」と応えます。当然学校に子どもは行くものと理解し、信じているからあえてそれ以上は聞きません。しかし学校から帰って来て再度出かける時には親は「行ってらっしゃい」と声をかける前に“何処に”“誰と”“何を”という疑問が沸き出ます。子どもは面倒なので直ぐに「行ってきます」と言って友達との遊びに出ていきたいのです。でも事故にあったら?何かあったら?と、親は不明瞭な外出にはすぐには賛同できません。責任の所在の可否の明確さが大事だからです。
ミサの最後に派遣の祝福があります。司祭は皆さんに「福音宣教に行ってらっしゃい」と声を掛けます。それはミサを通してキリストの弟子としての絶対的な信頼を皆さんに持ち、神の恵みが常にあると信じているから、行く先が“何処でも”“誰でも”“どのように”でも送り出します。何故なら責任の所在は神様にあるので、私たち司祭は自信をもって派遣します。もちろん派遣先は子どもの遊びと違って楽しいことばかりではありません。かえって大変な場所や状況の中の方が多いことでしょう。しかし神に希望をおく人には、必ず闇の中でさえ光が届くようにするのが派遣の本質でしょう。
聖書にも当時の初代教会には“預言者”のような人も“正しい人”も、“小さな人”もそれぞれがいたと書かれています。人によってその目的は違うし、対応も違うし、成果も違います。ですから皆が同じではないということです。でも結果がどうであれ、神様に聞き従い、教会共同体の一員としての体の一部ならば、一人一人の戦いには光が与えられ、尊い働きとなるのです。派遣とはどうやら戦場に、それぞれの力量と扱える範囲での武器を与えられ送り出す行為なのかもしれません。その武器は既に与えられている個性やタレントに備えられています。
このようなばらばらのキリストの軍隊ですが、心は一つ。派遣する方との一体の中で歩みます。隣と比べる人は愚かです。皆さんが競争するように派遣されているのではありません。幼子から高齢の方まで、派遣されているのですから小さな武器でも、その聖なる武器をしっかりと握りしめて小さな社会(家庭)・大きな社会(地球)に「行ってらっしゃい」。そしてまた戻ってきたらしっかりと休んで次に備えましょう。』

2020年6月21日日曜日

年間第12主日

分散形式による第2回目の主日ミサが松村神父様の司式で行われました。
湯澤神父様からのメッセージも併せてご紹介します。

この日のミサは、B地区所属の方が対象でした。約50名の参加でした。

福音朗読を読まれたのは、6月16日に「朗読奉仕者」に選任されたばかりの桶田達也さん(神学生:終身助祭候補者)でした。
この後の松村神父様のお説教で、桶田さんへの励ましの一言がありました。


松村神父様のお説教をご紹介します。


『今、桶田さんが突然、福音書を読みました。先週の火曜日、16日、司教と7人の司祭を囲んで、桶田さんは「朗読奉仕者」として選任されました。桶田さんはこれから3ヶ月経つと「祭壇奉仕者」、半年後に「終身助祭」、その道を歩んでいます。正式に選任されたということは、どこに行っても堂々と福音を語ることになっていきますので、皆さんの支えと協力、お祈りをお願いします。桶田さん、頑張ってください。

 今日はマタイの福音書が語られます。マタイの福音書の10章の最初は何だったか。イエス様の12人の弟子の派遣です。まずひとり一人名前を連ねて派遣し、派遣をされたところに行くと大変だよと語るのです。いわゆる迫害が語られます。今日の聖書の箇所はその後なんです。その迫害の中でもしっかりと芯をもって生きなさい。その芯とは何かと言うと、神様です。これが今日の確信的な出来事です。

 この流れを考えると、あるひとつを思いだします。今年はコロナウイルスであまり出来なかったのですが、卒業式という出来事。皆さんも体験や経験があります。生徒がひとり一人名前を呼ばれ、校長先生から賞状をいただいて修了の証を示される。そして、さあこの学校を羽ばたいて社会に出て行きなさい、あるいは次の進学に向かいなさいと派遣されます。その後、校長による訓話があります。この社会は大変な社会なんだ。その中でもこの学校で学んだことは、きっと役にたつよと話されます。どこの学校もこんな話しかしないですね。
 これは聖書の話しも同じです。ここで学んだことは何だったのか。誰に聞き従ったら良いのか。これは私たちの心の中でしっかりと押さえておかないとぶれてしまいますよ、ということはあり得るのです。その時、私は子供のころを思いだしました。友達と悪さをしていたら、ある一人の友達がこんな悪いことをしたらいけないな。先生にばれるよ。そう言うのです。でも、もう一人の友達が、ばれるばれないの問題ではない。良くないことだと、しっかりと発信するのです。私たちは、ばれるばれないではなくて、しっかりと学んだこと、与えられたもの、そして善とか倫理、共通善、または愛するということに基づいて、裏であっても表であっても変わることなく、歩み続けることの確信を私たちは持たなければいけない。

   今日のイエス様の語る言葉ですが、マタイ福音書だけに特徴的に出てくるのは「恐れてはならない。」という言葉と、「わたしが暗闇で」と言う言葉。それは、ルカ福音書にも同じ聖書の箇所があるのですが、そちらでは省かれています。つまり、恐れるというのが、何を恐れるのか。先生の目を恐れるのか、仲間外れを恐れるのか。いや、違う、恐れるのは良くないこと、さっき言った愛であり、隣人愛、共通善、倫理観。こういう目に見えないことであるけれど、私たちが生きていく上で、非常に大事にしているもの。みんなを幸せにするものを恐れなければいけない。これがマタイが言いたかったひとつの骨なのです。
  もう一つは「わたしが暗闇で」ということ。この「わたし」という言葉。実はマタイだけに書かれています。それは誰が言ったのか。一般的な暗闇ではなく、イエス様が言った暗闇。具体的にどこからその良さが発信されているのか。そのスタートは、骨はイエス様にある。神様への信仰、神様が与えてくださった目に見えるシンボル、しるしとして、秘跡、イエス・キリスト、そして教会。(教会は)これは秘跡です。
 このふたつの秘跡に基づいて、神様から与えられたその骨をしっかりと生きる。神様への信仰だけでは足りずに、イエスの言葉に耳を傾け、イエスが作った教会に私たちはしっかりと心を置きながら、つまり教会共同体です。集う共同体としても、一個人の信仰としても、そしてイエスの言葉としても、私たちはそっから出たものである倫理観、隣人愛、そして共通善というものを社会の中で、ぶれずに伝えていくことが出来ればと希望を持っている。出来ないことのほうが多いと思います。私たちはついつい流されてしまうし、誰かの強い声に負けてしまうことも多々ある。だから、迫害は必ずあるのです。その中で私たちは少しでも、一歩でもその良さに気づいて、自分だけでも良くなるんだという強い子供になることが出来ればと思います。

 私たちは洗礼によってある意味、卒業式を迎えているのです。今日も、マタイ福音書
10章の段階で弟子たちは卒業しています。卒業の後は実践です。私たちも洗礼を受けた者として、コロナの中でなかなか集まれませんが、一人ひとりすでに卒業した者として、誇りと自信を持って、与えられたイエスのメッセージにしっかりと心をとりながら、その骨を生きていくことができるなら幸いと思います。  それぞれ離れていたとしても、私たちは繋がっているものは一緒なんです。だから遠く離れていても、違う場所にいても、人々が家にいても、コロナで寂しい思いをしていたとしても、私たちはいろいろなことが出来ます。そして、憂いることなく歩んで行くことが
出来る。そういう力を頂いている。だから、私たちはもっともっと誇りに思いながら、私たちに与えられた愛を証していくことが出来ればと思います。外に出て行って、まだ隣人愛を行えない現状が多い中で、身近な存在に対して、家族、兄弟に対して、または知人に対して、日々出会う近所の人に、小さなことから、私たちの小さな愛かもしれないが、それを実践出来るならば幸いに思います。
 今日の福音はそういう意味でも、私たち一人ひとりに神様の骨が与えられている。これから皆さんとともに確信を持ってしっかりと生きていくことが出来るように、いっしょにお祈りしあっていきたいと思います。』


分散ミサに参加できない方へ向けて、湯澤神父様からメッセージをいただいています。ご紹介します。

『2020年6月21日 年間第12主日(マタイ、10章26~33節)
✚ Pax et Bonum
兄弟姉妹の皆様
  今日の福音の場面は、『マタイ福音書』の第二の説教集、福音宣教に派遣される弟子たちへのイエス様の言葉です。イエス様は、使徒たちに語り掛けています。「人々を恐れてはならない」。何か唐突な感じがします。そこで、フランシスコ会訳の古い翻訳では、「だから」という言葉を補っていました。この前の個所では、イエス様は、宣教する際に、様々な困難や迫害があることを予告します。マタイは、彼の時代の宣教の困難も書き加えている可能性もあります。この個所は、前の個所を踏まえての言葉ですから、実際に「だから」がなくとも、前に続く言葉として捉えるとわかりやすいでしょう。

イエス様は、様々な困難や迫害が当然あるので、そうしたものを恐れてはならない、と言っています。それでは何を恐れるべきでしょうか。畏れるべきは、あなた方を派遣した父なる神なのだ、というのです。あなた方は、宣教の使命を帯びて、御父から派遣されている。畏れるべきことは、尊重すべきことは、御父の派遣の呼びかけなのです。私たちは、御父の派遣に誠実に応えているだろうか、そう振り返るべきだと述べています。

  私たちは、自らを振り返って見ましょう。私たちはそれぞれ、堅信の秘跡を通して、福音を告げる使命も帯びています。それは、御父が御子を福音宣教へと派遣し、御子が聖霊を与えることを通して、弟子たちに託された使命です。そこで求められているのは、その召命、その派遣に対する忠実さです。

しかし、私たちの現実を見る時、私たちは、あまり誠実ではないかもしれません。宣教するほどの能力もなく、知識もない。機会もない。まず、勇気も気力もない。考えれば考えるほどあらゆるものに欠けています。とても福音を告げるなどと、気後れしてしまうのが現実です。それだけではなく、こうした宣教は、宣教師たちや神父さんたち、修道者たちがすることで、一般の信徒のすることではないという雰囲気を教会は作ってきました。第二バチカン公会議では、信徒にも宣教の使命があると示しました。そこで、間違ったことを教えないために、要理担当者を養成するということが興りました。しかし、誰の信仰であれ、神様を信じる信仰に間違いはありません。それを伝えるのです。

  ではどうしたらよいのでしょうか。一つのヒントがあります。それは、アッシジの聖フランシスコの言葉です。要約すると、第一に、「口論などせずに、すべての人に従い、キリスト者であることを表すこと」、つまり、自分の生活している場で、キリスト者として生活することです。第二に、「主の御心に適うなら、福音を告げて、キリスト者になるよう勧めること」です。つまり、必要な場合、信じている信仰を伝えることです。
イエス様の言葉を、宣教する使命を帯びている私たち一人ひとりを鼓舞する言葉と理解し、もう一度最初から見直し、味わってみてはいかがでしょうか。     湯澤民夫』